皆様は、2007年をどのような計画とビジョンを持ってお迎えになりましたか?
「何と言っても健康が第一」と願うなら、日々の食事をバランスよく適切に摂る必要があります。中でも朝食は一日を始動するエネルギーとなりますから、決して欠かすべきではありません。

体の健康にとって、良い素材で、美味しく食事を摂ることが大切なように、私たちの霊的健康にとって「神様の御言葉」は、必要不可欠な栄養であり、最も相応しく最も素晴らしい魂の糧です。

2007年も昨年に引き続き、「日々の御言葉」をお届けします。皆様と共に御言葉の恵みを分かち合うことが出来れば幸いに思います。
皆様お一人一人の霊肉が共に日々健やかであることを祈りつつ ...。  

在主

日本ナザレン教団 赤坂教会 姜 泰進 牧師




1月31日(水)

子になすべきことを教えさせてください

士師記13:8

そこでマノアは主に願い求めて言った、「ああ、主よ、どうぞ、
あなたがさきにつかわされた神の人をもう一度わたしたちに臨ませて、
わたしたちがその生れる子になすべきことを教えさせてください。」


子を持つ親なら誰しもサムソンの父マノアが神様に切に求めた祈りに共感する事でしょう。「生れる子になすべきことを教えさせてください。」という祈りはすべての親たちの切実な願いであり、課題です。ところで、大部分の家庭が子どもの教育の責任を妻に任せる場合が多いのではないでしょうか。しかし私たちは、この祈りがサムソンの母ではなく、父が行った祈りであることに着目すべきです。

何故でしょうか。それは、子どもの教育は母か父どちらかの責任ではなく、夫婦が心を一つにし、神様から使わされた者として、子を養育する責任があるからです。その意味で、サムソンの父マノアの教育に対する姿勢は、私たちに喚起を促すものと言えます。

子は主なる神様から与えられた嗣業であり、報いです。ひいては勇士の手にある矢のようです(詩篇127〜4〜5)。親は心を合わせて弓をうつ弓手です。弓をうつ者がその的を正確に狙って矢を的中させるように、親がはなつ矢も的にみごと的中させなければなりません。その的こそ神様です。子が神様中心の人生を送る事が出来るように、夫婦は心を合わせて養育に務めなければなりません。最前を尽くして親が子に正しく教える時、私たちの子らは正しい人生を歩む事になります。

また、多くの親は子という「矢」を、この世に向けてうとうとします。学校で一番になり、良い大学、良い会社に就職するために矢をうちます。世の中で名を上げること、出世して成功することを願うからです。しかしマノアのように、子という矢を神様に向けてうつ時、私たちの子らは主にあって健やかで、万事が栄えることが出来ます。サムソンのように世と区別され、聖別されたナジル人になるように、親は心を合わせて神様に向けて矢をはなちましょう。

[今日の祈り]

父なる神様、今日一日も私に与えられた貴い嗣業、貴い生命を正しく育てることが出来るように智恵を与えて下さい。世の罪悪に染まらずに、神様だけを見上げて光栄を帰する子になりますように導いてください。サムソンの父マノアのように神様に的を絞り、子を導くことができるように、智恵と親の真の権威をお与えください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。




1月30日(火)

善にさとく、悪にはうとくあれ

ローマ16:19

「あなたがたの従順は、すべての人々の耳に達しており、
それをあなたがたのために喜んでいる。しかし、わたしの願うところは、
あなたがたが善にさとく、悪には、うとくあってほしいことである。」

2003年度、CCMグループ ウイド(WITH)の3集に収録された曲<ローマ16:19>が旋風を巻き起こしました。それまでの伝統的なCCM曲と違い、ビートの効いたリズムと、ローマ書16:19節の御言葉を家事に当てはめたフレーズが、人々の心に強い印象をもたらしたようです。

「あなたがたが善にさとく、悪には、うとくあってほしいことである。」と言う明確な歌詞はまさに、この時代に向けられた神様からの宣布と言えるでしょう。何故ならば、今ほど人々が悪には実に賢くて、善にまったくうとい時代はないからです。

今も多くのクリスチャンリスナーから愛されるこの曲を聴くと、「幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」と語られたイエス様の御言葉を思い起こします。悪にさとい私たちが、幼子のような純粋で天真爛漫な特性を備えた姿となることを願いイエス様は、「幼子のようであれ」と語られたに違いありません。さらにパウロは一歩踏み込んで「悪事については幼な子となるのはよいが、考えかたでは、おとなとなりなさい。」(第1コリント14:20)と語っています。

最近ニュースで報道される様々な形態の犯罪を見聞きする時、人とは、よくもあれほど悪知恵が働くものかと、驚きあきれるほどです。確かに人の悪は常に時代を越えて存在します。旧約の時代、預言者エレミヤもイスラエルの霊的状況を憂いて、「彼らは悪を行うのにさといけれども、善を行うことを知らない。」(エレミヤ4:22)と彼らの悪を咎めました。

預言者ゼカリヤは新しいエルサレムの町について預言し、こう語っています、「またその町の街路には、男の 子、女の子が満ちて、街路に遊び戯れる」(ゼカリヤ8:5)。まさに、新しいエルサレム、すなわち天国とは、そのような「善にさとく、悪には、うとい」幼子のような聖徒が満ち溢れる所なのです。

[今日の祈り]

父なる神様、私は自分の知性と理性をどのように用いているでしょうか。能力を用いて悪を行い、罪を犯すのに賢い頭ですか?それとも善を行う事に熱心で、義の実を結ぶのに賢い頭でしょうか?どうか「善にはさとく、悪にはうとくあれ」の御言葉のように、善を行うに必要な大人の分別力と成熟さを与え、悪に対しては幼子のように無知となり、純粋で無垢な、神様の子とならせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

 



1月29日(月)


天国では誰がいちばん偉いのですか?

