黙示録のプロローグ
聖書の最初の書である創世記は、宇宙創造と人類の起原について記されています。そして、最後の巻、ヨハネの黙示録は宇宙と人類の歴史終末を物語っています。聖書の六十六巻を通して神様の大いなる摂理を示しており、万物のすべてが神様の主権の下にあることを明らかにしています。
黙示録は使徒ヨハネが神様からの啓示を受けて記した書簡です。1章と2〜3章では、当時の七つの教会を中心として、教会の姿がどう展開されるかが記されています。4章から22章までの大部分を用いて人類歴史の終末が近づいてくる様子が、多様でかつ奇妙な現象の描写によって始終繰り広げられています。
黙示録は神様の経綸の奥義を見せてくれる神秘的啓示です。黙示録は非常に難解な書として知られており、たやすく解釈することはできません。しかし、神様が私たちに黙示録をおあたえになったのは、過去、現在そして未来に、教会がかかえるサタンとの霊的な戦いに勝利を得させるためであり、勇気を与え、さらに、神様の智恵を知らせる為です。
すなわちサタンの正体と計画を確かに悟らせ、それらの誘惑に飲み込まれることなく、却ってサタンに勝つことができるように手助けを与える書です。そして、ヨハネの黙示録の最終章では、すべての聖徒らに訪れる永遠の御国について記録されています。
終わりの時の苦難は必ず訪れます。しかし、イエス様を信じる人たちにはその苦しみに勝利する力と勇気が与えられるのです。世の終わりは聖徒らにとって終わりではなく、永遠のはじまりになるでしょう。
黙示録の序論
黙示録は主後(AD)1世紀頃までは「イエス・キリストの啓示」と言う題で呼ばれました。なぜならば黙示録の1:1節に、「イエス・キリストの啓示である」と記されているからです。その後、2世紀になって「ヨハネの黙示録」に変更されました。
「黙示録」のギリシャ語の原語「アポカリプス」は「開封する」「ふたを開ける」「幕をはずす」と言う意味を持ちます。黙示録は、これから起こることを明らかにする預言書なのです。黙示録10:7節に、第七の御使いがラッパを吹く時に、神様の奥義がヨハネに伝えられた御言葉のとおり成就すると記されています。
黙示録の中心のテーマはイエス・キリストの再臨です。
聖書にある全ての奥義中の奥義は正にイエス・キリストの再臨です。黙示録1:7節に「見よ、彼は、雲に乘ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。」とあり、また黙示録22:7、12,20節にも主の再臨について語られています。
使徒ヨハネが啓示を受けた時期は95年ごろドミティアヌス皇帝の時の主の日(黙示録1:10)です。啓示を受けた場所はバトモス島(黙示録1:9)で、ギリシャ海岸から約56キロ離れたところにある島です。ヨハネはこの島で軟禁状態にありました。悲しみと孤独の中でもすべてを神に委ねるヨハネに神様は「ヨハネの黙示録」と言う偉大なる啓示の御言葉をお与えになりました。
黙示録1:19節は、ヨハネの黙示録の内容を要約しています。
「そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。」(黙示録1:19節)
この「あなたの見たこと」とは黙示録の2章と3章に登場するアジヤの七つの教会の状況であると言えます。なぜなら続く黙示録1:20節に「あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奧義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。」と記されているからです。
「現在のこと」とは、黙示録1章のヨハネが啓示を受けている当時の状況であり、「今後起ころうとすること」はこれから起こりうる出来事について黙示録4章から22章にかけて記されています。黙示録4:1節で「その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」とある通りです。
ヨハネの黙示録は聖書の結論に当たります。
如何に聖書を詳しく知っているとしても、黙示録を理解できなければ結論を失うことと同じです。使途ヨハネが受けた御言葉を、私たちにも悟らせてくださる聖霊様の力強い御わざが今日もありますように!。
黙示録を学ぶ姿勢
黙示録はこれから速やかに起こりうる出来事を信じる者らに知らせる為に与えられました。であるならば、私たちは神様を信じる僕(しもべ)として黙示録の御言葉を悟らねばなりません。果たして黙示録を学ぶ者はどのような姿勢を持つべきでしょうか?
