2019年10月1日、玄武書房より全国発売されました。アマゾンにて購入いただけます。画像をクリックすると購入ページに飛びます。
以下、礼拝メッセージの要約と共に音声もお聴き頂けます。
2024年12月22日礼拝メッセージ マタイ21:18〜22 「あのため、このため、何のため?」 メッセージは15分半からです。
2024年12月15日礼拝メッセージ Uコリント11:1〜6 「見事に、こらえて」 メッセージは13分からです。
「こらえて欲しい」と言いながら「いや、こらえている」とは、どういう事か。「と言うのも」との説明によれば「コリント教会を穢れ無き清純な(純粋な信仰を守り通す)花嫁としてキリストに捧げたい」のだと言う(1〜2)。しかしパウロの心配は、教会がキリストに対する真実と貞潔を失う事だ(3)。何故なら、偽使徒達が教会に入り込んでいたからである。だが教会は、何とか純粋な信仰に踏みとどまろうとしている(4)。それが1節の「こらえている」の意味だ。ただし、何とかこらえてはいるものの、もしかしたら惑わされるかもしれない…という心配もあるので、パウロは「私こそ真実な福音を語る真の使徒だ」と誇るのを「こらえて欲しい」と言うのである。
それゆえに「私は、あの大使徒達に劣っていない」とパウロは言う。「たとえ話は巧みでないとしても、知識がある」と。すなわち、福音についての知識だ。勿論、それはペテロ達も聖霊によって悟らされてはいる。だが福音は、旧約聖書が教える事・律法に基づくものであり、パウロは、その律法の専門家なのだ。その上、主イエスご自身から悟らされた…それが「劣っていない」という自信の根拠である。だから「あえて誇るけど、キチンと福音を教えるから、偽りに惑わされない様に、こらえて(純粋な信仰に留まって)欲しい」「万一にも思いが穢されて、キリストに対する真実と貞潔を失ってしまわない様に」と言うのである。
私達も、その為には、エバの様に欺かれない事が必要だ。つまり「神は本当にそうおっしゃったのですか」という惑わしに気を付けるべきなのだ。エバは、神が本当は何を命じたのかを正確には理解していなかった。だから同じ様に今、大事なのは「キリストは本当は何と言われたのか」なのである。主は本当に「父なる神と同じ様に、完全な者になれ」と言われたのだろうか。「はい、そうです」と多くの人は惑わされている。「主が言われた通り、右を打たれたら左も出さなければいけないのだ。それがクリスチャンだ」という風に。
私達は、主の教えの本当の意味を知る者となりたい。そして、キリストの花嫁として相応しい教会となれる様に祈ろう。
2024年12月8日礼拝メッセージ マタイ21:1〜17 「そんな神の宮」 メッセージは13分半頃からです。
ソロモン以降は馬が最上級の乗り物とされて来たゆえ、ロバは、その座を奪われ、荷物運び役に格下げとなった。しかも主が乗られたのは借り物の子ロバ。車で言えばレンタカーのリヤカーだ。つまり、人が乗るものではないという事である。ましてや王なるお方が。だが、それは実に、十字架で死のうとする王イエスのへりくだりを表していると共に預言(ゼカリヤ9:9)の成就である。そして又、預言(詩篇118)の通り群衆は「ホサナ」と叫んで王を迎えた。すると都中が騒ぎ立ち「この方は、どういう方なのか」といぶかった。何しろ、王と言えば、民を守る為に先頭切って戦うのが常だが、イエスは柔和で、神との平和を作って下さる王なのだ。所が、イエスに従って来たはずの人々は「この方は預言者イエスだ」と言う。主も格下げされてしまった。
そのあと、宮清めだが、主は「私の家は祈りの家と呼ばれる、と書いてある」と言われた。確かに(イザヤ56:7)。だが主の行動はエレミヤ7:1〜15の成就だ。つまり、いけにえの売り買いや両替自体は悪くないし必要な事ではあるが、それを利用して不当な金儲けをしていたという事が「強盗の巣」と主が断罪なされた理由なのである。そして主は、盲人や足萎え(律法的には宮に入れない人々)を癒された。
つまり「宮清め」とは「神の宮はどうあるべきか」という事を示す為のものなのだ。すなわち「祈り、神との交わり、神の御心が行われるべき所」だという事である。所が、宗教指導者達は、子供達が「ダビデの子にホサナ」と叫んでるのを見て腹を立てた。主の対応は「詩篇に書いてある通りだ」である。
結局、ロバの子〜エルサレム入城〜宮清め…この一連の出来事は全て預言の成就だという事である。なのにイスラエルは自分達の王を受け入れなかったばかりか、神の宮を強盗の巣にして私腹を肥やしていた。そんな堕落した神の宮を清めたい、そして平和の王としてキリストを受け入れて欲しい…それが神の御心なのである。
同じ様に、神の宮である私達も清めたいと主は願っておられる。偽りや堕落した信仰から。それによって、神との平和を築く…それが神の宮のあるべき姿なのだ。
2024年12月1日礼拝メッセージ Uコリント10:12〜18 「霊・信仰の成長」 メッセージは15分頃からです。
果たして、ここに霊的な教えはあるのか。かろうじて信仰の為になりそうなのが17〜18節だが「主にあって誇れ」とはどういう意味か。「主にあって」と言いさえすれば何でも誇っていいのか。実は口語訳では「『誇る者は主を誇れ』と書いてある通りである」であり、エレミヤ9:23〜24の引用である。要は「自分の力を誇るな。もし誇るなら、神を知っている事(悟り)を誇れ」という事だ。それをパウロは、偽使徒を想定しながら言うのである。彼らは仲間内で推薦状を書いたり自己推薦したり、限度を超えて自らを誇り、自分の領域でない(パウロが開拓した)教会に我が物顔で乗り込んで霊的に荒らしていた。だからパウロは「私はそんな事をしない」と言うのである(13〜14)。ただ、コリント教会が霊的に成長したら安心して次の領域に働きに行くけど、それは決して人の上前をはねる為ではない(15〜16)と言う。
とにかく問題は「限度を超えて自分を誇る」という事だ。少し誇るくらいは良いとしても、それ以上に神を誇るべきである。では逆に「神を誇っていない」とは、どんな状態か。それは「信仰生活を楽しんでいない」という事だと言える。何故なら、エレミヤ9章が言うのは「神を信じている、崇めている、賛美している…そんな私は素晴らしい、と誇れ」という事だからだ。だから、例えばもし、真実な礼拝を喜び楽しめないなら、それは神を誇っていないという事になる。
さて続いて「主に推薦される人こそ、受け入れられる人」だとパウロは言う(Uコリント10:18)。これは例えば、転勤等で教会を転会する時に、主の推薦状が必要などという事ではない。あくまでも「真の使徒とは誰か」という問題だ。つまり、偽使徒達は自分で自分を推薦してるだけだという事である。
