2019年10月1日、玄武書房より全国発売されました。アマゾンにて購入いただけます。画像をクリックすると購入ページに飛びます。
以下、礼拝メッセージの要約と共に音声もお聴き頂けます。
2025年6月29日礼拝メッセージ マタイ26:17〜25 「裏切り」 メッセージは12分半頃からです。
2025年6月22日礼拝メッセージ マタイ26:1〜16 「ナルド油は、愛?」 メッセージは14分頃からです。
世の終わりについて、その締め括りに「永遠の刑罰か永遠の命か」(25:46)という究極の分かれ道を話した後、語るのが十字架である。つまり、キリストが十字架で死ぬという事をどう捉えるか…そこが分かれ道という事だ。その点、宗教指導者達は論外だ(3〜5)。
さて、300デナリ(約300万円)以上で売れるというナルド油を惜しむ事無く主の頭に注いだ女性…それ程に彼女は主を愛していた…美しい愛の物語と言われる。弟子達は、それを「無駄な事」と非難した。だが主は、それを「立派な事・埋葬の用意」と喜んだ。そして「この福音が宣べ伝えられる所で彼女の記念となる」と言われたが、「この福音」とは、何を指しているのか。Tコリント15:1〜5で語られている様な「福音」が、この箇所のどこにあるのか。定説によれば、これは「愛の物語」のはずではなかったか。果たして福音はどこに。
彼女が「埋葬の用意」をしたという事は、キリストが十字架で死ぬという事を受け入れていたという事である。その時点では他の弟子達は誰一人、理解すらもしていなかったのにである。その上で、高価なナルド油を注いだ。あたかも、キリストが十字架で死ぬならお金なんか惜しくないと言うかの如くに。それはすなわち、キリストの十字架は何にも優る最高の価値があるという宣言だ。何しろ、信じる者の罪を赦し、永遠の命を与える…それがキリストの十字架なのだから。そう、そこに福音があるのだ。彼女は他の誰より先駆けて、それを悟ったのである。勿論、主が死ぬのは悲しいが、受け入れて、その用意をした。彼女の、その「した事」が語られて記念となると主は言われた。彼女のした事、それは「十字架の意味を理解した」という事だ。
福音を悟って受け入れる事が、弟子達の言う様に「無駄な事」なのか、それとも主が言う様に「立派な事」なのか。もっと言えば、何が無駄で何が無駄でないのかだ。福音を深く知る為に労力を注ぐのは決して無駄ではない。出来る限りそうした方が良い。もし教会にそれが無いなら、教会に集うのは無駄という事になるのかもしれない。
パウロが「最も大切なことはこれ」と前置きをしてから語った…それが福音である。私達も、それを最も大切な事として求めよう。
2025年6月15日礼拝メッセージ マタイ25:31〜46 「救いの道は・・・」 メッセージは14分頃からです。
終わりの時、主は王として全ての人間を裁く。羊飼いの様に羊と山羊を選り分け、羊に「御国を継ぎなさい」と言うのだ。
ではどんな人が御国を継ぐ「羊」なのか。それを説明するのが35節以降だが、「小さい者にした事がキリストにした事」だと理解されている。ゆえに「親切に人の世話をする人が天国だ」と考える人も多い。勿論、親切は悪い事ではない。だからと言って、それで天国なのか?
思い違いをしてはいけない。「これらの私の兄弟達」その中の「最も小さい者達の一人に」した事がキリストにした事だと主は言われたのである。「これらの」とは、主の右に選り分けられた羊(クリスチャンである事は明白)だ。その中の最も弱い人にした事が…なのであって、それ以外(主にとっては全ての人が愛すべき兄弟である、とか、見ず知らずのホームレスとか病人の事、とか)は拡大解釈である。
では、クリスチャンの中の最も弱い人とはどんな人か。それは「もし信仰があるなら御言葉を行え!」と言われても出来ない人である(出来るのにしない…は論外)。何の奉仕も、伝道も出来ない…主にすがって憐みを求めるしかない、力の無い、そんな子供の様なクリスチャンだ。そんな小さな弱いクリスチャンを助けてあげるべきであって、お金(物資)の問題ではない。つまり、天国に入れる様に霊的な食物をキチンと与えるという事だ。それを主は望んでいるのだから、それをする時にこそ「主にした」という事になるのではないか。それをしない(妨害する)悪いしもべは厳しい罰を受ける(24:45〜54)。
「自分達はした」と主張する人々がいる(25:41〜46)。確かに、人に親切にしたのだろうが、「最も小さい者」が誰なのかを誤解している。主が求めている事(クリスチャンに霊的な糧を与えるべきという事)も分かっていない上に「親切な人が天国に入る」と語る。それは、救いの道をぼやけさせる事、迷わせ霊的に飢えさせる事だ。
ただ天国に入りたくて、ただ主にすがって憐みを求めるクリスチャン…それが最も小さく弱い者である。永遠の刑罰に入るのか、永遠の命に入るのか、その瀬戸際において、救われるのは誰なのか。救いの道をぼやけさせられる事なく、純粋な霊的糧をたっぷりと頂こう。
2025年6月8日礼拝メッセージ マタイ25:14〜30 「持っている者」 メッセージは16分頃からです。
与えられたタラント・賜物を用いよ、と語られる個所だ。それは正論ではあるが、これは未だ「世の終わりについて」の教えなのだから、再臨にどの様に備えるべきか、神は何を求めておられるのかを読み解くべきである。因みに、主人が長旅に出て帰って来るという設定は、やはり再臨は「すぐ」ではない事(のちに、たちまち)の暗示だろう。
さて、5タラントは約3億円、大金だ。それをポンと預けられるしもべは、それなりの立場(しもべ頭)と思われる。それで、タラントを活用したしもべは「僅かなものに忠実だ」と主人に言われた。5タラントは決して「僅かなもの」ではない。2タラントでも1億2千万円なのだから。そう、彼らは、与えられた使命に忠実だったのである。しもべ頭の使命、それは他のしもべ達にキチンと食事を与える(御言葉で養う)事だ(24:45)。復活の主がペテロに「私の羊を飼いなさい」と言われた通り、それがしもべ頭の使命なのである。たとえ、それが僅かな羊であってもキチンと勤め上げるなら「あなたは僅かなものに忠実だったから、沢山のものを任せよう」となるのである。だから、この「タラント」は、現金の事ではなく、羊を養う為の「能力・才能」の事だと理解出来る。従って「5タラント儲けた」とは「才能が花開いた・成長した・更に良い牧者になった」という事であろう。だからこそ、それを「主人の喜び」と言うのである。一方、悪いしもべ頭(当時の宗教指導者達)は、民を養うべき責任を果たしていなかった(24:48〜49)。せっかくタラントを与えられたのにだ。神観にも問題がある(25:24〜25)。だから、利息云々は、主人の本意ではない。「律法に生きるなら律法によって裁かれる」(ローマ2:12)という事だ。
そういう訳で、このタラントの喩えは、しもべ頭に対し、再臨に備えて責任を果たすべき事を教える。すなわち、御心を汲み取って、律法から離れて、福音を受け取って、霊の糧をキチンと与える事だ。そうでないと、暗闇で泣いて歯ぎしりする事になる(29〜30)。ただし「誰でも」とある通り、皆が律法主義から離れるべきだ。そして、神の愛と御心・福音を知って、神に対する感謝と喜びを持つ者となろう。それが「持っている者」であり、更に与えられ豊かになるのである。
2025年6月1日礼拝メッセージ マタイ25:1〜13 「ともしび」 メッセージは13分頃からです。
未だ「世の終わりについて」の教えである。ゆえに結論は「聖霊に満たされていなさい」ではなく「再臨の時を知らないのだから、目を覚ましていなさい」(13)なのである。そして、その結論は既に24:42で語られていた事であり、要は、再臨に備えてどうするべきか(その心構え・信仰の在り方・注意すべき事)が教えられているのである。
さて、花婿は再臨の主を表している。そして主は「私はすぐに来る」と言われたが、再臨は二千年経ってもまだだ。花婿が遅くなる事が設定済みという事を考えると、主は初めから、すぐに来るつもりなんか無かったのではないか。やはり「すぐ」は「たちまち」(24:29新共同訳)なのだ。いずれ時が来れば、一気にそれは起こるのである。