マタイ18:3〜4

「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、
天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように
自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」

イエス様の関心は常に、人に仕える事と人を助け喜ばせることにありました。しかし、人々の関心は人の上に立つ事や、もてなしを受ける事に終始しています。このことをよく表しているのが、次の弟子たちの質問です。「天国では誰がいちばん偉いのですか?」。「誰がいちばんか?」と彼らが聞くのは、「自分が人の上に立って君臨したい」という欲望が心の奥底にあるからに他なりません。ところで、その質問にイエス様は、上記の御言葉によってお答えになりました。では、何故、幼子のようでなければ天国に入る事が出来ないのでしょうか。

第一の理由は、幼子の謙遜さにあります。大人と違い子供たちは自分を誇ったり、傲慢に振舞うことはありません。背丈の低い彼らは大人のように、上から人を見下ろす事が出来ず、いつも人を上に見ます。また、大人が見逃してしまいがちな小さな発見を、幼子であるが故に見いだす事が出来、喜ぶ事が出来るのです。このように、見下ろす高慢の目ではない、見上げる謙遜の目の持ち主こそ、天国の住人として相応しいのです。

第二の理由は、親をどこまでも頼るからです。幼子にとって親は、絶対的信頼の対象です。どんなに突き放したり、叱ったりしても、幼子は親から離れません。このように、親を頼りきる幼子の姿こそ、絶対的に神様を信頼すべき聖徒の姿勢を示しています。

第三の理由は、乳を慕い求める幼子の特性にあります。生まれたばかりの嬰児は、誰に教えられるでもなく、本能的に母親の乳首から乳を吸います。そうする事だけが命を得る術であることを彼らは知っているのです。ペテロはこの幼子の特性をたとえに用い、「混じりけのない霊の乳を慕い求める」べきであると語っています。すなわち、幼子が乳を慕い求めるように、御言葉を慕い求める事によって信仰が成長し、救いにいたるからです(第1ペテロ2:2)。

謙遜さと神様に対する絶対的信頼、霊の乳である御言葉を慕い求める幼子のような者が、天国に入る事ができるのです。そしてそれらを兼ね備えた者が、天国に於いて最も大きい者なのです。

[今日の祈り]

父なる神様、年をとると共に幼子の特性を失ってしまった私を憐れんで下さい。もう一度、幼子のように謙遜な目と、父なる神様だけを頼る純粋な心を与えて下さい。幼子が必死で母の胸から乳を吸うように、神様の口から出る一つ一つの御言葉を切に求める事が出来ますように。そして御言葉に十分に満たされて、永遠の命を得る者とならせて下さい。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。




1月28日(主日)

教えの実

箴言23:24

「正しい人の父は大いによろこび、知惠ある子を生む者は子のために楽しむ。」

16世紀、ヨーロッパの宗教改革当時、ルターと共に改革を導いた、フィリップ・メランキトン(Philip Melanchton)は、次々と難しい問題に直面し絶望感にさいなまれていました。気落ちした彼が教会に入ると、そこには数人の幼い子どもたちが祈りを捧げていました。その光景に驚いていた彼を更に驚かせたのは、幼い子らの祈りの内容でした。

なんと子どもたちは、彼が提唱していた宗教改革の勝利を祈っていたのです。メランキトンは、すぐさまそこを出るとルターのもとへ駆けつけて、こう叫びました、「勝利しました!子どもたちが神様の前に讃美し、ひざまずいて祈りを捧げています!」と。

この一つの逸話は、イエス様のエルサレム入城の出来事を彷彿とさせます。パリサイ人や律法学者などの宗教指導者やイスラエルの民はおろか、あまつさえ弟子でさえもイエス様の救いの御わざを悟ることも、信じることも出来ない状態でした。イエス様がこの世を去る日まで、あと一週間と迫っています。そのような緊迫した中に聞こえて来たのは子どもたちの神様を誉めたたえる讃美の歌声でした。

子どもたちは「ダビデの子にホサナ!」と叫びながら、エルサレムの宮で歓呼しながらイエス様を迎えました(マタイ21:15)。その様子に立腹した祭司長や律法学者たちに対し、イエス様は「あなたがたは『幼子、乳のみ子たちの口に讃美を備えられた』とあるのを読んだことがないのか」と言われました(マタイ21:15〜16)。

公生涯の三年間、休む間もなく働かれたイエス様の「教えの実」が、彼ら幼子たちに結実を見ました。この幼子たちは、神様の代弁者としての役割を行うと共に、御言葉と祈りと讃美をもって、敵と恨みを晴らす者とを静めました(詩篇8:2)。まさに、このような子どもたちはイエス様の実です。