誇るのも、思い上がるのも、少しなら良い。だが限度を越えてはいけないのだ(ローマ12:3)。神から与えられた自分の領域を越えない様に、という事である。その事をパウロは「一つの体と多くの器官」に例えて教える(ローマ12:4〜8)。だから私達は、神が一人一人に託して下さった領域において熱心に働くものとされたいと願う。「そんな私は素晴らしい」と誇れ、と聖書は言うのである。
2024年11月24日礼拝メッセージ マタイ20:17〜34 「逆転」 メッセージは15分半頃からです。
逆転である。あとの者が先になる。それは十字架と復活においても言える。権力から迫害を受ける「弱い立場=あとの者」である主が、栄光の体に復活する最初の者「先の者」となられた。
さて、受難告知を聞いた「その時」ヤコブとヨハネの母が「二人を御国で大臣にして欲しい」と願った。さすがに主も、それは拒否した。すると他の弟子達がその二人に腹を立てたので、主は言われた。「偉くなりたい者は、仕える者になれ」と。ここにも逆転がある。先の者(偉い人)が仕える者(あとの者)になるのだ。実は、それら逆転の極致・模範こそ、主イエスである。神であられるお方(先の者)が罪人(あとの者)として十字架で死ぬのである。そしてなんと、聖い神の御子が死ぬ事によって、罪ある人間が救われる道が開かれたのだ。
その後、二人の盲人が主に憐みを求めて叫んだ。主は「何をして欲しいのか」と問われたが、盲人は当然「目を開けて欲しい」と答える。すると主は、可哀想に思ったというのである。はて、何が「可哀想」なのか。二人が盲人なのは初めから分かっている事なのに今更だ。
鍵は直前だ。二人の弟子の求めに対して主は「自分が何を求めているのか分かっていない」と言われた。一方、二人の盲人は地位・権力ではなく、神の憐みを求めた。だから主は「可哀想に思った」…それは新共同訳では「深く憐れんだ」である。盲人達が憐みを求めたのだから、それが当然だ。つまり、盲人達は正しいものを求めたのである。
弟子達は、地位・権力を求めたが、退けられた(あとの者となった)。盲人達(弱者=あとの者)は憐みを求めたがゆえ、神の深い憐みを受ける(先の者)となった。この様に、この一連の物語は(盲人の癒しの奇跡も含めて)全て、逆転を表しているのである。
そういう訳で、求めるべきは、神の憐みだ。癒し、富、祝福…を第一に求めるのは、ともすれば自分本位な願いとなる。御国で大臣に…と願った弟子達と同じだ。退けられて「あとの者」とされるだろう。そもそも私達は、神の憐み(悔い改めた者を救おう、という憐み)のゆえに救いの道を与えて頂いたのだから、その驚くべき神の憐みの深さに感謝しつつ、更に神の憐みを求めよう。
2024年11月17日礼拝メッセージ Uコリント10:7〜11 「恐るべき・・・再び」 メッセージは16分半頃からです。
パウロのうわべ(推薦状を持っていない、とか)だけを見て、パウロの使徒性を否定し、軽んじる…そんな、真実を見ようとしない人々にパウロは「もう一度よく考えなさい」と言う(7)。つまり、もし自分が、たとえダメなクリスチャンであったとしても「キリストに属している」と確信しているなら、尚の事パウロもそうなのであり、うわべの事(使徒らしくない、とか)だけで、どうして(自分の事を棚に上げて)パウロの使徒性を否定するのか、という事だ。
そこで8節。「与えられている権威をチラつかせるのも悪くはないだろう」という様な主旨だ。勿論パウロは、教会を倒したいのではないが、神から与えられた権威を以て、除名・追放などの処置をする事も出来る。だが、その権威をチラつかせて脅しているように思われたくはない、と言う。(8〜9)。言い換えれば「パウロが強気なのは手紙だけだ」などと思うなという事だ。実際、そう思われていたから(10)釘を刺して言うのである。覚悟しておけ、と(11)。これは分かりにくいが、新共同訳では「離れていて手紙で書く私達と、その場に居合わせて振る舞う私達とに変わりはありません」だ。つまり「手紙では重々しいパウロも、面と向かっては弱々しく見えるパウロも、どちらも同じ権威を持っているパウロである」という事だ。だから「侮ってたら痛い目を見るぞ」と言いたい訳である。それが7〜11節の話の内容だ。
ただ、パウロの願う事と、与えられている権威は、教会を倒す為ではなく立て上げる為なのだから、本当に強気な態度に出ないで済む様にして欲しい(2)という事、それが文脈なのであって、出来る限り、権威の行使・処罰等はしたくないのである。しかし、それでもダメなら、仕方がない。覚悟しておけ、という訳だ。
さて、これもまた、恐るべき神の裁きの予表だ。「神は愛である」だけでなく「神は裁き主」なのである。神を侮る者・真理に背を向ける者を、最後の最後には容赦なく地獄に放り込む…それが、パウロとコリント教会の関係性の中に預言的に表されているのである。
そんな事にならない様に、私達は、神を畏れ、真理を愛する者となろう。
2024年11月10日礼拝メッセージ マタイ20:1〜16 「損得」 メッセージは15分半くらいからです。
朝早くから働いた人と一時間しか働かなった人、どちらも報酬は同じ1デナリ。不公平だ、と誰もが感じる。結局、結論は「あとの者が先になり、先の者があとになる」だ。果たして、納得出来るだろうか。
そもそも、この喩え話は何故に語られたのか。それは実は「あとの者が先になり、先の者があとになる」(19:30)事の説明の為なのだ。それも「天国はそんな所だ」という事ではなく「主人(神)は、そういうお方だ」という事を描いているのである。すなわち、神は労務者を熱心に探す。それは「神のしもべ(信仰者)になる人を探している」という事だ。そして、神の招きに応じて、しもべとなった全ての人に同じ恵みを施す…そう考えると、神は素晴らしいと思える。
最大の問題は、損得だ。朝早くから働いた人と一時間しか働かなかった人、どっちが損(得)か。但し、これは実社会の話ではなく、信仰の話だ。つまり、若い頃に救われるのと年老いてから救われるのは、どっちが得なのかだ。確かに若い頃に救われたら、主に仕える時間も長くなるし、信仰の戦いも大いにあるだろう(12)。それゆえに「死ぬ間際になったら信じる」と言う人さえいる。しかし、早く信じた方が希望と平安と安心がある人生を長く送れる。その点、遅く信じた人は、本当の平安・喜びの無い人生を長年過ごす事になる。それを表すのが、夕方に雇われた人だ。彼は一日中、仕事の無い不安と焦りに苛まれた(6〜7)。だから、早く雇われた人の方が、喜びと希望に満ちた一日を過ごせた分、得なのである。
