2005/10/30(主日礼拝)

『 義人 』 ローマ書 3:10〜12 
メッセージ 梁 貴貞神学生




「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべてのひとは迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない。一人もいない。」ローマ3:10〜12

 旧約時代、アブラハム、ノアなどの義人がいました。しかし、新約時代において「義人はいない。」と、神様は悲しんでおられます。今の時代、神様を信じると告白しながらも、神様を畏れつつ、ほめたたえ、真心から神様を敬拝する真のクリスチャンが果たしてどのくらいいるのでしょうか。私たちが義とされるのは、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされます。自分が自分を認めるのではなく、神様から認められることが最も重要なのです。

 では、イエス・キリストを信じさえすれば、それで終わりでしょうか?第2テモテ3:16に「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」と記されています。またコロサイ人への手紙3:10には「造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。」とあります。私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされた後も、神様の御言葉によって日々新しく作り変えられる必要があるのです。教会に通い、礼拝に出席し、正しく献金をして、教会の奉仕をするなど如何に教会生活をしているのかではなく、信仰生活をどれほど行っているかが大切です。

 また「神を求める人がいない。」と記されています。神様がどれほど悲しまれていることでしょうか。私たちは、どんなに小さなことであっても、神様を信じ委ねて求める必要があります。私たちが心から神様を信頼し、真に神様を求める時、神様は、その祈りに答えて下さることを信じなければなりません。

 神様を信じるとは、御言葉を信じる事です。そして、御言葉を求める事です。御言葉を信じる中にも、今現在私たちはどの段階にいるのでしょうか。律法の段階でしょうか。それともイエス・キリストのあがないの段階でしょうか。確かに、私たちはイエス様を信じる事によって義とされる、と聖書に記されています。しかしイエス様は「わたしは門である」と語られました。しかし、その門を通って父の御座まで行かなければならないとイエス様は語られました。

イエス様は、罪あるすべての人を無条件の愛で包んで下さいます。しかし、世の終わりには「義人のうちから悪人をえり分ける。(マタイ13:49)」とあります。その時私たちは、「義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝く(マタイ3:43)」義人とならなければなりません。その為に私たちは今の信仰をどのようにして歩むべきでしょうか。父なる神様は「あなたの十字架は、あなたが背負って来なさい。」と言われます。

 私たちが父なる神様の御座まで行くために必要なものは何でしょうか。それは「父の印」です。ヨハネの黙示録に「御使いが生ける神の印を持ってくる。(ヨハネの黙示録7:2)」と記されています。また、9:4には「彼らは地の草やすべての青草、またすべての木をそこなってはならないが、額に神の印がない人たちには害を加えてもよいと言い渡された。」と記されています。これらの事から、世の終わりの艱難の時に最後まで守られ、父の御座まで行く為には、「イエス・キリストの印」だけではなく、「父の印」をも持つ必要があることを知る事が出来ます。ヨハネの黙示録14:1にこのように明記されています。「なお、わたしが見ていると、見よ,子羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人人が子羊と共におり、その額に子羊の名とその父の名とが書かれていた。」とあります。イエス・キリストの真の姿は、父なる神であり、神のみことばであり、そして、神御自身であることを心に留めなければなりません(ヨハネ黙示録19:13)。

 私たちが信仰に在るならば、行いがともなう必要があることを聖書は教えています。行いによる信仰とは、イエス・キリストを信じる事によって善を行う人となる事です。では、その行いとは何でしょうか。それは一人の魂を大切にする事です。魂を愛する人は伝道します。家族の為に祈り、恵みの福音を伝え,命を得させる主の元にその魂を導きます。この行いこそ善であり、神様に喜ばれるのです。しかし、伝道するにもまずその魂の為に切に祈ることが大切です。

 マタイによる福音書9章で、イエス様のもとに中風の者が、床の上に寝かせたまま運ばれてきた様子が記されています。イエス様は、中風の者を連れて来た彼らの信仰を見て中風の者の罪を赦し、病を癒されました。イエス様は「安心しなさい、あなたの罪はゆるされた」と語られました。私たちも、イエス様を信じ、神様の御わざを信じ求める時に、同じように「安心しなさい」と語られる神様の御言葉を頂く事が出来ます。そして、罪赦された私たちは、再び罪によって汚されないように清めを保つ生活をするべきではないでしょうか。

父なる神様のご恩寵によって、私たちはイエス・キリストを信じ、義とされる恵みに与りました。その恵みを無駄にする事がないよう日々、御言葉を慕い求め、義人として善を行う者となりましょう。主にある皆様お一人ひとりが、イエス・キリストの印と父の印を受けて、最後まで残される義人となりますよう、主の御名によってお祈りします。

 


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