そこで問題は、何故遅く来るのかだ。早い方が良いのではないか。この喩えでは「夜中になって」である。眠くなるのは当然だ。そして娘達10人全員が眠ってしまったのである(5〜7)。だから「目を覚ましていなさい」とは「気付いていなさい」という事なのだ。
娘たちの違いは、5人は油を切らした事であるが、彼女達も油の必要性は知っていたし、買いにも行って手に入れもしたが主人に拒否された(8〜12)。神から「あなた方を知らない」と言われたのは、御心を行わない(不法をなす)者だ(マタイ7:23)。致命的な問題だ。それと同じ位に致命的な問題が愚かな娘達にはあった。それは「灯火を整えてなかった」事である(25:7〜8)。整える為に油は勿論必要だから、聖霊は無関係という訳ではない。だが油だけでなくランプも必要(それが灯火)だ。つまり、再臨に備えて整えるべきは灯火だという事である。そして、信仰者の歩みの為の足の灯火と言えば、それは勿論、御言葉である(詩篇119:105)。その御言葉を疎かにする悪い羊飼い・偽教師・偽預言者達がいるのだ(24:45〜51)。彼ら「はげたか」は死体(死んだ様な信仰の人)に集まって来る(24:28)。だから、寄せ付けない様に御言葉の灯火を整える必要がある。それを教える為に「悪いしもべ頭」の喩え(24:45〜51)の次に「そこで」(5:1)と10人の娘の喩えが始まるのである。だから「目を覚ましていなさい」とは、再臨に備えて偽りに惑わされない様に「真理に気付いていなさい」なのだ。
2025年5月25日礼拝メッセージ マタイ24:36〜51 「その日、その時」 メッセージは13分頃からです。
再臨・終わりの時、それがいつなのかは分からない。主も知らない。その理由が「ノアの日の様だから」だ。洪水が起きるまで人々は日常生活を普通に送っていた。それと同じ様に、終わりの時も、人々は破滅するまで気付くことなく日常を過ごしているという事だ。
同じ主の言葉である黙示録によれば、世の終わりの近付く頃には「獣の刻印を受けていないと何も買えない」程の、生きる事さえままならない様な世界になっていると思えるのだが、それは実際には何の事なのか、はっきりと解明されている訳ではない。だから、同じ主の言葉なら、分かり易い方に基づけば良いだろう。つまり、世の終わりの直前も(洪水の時と同様に)人々は普通に暮らしているという事だ。そして、普通に暮らしていると、ある日、泥棒に入られて「あっ泥棒だ」と後から気付くように、再臨・携挙も、それが起きてから人々は気付くのである。
そこで主は「あなた方(信仰者)も用心していなさい」と言われた。何に用心するべきか。偽りに惑わされない様に、だ。何故なら「悪いしもべ」がいるからである(45〜51)。しもべ達の世話を任された「しもべ頭」なのに、他のしもべ達にキチンと食事を与えもせず苦しめている。それは、牧会者が信徒を御言葉で養わない(偽りを語る・偏っている)事を表している。携挙はいついつだ…とか。そんな「悪いしもべ」は厳しく罰せられる(50〜51)。その教えに従う人も同様だろう。二人いると一人は取られ、一人は残される。それも携挙に取り残された後に気付くのだ。だから「用心せよ」なのである。
再臨の時「キリストにある死者」が、まず初めによみがえり、携挙されるという(Tテサロニケ4:16〜17)が、一人は取られ、一人は残されるのだ。違いは、本当に「キリストにあった」かどうかだ。それは神だけがご存じだ。いずれにしても最終的には全員が神の前に引き出される。最後の審判だ。その時になって慌てても遅い。だから、偽預言者・偽りの教え・御言葉の偏った解釈…に用心する事が必要なのである。
平和で安全と思える日常に突如滅びが襲い掛かる。だから霊的に目覚めている事が大切だ(Tテサロニケ5:3〜6)。
2025年5月18日礼拝メッセージ マタイ24:29〜35 「備えは、今!」 メッセージは13分過ぎからです。
AD70のエルサレム崩壊の後「すぐに」天変地異が起きる、と主は言われた(29)。「すぐ」ならAD75〜80頃か。そして「その時」再臨だと言うが、そんな事実は無い。神の憐みのゆえに再臨は延期されたというのが定説だが、どうもしっくり来ない。そこで新共同訳だが、「すぐに」ではなく「のち、たちまち」となっている。「すぐ」ではなく「のち」なら3000年後でも「のち」だから、再臨がまだでもおかしくはない。とにかく、のちに何が起きるのか。たちまち太陽は暗くなる(新共同訳)のだ。その時が来たら、あっという間に、一気にであるから対処のしようがない。世界中の人がパニックになる。その時、再臨の主が現れる(30)。それを見て全ての民族は悲しむのだ(ルカ18:8参照)。そんな中でも真の弟子は携挙に与る(31)。それら(前兆)を見たら「再臨の主が戸口まで近付いていると知れ」と言う(32〜33)のだが、再臨を見たら再臨が近づいているとは、おかしな話だ。それもそのはず、脚注には「人の子、あるいは、その事」とある。その事とは、世の終わりの事だ。つまり、天変地異〜再臨〜携挙が起こるのを見たら「もう、この世の終わりだ」という事である。そして、それらは突如として一気に起きるので、その時になって慌てても間に合わない。
天地は滅び去る。「しかし」と比較する(35)のだが、比較対象は「滅びる天地」だ。それに対する「主の言葉」とは「永遠の御国の約束」であって、それは決して滅びる事の無い御国なのである。つまり、この世は滅び去るけれども天国・滅びない御国がある…その約束は必ず成る、覆される事は無い、たとえ、この天と地がひっくり返っても…という事なのである。
「見よ、私はすぐに来る」と主は黙示録で言われたが、「すぐ」が「のちに、たちまち」という意味でない限りは「すぐ」という約束は覆された事になる。それが、憐みのゆえであったとしても、ひっくり返された事に変わりはない。しかし、再臨〜携挙〜新天新地は一気に来る。間延びしない。裁きの時に猶予は無い、それは覆る事が無いのだ。だから、備える(天国への道を歩み続ける)時は今なのである。私達は、主が来られるのを見て、悲しむのではなく喜ぶ者でありたい。
2025日5月11日礼拝メッセージ マタイ24:15〜28 「はげたか」 メッセージは13分からです。
世の終わりまでの大まかな流れ(〜14)の後、次は具体的な事(2節で主が預言されたエルサレム崩壊の事)が語られている…それがこの箇所だ。ただ、このマタイ福音書が書かれた時点(AD80年代)では、エルサレム崩壊は既に10年以上位前に起きた事なのでマタイは、読者が「将来の事」と誤解して恐れない様に「良く読み取れ」と注意するのである。だから、この悲惨な出来事の預言は、私達にとっても過去の事だから(これから起こる事ではないので)心配は要らない。
ただし、23〜26節は別だ。何故なら再臨はまだ来ていないからである。エルサレム崩壊はAD70年に起きたが、再臨にまつわる事は、これから起きるのだ。そして偽キリスト・偽預言者は今実際に起きている。偽りの教えを語り、根拠の無い空想話を語り、携挙・再臨の時を予言する人が後を絶たない。そして多くの人が惑わされている。主は「再臨は稲妻のように来る」と言われた(27)。つまり、予測出来ないという事だ。ただ「雷が来そうだ」という事は、空を見れば予測出来る。同じ様に「そろそろ再臨かも」という予測は不可能ではない。しかし、稲妻が発せられる瞬間は予測出来ないのだ。だが同時に、一旦稲妻が走れば、その瞬間を見逃した人にも分かる。その様に、再臨の正確な時は予測出来ないけれども、それは誰にも分かる形で来るのである。
最後に主は「死体のある所にハゲタカが集まる」と言われた(28)。脈絡の無い言葉の様に思えるが、文脈から考えれば「ハゲタカ」とは、信徒を食い物にする偽キリスト・偽預言者の事だろう。すると「死体」は信徒だ。それも「死体」と表現されている通り、死んだ様な信仰の信徒である。ヤコブが言うには「行いの無い信仰は死んでいる」(ヤコブ2:17)。しかし、だからと言って「善い行いをしなければ」と言うなら、律法主義に陥ってしまう。だから「行い」とは、言わば「どう生きるか」という事だ。つまり、信仰によって出て来る全ての行いをひっくるめた「生き様」なのである。その「どう生きるか」が問題なのであって、神を求めず、ご利益・奇跡・繁栄を求める生き方…そういう所にハゲタカが集まるのだ。私達は、主が来られるまで、そんなハゲタカを寄せ付けない様に注意深く歩もう。
