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2019年10月1日、玄武書房より全国発売されました。アマゾンにて購入いただけます。画像をクリックすると購入ページに飛びます。
以下、礼拝メッセージの要約と共に音声もお聴き頂けます。
2026年8月9日は、大野城での合同礼拝(午後1時15分から大野城市中央コミュニティセンター視聴覚室にて)ゆえに、小郡は閉じています。
2026年7月26日礼拝メッセージ マルコ10:1〜12 「未婚・離婚・再婚」
メッセージは12分からです。
2026年7月19日礼拝メッセージ マルコ9:42〜50 「つまづきと、火と、塩と、和合と」
メッセージは13分40秒頃からです。
躓きとなるものを取り除け…それが手なら切り捨てろ、目をえぐり出せ、地獄に落ちるよりましだと主は言われた。それ位、徹底的に罪から離れろ、それがクリスチャンの標準、という事なのか。厳しい。ついて行けないと感じてしまう。それを本気で実行するなら目が幾つあっても足りないだろうし、そもそも、それは律法主義ではないのか。
問題は「躓き」とは何かだ。それは聖書では「罪・堕落への誘惑」であるが、それを受けて負けた結果「霊的な破滅」に至る。その破滅に追いやる事…それが「躓きを与える」という事なのだ。言い換えるなら、弱いクリスチャンの信仰をぐらつかせて滅びに向かわせるという事。そんな事をする者は死んだほうがましだと言うのである。
そこで、もし手(足・目)があなたを滅ぼすなら…というのが43〜47節の趣旨だが、実際の所、クリスチャンを滅ぼすのは「偽りの教え」だ。勿論、それを取り込むのが、手や目であるのだが。だから、滅ぼされたくないなら、そんな偽りの教えに近付くな(足を切り捨てろ)、触るな(手を切り捨てろ)、見るな(目をえぐり出せ)という事なのである。決して「些細な罪で目をえぐり出せ」という様な事ではない。
締め括りは「塩気」の話だ(49〜50)。「火によって塩気を付けられる」と言うが、その「火」は、ゲヘナの火ではない。「信仰生活での試練」の事を「火」と表現しているのである。それが信者を精錬するという事だ(Tペテロ1:7)。だから「塩気を保て」とは、純粋な信仰を保て(世俗的な考えに染まるな)という意味なのである。と言うのは、その時、弟子達は「誰が一番偉いか」と言い争っていて(34)、プライド・嫉妬・妬みで人を阻害していたからだ(38)。だから「そんな事をやめろ」という意味で主は「互いに和合して暮らしなさい」と言われたのである。その文脈を読まなければいけない。単に「仲良くしなさい」では「塩気を保て」の結論にはならない。
一番偉い…、一番大きい教会…、一番有名な…それを良しとする風潮が教界にもある。まさに、特権意識・プライドではないだろうか。この時の弟子達と変わりない。そんな所から離れて、共に命の道を歩み続けようではないか。
2026年7月12日礼拝メッセージ マルコ9:38〜41 「報いを得よ」
メッセージは14分過ぎからです。
「反対しない者は味方だ」と主は言われたが、実際には「反対はしないけど味方ではない」という事がある。だから、この主の言葉は普遍的な真理という訳ではなく、ある場合における限定的なものなのだ。それは「誰がキリストを受け入れる者なのか」という話(37)の流れの中にある。ヨハネは「仲間でない(主を受け入れてない)者が悪霊を追い出している」ので止めさせた。味方ではないと判断したのだ。しかし主を受け入れていない者が悪霊を追い出せるのか。いや、返り討ちに遭うのがおちだ(使徒19:13〜16)。その点、悪霊の追い出しに成功しているのだから、信仰に基づいた行動であり、それは主を受け入れている証だ。ただ、弟子の群れにはまだ加わっていないだけである。そんな場合だから「反対しない者は味方だ」と主は言われたのだ。
実は、この話の裏には、弟子達の嫉妬がある。直前に弟子達は悪霊追い出しに失敗していた(17〜18)。なのに、弟子にもなっていない奴が悪霊を追い出していると知って、プライドが傷付いたのだ。それに苦言を呈する意味もあって「味方だ」と主は言われたのである。
続いて主は「キリストの弟子に水を飲ませる人は報いを失う事は無い」と言われたが、報いとは何か。救いか。水一杯与えるだけで救われるなら世話が無い。忘れてはいけない。救いの条件は、親切な人になる事や善行等ではないのだ。それに、報いとは「報酬」だ。その点、救いは報酬ではなく恵みである。では報いとは? まず、弟子に水をやるのは、弟子を受け入れる、それも「キリストの名の故に受け入れる」(37前半)という事だ。つまり「イエスはキリストと認める」という、霊的な目が開かれる第一段階(8:23〜24)である。その人は第一段階を経たからこそ次の段階(キリストを自らの主とする)に進む事が出来る(8:25)。そのチャンスは必ずある、それが「報い」であり「決してそれを失う事は無い」と主は言われるのである。ただし、そのチャンスをものにするかどうかは自分次第だが、少なくともチャンスは必ずある。あと一歩だ。早く本当の弟子になれ、という事である。そして、それが「主に反対しない者」ではなく「主の味方」なのだ。
私達はキリストを自らの人生の主として歩み続けよう。
2026年7月5日礼拝メッセージ マルコ9:30〜37 「本質を」
メッセージは11分からです。
主は「人に知られたくない」と思われた。その理由は十字架と復活を予告したからだと言う(30〜31)。予告は既に2回目だが、弟子達はそれを理解出来なかった(32)。福音において最も重要な十字架と復活を理解しないままでは宣教はままならない。だから早く弟子達に悟らせなければならない時なのに、群衆が押し寄せて来たら時間を取られて困るので「人に知られたくない」と思われたのである。
所がその時、肝心の弟子達は、悟る所か、出世争いにうつつを抜かしていた(33〜34)。そこで主は「仕えよ。偉くなりたいと思うな」という趣旨の事を教えられたのだが、そのあと、何故だか、一人の子どもを連れて来た(35〜36)。確かに、子どもは偉くはない。だが「仕える者」の代表でもない。むしろ、世話をされる側だ。そして「私の名のゆえに子どもを受け入れるなら、私を受け入れるのだ」と結ばれた(37)。つまり「誰がキリスト・神を受け入れる者か」なのである。弟子達が、キリストの十字架と復活を受け入れないからだ。そこに話を持って行く為に、巧みに、弟子達の出世争いと子どもを用いたのだ。だから、35〜37節を文脈から切り離してはいけないのである。勿論、仕え合うのは良い事だが、そこに留まっていては真意は汲めない。
決して「幼子を受け入れたらクリスチャン」という訳ではない。ポイントは「イエスの名のゆえに」だ。すなわち、神の家族だから受け入れる…その人は既にキリストを受け入れているという事である。だから「幼子を受け入れる」事は、天国への条件ではなく、キリストを受け入れている証拠だという事だ。その様に、キリストを受け入れる者が父なる神を受け入れる者なのであって、それが父に受け入れられる事なのだ。「なのに何故、十字架と復活(それこそがキリスト)を受け入れないのか」という事だ。
「偉いのは仕える者」とかは、ただの話の「振り」だ。大切なのは、キリストはこの世の王ではない、むしろ、この世で惨たらしく殺される為に来た…それを受け入れる事である。この時、弟子達は、それを受け入れられなかった。逆に、地上での勝利(出世)に向かっていた。そこに悪魔の策略がある。それが、この話の本質だ。
2026年6月28日礼拝メッセージ マルコ9:14〜29 「困る」
メッセージは11分頃からです。
いつの時代も人間は神になりたがる。アダムとエバは「これを食べれば神の様になれる」と蛇に言われて、その気になってしまった。現代のクリスチャンも同様で「信仰があれば何でも出来る。不可能は無い」と、自らが全能であるかの様な宣言をする。確かに主は「信じる者にはどんな事でも出来る」と言われたが、その趣旨は「キリストにはどんな事も出来る」だ。つまり「信じる者」とは「信仰の創始者、完成者」の事を指しているのである。だから父親は「私には何でも出来ると信じます」とは言わず「不信仰な私を助けて」と言ったのだ。そして、彼の「信じる者」(キリスト)によって息子は癒された。
