2004,11,14

天の美しい宝庫を開こう
(申命記28:12〜14、マラキ3:12〜17)



今日の説教は、人によっては、厳しく聞こえるかも知れません。私たちは聖書の御言葉を通して励ましや慰めを受けると同時に、神様の口から語られた訓戒や、定め、さとしも信仰をもって受け入れ、聞き従う姿勢が大切です。たとえ、厳しい御言葉であっても、神様の「愛」に基づいた語り掛けであることを、しっかりと踏まえて耳を傾けたいものです。

人は誰しも、天からの恵みを欲します。「....わたしが天の窓を開いて、あふるる惠みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。」
父なる神様はハッキリと「天にある窓を開き、恵みを注ぐ意志がある」と約束して下さっていますが、このマラキ3:10節にある前半部分、すなわち
「わたしの宮に食物のあるように,十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい.これをもってわたしを試み」の後に「天の窓を開き...」と続いているのです。

十一献金は神様を信じる聖徒の基本です。九九は、算数と数学の基本です。九九を理解することができなければそれ以上の発展は望めません。それと同じように、十一献金を正しく捧げられない聖徒はそれ以上信仰の発展を期待することはできないでしょう。自分が得たものであるならば、主たる収入だけではなく、副収入であったにしても収入を得た事に変わりはないのですから、神様に対し真実な心で十分の一を正確に捧げるべきです。もし小遣いを1万円もらったのであれば千円が十分の一となるわけです。 

 十分の一を捧げない聖徒に対し、神様は何とおっしゃっているのでしょうか?マラキ3:8〜9には、「人は神の物を盜むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盜んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盜んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盜んでいるからである。」と記されています。神様はその人を泥棒であると言われ、さらには、「その人は呪われる」と言われるのです。
神から泥棒とされた者が祈る祈りを、はたして神様は応えてくださるのでしょうか?神の前で災いを受けているその人の人生が、はたして栄えることがあるのでしょうか?泥棒の祈りを聞くことはないでしょう。

この世の中でも窃盗は犯罪者として裁かれ刑務所に行くことになります。罪を犯しても日常の生活が許される程甘くはないでしょう。もし、私たちも泥棒になるならば、聖徒として教会生活を続けることが正常なことでしょうか?

では、なぜ神様に十一献金を捧げられないのでしょうか?それは自分の収入がすべて自分のものであると考えているからに他なりません。しかし、私たちのすべての収入は、実際わたしのものではなく、すべて神様のものです。十分の一を神様に捧げるということは、捧げる行為に於いて「すべてが神のものです」と神の主権を認めることなのです。
ダビデはそれを悟り、
 歴代上29:14の中で
「しかしわれわれがこのように喜んでささげることができても、わたしは何者でしょう。わたしの民は何でしょう。すべての物はあなたから出ます。」と告白しています。すべてが神のものであって、自分はしばらくの間、預かり管理している管理人である、という意識を持つ必要があります。私たちは、自分のものを神様に捧げるのではなく、もともと神様のものを十分の一を通して神様にお返しをするに過ぎないのです。

 ある人は十一に対する御言葉の意味を歪曲し、自分の都合によって、十一献金を捧げない人もいます。「十分の一を捧げよ、というのは旧約におけるモーセの律法にあるもので、新約の時代には必要ではない」と主張する人もいます。しかしイエス様ご自身も、十分の一の捧げ物に対し、認め、かつ捨ててはいけないと言われました。マタイ23:23節に、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠實とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。」と言われるのです。

聖書の中の十一に関する記述を調べると、モーセの律法以前にも十一献金が捧げられていたことがわかります。アブラハムはメルキゼデクに十一献金を捧げ(創世記14:20)、ヤコブも十一献金を捧げると神様に誓いました(創世記28:22)。確かに律法時代には十一献金が義務でしたが、今日、恵みの時代に生きる私たちは、なおさらイエス様から与えられた恵みによって、父なる神様に対する感謝が更に増し加わり、喜びをもって十一、いや、それ以上を捧げたいと願う人々がいても不思議ではありません。