愚かな子どもは親にとって悩みの種になります。しかし、「正しい人の父は大いに喜び、知恵ある子を生む者は子のために楽しむ(箴言23:24)。」とあるように子を正しく教えるなら、親は、その子によって喜びと楽しみによって栄えに満ちた人生を送る事が出来るのです。

[今日の祈り]

父なる神様、今日一日も子どものために心配することなく、大いに楽しみを得る日でありますように。その為に義と公道によって子どもたちを正しく教えることが出来るように恵みを与えて下さい。愛する子らの口から「ダビデの子にホサナ!」と、主に讃美が捧げられ、栄光が主に帰せられますように心から祈ります。そして彼らの讃美によって、すべての敵対者たちを静める御わざが起りますように、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。




1月27日(土)

子をその行くべき道に従って教えよう

箴言22:6

「子をその行くべき道に従って教えよ、そうすれば年老いても、それを離れることがない。」

最近、日本でも幼児からの英語教育に力を入れる親たちの話題ががメディアなどで紹介されていますが、隣の韓国の比ではないでしょう。実際、彼らの熱の入れようは驚くものがあります。遠征出産、或いは早期留学なるものがありますが、これは、英語圏で子どもを育ててネイティブな英語を身につけさせようとするためです。その為に父親は「雁パパ」になることもいとわず、喜んで犠牲を払うそうです。「そこまでは..」という親の場合でも、幼稚園は英語幼稚園に入れるとのことです。

彼らの心の根底にあるものは、子どもに充分な教育を与えて、いわゆる「成功の実」を得ようとする願望があります。確かに、そのような教育を受ける事によって、世的には成功を収めるやも知れません。しかし、その土台に、神様を畏れる心や、御言葉による正しい教えが据えられていなければ、決して真の成功の実を得ることは出来ません。かえって家庭教育の失敗が露呈されてしまう事でしょう。

箴言の記者は、「子をその行くべき道に従って教えなさい」と命じています。まことに、子どもは親にとって何にも変え難い、かけがえのない宝物です。しかし、親たちは、その宝物の管理を神様から委託されたに過ぎません。それ故、親は、自分の欲求や価値感を伝授するのではなく、神様の御言葉によって教え、正しく養育しなければなりません。

このような親の使命と役目を律法で規定した内容がまとめられているものを、「スェマ」と言い、旧約聖書の申命記6:1〜9節までの内容がそれにあたります。その中の最も中心的な主題が「あなたがたの神、主があなたがたに教えよと命じられた命令と、定めと、おきてであって、あなたがたは渡って行って獲る地で、これを行わなければならない。」です。

新約では、イエス様が、「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」と 言われました(マタイ28:19〜20)。

実際に、イエス様は公生涯のすべての期間をひたすらご自分の民たちに、「その行くべき道に従って」教えるために献身されました。イエス様は、「ガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」ました(マタイ4:23)。その他、故郷や会堂、聖殿など、ありとあらゆる所で、口を開いて神様の教えを諭されたのです。そして、イエス様自らが、「子をその行くべき道に従って教えなさい」、の御言葉のように、私たちが行くべき道をすべて見せて下さったのです。

これがイエス様が私たちに見せて下さった全てです。そして、私たちに残された課題です。この命令に順従することが真の親のなすべきことです。

[今日の祈り]

父なる神様、今日与えられた御言葉を通して、私が今までどのように子どもを教えて来たのかを省みることが出来た事を感謝します。これからは、神様の命令に従って、「子をその行くべき道に従って」教える信仰の親となることが出来るようにして下さい。子どもによって世の成功や出世、栄誉を求めるのではなく、神様の子どもとして成長するための「行くべき道」を私自身の信仰の歩みと、御言葉を通して正しく教えることが出来るように導いて下さい。そして、この子らが神様に喜ばれる「光の子」として信仰を持って歩むことができるように、恵みを与えて下さい。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。




1月26日(金)


神様の家庭教育

  −創世記18:18〜19−

「アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである。」


韓国の教育熱心さは、世界の中でも有名です。その結果、乏しい資源や様々な難しい状況の中でも、優れた人的資源を輩出し、現在、世界で10位の経済国にまで成長するに至りました。これは、親たちの犠牲と投資なくしては、決して結び得なかった実と言えるでしょう。そのように、子どもの未来を設計し、その為にすべての労力を傾け務めるのが、親であり、親の心です。

神様も同じです。神様は、アブラハムが思いもよらないうちに、彼に子どもを与えることを御心のうちに定められました。そして、アブラハムを通して、彼の子孫に「義と公道」を教え、且つ行わせ、強大な国を築くご計画を持って、先ず、アブラハムを選び出したのです。
そのような神様の壮大な構想をアブラハムは知る由もありませんでした。しかし、神様はすべてのことをご計画されていたのです。100歳にもなる高齢のアブラハムから生まれる新しい生命に、何をどう教えるかをすべて備えておられました。まさに、アブラハムの家庭教育は、神様が主体の、「神様の家庭教育」でした。