さて、弟子達には、件の息子を癒す事が出来なかった。それで主は「不信仰」と言われたが、弟子達にではない。御利益ばかりを求めて、根本的な信仰(神との和解)の乏しい群衆に対してだ(19)。
何故、自分達には出来なかったのかと問う弟子達に対して主は「この種のものは、祈りと断食によらなければ…」と言われた(28〜29)。果たして、断食祈祷で病は治るのか。ダビデの息子は、それでも死んだではないだろうか。そう「この種のもの」とは「てんかん」(直訳:月に打たれた)だ(マタイ17:15)。すなわち、一つの精神疾患である。その種のものには、祈りあるいは断食が必要だと言うのである。つまり、私達が信じる主イエスにはどんな事も出来る。だから私達は主に祈る。それに応えて主は(この時も、不信仰な父親だけど、その息子に)憐みを施した。「信仰があれば何でも出来る」とは逆なのだ。祈りや信仰を「超能力の様な力」と考えてはいけない。祈りと信仰の対象である神に力があるのだ。だから、その神に祈るしかない。神の憐みを期待して(断食してでも)ひたすら主にすがって…。それが「祈りと断食によらなければ」という事だ。ただし、その結果どうなるかは神に委ねるしかない。それは諦めではなく、むしろ信仰だ。「たとえ死んでも天国だ」と信じればこそ委ねられるのだから。その信仰が無いのを「不信仰だ」と主は言われたのである。
たとえ病が治らなくても、病気のままでも、片手片足を失っても、純粋な信仰を保って天国に入る方が良い、と思える者でありたい。
2026年6月21日礼拝メッセージ マルコ9:1〜13 「堅く心に留めても」
メッセージは11分半頃からです。
弟子達の中に死を味わわない者がいる(1)と主は言われたが、実際は皆死んだ。だから、ここでの「死」は、信仰を失う(滅びを味わう)という事で「中には、そうならない人がいる」という意味だ。という事は、それ(本当に救われる人)は少数だという事になる。実はこの1節は8:31〜38と一塊である。だから、たとえ全世界を手に入れても真の命を損じたら大変だ(8:36)というのは、弟子達への警告なのだ。
そこから話は変わって、変貌の山での出来事である。主がモーセ、エリヤと十字架について話しているとペテロが頓珍漢な事を言う。その時、雲の中から「イエスの言う事を聞け」という声がした。弟子達が十字架(の予告)を受け入れていないからだ。そんな事では死を味わう事になるから、十字架(の予告)を受け入れよという事である。
次にエリヤ問答だが、洗礼者ヨハネこそが再来のエリヤなのに「山でエリヤを見た」と言えば人々は更に誤解するだろうから「誰にも言うな」と主は特に命じられた。弟子達は、その言葉を心に堅く留めた。だが、その直後に弟子達がしたのは「死人の中からよみがるとは、どういう意味か」と論じ合う事だ。主の教えを心に堅く留めたにも拘らず、何も悟っていないのである。同じ様に、幾ら「御言葉に立つ」と正当的な事を言っても、その肝心の御言葉を誤解・曲解していたら台無しだ。そう、誤解した御言葉の上に堅く立つ様に仕向ける偽使徒・偽教師…それがサタンの業である(Uコリント11:13〜15参照)。
最後に「エリヤが来て、全てを立て直す」の次に「しかしエリヤはもう来た」と繋げばスムーズなのに、主は質問を挟む。「では、キリストは多くの苦しみを受け蔑まれると書いてあるのはどうしてか」と。それは、ペテロ達が主の十字架の予告を否定するからだ。つまり「聖書にそう書いてあるのに何故、否定するのか」という問い掛けなのである。書いてあるのに、それを読んでいるのに、悟れない。それは昔も今も変わらないようだ。Uテモテ4:3〜4で警告されている通りになっている(警告を受け止めていない)のが今の時代の現実である。
父なる神は「イエスの言う事を聞け」と言われた。その為には、どれが主イエスの声(教え)なのかを聞き分ける事がどうしても必要だ。
2026年6月14日礼拝メッセージ マルコ8:31〜38 「キリストの弟子」
メッセージは13分過ぎからです。
主はペテロの戯言を聞いて振り向き、弟子達を見ながらペテロを叱った(32:33)。ペテロを叱る形で弟子達全員に教えようとしているのだ。何故なら、ここは初めから弟子達全員への教えだからである。すなわち、十字架での死と復活の予告だ(31)。その中で主は「よみがえらなければならない」と言われたが、新共同訳の「復活する事になっている」の方がすんなり来る。要は、その計画通りに絶対よみがえらなければ…という事だ。なのにペテロは諫めた。「そんな事が起こるはずが無い」と。健全な信仰者は災いに遭わない…という繁栄の神学に似ている。しかし、十字架はまだしも(人情的には、起きて欲しくは無いという気持ちを理解は出来るが)復活も起きるはずが無いと言うのは、神の計画を否定する事(神への反逆)ではないか。それはサタンの業だ。だから主は「下がれ、サタン」と言われた。ペテロにサタンが入ったのではなく、ペテロの発言(考え方)がサタンによってもたらされたものだという事である。更に主はペテロに「神の事を思わないで人の事を思っている」と言われた。と言っても、それはペテロだけではない。だから全員に「自分を捨て、自分の十字架を負ってついて来い」(34)と言われた。それは決して「自我を殺せ」とか「殉教も覚悟せよ」という様な事ではない。と言うのは、当時の死刑囚は自分で自分の十字架を負わされたからだ。つまり「自分の十字架を負う」とは「私は死刑囚だ」と自覚せよという事なのだ。そして「何故、私が死刑囚なのか」と訝る自らを否定せよ…それが「自分を捨てる」である。要するに「罪人だと自覚して(悔い改めて)ついて来い」という事だ。そうでなければキリストの弟子にはなれないのである。だから「罪は無い(死刑囚である事を認めない)」と、自分を守るなら、その人は「何にも優る真の命」を失うと言われたのだ(35〜37)。
最後に38節だが…「堂々と信仰を表明せよ。恥じるな」という風に理解されているかもしれない。だが「恥じる」とは、人がキリストから離れる事を表す特別な用語だ。つまり、キリストの真の弟子とならない(地上の事しか考えない)、それがキリストを恥じる(キリストから離れる)事なのである。主も、その人を恥じて離れる。
2026年6月7日礼拝メッセージ マルコ7:31〜8:30 「ハッキリと見えるように」
メッセージは13分40秒頃からです。
難しかったのか、様々な手段で癒しを試みる主(7:32〜37)。盲人の癒しは一回では不十分で、2回目でやっとだ(8:22〜25)。「目の癒しには2段階ある」と言う人がいるが、全能の神は「お言葉だけで…」(マタイ8:8)「お心一つで…」(マタイ8:2)癒す事が出来るはずではないか。
理解の鍵は勿論、文脈。いや、それ以上に一連の記事の構造にまで視野を拡げる必要がある。まず耳の癒し。そしてパンの奇跡。それから目の癒しと、パンの奇跡が真ん中に挟まる構成になっているのだ。そこに意図がある。つまり、耳の癒しと目の癒しに挟まれたパンの奇跡の結末は何かである。それは「目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか」だ(8:18)。痛烈な叱責である。
だから、癒しを癒しとして独立させて考えるのではなく、霊的な悟りを象徴するものとして見るべきなのだ。それで「エパタ(開け)」と、わざわざアラム語で強調しているのである。嘆息も、しるしを求める人々に呆れるが故だ。彼らは、キリストである事のしるしを求め続けるが、どれ程しるしを見ても悟らないのである(8:11〜12)。
悟るべきは、イエスとは誰なのか(命のパンを与えて下さる方・命の源だという事)である。だから最後に8:27〜30の話で締めとなるのだ。「イエスとは誰か。それを霊的に悟れ」という事…それがこの一連の記事の目的なのである。そこでペテロは「あなたはキリストです」と言った。しかし主は、それを「誰にも言うな」と戒めた。伝道禁止という事ではない。恐らく「安易な信仰主義」(イエスをキリストとして受け入れれば良いのであって、主として受け入れなくて良い…という昔からの異端的な考え方。言い換えるなら、真の悔い改めや、聖め=偶像や偽りからの分離…が無くとも救われるという考え方)に対する警鐘であろう。主も言われた。キリストを信じただけでは本当の弟子ではない(ヨハネ8:31)と。事実、この時ペテロはまだ本当の弟子にはなり切れていなかった。
