阿漕教会の歴史

 阿漕教会は、日本基督教団に属するキリスト教会です。
日本基督教団は、プロテスタント教会の諸教派が合同して設立されました。
教会数としては、日本全国に1700以上を持つ、プロテスタントでは国内最大のキリスト教会です。

 阿漕教会は、1953年(昭和28年)に、日本基督教団の教会として創立しました。

 しかしながら、それ以前の歴史は古く、
アメリカのカンバーランド長老教会よりヘール宣教師が津の伝道を始められたことがきっかけとなり、
さらに、1912年(大正元年)、阿漕の地に教会堂・宣教師館を建てたことによって本格的な伝道が始まってゆきました。

1926年10月5日、日本基督教会「阿漕講義所」として認められ。伝道を開始。
1927年(昭和2年)6月2日、「阿漕伝道教会」として旧日本基督教会浪速中会の1教会としての歩みを始めることになりました。

 現在、日本基督教団の教会として、三重県、中部地方、そして日本全国の諸教会とのつながりの中で、
イエス・キリストの福音を宣べ伝えています。  


<阿漕教会の歴史(伝道開始〜第2次世界大戦直後)>

1909年(明治42)弓之町に大きな家を借りて「弓之町講義所」(本町)を開く。
 これが阿漕教会の伝道開始となる。

 (津市史によると、阿漕教会が、「1898年(明治31)古河に設立」とあるが、これもなんらか関係している。)

 *弓之町講義所
   カンバーランド長老教会の
ADヘール宣教師がこの津を三重県の宣教の拠点として選び、
   
GG ハドソン宣教師が津市古河の通称「チョウさん」という藤堂藩家老屋敷で始められたであろう講義所。

 *人のヘール宣教師
 兄A.D.ヘール宣教師と弟J.B.ヘール宣教師は、相携えて来日。
 二人ともカンバーランド長老基督教会の宣教師。
 カンバーランド長老基督教会は外国伝道に熱心な教派で、

 1877
年(明治10)に弟が、翌1878年(明治11)に兄が来日。
 大阪居留地に住み、
187812月西区南堀江町に講義所(後の大阪第一長老教会、大阪西教会)を開いて伝道を開始。
 大阪近辺、紀州、伊勢に大きな伝道の足跡を残した。
 特に兄の
A.D.ヘールは、1893年(明治26)に紀州伝道を、弟に任せて、
 自分は大阪郊外の富田林、河内長野、八尾から三重県の四日市、上野、津、山田に伝道。

 長男
J.E.ヘール宣教師は平尾重太郎牧師と阿漕教会の創設に関わる。
 J.E.ヘールは5歳のとき両親に伴われて来日、そして、両親の最初の休暇の時、アメリカに帰った。
 テネシー州にあるカンバーランド大学で神学の課程を習得、
 さらに、シカゴ大学で大学院を終了後、
 テネシー州、ペンシルバニア州の各地で伝道し、
 伝道局から宣教師として
1900年(明治33)再び来日、大阪に着いた。
 大阪で各地を伝道し、
2年後津の伝道を命じられ、三重県全体の教会を管理し、
 有望な宣教師として嘱望されていた。
 しかし、突然予期せぬ事件が起こった。
 
A.D.ヘール宣教師夫妻とJ.E.ヘール夫妻とは1911年(明治44)夏、避暑のため軽井沢に来ていた。
 
814日、団欒の夕食を共にし、息子のジョンは「浅間山に登る」と元気に出かけていった。
 その翌日、浅間山の大噴火、爆発により遭難、ジョンの友人たちは(この中に平尾重太郎牧師もいた)この一家にとって最愛の息子であり夫であるジョンの遺体を担ぎこんだのであった。
 その時、A.D.ヘールは悲しみの中で「これは神のみ心であり、神の御業のあらわれである」といわれたそうである。
 
A.D.ヘール宣教師はこれを記念して、1912年(大正元年)「阿漕キリスト教会館、宣教師記念館」通称「ヘール記念館」を建てた。
 現在、阿漕教会教会堂の脇に「1912」と刻まれた礎石が残っている。

宣教師館および教会堂の設計図は、教会堂設計では有名なヴォーリスがアメリカから持ってきたものであるといわれている。


 ↑ ヘール一族 1905年
 左からJ.E.ヘール夫人、J.E.ヘール、J.E.ヘール息子、A.D.ヘール、ホキエ夫人、A.D.ヘール夫人

← この写真は、現教会堂の脇にある
   宣教師記念館の礎石です。
  

 右「故ジョン・イ・ヘール氏 記念館 西暦千九百十二年」
 左「IN MEMORY OF REV.JOHN.E.HAIL 1912」
 と刻まれている。






















 *平尾重太郎牧師
 
A.D、J.Bの両ヘール兄弟が明治の初期、相次いで来日して、大阪で伝道を開始した頃、
 入信し、大阪西教会の長老となり、その後伝道者になった。
 小学校に勤めていたが、
43才その職を捨てて宣教師A.D.ヘールの個人的なヘルパーとして来津、
 A.D.ヘールの長男のJ.E.ヘール宣教師の開拓伝道の協力者となる。
 