1.御霊の感動を受ける姿勢が必要です。
黙示録1:10節で使徒ヨハネは主の日に御霊の感動を受け、うしろの方で、ラッパのような大きな 声がするのを聞きました。これは聖霊の感動なしにはヨハネの黙示録の奥義を理解することが出来ないということを意味しています。なぜならば、黙示録の御言葉は聖霊が諸教会に語られた御言葉であるからです(黙示録2:7、11、17、28)。
2.僕であるという姿勢が必要です。
黙示録は僕たちに示すために与えられた御言葉です(黙示録1:1)ですから私たちが僕としての姿勢をとるならば黙示録の御言葉を悟ることが出来ます。では僕の姿勢はどうあるべきでしょうか?僕の姿勢は謙遜と従順です。神様は謙(へりくだ)る人により大きな恵みを与えられ(ヤコブ4:6)、高ぶるものを退けられます。
3.あかしする姿勢が必要です。
私たちが御言葉をあかしするとき、確信が与えられ、語る瞬間に自分自身が悟ることができます。黙示録1:2節で、「ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。」と言われています。使徒ヨハネがあかしされたように私たちもあかしする僕となる必要があります。
4.手紙を出す姿勢が必要です。
使徒ヨハネはアジヤにある七つの教会に手紙を出しました。黙示録1:4節で、「ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。」と言われています。私たちは、皆一人一人がイエス・キリストの手紙です。神様の御言葉が私たちの心に記録されています。ですから私たちは口で神様を語り生活で神様を証すべきです(第2コリント3:2〜3)。
5.苦難に加わる姿勢が必要です。
黙示録1:9節で、「あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている。」と言われています。苦難はイエス・キリストの奥義を学ぶもっともよい学校です。この学校(苦難)の入学なしに奥義を知ることは決してあり得ません(詩篇119:71)。
今日の私たちの苦難は御言葉を悟るための過程なのです。
使徒ヨハネのように、五つの姿勢を持ち、黙示録の御言葉の悟りを得る私たちとなりますように。そして主の御心にかなう僕として用いられる御わざがありますように主の御名によって祝福します。
黙示録の構造
ヨハネの黙示録は「7」の数字的構造となっています。
1.黙示録2〜3章はアジアの7つの教会に送った手紙です。
エペソ教会(黙示録2:1〜7)、スミルナ教会(黙示録2:8〜11)、ペルガモ教会(黙示録2:12〜17)、テアテラ教会(黙示録2:18〜29)、サルデス教会(黙示録3:1〜6)、ヒラデルヒヤ教会(黙示録3:7〜1)、ラオデキヤ教会(黙示録3:14〜22)など7つの教会に対して記録されています。
2.黙示録には7つの印と災いが記録されています。
第一の印には白馬が登場します(黙示録6:1〜2)、第二の印には赤い馬が登場します(黙示録6:3〜4)、第三の印には黒い馬が登場します(黙示録6:5〜6)、第四の印には青白い馬が登場します(黙示録6:7〜8)、第五の印には殉教者たちの大きな叫び声が(黙示録6:9〜11)、第六の印には天体の変動が記録されています(黙示録6:12〜17)、第七の印には半時間ばかりの静けさがあって、七つの印が七つのラッパに変わります(黙示録8:1〜2)。
3.黙示録には7つのラッパの災いが記録されています。
第一のラッパが吹き鳴らされると、血の混じった雹と火があらわれます(黙示録8:7)。第二のラッパでは、火に燃えさかっている大きな山が記されています(黙示録8:8〜9)。第三のラッパでは、たいまつのように燃えている大きな星が空から落ちてきます(黙示録8:10〜11)。第四のラッパでは太陽と月と星の三分の一が打たれて暗くなります(黙示録8:12)。第五のラッパでは、いなごの災いが記録されています(黙示録9:1〜11)。第六のラッパにはユウフラテ川における戦争について記されています(黙示録9:13〜21)。そして第七のラッパが吹き鳴らされる時、世の国がキリストの国となります(黙示録11:15〜19)。その後、七つの災いの供述は七つの鉢へと続きます。
4.黙示録には7つの鉢の災いが記録されています。
第一の鉢が地に傾けられると酷い悪性のでき物ができます(黙示録16:2)。第二の鉢では、海が死人の地のようになります(黙示録16:3)。第三の鉢では、側と水の源が地になります(黙示録16:4〜7)。第四の鉢では、太陽が火で人々を焼きます(黙示録16:8〜9)。第五の鉢では、災いにより獣の国が暗くなります(黙示録16:10〜11)。第六の鉢では、ハルマゲドン戦争が記録されています(黙示録16:12〜16)。そして第七の鉢が傾けられると、災いにより大きな地震が起き、大きな都が三つに裂かれ、大きなバビロンが滅ぼされると記録されています(黙示録16:17〜21)。
