『 受難週の行跡  』

金曜日:受難の日(マタイ26:17〜75)

金曜日は悲哀の日です。言葉で言い表す事のできない苦しみの日です。永遠の救い主であり、神様の栄光のために来られたお方が、弟子たちだけではなく、全人類によって捨てられる日です。ユダヤにおいて、かつてなかった事態であるサンヘドリン公会議、真夜中3時の招集が秘密裏に開かれ、当時の律法学者、祭司長らによってイエスを殺す決議がなされた日です。

イエス・キリストはカヤバとアンナスの前で自分に関する尋問には全て堂々と答えましたが、「今もあなたの十二弟子たちはあなたに従っているのか?」と聞かれた時、イエス様は何もお答えになりませんでした。頭を落したまま顔を上げることもできず、言葉を発せられずにいたイエス様の沈痛な面持ちを思い浮かべずにいられません。

イエス様は、この日午前9時に十字架につけられ、12時まで三つの御言葉を、3時まで四つの御言葉を語られた後に息を引き取りました。エスの語られた十字架上の七つの御言葉は、人類の贖罪の生贄として完成をあらわしています。『主権的な恵み』『力』『愛』『犠牲』『謙遜』『完成』『信頼』の意味を含んでいる御言葉です。

イエス様が息を引き取った後、アリマタヤのヨセフがイエス様の冷たくなった重いお体を背負い、自分の墓に葬り最後まで従ったように、私たちも、今日、十字架によって死なれたイエス・キリストのお体を、信仰をもって受けとめて葬り、主が約束された三日後の復活を生ける望みを待ち望むべきではないでしょうか?


木曜日:悲しみもだえる日(マタイ26:17〜75)

イエス様が「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」と言われた日です。この日イエス様は過ぎ越の祭りの後、弟子たちの足を洗いました。そして最後の晩餐と告別説教をなされ、大祭司として執り成しの祈りを捧げられた日です。

日はいよいよ悪者らに捕えられ、連行されていきます。弟子たちとの別れの日です。十字架の苦しみが刻一刻と差し迫っている時、弟子たちは、というと「自分たちの中で誰が一番偉いのか?」と互いに言い争っている有様です。

イエス様の御心は、残されたわずかな時間、少しでも愛する弟子たちと共に過ごしたかったのではないでしょうか。イエス様ご自身が晩餐の手はずを積極的に指示し、弟子たちに整えさせたご様子からも、イエス様のお気持ちが伺い知れます。

どんな悟りのない愚かな弟子たちであっても、十字架につけられる日を前に、彼らとの別れがさびしくて少しでも一緒にいたかったのでしょう。


 

水曜日:沈黙の日(引退の日)

日目、イエス・キリストはベダニヤに退かれました。そして、何も語られませんでした。しかし、だからといって果たしてその御心を読み取らなくていいのでしょうか?闇の力はイエス様がベダニヤに留まる間カヤバの庭に集まり、密かに策略をねっていました。

彼らがイエス様を憎み、イエス様がよみがえらせたラザロをも殺して民の心をイエス様から逸らせようと企てているのをイエス様はご存知だったことでしょう。ラザロが害を受けはしないかと気遣っておられたことと思います。

イエス様はベダニヤに退かれると霊肉共に血汗を絞るような涙の祈りを捧げています。それはラザロが、いや私たちがサタンの陰謀に陥れられないようにと祈ってくださったのです。

たちは、イエス様が全身汗に濡れ、血の気がなくなるほど悶え祈られるその光景を霊的な目で今もなお見るべきではないでしょうか?そして、「主よ!あなたと共にベダニヤにとどまります。サタンになど隙も機会も決して与えません。」と告白し、イエス様の御心を推し量り、共に祈るべきではないでしょうか。なんの対策も立てられなかった十二弟子たちのようではなく、イエスを殺そうとする闇の力に対抗して崩れない祈りの防御壁を立てて、主と共に目を覚ましている日とするべきではないでしょうか。


火曜日:弁論の日(マタイ21:23〜27)

サタンはイエス・キリストに対してさまざまな攻撃を行います。当時の宗教指導者たちはイエス様をねたみ「どのようにイエスを捕えて殺せるか?」と終止機会を狙っていました。そして罠にはめる為に様々な質問でイエス様を試しました(マタイ26:1〜5)。しかしイエス様は人間の手段や策略、浅智恵によって言葉が詰まる方ではありません。逆に彼らが答えに窮し、黙してしまうような質問を投げかけられました。イエス様は如何に智恵に満ちていることでしょう。

 十字架の死を三日後にして、心騒ぎ、憔悴して倒れても不思議のない状況の中で、誰一人イエス様に水の一杯も差し出す人はいませんでした。この日、誰一人イエス様の盾になった人はなく、ただイエス様をおとしめる為のやりとりを傍観していたにすぎません。

 サタンはイスカリオデのユダの心の中にイエス・キリストを売り渡そうとする心を入れました。これを知っておられるイエス様の心はどれほど悲しみ痛み、心が重かったでしょうか?


月曜日:権威の日(マタイ21:18〜22)

受難週第二日目、イエス様は無花果の木を呪われ、宮で商売をする人々を追い払いながら怒りました。実のない無花果の木は、後に根が枯れてしまいました。これは信仰のないイスラエルの人々に対し、無花果の木になぞらえて滅びを警告したのです。この無花果の木とは、霊的に解釈すれば当時のユダヤ教を指しています(エレミや24:1〜6)。

葉の茂った無花果の木は信仰がなく自分のみえだけを装い、権威だけを主張するさまざまな宗教意識を指しています。すなわち、彼らの信仰とは、霊的な悟りのない、体験のない、文字で教えられただけのキリストのついての知識であり、形だけの祈祷や賛美と交わりを行っていました。

 受難週の第二日目である今日、はたして神様が求めている最上の無花果の実になっているか?を自分自身の信仰を振り返る日としましょう。

「イエス様、私の心にお入りくださり、闇の心を覆して、主の聖なる宮にしてください(マタイ21:12〜17)。そして最上の実を結ぶ、御霊の宿る聖なる宮に造り替えてください(コリ3:16)。」と祈りましょう。


棕櫚の主日: 勝利の入城(マタイ21:7−9)

イエス様の十字架の死は今日から六日後です。創造主なる神が六日後に御子が十字架につけられる様子をご覧になります。アダムの堕落から今日に至るまで数百億の霊肉を背負い、分断された天と地とをつなげるために、 一人苦しみの 道を歩くイエス様を思いましょう。そのお方は「わたしはよい羊飼いである。良い羊飼いは、 羊のために 命を捨てる」という御言葉を成就させるために、自分を蔑視して殺そうとするエルサレムに向かって自ら入場されるのです。

当時のエルサレムには神様の側に立っている宗教指導者は一人もなく、ただ寒さに震え、飢えに苦しむ人たちだけがいました。これらの人々を慈しみ、慰めの御言葉をかけ、病を癒されたイエス様が、尚も救いを与えるために 、この日エルサレムに入城するのです。今日、私たちは信仰によってイエスさまが入城する方向に各々の心を向けるべきです。

「ホザナ、私たちを救い出してください」と叫び、私たちの心の闇と罪悪、空虚と混沌が主の入城によって光に照らされるよう祈りましょう。

 


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