2019年10月1日、玄武書房より全国発売されました。アマゾンにて購入いただけます。画像をクリックすると購入ページに飛びます。
以下、礼拝メッセージの要約と共に音声もお聴き頂けます。
2025年4月13日礼拝メッセージ マタイ23:23〜28 「本質を見る」 メッセージは13分半頃からです。
2025年4月6日礼拝メッセージ マタイ23:16〜22 「目の見えぬ人たち」 メッセージは9分半過ぎからです。
誓いについての教えだが、結論は? 結局、どうしろという事なのか。確かに主は「決して誓うな」と言われた(マタイ5:34〜37)。しかし、それは「もし行いの正しさで義を立てようと言うなら」という文脈での話だ。だから「誓うな」は「完全である為」なのである。では、完全である為には誓ってはいけないのは何故か。それは、誓いを100%果たせる人はいないからだ。誓う気持ちは嘘ではなく、本気で誓ったとしても、人間にはどうしようもない事(不可抗力)があるゆえに誓いを果たせない場合も起きるのだ。だから、完全である為には「決して誓わない」しかないのである。しかし私達は、完全な人になる事など目指さないのだから、誓っても構わない。本気で、その約束・誓いをしたいのなら。ただ、やむを得ない事情で誓いを果たせない事もある。それは不完全な(罪ある)人間だからだ。それを認めて救いを求めればいい。それが福音なのだから。
所が、律法学者・パリサイ人達は、誓いを無効にする方法を勝手に編み出していた。それは、誓いを果たせなかった時の言い逃れの為だ。つまり、本来なら「誓いを果たせなくて済みません」と言うべき所を「あの誓いは無効な誓いだから果たせなくてもいいのだ」と開き直った。それが「神殿を指して誓ったのなら何でもない」等だ。ズルい。不誠実だ。それなら何の為に誓ったのだ。初めから無効な誓いをするのは、嘘をついてるのと同じではないか。主はそれを責めた。結局、主の教えは「誓いに無効な誓いなど無い」「誓いは全て有効だ」であって、「誓うな」ではない。とは言え、誓いを100%果たせないのが人間だから、誰が何と言おうと完全を目指すと言う人には「ならば決して誓うな」しか無いのである。それを分からず、文字通りに「誓うな」と教えるなら「目の見えぬ手引き共」と言われるかもしれない。
キリストについての預言で、イザヤ書に「盲人の目は開かれる」とあるとルカ4:18は言うが、元々は「囚人には釈放を告げ」だ(イザヤ61:1)。脱獄は正義ではないし、キリストのする事でもない。だからこれは「霊的に囚われている人を解放する」それがキリストだという事である。私達もキリストの弟子として霊的な目を開いて頂こう。
2025年3月30日礼拝メッセージ マタイ23:14〜15 「御国の子」 メッセージは9分頃からです。
他人の(それも、やもめの)家を食い潰すとは言語道断だが、そのくせ見栄の為に長い祈りをする…つまり、やっている事は詐欺・強盗と似た様なものでありながら、それを信仰の名の下に正当化する…そこが忌わしいのである。人一倍酷い罰を受ける、と主は言われる。
献金・伝道・祈り…その宗教的行為は、誰の為なのか。「神の為に…」とは言うが、実は自分の為になってしまっていないか。そもそも、神は人に何かしてもらう必要が無い。神に足りないものは無いのだ。人間が神の役に立てる事は何も無いと言える。伝道すらも、わざわざ人間に頼んでやってもらわなくても、神がその気になれば全能の力で強制的に救う事も出来る。だから極端に言えば、伝道は神の為ではなく、人間の為(愛する人に救われて欲しい…という人間の願い)の為なのだ。だから神は、人間の為にと思って「福音を宣べ伝えよ」と言うのである。決して、神の勢力拡大の為などではない。勿論、人が救われるのを神は喜ぶのだが。
ダイレクトに神の為になる(=神が人に求める)もの、それは、賛美と礼拝である。何故なら、それらは自分でする事ではないからだ。そして礼拝は日曜の朝だけではない。生きる事・人生が礼拝となるのである(ローマ12:1)。すなわち、信仰による希望・天国の平安・喜びに満ちた生き様…それらが神の素晴らしさを表す賛美と礼拝なのである。その点、律法学者・パリサイ人達の生き方は全く礼拝となっていないどころか、神の名にドロを塗るようなものだ。全く忌わしい。
もう一つ、必死で改宗者を作る事も。問題は、改宗させた人(伝道者)の信仰が純粋かどうかだ。曲がった信仰・教えを伝えて改宗させたのなら、改宗した人の信仰も曲がったものとなってしまう。たとえクリスチャンが増えても、救いの確信の無いクリスチャン(沢山いるらしいが)なら、それを神が喜ぶだろうか。全ての人に福音を…と主は言われたが、天国に行けないクリスチャンを増やせとは言われていない。私達は、そんな教会員を作るのではなく、キリストの本当の弟子を作りたい。その為には、まず自分からだ。自分自身が本物の信仰を持って、それを伝えれば、御国の子を作る者となれる。
2025年3月23日礼拝メッセージ マタイ23:13 「憧れの…」 メッセージは9分頃からです。
律法学者・パリサイ人達への批判の雨アラレ、その第一弾。何と、人々が天国に入るのを妨害していると言う。他ならぬ宗教的指導者達がである。忌わしい。理由は、彼らは「自分も入らず」…すなわち、天国に入る気が無いのである。例えば、地獄があると本気で信じていない人ほど「地獄に落ちても構わない」と言う。同様に、天国を本気で信じていないから「天国に入ろう」という気にならないのである。それでも宗教的指導者なのだから嘆かわしい。勿論「天国に入りたくない」と言う人を無理強いする事は出来ないが、入ろうとしている人の邪魔をするのは困りものだ。主は「忌わしい」と言われた。
聖書は「地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」と言う(コロサイ3:2)。本当の命を得る為である。地上の命は、幾ら求めても有限だ。なのに、もし何かが、クリスチャンの心・思いを地上の事(世の欲・繁栄)に向けさせるなら、それは言わば、神から遠ざけているという事になる。一体、何がクリスチャンを神から遠ざけるのか。一つは「地上に執着する思い」だろう。それが「天国への興味」を失わせる力として働く。例えば、信仰のレースを走り抜いて、やっと天国…という時になっても「生き返り」を求めるなら、それは天国より地上の方が良いという事かもしれない。忘れてはならない。クリスチャンにとって死は敗北ではないという事を。イエスを神の子と信じる者は世に勝つ(罪が赦されて救われる=天国に入る)のだ(Tヨハネ5:4)。信仰は、この世の勝ち組に入る事ではないのである。主は「片足を失っても天国に入る方が良い」(マルコ9:45)と言われた。だから、何も失わない(豊かさに満ちる)のが信仰であるかの様な風潮に惑わされてはいけないのである。