確かに「イエスはキリスト」というのは一つの霊的な悟りだ。しかし次の段階がある。盲人の2段階の癒しは、それを示すのである。私達は、主をぼんやり見るのではなく、はっきり見る者となりたい。
2026年5月31日礼拝メッセージ マルコ7:24〜30 「そこに福音が」
メッセージは13分45秒からです。
福音の恵みを告げ知らせる為に休む事無く(安息日にも)働かれた主は、異邦の地であるツロに行かれた。だが、誰にも知られたくなかったというのは何故か。それは「異邦人の所には行くな」と自ら命じておられたからだ。福音宣教には順番がある故だ。その禁を破ってまで行くのだから公には出来ない。目的は、勿論、福音の恵みを異邦人にも施す為だ。サマリヤの女性の時の様に、自ら行かれたのである。だから、目立つ訳には行かないが、かと言って「隠れている事は出来なかった」。為すべき事があるからだ。
そこに一人の女性が、娘から悪霊を追い出して欲しいと願いに来た。おあつらえ向きのチャンス到来ではないか…と思えるが、主はそれを断るのである。「まずはイスラエルにだ」と。尤もだ。所が最終的には主は、御自身が言われる「良くない事」つまり、異邦人に恵みを施す事をしたのである。何故か。初めからそれが目的でツロに来たからだ。この出来レース? 茶番? と思えるやり取りの中に福音がある。
と言うのは、この女性は、主の言われる「順番」を「その通り」だと認めた。すなわち「神の計画」を理解しているという事だ。その上で「神は恵んで下さるお方だ(子犬でもパンくずは頂く)」と訴えた。実に、神の御心と憐みを悟っているのである。それで主は「あなたの信仰は立派だ」と言われ、彼女の信じた通りにパンくずを与えた。
確かに、神の計画・順番・ルールは、ある。しかし、ルールに固執し過ぎて「神の言葉を空文に」する…そんな信仰を主は「偽善だ」と言われた(1〜13)。それに比べて、神の御心を知った上、神の憐みをも理解して求める異邦人。どちらが神に受け入れられるか。それを主は示そうとしているのである。そう、ここに福音がある。
福音は、その順番も、恵みも「全て神の憐みの故」に与えられているものである。ルールは「そこ」に導く為のものであるべきだ。すなわち「律法はキリストへの養育係」だという事なのだ。だから、クリスチャンを苦しめ、キリストから離れさせる様な戒め(例えば、右を打たれたら左も…とか、一方的に赦せ、完全になれ…)は、キリストの教えを誤解している(現代版口伝律法)と言わざるを得ない。
2026年5月24日礼拝メッセージ マルコ7:1〜23 「目的と趣旨」
メッセージは12分15秒からです。
沢山ある口伝律法(3〜4)に対して主は「言い伝えを守る為に神の戒めを蔑ろにしている」と言われた(6〜9)。そんな本末転倒を「沢山している」と言うのである(10〜13)。因みに、主が「裁くな」と言われたのは「口伝律法に基づいて裁くのを止めよ」という趣旨であって、罪の指摘や悔い改めを迫る事を禁じているのではない。
その後、主は「口から入る物は人を穢さない」と言われた(14〜19)が、実際には、過剰に摂取すると体に害となる物がある。水や塩でさえ、時には死に至る原因となる。では「全ての食物を聖いとされた」とはどういう事か。パウロは主にあっての確信として「それ自体で穢れているものは何一つ無い」と言う。ただ「穢れていると認める人にとっては穢れている」のだとも(ローマ14:14)。例えば、麻薬。それは身勝手な快楽、あるいは不法な金儲けの為の物…と認識する人にとっては穢れた物(忌み嫌われる物)であると言える。しかし、医者にとってそれは、患者の苦しみを和らげる為の物であって、決して穢れた物などではないのである。シンナーも同様。塗装業者にとっては作業に欠かせないものだ。だから、何が聖いか、穢れか…は一概には言えない。らい病も患者は穢れていると聖書は言うが、それが全身に広がった場合は聖いと言うのであるから。御言葉の趣旨を知る事が必要だ。
主は「また言われた」。「人の心から出るもの(悪い考え、貪欲、高ぶり、愚かさ…)それらの悪が人を穢す」と(20〜23)。だから、へりくだれ、高ぶるな、貪欲を捨てろ、と教会は教えるかもしれない。それは尤もだが、心の中の一切の悪を捨てろと言うなら、それは律法主義だ。御言葉の趣旨を見失っている。主は何が言いたいのか。「食べ物は他人を穢さない」という事だ。すなわち「手を洗ってからパンを食べよ」と言う口伝律法は人を聖くしない…それが主の御言葉の趣旨である。だからと言って、高ぶっていいという事ではないが、愚かなクリスチャンは地獄…という事でもないのである。
福音こそが、人を聖めるものだ。ただ、肉の体にある内は、完全にはなれない。ましてや、現代版口伝律法の様な「人間の教え」では苦しむばかりだ。純粋な福音・真理によって解放と自由を得よう。
2026年5月17日礼拝メッセージ マルコ6:45〜56 「矛盾と教訓」
メッセージは10分半からです。
パンの奇跡(ルカによれば、それはベツサイダで為された)の後、すぐに舟で移動した先はベツサイダだとマルコは言う(45)。その点、ヨハネ6:17は「カペナウムの方に」だと言うのだが、マルコによれば、着いた所はゲネサレの地だ(53)。一体全体、どうなっているのか。とても要約には書き切れないので、その説明は省くが、大事なポイントは、主が弟子達を「強いて」行かせた、という所だ。強い意図・目的が感じられる。そのあと主は、祈る為に群衆を解散させ、山の方に行かれた(46)。あくまでも山の方であって、山に登って祈ったとは限らない。主は「陸地におられた」のだ(47)。そこで主は、弟子達の舟が向かい風で進めないのを見て、水の上を歩いて近付いて行かれた。だが、通り過ぎる積りだったのだと聖書は言う(48)。やはり強い意図がある。しかし、それは変更された。弟子達が水上を歩くイエスを見て怯えてしまったからだ(49〜50)。という事は、本来の目的は、弟子達を安心させる為に「通り過ぎる積りだった」という事になる。言い換えるなら、主がどの様なお方かを教える為(そうすれば安心出来るから)という事だ。と言うのは、通り過ぎる…それは神の顕現を表すからである(出エジプト33:20〜22、T列王19:11)。神を直接見る事は出来ないので、神の栄光が通り過ぎるしかない…それを主は再現して見せようとしたのだ。所が弟子達は安心どころか錯乱してしまった。そこで主は、恐れるな「私だ」と言われた。ギリシャ語で「エゴー・エイミー」すなわち「私は、あるという者である」又もや神顕現だ。弟子達は非常に驚いた(51)。ただし、その驚きは水上歩行や風がやんだ事に対してであって、神顕現にではない。と言うのは、弟子達は「パンの奇跡から悟る所が無く、心は固く閉じていたからである」(52)。
パンの奇跡から悟るべきは、主は命のパンを与えるお方(命の源)だという事、主御自身が「命のパン」だという事である。だから主は「私を食べよ」と言われた(ヨハネ6:53〜58)。所が人間は、肉のパン(この世の祝福)ばかり求める。何より大切なのは命のパンを手に入れる事なのに。信仰は、命を得る為のものだ。そして真の命は、偽りに抗って、最後まで耐え忍んで、手に入れるものである事を覚えよう
2026年5月10日礼拝メッセージ マルコ6:30〜44 「満腹で満足」
メッセージは12分過ぎからです。
パンの奇跡・5000人の給食…果たしてそんな奇跡が今でも起こるのだろうか。もし「起こる」と言うなら、信仰があれば水の上も歩けるという事にもなる。そして、そういう風に信じる人も少なくはない。エリコの城壁が崩れた事を再現しようとするかの様に、祈りながら町を巡り歩く人、エリシャの様に2倍の霊的賜物を求める人など様々だ。しかし聖書は「祈ってパンを増やせ」と教えてはいない。「働いて得たパンを食べよ」(Uテサロニケ3:12)と言うのだ。勿論、パンの奇跡を否定はしないが、バランスの取れた理解・信仰が必要だという事である。