子は親の所有物ではなく、神様から賜わった嗣業です(詩篇127:3)。故に、親としての使命は、子どもに世の教育を与えるだけではなく、神様の御言葉で正しく養育することです。万物に仕える子どもを育てるのではなく、万物を治める者となるように育てなければなりません。それには、神様の御言葉の道を教え、義と公道を教えなければなりません。そのために神様はご自分の、「嗣業」を親たちに任せたのです。神様から受けた、「家庭教育」の使命に忠実であること、それが親の責任であり、なすべき務めです。今日、神様から委ねられたその使命を忠実に果たす者となりますように。

[今日の祈り]

父なる神様、アブラハムの家庭とその子孫たちを教育したように、今日、私たちの家庭を訪れて、御言葉と恵みの教えを与えてください。神様から託された「報い」であり、「嗣業」である貴い子どもたちを義と公道で教え、それを守らせることが出来ますように、親である私たちに智恵を豊かに与えて下さい。そして、祝福に与った子どもたちを通して、まわりの人々にも祝福がもたらされる御わざがありますように導いて下さい。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。




1月25日(木)

恵みと信仰は 救いの必須品

−エペソ2:8−

「あなたがたの救われたのは、実に、惠みにより、信仰によるのである。
それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」

キリスト教信仰の核心は、「救い」です。救いはキリスト教信仰の出発であり、過程であり、結論です。イエス・キリストは、救いを持ってこの世界に来られ、生涯を通じて神様の国の到来を告げ知らせる証人として働かれました。やがて十字架の死によって救いを成就され、三日目に死からよみがえり神様の栄光を表されたのです。まさに、主の復活は救いの確証であって、主の昇天は救いの希望でした。

このようにキリスト教は霊肉共に救いを得る、「全人格的救いの信仰」です。キリスト教信仰は健康や物質の祝福、道徳的善行を目的としたものではなく、霊肉共に「永遠の命」を得ることに最終目的があります(第1ヨハネ2:25)。これは神様が、呪われた人間に与えた最大級の贈り物であり、最高の希望です(テトス1:)。

この世はあまりにも不法がはびこり、罪悪が満ちています。この、「不法」をギリシャ語では、「アミノア」といい、体面も礼儀もなく獣のように自分の欲求や感情にしたがって、行動する状態を言います。ノアの時代も、そうした不法がはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪いことばかりでした(創世記6:5)。全地は神様の前に乱れきり、暴虐が地に満ちていたのです(創世記6:11)。

このように罪悪の夜があまりにも深いゆえに、人は自らの力で救いを得ることは出来ませんでした。ただ神様が値なしに与えるのでなければ決して得られないもの、それがイエス・キリストによる救いの恩寵です。その恵みは今もなお、人類に注がれ続けています。私たちは、値なしに与えられたその恵みの贈物を、信仰によって受け取るほかありません。そして、そのような恵みに与った者として信仰の実を結ぶことが、何よりも神様の愛に報いることなのです。

罪がはびこった時代、神様から恵みを頂いたノアは、決して罪に加わることはありませんでした。ヘブル書の著者も、このことを、ノアが「信仰」で受け入れたからである、と証しています(ヘブル11:7)。私たちも神様が値なしにくださる恵みを信仰によって受け取りましょう。「恵みと信仰」、これは、救いの必需品です。今日も一日、この必需品を心に備え、聖別された者として歩もうではありませんか。

[今日の祈り]

父なる神様、ノアが神様から与えられた恵みによって、暴虐に加わることなく、神様の御言葉に従順することができたように、今日一日、私にもノアに与えたのと同じ恵みを与えて下さい。イエス・キリストの購いの恵みを、信仰によって受け入れて、罪に勝利する者とさせて下さい。そして、約束された救いの祝福に与る者となりますように。今日も神様の栄光が輝く日であることを心から願いつつ、愛するイエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。




1月24日(水)

義を伝えつつ敬虔に生きたノア

−第2ペテロ2:5−
「また、古い世界をそのままにしておかないで、その不信仰な世界に
洪水をきたらせ、ただ、義の宣伝者ノアたち八人の者だけを保護された。」


14世紀、ペストが大流行し、ヨーロッパ社会が恐怖に震えました。現在は、「潮流インフルエンザ」と呼ばれる鳥インフルエンザ(AI)ウイルスの感染が懸念され、全世界がかたずをのんで動向を見守っています。中世ヨーロッパで大流行したペストによって、当時の人口の 1/3が死亡したことを鑑みると、もし現代に同じような伝染病が流行するなら、どれほどの被害が広がるでしょうか。まさにその恐怖は計り知れません。しかしこれらの伝染病よりも、もっと恐ろしいのが、「罪の伝染」です。

聖書は、ノアの時代の霊的状態を「人の悪が地にはびこり」と記しています。この「はびこる」は、「蔓延する」とも言い、「伸び広がること。はびこること。好ましくないこと」に用いる用語です。したがって、ノアの時代がいかに、不法や不条理、偽りが横行し、霊的状態がまったくの闇の状態であったかを物語っています。

ペストの大流行では、未曾有の死者をだしましたが、現在もなお広がっている「罪悪」という伝染病は、地球村の人口60億人をすべて感染させ、死に至らせてしまう恐ろしい伝染病です。一刻も早く、伝染を止める手だてを講じなくてはなりません。では、この「罪悪」という伝染病から人類を救済するワクチンは何でしょうか?それは、今日の御言葉に示されている通り、「義と敬虔」の生活です。

