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2019年10月1日、玄武書房より全国発売されました。アマゾンにて購入いただけます。画像をクリックすると購入ページに飛びます。
以下、礼拝メッセージの要約と共に音声もお聴き頂けます。
2026年9月27日礼拝メッセージ マルコ12:13〜34 「質問ですから」
メッセージは12分頃からです。
2026年9月20日礼拝メッセージ マルコ11:27〜12:12 「天から来たもの」
メッセージは11分過ぎからです。
質問を質問で返す(30)のは好ましい事ではないが、問題は、その質問の趣旨は何かだ。バプテスマのヨハネは天から来た・神の預言者か、それとも人から出た・ペテン師か…を追及していると考えるなら、それは勘違いだ。主が問うているのは「ヨハネのバプテスマは…」である。すなわち、ヨハネが授けた「あのバプテスマ」は天・神からのものか、人から出た・眉唾物かという事である。
ヨハネの「あのバプテスマ」は、悔い改めのバプテスマである。厳密には「悔い改めに導く為のバプテスマ」だ。つまり、バプテスマを受けたなら、キリストの元に行って悔い改めよ…という事である(参照:使徒19:3〜5)。要するに、罪の赦しを得させるのはバプテスマではなく悔い改めであって、その悔い改めへと導くのがヨハネのバプテスマだという事である。さて、そのバプテスマは天からのものか、まやかしか。勿論、天からのものだ。何故なら「悔い改めた者を赦す」のは神が決めた事だからである。逆に、人間が勝手に考えたのは「一方的に赦せ…そうすれば赦される」とかであって、神の決めた事とは大違い(人から出たもの)だ。宗教指導者達には、それが分からないし、そもそも勘違いしている。予測(31)も間違っている。「もし、天からと言えば」…その時に主が言われるであろう言葉は「それなら何故、悔い改めなかったのか」である。付け加えるなら「取税人・遊女たちは悔い改めたのに」だ(マタイ21:32)。だから、その事を表す為にマルコ12:1〜12の喩えは語られている。神が遣わしたしもべを受け入れない・悔い改めないなら裁きは免れない。彼らは、その喩えを聞いて「自分達の事だ」と気付いた(12)。気づいたのなら何故、悔い改めないのか、である。それ所かイエスを捕えようとした。
結局、悔い改めは、天・神からのものだという事である。そして、クリスチャンにとっての更なる悔い改めは「律法の中に生きるのをやめる」事、そして「神の恵み・御心の中に生きる様になる」という事だ。それこそが「聖霊の働き・天から来たもの」なのである。
それに気付いたならば、行いの正しさによって神に認められようとするのをやめよう。「何故、そうしないのか」と主に言われる前に。
2026年9月13日礼拝メッセージ マルコ11:19〜25 「信じなさい…って…」
メッセージは13分頃からです。
主が呪ったイチジクが枯れたと告げるペテロに、主は「神を信じれば、山も動くし、自分の言葉通りになる」と言われた。あたかも「信じれば何でも思いのままだ」と言うかのごとくにである。「これは霊的に退廃したエルサレムへの裁きを暗示しているのだ」と教えればいいものを、何故、誤解を招く様な事を言うのか。その真意は如何に。
エルサレムが裁かれる原因、それは不信仰である。だから主は「神を信じなさい」と言われた。すなわち「信仰を持て」…言い換えるなら「神への信仰を立て直せ」という事だ。だから決して「神を信じれば自分の言葉通りになる」という様な事ではないのである。そもそも、信じるべきは「自分の言葉」ではなく「神の言葉」だ。願えば何でも叶う…それは私欲であって、「悪い動機で願っても受けられない」とヤコブは言う。御心に適う願いを…それが動機であるべきなのだ。