今は終わりの時代である事は間違いが無い。キリスト教も、命の無い信仰かご利益信仰かに二極化されて行くだろう。私達は、天国への興味を失わない様にしたい。いつか必ず、その時は来るのだから、避けるのではなく、向かい合わなければならない。天国にこそ、全ての解決がある(病、苦しみ、悲しみ、死からの解放がある)のだから。その天国への思いを日々強め、保ち続けて歩もう。
2025年3月16日礼拝メッセージ マタイ23*1〜12 「ひざをかがめて」 メッセージは7分過ぎからです。
幾つかの戒め(禁止事項)である。まずは「律法学者・パリサイ人達は、言うだけで実行しないから真似するな」(3)。それは、葉っぱだけ茂って実の無いイチジクであって、裁かれる。4節も同様に、人には厳しい律法主義だ。それで主は言われた。「彼らは人に見せる為にしている」と(5)。つまり「自らを敬虔な信仰者と装う為」だ。続いて「先生と呼ばれてはいけない」(6〜8)である。それを文字通りに実行する人がいるが、ならば9節も鵜呑みにして、父親を「我らの父」と呼ぶ兄弟を裁かなければならない。文字通りに信じるならば、だ。
先生と呼ばれてはいけない理由は、教師はただ一人だけだからだ。では何故、主は教会に教師を立てたのか(エペソ4:11)。教師は一人だけではないではないか。そう、たった一人の教師とはキリストの事だ。主なるキリストはただ一人なのである。だから「先生と呼ばれるな」という戒めの意味は「我こそは主なり…という振る舞いをするな」という事なのだ。「みんな兄弟なのだから」という事である。律法学者・パリサイ人達は、自らが主であるかの様な振る舞いをしていた(4〜7)から批判しているのである。必然的に9節も同じ趣旨で「地上の誰かを神に祭り上げるな」…要は「誰をも神格化するな」という事だ。だから「師(指導者)と呼ばれてはいけない」(10)も「指導者(信仰の創始者であり完成者)はキリストだけ」だからなのである。所が、律法学者・パリサイ人達は「我こそ信仰の完成者なり(律法による義を達成した)」と思い上がっていたがゆえの戒めなのである。
そういう訳で、3〜10節の戒めを、文字通りに行おうというのは、はなはだ見当外れ、的外れなのである。だから主は「仕えなさい」と言われた(11)。指導者にとって「仕える」とは「聖書をきちんと教える」事だ。その為に「這いつくばって、身を粉にして働け」というのが12節だ。それが文脈による理解である。
これらの事から私達が学ぶのは、律法主義に気を付けるべき事である。御言葉を使って人を攻撃してはいけない。御言葉は、人を救いに導き、魂に安らぎを与える為のものだ。そんなクリスチャン・主の弟子になりたい。その為に腰をかがめて、膝を折って祈ろう。
2025年3月9日礼拝メッセージ マタイ22:41〜46 「もはや誰も」 メッセージは9分過ぎからです。
主からの問いかけ(キリストを何故「ダビデの子」と呼ぶのか=呼ぶな)に対して誰も一言も答える事が出来ず、それ以来もはや誰も質問しなくなった。それ程の圧倒的な問いかけだったのである。しかし病人が「ダビデの子よ、憐れんで下さい」と叫べば、主は嫌がるどころか、それに応えて癒しを成した。それは、ご自分(キリスト)をダビデの子と認めているのではないか。ならば何故、否定するのか。
理解の鍵は「ダビデの子」とは何なのか、だ。事実、主はダビデの家系に生まれたが、人々が「ダビデの子」に期待していたのは、ダビデの時代の栄光のイスラエル王国の再建だった。すなわち「ダビデの子」という呼び名は、ダビデの様な政治的・軍事的な王を意味するのである。だから主は「私はそんな王ではない。キリストはダビデの子ではない」と言われたのである。しかし、人々のキリストへの期待は、あくまでも政治的革命家である。それ故に最終的には人々は失望し、キリストを十字架につけた。そうして、神の愛・恵み・救い…を受け損ねてしまったのである。悲しむべき事だ。
クリスチャンも、キリストに何を期待するかが問題だ。もし、地上の欲得を期待するなら、イスラエルと同じ結末を迎える事になるかもしれない。それでは信仰の意義を見失っていると言わざるを得ない。つまり、何の為に信じるのか、何の為のクリスチャンなのか、である。教養を身に着ける為や人間として成長する為などではない。天国に入る為だ。地上での恵み・祝福は、言わばオマケなのであって、本末転倒してはいけない。世にあっては患難がある…それが基本だ。その患難を全て取り除く事(健康と繁栄)が信仰なのではないのである。
世の光になるという事も、善人になる事ではない。闇の世にあって、「真実な天国への道」を照らし示す…それが世の光だ。更に「何が救いか」にも光を当てる。お金ではない、健康なら救われるのではない。辛口だが味のある塩として「本当の救い」を示すのである。同時に、信仰の腐敗を防ぐ(キリストは「ダビデの子」ではあっても、この世の王ではない事を知らしめる=キリストに対する期待を間違えないようにする)のも世の光・地の塩なのである。
2025年3月2日礼拝メッセージ マタイ22:34〜40 「隣人を…」 メッセージは8分頃からです。
多忙を極めたため、この回の要約はありません。ご了承ください。
2025年2月23日礼拝メッセージ Uコリント13:7〜13 「終わりに、言います」 メッセージは7分頃からです。
コリント教会へのパウロの最後のメッセージである。まず「喜びなさい」(11)。これが別訳では「さようなら」だ。つまり、別れの挨拶として「救いの喜びを失わない様にね」と言葉をかけている訳である。
問題は次の「完全な者になりなさい」だ。やはり主が言われた通り「父なる神が完全であると同じ様に完全であれ」(マタイ5:48)という事なのだろうか。確かにパウロは教会に対して「どんな悪も行わない様に祈る」(7)と言うが、それは父親的な立場としては当然だろう。正しい行いをして欲しいと願う…それが人情だ。では「正しい行い」とは? 8節との繋がりから考えるに、それは「真理に逆らわない」という事であろう。必ずしも、行いの正しさを追及するのではない。更に「完全な者になる事を祈っています」(9)は、直訳では「完成の為に…」だ。クリスチャンの目指す「完成」、それは「救いの完成」だ。パウロは、その為(教会が救いの完成に至る様)に祈っていると言うのである。だから、厳しい処罰(除名等)を受けて脱落する事の無い様にと予め言うのである(10)。決して、完全な人間になる事を願っているのではない。そして、続くのが11節「完全な者になりなさい」だ。文脈から理解すれば、これは「救いの完成を得る者となれ」…つまり「純粋な信仰を保って天国に入れ」という事だ(カタルティゾーという原語からもそう理解出来る)。だから「完全な人になって天国に入ろう」等と考えてはいけない。それは純粋な信仰ではないのである。