ノアが伝えた、「義」は、まさしく罪悪のウイルスを退治するワクチンです。そして彼が見せた敬虔な生活は、罪悪に感染した人々の気力を回復させ、神様の子として堅く立たせる為の治療薬です。「敬虔」とは、「世俗の考えを切り捨てて、ひたすら神様に自分を委ねる態度と神様を喜ばせる生活」を言います。そのような敬虔な生活を送る時、罪の伝染病から開放され、真の自由を得る事が出来るのです。

連日報道される事件や事故を耳にして、「世も末だ」と、人々が口にするような時代に 私たちは今 生きているのではないでしょうか。まさに、現代はノアの時のような罪悪がはびこっている時代と言えるでしょう。今こそ、私たちはノアのように、義を伝え、敬虔な生活を送らねばなりません。
今日の一日を、神様に良しとされる敬虔な生活によって、心豊かにお過ごし下さい。皆様お一人ひとりに、ご家庭の上に、そして仕事の場に、神様の特別な恵みが臨む一日でありますように、祝福を祈ります。

[今日の祈り]

父なる神様、罪悪の闇が益々深まるこの世で、ノアのように義と敬虔によって光輝く星のようにならせて下さい。今日出会う人々に、私の一つ一つの言葉や行いによって、神様の愛と義を伝える事が出来るように導いて下さい。そして、今日の一日が、主に栄光を帰する一日でありますように、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

 


1月23日(火)

私たちはこの世の旅人

ヘブル11:13〜16

「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。」

聖書は一貫して、この地上にある聖徒の生を、「旅人の生涯」として表現しています。ヘブル書11章の中に挙げられている信仰の先人たちを始め、聖書に登場する人物はみな一様に、「人生は旅に等しい」ことを認識していました。では、真の旅人としての生き方とはどのようなものでしょうか。

第一に、歳月を惜しむ生き方です。月日がたつのが早い事を「光陰矢の如し」という言葉で表現しているように、まさに、歳月は矢のようにに過ぎて行きます。その、短くて有限な人生を、いかに有意義に過ごすかは、それぞれ委ねられた者にかかっています。賢い旅人は充実した日々を送る為に、一分一秒もむだにする事なく、最善を尽くします。

しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎず(ヤコブ4:13)、影のような(歴代志上29:15)人生であっても、すべての「時」は神様のものです。ですから、私たちはその、神様の時間をほんの一瞬でも虚しく消費してはなりません。

第二は、「今」に束縛されない生き方です。今あるすべての事は明日のための準備に過ぎないということを悟り、「今」という時間を用いて、神様のための務めを捜し求める者が真の旅人です。信仰の先人たちも、この世界で巡礼の道を歩みながらも決して世の中に未練を置くことはありませんでした。今日は、一晩「この世」という宿に泊まり、明日は去って行く、と思うなら、欲も執着も持つ必要がないでしょう。そのような、旅こそ人をまったき自由にします。

第三は、正しい所有概念を持つ生き方です。すべてが神様の所有であることを知っている人は、自分に与えられた恵みを神様に感謝する事が出来ます。そのように、真の旅人は、感謝に満ちあふれた日々を送る事が出来るのです。

[今日の祷り]

神様、旅人として歩むべき私の人生が、これまで如何に多くの荷物を抱えて歩いてきたことでしょうか。今まで負うて来た 必要のない様々な荷物を肩から下ろし、これからは、イエス様が下さる 軽くて 負いやすい「使命」という荷物だけを持って 歩いて行く事が出来るように助け導いて下さい。そして、軽装に着替え、身も心も楽になって、神様に従って行く事が出来ますように、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。




1月22日(月)

慈悲と慰めとすべての希望は神様から

第2コリント1:3〜4

「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに滿ちたる神。神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」

1835年、トーマス・テイラー(Thomas Taylor)という牧師が、27歳という若さでこの世を去りました。若い頃から病弱だった彼は、谷川を流れ下るガラス瓶のように、いつ壊れるとも知れない自分の身体を思いながら、それほど遠くない未来に行くであろう魂の故郷を偲びつつ、一曲の賛美歌を書き上げました。それが、賛美歌 475番です。

うき世の旅ゆく身は
まくらすべきいえなく
うきとおそれたえずあれど
あめこそわがふるさと

彼が生前、「私はこの地の旅人に過ぎず、天国こそ私の故郷だ」と告白していたように、私たちの帰るべき故郷も、この地ではなく天の御国です。そのように、ただひたすら天の故郷にあこがれを抱いて生きる者を神様は決してお見捨てにはなさいません。すべての所に於いて「慈悲と慰め」をもって支えて下さいます。そして、どのような艱難の中にあっても、所望の光へと引き上げて下さるのです。

確かに人生は、順風満帆とばかりにはいきません。時には大波が寄せて来るときがあります。しかし、私たちが呼び叫ぶ時、神様は必ず応えて下さいます。そして、猛り狂う荒波を静めて下さるのです(詩篇107:28〜29)。その神様を悟りをもって見いだし、旅路の過程で増し加わる「祈り」によって、更に、私たちの人生は勝利へと導かれるでしょう。