5.黙示録には7つの新しいわざが成就されます。
第一が新しい天(黙示録21:1)、第二が新しい地(黙示録21:1)、第三が新しい民(黙示録21:3)、第四が新しいエルサレム(黙示録21:2,10〜)、第五が新しい聖所(黙示録21:22)、第六が新しい光(黙示録21:23)、第七が新しいパラダイス(黙示録22:1〜2)
神様は七日間で天と地、そして万物を造られました(創世記2:1〜2)。神様は全てを完成させるお方です(黙示録1:8、17)。神様は、この黙示録に示された「7」の単位で起こる全ての御わざを必ず成就なさるでしょう。
黙示録には多くの数字が記されています。この数字が時には文字的に、時には象徴的に使われています。その数字の意味を調べてみると次のような意味が含まれているといえるでしょう。
「1」と言う数字は絶大数字です。
これは唯一の真の神様を示す数字です。唯一神と言う表現はただ一人の救い主であり、創造主であるという意味です。
「2」と言う数字は証人の数字です。
黙示録11:3節には二人の証人が登場します。この「二人」とは単に数字の2をさしているだけではありません。これは終わりの時、主の福音を証する多くの聖徒たちをも意味します。それは、二人の証人が殺され、さらされた死体を見る時にはギリシャ語の「プトマ」という言葉を使っています。「プトマ」は単数を表しているのに対し、二人の証人に使われている言葉は複数を表す語句が用いられています。つまり「二人の...」という単語が一人または二人を指すのではなく、一つの集団を指していることを推測することができます。
イエス様も御自分の弟子たちを常に二人ずつ伝道に遣わされました(マルコ6:7、ルカ10:1)。これは二人の数字的な意味を重視したのではなく、「御言葉の証人」としての役割を果たさせるために必要な事柄を教えるためのものでした。その裏付けは旧約の申命記17:6、19:15節から見出すことができます。
「ふたりの証人または三人の証人の証言によって殺すべき者を殺さなければならない。ただひとりの証人の証言によって殺してはならない。」 −申命記17:6−
「どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。」−申命記19:15−
「3」と言う数字は三位一体の数字、天の数字です。
黙示録には神様を示す「三位一体」という語句は用いられてはありません。しかし、聖書を通して私たちは、神様が「父なる神、御子なる神、聖霊なる神」の三位一体のご性質が現わさているのを知る事ができます。この三位同位格である神様のご性質を表す数字である3が、神様の、また天を示す数字であるといえます。
「4」と言う数字は地の数字です。
地は東西南北、四方によって成り立っています。黙示録4:6節に「四つの生物」が登場します。黙示録7:1節には、「地の四すみ」、「地の四方の風」が出てきます。
「5」と言う数字は苦難を表す数字です。
使徒パウロはコリ11:24節で四十に一つ足りないむちを五度も受けました。黙示録9:5節には五ヶ月の蝗の災いが記されてあります。「彼らは、人間を殺すことはしないで、五か月のあいだ苦しめることだけが許された。彼らの与える苦痛は、人がさそりにさされる時のような苦痛であった。」と言われています。
黙示録9:10節には、蝗には「五か月のあいだ人間をそこなう力がある。」と言われています。ヨハネ5:2節にも、「ベテスダ」と言う池にも五つのそこには五つの 廊があったと言われています。そこにはこの世で多くの苦しみを受けて、病にかかった多くの患者たちがいると言われています。
黙示録の数字の意味(2)
「6」と言う数字は獣の数字、肉の数字、悪魔の数字を意味します。
黙示録13:18節に、「ここに、知惠が必要である。思慮のある者は、獣の數字を解くがよい。その數字とは、人間をさすものである。そして、その數字は六百六十六である。」と言われています。ここで666は獣の数字です。神様は創世記1章で、六日目に人を創造されました。しかし六日目に創造された人間が堕落して獣のようになりました。したがって「6」と言う数字は堕落の数字、悪魔の数字であると言えます。
「罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。」−第一ヨハネ3:8−
「7」と言う数字は完全を意味します。
黙示録2:1〜3節を見ると神様が六日間、天と地と万物を創造され七日には休まれました。神様は終わりの時に聖霊の完全な御わざを起こします。これを黙示録では「七つの霊」という表現をしています(黙示録1:4、黙4:5、黙示録5:6)
「8」と言う数字は新しい命の数字、新しい創造の数字です.
