「阿漕(あこぎ)」の言葉の由来

 阿漕教会から徒歩で約10分ほどで「阿漕浦海岸」に行くことができます。この「阿漕浦」から「阿漕教会」の名前が付けられました。
 「阿漕」という言葉は、「欲深い」とか「非常にずうずうしいやり方で、ぼろもうけをねらう」などの意味があるようですが、そのいわれは、とても意味深いものがあります。

 津市は昔、安濃津(あのつ)といっていました。安=ア、濃=コイ、コキ から「アコギ」と転化させたのが「阿漕」の地名となった、という説が伝えられています。
 阿漕は津市の発祥の地域であって、中世時代まで盛んな漁業・舟運の町として発展をしていたと言われています。室町時代の紀行文に「『日本三津ノ一』と呼ぶ港である…」と記されていることや、阿漕教会の隣接した北側にある県立高校の場所から大量の土器が発掘されたことからもそのことを示しています。
 しかしながら、阿漕、つまり昔の安濃津は、室町時代の明応7年(1498)に大地震があり、繁栄していた港、市街地が一気に荒野となってしまいました。こうしたことから、津の中心部は現在の橋内地域に移転をして復興をしましたが、もとの阿漕の地は田園地帯となって、明治時代まで昔の繁栄の姿をとりもどすことはありませんでした。
 当時の盛んな漁業を思わせるものに、「御伽草子」に「阿漕の鰯売り」という話があります。平安時代以後の阿漕は、伊勢神宮の御厨となって、漁獲物を神宮へ奉納していました。

・伊勢の海の阿漕か浦に引網の度かさならはあらはれにけり。
・いかにせん阿漕ケ浦のうらみても度重られはかわる契りを。

 などの和歌が残されているように、伊勢神宮と阿漕の漁民の間に、いざこざが絶えなかったことを伝えています。これはある期間の漁獲を献納であったのですが、阿漕の人々には、生活上、死活問題であり、 「度かさならは あらはれにけり」で、 処罰をうけたらしいのです。 
 こういうことから、「阿漕平治物語」が江戸時代にできたようです。室町時代末期にも「謡曲・阿漕」があったようですが、まだ、「阿漕平治」という特定の人物をさしていません。江戸時代中期になって浄瑠璃(義大夫)の「勢州阿漕浦・鈴鹿合戦、平治住家の段」ができ、それを「芝居」に仕組み、ここに「阿漕平治」の名を登場させたのです。

この話のあらすじは・・・
 阿漕平治は母が病気で寝込んでいるため、伊勢神宮へ奉納するための漁場と知りつつ、病によく効くという「矢柄」という魚を密漁してしまいます。これで母の病気を癒せると嬉しがってわが家に帰ったのですが、あまりの嬉しさに浜辺へ笠を忘れてきてしまいます。そこへ、役人が来てその笠を見つけ、「笠に平治と書いてあるのが証拠だぞ」、と平治を引き立てて処刑をしてしまいました。母の病を思っての孝行も水の泡。平治は簀巻きにせられて、海へ投げ込まれてしまったのです。

 それで「阿漕平治は欲深い」(阿漕=欲深い)という言葉だけが残ってしまいました。しかし、地元では、「阿漕平次は親孝行の息子」として尊敬されているのです。