では、このパンの奇跡は何の為か。霊的教訓はあるのか。もっと言えば、聖書とは、何をどう信じればいいものなのか。話を元から辿ろう。主は宣教から戻って来た12使徒を休ませる為に舟で彼らを「寂しい所へ」送り出した(30〜31)。ただ、この辺の記述が共観福音書間ではチグハグで戸惑うのだが、それは矛盾なのではなく、各書それぞれに情報が少しづつ抜けているせいであって、各書のパーツを重ね合わせると全体像が見えて来る。とにかく、主と弟子達はベツサイダに行った(ルカ9:10)のである。そのあと問題の、パンの奇跡だが要は、パンを分け与える=命のパンを与える事を示しているのである。だから主は弟子達に「あなた方で与えなさい」と言われた(37)。何故なら、弟子達は宣教から戻って来て「悔い改めを説き広めた」事を主に報告したからである(12〜13,30)。すなわち、命のパンを与えて来たという事だ。だから、この5000人以上の人々にも…と主は言われたのである。所が弟子達は実際の食べるパンの事だとしか考えられなかった。それで仕方なく主は、実際のパンを与えてやったのである(38〜41)。これが、パンの奇跡の顛末であって「祈ってパンを増やせ。この通りにやれ」という事ではないのだ。私達が与えるべきは「命のパン」だ。
しかし人々は、食べて満腹した(42)。そんな事を何の為に記すのか。人々が、食べて満足した(それ以上何も求めなかった)という事だろう。その様な現世御利益だけを神に求めるのではなく、真理を見出す事を求める必要がある。地上の事だけを考えるのではなく、思いを天に向けよう。天にあるものを思えと主は言われたのだから。
2026年5月3日礼拝メッセージ マルコ6:14〜29 「ヨハネ、お前もか」
メッセージは13分過ぎからです。
ヘロデは、ヨハネを正しい聖なる人と知り、保護を加えていながらもヨハネを投獄した。原因はヨハネがヘロデに「自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤを妻とするのは不法だ」と言い張ったからである。一瞬、背徳感を感じさせはする。だがもし、ヘロデがピリポの妻を奪ったのなら、恨まれるべきはヘロデだ。しかしピリポは沈黙している。円満に離婚したのか、ピリポがヘロデヤを捨てたのか。いずれにしても、独身になった後なら再婚して何が不法なのか。仮に略奪婚であったとしても、何の法・どの法律に抵触すると言うのか。実はヨハネの主張は律法に基づいてのものだ。すなわち、元夫の生存中に再婚するのは姦淫となるという思想である(レビ20:21、Tコリント7:39)。
しかし、ヘロデ達はユダヤ人ではないのだから、ユダヤの律法に従って生きる義務は無い。例えば、クリスチャンはイスラムの掟に縛られてはいないのだから、豚肉を食べたから死刑だと言われる筋合いは無いのと同じだ。所がヨハネは、それを「不法だ」と「言い張った」のである。それで恨まれ、殺されたのだ。「妥協・堕落を一切許さない」というのは立派なのかもしれないが、異邦人に対してユダヤの律法を押し付け、責め立てるのは、さすがにやり過ぎだろう。失敗だ。
「人間の中で最も偉大」と言われるヨハネだが、それでも人間だ。失敗もある。彼は投獄された後「イエスは本当にキリストなのだろうか」という疑いを持った。主が言うには「ヨハネは躓いた」のだ(マタイ11:2〜6)。だから「ヨハネは世の権力をも恐れず、その罪を正面から指摘する勇敢な預言者」という様な評は、お門違い・筋違いなのだ。同じ様に、仏壇を「偶像、罪」と言い張って壊して回るなら、それは勇敢なのではなく、やり過ぎ(神社油撒き事件の様なもの)である。「偶像礼拝は罪」という理屈は未信者には通じない。
聖書人物だからと言って決して完璧ではない。主以外は皆人間だ。それで主は言われた。「天の御国の一番小さい者でもヨハネより偉大だ」と(マタイ11:11)。つまり、純粋な信仰を保って御国に入る者の方が偉い、という事だ。だから優先されるべきは、世の偶像を破壊する事・罪を責める事ではない。真の神への信仰こそが最優先なのである。
2026年4月26日礼拝メッセージ マルコ6:7〜13 「その責任は」
メッセージは13分過ぎ頃からです。
宣教の旅に「何も持って行くな」と主は使徒達に命じられた。確かにイスラエルでは、神の仕事をする人をもてなすのが習わしだ。だからと言って、手ぶらでというのは極端、あるいは甘え過ぎではないか。別に70人の弟子達を遣わす時には、主の道備えという狙いがあった(ルカ10:1)訳だが、今回の狙いは何か。単純に福音宣教、又は訓練か。
解せないのはイスラエルだ。彼らが待望するキリストが来たという福音を(イエスがキリストという事を疑うのならまだしも)「聞こうとしない」人がいる(11)のは何故か。
とにかく弟子達は、悔い改めを説き広め、悪霊を追い出し癒しを行った(12〜13)。それで、人々は悔い改めたのか。別の70人の時も、弟子達は「悪霊共でさえ従う」と喜んで報告したが、人々が悔い改めたという報告は無い。だから主は「悪霊が従うからと喜ぶな」と言われた。すなわち「天に名が記される事が大事だ」という事である。という事は、弟子達の宣教は成功しなかったという事なのだろうか。
宣教…それは、改宗させる事ではない。福音を伝える事、それが宣教だ。その結果、信じない人が確定される。それは仕方無い。そんな人々に対して「足の塵を払い落とせ」と主は言われた。福音をどぶに捨てるなら、もう異邦人と同様に見なすという事だ。
使徒13:49に「御言葉は、この地方全体に広まった」とあるが、パウロ達は「彼らに対して足の塵を払い落とした」(51)。御言葉が広まったとしても、それが必ずしも「人々が信じた」という意味ではないのだ。18章でもパウロは頑ななユダヤ人達に呪いと共に「私には責任が無い」と宣言した(エゼキエル3:18は、信じない人がいるのは伝道者の責任だという事ではないのである)。
結局、12使徒の派遣の目的、それは恐らく、イスラエルの信仰を点検する為だと思われる。直前のナザレの人々が酷かったからだ。それで、働き人を受け入れて食事を与えるかどうか…その為に無一文で遣わしたのだろう。だから重要なのは、福音を受け入れて悔い改める事、癒し等を見て、主イエスの御名の権威を認める事だ。そうしたのはナザレ同様少数なのだろう。私達はその少数の中に留まり続けたい。
2026年4月19日礼拝メッセージ マルコ6:1〜6 「驚くばかりの」
メッセージは11分過ぎからです。
主の力ある業は多くの人々を驚かせたが、ナザレの人々は「主の教えを聞いて驚いた」のである(2)。その驚きは「権威のある教えだ」(1:27)という肯定的な驚きではない。「どこで学んだのだ?」という否定的な驚きだ。すなわち人々は、イエスを権威ある者と思っていない(見下している)のである。だから、主が奇跡を行う事が不思議でならないという訳だ。加えて「大工ではありませんか」とも。それは「その様な職種の者は知恵ある者にはなり得ない」という当時の人々の考え(偏見)の表れだ。更に「マリヤの子で」という言い方も。通常は父親の名で呼ぶ、それが習わしであって、母の名で呼ぶ場合は「父親知れず」の場合のみなのである。つまり「イエスは私生児だ」と人格否定しているという事だ。それはもはや冒涜である。「預言者を尊敬しない」云々のレベルではない。
キリストの存在そのものを否定している様なものだ。 さすがの主も、それには驚かれた(6)。
例えば、教会が牧師を牧師として認めないなら、牧師は(能力があっても)講壇に立てないだろう。同様に、キリストを認めないなら、主もそこで力ある業を行う事は出来ないのだ。だから、主を認めたのであろう少数の病人を癒しただけだった(5)。ヤイロの娘を癒した時の「神の絶対的主権」は、ここではまだ隠されたままであるという事だ。そして、その圧倒的な主権(裁きと、憐みによる一方的な救いの権威)は今も、最後の裁きの時までは現わされはしない。とは言え、時たま(ヤイロの娘の時の様に)現わされるかもしれないが。