J.E.ヘール宣教師は、三重県全体の伝道教会・伝道所の束ねの役に忙しく、
 伝道はもっぱら平尾重太郎牧師が引き受けた。
 出発はまず子どもへの伝道であった。


 ↑ 1955年 平尾重太郎牧師記念会(後方の建物は県立女学校(現在の「みえ夢学園」))


1924年(大正13)に柳山に拠点を移し、ヘール宣教師館併設の会堂において、
「柳山講義所」として伝道を行う。


1925年(大正14)献堂式を挙行、翌1926年(大正15)「阿漕講義所」と名を変更。

1927年(昭和21025日、日本基督教会「阿漕伝道教会」が発足した。
 (資料第51回浪花中会記録昭和3年(1928411日記録抜粋)
当時の教勢は礼拝出席朝夕あわせて、
51名、
日曜学校の生徒数
485名と浪花中会のトップを占め、大人の受洗者20名。


1933年(昭和8429日「阿漕伝道教会」が、「日本基督教会阿漕教会」として独立教会となる。
 山田、亀山に次ぐ三重県で三番目の教会が発足。
 最も力を注いだのは児童伝道であり、特色はどこまでも地域伝道であった。
 こうして阿漕教会は
1946年(昭和21)津教会と合同するまで「独立教会」となり、
 平尾重太郎牧師によって創設され、教会形成がなされた。
 
1929年(昭和4)の教勢は日曜学校平均出席502名と伝道教会中第1位であり、
 大人受洗者数も
20名と伝道教会中では首位を占めていた。 (「父と阿漕教会」平尾信一著)
 さらにこれが津のボーイスカウト発祥のきっかけとなる。
 平尾重太郎牧師も正式に「牧師」として就任



戦時下の阿漕教会>
1941年(昭和16年)東京青山学院において「皇紀2600年奉祝全国基督信徒大会」が開かれ、
 このときに決議によってプロテスタント教会の
33教派が合同、政府の国策に添う形で日本基督教団が発足。

 *ボーベンカーク宣教師
 1932年(昭和7)〜1941年(昭和16)津には9年あまり駐在。
 特に農村伝道に力を入れる。
 ある時期、芸濃町椋本に農家の離れを借りて住んだことがあり、
 これが後に椋本伝道所の端所ともなった。



↑この写真は1942年(昭和17)1月13日、ボーベンカーク宣教師送別会(会堂において)
 アメリカとの関係悪化に伴い、宣教師一家はアメリカへ強制送還されることとなった。
 写真の背面は阿漕教会礼拝堂正面。
 前列左からボーベンカーク宣教師、息子、娘、夫人、そして平尾重太郎牧師。


◇1942年(昭和17年)小島嘉兵衛牧師が阿漕教会兼任として津教会に赴任。
 当時玉置町の牧師館が老朽化しており阿漕教会の牧師館に住む。
 午前は津教会での礼拝、午後は阿漕教会。
 津教会の礼拝出席は
10名程度、阿漕教会は戦争終了まで皆無という状態だった。
 阿漕教会の隣にあった宣教師館は敵産として没収、海軍人事部が接収。
 教会堂は「愛知航空」の事務所として徴用。
 そのような歴史をたどりながらも阿漕教会は海軍人事部の消火活動のおかげで、
 会堂、牧師館、宣教師館とともに紙一重のところで焼失を免れた。

 戦後も津の町でただひとつ焼け残った阿漕教会に集まって礼拝が続けられた。


 *チャプマン宣教師
 1947年(昭和22)〜1959年(昭和34)夫妻は北米長老教会宣教師として新宮市に定住。
 広く紀南地方を伝道したが、終戦後新宮時代の協力者河村斉美牧師の松阪教会赴任と前後して津に来任。
 
1959年日本を去るまで広く三重県下を伝道。
 合同後の阿漕の教会堂を再びミッションの手で買取り、
1953年阿漕キリスト教センターを創設した。



 ↑ 旧宣教師館(北側から1952年撮影)    ↑ 旧宣教師館(東側から1952年撮影)


↑ 現在の宣教師館(2012年撮影)


 ↑ 礼拝堂 1952年撮影