加えてパウロは「慰めを受けなさい」と言う。優しい言葉をかけてもらえという事ではない。罪の体を脱ぎ去って天国で新しい体が与えられる…それがクリスチャンの受ける慰めだ。その慰めを受ける為に「救いの完成を得なさい」と言うのである。そして、それが目標だという点において「一つ心になれ」なのだ。次の「平和を保ちなさい」も、神との平和の事である。「そうすれば神が共にいて下さる」と続くのだから。
以上がパウロの遺言的メッセージだ。一番重要な(ゆえに何度も語ったけど)最後にもう一度(言わずにはおれずに)語るのである。私達も天国で慰めを受ける事の出来る様に、純粋な信仰を守り続けよう。
2025年2月16日礼拝メッセージ マタイ22:23〜33 「希望と力」 メッセージは7分過ぎからです。
夫である7人兄弟の長男が死んだ後、律法に従って弟と結婚したが、その弟も死に、またその弟も…そして、ついには7人共同じ様になり、最後に女も死んだら、復活の際には、その女は7人の内誰の妻になるのか…という、復活を信じていないサドカイ人ならではの、見事な難問である。だが主はそれを「思い違いだ」と一蹴された。そして「復活の時には、人はめとりも嫁ぎもしない」と説明されたのだが、「復活の時」とは、新天新地に入った時だ。すなわち、天国では結婚というものは無い、という事である。天国は(御使い達の様に)生まれるとか死ぬとかの無い、永遠の世界なのだ。つまり、復活というものは、この世のシステムの中に生き返るのではないという事である。人間の世界から、神の世界・システムへと、生きる世界が変わるのだ。なのに復活後(天国で)も、地上の結婚・家族というシステムがあると考える事が「思い違い」なのであって、それは「聖書も神の力も知らないからだ」と主は言われた(23〜30)。更に「神は生きている者の神だ」とも(31〜32)。つまり、アブラハムもイサク、ヤコブも生きている(永遠の命を生きる者として、神の御手の中にある)という事だ。そんな彼らに新しい体が与えられる…それが復活なのである。決して、以前の体(環境)が再現されるのではないのだ。
結局、復活は有ると言うパリサイ人も、無いと言うサドカイ人も、どちらも「この世の延長的な復活」を考えていたのであり、群衆も、どちらかが正しいはずだと思っていた。しかし主は、そのどちらをも「思い違い。聖書も神の力も知らないからだ」と否定されたので、群衆は驚いた。信じていた事が、間違いだったと知ったのだ。その衝撃はどれ程であろうか。
私達も、天国への旅を歩む者として、聖書を知らないでいる訳にはいかない。聖書を知らないまま天国への旅を続けるなら、必ず迷う。勿論、聖書の全てを知るのは難しいだろうけれども、少しでも多く、知る方が良いし、悟りを求めるべきである。その様にして、知れば知る程、天国への希望は揺るがないものとなってゆくのだから。そして、その希望が、信仰が、地上を生きる力となるのだ。
2025年2月9日礼拝メッセージ Uコリント12:11〜13:6 「生ける神の宮」 メッセージは11分半頃からです。
恨み節、嫌味、弁明に満ちているが、全ては教会を築き上げる為だとパウロは言う(11〜19)。しかしパウロには「恐れている事がある」。「教会が悔い改めて純粋な信仰に留まってくれるように、という期待が外れてしまう事」を恐れているのだ。もし、そうなったら、それは指導者としてのパウロの恥であり、神に辱められる(20〜21)。
そこでパウロは、コリントに行く前に(次が3回目だから、と)前もって警告を与える。3回目の訪問で、教会にまだ依然として罪があるのを確認したら、今度は容赦しない、と(13:1〜2)。その厳しさの理由は、教会が「パウロが使徒だという証拠を求めている」言い換えれば「パウロを使徒として認めていない」からだ。逆に、偽使徒は受け入れているのに、である。キリストの権威を何だと思っているのか…とパウロは言いたいのだろう(3〜4)。それで「処罰されないで済むかどうか、信仰を吟味せよ」「仮にもクリスチャンでしょ? キリストが内住してるでしょ?」「但し、キリストが内住してない(クリスチャンとして不適格)なら別だが」と詰め寄る(5)。
コリント教会とパウロが、ここまで拗れた理由、それは教会が偽使徒達に騙されたからである。教会の全ては、聖書の教えに基づいているものなのに、その土台(聖書の教え)が腐敗したら、建物は崩れる。教えが曲がったら、全てが曲がってしまうのだ。だから、偽りの教えから離れなければならない。それが聖めである。そして、聖くなければ誰も神を見る(天国に入る)事は出来ない(ヘブル12:14)と聖書は教える。その、聖めを拒む事は、聖霊を与えて下さる神を拒む事だ(Tテサロニケ4:8)とも。そして、それは同時に、キリストの内住を否定する事(クリスチャンとして不適格)なのだ。しかし、と6節。キリストは内住している。それをコリント教会が悟る事をパウロは望む。つまり、自らが生ける神の宮である事を悟って、霊的な聖めを求めよ、という事なのである。
神の宮が霊的にけがれていていいはずが無い。偽りの教えという偶像の様なものから離れる事が必要だ。御霊によって聖められる(分離される)道を歩み続けよう。
2025年2月2日礼拝メッセージ マタイ22:15〜22 「カイザルか、神か」 メッセージは11分半からです。
「神のものは神に」とは、どういう意味か。ある人は、これを「献金の教え」とする。別の人は「クリスチャンの社会的責任の教え」として、税金は払うべき、法律は守るべき、国の方針に従うべきと語る。加えて、それ以外の考え方もあって、意見が分かれる所だ。
しかし、その主の言葉を聞いて「彼ら(パリサイ人の弟子とヘロデ党の者達)」は、驚嘆して立ち去ったのである。意見が分かれる所か、納税反対派も賛成派も全員が(「神のものは神に」とはどういう意味かを理解して)退散するしかない程の、説得力のある言葉だったのだ。なのに何故、キリスト教では解釈・意見が割れるのだろう。