とにかく、神を認めない(神に期待しない)…それは信仰が無いと言わざるを得ないのであって、そこに救いは無い。罪人が神の子に変えられるという奇跡はそこでは起こり得ないのだ。だから「神がいるかどうかは分からない」と言う牧師の教会に集う事は霊的な不幸だ。同じ様に、曲がった信仰の教会に集う事も不幸である。当然の事ながら、私達には「純粋な信仰」が必要だ。それに基づく神への期待を持つべきである。そうでなければ、そこでは神も御心を行えない。
私達は、主を喜び、慕い求め、御言葉を愛し、信仰をいよいよ聖めて(純粋にして)行こう。
2026年4月12日礼拝メッセージ マルコ5:35〜43 「神の決定を」
メッセージは13分過ぎからです。
長血の女性の一件で足止め状態の所に「ヤイロの娘は死んだ」という知らせが入った。間に合わなかった。しかし最終的に娘は直った。主が言われた通りに「恐れないで信じ続けたからだ」と言われる。しかし、闇雲に何でも信じて求めれば全て叶うという訳ではないはずだ。特に、神が約束していない事を勝手に信じ込んでも、それは信仰ではない。妄信だ。では何故、主は娘が死んだ後も「信じ続けなさい」と言われたのか。そして、それでヤイロは「分かりました」と言って信じたのか。もし「信じ続けたから癒された」と教えたいのなら、それを書くべきだろう。それどころか逆に人々はイエスを嘲笑った。つまり、人間の信仰によって奇跡が起きたのではないという事である。
とにかく、娘は直って、歩き始めた。それを聖書は「12歳にもなっていたからである」と言う(42)。すなわち「生き返ったからではない」と言っているのだ。では死んでなかったのか。いや死んでいた。ある時点までは。しかし主が「子どもは死んだのではない。眠っているのです」(39)と言われた時点で、娘は肉体的には直ったのである。だから「もう起きなさい=タリタ・クミ」と言われた。するとその時(ルカの記述によれば)娘に「霊が戻った」のだ。それゆえ、子どもは赤子ではなく12歳にもなっていたから歩いた、という事なのである。
そこで問題の「信じ続けなさい」だが、その意味は何か。勿論「神の約束を信じ続けよ」である。では、どの約束か。それは24節。主はヤイロの切なる願いに応えて出かけた。その時点で主は、娘を癒す事を決定しているのだ。その神の決定(約束)は絶対なのである。だから、その神の決定(約束)を「信じ続けよ」という事だ。ヤイロがそれを理解したか・信じたかは分からない。だが、人間の信仰によってではなく、神の主権によって「娘を癒す」事は決定していたのだ。
最後に主は、娘に食事をさせるよう指示し、この事を誰にも知らせるなと厳しく命じた(43)。神の絶対的な主権が発動された事を隠そうとしているのだ。まだその時ではないからである。いずれにしても、娘の癒しは主の憐みによる。そしてその憐みは私達にも注がれている。天国での復活だ。その神の決定・約束は変わらない。
2026年4月5日礼拝メッセージ マルコ5:21〜34 「そういう信仰」
メッセージは11分過ぎからです。
12年の長血の女性が主の着物に触った。「そうすれば、きっと直ると考えていたから」だと聖書は言う(28)。その「考えていた」の直訳は「言っていた」だという所が注目される。「告白の信仰である」と。しかし、もし本当に「何でも口で言った通りになる」なら、その人は神だ。ただ、ある場合には、言葉に出す事によって自分に言い聞かせるという効果はあるだろう。つまり「告白の信仰」というものは、心理学と混ざったもの(純粋な聖書の教えではない)のだと言える。
では彼女は何故「きっと直る」と思ってそれを言い続けたのか。勿論「イエスの事を耳にして」が理由だ(27)。「イエスの着物に触れば癒される」と聞いたのか。いや、そんなはずは無い。そんな事実はそれ以前には無いのだから、そんな噂は立たない。恐らく「イエスはキリストかも」との噂だろう。それで彼女はキリストに救いを求めたのだ。何もかも失って絶望の淵にあった彼女にはもうそれしか望みが無い。「イエスがキリストなら、手を伸ばせば、きっと…」そう信じて言い続けたのだ。だから主は「あなたの信仰があなたを救った」と言われた(34)。(「直した」の原語はソーゾ―「救った」である)
主は「誰が私の着物に触ったのか」と言われた(30)。信仰の表明を求めたのだ。それで彼女は「真実を余す所なく打ち明けた」(33)。真実とは何か。「告白し続けたら、その通りになる」という事か。いや「絶望の淵に沈んでいたけど、キリストにすがれば救われると信じて手を伸ばして主に触れたら救われて、おまけに恵みも受けた」という事、それが「余す所の無い真実」だ。そして、救われたなら、地上の人生にも意味が生じる。無意味な人生ではなく、神の栄光の為の人生となるのだ。では何が神の栄光となるのか。それは、天国の希望によって平安と喜びを持って生きる事だ。それで主は「病気にかからず健やかで」と言われた(34)。もう病気にはならないという約束ではない。「元気でね」という気持ちの表れである。そして、健やかな信仰を保つ様にという事でもあろう。何しろ「健全な信仰を保って確実に天国に入れ」(片手片足を失っても天国に入る方が良い)それが徹頭徹尾、聖書の教えなのだから。その様な信仰を保ち続けよう。
2026年3月29日礼拝メッセージ ヨハネ12:23〜25 「イースター記念(直前)棕梠の主日・合同礼拝」
今回はメッセージのみです。
主は十字架で殺される事を「栄光を受ける時」と言われた(23)。普通は、優勝とか金メダル等、何か目的を達成した人が栄光を受けるものだが、十字架で死ぬ事がなぜ栄光なのか。それは、十字架こそがキリストが来た目的だからだ。救いの道を開くという、その大きな目的を達成する時だから「栄光」の時なのである。そして、自らを「一粒の麦」に喩えて「十字架で死ぬ(一粒の麦が落ちる)事によって豊かな実が結ばれる」と言う(24)。その実とは、信じる者に罪の赦し・永遠の命・天国が与えられるという豊かな実なのである。
一方「一粒の麦」は、人間の事をも指すと言えるだろう。何故なら、人は誰でも必ず、死ぬ(地に落ちる)時が来るからだ。ただし、死んで豊かな実を結ぶかどうかは人それぞれであって「死んだらお終い。天国なんか無い」と言う人は、死んでも何の実も結べない。自分自身が言う様に「死んでお終い」なのだから。しかし、キリストを信じて罪が赦されて「死んでお終いではない」と確信する人は、天国で新しい命を生きる。全ての悩み・苦しみから解放されて喜びと平安に満ちる。そんな豊かな実を結ぶのだ。
その様な人生になる為にと、主は「自分の命を憎め」と教える(25)。問題は「自分の命」とはどんな命の事か、だ。多くの人は「地上の人生だけ」を自分の命と考え、それだけを守ろうとしている。だが、その愛する命(地上の人生)は必ず失われる時が来るのは事実だ。それが「自分の命を愛する者はそれを失う」という事だ。だから「死んでお終い…なんて、そんな虚しい人生は嫌だ。そんな悲しい結末を迎える人生なんて大嫌いだ」と言う人が「この世でその命を憎む者」なのであり、その人は永遠の命に至るという事なのである。それを約束する為に主は甦られた。
加えて、恵みなのは「死んでお終いという人生を憎む」人は「それを保つ」と言う所だ。「それ」とは…地上の人生である。つまり、その人は、ただ天国に入れるだけでなく、この世の命・地上の人生を生きる為の力が与えられる(それを保つ)という事なのである。私達は、十字架を感謝し、復活を喜び、それを自分の命としよう。
2026年3月22日礼拝メッセージ マルコ5:1〜20 「どんなに大きな事を…」
メッセージは13分40秒頃からです。
共観福音書全てに記された悪霊追い出しの出来事である。その中でマルコの特色は何か。注目したいのは悪霊達が「この地方から追い出さないで」と主に懇願した事だ(10)。悪霊にとっては、さぞかし居心地の良い地方なのだろう。他の所には行きたくないという訳である。ならば何故、豚に乗り移らせてと願うのか(11〜12)。それはマタイによれば「ずっと離れた所」だと言う。主はそれを許可した。すると豚の大群は湖になだれ落ちて死んだ(13)。さて、どこにも行きたくなかったはずの悪霊はどうなったのか。豚と一緒に溺れて死んだのか。いや、霊は肉体を持たないが故に溺れない。考えられるのは、豚から出て元の地方に戻って来た…それ程、その地方に留まりたいという事だ。