イエス様は十字架で全ての人々の罪の代わりに死んでくださった後、八日目に復活され(マタイ28:1)、人類に新しい命を与えられました。したがって、「8」と言う数字は新しい命の数字です。旧約時代には子供が生まれた後、八日目に割礼を行いました。
創世記17:12節にこのように書かれています。「あなたがたのうちの男子はみな代々、家に生れた者も、また異邦人から銀で買い取った、あなたの子孫でない者も、生れて八日目に割禮を受けなければならない。」と言われています。バプテスマのヨハネも八日目に割礼を受けました(ルカ1:59節)。
割礼とは死の血を抜いて、新しい被造物に創りかえられることを意味します。ですから「8」と言う数字は新しい創造の数字であると言えます。
「9」と言う数字は聖霊の実の数字、賜物の数字です。
ガラテヤ5:22〜23節には聖霊の実が記されています。その聖霊の実は九つです。また、第一コリント12:4〜11節にも、聖霊の賜物について記されています。しかし、その賜物は九つです。
「10」と言う数字は地の充満を意味する数字です。
黙示録12:3節を見ると大きな赤い龍が記されてあります。しかし、その赤い龍の頭が七つであって、角は十あります。ここで「10」と言う数字はこの地で満たされることを意味します。
「12」と言う数字は教会組織の数字です。
黙示録には12と言う数字をよく見つけることができます。
黙示録12:1節には太陽を着た女が12の星の付いた冠をかぶっています。黙示録21:12節には、新しいエルサレムに12の門があり、12の天使があり、12部族の名前が書かれています。
黙示録21:14節には、新しいエルサレムの城壁には12の土台があり、その上には子羊の12使徒の名前が書かれてあります。
黙示録21:19〜20節には12の宝石の名前が書かれてあります。
黙示録21:21節には12の門は12の真珠であり、黙示録の22:2節には、新しいエルサレムは川の両川に命の木があって12種の実を結ばせてあると記されてある。
「12」の数字は天の数字(聖父、聖なる御子、聖霊)と地の数字(東西南北)をかけると12の数字になります。ですから12と言う数字は天と地が合わさった完全な教会組織の数字であると考えられます。
これから後に起こるべきことを見せてあげよう
1.その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。
2. すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。
3.その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、p玉のように見えるにじが現れていた。
4.また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。
5.御座からは、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが、發していた。また、七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である。 黙示録4:1〜5
ヨシュアたちイスラエルの民が、朝早く起きてエリコの町を回り始めると、エリコの町の石がきが崩れる御わざが起こりました(ヨシュア6:12)。イザヤ50:4節を見ると、神様は、朝ごとに私たちの耳を開き、悟りを与えると言われています。鈍くなった心では、智恵の御言葉を悟ることが困難です。しかし、朝ごとに私たちの耳を開いてくださる神様に出会うならば、御言葉の奥義を悟らせてくださるでしょう。今、黙示録を学ぶ私たちも、御言葉の悟りを頂く為に、朝ごとに祈り備える姿勢を取るべきではないでしょうか。
神様は御言葉を通してヨハネに、「これから後に起こるべきことを見せてあげよう。」と言われました。
「これから後に起こるべきこと」とは何でしょうか?これは表面的には黙示録2章から3章に渡って記されている当時のアジアの七つの教会を意味します。預言的(裏面的)に見ますと、これは世の終わり、教会の時代が終わろうとする時に起ろうとすることを神様は、ヨハネを通して全人類に知らしめているのです。
これから黙示録を学ぼうとする皆様が、神様が与えて下さる啓示を見ることが出来ますように、お祈りいたします。ではどうすれば起こりうるべき事を見せてもらえられるでしょうか?