2025年5月4日礼拝メッセージ マタイ24:1〜14 「それから、終わりの日」 メッセージは11分50秒からです。
ユダヤ教に対して決別を宣言した主は、それを行動でも示した。宮を出て行ったのである(1)。それを惜しむ弟子達に主は「エルサレム崩壊」を預言する。永遠と思われた程の荘厳な宮が壊れると聞いて弟子達は「世の終わり」かと思い「その前兆は?」と聞く。それで主は、世の終わりまでの大まかな流れを話された。それが14節までだ。
前兆は、偽キリスト出現、戦争、飢饉と地震、迫害…だが、それらは必ず起こる事(生みの苦しみの初め)であって、終わりが来たのではない。つまり、それらの前兆は、世の終わりの直前に起きるのではなく、世の終わりまでの間(何千年?の間)に起きる事なのだ。
その中でも、魂を守る為に一番大切なのが「人(偽キリスト)に気を付ける」事である。驚くべき事に、偽キリストを信じる人々が沢山いる。加えて、偽キリスト教を信じる人々もだ。奇跡があれば本物だと考える人々も。教義の善し悪し、信仰の純粋さ等は関係無いかの様に。更には、リバイバル。「世の終わりには全ての国がキリスト教国になる」と言う人もいるらしい。信じる人は大喜びだろう。だが主は「惑わされるな」と言う。世の終わりまでに起こる事は、キリスト教の腐敗・背教・カルト化だ。それで大勢の人が躓くのである(10〜12)。大リバイバルなど一言も無い。だから結局、主が予め注意して下さったのに、クリスチャンは見事に惑わされてしまっているという事だ。しかし(「惑わされてたまるか」と)耐え忍ぶ者は救われる(13)。例えばヨハネは、多くの反キリストが現れていると言う。反キリスト…それは腐敗して曲がったキリスト教徒の事だ。そして彼らの教えが「肉の欲・目の欲・暮らし向きの自慢」なのである(Tヨハネ2:16〜19)。その誘惑に抗って耐え忍べという事だ。
最後にマタイ24:14。全ての国民が信じて(大リバイバルが来て)終わり…と主は言っていない。ただ福音が、全ての「人の住む地」に行き渡って終わりだと言っているのである。それは10年後か、100年後かは分からない。いずれにしても大事なのは、その時まで、惑わされない事である。最後まで耐え忍んで、救いの完成を得る者となろう。それが「世に勝つ」という事である。
2025年4月27日礼拝メッセージ マタイ23:29〜39 「訣別の時」 メッセージは13分20秒からです。
律法学者・パリサイ人達は、自分達の先祖が殺した預言者達の墓を建てて弔っていたが、その何が「忌わしい」のか。主は「先祖が罪を犯したのだから、その子孫を赦さない」と言うのか。
主が「偽善」と指摘するのは、彼らが「自分達は預言者殺しに加担する事は無い」(30)と言っている部分である。と言うのは彼らは、この時まさに「預言者殺し(キリスト殺害計画)」を遂行していながら、先祖が殺した預言者の墓を建てて善を装っている…という事実があるからだ。それが、自分達も先祖と同類である事の証だという訳である。
それで主は「先祖の罪の不足分を満たせ」(32)と言うが、罪を奨励しているのではない。神から遣わされた人を迫害する…その究極は御子を殺す事であり、その預言だ。つまり「キリスト殺害計画を実行するがよい(するだろう)」と言っているのである。その罪は滅びを招くと主は言う(33)。34節も同様に、使徒達の宣教の中で実行されて行く。それが「この(罪の)時代」であり、その報いは必ず来る(35〜36)。報いとは、エルサレム崩壊だ(38)。主は、それを思って嘆いていた(37)。イスラエルの中のイスラエル(エルサレム)こそが「自分に遣わされた者を打つ者」なのだ。その「罪の時代」は、今もである。現代の教会に対しても神は、真の福音の使者を遣わされているはずだが、多くの人は、福音よりも繁栄を好んでいる。
主は「今後、私を見る事は無い」と訣別を宣言された(39)。だが、これは文字通りではない。これはユダヤ教との決別宣言だ。律法主義から福音(主の御名によって来られた方を受け入れる)へと変わらない限り、決して神を見る事は出来ないという事なのだ。
では私達は、今後必ず神を見れるのか。聖書は言う。誰も聖くなければ主を見る事は出来ない(ヘブル12:14)と。これはユダヤ教への宣言と本質的には同じで、どちらも「偽りの信仰から離れよ」という事である。つまり「律法主義から離れて福音へ…」と同じく「偽りの福音から離れて純粋な福音へ…」という事。そうでない限りは決して神を見る(天国に入る)事は出来ない。私達は、主にお会い出来る者でありたい。だから聖められる(偽りから分離される)事を求めよう。
2025年4月20日イースター合同礼拝メッセージ ヨハネ11:19〜45 「嬉しい時」 今回はメッセージだけです。
キリストの復活とは異質ではあるが、死んだラザロが生き返った。勿論、神に不可能は無い。ただ、主とマルタのやり取りがチグハグだ。原因は、その時、マルタが誤解と悲しみのドン底にいた事にある。
まず「主がここにいてくれたらラザロは死ななかった」と言うが、それは手術でも期待しての事か。そもそも主は、離れた所にいる病人を癒した事も何回もある。そして「ラザロはよみがえる」と言う主に「終わりの日によみがえる事を知っている」と答えるが、主は「私は本当によみがえりの主だよ? 信じないのか?」と返す所を見ると、恐らくマルタはユダヤ人の一般的感覚として自らを慰める為に「よみがえり」を「知ってる」と言っただけで本気ではなかったのだろう。そこで、永遠の命を諭す主に、マルタは「あなたがキリストだと信じている」とピントのずれた答えをし、その場から逃げ出して、マリヤに「先生が呼んでいる」とこっそり告げ、選手交代を図った。要は、マルタは、主の言う「本当のよみがえり」を信じていないが故に悲しみの絶頂にあり、会話が噛み合わなかったという事だ。
さあそこでマリヤ出動だが、第一声はマルタと同じく「ここにいてくれたら…」だ。加えて、人々も皆泣いているのを見て、主は憤り、心の動揺を感じ、涙を流された。「ラザロを愛していたから」と当時の人々も、今の教会も理解しているが、主が涙を流されたのは、ラザロの墓に行く前である。つまり、主が涙を流す程に心を痛められたのは、人々が永遠の命の希望をまるで持っていない事にである。結果、生き返ったラザロを見て人々は主を信じた。と言っても、天国の希望を持つに至った訳ではない。事実、のちに主が十字架にかけられた時も(復活を何度も予告されていたのに)人々は失望した。
だから主は(涙を流す程に)人々に、天国の希望を持ってもらいたかったという事だ。その希望が無ければ、人は死んでお終い。悲し過ぎる。しかし、イースターは、キリストの復活による永遠の命の約束だ。一年に一回のイースターという特別な日が来たから嬉しいのではない。その天国の約束が、今日明日で終わるのではなく、生きている限り…でもなく、死んだ後も永遠に続く…それが嬉しいのである。
2025年4月13日礼拝メッセージ マタイ23:23〜28 「本質を見る」 メッセージは13分半頃からです。
クリスチャンは、主の命で買い取られた(贖われた)ゆえに全て主のものであって、十分の一所か「自分自身を生きた供え物として主に捧げよ。それこそ霊的な礼拝である」(ローマ12:1)とパウロは言う。そう、捧げる事は「自分の心で決めた通り、嫌々ではなく喜んで」であり、礼拝なのである。しかし、律法学者・パリサイ人達にとっては、それは、あくまでも「掟・守るべき事」なのだ。そして主も、そこは否定はしない。ただ「それより遥かに重要な事がある」と言う。それは「正義・憐み・誠実」である。これこそしなければならない事なのに、それを疎かにしていると主は言われる。