では、遅く信じた人は、哀れな人なのか。いや、早く信じた人にも遅く信じた人にも、同じ報酬(天国)が与えられるのだ。それは、どれだけ働いたか(行い)に対する報酬ではなく、神の招きに応じた(キリストを信じた)事への報い・恵みなのである。中には、病床で信じたのち一度も教会の礼拝に出席する事なく召された人もいるかもしれない。まさに夕方5時に雇われた人であり「あとの者が先に」なったという事だ。実に、それを説明する為の喩えなのである。勿論、先の者への報いもある(19:29)。とにかく、信仰歴・働きの大小に拘らず、皆に等しく神の子の特権を与えて下さる神に感謝だ。
2024年11月3日礼拝メッセージ Uコリント10:1〜6 「恐るべき予表」 メッセージは18分からです。
自虐的と思える1節。その真意は「面と向かっても強気でいられるけど、むしろキリストの柔和と寛容を以てお勧めする」という事である。何を勧めるのか。それが2節だ。すなわち「本当に強気な態度に出なくて済む様にして欲しい」という事である。つまり、コリント教会の出方次第では厳しい態度で臨む事になるかもしれないという事だ。
続く3節でパウロは「私達は肉に従って歩んではいない」と言う。しかし「肉にあって歩んでいる」事は認めている。違いは何か。肉にあって…は「肉ゆえの弱さ、限界がある…その中で歩んでいる」という事(人間誰でもそう)だが、肉に従って…は「肉ゆえの罪・欲に従って歩んでいる」という事、そんな歩みをパウロはしているという誹謗中傷に対する反論だ。更に「肉に従って戦ってはいない」と、偽使徒達(自分の欲・利得・肉に従って宣教活動をしている)との違いを主張する。パウロの戦い、その武器は「肉のものではなく、神の御前で要塞をも破る力のあるもの」だ(4)。それは真実な福音の事である。死と霊的盲目という難攻不落な要塞をも破る、それが真実な福音の力なのである。偽りの福音にそんな力は無い。そして真実な福音は「全ての偽り・人間的な思いを打ち砕き、キリストに従う者へと作り変える」のである(5)。しかし、それでも不信仰で逆らう者に対しては処罰する用意が出来ている、と言う(6)。これは未信者の事ではない。真実な福音に逆らう不信仰なクリスチャンに対しての言葉だ。実際にコリントの、ある信徒達に対してパウロは、除名・追放という厳しい処置を行う用意はあったのである。ただ、そうしなくて済む様にして欲しいという事だ。
これは、恐るべき予表である。最後の審判の時、同じ事が起きるのだ。真実な福音に背中を向け続け、偽りの教えから離れなかった教会は厳しい処罰を受ける。そして主は「そうしなくて済む様にして欲しい」と願っておられるのである。だから今の内に、真実な福音を見出して掴まなければならない。今は、それが出来る「恵みの時・救いの日」だ。肉にあって歩んではいても、肉の欲に従う信仰にならない様に、御霊に満たされて歩める様に、主の助けを求めよう。
2024年10月.27日礼拝メッセージ マタイ19:27〜30 「すべては報われる」 メッセージは15分頃からです。
金持ちの青年が、富を捨てる事が出来ず悲しんで去って行った。そこでペテロは「自分達は全てを捨てて従って来たんだから、ご褒美貰えますよね」と言う訳である。とんだ見当違いの主張だ。
そこで主は言われた(28)のだが、これは、天国で12使徒(この時点ではユダも含む)がイスラエルの12部族を裁くという事なのか。いや「私に従って来たあなた方」と呼ばれる為には、途中までではなく最後まで従い通すべきだ。当然ユダは除外される。だからこれは、12使徒の事ではなく、真の弟子・クリスチャンの事と考えるべきだろう。
だが、イスラエルの12部族を裁くとは? 異邦人クリスチャンは裁かれない? それ以前に、天国でも裁かれるのだろうか? これは一体どういう事か。
まず「主が栄光の座に就く時」だから「就いた後」ではない。つまり、天国が始まってから裁きがあるのではなく、天国が始まる際に裁きがなされるという事だ。その時、主イエスに従い抜いた真の弟子達が、不信仰なイスラエルを裁くのだ。と言っても、裁き主は神であって、真の弟子達はその時、神の側に立って、その裁きを見るのである。それが「主に従い通した者への報酬」だという訳である。だから決して、12使徒が天国で大臣になるという事ではない(マタイ20:20〜23参照)。
また「捨てたものはその幾倍も受ける」(29)と言われた。確かに、もしかしたら、信仰の為に勘当されるという事があるかもしれない。その様な、信仰ゆえの苦難があったとしても、その辛さ以上の報いが天にあるという事だ。
だから「何が貰えるか」と心配する必要は無い。主に従って生きる事に損は無いのだから。彼に信頼する者は失望させられる事が無いのだ。ゆえに、宝のある所・天に心を向けよという事である。
ただ、先の者が後になり、後の者が先になる(30)。宗教指導者達より、罪人が主を信じた様に。選民イスラエルより異邦人がキリストを受け入れた様に。昨日信じたばかりの人が、アッサリと天に召される様に。しかし、早くに信じ、長年主に仕える…その労苦に報いはあるのだ。だから主に信頼して、忠実に主に仕え続けよう。
2024年10月20日礼拝メッセージ Uコリント9:8〜15 「言葉に表せない賜物」 メッセージは16分からです。
8〜11節は「沢山献金する事が出来る様に、神様がお金を増やしてくれる(金持ちにしてくれる)」と言っているかの様だ。10節では「種(献金)を蒔いても食うに困らず、種も増える」と言っている。「だから捧げなさい。元手は増えるから」という事か。「献金は額ではなく心だ」という話はどこに行ってしまったのか。
勘違いしてはいけない。献金は、自分が豊かになる為のものではない。パウロが教えているのは、貧しい教会を助ける為の献金だ。それによって平等になる事を目指しているのである。だから「捧げたら祝福される(富が増える)」という考えは、献金を「先行投資」の様なものにしてしまっているという事だ。確かに神は「あらゆる恵みを溢れるばかり与える」(8)とあるが、それは「お金が増える」という事なのか。それが「義の実を増し加える」(10)という事だろうか。いや、結果的に増し加わるのは「神への感謝」だ(11)。つまり、貧しい教会が助けられ平等になるからこそ、神への感謝が増し加わるのであって、それこそが「捧げる事の祝福」なのである。そして、その神への感謝を通して「この奉仕の業」すなわち「弱い教会への助け」が満ち溢れるのだ(12)。それを証拠として…と13節。何の証拠か。「キリストの福音の告白に対して従順である事」の証拠、それが「貧しい教会への献金」だという事である。つまり「豊かな所から乏しい所へ」それがキリストの福音(8:9)であり、それに従っているという事だ。だから「自分を豊かにする為の献金」も「リターンを期待しての献金」も、キリストの福音の告白に従順ではないという事になる。