1.天の門が開かれるべきであると言うことです。
先ず「その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。」と記されています。天の門が閉じているならば、これから起こりうるべき事を見る事は出来ない、という事です。起こりうるべき事を見せていただくには、先ず「天の門」が開かれるべきです。
天の門が開かれた後、ラッパのような声が「ここに上がってきなさい」と言われました。このように神様は自らの特別な御わざを示す時は、天の門を開かれました。これこそ霊の世界が開かれる祝福です。これらの祝福を受けた人々を聖書から見てみましょう。
1) ヤコブがベテルで野宿した時に天の窓が開かれました(創世記28:10〜17)。
2) エゼキエルが幻を見た時に天の門が開かれました(エゼキエル1:1)。
3) イエス様がバプテスマを受ける時に天の門が開かれました(マタイ3:16)。
4) ステパノが殉教する時、天の門が開かれました(使徒7:55〜56)。
5) 神様からの祝福も、天の門が開かれた時に初めて受けられます(マラキ3:10)。
2.ラッパのような声を聞くべきです。
黙示録4:1節を見ると、「天の門が開かれ、ラッパのような声を聞いた」と記されています。私たちは、ラッパのような声を聞かなければなりません。黙示録1:10節にも、ヨハネが、「ラッパのような大きな声を聞いた」ことが記されています。そして彼は、人の子のような者を見ることが出来ました(黙示録1:13)。
私たちも、この、「ラッパのような声」を聞いてこそ、燭台の間にいる人の子のような者に出会うことが出来るのです。この「ラッパ」とは何を指すでしょうか。それは神様の御言葉を意味します(民数記10:8、黙示録4:1)。世の終わりにラッパの響きのような神様の御言葉の御わざが起る事を示しています。
ヨシュア3:17節を見ると、祭司長たちが契約の箱を担いでヨルダン川に足を踏み入れた瞬間、ヨルダン川が分けられ、乾いた地が表れました。このように御言葉に聞きしたがう時、私たちの前におかれたヨルダン川が分けられ、乾いた地と栄えの大路が開かれるのだと聖書は語っています。
また、第一コリント15:51節にも、最後のラッパによって私たちを変化させると語っています。このように、神様は私たちを変化の世界へ、ラッパのような声で私たちを導かれるのです。
私たちは神様の御言葉に従って進む事によって、御心の心に叶う最後のゴールに到達することが出来ます。
3.常に聖霊に感じて生きるべきです。
「わたしは御霊に感じた」(黙示録4:2)とあります。この「御霊に感じる」とは、聖霊に在ってという意味です。ヨハネは聖霊によって導かれて終わりの永遠の世界を見ることが出来ました。
ヨハネは先にも、聖霊に感じて「人の子のような者」の幻を見ることが出来ました(黙示録1:10)。そして、その後にヨハネは聖霊によって荒野に導かれて行きます。そこで淫婦とバビロンが滅ぼされることを聖霊によって見ることが出来ました。
黙示録21:10節にも彼が聖霊に感じて新しいエルサレムを見たことが記されています。
以上のことから、今日私たちが神様の御わざを見、知る為には、聖霊の満たしが必要であることが分かります。このような聖霊の御わざは、真理の御霊によってのみ与えられます(ヨハネ16:13)。
「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」と記されている通り、将来のことを知らせる聖霊は真理の霊であります。したがってわれわれは真理の霊にあってこそ将来の事を見ることが出来、新しいエルサレムも見ることが出来、淫婦とバビロンの滅びをも見ることが出来、そして人の子のような者を見つけることも出来るのだと聖書は教えています。
この聖霊の御わざは「七つの霊の御わざ」として記されており、この七つの霊とは「完全な聖霊の御わざ」を意味します。黙示録4:5説を見ると、七つの灯火が燃えているが、それは七つの霊であると言われています。この「ともし火」を原語で見ると、ロウソクのような薄明るい光を指すのではなく、たいまつのような火を指しています。たいまつの火がロウソクの火よりも明るいように、神様の聖霊の御わざは、私たち限りある人間が悟ることの出来ないことを明らかにして下さるのです。