その地方(ゲラサ人の地)の人々は、豚(財産)を失って、キリストを拒んだ。悪霊との共存・富を選んだのだ(14〜17)。異邦人の中でも特に神から遠く離れている。そこで悪霊を追い出してもらった人が「お供をしたい」と主に願うが、主は地元で証しをするように、と言う。それを聞いた人々は驚いた(18〜21)。彼はどんな証しをしたのだろう。それは「主がどんなに大きな事をして下さったか、どんなに憐れんで下さったか」である(19)。確かに彼は悪霊を追い出してもらった。だが、そんな人はその時点で既に沢山いた(マタイ4:23〜25)。その宣教のごく初期においてデカポリスからも沢山の人が主に付き従っていたのだから、今更「悪霊追い出し」と言われてもデカポリスの人は驚かないのではないかと思えるが、驚いたのだ。何故か。ポイントは「主がどんなに憐れんで下さったか」である。主の憐み…それが「悪霊追い出し」でないなら何か。それは、ゲラサ人の地へ舟でわざわざ渡ったという事だ(4:35)。まだ異邦人伝道の時ではないのにである。そして特に、悪霊によって人生が崩壊している人に恵みを施す為に。更に「キリストを拒む地元の人々への証」を命じた。これこそ、神から最も遠く離れている異邦人への憐みだ。ここに福音がある。選民だから…ではなく、キリストを受け入れる者が救われるのだ。それが異邦人(私達にも)して下さった「大きな事・神の憐み」なのである。
福音の恵み…を感謝して「それ」を証しする者となれれば幸いだ。
2026年3月15日礼拝メッセージ マルコ4:35〜41 「どういう方?」
メッセージは11分半頃からです。
突然の嵐で舟は波を被って水で一杯になった。「溺れて死にそう」だと言う弟子達に、主は「信仰が無い」と言われた。それは「信仰があれば溺れない」という事なのだろうか。ならば、ひいては「信仰があれば死なない」という事になってしまうのではないか。
主が「信仰が無い」と言われたのは、弟子達が「怖がっている」からである。では彼らは何故、怖がっていたのか。死にそうだからだ。すると主が言われたのは「信仰があれば死ぬのは怖くない」すなわち「死を恐れるのは不信仰だ」という事なのか。確かに主は死に打ち勝って甦られた。今、信じる者は主と共に勝利者だ。しかし、だからと言って、山で熊に出くわした時、怖くないだろうか。ビルの屋上から突き落とされるのは怖くないのだろうか。いや、恐怖を感じて不思議ではないはずだ。しかし、信仰があれば「死んだ後どうなるかは怖くない」のである。永遠の命だと分かっているから、地獄、滅び、無…を恐れる必要は無いのである。それがクリスチャンだ。ただ、それでも、死ぬような目には遭いたくない…それは人情だ。主も十字架を前に、ゲッセマネの園で「恐れ、悶えた」し、時と場合によっては、恐れを感じる事は必要である(エペソ6:5、ユダ23)。ただ、主は永遠の命を与えてくれる救い主だと信じていれば、死後の事を恐れる必要は無い。
だから弟子達が恐れている(信仰が無いと言われた)のは「主が永遠の命を与えるお方だと信じていない=天国の確信が無い」という事なのだ。それで弟子達は主に対して「この方はどういう方なのだろう」と言った(41)。主がどういう方なのか、分かっていないのだ。
勿論、死ぬ様な拷問は、考えただけで身震いがする。恐ろしい。では、本当に死にそうな時はどうすればいいのか。「主よ、我が霊を御手に委ねます」と言えばいいのである。それが「勝利」だ。決して、この世で栄える事が勝利なのではない。どんなに栄えた所で、この世の中、上には上がいる。だが、カネ(この世)の力では行けない所がある。天国だ。そこに入るのが「世に勝つ」という事だ。
聖書は言う。誰が世に勝つのか。「イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」と(Tヨハネ5:5)。
2026年3月8日礼拝メッセージ マルコ4:26〜34 「神の国は…」
メッセージは12分頃からです。
神の国とはどの様なものか。それは、まるでからし種の様で、教会も初めは小さくてもやがて成長してとても大きくなる…というのが定説だが、その理解の問題は「神の国=教会」と考える所にある。
神の国、その原意は「神の支配」である。それでは、教会は神の支配下にあるだろうか。もしそうなら、教会の中に間違った教えがあるのはおかしい。神の支配の中に偽りがあるはずが無い。パウロ自らも、地上では不完全である事を言っている(Tコリント13:12)。では、いつ完全な神の支配が実現するのか。それは天国だ。そこに至るまで(神の支配が完成するまで)のプロセスが、似ているのである。
例えば、種が芽を出して成長する(その仕組みに人間は関与していない、という意味で)それがどの様にしてか、人は知らない(27)と言うのだ。全ては、神が仕込んだプログラムによるのである。同様に、天国がどんな仕組みになっていて、いつどう完成するか…人間は知らないし、関与などしている訳がない。だが収穫の時が来たら必ずそれは起きる。全て神の主権によってだ。
続いて、神の支配はからし種の様だという事は、その力は弱いという事を(マルコは)表そうとしている。つまり神は、支配を無理強いはしないという事だ。しかし、その種(神の支配を喜ぶ思い)が成長すると、何よりも大きくなる。そして、ついには「神の支配を最大の願いとする」様になる(それが「神の国を第一に求めよ」という事だ)。
主は、人々の聞く力に応じて話された。それも、聞く力の弱い人には、聞いても分からない様に喩えを話されたのだ。一方、弟子達には全てを解き明かされた。それは「聞くには聞くが悟らない人達」と「聞いて悟る人達」を区分ける為である。羊と山羊を区分ける様に。そうして、神の支配・国は完成する(マタイ25:32〜34)という事を、聞き取れるかどうかが問われているのである。
だが、全てを解き明かしてもらった弟子達は悟らなかった(マルコ4:13)。主が解き明かして下さったのに、だ。教会も、完結した聖書があり、真理の御霊も頂いているはずなのに、偽りの教えは無くならない。今こそ私達は、完全なる神の支配・御国を求めよう。
2026年3月1日礼拝メッセージ マルコ4:21〜25 「私達が聞いているのは」
メッセージは14分半頃からです。
この箇所も「聞く」という事についての一連の教えである。
ただ、不思議なのは22節。普通「隠れるのは見つからない為」のはずだが、主は「必ず現れる為」だと言われる。現れたいのなら隠れない方が…いやむしろ、目立った方が良いのではないか。
理解の為には文脈だ。まず、光・キリストが福音の光で全体を照らす為に来た(21)。所が、その福音の奥義を人々は悟らない(2〜12)。だから確かに、福音の奥義は隠されている状態である。しかし、それは必ず現されなければならない。今は覆い隠されているけれど、明らかにされる為に光は来たのだから。それが22節の意味である。そして、その時は必ずやって来る。だが、その時になってからでは遅い。だから「今、聞け」(23)という事だ。
続く24節の「人に量る、その量りで自分も量られる」はマタイ7:1〜2では「裁き」についての教えとなっているが、ここでは文脈が違う。あくまでも「聞く」という事についての教えだ。25節も、経済論や資本論の教えではない。
「聞いている事によく注意せよ」とあるが、それに続くのは、注意するべき「理由」ではなく、注意するかしないかの「結果」だ。そもそも「聞いている事に良く注意する」とは、どういう事か。「注意深く聞く」とは違うのか。新共同訳では「何を聞いているかに注意しなさい」だ。では私達は何を聞いているのだろう。音楽か。落語か。漫才か。それらは魂の行方を左右するものではない。その点、私達が聞いているのは、命か滅びかを左右する神の御言葉だ。それ程重大なものを聞いているという事によく注意せよという事なのだ。何故なら、注意するかしないか、それ次第で御国の奥義が与えられたり、取られたりするからである。例えば、御国の奥義を悟らないと、人に対して「右を打たれたら左も出せ」「神の様に完全になれ」等と迫る。そうすると、その「人に量る計りで自分も量られ、更にその上に増し加えられる」…すなわち、更に厳しい基準で量られるという事だ。