今日一日も、私たちに慰めと希望を与えて下さる神様の御腕をしっかりとつかんで歩みましょう。私たちが祈る時、常に神様は私たちの近くにおられます。しかし、祈りがなければ、神様は立ち去ってしまいます。祈りによって神様につながる者は、日々、慰めと希望の祝福が絶えないでしょう。皆様お一人ひとりが、また、そのご家庭が、そのような恵みに満たされた日々であってほしいと願っています。

[今日の祷り]

神様、今日、私が出会う人々に、神様の暖かい慰めと希望を与える者として用いて下さい。そして、神様が私に出会わせて下さる人々を通して、私にも慰めと希望を与えて下さいますように。
この地上では、私たちは寄留者に過ぎませんから、痛みや苦しみがあります。しかし、私の思いも、私の考えもこの世に残すことなく、私の思いを、ただ、永遠の御国へと向けさせて下さいますように心から願い求めます。愛する主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。




1月20日(土)

人生の航路に所望を与えて下さる神様

ヨブ記23:10「しかし彼はわたしの歩む道を知っておられる。
彼がわたしを試みられるとき、 わたしは金のように出て来るであろう.」


1833年、イギリス生まれの樞機卿ヘンリー・ニューマンがローマを訪れた時の事です。イギリスに帰る為に乗った船が、風が止んでしまい、先に進む事が出来なくなってしまいました。その船は帆線だったのです。それで、やもなく寄港したパレモで三日間を過ごす事を余儀なくされました。この時、彼は、海を航海する帆船が風にすべてを委ねて進むしかないように、我々人間が、己の力の無力さを認め、神様をひたすら頼ることなしに、「人生」という航海をすることは出来ない事を悟ったのです。

三日後、ようやく風が起り、出帆する事ができました。無事、航海を終えた後にヘンリーが書いた詩が、賛美歌288番の「たえなる道しるべに」です。

たえなる道しるべのひかりよ
いえじもさだかならぬやみ夜に
きびしくさすらう身を
みちびきゆかせたまえ

この讃美を口ずさむとき、私たちは、神様の愛と恵みを思い起こさずにはいられないでしょう。人生の導き手である神様に頼る者のなんと幸いなことでしょうか。この讃美は、そのことを深く悟らせてくれます。

まさに私たちは日々旅人です。「旅人」という言葉は、「疲れ・はかない」を意味します。それはまるで、「火の 子が 上に 飛ぶにひとしい.」ものであり(ヨブ5:7)、「その 一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去る」ような人生です (詩篇90:10)。

しかし、そのような旅人としての人生が、神様を畏れ、信頼し、神様に所望を置くならば、まったく違った人生になるのです。決して虚しくはありません。寂しさも、恐れもありません。何故なら、その旅路には神様も共にいて、信じる者を支え、委ねる者を導いて下さるからです。

そのことを悟ったヨブは、「しかし彼はわたしの歩む道を知っておられる。彼がわたしを試みられるとき、わたしは金のように出てくるであろう(ヨブ記23:10)」と告白しました。私たちの歩む道をすべて知っておられる神様が、私たちを迷うままにしておくでしょうか。答えは「No」です。私たちが神様だけを頼り、日々すべてを委ねて歩むなら、責任を持って導いて下さるでしょう。その時、私たちの人生の旅路に、所望の光が私たちを明るく照らしてくれるでしょう。

「今日の祈り」

神様、たとえどんなに私の行くてを阻む逆風が吹いても、神様を信頼する事を得させて下さい。私の歩む道にいかなる困難が待ち構えていても、神様にすべてを委ねることが出来ますように。私が疲れる時、癒しの御手を差し伸べて、どうか私を導いて下さい。私の霊と魂が、眠りにおちてしまわないように、御霊の光を照らして下さい。常に感謝を捧げる事が出来るように、私の家庭の必要を満たして下さい。そして、智恵の霊が溢れるほど私に臨み、ますます神様を愛する事ができるように祝福して下さい。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。




1月19日(金)

患難の中にも感謝と喜びを!

「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。」−ローマ5:3〜4−


「命はそれを恐れ避ける者を食い尽くし、戦い挑む者には道を開く」と言う西洋の格言があります。皆様はどちらに当てはまりますか?運命に立ち向かい戦って道を開く者ですか、それとも恐れて避けることによって食い尽くされる者ですか?真の聖徒はいかなる患難の中でも感謝して喜ぶ人です。風を避ける事なく、むしろ風に乗ってさらに高く飛び上がる鷲のような人です。

「患難」の原語の意味は、「押さえ付ける、絞り出す、粉碎する」と言う意味です。この言葉の意味の通り、私たちの生活に与えられた苦難は、私を押さえ付けて、絞り出して、粉碎しようとします。しかし金や銀や宝石が精錬の過程を通じて更に強く、更に純粋になるように、私たちは患難を通して純金のように生まれ変わるのです。

「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない(Uコリ4:8)。」

このような人を世はどうやって支配する事ができるでしょう(ピリピ11:38) 
聖徒の皆様、確かにこの世には患難があります。しかし勇気を出してください。かえってその艱難を喜んで迎えようではありませんか。艱難が私たちを強め、神様により近づくための必須科目であるのなら、必ず乗り越えなければなりません。私たちが、心を定め艱難に立ち向かう時、主も共にいて助け、導いて下さいます。

何故なら神様は、「すべての悩みのとき、主も悩まれて、そのみ前の使をもって彼らを救い、その愛とあわれみとによって彼らをあがなう」お方だからです(イザヤ63:9)。艱難は私たちを鍛えて、「忍耐」の力をつけさせ、その結果、神様の「約束」を受けさせるのです(ピリピ10:36)。

ヤコブは、「忍び拔いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見た。」と言われました(ヤコブ5:11)。今日与えられた一日、最も大変で厳しい状況を前に最高の喜びと感謝を表して、ヨブに与えられた結末のような栄えの祝福を経験しましょう。さあ、顔を上げて出発しましょう!