さて、この論争の舞台はどこか。それは神殿(宮)である(21:23〜)。つまり「彼ら」は、神殿にデナリ貨幣(神格化されたカイザルの肖像=偶像)を持ち込んでいたという事だ。パリサイ派の論理で言えば、それは既に神への裏切り・律法違反である。しかもそこには「神であり大祭司」という銘が打ってあった。だから主は「神であり大祭司って、それは誰の銘か」と聞かれたのである。それに対して「カイザルです」と答えたという事は「カイザルこそ神・大祭司だ」と言う様なものだ。その銘が刻まれた貨幣を神殿に堂々と持ち込んでいるのだから。つまり、これは「誰が神か」という問題なのだ。もしカイザルが神だと思うなら、カイザルに返せ。もし神が神だと思うなら神に返せという事なのである。
納税賛成派のヘロデ党も、ユダヤ人であるが故、カイザルが神だ(カイザルに返せ)とは言えない。反対派のパリサイ人は、神殿に偶像を持ち込んでいる事を突かれて黙り込んだ。反論の余地も疑問も与えない、有無を言わせぬ圧倒的なメッセージだ。これを「献金の教え」「社会的責任の教え」とするのは見当外れである。
とは言え、私達は社会人として税金は納めるし法律は守る。しかし決して、この世に仕えているのではない。問題は「誰が神か」だ。そして、献金の問題ではなく、誰に仕えるのか、という問題なのである。
私達が仕えるのは、真の神イエス・キリストである。その唯一真の神イエス・キリストを、私の神として仕えよう。
2025年1月26日礼拝メッセージ Uコリント12:1〜10 「何を誇るのか」 メッセージは14分頃からです。
興味をそそるのは、まず神秘体験(2〜4)。第3の天とは? パラダイスとは? リアルな天国・新天新地は未だ現れていないが、パウロはそれを幻で見たという事か。それとも実体験か。ヒントとなるのは、主が十字架で一人の犯罪人に「あなたは今日、私と共にパラダイスにいる」と言われた事だ。勿論、新天新地ではない。「私と共に…いる」つまり、神が共にいる場所(神の住む世界)それがパラダイスであり、それはある意味、天国だと言えるだろう。そこでパウロは不思議な言葉を聞いた。そんな凄い体験をした人を誇る…と言うが、それは神秘体験を求めなさいという事ではない。パウロが神秘体験をあえて語るのは、肉的な事を誇って威張っていた偽使徒達を打ち負かす(どうせなら霊的な事を誇れ、と諭す)為である。だから神秘体験を重視する必要は無いし、体験した人を過大視するのも良くない(5〜6)。
次に、肉体の棘・病だ(7〜9)。3回祈ったけど癒されなかった。祈る回数が足りないのか、不信仰なのか。いや、パウロが高ぶらない様にと、神がサタンを用いて打ったのだと言う。すると、何でもかんでも病人に「サタンよ去れ!」と叫ぶのはお門違いと言うものだろう。確かに、神の憐みによって癒されるケースはあるだろうが、祈ればどんな病も治る…は行き過ぎだ。しかも、治らない場合に9節を引き合いに出して言い逃れするのはご都合主義だ。パウロは、それを直接神から聞いたのだ。聖書の完結していない時代だったからだ。今は、聖書は完結している(御心は全て出揃った)のだから「聖書に従う」が基本だ。それ以外(「主は言われる…」等)は危険だ。
とにかく、人間は弱い。だからこそ、そこに神の力は働く。だからと言って、殊更に弱くなる必要は無い。強くなれるならなるに越した事は無い。しかし人間であるという事自体が弱さなのである。肉の性質、罪があり、死ぬ…それらが「弱さ」だ。だが、そこに神の力が働く。赦し、救い、命だ。それが9節の御言葉の神髄である。ですから、と10節。究極は殉教にも甘んじたパウロ。そこに、復活の力が完全に現れるのである。人生の苦難も、そこに神の助け・慰めが現わされる事を求めよう。誇るなら、弱さに現わされる神の力を、だ。
2025年1月19日礼拝メッセージ マタイ22:1〜14 「…多いが、…少ない」 メッセージは15分からです。
招かれていた人々とはイスラエルだが、結局は招きを断ったので焼き滅ぼされた(1〜7)。だが、それが結論ではない。話はまだ続く。次は、救いが異邦人に移る事を表す話だ(8〜10)。但し「皆、宴会に招け」は異邦人なら良い人でも悪い人でも救われるという事ではない。福音(救いへの招き)を全ての人に…という事だ。所が、その福音の招きに応じて集まった人の中に、宴会場(天国だろう)から追い出された人がいる。礼服(義の衣だろう)を着ていなかったからだ。つまり、罪が赦されていないのだ。何故赦されないのか。悔い改めていないからだ。それなら何故、宴会場に入れたのか。
その問題は一旦さて置き、この喩えの中心ポイントは14節だ。招かれる者は多い。事実イスラエルは全員招かれている。しかし、選ばれる(悔い改めて救われる)者は少ないという事である。
そこで、先の異邦人の話が挿入される目的は何か。それは、異邦人も皆招かれているという事だ。そして一旦、招きに応じた人々が世界には相当数いる。そして彼らの集まる「教会」は天国の前味だと言われる。9〜10節は、それを表すと思われる。しかし、その中に、本当の悔い改め・純粋な信仰・神を求める心…を持つ人がどれだけいるのだろう。もしかしたら、イスラエルの様に形だけの信仰(神と真剣に向き合っていない)人もいるのだろうか…11〜12節はそれを表していると思われる。だから彼は、王(神)の問いかけに答えない。神を求めていない、神に背中を向けている(この世の富、ご利益に心が向いている)のだ。悔い改めるチャンスだったのに。今が恵みの時、救いの日なのに。聖書と聖霊の促しのある内に悔い改める事が必要だ。
もう一度、中心ポイントを。…招かれても応じる人は少ない(特に日本では)。仮に応じても、本当の信仰を持つ人は必ずしも多くはない。それは異邦人もイスラエルも同じだ。
だから今、私達は改めて、神に向き合いたい。そして、御言葉の教えに従って、ご利益信仰からいよいよ離れる事が必要だ。更に、キリストの言葉に留まる、本当の弟子とされる事を求めよう。その道のりは、楽な道ではないかもしれないが、見失う事無く歩み続けよう。
2025年1月12日礼拝メッセージ Uコリント11:16〜33 「誇る必要があるなら」 メッセージは16分からです。
偽使徒達を排除する為に自ら愚かになって見せた(自らを真の使徒だと誇った)が、同時に偽使徒達をやっつける為に無報酬で働く(愚かに見える)事を「愚かと思うな」と言う。それでも愚かだと思うなら仕方ない…という事で、肉による誇りによって勝負しようかと言うのだが、パウロが語るのは武勇伝ではなく「苦労話し」だ(16〜27)。しかし、そんな生々しい話(鞭打ちの刑とか)を詳細に語っても益にはならないし語りたくないとパウロは言うが、しかし語らざるを得なかった。それほどに教会は偽使徒達の餌食となっていたのである。それは単なる肉体的な苦労以上にパウロの心を痛めつけた(28〜29)。