13節の「惜しみなく与えている」は、脚注にある通り「分かち合っている」が良いだろう。14節「コリント教会に与えられた絶大な神の恵み」とは何か。捧げた何倍ものリターンがあったのか。いや「乏しい教会を助ける事が出来た」という事が「絶大な神の恵み」なのである。だからこそ、助けられた教会から慕われると言うのだ。
最後にもう一度、「豊かな所から乏しい所へ」というキリストの福音…それこそが「言葉に言い表せない程の賜物」(15)であり、それゆえに神に感謝するとパウロは締め括るのである。
2024年10月13日礼拝メッセージ マタイ1913〜26 「誰が、天国に入るのか」 メッセージは14分半からです。
テーマは「誰が天国に入るのか」である。主は、子供達を指して「この様な者達が…」と言われた。子供の様な=自分の力に頼る事の出来ない=神にすがるしかない…人の事だ。すると「どんな良い事をしたら救われるのか」と問う青年が現れた。自分の行い・力に頼っている(子供とは対照的な)人だ。そこで「もし完全になりたいなら」という事で「財産を施せ」と主は言われた。だが、青年はそれを出来なかった。理由は、青年は勿論、当時の人々が「神に義と認められて祝福された、それが金持ち」だと考えていたからだ。つまり、自らの力「行いによる義」を捨てられなかったのだ。だから主は言われたのである。金持ち(行いによる義に頼る人)は救われない、と。
「では誰が救われる事が出来るのか」との弟子達の質問に対して主は「神にはどんな事でも出来る」と答えられた(23〜26)。確かに、そうだろう。だが、それは、あくまでも「神には救える」という意味に限定すべきだ。でないと、ここでの議論が無意味になる。何故なら、神はラクダを針の穴に通す事が出来るからだ。しかし、そんな事はしない。それ故に、それ以上に、金持ちは救われないと言うのだから。その前提を崩してはいけない。あくまでも、神には何でも出来ると言うのであるなら、何故、青年は悲しんで去らなければならなかったのか。全能の神が救ってやればよいのだ。だから、ここは「神には救える」という意味に限定しなければならないのである。神は全能であるという事は、神は何でもしてくれるという意味ではない。
さて「神には救える」…どうやってか。「行いによる義」では救われない。しかし「行いによる義」に遥かに優るものがある。「信仰による義」だ。それは、罪の性質の残ったままの(不完全な)者をも義人としてしまえるのだ。
だから「誰が天国に入るのか」というテーマ…その答えは、子供の様な=自分の行い・力に頼らない=天国に入る為には、ただ神に(十字架による贖いに)のみ頼る…人なのである。それが聖書の教え…その中心・福音だ。この箇所でさえ、それを教えているのである。その神の救いの業に頼って、御国へまっすぐに歩もう。
2024年10月6日礼拝メッセージ Uコリント8:16〜9:7 「頑張らなくても」 メッセージは15分過ぎからです。
豊かな所から乏しい所へ…それがここでパウロが言う献金の本質だ。コリント教会は、それをやろうとしたのだから、やり遂げなさいとパウロは語って来た。だから献金を集めて用意しておいてくれと言うのである(8:16〜24)。何しろ、それはコリント教会が最初に始めた事で、それを皆が見倣っているんだから、言うまでもない事だ(9:1〜2)。だから、献金を用意しておいてくれないと困るという事である(9:3〜4)。
そこで問題は5〜7節だ。「献金を惜しむな。捧げれば捧げるほど神に愛される。豊かに蒔けば豊かに刈り取る」のだ、と教会では教えられるが、それは、ここでの献金の趣旨に沿っているだろうか。
文脈から考えれば「好意に満ちた贈り物」とは「エルサレム教会を助けたいと思う心での献金」のことだ。言い換えれば「豊かに蒔く」という事である。すると「少しだけ蒔く」とは「惜しみながら捧げる」事を意味するのであって、要は、献金は額ではなく心だ(9:7)という事である。だから「喜んで与える」は、献金額の多い事ではなく、好意に満ちて(好意が豊かに表れて)捧げる事なのである。そういう訳で、沢山捧げれば捧げるほど神に愛される…は間違いだという事になる。「豊かに蒔く」=「好意に満ちて、喜んで」という事だ。それがパウロのメッセージである。
さて、パウロは確信して(疑いなく信じて)いた。コリント教会が献金を用意しておいてくれる事をだ(3〜4)。しかし、恥をかきたくないから「用意しておくように。やると言った事はやれ」と念を押すのである。確信していても、必ずそうなるとは思っていないのだ。何故なら、それはコリント教会への信頼であって、御言葉への信仰とは違うからだ。信じた通りになるのは聖書の約束だけである。それ以外の事を勝手に信じ込んでも、恥をかく事になるかもしれない。聖書は「何でも信じろ」と教えてはいないのだ。
ここで聖書が教えているのは「好意に満ちて捧げる人を神は愛して下さる」という事だ。必死で頑張って引きつった笑みを浮かべて大金を捧げる人を…ではない。喜びは、外面的に作るものではなく、内側から湧き上がるものである。そんな喜びを主から頂ける様になりたい。
2024年9月29日礼拝メッセージ マタイ19:1〜12 「拠り所」 メッセージは13分過ぎ頃からです。
4〜6節の主の言葉から「離婚禁止」と教会は考える。しかし、9節を見ると、ある場合には許可だと言えるのではないか。それはパウロも言っている(Tコリント7:15)。では、4〜6節の意味は何か。それは、原則的に結婚は、離婚する事を前提にするものではないという事だ。つまり、パリサイ人達に対して「離婚する方法ばかり考えているのはおかしい」と批判する為に語られているのである。
聖書が教える「夫婦」とは、男と女…それが神が決めた事である。それ以外のカップルは(一緒に暮らすのは自由だとしても)夫婦とは呼べない。だが、法律上の保護(夫婦と同等の法律上の権利)を与えるのは、今の時代(特に、神なき世界)では仕方ないだろう。
さて「ではモーセは何故、離婚状を渡して妻を離別せよと命じたのですか」と、パリサイ人達は問う(7)。主は「あなた方の心が頑なだからだ」つまり、罪があるからだと答える(8)。初めは、アダムとエバに罪は無かった。その時は、名実共に一心同体だった。だが罪が入ってからは、彼らでさえバラバラになった。それ以来、夫婦はもはや一心同体ではなくなってしまっている(罪がある)という事だ。それで、やむを得ない場合は離婚も、しょうがないという事なのだ(9)。