律法が目指すのは「愛」だ。神を愛し…隣人を…この二つが律法の全てである。しかも律法はキリストへの養育係だと聖書は言う。では、律法によってキリストに導かれた者は何を知るのか。神の愛だ。律法は最終的にはそこに辿り着くのである。それを疎かにしながら「律法を守れ」は空しい。一番大事な所が抜けている。だから主は「目の見えぬ手引き共」と言われた。物事の本質が見えていないのだ。それは「人間」という者の性なのかもしれない。例えばイースター。何が大事かと言えば、イースターは、天国での復活の約束だという事だ。それ抜き(天国の確信無し)で騒いだ所で無意味。そういう愚かさを主は言う。「ぶよは、こして除くが、ラクダは飲み込んでいる」と(24)。
だから「まず、内側を清めよ」と主は言う。罪の問題を解決せよという事だ。そうすれば外側(人生)は変わる。聖なる神の子とされるのだから。そうでなない限りは、どんなに着飾っても(外側は「正しい」と見えても)内側は罪と死を抱えたままだという事である(25〜28)。クリスチャンも、的外れな事(クリスチャンとして、こうあるべき…とか)にばっかり一生懸命になりがちだが、信仰の本質を見る事が必要だ。それこそ、しなければならない事なのだ。
主から見れば、確かに人間は皆、内側は穢れた者。だが、そんな人間を救いたいと主は願われた。その主を喜び、感謝し、仕え、崇め、捧げる…それがクリスチャンの本質(うわべではなく中身)だ。それを一番大事な事として、主を喜び、感謝し、仕え、崇め、捧げよう。
2025年4月6日礼拝メッセージ マタイ23:16〜22 「目の見えぬ人たち」 メッセージは9分半過ぎからです。
誓いについての教えだが、結論は? 結局、どうしろという事なのか。確かに主は「決して誓うな」と言われた(マタイ5:34〜37)。しかし、それは「もし行いの正しさで義を立てようと言うなら」という文脈での話だ。だから「誓うな」は「完全である為」なのである。では、完全である為には誓ってはいけないのは何故か。それは、誓いを100%果たせる人はいないからだ。誓う気持ちは嘘ではなく、本気で誓ったとしても、人間にはどうしようもない事(不可抗力)があるゆえに誓いを果たせない場合も起きるのだ。だから、完全である為には「決して誓わない」しかないのである。しかし私達は、完全な人になる事など目指さないのだから、誓っても構わない。本気で、その約束・誓いをしたいのなら。ただ、やむを得ない事情で誓いを果たせない事もある。それは不完全な(罪ある)人間だからだ。それを認めて救いを求めればいい。それが福音なのだから。
所が、律法学者・パリサイ人達は、誓いを無効にする方法を勝手に編み出していた。それは、誓いを果たせなかった時の言い逃れの為だ。つまり、本来なら「誓いを果たせなくて済みません」と言うべき所を「あの誓いは無効な誓いだから果たせなくてもいいのだ」と開き直った。それが「神殿を指して誓ったのなら何でもない」等だ。ズルい。不誠実だ。それなら何の為に誓ったのだ。初めから無効な誓いをするのは、嘘をついてるのと同じではないか。主はそれを責めた。結局、主の教えは「誓いに無効な誓いなど無い」「誓いは全て有効だ」であって、「誓うな」ではない。とは言え、誓いを100%果たせないのが人間だから、誰が何と言おうと完全を目指すと言う人には「ならば決して誓うな」しか無いのである。それを分からず、文字通りに「誓うな」と教えるなら「目の見えぬ手引き共」と言われるかもしれない。
キリストについての預言で、イザヤ書に「盲人の目は開かれる」とあるとルカ4:18は言うが、元々は「囚人には釈放を告げ」だ(イザヤ61:1)。脱獄は正義ではないし、キリストのする事でもない。だからこれは「霊的に囚われている人を解放する」それがキリストだという事である。私達もキリストの弟子として霊的な目を開いて頂こう。
2025年3月30日礼拝メッセージ マタイ23:14〜15 「御国の子」 メッセージは9分頃からです。
他人の(それも、やもめの)家を食い潰すとは言語道断だが、そのくせ見栄の為に長い祈りをする…つまり、やっている事は詐欺・強盗と似た様なものでありながら、それを信仰の名の下に正当化する…そこが忌わしいのである。人一倍酷い罰を受ける、と主は言われる。
献金・伝道・祈り…その宗教的行為は、誰の為なのか。「神の為に…」とは言うが、実は自分の為になってしまっていないか。そもそも、神は人に何かしてもらう必要が無い。神に足りないものは無いのだ。人間が神の役に立てる事は何も無いと言える。伝道すらも、わざわざ人間に頼んでやってもらわなくても、神がその気になれば全能の力で強制的に救う事も出来る。だから極端に言えば、伝道は神の為ではなく、人間の為(愛する人に救われて欲しい…という人間の願い)の為なのだ。だから神は、人間の為にと思って「福音を宣べ伝えよ」と言うのである。決して、神の勢力拡大の為などではない。勿論、人が救われるのを神は喜ぶのだが。
ダイレクトに神の為になる(=神が人に求める)もの、それは、賛美と礼拝である。何故なら、それらは自分でする事ではないからだ。そして礼拝は日曜の朝だけではない。生きる事・人生が礼拝となるのである(ローマ12:1)。すなわち、信仰による希望・天国の平安・喜びに満ちた生き様…それらが神の素晴らしさを表す賛美と礼拝なのである。その点、律法学者・パリサイ人達の生き方は全く礼拝となっていないどころか、神の名にドロを塗るようなものだ。全く忌わしい。
もう一つ、必死で改宗者を作る事も。問題は、改宗させた人(伝道者)の信仰が純粋かどうかだ。曲がった信仰・教えを伝えて改宗させたのなら、改宗した人の信仰も曲がったものとなってしまう。たとえクリスチャンが増えても、救いの確信の無いクリスチャン(沢山いるらしいが)なら、それを神が喜ぶだろうか。全ての人に福音を…と主は言われたが、天国に行けないクリスチャンを増やせとは言われていない。私達は、そんな教会員を作るのではなく、キリストの本当の弟子を作りたい。その為には、まず自分からだ。自分自身が本物の信仰を持って、それを伝えれば、御国の子を作る者となれる。
2025年3月23日礼拝メッセージ マタイ23:13 「憧れの…」 メッセージは9分頃からです。
律法学者・パリサイ人達への批判の雨アラレ、その第一弾。何と、人々が天国に入るのを妨害していると言う。他ならぬ宗教的指導者達がである。忌わしい。理由は、彼らは「自分も入らず」…すなわち、天国に入る気が無いのである。例えば、地獄があると本気で信じていない人ほど「地獄に落ちても構わない」と言う。同様に、天国を本気で信じていないから「天国に入ろう」という気にならないのである。それでも宗教的指導者なのだから嘆かわしい。勿論「天国に入りたくない」と言う人を無理強いする事は出来ないが、入ろうとしている人の邪魔をするのは困りものだ。主は「忌わしい」と言われた。
聖書は「地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」と言う(コロサイ3:2)。本当の命を得る為である。地上の命は、幾ら求めても有限だ。なのに、もし何かが、クリスチャンの心・思いを地上の事(世の欲・繁栄)に向けさせるなら、それは言わば、神から遠ざけているという事になる。一体、何がクリスチャンを神から遠ざけるのか。一つは「地上に執着する思い」だろう。それが「天国への興味」を失わせる力として働く。例えば、信仰のレースを走り抜いて、やっと天国…という時になっても「生き返り」を求めるなら、それは天国より地上の方が良いという事かもしれない。忘れてはならない。クリスチャンにとって死は敗北ではないという事を。イエスを神の子と信じる者は世に勝つ(罪が赦されて救われる=天国に入る)のだ(Tヨハネ5:4)。信仰は、この世の勝ち組に入る事ではないのである。主は「片足を失っても天国に入る方が良い」(マルコ9:45)と言われた。だから、何も失わない(豊かさに満ちる)のが信仰であるかの様な風潮に惑わされてはいけないのである。