このような、たいまつのように聖霊に満たされる皆様でありますようにお願いいたします。
聖書では、この七つの霊を「七つの目」であると言われています(黙示録5:6)。一つの目で見るより七つの目で見たほうが確かです。私たちがこの世の中で生活する時、真理の聖霊に在って、たいまつのような明かりを照らしつつ、七つの目=完全な目で、御言葉に耳を傾けるなら、神様から受ける祝福はいかばかりでしょうか。
私たちはこう祈りましょう。「神様!私に天の門が開かれますように導いてください。ラッパのような声を聞かせてください。私に真理の霊を与えられ御言葉を明らかに悟ることが出来ますように恵みを与えた下さい」と。
見よ!天の御座を(1)
黙示録4:1〜11
「〜見よ、御座が 天に 設けられており、(黙示録4:2)」と天の御座を見るよう言われています。今日の御言葉は、天の御座の様子を示しています。その御座はどのようなものでしょうか。
1.御座にいます方がおられる。
「御座にいます方」とは黙示録4:11を通して「われらの 主なる神よ!」と呼ばれている事から、神様であることが分かります。また黙示録4:8節にも「聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。」と告白しています。さらに、「昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」であると記されていますから、昔いまし、今いまし、やがて来るべき神様であることを知る事が出来ます。
マタイ28:20節を読むと、イエス様が弟子たちに「わたしは世の終わりまであなた方と共にいるであろう」と語られた後に、天にのぼられる様子が記されています。私たちの日々の暮らしの中でも、「神様は昔もいまし、今いまし、やがて来られる方であり、すべてのことに終わりを告げる方である」という信仰を持って生きることが求められています。
今日私たちの信仰はどうでしょうか。「昔いまし神」はよく知っています。ところが、今この瞬間私たちと共にいてくださる「今います神様」のことは忘れる事が多いのではないでしょうか。自分の身の回りで災難や艱難が起ると「神様がいるなら何故こんなことが起きるのか?もう神様はいないのだろうか?」と、懐疑心を持つ事が往々にしてあります。
しかし黙示録4:8には明確に「昔いまし、今います方」であると記されています。この黙示を記録したヨハネが啓示を受けた時の状況は、まさに神様に対する信仰を揺るがされかねない状況でした。その頃は、ローマ皇帝が組織的にイスラエルを迫害し始めた時でした。そしてイエス様を信じる人々が、次々と投獄され、あるいは殺害されていた時です。
使徒ヨハネは無人のパトモス島に流され、孤独な日々を余儀なくされました。この時のヨハネの心情はいかばかりであったことでしょう。寂しさと、不安が彼を覆っていたのではないでしょうか。そのような状況の中で、ヨハネが神様から啓示を与えられたことを、私たちは心に留めなければなりません。ともすると、私たちはこう考えがちです。「私がこんなに神様をしんじているのに何故?」「誰も私を分かってくれない」と。
ところが、その劣悪な環境の中でヨハネが聖霊に満たされて見たものとは何だったのでしょう。それは、神の御座でした。その御座に神様が座っておられるのをヨハネは見ることができたのです。私たちも、信仰生活の中で、時折神様が今も生きておられることを忘れてしまうことがあります。しかし、その苦しい状況の中、この瞬間も主なる神様は御座におられ、この世界のすべてを統治しておられる事を信仰の目で見ましょう。
ヨブはこう告白しています。「しかし彼はわたしの歩む道を知っておられる。彼がわたしを試みられるとき、わたしは金のように出て来るであろう。(ヨブ23:10)」