 さらに言えば、十分の一を捧げることは、都合によって捧げても捧げなくてもいいものである、と御言葉は述べていません。神の前に救われた聖徒であるならば子々孫々続けることが求められているでしょう。そして完全な十一献金を捧げなければなりません(マラキ3:10)。完全な十一献金とは人が決めるのではなく、神様によって決められるものです。
十分の九は、私たちに下さる、とおっしゃられます。与えられた十分の一は神のものであり、私たち人間が自分のものとしてはいけないものであるということをはっきりと認識するべきです。

この脈絡で見ると、創世記にあるエデンの園におけるアダムとエバにも十一の試みがあったと言えるでしょう。エデンの園にある種々の木の実は全部食べることを許されていましたが、中央にある一つ、すなわち善悪の木の実だけは取って食べるな、とおっしゃられました。エデンの園にあるすべてが神様のものでしたが、ただ一つを残し、あとのすべては人に与えられたのです。「たった一つ、これだけは手を出すな」と命令されたにも関わらず、それさえも守れず善悪の木に手をかけてしまったアダムとエバに待っていた結果は何だったか?その答えは周知のとおりです。


 すべて造られたものは神のものです。神様から与えられたすべてのものは私たちのものではなく、しばらく神様から預かっているものです。十一を捧げる行為は、自分に与えられたものはすべて神様のものである、と神様の主権を認める行為です。反面、十一をささげないということは、すべてが神様のものであると言う事実を認めないことになり、神様のものをすべて盗む行為になるのです。


マラキ3:10節に、
「わたしの宮に食物のあるように,十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい.これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる惠みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。」と先にも読んだように、
私たちはより多くの祝福を受けることが出来るのにもかかわらず、何故その素晴らしい祝福を逃して暮らしているのでしょうか?いつも貧しさの中に、苦しみながら暮らすのでしょうか?貧しいが故に十一を捧げられないのではなく、捧げないから厳しい生活を余儀無くされているとは思わないのでしょうか?。また、十分の一を捧げるとしながらも、勘定づくの不完全な十一を神様にささげげているのではないでしょうか。聖書は「適当に」十一献金を捧げよ、とは言っていません。「完全な十一を求めているのです。
では何故「全部」の十一を神様は求めるのでしょう。正しい十一は天の窓を開く力があるからです。天の窓が開かれ、溢れる恵みを注いでくださる神様に対し、私たちも真実な行いを表すべきではないでしょうか?。

神様を信じると告白するならば、神様の御言葉も真実であると信じ認めるべきでしょう。ならば、このような確実な祝福の約束があるのになぜ、疑うような行為、すなわち十一献金を捧げずに踏み倒し、尚かつ画策するような行為をおこなうのでしょうか?
厳しい経済状況の中で暮らす厳しさの中で十一献金を捧げない家庭もあります。十一献金全部を捧げない家庭もあります。しかし決して忘れないで下さい。十一献金は苦しいからこそ、貧しいからこそ捧げるのです。天にある祝福を溢れるほどに注いで下さる真実なる神様を信じて。


 アメリカで留学生活を始めた一人の青年がアルバイトをして初めての給料をもらいました。彼は十一を捧げてから録音機を買おうとしました。英語の講義の内容をよく聞き取ることができないために、講義を録音して繰り返して聞かなければならなかったのです。しかし、十一を捧げてからは録音機を買うことが出来ません。この青年は十一か?録音機か?と葛藤しました。しかし、礼拝の時に心に決めて十一を先ず捧げました。礼拝を終えた帰り道に一人の夫人が青年に声をかけてきました。「録音機使いませんか?私が留学の時に使っていた録音機があるのだけれど、もし、必要であれば差し上げますよ」。

苦しいという理由で十一を捧げませんか?苦しい中でも十一を捧げますか?

神様が認める正しい十分の一献金を捧げる皆様に、必ず天の窓が開き、溢れる恵みが豊かに降りそそがれますように主の御名によって祝福いたします。



日本ナザレン教団 赤坂教会



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