では、山に「海に入れ」と言うとして…その動機は何か。必然性はあるのか。ユダヤの伝承では、聖書の難問を解く人の事を「山を動かす人」と言うのだそうだ。聖書を悟る為…それなら動機として御心に適うだろう。もう一つは「世の終わりの時、山が動く」とゼカリヤ14:4にある。それは、裁きと救いの完成の始まりの時だ。それは「必ず来る」と信じて疑わず、その通りになると信じるなら、それが自分の上に成就するのである。だから「神を信じなさい」「御国は来ると信じるなら、そうなる」という事なのである。その文脈で「祈って求めるもの(御国・救い)は、既に受けたと信じなさい…」(24)という事なのだ。別の言い方をすれば「救いの確信を持て」という事である。
最後の25節。大前提として、赦しは、悔い改めたならば…である。そこで「誰かに恨みがある」とは、どういう状況か。それは「いつまで経っても赦せない」という状況(それが「恨み」)だ。そして祈っている時、その事を御霊によって気付かされたなら「悔い改めてるのだから赦してあげなさい」という事なのだ。そうすれば、その罪(つまり、悔い改めた人を赦さないという的外れ)が赦されるのである。
何でもかんでも一方的に赦せというのは聖書の教えではない。御言葉の誤解を正して、神を信じよう(信仰を立て直そう)。
2026年9月6日礼拝メッセージ マルコ11:1〜18 「〜宮清め〜」
メッセージは11分過ぎ頃からです。
「主がお入り用なのです」と言えば、持ち主はロバの子を弟子達に差し出した。それは主が持ち主と事前に打ち合わせをしていたのだろうと言われる。そうかもしれないが、全知なる主が全てを予知していたとしても不思議ではない。あるいは「イエス様がお入り用なのです」と聞いた人が「王であるお方が求めておられる」と理解したならどうか。断れないだろう。事実、弟子達も群衆も、主を王として扱っている(7〜10)。ただし、群衆の王への期待は的の外れたものだったが。
続いて、実の無いイチジクだが、それは「エルサレムの霊的退廃」を表している。それゆえに主は、宮清めを行い「私の家は、全ての民の祈りの家」だと言われた。「全ての民」とは「全イスラエル」の事ではない。「全ての国の人」(新共同訳)の事である。つまり、単に「祈りの家で悪どい商売をするな」というだけでなく「異邦人が真の神を礼拝する為の庭を通り抜けの通路にしてしまうな」(16)という事だ。神の宮は全ての人にとっての祈りの家なのだからである。
それでは、神の宮は今どこにあるのか。教会か。確かに。しかし教会とは「召し出された者の群れ」であって、そこに集うクリスチャン一人一人が「神の宮」(�Uコリント6:16)であり「祈りの家」なのだ。だが、果たして本当に「祈りの家」となっているのかが問題だ。もし、敬虔を利得の手段としてしまっているなら「宮清め」の対象となるだろう。
では「祈りの家」である為にはどうすればいいのか。24時間祈祷か。祈りの集会に参加すれば、それでいいのか。祈りとは…信仰とは…を改めて問い直す必要があるだろう。そう、信仰とは、何はさて置き「神との関係の回復」であり、その為の「悔い改め」である。そこに基づいてこそ「祈り」が成り立つ。すなわち「王なるキリストへの正しい期待を持つ事」こそが「神との正しい関係」であって、それを保ってこそ「神の宮・祈りの家」で在り得るのだ。加えて、御言葉の誤解を正す事も重要だ。人間同士でも、相手の言葉を誤解していたら良い関係は築けない。
とにかく、主は退廃した神の宮を清めたいのである。それが叶わないなら裁くしかない事を示すのが枯れたイチジクの木だ。私達は自らを真実な神の宮・祈りの家としたい。
2026年8月30日礼拝メッセージ マルコ10:46〜52 「招きと応答」
メッセージは15分頃からです。
盲人バルテマイがいつもの様に道端に座って物乞いしていた。「所が」盲人が「ダビデの子よ」と叫び始めた、とマルコは言う。はて、何が「所が」なのか。「すると」ではダメなのか。
イエスに向かって「ダビデの子よ」と呼びかけたのは、病人等、深刻な状況にある人々が殆どだ。彼らは「イエスはダビデの子」と信じたからそう呼んだのである。その信仰があなたを救った…と主は言われた。そういう訳で、バルテマイは苦境にあった。「所が」信仰によって救われた…という事なのである。