それに、モーセが「離婚状を渡して妻を離別せよ」と命じたのは、勝手な理由で妻を追い出していた男達への戒めの為であって、女性を守る為に「離婚状を渡せ」という事なのだ。離婚状があれば女性は再婚出来て、路頭に迷わずに済むからだ。
そういう訳で主は、離婚は罪だなどとは言っておられない。勿論、離婚しないで済むならそれに越した事はないが、現代ではむしろDV等、離婚した方がいい場合が多いのかもしれない。
だが、男尊女卑の時代・社会であった中で、弟子達も不満に思った(10)。しかし、独身者でいる事は誰にでも出来る事ではない、と主は弟子達の不満を退けられた(11〜12)。自発的に独身を通したのはパウロぐらいではないだろうか。
とにかく、要は、男の身勝手な離婚を戒めているのである。そして、結婚は離婚を前提に行うものではないという事だ。
2024年9月22日礼拝メッセージ Uコリント8:1〜15 「富から貧へ」 メッセージは15分半頃からです。
献金という実にセンシティブな事柄についてであるがゆえに、注意深く取り扱う必要がある。まず基本的に、拝金主義は固く否定されるべきだ。お金を集める事が教会の目的ではない。敬虔を利得の手段とするなら、その人は知性が腐って真理を失っている、と聖書は厳しく責める(Tテモテ6:5)。
そうは言っても、献金は善いものである。だが「神様の為に」という大義名分を振りかざして広く諸教会に訴え、集められる献金は、本当に神様の為なのか、という疑問は残る。あえて言えば「人のふんどしで相撲を取る」という様な事になってしまってはいないかという事だ。共有すべき事とそうでない事の区別、ケジメが必要であろう。
そこで、この箇所での「献金」はどの様なものか。ポイントは2つ。まず10節…コリント教会は自ら率先して献金を集め始めた。エルサレム教会を支援する為だ。それをパウロは、神の恵み・交わりの恵みと言うのである(1〜5)。そして、それは素晴らしい事だからやり遂げなさいと言う(6〜7)。と言っても、献金を命令しているのではない(8)。ただ、やると言った事はやれ(11)という事だ(マタイ21:28〜31参照)。
もう一つのポイントは、14節…コリント教会は比較的裕福だった。が、エルサレム教会は様々な事情で非常に困窮していた。だから彼らの欠乏を補うようにというのが、ここでの「献金」の本質である。つまり、裕福な(大きい)教会が、貧しい(小さな)教会を助ける為に献金しなさいという事だ。それで平等になる、と言うのである。
では9節の意味は何か。それは、主がご自身の富を与えて下さったゆえに私達は霊的に富む者となったという事だ。これもまた「富む所から貧しい所へ」の型通りであり、ここでの「献金」の本質である。
勿論、それ以外の献金の在り方はある。例えば、礼拝での献金は、それそのものが礼拝であって、純粋に「神様の為に」と捧げられる。また、個別の教会の内部において、必要(リフォーム等)の為に献金を要請する事もあるだろう。いずれにしても、共通するのは「持っている程度に応じて」(12)だという事である。不当な献金要請は悪しき事である。献金は、正しく行われるなら「善いもの」なのだ。
2024年9月15日礼拝メッセージ マタイ18:21〜35 「違います」 メッセージは15分少し前頃です。
1万タラントは約6000億円だ。それ程の借金を赦してもらったんだから、あなたも人を赦せ…と教えられるが、それは間違いだ。
と言うのは、この「王としもべ達の清算」の譬えは、15〜20節の延長線上にある21〜22節からの展開であるからだ。つまり、勧告を聞き入れたら(悔い改めたら)赦して受け入れよ(15)という主の教えに対してペテロは「何度まで?」と問うたのであり、その答えが22節…すなわち「悔い改めると言うなら」(ルカ17:4)という条件付きの赦しなのである。決して、無条件にどこまでも赦せという事ではない。
そういう訳で23〜35節は「悔い改めるなら赦す、それが天の御国だ」という事を教える譬えなのである。具体的には、しもべが返済出来ない借金を赦された理由は、自分の非を認めて心を入れ換える事(払えない→払います)を表明した(悔い改めた)からだ(26)。主人は、その心に免じて赦してやった(27)。所が彼は、間違った生き方のままだった(28〜30)。何が間違いか、それは、必死で借金を返そうとしているところだ。悔い改めたから赦されているのに、尚、自分の力で赦されようとしているのである。つまり、福音ではなく行いによって救われようとしているという事だ。それで主人は「悔い改めたはずではなかったか」と指摘する(32)。そして、自分がしてもらった様に、悔い改めた者を赦すべきだと(33)。だから、この大借金のしもべは、悔い改めの実を結ばず律法に生きるクリスチャンを表しているのである。
彼は、悔い改めたときに赦された借金を再び負わされるのである(34)。つまり、一度信じて赦され救われたとしても、道を誤るなら、赦しを剥奪されるという事だ。聖書は「純粋な信仰を守り抜くなら…その為に最後まで耐え忍ぶなら、救われる」と教える。
だから35節は「無条件に赦せ」という事ではない。「悔い改めた人を心から赦さないなら…」という事である。それが15節からの話の流れ(悔い改めた者を兄弟として受け入れよ)であり、悔い改めないなら教会から追放(17)という決断は、34節に通じるのである。その判断・決定の場に主も共にいて承認する(18〜20)のだ。そのとき、ペテロが「では何度まで?」と…話は繋がっている事を知るべきである。
2024年9月8日礼拝メッセージ Uコリント7:4〜16 「悔い改めと信頼」 メッセージは14分過ぎからです。
パウロの、コリント教会に対する信頼は大きく、全幅の信頼を寄せると言う(4、16)。それまで語って来た「信頼関係の修復」を求める切なる言葉はどこに行ったのかと思えるほどの変わり様だ。
論理的に考えよう。まず、何故パウロは教会を信頼すると言うのか。それは教会が(Tコリントで指摘された問題を)悔い改めたからだ。しかし、まだ根源的な問題が残っていた。それで「神の和解を受け入れなさい」とUコリント6章までで迫って来た。その直後に「信頼する」とは、どういう事か、それは「今度もまたきっと悔い改めてくれるに違いない」という希望・期待・パウロの自信なのだ。