私達は「持っている悟りまで取り上げられてしまう」者ではなく、悟りを「持っている人は更に与えられる」者でありたい。
2026年2月22日礼拝メッセージ マルコ4:1〜20 「たとえば、たとえ喩えが…」
メッセージは14分頃からです。
主は、喩えによって多くの事を教えた。「種蒔きの喩え」は、その中の一つだが、何故喩えで話すのか。それは、彼らが聞いても悟らず、赦される事の無い為だ(12)と主は言われた。つまり、彼らは真実を知ろうとしないから聞いても分からない様に言う、という事だ。では、彼らとは? 律法学者・パリサイ人か。いや、おびただしい数の群衆(1)の事である。すなわち、大多数の人は真実を知ろうとしない、と主は言われているのである。その点、弟子達には神の奥義が知らされていた(11)。なのに弟子達は喩えの意味が分からなかった。それで言われた主の言葉(13)が意味不明だ。まるで「英語が分からなくてどうして英語が分かるか」と言ってる様なものだ。
理解の鍵は「聞く」という事である。それも、ただ聞き流すのではなく「聞いて受け入れる」事だ。それが神の御心に適う事であり、神の家族として受け入れられる事なのだから(3:31〜35)。そこで「種蒔きの喩え」だが、そこに秘められた御心は「種・御言葉とはキリストの福音の事であり、それを聞いて悟る人が幸い」だという事である。決して「何か御利益の有りそうな御言葉を固く信じて多くの祝福を得よう」という事を教えているのではないのだ。その様な理解は「ちゃんと聞いてない=御心を受け取ってない」という事なのである。
だから「この喩えが分からないなら」(13)とは「キリストの福音という奥義が分からないなら」という意味で、「そんな事で一体どうして喩えの理解が出来るか」とは「福音が分からないなら、他の教え(喩え)も理解出来ない」という意味なのである。
同じ様にクリスチャンも、純粋な福音を悟らないでは聖書は理解出来ない。偽りの、あるいは曲がった福音等を信じていたら聖書を誤解するばかりだ。たとえイエスはキリストと信じていても(悪霊もそれを疑っていないが)…御言葉の真実を知ろうとしないなら、それは神の御心を行っているとは言えない。
弟子達には神の国の奥義が知らされていたのに悟らなかった。それが現実だ。私達は、聞くには聞くが悟らず…という事の無い様にしたい。その為に、聞く耳・悟る心を与えて下さいと祈ろう。
2026年2月15日礼拝メッセージ マルコ3:31〜35 「神の御心」
メッセージは14分過ぎからです。
イエスは気が狂ったと思って(=聖霊をけがして)いたマリヤ達は、世間体を気にしたのだろう、人をやってイエスを呼ばせた。だが主は「私の母とは誰か」とマリヤを否定した(31〜33)。神の家族として迎え入れられるのは「神の御心を行う人」なのだ(34〜35)。
では、主の周りに座っていた人達は、どんな御心を行ったというのか。ポイントは「皆が食事する暇も無かった」時にマリヤ達が来た事だ(20〜21)。その時主は、集まった大群衆(病人達)を癒し、群衆は驚いた、と並行箇所にある。そんな奇跡を見て興奮する大群衆を落ち着かせるのは簡単ではないし、さぞかし時間がかかるだろう。それで「食事をする暇も無かった」のかもしれない。で、群衆は座らされて何をしていたか。主の教えを聞いていたのだ(マタイ12:46)。奇跡を求める心を抑えて。それを指して主は「神の御心を行っている」と言われた。だから、誰が神の家族かと言えば、それは「御言葉を受け入れる人」だ。「癒しも欲しいけど、まず御言葉に耳を傾ける」事が神の御心に適うのである(ルカ12:29〜31)。何しろ、罪の赦し・永遠の命が無い…それは御心ではないし、癒しも無駄になる。神の御心は、救われて真理を知る様になる事だ(Tテモテ2:4)。そしてそれは、御言葉を聞く事によって始まるのである。だから「救われても真理を知らない」のと「救われてないけど真理を求めている」のは、まだ御心を半分しか行っていないという事だ。詰まる所、神の御心とは「この世と調子を合わせない事」と「神に受け入れられる、完全に、良い事」だと言える(ローマ12:2)。だから「救われる」のは、神に受け入れられる良い事だが、救われて真理を知る事の方が、より完全に御心に適うのである。その為に、心の一新によって自分を変えなさいとパウロは言う。
決して「完全な人になれ」という事ではない。大事なのは、私達は完全ではないと知る事だ。ただ、信仰によって義とされている…それが御心なのである。すなわち、それが、良い事・完全に神に受け入れられる事なのだ。私達は、何が神に受け入れられるかを知ろう。そして、完全な人にはなれなくとも、一つ一つ、御心を行う事が出来る様に、祈り求めよう。
2026年2月8日礼拝メッセージ マルコ3:20〜30 「マリヤもか」
メッセージは13分20秒からです。
食事する暇も無かったとは…ワンオペの美容室ならまだしも、使徒だけでも12人いたのに交代で休憩も取れなかったのなら異常な状態だ。
それで、マリヤ達は「イエスは気が狂った」と思って連れ戻しに来た(21)。これは大問題である。と言うのは、律法学者達も「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」(22)と中傷したが、それは「気が狂った」という意味の当時の慣用句であるからだ。因みに、ベルゼブルとは何者か。オカルト系の本では、悪魔の一人とかサタンとされているが、ユダヤ教の文献では、サタンはベルゼブルと呼ばれてはいない。だから「悪霊共のかしらによって悪霊共を追い出している」という中傷とは別の意味(先述の慣用句)なのである。更に因みに、主は反論として「サタンがどうしてサタンを追い出せようか」(23)と言うが、サタンは複数存在しない。ただ、悪霊共はサタンの一味であり、その働きは総じてサタンの働きであるゆえ、悪霊をサタン呼ばわりする事はある。だから主の反論の趣旨は「悪霊が別の悪霊を追い出すなら分裂だ、滅びる」(24〜25)という事なのである。
それで「ベルゼブルに取りつかれている(気が狂っている)」に対する反論が28〜29節である事は30節から明らかだが、28節は「どんな罪を行っても構わない」という意味ではない。ただ「悔い改めたなら赦される」という事だ。しかし、聖霊をけがすなら決して赦されない。何故なら聖霊は悔い改めに導くお方だからである。それをけがす=悔い改めを拒む=永遠に赦されない=とこしえの罪に定められる=地獄という事になる訳である。そして、あろう事か、マリヤ達も「イエスは気が狂った」と思っていた。主の反論によればそれは「聖霊をけがす事」だ。そのままでは非常にまずい(神の家族になれない)事になる。事実、そのあと主はマリヤを否定した(33〜34)。勿論のちには、マリヤ達も悔い改めてイエスを主としたから幸いだが。だから、聖霊による真実な悔い改めがいかに大切かという事だ。
この様に、悔い改めへと促す聖霊に従うなら幸いなのである。信仰の向かう方向を、いつも聖霊によって天へと方向を修正(方向転換)させて頂ける様に導かれて歩もう。
2026年2月1日礼拝メッセージ マルコ3:7〜19 「退く王」
メッセージは13分頃からです。
人々に福音を伝える為にわざわざ出て来たはずなのに主は、退かれた。マルコは、そこに注目する。では、主が退いた理由は何か。まず、パリサイ人達が主への殺意をむき出しにし始めたからだ(6)。が、まだ十字架の時ではない。もう一つは、大勢の人が押しかけて来たから。将棋倒しを避ける為に小舟に身を引いた(7〜10)。そして、悪霊が余計な事を言うから身を隠そうとした(11〜12)。全ては、救いの計画の完成の為に、退かざるを得なかったという事だ。更に、山に登ったが、それは祈りや休息の為が常で、言わば退いたという事だが、今回は12使徒の任命というミッションがあった。余談だが、ヤコブとヨハネにはボアネルゲというあだ名を付けた。二人に同じ名前だと呼ぶのに困ると思うが、あだ名は霊的性質の指摘であって日頃の呼び名ではないのだろう…例えば主はペテロを、いつもシモンと呼んだ。