さて、その出来事の中で、当初はバルテマイを厄介者扱いしていた弟子達が、逆に「心配しないでよい」と語りかけた。主が「彼を呼んで来なさい」と言われたからだ。弟子達の手のひら返しは見事だが、そのセリフ自体は間違ってはいない。主が「来なさい」と言って下さるなら、もう安心していい。例えばペテロは、そう言われて水の上を歩いた。そして主は「全て疲れた人…は来なさい」とおっしゃっておられるのだから、主の元に行けば休みを得る事が出来るはずだ。ただ、現実にはそうなっていない(教会で重荷を背負わされる)とすれば、それは出鱈目な聖書解釈のせいであるが。
とにかく、主に呼ばれたバルテマイは「上着を脱ぎ捨て」たのだが、定説では「盲人である事の印(上着)は、もう不要だという信仰によって」だと言われる。だが原文は「アポバローン(見捨てて、あとに残して行く)」であって、服の着脱というニュアンスは無い。だから、フランシスコ会訳の「置き去りにして」か「捨て置き」が相応しい。と言うのは、盲人にとって上着は、物乞いする時に小銭を受け取る為に道に広げるものであって、身に着けていたのではないのである。だから、それを道に広げたまま置き去りにした…要するに、取る物もとりあえず、大急ぎで主の元に行った、という事なのだ。そして、それが「来なさい」という主の招きに対する正しい応答なのである。その信仰が彼を救ったのだ。
主は今も招いておられる。純粋な信仰を保って約束の地に入って来なさい、と。私達は、偽りの教えを置き去りにして主の元に行こう。
2026年8月23日礼拝メッセージ マルコ10:32〜45 「ピンボケ」
メッセージは12分頃からです。
主が先頭に立ってエルサレムに向かうので弟子達は驚き恐れた。受難予告を聞いていたからだ。そんな弟子達に主は更に具体的な受難予告をされたが、弟子達はまだ出世争い・権力争いをやめない。それは弟子達は12大臣になれる(マタイ19:28)と思っていたからだ。ピントがずれているのである。それにしても、頼み方もおかしい。口語訳では「先生、私達がお頼みする事は何でも叶えて下さる様に」だ。「頼み」の体をなしていない。権威ある英語の訳もそうなっている。それで主は「あなた方は自分が何を求めているか分かっていない」と言われた。
そこで主は、弟子達を呼び寄せて言われた。「人の先に立ちたい・偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になれ」と。それは「キリストが仕える(贖いの代価として十字架で死ぬ)為に来たのと同じだ」と。するとまさか、キリストは人の上に立ちたくて(偉くなりたくて)十字架にかかったのか。42〜45節を文字通りに受け取れば、そうなるが、そういう事でいいのだろうか。いや実は、これは、異邦人との対比を語っているのである。つまり、異邦人は偉い人たちが権力をふるい、支配する(42)。それに対してイスラエルではどうなのかが問題だが、その点、弟子達でさえ出世争い・権力争いをしているのである。尚の事、宗教指導者達はもっと酷い。異邦人と何ら変わりが無いのだ。だから主が言いたいのは、神の民はそうあってはいけない、という事で、出世・権力などは神の国に相応しくないのである。すなわち、偉くなりたいという考え自体が、この世のものなのだ。それは、この世というものが弱肉強食の世界だから仕方が無いのだけれども。しかし、神の国は違う。神の国においては、偉くなる必要が無いのである。だから「偉くなりたいと思いう者は…」というのは嫌味・皮肉なのであり、決して「仕える者が偉い」と言いたいのではない。むしろ「偉くなりたいと思うな」という事なのだ。
仕え合う…それは良い事ではある。けれども、仕える者が偉いという論理で仕え合うなら、それは、どっちが偉いかという争いをするのと同じだ。ピントがずれている。仕える力に乏しい弱い人に躓きを与えてはいけない。ただ主の憐みにすがって生きる者であろう。