それで「もしどうしても誇る必要があるなら、自分の弱さを誇る」(30)と言う。つまり、既に語った「苦労話し(自分の弱さ)」それが誇りだという事である。さて、偽使徒達は肉の武勇伝、パウロは苦しんだ自慢…勝負になるのか。パウロは勝てるのか。勝負所は「パウロの苦労は、教会を立て上げ守ろうとするがゆえに負った苦労だ」という所である。無報酬で働くのも同様だ。そして、それは嘘ではない、たとえ権力者の迫害を受けてでもだ、と言う(31〜33)。
改めて、パウロは弱さ(いかに苦労したか)を誇っている。それは、ともすれば、単なる苦労自慢に終わる。しかし、パウロの苦労は「教会を立て上げ、守る為」に、あえて負った苦労だ。その為に無給で働きもした。そうして来た事が自慢だ、誇りだという事なのである。だから、誰もパウロを(ひいては、その様な生き方自体を)愚かだと思ってはならない、という訳である(Tペテロ4:12〜19参考)。
信仰を守る為の苦労、真理に留まる為の戦い…それらを体験する事は、決して愚かな事ではない。誰も、それを愚かと思ってはならない。むしろ、信仰を守る為・真理に留まる為の苦しみを誇ろう。苦しんででも、キリストの真実なしもべであろうとする…それが誇りだ。
ペテロが言うには「義人がかろうじて救われる」のだ(Tペテロ4:18)。勿論、信仰による義人の事だ。ならば、その肝心な信仰を守る事はどれ程重大で何物にも代えられない事であるか。私達は、その為の苦労を誇る者となれるように祈ろう。
2025年1月5日礼拝メッセージ マタイ21:23〜46 「知っていながら・・・」 メッセージは12分過ぎからです。
度重なる論争の相手、それは宗教指導者達(イスラエル)である。つまり主は、言わば「身内(同じ宗教の人々)」と言い争われたのだ。すなわち、それは教理論争(聖書の本当の教えは何か、という事)だ。
それで、指導者達が「何の権威でそんな事をするのか」…言い換えれば「やめろ、権威があるのは我らだ」と言うので、主は「あなた方のどこに権威があるのか」との趣旨で「バプテスマのヨハネは天からか人からか」と尋ね返した。対する彼らの答えは「分かりません」だ。権威どころか信仰も、信念すら無い。人目を気にしているだけである。主は呆れて論争をやめられた(23〜27)。にもかかわらず「ところで」と語り始めた例え話は、やはり宗教指導者達にだ。つまり、指導者達の愚かさを責める為の例え話なのである。
さて「行きたくないと言ったけれど、あとで悔い改めて、ぶどう園に行った弟が父の御心に適う」と答えた指導者達に対して、「では何故、あなた方もそうしないのか。取税人や遊女たちはそうしたのに」と主は責められた(28〜32)。更にもう一つの例えに対して指導者達は「悪い農夫達は裁かれる」と全うな答えをする。そう、正しい。「なら、あなた方もそうなるという事が分かるだろ?」と主は畳み掛ける(33〜44)。さすがに指導者達も気付いて敵意に燃えるが、又もや人目を恐れて手出しをしない(45〜46)。権威を振りかざすだけで、信仰も信念も無い…まさに、見かけだけで中身の無い・実の無いイチジクだ。選民イスラエル・神の民・宗教指導者の名が泣く。
少なくとも、主の例えに対する宗教指導者達の返答は間違いではなかった。彼らは、何が正しいか分かっていたのだ。そのくせ、それをしようとしない、それが罪なのである。「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です」(ヤコブ4:17)とある通りだ。
私達は何をなすべきか。なすべき正しい事は何か。それはまず、義の道を信じ、その道を歩む事。それで、もし道から外れたら、悔い改める事である(32)。そして、もう一つ。父の本当の御心は何か(断ってから悔い改めるのではなく、初めから従うべき)を知る事だ。
2025年1月1日礼拝メッセージ エズラ1:1〜3 「神殿」
2024年12月29日礼拝メッセージ Uコリント11:7〜15 「無報酬」 メッセージは12分からです。
パウロはコリント教会から報酬を受けなかった。そして、それが誇りであり、それを継続すると言う。その意味が「伝道者は無給で働け(神が養ってくれる)」という事なら「福音を宣べ伝える者は、福音の働きから生活の支えを得る」という自らの言葉(Tコリント9:14)に矛盾する。そう、これは決して、無給である事を良しとするのではなく、パウロを攻撃する偽使徒達への反撃の為の言葉なのだ。
パウロへの攻撃とは「パウロが無報酬で働くのは、話が下手で知識も劣っているからだ」とか「教える力が無いから天幕作りで稼いでいるのだ」とか「コリント教会を愛していないから報酬を拒むのだ」という様なものだった。勿論、パウロは否定する。
無報酬で働く理由、それはまず、コリント教会の信仰の益の為だ(7)。具体的には不明だが、「キリストの福音の告白に従順であれ(豊かな所から乏しい所へ)」(9:13)という事だろうかと想像する。次に、偽使徒達が報酬を受けるのを(パウロも報酬を受けてるのだから、と)正当化させない為。それらの理由から、無報酬を継続すると言うのである(12)。そして、偽使徒達のいかがわしさをストレートに突く(13〜15)。だが彼らも一応、働き人(伝道者)と認識されている、いわゆる教職者だ。それでもパウロは彼らを非難する。肩書だけでは信用出来ないと言わんばかりに。何故なら彼らは働き人は働き人でも「人を欺く働き人」だからだ。そんな彼らにコリント教会が欺かれる事をパウロは心配するのである(3)。
だが、果たして教会が欺かれる確率は本当に万に一つか。いや、現実はもっと高い。問題なのは、教会は、異端の教えに対しては警戒はしていても、異なった福音に対しては無頓着である事だ。どんな福音でも受け入れてしまう。例えば「繁栄の福音」(繁栄の神学の別名)。まさに「異なった福音」であるが、広く受け入れられている。
危機感を持つ事が必要である。勿論「彼らの最後は、その仕業に相応しいものとなる」とパウロは言うが、ならば、彼らに欺かれた人も、それに相応しい最後となるだろう。私達は、主の示す、真実な命の道を歩み続けよう。
2024年12月22日礼拝メッセージ マタイ21:18〜22 「あのため、このため、何のため?」 メッセージは15分半からです。
イチジクは、葉っぱと同時に実が成る。なのに、葉っぱが茂っているだけで実が成っていない、そんなイチジクの木を主は呪った(18〜19)。それは、「見せかけだけで中身の無いイスラエルの信仰への裁き」を表す。前日の「宮清め」に続いての出来事だ。これらから、信仰者には真実な信仰が求められているという事が読み取れる。