さて驚くのは、主はユダをも使徒に「望んだ」という事だ(13)。恐らく、ゲッセマネでの祈りの様に「願わくは、この杯を取り除いて…しかし御心の通りに…」と苦しい祈りの末に選んだのではないか。救いの計画の完成の為にだ。ならば15節はどうか。主は悪霊を滅ぼす為に来たのではないはずだが、弟子達には積極的に悪霊を追い出させるのは何故か。そもそも、悪霊に取りつかれた人がそんなに沢山いたのか。日本なら偶像だらけだが、仮にも真の神を信じる人々の中に…。
マルコ16章に「たとえ毒を飲んでも害を受けず」とあるが、信じて実行した人はいないだろう。問題は毒とは何かだ。クリスチャンを霊的に滅ぼす「毒」それは偽りの教えだ。だから、悪霊を追い出す(偽りを跳ね返す)為に、使徒達には「福音を宣べさせ」た。真実な福音を語ってこそ偽りを追い出せるというものだ。これは悪霊の追い出しを否定するのではなく、あくまでも霊的な側面での話であるが。
とにかく主は退いた。肉的な勝利を取る王ではない。だからパリサイ人達を返り討ちにせず、病人達を拒まず…これがイザヤの預言(傷んだ葦を折らず、くすぶる燈心を消さず)の成就である。最後に、ユダに裏切られる(19)。それで完全に地上から退く事となる。それも福音(救いの計画)の完成の為だ。それが真の王としての主の姿である。
2026年1月25日礼拝メッセージ マルコ2:23〜3:6 「人間のため」
メッセージは11分45秒からです。
律法は、隣人の畑の穂を手で摘む事は許可している(申23:25)。だがそれを見たパリサイ人達は怒った。それが安息日だったからだ(23〜24)。穂を摘む事を刈り入れ(労働)だと解釈したのである。勿論、主はそれを罪だなどと思ってはいない(25〜26)。すると主は、法・秩序の破壊者なのか。いや、平和の君だ。では何故、主は安息日にも働いたのか。それは「父は今に至るまで働いている」(ヨハネ5:17)からだ。
定説では「神は7日目に休んで、それを聖とされたのだから7日目は安息日、働いてはならない」という事になっている。だが、それは間違いだ。神は休んでいない(と主は言われた)のである。
確かに律法には、安息日には働くなとあるが、その発端はマナだ。それは土曜日には降らない(金曜に2日分降るから)と神は言うのに、従わず、あくせくする人々がいたので、民に神への信頼を学ばせる為に土曜日(7日目)は働くなと命じたのである。なのに、それが形骸化して、単なる無意味な規則に成り下がってしまっているだけなのだ。
続いて、すぐに主は手の萎えた人を癒したが、癒す事が目的なのではない。「安息日に働いて何が悪いのか」と主張する為だ。問い掛けられているのは「安息日にしていいのは殺す事か、生かす事か」なのである。それを、癒しに注目し過ぎて見失ってはいけない。
律法は、人を縛る為ではなく、キリストに導く為のものだ。その為に使うなら、律法は聖く、良いものだとパウロも言う。つまり、人を縛る為に律法を使うのは、悪なのだ。律法によって人が苦しむなら、律法は悪魔の道具となってしまっているという事だ。
安息日(に限らず、律法全て)は、人間をキリストに導く為のものだ(27)。だから、安息日に働かない事より何より、一番重要なのは、キリストを主とする事である。キリスト無くして命は無い。そのキリストを差し置いて、律法が優先されるなら本末転倒だ。全ての権威は主にある(28)。それでも、イエスを葬り去ろうとした(主に逆らう)人達は(3:6)、やがて主によって自らの魂が滅ぼされる事に気付いていない。主は安息日にも、終わりの時にも、主だ。私達は、神の国に至るまでずっと、イエス様を主とする者でありたい。
2026年1月18日礼拝メッセージ マルコ2:18〜22 「必要なら」
メッセージは11分半頃からです。
主の弟子達は何故、断食しないのか、と問う人々に「花婿が一緒にいるから」と答えた主(18〜19)。つまり、キリストが共にいる間は断食出来ないという事だ。何故なら、断食は悲しみの表現だからである。救い主が来た(喜びの)時に、何故、悲しむ事が出来ようか、という事だ。その点、律法学者・パリサイ人達の断食は、うわべだけで何も悲しんでなどいない。ただ宗教的熱心さを誇示する為のものだった。だから主は、断食する時には人に分かるようにするなと言われた。もっとも、主は断食そのものを否定している訳ではない。必要な時にはする、と言うのである(20)。実際、その通りに、弟子達は主の昇天のあと断食して祈った(使徒1:14)。
所で、聖書の中に「断食せよ」という教えはあるのか。「断食する時は、こうしなさい」と主は言われたが「日常的・定期的に断食せよ」という教えは無い。主が言われたのは「必要な時にはする」という事だ。ゆえに、必要と感じた人々が「断食していた」事を聖書は記しているに過ぎない。だから、必要を感じないのに断食するのは、パリサイ人達と同じく、宗教的熱心さを誇示する為なのかもしれない。
さて、その断食について説明する為に、布切れと皮袋の話になる(21〜22)。まず「古い着物・古い皮袋」は「律法主義」の事だ。そして「新しい布・新しいぶどう酒」は「福音(イエスは救い主)」だ、という事は分かる。その福音は律法主義では受け取れない。「イエスは主」という福音は、聖霊(新しい皮袋)によって受け取るのだ。
そこで、断食との関わりだが…断食自体は悪くない。だが、信仰熱心を誇示する為(見せかけ)の断食は意味が無い。悲しみを表現するなら、心からの悔い改めがあってこそだ。つまり、見栄の断食で福音の恵みは受け取れない、聖霊(新しい皮袋)による心からの悔い改めこそが福音の受け皿だ、という事なのだ。
だから、事ある毎に「新しい皮袋になろう」とする必要は無い。「新しいぶどう酒」は「流行の教え」の事ではないのだ。本当に必要なのは、真実な信仰の悔い改め=信仰がどこに向かっているのか…それが間違っていたなら方向転換する事である。
2026年1月11日礼拝メッセージ マルコ2:13〜17 「向かう方向」
メッセージは11分40秒からです。
レビ(マタイ)が「ついて来い」と主に言われて、すぐに従ったのは何故か。アンデレ達の場合は必然的な伏線があったが、レビには無い。それでも彼はすぐに主について行った。やはり「単純に従う信仰」なのか。しかし、ついて行った先は、自分の家だった。つまり、ここでの主の「ついて来い」は「お前の家に行くぞ」という事なのだ。何しろ、そこで大勢の人達と食事をするつもりだったのだから、家主に来てもらう必要はあるし、取税人で悪どく儲けていたレビの家はうってつけだったのだ。その後、レビは主の弟子となるが、それは自由だ。
とにかく、レビの場合は、いわゆる「召命」とは少し違う様だ。ただ目的は、レビの家で罪人達と食事をする事である。理由は「罪人を招く為に来た」からだ(16〜17)。そして「招く」とは、献身へ…ではなく、天国へである。レビも、その罪人の一人として招かれたから弟子となったのである。だが、そんなレビ(マタイ)を主は選んで、福音書を書く器として用いたのだ。
では何故、選ばれたのか。それは罪人だからだ。すると選ばれなかった人は、正しい(罪の無い)人だったのか。いや、そんな人はいない。しかし「自分は正しい。罪が無い」と思っている人はいる。主は、そんな人は天国に招かない、とは言わない。「天国への招き」は全ての人にだ(ヨハネ3:16)。ただ「自分には罪は無い」と言う(罪を認めて赦しを得ない)人を「天国に招き入れ」はしない。「天国に招く」のと「天国に招き入れる」のは別問題だ。そこで大事なのは、赦されたか、赦されていないか、である。悔い改める(方向転換する)なら赦される、それが福音だ。たとえクリスチャンでも、信仰の向かう方向によっては悔い改め(方向転換)が必要である。その思いの向かう方向が地上の事だけなら、最後は滅びだと聖書は言う(ピリピ3:19)。勿論、地上の事は大事だ。無視する訳にはいかない。しかし、天にも心を向けなければいけない。その為には、天にこそ大いなる宝がある事を知る必要がある。宝のある所に心は向かうからだ。
私達は、天にどれ程の宝があるのかを聖書を通して知る…その様な方向に歩み続けよう。
更なるバックナンバー(要約)は、順次、ブログに移行。