今は終わりの時代である事は間違いが無い。キリスト教も、命の無い信仰かご利益信仰かに二極化されて行くだろう。私達は、天国への興味を失わない様にしたい。いつか必ず、その時は来るのだから、避けるのではなく、向かい合わなければならない。天国にこそ、全ての解決がある(病、苦しみ、悲しみ、死からの解放がある)のだから。その天国への思いを日々強め、保ち続けて歩もう。
2025年3月16日礼拝メッセージ マタイ23*1〜12 「ひざをかがめて」 メッセージは7分過ぎからです。
幾つかの戒め(禁止事項)である。まずは「律法学者・パリサイ人達は、言うだけで実行しないから真似するな」(3)。それは、葉っぱだけ茂って実の無いイチジクであって、裁かれる。4節も同様に、人には厳しい律法主義だ。それで主は言われた。「彼らは人に見せる為にしている」と(5)。つまり「自らを敬虔な信仰者と装う為」だ。続いて「先生と呼ばれてはいけない」(6〜8)である。それを文字通りに実行する人がいるが、ならば9節も鵜呑みにして、父親を「我らの父」と呼ぶ兄弟を裁かなければならない。文字通りに信じるならば、だ。
先生と呼ばれてはいけない理由は、教師はただ一人だけだからだ。では何故、主は教会に教師を立てたのか(エペソ4:11)。教師は一人だけではないではないか。そう、たった一人の教師とはキリストの事だ。主なるキリストはただ一人なのである。だから「先生と呼ばれるな」という戒めの意味は「我こそは主なり…という振る舞いをするな」という事なのだ。「みんな兄弟なのだから」という事である。律法学者・パリサイ人達は、自らが主であるかの様な振る舞いをしていた(4〜7)から批判しているのである。必然的に9節も同じ趣旨で「地上の誰かを神に祭り上げるな」…要は「誰をも神格化するな」という事だ。だから「師(指導者)と呼ばれてはいけない」(10)も「指導者(信仰の創始者であり完成者)はキリストだけ」だからなのである。所が、律法学者・パリサイ人達は「我こそ信仰の完成者なり(律法による義を達成した)」と思い上がっていたがゆえの戒めなのである。
そういう訳で、3〜10節の戒めを、文字通りに行おうというのは、はなはだ見当外れ、的外れなのである。だから主は「仕えなさい」と言われた(11)。指導者にとって「仕える」とは「聖書をきちんと教える」事だ。その為に「這いつくばって、身を粉にして働け」というのが12節だ。それが文脈による理解である。
これらの事から私達が学ぶのは、律法主義に気を付けるべき事である。御言葉を使って人を攻撃してはいけない。御言葉は、人を救いに導き、魂に安らぎを与える為のものだ。そんなクリスチャン・主の弟子になりたい。その為に腰をかがめて、膝を折って祈ろう。
2025年3月9日礼拝メッセージ マタイ22:41〜46 「もはや誰も」 メッセージは9分過ぎからです。
主からの問いかけ(キリストを何故「ダビデの子」と呼ぶのか=呼ぶな)に対して誰も一言も答える事が出来ず、それ以来もはや誰も質問しなくなった。それ程の圧倒的な問いかけだったのである。しかし病人が「ダビデの子よ、憐れんで下さい」と叫べば、主は嫌がるどころか、それに応えて癒しを成した。それは、ご自分(キリスト)をダビデの子と認めているのではないか。ならば何故、否定するのか。
理解の鍵は「ダビデの子」とは何なのか、だ。事実、主はダビデの家系に生まれたが、人々が「ダビデの子」に期待していたのは、ダビデの時代の栄光のイスラエル王国の再建だった。すなわち「ダビデの子」という呼び名は、ダビデの様な政治的・軍事的な王を意味するのである。だから主は「私はそんな王ではない。キリストはダビデの子ではない」と言われたのである。しかし、人々のキリストへの期待は、あくまでも政治的革命家である。それ故に最終的には人々は失望し、キリストを十字架につけた。そうして、神の愛・恵み・救い…を受け損ねてしまったのである。悲しむべき事だ。
クリスチャンも、キリストに何を期待するかが問題だ。もし、地上の欲得を期待するなら、イスラエルと同じ結末を迎える事になるかもしれない。それでは信仰の意義を見失っていると言わざるを得ない。つまり、何の為に信じるのか、何の為のクリスチャンなのか、である。教養を身に着ける為や人間として成長する為などではない。天国に入る為だ。地上での恵み・祝福は、言わばオマケなのであって、本末転倒してはいけない。世にあっては患難がある…それが基本だ。その患難を全て取り除く事(健康と繁栄)が信仰なのではないのである。
世の光になるという事も、善人になる事ではない。闇の世にあって、「真実な天国への道」を照らし示す…それが世の光だ。更に「何が救いか」にも光を当てる。お金ではない、健康なら救われるのではない。辛口だが味のある塩として「本当の救い」を示すのである。同時に、信仰の腐敗を防ぐ(キリストは「ダビデの子」ではあっても、この世の王ではない事を知らしめる=キリストに対する期待を間違えないようにする)のも世の光・地の塩なのである。
2025年3月2日礼拝メッセージ マタイ22:34〜40 「隣人を…」 メッセージは8分頃からです。
多忙を極めたため、この回の要約はありません。ご了承ください。
2025年2月23日礼拝メッセージ Uコリント13:7〜13 「終わりに、言います」 メッセージは7分頃からです。
コリント教会へのパウロの最後のメッセージである。まず「喜びなさい」(11)。これが別訳では「さようなら」だ。つまり、別れの挨拶として「救いの喜びを失わない様にね」と言葉をかけている訳である。
問題は次の「完全な者になりなさい」だ。やはり主が言われた通り「父なる神が完全であると同じ様に完全であれ」(マタイ5:48)という事なのだろうか。確かにパウロは教会に対して「どんな悪も行わない様に祈る」(7)と言うが、それは父親的な立場としては当然だろう。正しい行いをして欲しいと願う…それが人情だ。では「正しい行い」とは? 8節との繋がりから考えるに、それは「真理に逆らわない」という事であろう。必ずしも、行いの正しさを追及するのではない。更に「完全な者になる事を祈っています」(9)は、直訳では「完成の為に…」だ。クリスチャンの目指す「完成」、それは「救いの完成」だ。パウロは、その為(教会が救いの完成に至る様)に祈っていると言うのである。だから、厳しい処罰(除名等)を受けて脱落する事の無い様にと予め言うのである(10)。決して、完全な人間になる事を願っているのではない。そして、続くのが11節「完全な者になりなさい」だ。文脈から理解すれば、これは「救いの完成を得る者となれ」…つまり「純粋な信仰を保って天国に入れ」という事だ(カタルティゾーという原語からもそう理解出来る)。だから「完全な人になって天国に入ろう」等と考えてはいけない。それは純粋な信仰ではないのである。
加えてパウロは「慰めを受けなさい」と言う。優しい言葉をかけてもらえという事ではない。罪の体を脱ぎ去って天国で新しい体が与えられる…それがクリスチャンの受ける慰めだ。その慰めを受ける為に「救いの完成を得なさい」と言うのである。そして、それが目標だという点において「一つ心になれ」なのだ。次の「平和を保ちなさい」も、神との平和の事である。「そうすれば神が共にいて下さる」と続くのだから。
以上がパウロの遺言的メッセージだ。一番重要な(ゆえに何度も語ったけど)最後にもう一度(言わずにはおれずに)語るのである。私達も天国で慰めを受ける事の出来る様に、純粋な信仰を守り続けよう。
2025年2月16日礼拝メッセージ マタイ22:23〜33 「希望と力」 メッセージは7分過ぎからです。
夫である7人兄弟の長男が死んだ後、律法に従って弟と結婚したが、その弟も死に、またその弟も…そして、ついには7人共同じ様になり、最後に女も死んだら、復活の際には、その女は7人の内誰の妻になるのか…という、復活を信じていないサドカイ人ならではの、見事な難問である。だが主はそれを「思い違いだ」と一蹴された。そして「復活の時には、人はめとりも嫁ぎもしない」と説明されたのだが、「復活の時」とは、新天新地に入った時だ。すなわち、天国では結婚というものは無い、という事である。天国は(御使い達の様に)生まれるとか死ぬとかの無い、永遠の世界なのだ。つまり、復活というものは、この世のシステムの中に生き返るのではないという事である。人間の世界から、神の世界・システムへと、生きる世界が変わるのだ。なのに復活後(天国で)も、地上の結婚・家族というシステムがあると考える事が「思い違い」なのであって、それは「聖書も神の力も知らないからだ」と主は言われた(23〜30)。更に「神は生きている者の神だ」とも(31〜32)。つまり、アブラハムもイサク、ヤコブも生きている(永遠の命を生きる者として、神の御手の中にある)という事だ。そんな彼らに新しい体が与えられる…それが復活なのである。決して、以前の体(環境)が再現されるのではないのだ。