では、真実な信仰があれば、何でも願いは叶うのか。21〜22節を見れば、そう思えるかもしれない。しかし、それは余りにも安直だ。主が言われたのは、まず「イチジクの木になされた様な事が出来る」だ。つまり「腐敗した信仰への裁き以上の事が出来る」という事だ。そして「それだけでなく、山も動く」と。山が動くとは、聖書の難問を解く事を意味する。すなわち「聖書を悟る」のである。それこそが「腐敗した信仰を断罪する」以上の事なのだ。
そして問題の22節。信じて祈れば何でも与えられる…そんな「あなた方」とは誰か。それは「真実な信仰を持って、聖書を悟った人」である。その人は何を祈り求めるのか。全世界か。それはまだ聖書を悟っていない人だ。全世界など過ぎ去るものに過ぎない。何より永遠の命が大事だ。その様に、聖書を悟って真実な信仰を持った人なら、神の御心と神の支配を求めるのではないだろうか。「神の国を第一に求めよ」と主は言われたのだから。そうすれば「求めたものは何でも与えられる」が実現するのである。その様な文脈である事を読み取らずして、21〜22節だけを切り取って信じ込むのは避けるべきである。
とにかく、救い主がお生まれになったのは、信じる者に全世界を手に入れさせる為ではない。御国を得させる為だ。だから公生涯の第一声は「悔い改めなさい。御国は近付いた」だったのである。そして「必要なものは色々あるが、何はともあれ神の国(神の支配)を第一に求めよ」と言われた。更に「御国が来ますように、御心が行われますように」祈れと教えられた。そうすれば、その求めたものは何でも与えられるのだ。すなわち、天の御国に入るのである。真理を知り、自由になるからだ。それがクリスマスの目的である。この日を、見かけだけで中身の無い信仰にならない様にと自戒する日としよう。
2024年12月15日礼拝メッセージ Uコリント11:1〜6 「見事に、こらえて」 メッセージは13分からです。
「こらえて欲しい」と言いながら「いや、こらえている」とは、どういう事か。「と言うのも」との説明によれば「コリント教会を穢れ無き清純な(純粋な信仰を守り通す)花嫁としてキリストに捧げたい」のだと言う(1〜2)。しかしパウロの心配は、教会がキリストに対する真実と貞潔を失う事だ(3)。何故なら、偽使徒達が教会に入り込んでいたからである。だが教会は、何とか純粋な信仰に踏みとどまろうとしている(4)。それが1節の「こらえている」の意味だ。ただし、何とかこらえてはいるものの、もしかしたら惑わされるかもしれない…という心配もあるので、パウロは「私こそ真実な福音を語る真の使徒だ」と誇るのを「こらえて欲しい」と言うのである。
それゆえに「私は、あの大使徒達に劣っていない」とパウロは言う。「たとえ話は巧みでないとしても、知識がある」と。すなわち、福音についての知識だ。勿論、それはペテロ達も聖霊によって悟らされてはいる。だが福音は、旧約聖書が教える事・律法に基づくものであり、パウロは、その律法の専門家なのだ。その上、主イエスご自身から悟らされた…それが「劣っていない」という自信の根拠である。だから「あえて誇るけど、キチンと福音を教えるから、偽りに惑わされない様に、こらえて(純粋な信仰に留まって)欲しい」「万一にも思いが穢されて、キリストに対する真実と貞潔を失ってしまわない様に」と言うのである。
私達も、その為には、エバの様に欺かれない事が必要だ。つまり「神は本当にそうおっしゃったのですか」という惑わしに気を付けるべきなのだ。エバは、神が本当は何を命じたのかを正確には理解していなかった。だから同じ様に今、大事なのは「キリストは本当は何と言われたのか」なのである。主は本当に「父なる神と同じ様に、完全な者になれ」と言われたのだろうか。「はい、そうです」と多くの人は惑わされている。「主が言われた通り、右を打たれたら左も出さなければいけないのだ。それがクリスチャンだ」という風に。
私達は、主の教えの本当の意味を知る者となりたい。そして、キリストの花嫁として相応しい教会となれる様に祈ろう。
2024年12月8日礼拝メッセージ マタイ21:1〜17 「そんな神の宮」 メッセージは13分半頃からです。
ソロモン以降は馬が最上級の乗り物とされて来たゆえ、ロバは、その座を奪われ、荷物運び役に格下げとなった。しかも主が乗られたのは借り物の子ロバ。車で言えばレンタカーのリヤカーだ。つまり、人が乗るものではないという事である。ましてや王なるお方が。だが、それは実に、十字架で死のうとする王イエスのへりくだりを表していると共に預言(ゼカリヤ9:9)の成就である。そして又、預言(詩篇118)の通り群衆は「ホサナ」と叫んで王を迎えた。すると都中が騒ぎ立ち「この方は、どういう方なのか」といぶかった。何しろ、王と言えば、民を守る為に先頭切って戦うのが常だが、イエスは柔和で、神との平和を作って下さる王なのだ。所が、イエスに従って来たはずの人々は「この方は預言者イエスだ」と言う。主も格下げされてしまった。
そのあと、宮清めだが、主は「私の家は祈りの家と呼ばれる、と書いてある」と言われた。確かに(イザヤ56:7)。だが主の行動はエレミヤ7:1〜15の成就だ。つまり、いけにえの売り買いや両替自体は悪くないし必要な事ではあるが、それを利用して不当な金儲けをしていたという事が「強盗の巣」と主が断罪なされた理由なのである。そして主は、盲人や足萎え(律法的には宮に入れない人々)を癒された。
つまり「宮清め」とは「神の宮はどうあるべきか」という事を示す為のものなのだ。すなわち「祈り、神との交わり、神の御心が行われるべき所」だという事である。所が、宗教指導者達は、子供達が「ダビデの子にホサナ」と叫んでるのを見て腹を立てた。主の対応は「詩篇に書いてある通りだ」である。
結局、ロバの子〜エルサレム入城〜宮清め…この一連の出来事は全て預言の成就だという事である。なのにイスラエルは自分達の王を受け入れなかったばかりか、神の宮を強盗の巣にして私腹を肥やしていた。そんな堕落した神の宮を清めたい、そして平和の王としてキリストを受け入れて欲しい…それが神の御心なのである。
同じ様に、神の宮である私達も清めたいと主は願っておられる。偽りや堕落した信仰から。それによって、神との平和を築く…それが神の宮のあるべき姿なのだ。
2024年12月1日礼拝メッセージ Uコリント10:12〜18 「霊・信仰の成長」 メッセージは15分頃からです。