[今日の祈り]

神様、今日の一日、喜びと感謝で患難を迎えることができるように、私を勇気づけて下さい。与えられた生を、不平や恨みや言い訳の為に用いることがありませんように。願わくば、神様を信頼し、試練を乗り越えたヨブのように、私に耐える力を与えて下さい。そして、栄えに満ちた結末を望み見る信仰を与えて下さい。今日も神様の奇跡の御わざを体験する一日でありますように、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。




1月18日(木)

神様に所望をおく者の幸い

 詩篇146:5「ヤコブの神をおのが助けとし、その望みをおのが神、主におく人はさいわいである。」

19世紀、イギリスの画家ワットの作品に「所望」というタイトルの絵があります。その作品は、闇夜に女性が一人地球に座り、一弦だけのハーブを奏でている様子が描かれています。しかも、その女性は目が見えません。しかし、その作品を見た者に暗い印象を与えないのは、そのような絶望的な状況の中でも、一筋の星明かりが彼女と、最後に残った弦を照ら出しているからでしょう。

彼女の周囲には闇が立ちはだかっていますが、天は開いています。そこから照らされる光が彼女の持つたった一本の弦を照らし、その弦が光を受けて輝きを放っています。多くの弦は切れてしまったので、美しい和音を奏でる事はできませんが、音を出す事はできます。この絵こそ、「所望」を語るに最も相応しいものと言えるのではないでしょうか。

詩篇の著者は、「わたしは絶えず望みをいだいて、いよいよあなたをほめたたえるでしょう。」と述べています(詩篇71:14)。今年一年、私たちもこのような信仰を持って過ごすべきです。「所望」とは、「望んで期待する」という意味があります。また、所望することは、勇気の源を得る事です。私たちに所望がある時勇気が生じ、その勇気によって希望が芽生えてくるのです。

「耕す者は望みをもって し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。」
聖徒のあるべき姿とは、常に所望を抱いてすべての事につくす事です。畑を耕す時も、刈り入れる時も、「所望」のない労働は虚しさと疲れだけを残します。しかし、神様に所望をおいて生きる人は、必ず主が「彼らをその臨む港へ導かれ」るでしょう(詩篇107:30)。

アブラハムは、まさに所望する人でした。彼はとどまる場所ごとに祭壇を立てて神様に礼拝を捧げました。その度に神様は彼に啓示を与えられ、その啓示がアブラハムの所望の根幹となりました。私たちも、今日の一日を神様への経験な礼拝をもってスタートし、豊かな所望の実を刈入れてはいかがでしょうか。

[今日の祈り]

今日も一日、私が神様に所望をおいて歩む事が出来るように導いて下さい。どうか、私を私の望む港に導き入れて下さいますように。
今、置かれている困難な状況に、天からの希望の光が差し込みますように。そして、その光のもとに駆けつけるとき、神様から与えられる祝福によって、感謝と讃美に溢れた日々を送る事ができますように、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。




1月17日(水)

神様との平和

ローマ5:1「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエスキリストにより、神に対して平和を得ている」

「今日」という一日をどのような心でスタートしましたか。「朝っぱらから家族とケンカしてしまった」という人、あるいは「気持ちよく挨拶を交わして仕事場に向かった」という人など、様々でしょう。では、神様との関係はどうでしたか?一日を始まる前に、まず神様との関係が整っているかどうか点検する必要があります。神様との正しい関係なくして、栄えに満ちた一日を送る事はできません。

「平和」というのは曲折のない安定した心の状態を言います。今日の御言葉は、神様との平和を得る方法について教えています。その方法とは「義の実」を結ぶ事です。聖書ヨブ記の中で、ヨブは、「神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。」(ヨブ22:21)と語っています。

旧約聖書に登場するアブラハムの息子イサクがまさにそのような人でした。イサクが地に種を蒔くと神様は彼を祝福し、百倍の収穫を得させました。「彼は富み、またますます栄えて非常に裕福になり(創世記26:12〜13)」と記されている通りです。

私たちがイサクのように、栄えの祝福に与る事を願うなら、先ず神様との和解を求めるべきです。和解する方法は唯一、御子イエス・キリストを世に使わし、十字架上で私たちの罪の購いの為に死なせるほどに私たちを愛し、差し伸べて下さった神様の御手を握る事です。

神様は、「平和の神」です(第二コリント14:33)。信じる者に恵みと誉とを与え、直く歩む者に良いものを拒まれないお方です(詩篇84:11)。私たちが、偽りや不義を悔い改めて義に留まりさえすれば、神様との平和を得る事が出来ます。その結果、「神の光栄」を見るようになるのです(ローマ5:2)。