結局、復活は有ると言うパリサイ人も、無いと言うサドカイ人も、どちらも「この世の延長的な復活」を考えていたのであり、群衆も、どちらかが正しいはずだと思っていた。しかし主は、そのどちらをも「思い違い。聖書も神の力も知らないからだ」と否定されたので、群衆は驚いた。信じていた事が、間違いだったと知ったのだ。その衝撃はどれ程であろうか。
私達も、天国への旅を歩む者として、聖書を知らないでいる訳にはいかない。聖書を知らないまま天国への旅を続けるなら、必ず迷う。勿論、聖書の全てを知るのは難しいだろうけれども、少しでも多く、知る方が良いし、悟りを求めるべきである。その様にして、知れば知る程、天国への希望は揺るがないものとなってゆくのだから。そして、その希望が、信仰が、地上を生きる力となるのだ。
2025年2月9日礼拝メッセージ Uコリント12:11〜13:6 「生ける神の宮」 メッセージは11分半頃からです。
恨み節、嫌味、弁明に満ちているが、全ては教会を築き上げる為だとパウロは言う(11〜19)。しかしパウロには「恐れている事がある」。「教会が悔い改めて純粋な信仰に留まってくれるように、という期待が外れてしまう事」を恐れているのだ。もし、そうなったら、それは指導者としてのパウロの恥であり、神に辱められる(20〜21)。
そこでパウロは、コリントに行く前に(次が3回目だから、と)前もって警告を与える。3回目の訪問で、教会にまだ依然として罪があるのを確認したら、今度は容赦しない、と(13:1〜2)。その厳しさの理由は、教会が「パウロが使徒だという証拠を求めている」言い換えれば「パウロを使徒として認めていない」からだ。逆に、偽使徒は受け入れているのに、である。キリストの権威を何だと思っているのか…とパウロは言いたいのだろう(3〜4)。それで「処罰されないで済むかどうか、信仰を吟味せよ」「仮にもクリスチャンでしょ? キリストが内住してるでしょ?」「但し、キリストが内住してない(クリスチャンとして不適格)なら別だが」と詰め寄る(5)。
コリント教会とパウロが、ここまで拗れた理由、それは教会が偽使徒達に騙されたからである。教会の全ては、聖書の教えに基づいているものなのに、その土台(聖書の教え)が腐敗したら、建物は崩れる。教えが曲がったら、全てが曲がってしまうのだ。だから、偽りの教えから離れなければならない。それが聖めである。そして、聖くなければ誰も神を見る(天国に入る)事は出来ない(ヘブル12:14)と聖書は教える。その、聖めを拒む事は、聖霊を与えて下さる神を拒む事だ(Tテサロニケ4:8)とも。そして、それは同時に、キリストの内住を否定する事(クリスチャンとして不適格)なのだ。しかし、と6節。キリストは内住している。それをコリント教会が悟る事をパウロは望む。つまり、自らが生ける神の宮である事を悟って、霊的な聖めを求めよ、という事なのである。
神の宮が霊的にけがれていていいはずが無い。偽りの教えという偶像の様なものから離れる事が必要だ。御霊によって聖められる(分離される)道を歩み続けよう。
2025年2月2日礼拝メッセージ マタイ22:15〜22 「カイザルか、神か」 メッセージは11分半からです。
「神のものは神に」とは、どういう意味か。ある人は、これを「献金の教え」とする。別の人は「クリスチャンの社会的責任の教え」として、税金は払うべき、法律は守るべき、国の方針に従うべきと語る。加えて、それ以外の考え方もあって、意見が分かれる所だ。
しかし、その主の言葉を聞いて「彼ら(パリサイ人の弟子とヘロデ党の者達)」は、驚嘆して立ち去ったのである。意見が分かれる所か、納税反対派も賛成派も全員が(「神のものは神に」とはどういう意味かを理解して)退散するしかない程の、説得力のある言葉だったのだ。なのに何故、キリスト教では解釈・意見が割れるのだろう。
さて、この論争の舞台はどこか。それは神殿(宮)である(21:23〜)。つまり「彼ら」は、神殿にデナリ貨幣(神格化されたカイザルの肖像=偶像)を持ち込んでいたという事だ。パリサイ派の論理で言えば、それは既に神への裏切り・律法違反である。しかもそこには「神であり大祭司」という銘が打ってあった。だから主は「神であり大祭司って、それは誰の銘か」と聞かれたのである。それに対して「カイザルです」と答えたという事は「カイザルこそ神・大祭司だ」と言う様なものだ。その銘が刻まれた貨幣を神殿に堂々と持ち込んでいるのだから。つまり、これは「誰が神か」という問題なのだ。もしカイザルが神だと思うなら、カイザルに返せ。もし神が神だと思うなら神に返せという事なのである。
納税賛成派のヘロデ党も、ユダヤ人であるが故、カイザルが神だ(カイザルに返せ)とは言えない。反対派のパリサイ人は、神殿に偶像を持ち込んでいる事を突かれて黙り込んだ。反論の余地も疑問も与えない、有無を言わせぬ圧倒的なメッセージだ。これを「献金の教え」「社会的責任の教え」とするのは見当外れである。
とは言え、私達は社会人として税金は納めるし法律は守る。しかし決して、この世に仕えているのではない。問題は「誰が神か」だ。そして、献金の問題ではなく、誰に仕えるのか、という問題なのである。
私達が仕えるのは、真の神イエス・キリストである。その唯一真の神イエス・キリストを、私の神として仕えよう。
2025年1月26日礼拝メッセージ Uコリント12:1〜10 「何を誇るのか」 メッセージは14分頃からです。
興味をそそるのは、まず神秘体験(2〜4)。第3の天とは? パラダイスとは? リアルな天国・新天新地は未だ現れていないが、パウロはそれを幻で見たという事か。それとも実体験か。ヒントとなるのは、主が十字架で一人の犯罪人に「あなたは今日、私と共にパラダイスにいる」と言われた事だ。勿論、新天新地ではない。「私と共に…いる」つまり、神が共にいる場所(神の住む世界)それがパラダイスであり、それはある意味、天国だと言えるだろう。そこでパウロは不思議な言葉を聞いた。そんな凄い体験をした人を誇る…と言うが、それは神秘体験を求めなさいという事ではない。パウロが神秘体験をあえて語るのは、肉的な事を誇って威張っていた偽使徒達を打ち負かす(どうせなら霊的な事を誇れ、と諭す)為である。だから神秘体験を重視する必要は無いし、体験した人を過大視するのも良くない(5〜6)。
次に、肉体の棘・病だ(7〜9)。3回祈ったけど癒されなかった。祈る回数が足りないのか、不信仰なのか。いや、パウロが高ぶらない様にと、神がサタンを用いて打ったのだと言う。すると、何でもかんでも病人に「サタンよ去れ!」と叫ぶのはお門違いと言うものだろう。確かに、神の憐みによって癒されるケースはあるだろうが、祈ればどんな病も治る…は行き過ぎだ。しかも、治らない場合に9節を引き合いに出して言い逃れするのはご都合主義だ。パウロは、それを直接神から聞いたのだ。聖書の完結していない時代だったからだ。今は、聖書は完結している(御心は全て出揃った)のだから「聖書に従う」が基本だ。それ以外(「主は言われる…」等)は危険だ。
とにかく、人間は弱い。だからこそ、そこに神の力は働く。だからと言って、殊更に弱くなる必要は無い。強くなれるならなるに越した事は無い。しかし人間であるという事自体が弱さなのである。肉の性質、罪があり、死ぬ…それらが「弱さ」だ。だが、そこに神の力が働く。赦し、救い、命だ。それが9節の御言葉の神髄である。ですから、と10節。究極は殉教にも甘んじたパウロ。そこに、復活の力が完全に現れるのである。人生の苦難も、そこに神の助け・慰めが現わされる事を求めよう。誇るなら、弱さに現わされる神の力を、だ。