果たして、ここに霊的な教えはあるのか。かろうじて信仰の為になりそうなのが17〜18節だが「主にあって誇れ」とはどういう意味か。「主にあって」と言いさえすれば何でも誇っていいのか。実は口語訳では「『誇る者は主を誇れ』と書いてある通りである」であり、エレミヤ9:23〜24の引用である。要は「自分の力を誇るな。もし誇るなら、神を知っている事(悟り)を誇れ」という事だ。それをパウロは、偽使徒を想定しながら言うのである。彼らは仲間内で推薦状を書いたり自己推薦したり、限度を超えて自らを誇り、自分の領域でない(パウロが開拓した)教会に我が物顔で乗り込んで霊的に荒らしていた。だからパウロは「私はそんな事をしない」と言うのである(13〜14)。ただ、コリント教会が霊的に成長したら安心して次の領域に働きに行くけど、それは決して人の上前をはねる為ではない(15〜16)と言う。
とにかく問題は「限度を超えて自分を誇る」という事だ。少し誇るくらいは良いとしても、それ以上に神を誇るべきである。では逆に「神を誇っていない」とは、どんな状態か。それは「信仰生活を楽しんでいない」という事だと言える。何故なら、エレミヤ9章が言うのは「神を信じている、崇めている、賛美している…そんな私は素晴らしい、と誇れ」という事だからだ。だから、例えばもし、真実な礼拝を喜び楽しめないなら、それは神を誇っていないという事になる。
さて続いて「主に推薦される人こそ、受け入れられる人」だとパウロは言う(Uコリント10:18)。これは例えば、転勤等で教会を転会する時に、主の推薦状が必要などという事ではない。あくまでも「真の使徒とは誰か」という問題だ。つまり、偽使徒達は自分で自分を推薦してるだけだという事である。
誇るのも、思い上がるのも、少しなら良い。だが限度を越えてはいけないのだ(ローマ12:3)。神から与えられた自分の領域を越えない様に、という事である。その事をパウロは「一つの体と多くの器官」に例えて教える(ローマ12:4〜8)。だから私達は、神が一人一人に託して下さった領域において熱心に働くものとされたいと願う。「そんな私は素晴らしい」と誇れ、と聖書は言うのである。
2024年11月24日礼拝メッセージ マタイ20:17〜34 「逆転」 メッセージは15分半頃からです。
逆転である。あとの者が先になる。それは十字架と復活においても言える。権力から迫害を受ける「弱い立場=あとの者」である主が、栄光の体に復活する最初の者「先の者」となられた。
さて、受難告知を聞いた「その時」ヤコブとヨハネの母が「二人を御国で大臣にして欲しい」と願った。さすがに主も、それは拒否した。すると他の弟子達がその二人に腹を立てたので、主は言われた。「偉くなりたい者は、仕える者になれ」と。ここにも逆転がある。先の者(偉い人)が仕える者(あとの者)になるのだ。実は、それら逆転の極致・模範こそ、主イエスである。神であられるお方(先の者)が罪人(あとの者)として十字架で死ぬのである。そしてなんと、聖い神の御子が死ぬ事によって、罪ある人間が救われる道が開かれたのだ。
その後、二人の盲人が主に憐みを求めて叫んだ。主は「何をして欲しいのか」と問われたが、盲人は当然「目を開けて欲しい」と答える。すると主は、可哀想に思ったというのである。はて、何が「可哀想」なのか。二人が盲人なのは初めから分かっている事なのに今更だ。
鍵は直前だ。二人の弟子の求めに対して主は「自分が何を求めているのか分かっていない」と言われた。一方、二人の盲人は地位・権力ではなく、神の憐みを求めた。だから主は「可哀想に思った」…それは新共同訳では「深く憐れんだ」である。盲人達が憐みを求めたのだから、それが当然だ。つまり、盲人達は正しいものを求めたのである。
弟子達は、地位・権力を求めたが、退けられた(あとの者となった)。盲人達(弱者=あとの者)は憐みを求めたがゆえ、神の深い憐みを受ける(先の者)となった。この様に、この一連の物語は(盲人の癒しの奇跡も含めて)全て、逆転を表しているのである。
そういう訳で、求めるべきは、神の憐みだ。癒し、富、祝福…を第一に求めるのは、ともすれば自分本位な願いとなる。御国で大臣に…と願った弟子達と同じだ。退けられて「あとの者」とされるだろう。そもそも私達は、神の憐み(悔い改めた者を救おう、という憐み)のゆえに救いの道を与えて頂いたのだから、その驚くべき神の憐みの深さに感謝しつつ、更に神の憐みを求めよう。
2024年11月17日礼拝メッセージ Uコリント10:7〜11 「恐るべき・・・再び」 メッセージは16分半頃からです。
パウロのうわべ(推薦状を持っていない、とか)だけを見て、パウロの使徒性を否定し、軽んじる…そんな、真実を見ようとしない人々にパウロは「もう一度よく考えなさい」と言う(7)。つまり、もし自分が、たとえダメなクリスチャンであったとしても「キリストに属している」と確信しているなら、尚の事パウロもそうなのであり、うわべの事(使徒らしくない、とか)だけで、どうして(自分の事を棚に上げて)パウロの使徒性を否定するのか、という事だ。
そこで8節。「与えられている権威をチラつかせるのも悪くはないだろう」という様な主旨だ。勿論パウロは、教会を倒したいのではないが、神から与えられた権威を以て、除名・追放などの処置をする事も出来る。だが、その権威をチラつかせて脅しているように思われたくはない、と言う。(8〜9)。言い換えれば「パウロが強気なのは手紙だけだ」などと思うなという事だ。実際、そう思われていたから(10)釘を刺して言うのである。覚悟しておけ、と(11)。これは分かりにくいが、新共同訳では「離れていて手紙で書く私達と、その場に居合わせて振る舞う私達とに変わりはありません」だ。つまり「手紙では重々しいパウロも、面と向かっては弱々しく見えるパウロも、どちらも同じ権威を持っているパウロである」という事だ。だから「侮ってたら痛い目を見るぞ」と言いたい訳である。それが7〜11節の話の内容だ。
ただ、パウロの願う事と、与えられている権威は、教会を倒す為ではなく立て上げる為なのだから、本当に強気な態度に出ないで済む様にして欲しい(2)という事、それが文脈なのであって、出来る限り、権威の行使・処罰等はしたくないのである。しかし、それでもダメなら、仕方がない。覚悟しておけ、という訳だ。
さて、これもまた、恐るべき神の裁きの予表だ。「神は愛である」だけでなく「神は裁き主」なのである。神を侮る者・真理に背を向ける者を、最後の最後には容赦なく地獄に放り込む…それが、パウロとコリント教会の関係性の中に預言的に表されているのである。
そんな事にならない様に、私達は、神を畏れ、真理を愛する者となろう。
2024年11月10日礼拝メッセージ マタイ20:1〜16 「損得」 メッセージは15分半くらいからです。
朝早くから働いた人と一時間しか働かなった人、どちらも報酬は同じ1デナリ。不公平だ、と誰もが感じる。結局、結論は「あとの者が先になり、先の者があとになる」だ。果たして、納得出来るだろうか。