私たち人の道は、神様だけが知っておられる。確かに,私たちは自分の人生の道を知る事が出来ません。「何故、私が苦しみを受けるのか。私には分かりません。しかし、神様はすべてをご存知です。この試練の時が過ぎたなら、私は金のように出てくるでしょう。」とヨブは告白したのです。
あなたの人生にも、困難や悩みなど、様々な問題があるかも知れません。しかし、その問題の中にもあなたと共に神様はいて下さるのです。そして、今日も御座に座り、あなたを導き、守り、やがてその苦しみを乗り越えて金のように洗練された者として下さり、神様から大いなる祝福があるということを信じましょう。「見よ!天の御座を!」
見よ!天の御座を (2)
黙示録4:1〜11
「また,御座のまわりには二十四の座があって,二十四人の長老が白い衣を身にまとい,頭に金の冠をかぶって,それらの座についていた。」 ー黙示録4:4ー
2.御座のまわりには二十四の座がある。
御座の上=>神
御座のまわり=>24人の長老
この24人の長老たちとは、旧約の12部族、新約の12使徒の代表であり、信じる聖徒たちを代表する聖徒たちの数であると言えるでしょう。四つの生き物の翼がそれぞれ六つある事から、6х4=24と考える事もできます(黙示録4:8)。すなわち、ここにいる24人の長老が、それぞれ4つの生き物の役割を行うということです。その役割とは、補佐役です。私たちも、普段「誰々の右腕」とか、「左の翼、右の翼」と、ある人の働きを補佐して代わりに働く人を指して用いる事があるでしょう。特に政治など、重要なポストの傍らで働く人たちを補佐官という名称で呼んでいます。
以上の事から、ここで示された24という数字は象徴的数字であると言えます。私たちも、霊の補佐官として信じる者の代表となり、御国の総会に出席する24人の長老の中に加えられるよう求めるべきでしょう。では、どうしたら長老に選ばれる事ができるのでしょうか。その為には、どのような資格が必要でしょうか。
1)24の長老は白い衣を身にまとう人達である。
「御座のまわりには二十四の座があって,二十四人の長老が白い衣を身にまとい,頭に金の冠をかぶって〜」 ー 黙示録4:4ー
「白い衣」とは、イエス・キリストの血潮によって罪赦された「あがない」を指しています。長老になる為には、イエス・キリストによる罪の赦しを受ける必要があるのです。黙示録7:14に「多くの群れ」が出てきます。彼らは「その衣を子羊の血で洗い、白くした」人たちであると記されています。本来値は赤い色であり、その血で洗ったのなら赤く染まると考えるのが自然です。しかし、聖書は明確に語っています、イエスキリストの血潮によって罪が赦され、白くされることを。
また、「白い衣」が、ただ罪赦される事だけを意味しているのではありません。更に、深い意味が含まれている事を私たちは知る事が出来ます。それはどのような意味でしょうか。
@ 信仰の貞操を守る者
A信仰の歩みの中で勝利を得る者。
このような人だけが白い衣を切る事が出来ます。イエス・キリストのあがないによる「白い衣」の上に更に「白い衣」を着る必要があるという事です。
「しかし,サルデスにはその衣を汚さない人が,數人いる.彼らは白い衣を着て,わたしと共に歩みを続けるであろう.彼らは,それにふさわしい者である.勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである.わたしは,その名をいのちの書から消すようなことを,決してしない.また,わたしの父と御使たちの前で,その名を言いあらわそう.」ー黙示録3:4〜5ー
サルデス教会とは、すなわち既にイエス様を信じる人々の集合体です。しかし、そこに、着ていた衣を汚す人がいます。しかし白い衣を汚さない人、信仰の貞操を守る人々がおり、その人たちこそ白い衣を身にまとうに相応しい人々であることを上記の御言葉は述べています。
イエス様を信じる者は、日々自分を打ちながら御言葉に従わなければなりません。そして、自分自身に勝利し、再び罪に染められないよう、心を守る必要があります。そのように自分に与えられた「白い衣」を守る者に、更に白い衣が与えられるのです。日々信仰の貞操を守り、イエス・キリストに在る白い衣を守って、新たに白い衣を着る皆様でありますように。