では何故、そんなにコリント教会に対して信頼する事が出来るのか。当時、信仰の破船にあってしまった人達もいるのに(Tテモテ1:19〜20)。それは、コリント教会がパウロからの(第一の)手紙を読んで、心を刺され、神の御心に沿って悲しんだからだ(9)。その悔い改めは、救いに至る悔い改めを生じさせ、熱心な信仰を起こさせる(10〜11)。
その事についてパウロはテトスに予め、誇りつつ語っていた。「この手紙でコリント教会は必ず食い改めてくれるに違いない」という様な事を。そして事実、その通りになったので恥をかかずに済んだと胸を撫で下ろしていたのだ(12〜15)。その喜びで書かれた手紙がUコリントであって、だからこそ今度もまたきっと…と期待し、信頼するというのである。教会は今度もまた悔い改めて「神の和解・真実な福音」を受け入れてくれるに違いない、と。
最終的に、コリント教会は悔い改めたのか(神の和解を受け入れ、偽りから離れたのか)は分からない。少なくとも、ヒメナオとアレキサンデルの様な人達もいたのだから、コリント教会も脱落する可能性は無きにしも非ずだ。実際、その後の歴史の中で教会は堕落し、古の繁栄の神学は今も益々盛んだ。悔い改め…それは教会の歴史的課題だ。
クリスチャンは一度、神の御心に適う悔い改め(キリストを信じ従う生き方へと方向転換)をした。ならば神は、私達を信頼し、期待しておられるだろう。真実な福音(キリストの言葉の本当の意味)に留まる事を。私達は、その期待に応えて、悔い改めの道を歩み続けたい。
2024年9月1日礼拝メッセージ マタイ18:15〜20 「神の臨在」 メッセージは14分半頃からです。
教会戒規(15〜17)が何故、突如ここに出て来るのか。いや、文脈がある。それは、小さく弱いクリスチャンが躓かされて滅びるのは父の御心ではない、信仰に留まってくれる事を喜ぶ(1〜14)という事だ。だから、除名・追放…も、悔い改めのチャンスを与える為なのである。
問題は19節。二人が心を一つにして祈るなら、どんな事でも叶う…本当か。いや、これは、教会が何かを禁止したり許可したり…その判断・決定をする(15〜17)なら天でも承認する、という事(18)を「もう一度、告げます」と言うのが19節なのだ。つまり「二人」の証人(16)と共に教会が心を合わせて祈って決定した事(赦すか除名するか等)を、天の父は、教会が願った通りにしてくれるという事なのである。
教会の決定・判断に、そこまでの権威がある理由、それが20節。その決定・判断の場に主も共にいて、それを導き、承認するからである。だから…2〜3人が心を合わせて祈れば何でも願いが叶う、と勝手に信じ込んでも、その願いは叶わない。
御国に関する事・霊的な事柄において、教会は(主が共にいるなら)神の御心に適う決断をするはずであって、もし教会が悪を行うなら(免罪符、魔女狩り、クルセード…)その決断の場(教会)に主はいなかった(もはや教会ではない)という事だ。
使徒15:28〜29で、神の御霊が教会の会議の場に同席し、ある決定を下した。その結果、ユダヤ人クリスチャンは、信仰に留まる事が出来た。これが「御国の鍵を使う」という事だ。同じ様に、教会戒規(マタイ18:15〜17)の過程の中で、悔い改めたなら受け入れる、ダメなら追放する…その判断・決定を天でも承認するという事を「もう一度、告げます」というのが19節なのであって、どんな願望も叶うのではない。
基本的に、教会には主が共におられる。そうである限り、その教会の判断・決定は御心に適っているずだ。言わば、教会は、神の臨在があるかどうか、が命だ。逆に言えば、御心に背く決定・行動をするなら、そこに主はおられないという事だ。ゆえに、御心の表れである御言葉から離れてはいけない。御言葉の中にある神の御心を追い求めよう。その様にして、神の臨在して下さる教会であり続けたい。
2024年8月25日礼拝メッセージ Uコリント6:11〜7:3 「釣り合わぬ くびき」 メッセージは15分半頃からです。
神の和解・真実な福音を受け入れてほしいと、心を開いて懇願するパウロは、コリント教会の側も心を開いてくれる様にと信頼関係の修復に努める(6:11〜13)。そこで、続く14節だが、これは未信者との結婚を禁止する教えだとされる事が多い。文脈完全無視である。
解釈は、自由ではない。「嫌い嫌いも好きの内」などという自己中心的な解釈を御言葉にまで適用してはならない。例えば、「私のくびきを負え」(マタイ11:29)と主は言われたが、主は「私と結婚してくれ」と言っているのだろうか。いや「くびきを負う」とは、結婚するという事ではない。事実、ユダヤでは、律法に従う事を「律法のくびきを負う」と言う。すると「不信者と釣り合わぬくびきを負うな」は「不信者の教えに従うな」という意味になる。特に、コリントの不信者=偶像崇拝者…彼らの宗教的ルールに同調するなという事だ。すなわち「霊的に聖められなさい」という事である。それは、パウロとの完全な信頼関係を築き上げる為…その文脈の中にあるのだ。そうすれば、神が共に住み、神が父となるという事である(6:14〜18)。
では、教会は、どんなくびきを不信者と一緒につけていたのか。つまり宗教的に、どんな事を行い、同調したのかだ。それは「偽りの教えを受け入れる」という事である。それは不信者がやっている事で、真理の御言葉に立つ教会がやるべき事ではない。しかしコリント教会は偽使徒・偽りの福音を受け入れていた。まるで不信者がやっている事と同じ様にだ。その事を「不信者と、釣り合わぬくびきをつけるな。正義と不法とにどんな繋がりがあるか。キリストとベリアルとに何の調和があるか」と言っているのである。それを「未信者との結婚禁止の教えだ」とは笑止千万である。
偽りからの分離=信仰的な聖めを保つなら救われる(6:14〜18)という約束が与えられているから聖さを全うしようとパウロは言う(7:1)。パウロへの中傷はデマだから心を開いて、と(2)。そのデマを真に受けた事を責めているのではない(3)と。パウロは心を大きく開いて、教会を神の愛の中に保とうとしている。いや、パウロを通して神が…だ。この、神の懇願を私達も受け取ろう。
2024年8月17日礼拝メッセージ マタイ18:1〜14 「小さい者≠子ども」 メッセージは12分半頃からです。
魚の口からスタテルが見つかった(17:27)、その時、弟子達は主に「天国で一番偉いのは誰か」と質問した。どういう脈絡か。主はそれに答えて「子どもの様になれ」と言われた。そうすれば天国に入れる、その人が天国で一番偉い人だ…という趣旨だ(8:2〜4)。