2025年1月19日礼拝メッセージ マタイ22:1〜14 「…多いが、…少ない」 メッセージは15分からです。
招かれていた人々とはイスラエルだが、結局は招きを断ったので焼き滅ぼされた(1〜7)。だが、それが結論ではない。話はまだ続く。次は、救いが異邦人に移る事を表す話だ(8〜10)。但し「皆、宴会に招け」は異邦人なら良い人でも悪い人でも救われるという事ではない。福音(救いへの招き)を全ての人に…という事だ。所が、その福音の招きに応じて集まった人の中に、宴会場(天国だろう)から追い出された人がいる。礼服(義の衣だろう)を着ていなかったからだ。つまり、罪が赦されていないのだ。何故赦されないのか。悔い改めていないからだ。それなら何故、宴会場に入れたのか。
その問題は一旦さて置き、この喩えの中心ポイントは14節だ。招かれる者は多い。事実イスラエルは全員招かれている。しかし、選ばれる(悔い改めて救われる)者は少ないという事である。
そこで、先の異邦人の話が挿入される目的は何か。それは、異邦人も皆招かれているという事だ。そして一旦、招きに応じた人々が世界には相当数いる。そして彼らの集まる「教会」は天国の前味だと言われる。9〜10節は、それを表すと思われる。しかし、その中に、本当の悔い改め・純粋な信仰・神を求める心…を持つ人がどれだけいるのだろう。もしかしたら、イスラエルの様に形だけの信仰(神と真剣に向き合っていない)人もいるのだろうか…11〜12節はそれを表していると思われる。だから彼は、王(神)の問いかけに答えない。神を求めていない、神に背中を向けている(この世の富、ご利益に心が向いている)のだ。悔い改めるチャンスだったのに。今が恵みの時、救いの日なのに。聖書と聖霊の促しのある内に悔い改める事が必要だ。
もう一度、中心ポイントを。…招かれても応じる人は少ない(特に日本では)。仮に応じても、本当の信仰を持つ人は必ずしも多くはない。それは異邦人もイスラエルも同じだ。
だから今、私達は改めて、神に向き合いたい。そして、御言葉の教えに従って、ご利益信仰からいよいよ離れる事が必要だ。更に、キリストの言葉に留まる、本当の弟子とされる事を求めよう。その道のりは、楽な道ではないかもしれないが、見失う事無く歩み続けよう。
2025年1月12日礼拝メッセージ Uコリント11:16〜33 「誇る必要があるなら」 メッセージは16分からです。
偽使徒達を排除する為に自ら愚かになって見せた(自らを真の使徒だと誇った)が、同時に偽使徒達をやっつける為に無報酬で働く(愚かに見える)事を「愚かと思うな」と言う。それでも愚かだと思うなら仕方ない…という事で、肉による誇りによって勝負しようかと言うのだが、パウロが語るのは武勇伝ではなく「苦労話し」だ(16〜27)。しかし、そんな生々しい話(鞭打ちの刑とか)を詳細に語っても益にはならないし語りたくないとパウロは言うが、しかし語らざるを得なかった。それほどに教会は偽使徒達の餌食となっていたのである。それは単なる肉体的な苦労以上にパウロの心を痛めつけた(28〜29)。
それで「もしどうしても誇る必要があるなら、自分の弱さを誇る」(30)と言う。つまり、既に語った「苦労話し(自分の弱さ)」それが誇りだという事である。さて、偽使徒達は肉の武勇伝、パウロは苦しんだ自慢…勝負になるのか。パウロは勝てるのか。勝負所は「パウロの苦労は、教会を立て上げ守ろうとするがゆえに負った苦労だ」という所である。無報酬で働くのも同様だ。そして、それは嘘ではない、たとえ権力者の迫害を受けてでもだ、と言う(31〜33)。
改めて、パウロは弱さ(いかに苦労したか)を誇っている。それは、ともすれば、単なる苦労自慢に終わる。しかし、パウロの苦労は「教会を立て上げ、守る為」に、あえて負った苦労だ。その為に無給で働きもした。そうして来た事が自慢だ、誇りだという事なのである。だから、誰もパウロを(ひいては、その様な生き方自体を)愚かだと思ってはならない、という訳である(Tペテロ4:12〜19参考)。
信仰を守る為の苦労、真理に留まる為の戦い…それらを体験する事は、決して愚かな事ではない。誰も、それを愚かと思ってはならない。むしろ、信仰を守る為・真理に留まる為の苦しみを誇ろう。苦しんででも、キリストの真実なしもべであろうとする…それが誇りだ。
ペテロが言うには「義人がかろうじて救われる」のだ(Tペテロ4:18)。勿論、信仰による義人の事だ。ならば、その肝心な信仰を守る事はどれ程重大で何物にも代えられない事であるか。私達は、その為の苦労を誇る者となれるように祈ろう。
2025年1月5日礼拝メッセージ マタイ21:23〜46 「知っていながら・・・」 メッセージは12分過ぎからです。
度重なる論争の相手、それは宗教指導者達(イスラエル)である。つまり主は、言わば「身内(同じ宗教の人々)」と言い争われたのだ。すなわち、それは教理論争(聖書の本当の教えは何か、という事)だ。
それで、指導者達が「何の権威でそんな事をするのか」…言い換えれば「やめろ、権威があるのは我らだ」と言うので、主は「あなた方のどこに権威があるのか」との趣旨で「バプテスマのヨハネは天からか人からか」と尋ね返した。対する彼らの答えは「分かりません」だ。権威どころか信仰も、信念すら無い。人目を気にしているだけである。主は呆れて論争をやめられた(23〜27)。にもかかわらず「ところで」と語り始めた例え話は、やはり宗教指導者達にだ。つまり、指導者達の愚かさを責める為の例え話なのである。
さて「行きたくないと言ったけれど、あとで悔い改めて、ぶどう園に行った弟が父の御心に適う」と答えた指導者達に対して、「では何故、あなた方もそうしないのか。取税人や遊女たちはそうしたのに」と主は責められた(28〜32)。更にもう一つの例えに対して指導者達は「悪い農夫達は裁かれる」と全うな答えをする。そう、正しい。「なら、あなた方もそうなるという事が分かるだろ?」と主は畳み掛ける(33〜44)。さすがに指導者達も気付いて敵意に燃えるが、又もや人目を恐れて手出しをしない(45〜46)。権威を振りかざすだけで、信仰も信念も無い…まさに、見かけだけで中身の無い・実の無いイチジクだ。選民イスラエル・神の民・宗教指導者の名が泣く。
少なくとも、主の例えに対する宗教指導者達の返答は間違いではなかった。彼らは、何が正しいか分かっていたのだ。そのくせ、それをしようとしない、それが罪なのである。「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です」(ヤコブ4:17)とある通りだ。
私達は何をなすべきか。なすべき正しい事は何か。それはまず、義の道を信じ、その道を歩む事。それで、もし道から外れたら、悔い改める事である(32)。そして、もう一つ。父の本当の御心は何か(断ってから悔い改めるのではなく、初めから従うべき)を知る事だ。
2025年1月1日礼拝メッセージ エズラ1:1〜3 「神殿」
2024年12月29日礼拝メッセージ Uコリント11:7〜15 「無報酬」 メッセージは12分からです。
パウロはコリント教会から報酬を受けなかった。そして、それが誇りであり、それを継続すると言う。その意味が「伝道者は無給で働け(神が養ってくれる)」という事なら「福音を宣べ伝える者は、福音の働きから生活の支えを得る」という自らの言葉(Tコリント9:14)に矛盾する。そう、これは決して、無給である事を良しとするのではなく、パウロを攻撃する偽使徒達への反撃の為の言葉なのだ。
パウロへの攻撃とは「パウロが無報酬で働くのは、話が下手で知識も劣っているからだ」とか「教える力が無いから天幕作りで稼いでいるのだ」とか「コリント教会を愛していないから報酬を拒むのだ」という様なものだった。勿論、パウロは否定する。