2026年8月16日礼拝メッセージ マルコ10:28〜31 「信仰の世界」
メッセージは13分過ぎ頃からです。
私達は全てを捨てて従って来た、と主張するペテロ。要は「ご褒美は何ですか」という事だ。それで主は言われた。「キリストと福音の為に、家、兄弟…畑を捨てたなら、この世でその百倍を受け、のちの世で永遠の命を受ける」と。そう、だから財産を捧げよ…という教えが聞こえて来そうだ。騙されてはいけない。「捨てる」はギリシャ語のアフィエナイで、意味は「そこに置いたままにする」である。同じ言葉が1:20では「残して」だ。それを10:29では「捨てて」となっているので、つい「家族と縁を切れ」とか「財産を全て捨てろ」という風に捉えられがちだが、そうではない。「家族も畑も、そこに置いたままにして自分が離れる」という事だ。つまり、キリストを信じたら生きる世界が変わる(それまでとは違って霊的な世界に生きる者となる)から、必然的に、この世のものは元の所に置いて来るしかないのである。その様にして、真の悔い改め(方向転換)をして生きる方向を天に向けるなら、最終的には永遠の命を得るという事だ。決して、家族も何もかもをゴミ箱に捨ててしまえという事ではないのである。
逆に、キリストの真の弟子となるなら、新しい世界での家族が出来る。と言っても、父親が百人に増える訳ではない。それは「迫害の中で受ける」のだから「たとえ実の家族と仲違いしても、教会で百倍の慰めを受ける事が出来る」という事だ。ただし、その為には、教会は本当に魂の避け所でなければならない。教会で心が疲れる…は本末転倒だ。だから教会に必要なのは、主の臨在と御言葉の真の教えである。
問題は、永遠の命を受けるのは、今ではなく「のちの世で」、つまり新天新地・御国でだという事だ。だから何としても御国に入らなければならない。その為に「今」純粋な信仰を守り通す事が必要だ。
しかし、先の者が後に…後の者が先になる事が多い。という事は、必ずそうなるという訳ではないのだ。これは出世争い(9:34)と優越感(9:38)にうつつを抜かす弟子達への警告だ。この世の事しか考えていないなら、一番大事なものを失うかもしれない。たとえ、真っ先に主に従って来た(長年信仰生活を送って来た)としてもだ。私達は、霊的な(信仰の)世界の中で、心と思いを天に向けて歩もう。
2026年8月9日合同礼拝メッセージ 出エジプト記3:16〜22
今回は賛美は収録していません。すぐにメッセージです。
イスラエルをエジプトから解放させる為に神はモーセに「行け」と命じる。渋るモーセに神は、イスラエルの長老達を説得するようにと言う。その中で「カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地へ上らせる」との約束を繰り返すのだが、何故、その様な多くの民族が暮らす地へと導かなければならないのか。人の住んでいない地に導けば何の争いも起きはしないだろうに、先住民がいる土地を奪おうとするから戦争が未だに絶えない。中東問題の全ての原因がここにあると言って過言ではないだろう。
神は何故、その土地を「与える」と約束するのか。乳と蜜の流れる肥沃な地だから(欲しいから)と言って、略奪してもいいのか。神の戒めは「盗むな、殺すな、隣人の物を欲しがるな」ではないのか。
客観的に見れば、どう見ても、侵略と略奪である。しかし、神の目で見ればそうではない、とキリスト教では言われる。つまり、全ての土地は元々神のもので、人間はそれを借りてるだけで、所有者の権限によって住人を入れ換えたのだ、という説だ。あるいは、カナン人達の罪を裁く為にイスラエルを用いた、とか。納得出来るだろうか。仮に、裁く為なら、ソドムの時の様に神が直接手を下せばいい。それを神は何故、同じ人間であるイスラエル人の手によってカナン人達を殺させるのか。そこまでしてまで、その土地を「与える」のは何故か。神の命令なら人を殺して、何もかもを奪っていいのか。