子どもは、ユダヤ社会では「価値の無い者」とされていた。一般的にも、小さな子どもは権力や名声、財力も無い。その様な「自分の力に頼る術を持たない者」が天国に入れる…つまり、税金免除の特権とか、誰が一番偉いか等を自らの力とし、それに頼るなら、天国には入れないという事だ。だから「子どもの様になれ」と言うのである。
次に5節。子どもなら誰でも…という訳ではない。「この様な」とある通り特定の子どもだ。それは勿論4節の、天国に入れる子ども、すなわち6節の「主を信じる小さい者」である。要は、名声や力に頼るのではなく、神に依り頼む信仰者であれという事だ。それが弟子達の質問への回答なのである。だから「子どもを大切に」「弱い人を助けよう」等は善い事だが、ここで主が言いたい事からは外れている。
とにかく「小さな信仰者」を躓かせて滅びに追いやるな。躓きは忌わしい。滅びるより片手を失った方がましだ、と主は言う(6〜9)。しかし「躓きは避けられない」とも。つまり、小さな信仰者の中には、躓かされて、滅びに至ってしまう人がいるという事だ。その躓きの代表的なものが、偽りの教えなのである。
続く10節も、弱く名も無い小さな信仰者を見下げるな、という事だ。力のある有能な人を重んじる傾向があるからだ。ただ主にすがるしかない人も、有能な人も、天においては差は無い。だから、天国で誰が一番偉いかを問う等という事は全くのナンセンスなのである。
最後の12〜13節。迷い出た一匹の羊は、ここでは「失われそうなクリスチャン」の事だ。そして、その人が救いに留まる(回復する)のが喜びだと言うのである。裏返せばやはり、滅びに至る躓きを与える者は忌わしいという事だ。それは主の御心ではない(14)。
私達は、自分の力に頼る事の出来ない「小さい者」として、主と真実な御言葉に依り頼み、救いに留まろう。それを主は喜ばれる。
2024年8月11日礼拝メッセージ Uコリント6:3〜10 「これが私!」 メッセージは15分半頃からです。
神との和解の務めを与えられたパウロは、その務めがそしられない為に、どんな事にも躓きを与えない様にと全力を尽くして来た。様々な迫害・苦難に遭おうとも怯む事なく(悩み苦しみながらも)忍耐し、使徒としての務めを果たして来た。敬虔を利得の手段とする様な似非伝道者には真似出来まい。さあ、パウロと偽使徒…どちらが信頼に足るか。どちらが信用出来るか。コリント教会は偽使徒を選んだ。しかし、神はパウロを選んで使節として派遣したのだ。
更にパウロは、純潔と知識、寛容と親切…等(6〜7)によっても使徒として受け入れられるように努めた。また、褒められても高ぶらず、悪口を言われても腐らず、何とかして真実な福音を伝えようとした。
引っかかるのは「人を騙す者の様に見えても」と言う所(8)だが、それは本当にそう見えていた訳ではなく、偽使徒への嫌味での言葉だ。つまり彼らは「羊を養う牧者」の様に見えても(事実そう見られていたが)実は偽り…「人を滅びに導く者」で、それに対してパウロ達は、気が狂ってると言われても真実だという事なのである。
続いて「人に知られないようでも」神にはよく知られている(使徒19:15参照)という事。そして、何度死にかけても、罰せられても、コリント教会の事では悲しんだけども、天国の希望の故に、いつも喜んでいると言うのである(9〜10)。何よりも、「貧しいようでも」だ。パウロは事実貧しかった。けど、多くの人を霊的に富ませ、永遠の命の恵みをもたらした。パウロ自身「何も持たないようでも」人間に必要な「全てのものを持っている」…何が言いたいのか。それは「これが真実な福音だ」という事である。偽使徒達が教える様な「地上の祝福」とかではなく「天の祝福」、それこそが真の富だという事を分かって欲しい…それがパウロの願いなのである。だから彼は言う。「神の和解である真実な福音を受けいれなさい」と。そして、神と共にパウロは懇願する。「神の恵みを無駄に受けない様に」と。
私達も「神に知って頂いている、永遠の命を持っている、苦難はあっても天国の希望の故にいつも喜び、貧しくとも生きる為に必要なものは全て持っている」(9〜10)…それが私だ、と言える者でありたい。
2024年8月4日礼拝メッセージ マタイ17:22〜27 「信仰と税金…?」 メッセージは14分頃からです。
何度目かの受難予告である(22〜23)。弟子達は非常に悲しんだ。主が去る事を弟子達は受け入れられないのだ。それは分からなくはないが、復活も予告されているのに、何故、そこは喜ばないのか。それは弟子達は、復活など信じていないからだ。
十字架を理解せず、復活は信じない…弟子達は、この時点においては最悪…パウロが言う所の「世界一哀れな人」だ。そんな弟子達には悲しみしかない。復活・天国の希望が無いのだから。
さて続く24〜27節は、受難予告と関係があるのか。それとも単に税金についての教えか。ペテロは宮の納入金を「納めます」と言ったが、主は「王の子らには納入義務が無い」と言う。これは「納入金」の理解の問題である。それは出エジプト記30:11〜12に基づく制度で、贖いの為のもの(納めれば災いに遭わないというもの)だ。つまりそれは、十字架の青写真なのである。だから、それはキリストには(クリスチャンにも)不要だ。何故なら、キリストは罪が無いお方、そしてクリスチャンは贖われた者だから…贖い金を払う必要が無いのである。だが結局は、納入金を収めた。それも魚の口から出たお金で。何故か。それは、所持金の中から普通に払ってしまったら、払うべきだと認めた事になるからだ。しかし、旧約聖書そのもの(十字架の青写真)を否定しない為に(人々に躓きを与えない為に)…なのである。
ペテロが、十字架を理解せず、受難予告を受け入れないがゆえに、こんな問題が起きた。今でも「これは十字架に関連する教え」だと理解せず、単に税金についての教えだと考えるなら、聖書の重要なメッセージを失う事になる。この出来事に秘められた重要なメッセージ…それは「救われた者は、救われる為の行いは不要だ」という事である。すなわち、いい人になる事も、立派なクリスチャンになる事も、救いの為には必要は無いという事だ。
ただし、何故救われたのか…を見失ってはいけない。それは勿論、十字架と復活を信じる信仰の故だ。だからその点において「純粋な信仰を守る事」は必要である。しかし、それは決して「行い」なのではない。あくまでも、信仰によって救われる…その為に信仰を守るのだ。
2024年7月28日礼拝メッセージ Uコリント5:18〜6:2 「今が、その時!」 メッセージは15分半頃からです。
ここでの「神の恵み」とは、祝福とか癒し・奇跡・守り…等ではなく「神の和解」の事である。だから受け入れなさいとパウロは言うのだが、果たしてコリント教会は、神と和解していなかった(救いを得てなかった)のか。コリント教会の一番の問題は何だったのか。