無報酬で働く理由、それはまず、コリント教会の信仰の益の為だ(7)。具体的には不明だが、「キリストの福音の告白に従順であれ(豊かな所から乏しい所へ)」(9:13)という事だろうかと想像する。次に、偽使徒達が報酬を受けるのを(パウロも報酬を受けてるのだから、と)正当化させない為。それらの理由から、無報酬を継続すると言うのである(12)。そして、偽使徒達のいかがわしさをストレートに突く(13〜15)。だが彼らも一応、働き人(伝道者)と認識されている、いわゆる教職者だ。それでもパウロは彼らを非難する。肩書だけでは信用出来ないと言わんばかりに。何故なら彼らは働き人は働き人でも「人を欺く働き人」だからだ。そんな彼らにコリント教会が欺かれる事をパウロは心配するのである(3)。
だが、果たして教会が欺かれる確率は本当に万に一つか。いや、現実はもっと高い。問題なのは、教会は、異端の教えに対しては警戒はしていても、異なった福音に対しては無頓着である事だ。どんな福音でも受け入れてしまう。例えば「繁栄の福音」(繁栄の神学の別名)。まさに「異なった福音」であるが、広く受け入れられている。
危機感を持つ事が必要である。勿論「彼らの最後は、その仕業に相応しいものとなる」とパウロは言うが、ならば、彼らに欺かれた人も、それに相応しい最後となるだろう。私達は、主の示す、真実な命の道を歩み続けよう。
2024年12月22日礼拝メッセージ マタイ21:18〜22 「あのため、このため、何のため?」 メッセージは15分半からです。
イチジクは、葉っぱと同時に実が成る。なのに、葉っぱが茂っているだけで実が成っていない、そんなイチジクの木を主は呪った(18〜19)。それは、「見せかけだけで中身の無いイスラエルの信仰への裁き」を表す。前日の「宮清め」に続いての出来事だ。これらから、信仰者には真実な信仰が求められているという事が読み取れる。
では、真実な信仰があれば、何でも願いは叶うのか。21〜22節を見れば、そう思えるかもしれない。しかし、それは余りにも安直だ。主が言われたのは、まず「イチジクの木になされた様な事が出来る」だ。つまり「腐敗した信仰への裁き以上の事が出来る」という事だ。そして「それだけでなく、山も動く」と。山が動くとは、聖書の難問を解く事を意味する。すなわち「聖書を悟る」のである。それこそが「腐敗した信仰を断罪する」以上の事なのだ。
そして問題の22節。信じて祈れば何でも与えられる…そんな「あなた方」とは誰か。それは「真実な信仰を持って、聖書を悟った人」である。その人は何を祈り求めるのか。全世界か。それはまだ聖書を悟っていない人だ。全世界など過ぎ去るものに過ぎない。何より永遠の命が大事だ。その様に、聖書を悟って真実な信仰を持った人なら、神の御心と神の支配を求めるのではないだろうか。「神の国を第一に求めよ」と主は言われたのだから。そうすれば「求めたものは何でも与えられる」が実現するのである。その様な文脈である事を読み取らずして、21〜22節だけを切り取って信じ込むのは避けるべきである。
とにかく、救い主がお生まれになったのは、信じる者に全世界を手に入れさせる為ではない。御国を得させる為だ。だから公生涯の第一声は「悔い改めなさい。御国は近付いた」だったのである。そして「必要なものは色々あるが、何はともあれ神の国(神の支配)を第一に求めよ」と言われた。更に「御国が来ますように、御心が行われますように」祈れと教えられた。そうすれば、その求めたものは何でも与えられるのだ。すなわち、天の御国に入るのである。真理を知り、自由になるからだ。それがクリスマスの目的である。この日を、見かけだけで中身の無い信仰にならない様にと自戒する日としよう。
2024年12月15日礼拝メッセージ Uコリント11:1〜6 「見事に、こらえて」 メッセージは13分からです。
「こらえて欲しい」と言いながら「いや、こらえている」とは、どういう事か。「と言うのも」との説明によれば「コリント教会を穢れ無き清純な(純粋な信仰を守り通す)花嫁としてキリストに捧げたい」のだと言う(1〜2)。しかしパウロの心配は、教会がキリストに対する真実と貞潔を失う事だ(3)。何故なら、偽使徒達が教会に入り込んでいたからである。だが教会は、何とか純粋な信仰に踏みとどまろうとしている(4)。それが1節の「こらえている」の意味だ。ただし、何とかこらえてはいるものの、もしかしたら惑わされるかもしれない…という心配もあるので、パウロは「私こそ真実な福音を語る真の使徒だ」と誇るのを「こらえて欲しい」と言うのである。
それゆえに「私は、あの大使徒達に劣っていない」とパウロは言う。「たとえ話は巧みでないとしても、知識がある」と。すなわち、福音についての知識だ。勿論、それはペテロ達も聖霊によって悟らされてはいる。だが福音は、旧約聖書が教える事・律法に基づくものであり、パウロは、その律法の専門家なのだ。その上、主イエスご自身から悟らされた…それが「劣っていない」という自信の根拠である。だから「あえて誇るけど、キチンと福音を教えるから、偽りに惑わされない様に、こらえて(純粋な信仰に留まって)欲しい」「万一にも思いが穢されて、キリストに対する真実と貞潔を失ってしまわない様に」と言うのである。
私達も、その為には、エバの様に欺かれない事が必要だ。つまり「神は本当にそうおっしゃったのですか」という惑わしに気を付けるべきなのだ。エバは、神が本当は何を命じたのかを正確には理解していなかった。だから同じ様に今、大事なのは「キリストは本当は何と言われたのか」なのである。主は本当に「父なる神と同じ様に、完全な者になれ」と言われたのだろうか。「はい、そうです」と多くの人は惑わされている。「主が言われた通り、右を打たれたら左も出さなければいけないのだ。それがクリスチャンだ」という風に。
私達は、主の教えの本当の意味を知る者となりたい。そして、キリストの花嫁として相応しい教会となれる様に祈ろう。
2024年12月8日礼拝メッセージ マタイ21:1〜17 「そんな神の宮」 メッセージは13分半頃からです。
ソロモン以降は馬が最上級の乗り物とされて来たゆえ、ロバは、その座を奪われ、荷物運び役に格下げとなった。しかも主が乗られたのは借り物の子ロバ。車で言えばレンタカーのリヤカーだ。つまり、人が乗るものではないという事である。ましてや王なるお方が。だが、それは実に、十字架で死のうとする王イエスのへりくだりを表していると共に預言(ゼカリヤ9:9)の成就である。そして又、預言(詩篇118)の通り群衆は「ホサナ」と叫んで王を迎えた。すると都中が騒ぎ立ち「この方は、どういう方なのか」といぶかった。何しろ、王と言えば、民を守る為に先頭切って戦うのが常だが、イエスは柔和で、神との平和を作って下さる王なのだ。所が、イエスに従って来たはずの人々は「この方は預言者イエスだ」と言う。主も格下げされてしまった。
そのあと、宮清めだが、主は「私の家は祈りの家と呼ばれる、と書いてある」と言われた。確かに(イザヤ56:7)。だが主の行動はエレミヤ7:1〜15の成就だ。つまり、いけにえの売り買いや両替自体は悪くないし必要な事ではあるが、それを利用して不当な金儲けをしていたという事が「強盗の巣」と主が断罪なされた理由なのである。そして主は、盲人や足萎え(律法的には宮に入れない人々)を癒された。
つまり「宮清め」とは「神の宮はどうあるべきか」という事を示す為のものなのだ。すなわち「祈り、神との交わり、神の御心が行われるべき所」だという事である。所が、宗教指導者達は、子供達が「ダビデの子にホサナ」と叫んでるのを見て腹を立てた。主の対応は「詩篇に書いてある通りだ」である。
結局、ロバの子〜エルサレム入城〜宮清め…この一連の出来事は全て預言の成就だという事である。なのにイスラエルは自分達の王を受け入れなかったばかりか、神の宮を強盗の巣にして私腹を肥やしていた。そんな堕落した神の宮を清めたい、そして平和の王としてキリストを受け入れて欲しい…それが神の御心なのである。
同じ様に、神の宮である私達も清めたいと主は願っておられる。偽りや堕落した信仰から。それによって、神との平和を築く…それが神の宮のあるべき姿なのだ。
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