そもそも、この喩え話は何故に語られたのか。それは実は「あとの者が先になり、先の者があとになる」(19:30)事の説明の為なのだ。それも「天国はそんな所だ」という事ではなく「主人(神)は、そういうお方だ」という事を描いているのである。すなわち、神は労務者を熱心に探す。それは「神のしもべ(信仰者)になる人を探している」という事だ。そして、神の招きに応じて、しもべとなった全ての人に同じ恵みを施す…そう考えると、神は素晴らしいと思える。
最大の問題は、損得だ。朝早くから働いた人と一時間しか働かなかった人、どっちが損(得)か。但し、これは実社会の話ではなく、信仰の話だ。つまり、若い頃に救われるのと年老いてから救われるのは、どっちが得なのかだ。確かに若い頃に救われたら、主に仕える時間も長くなるし、信仰の戦いも大いにあるだろう(12)。それゆえに「死ぬ間際になったら信じる」と言う人さえいる。しかし、早く信じた方が希望と平安と安心がある人生を長く送れる。その点、遅く信じた人は、本当の平安・喜びの無い人生を長年過ごす事になる。それを表すのが、夕方に雇われた人だ。彼は一日中、仕事の無い不安と焦りに苛まれた(6〜7)。だから、早く雇われた人の方が、喜びと希望に満ちた一日を過ごせた分、得なのである。
では、遅く信じた人は、哀れな人なのか。いや、早く信じた人にも遅く信じた人にも、同じ報酬(天国)が与えられるのだ。それは、どれだけ働いたか(行い)に対する報酬ではなく、神の招きに応じた(キリストを信じた)事への報い・恵みなのである。中には、病床で信じたのち一度も教会の礼拝に出席する事なく召された人もいるかもしれない。まさに夕方5時に雇われた人であり「あとの者が先に」なったという事だ。実に、それを説明する為の喩えなのである。勿論、先の者への報いもある(19:29)。とにかく、信仰歴・働きの大小に拘らず、皆に等しく神の子の特権を与えて下さる神に感謝だ。
2024年11月3日礼拝メッセージ Uコリント10:1〜6 「恐るべき予表」 メッセージは18分からです。
自虐的と思える1節。その真意は「面と向かっても強気でいられるけど、むしろキリストの柔和と寛容を以てお勧めする」という事である。何を勧めるのか。それが2節だ。すなわち「本当に強気な態度に出なくて済む様にして欲しい」という事である。つまり、コリント教会の出方次第では厳しい態度で臨む事になるかもしれないという事だ。
続く3節でパウロは「私達は肉に従って歩んではいない」と言う。しかし「肉にあって歩んでいる」事は認めている。違いは何か。肉にあって…は「肉ゆえの弱さ、限界がある…その中で歩んでいる」という事(人間誰でもそう)だが、肉に従って…は「肉ゆえの罪・欲に従って歩んでいる」という事、そんな歩みをパウロはしているという誹謗中傷に対する反論だ。更に「肉に従って戦ってはいない」と、偽使徒達(自分の欲・利得・肉に従って宣教活動をしている)との違いを主張する。パウロの戦い、その武器は「肉のものではなく、神の御前で要塞をも破る力のあるもの」だ(4)。それは真実な福音の事である。死と霊的盲目という難攻不落な要塞をも破る、それが真実な福音の力なのである。偽りの福音にそんな力は無い。そして真実な福音は「全ての偽り・人間的な思いを打ち砕き、キリストに従う者へと作り変える」のである(5)。しかし、それでも不信仰で逆らう者に対しては処罰する用意が出来ている、と言う(6)。これは未信者の事ではない。真実な福音に逆らう不信仰なクリスチャンに対しての言葉だ。実際にコリントの、ある信徒達に対してパウロは、除名・追放という厳しい処置を行う用意はあったのである。ただ、そうしなくて済む様にして欲しいという事だ。
これは、恐るべき予表である。最後の審判の時、同じ事が起きるのだ。真実な福音に背中を向け続け、偽りの教えから離れなかった教会は厳しい処罰を受ける。そして主は「そうしなくて済む様にして欲しい」と願っておられるのである。だから今の内に、真実な福音を見出して掴まなければならない。今は、それが出来る「恵みの時・救いの日」だ。肉にあって歩んではいても、肉の欲に従う信仰にならない様に、御霊に満たされて歩める様に、主の助けを求めよう。
2024年10月.27日礼拝メッセージ マタイ19:27〜30 「すべては報われる」 メッセージは15分頃からです。
金持ちの青年が、富を捨てる事が出来ず悲しんで去って行った。そこでペテロは「自分達は全てを捨てて従って来たんだから、ご褒美貰えますよね」と言う訳である。とんだ見当違いの主張だ。
そこで主は言われた(28)のだが、これは、天国で12使徒(この時点ではユダも含む)がイスラエルの12部族を裁くという事なのか。いや「私に従って来たあなた方」と呼ばれる為には、途中までではなく最後まで従い通すべきだ。当然ユダは除外される。だからこれは、12使徒の事ではなく、真の弟子・クリスチャンの事と考えるべきだろう。
だが、イスラエルの12部族を裁くとは? 異邦人クリスチャンは裁かれない? それ以前に、天国でも裁かれるのだろうか? これは一体どういう事か。
まず「主が栄光の座に就く時」だから「就いた後」ではない。つまり、天国が始まってから裁きがあるのではなく、天国が始まる際に裁きがなされるという事だ。その時、主イエスに従い抜いた真の弟子達が、不信仰なイスラエルを裁くのだ。と言っても、裁き主は神であって、真の弟子達はその時、神の側に立って、その裁きを見るのである。それが「主に従い通した者への報酬」だという訳である。だから決して、12使徒が天国で大臣になるという事ではない(マタイ20:20〜23参照)。
また「捨てたものはその幾倍も受ける」(29)と言われた。確かに、もしかしたら、信仰の為に勘当されるという事があるかもしれない。その様な、信仰ゆえの苦難があったとしても、その辛さ以上の報いが天にあるという事だ。
だから「何が貰えるか」と心配する必要は無い。主に従って生きる事に損は無いのだから。彼に信頼する者は失望させられる事が無いのだ。ゆえに、宝のある所・天に心を向けよという事である。
ただ、先の者が後になり、後の者が先になる(30)。宗教指導者達より、罪人が主を信じた様に。選民イスラエルより異邦人がキリストを受け入れた様に。昨日信じたばかりの人が、アッサリと天に召される様に。しかし、早くに信じ、長年主に仕える…その労苦に報いはあるのだ。だから主に信頼して、忠実に主に仕え続けよう。
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