見よ、天の御座を(3)
黙示録4:1〜11
3. 金の冠をかぶる者
「また,御座のまわりには二十四の座があって,二十四人の長老が白い衣を身にまとい,頭に金の冠をかぶって,それらの座についていた。」 ー黙示録4:4ー
聖書に記されている「金の冠」は、二種類あります。
@ 王がかぶる冠=ダイハテン
A スポーツで使う月桂冠=ステパノス
上記の御言葉の中に使われている「冠」は、ステパノという言葉で表されています。では、この冠をかぶる24人の長老たちとは、どのような人々でしょうか。それは、信仰の競走において、日々勝利を手にする人です。パウロも、第一コリント9:24〜27節の中で信仰の競走を勧めています。
「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。」(第一コリント9:24〜27)
何事にも節制することの出来ない者は信仰の勝利を得ることが出来ません。節制してこそ「金の冠」をかぶることが出来るのです。第1コリント9:27に「〜自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。」と記されています。この「打ち叩いて」は原語で「自分の体にあざが出来るほど打つ」という意味です。
パウロは素晴らしい信仰を持っていました。それは常にこのような姿勢で信仰生活を行っていたからこそ得られた栄冠です。私たちも、日々罪との戦いにおいて自分を打ちたたきつつ勝利を治め、信仰の道程を最後まで走り抜くなら、必ずや金の冠を授かることでしょう。
見よ、天の御座を!(4)
黙示録4:1〜11
4. 金の冠を神の前に投げ出すべき
「24人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを尾上、彼らの冠を御座の前に、投げ出して言った、」(ヨハネの黙示録4:10)
金の冠を「御座のまえに投げ出した」のは何故でしょうか?
それは、神様の御前に出た時、自分自身の姿が如何に小さな者であるかを知り、恥ずかしくなったからです。それまで自分なりに一生懸命に信仰の道を走り抜いて、24人の長老に加えられたという自負心があります。しかし、聖なる神様の御姿を目にした時、自分の姿の惨めさが明らかにされます。
その時、彼ら24人の長老たちは使徒パウロが「神の惠みによって、わたしは今日あるを得ているのである。」と告白したように、「確かにわたしはこの冠を主から与ったが、真にこの冠を受けるべきはわたしたではく、神様、あなたです!どうか、この冠をお受け下さい」と、神様に栄光を帰したからです。
24人の長老たちは、このようにすべてにおいて神に栄光を帰す人々です。私たちも、日々の歩みの中で「神の惠みによって、わたしは今日あるを得ているのである.」という信仰の告白を行うべきではないでしょうか。
イスカリオデのユダは、イエス様を裏切った事を後悔した後、もらったお金を返し、自ら首を吊って自殺をしました(マタイ27:3〜5)。しかし、ペテロは3度もイエス様を否認しました。この事だけを見るならば、ペテロよりも、ユダのほうがましのように思います。しかし、神様はユダの死を容認し、ペテロは信仰の立て直して用いられました。この二人の違いは一体何なのでしょうか。
それはユダの信仰は自らの信仰だったからです。「わたしが今日あるのは神の恵みではなく、自分の恵みである」という信仰です。だからこそ彼は自ら悔い改め、自ら命を落としたのです。悔い改めることも、信仰生活をすることも「自分がする」のではなく、御霊様が自分の中で働い下さるからこそ出来るという事を知らなければなりません。
これからは「自分が信仰の歩みをしている」ではなく、「すべてが神様によって成させて頂いている」という悟りを頂いて、冠を神様の前に投げ出す人になりますように。そして、すべてにおいて、人を裁いたり、判断したり、定める事なく、「わたしが今日あるを得ているのは神の恵みである」という告白が出来るわたしたちでありますように祈ります。
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