それは、まずパウロは「キリストの使節」それも和解の言葉・務めを委ねられた神の使節だ。そのパウロを教会は、使徒として受け入れていない(偽使徒は受け入れるのに)、という事が問題なのである。
和解の為の使節(パウロ)を拒むという事は、遣わした君主(神)を拒むという事であり、それは「神の和解」を受け入れないという事になる。それはまさに、神の恵みを無駄にする事であり、致命的な問題である。だからパウロは「懇願する」と言うのである(6:1)。
仮にも教会なのだから、キリストを受け入れているはずだ。だが、そのキリストによる「神との和解=福音」を委ねられているパウロを何故受け入れないのか。偽使徒は受け入れるくせに。これは非常におかしな事だ。そんな事が起こるのは…人間的な標準で判断しているからだ。真実に基づく判断をしていないのである。だから「誰でもキリストにあるなら」そんな事はやめろ、と言うのである(5:16〜17)。
今は、誰でも「キリストにある者」とされる事の出来る時代だ。キリストの十字架の故に、神との和解は、いつでも可能…「確かに、今は恵みの時、今は救いの日」なのである。なのに、和解の務めを担った使節パウロを受け入れない=神の恵みを無駄にしているのだ。せっかくの恵みの時なのにもったいない…それが6:1〜2の意味である。
パウロからの手紙・指導を通して教会は、様々な問題・間違い…を悔い改めはしたが、根源的な所で大きな爆弾を抱えたままだった。真実な福音を探して見つけ出そうとしない、それを聞いても受け入れようとしない、偽りから離れようとしない、むしろ積極的に取り込む…致命的な爆弾だ。だからパウロは懇願する。そして、それは同時に、神の懇願でもある(5:20)。
そういう訳で「受け入れなさい」と迫られているのは、未信者ではなく、教会である。神の恵みを無駄にしない為に、真実な福音を…。
2024年7月21日礼拝メッセージ マタイ17:14〜21 「神の子≠神」 メッセージは14分半頃からです。
「信仰があればどんな事でも出来る」…その一例として「山が動く」が挙げられている。それは「聖書解釈の難問を解く」事のユダヤ的慣用句であって、本当の山が動くという事ではない。
そもそも信仰とは何の為のものか。病を癒す為、悪霊を追い出す為、裕福になる為…そんな目的で持つものなのか。いや、信仰の目的は天国(神との和解)だ。「その信仰が死んでる」と主は弟子達に言われた。すなわち「からし種ほどの信仰も無い・命が無い」という事だ。言い換えれば「本来なら信仰はこうあるべき」という信仰が薄い、という事である(20)。では弟子達の信仰は、どんな信仰だったのか。
その時、弟子達は既に悪霊を追い出す権威が与えられていた。そして、追い出しの成功体験もあった(ルカ9:1〜6)。しかし主は「喜ぶな」と言われた。勿論、癒しや悪霊からの解放自体は喜んでいい。しかし弟子達は、悪霊が自分に服従する事を喜んでいたのだ(ルカ10:17〜20)。まるで、自分が神になったかの様に「何でも出来る!」と高ぶったのである。主は、それを禁止された。そして、喜ぶなら天に名が記されている事を…と諭されたのだ。そう、クリスチャンは、赦されただけの罪人に過ぎない。たとえ癒しの賜物が与えられたとしても、それは自分の力ではなく、神の力だ。神の子になった=神になったのではないのである。(ただし、神の御子イエスは、元々神であるが)
神と和解する為の信仰であるのに、「自分には何でも出来る」と自らを神格化し、神に敵対する…それを主は「不信仰な曲がった世だ」と嘆かれた。つまり弟子達は根本的な信仰から外れかけていたのである。それで「信仰が薄い、命が無い、死んだ信仰だ」と主は言われた。
からし種のように小さくても命がある生きた信仰=本来ならこうあるべきという信仰(神との和解・信頼)があれば、神がその人を通して働かれる。そして神には不可能は無いのだから、神がなそうと思われる事(という特定の事柄においてなら)どんな事でも出来るのである。それはヨハネの教える「御心に適う祈りは聞かれる」(Tヨハネ5:14)に通じる。そういう風に、神に委ねる…それが神への信頼だ。そんな信仰を育もう。
2024年7月14日礼拝メッセージ Uコリント5:13〜17 「人間的な標準では…」 メッセージは17分からです。
偽使徒達が「パウロは気が狂っている」と悪口を言っていた事について「もしそう見えるなら、それは神に対して熱心だからであって、気が狂ってる訳ではない。むしろ、人に対しては正気で、適正に配慮している」と言うのが13節。何故なら「キリストの愛が取り囲んでいる」故に、逃げられない(キリストの為に生きる様にと捕まってる)からだと言うのが14節。そして「そうなる様にとキリストは死なれた」と言うのが15節だ。決して、神の為にならどんな非常識な事でも、気が狂ったように実行するべき…という事ではない。逆に、偽使徒達への批判である。つまり「彼らは狂った様に、信徒を滅びに導いている。キリストの為に生きるべきはずなのに全然新しくなっていない。キリストのしもべの振りをして、指導者ぶって、推薦状を欲しがって、尊敬されたくて、自分の欲の為に生きている」と。だから「もはや人間的な標準(知名度・見かけ・教会のサイズ…)で判断する事はしない」と言うのが16節。かつてパウロは、キリストと教会に対して人間的な標準で判断し、迫害した。だが「今はもうその様な知り方はしない」
そういう話の流れでの17節である。つまり「もう人間的な標準で判断する事はなくなった」という意味だ。「古いものは過ぎ去って新しくなった」とはそういう事なのである。
キリストを信じても、性格は大きくは変わらない。それは使徒ヨハネもそうだった(怒りっぽい性格のままだったという文献が残っている)。勿論、霊的には「古いものは過ぎ去って全てが新しくなった」というのは確かだ。滅ぶべき罪人から神の子へと変えられたのだから。それに加えて、ここでパウロが言いたい事は「誰でもキリストにあるなら、人間的な標準で判断するのはやめるべき。真理に基づく判断をするべきだ」という事である。御言葉に混ぜ物をして売る様な偽使徒達を受け入れるけど、真実な福音を語るパウロは受け入れない…そんな教会に対してのメッセージなのである。
人間的な標準では、知名度、信徒数、教会堂の大きさ…それによって教会の善し悪しが判断される。しかし、大切なのは教えの純粋性だ。それに基づく判断をするべきである。誰でもキリストにあるならば。
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