一日の始まりが、神様との平和の関係で始まるなら、今日、私たちが出会うすべての人々との和睦をも体験する事が出来るでしょう。神様は、私たちの歩むその道に、よい香りの平和の花を咲かせて下さるでしょう。

[今日の祈り]

今日の一日が、神様との平和の中で過ごす事ができますように、そして、今まで憎んでいた人や嫌っていた人との関係が、主に在って和解する事ができますように。
どうか、私の心にあるわだかまりを溶かして、愛の肥料に変えてください。その肥料を、神様の愛を必要とする人々へ分け与える事ができますように。そして、そのような神様の大きな愛、和睦の大きな務めを行える者にして下さい。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。



1月16日(火)

2007年は義の実に満たされて

 ピリピ1: 11「イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。」

年が改まると誰もが新たな夢を抱きます。一年後には、豊かに結ぶであろう実の形を各々イメージしていることでしょう。それらの実の中で、最も豊かに実らせるべき実とは何でしょうか。今日の御言葉は、私たちに「義の実」に満たされて、神様の栄光とほまれとをあらわすに至るように、と語りかけています。この御言葉に応え、私たちの個人や家庭、職場や教会に豊かな「義の実」が結ばれ、神様の祝福に与る皆様でありますようにと願います。

では、どのようにして「義の実」は結ばれるのでしょうか。それは、人の行いや努力によって結ばれるものではなく、「信仰に」によって結ばれるのです(ローマ5:1)。この「信仰」も「義の実」と同様、自らの力で得るものではありません。「信仰」は値なしに神様から与えられる「贈物」であると聖書は教えています(エペソ2:8)。

その神様からの贈物を、心を開いて受け取りさえすればよいのです。そうすれば、恵みが働き、信仰を成長させてくれます。一人一人の心の中に芽生えた「信仰」が成長し、やがて全世界にまで広がる大きな祝福を受けるようになります(コロサイ1:6)。

アブラハムがまさにそのような「信仰」の人でした。彼は、九十九歳まで、一人の子もありませんでした。しかし、神様から「空の星の数ほどの子孫」を約束された時、心を開いてその御言葉を信じました。その心に恵みが働き、「イサク」という実が結ばれました。それだけではなく神様はアブラハムに更なる祝福をお与えになりました。(創世記24:1)。

信仰の人アブラハムは、このように望み得ることが不可能と思われる中で、心の扉を開き、神様の御言葉、すなわち「神御自身」を信じました(創世記15:6)。これこそ彼が結んだ「義の実」です。

私たちは、信仰によってアブラハムが受けた同じ祝福に与る事が出来ます。(ガラテヤ3:9)。皆様の新しい一年が、アブラハムのように神様の約束を信じる信仰によって、義の実を豊かに結ぶ一年でありますようにお祈りします。

[今日の祈り]

アブラハムのように、心の扉を開いて神様の御言葉の約束を受け取ることができますように。与えられた信仰によって、恵みの御わざを望み見、確信する事が出来ますように。そして、私と、私の家庭、職場、教会に豊かな義の実が結ばれますように、イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


1月15日(月)

絶え間ない祝福

箴言24:13〜14「わが子よ、蜜を食べよ、これは良いものである、また、蜂の巣のしたたりはあなたの口に甘い。知惠もあなたの魂にはそのようであることを知れ。それを得るならば、かならず報いがあって、あなたの望みは、すたらない。」 

蜜はとても良いものです。口には甘く、目を明るくし、心臓を丈夫にします。また、体の熱を発散させる効用もあり、しばしば栄養補助薬として用いられてます。その「蜜」を、聖書では神様の御言葉や智恵を示すものとして象徴的に使われています。

箴言の著者は私たちに、「蜜と蜂の巣のしたたり」を食べなさいと強く勧めています。それは、まさに蜜を食べることによって体に熱が生じ熱くなるように、神様の御言葉を食べるなら、心の内側から放出される熱気によって、じっと静まったままでいる事が出来ず、体を動かさざるを得ない状態になるからです。

聖書を見る時、気落ちしてエマオに向かう二人の弟子が、キリストから御言葉を受けた瞬間、心が熱くなって再びエルサレムに向かったのを、私たちは聖書を通して知る事が出来ます(ルカ24:31〜32)。 神様の御言葉の智恵を悟った人々は、心が熱くなり、目が明るくなって、力強く、御言葉を証しながら生きるようになります。

預言者エレミヤも、「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。」(エレミヤ15:16)、と告白しています。

そのように、人が御言葉の蜜を食べると心の中に熱い恵みの体験をするので、生活に活力を得ることができます。心に楽しみと喜びが溢れてきます。沈んでいた魂が生き返り、知恵が湧き出てきます。そして、目と耳が明るくなり、神様の尊い働きに用いられる能力が与えられるのです。

将来に望みがあります。何故なら絶え間ない祝福を受ける事が出来るからです。ここで言う 「将来の望み」とは、万事が益となる継続的な祝福を意味します。

2007年、新しい年も、蜂蜜と、蜂の巣から滴る御言葉に与り、「すべてあなたが行くところは勝利を得、栄えるであろう」(ヨシュア1:7〜8) と語られた豊かな祝福を享受する皆様でありますように、主の御名によってお祈りします。