この問題を考えない様にする(思考停止になる)べきではない。答えはある。まず旧約聖書は福音の青写真なのであって、生活の規範にする(律法の中に生きる)べきではない。例えば今、神の裁きから逃れる為にノアの様に巨大な箱舟を作る人はいない。「救いの方舟はキリスト」それが福音の青写真としての旧約聖書の読み方だ。同様に「約束の地」は、実は「天の御国」であり、それは命懸けで戦って勝ち取るもの…つまり、カナン人達が象徴する所の罪・偽り・偶像との戦いだ。その戦いに勝利する者が入る、それが約束の地・天国なのだ。
だからと言って殺戮が正当化される訳ではない。そもそも「聖絶」は皆殺しという意味ではないのだが、それは別の機会に。
2026年8月2日礼拝メッセージ マルコ10:13〜27 「いつくしみ」
メッセージは11分50秒からです。
幾つかの問題がある。重複するが軽くおさらいしておこう。まず14〜16節だが、子どもは自分の力に頼る事が出来ない。だから、天国に入るには神に頼るしかない。それが「子どもの様に神の国を受け入れる」という事だ。その点17〜22節の青年は、自分の力(行いの完全さ)によって天国に入ろうとしている。そこで主は「一つ欠けてる。施せ」と言われた。それは、あくまでも「もし完全になりたいのなら」という趣旨だ。しかし、それは人には出来ない。行いでは救われないのだ。しかし神には出来る。それが福音である。だから、天国に入れるのは、子どもだからではなく、施したからでもなく、神の方法(すなわちキリストの純粋な福音)に頼る事によってなのである。所が青年は、イエスに「尊い先生」と言いながら、施せという指示には従えなかった。自分の力に頼るという事を捨てられなかった(子どもの様になれなかった)のだ。富こそ義人の証拠、行いの正しさを神に認められているのだと考えていたからだ。だから主は、そんな方法では絶対に無理(ラクダが針の穴を通る方がまだ簡単)と言われたのである。
そんな(律法主義な)青年を主は「慈しんで」と21節にある。ギリシャ語の「エーガペーセン」だ。それは、アガペーの動詞であるアガパオーのアオリスト3人称単数形である。要するに「愛した」という事だが、青年の事が好きだったという事ではない。これは、あのヨハネ3:16の「愛した」すなわち「救いに導こうとした」なのである。何故なら、彼は罪人(的外れ)だからだ。つまり、行いの正しさ(律法主義)ゆえに与えられた富、それこそ神の祝福・愛だと勘違い(的外れ)しているという事だ。だから「金持ちが天国に入るのは難しい」と主は言われたのである。
神が人を愛した…と言っても、神が人と恋に落ちたのではない。的外れしている人を救いに導こうと(エーガペーセン)したという事なのだ。だから「神に愛されている」という事は「罪がある。救いが必要だ」という事なのであって、自慢すべき事ではないのである。
神は、その独り子をお与えになったほどに世(人間)を愛された。罪人が好きなのではない。救いに導きたいのである。それが慈しみだ。
2026年7月26日礼拝メッセージ マルコ10:1〜12 「未婚・離婚・再婚」
メッセージは12分からです。
聖書理解において、致命的な過ちがある。一つは「自分の欲望・願望フィルターを通して解釈する」という事だ。パリサイ人も「離婚状さえ書けばいつでも離婚出来る」と身勝手に考えていた(4)。
現代においてのもう一つの過ち、それは「旧約聖書を生活の規範にしてしまう」という事だ。例えば十戒。殺すな、盗むな…は道徳的にも通用する事だが「安息日を守れ」は純粋に律法だ。それを盾に「日曜礼拝厳守」と規定するのは律法主義であり、2重に間違っている。
確かに、主も「夫婦は一心同体」と言われた(5〜9)。ただ、それは「最初はこうだった」という事、つまり「夫婦は離婚する為に結ばれたのではない」という牽制である。ただ、人間に罪が入ってからはそれは崩壊してしまっているゆえに「離婚もやむなし」という場合が起こり得る。それでモーセは離婚を許可した。だからと言って、身勝手で一方的な離婚を正当化する訳には行かないと、パリサイ人に対して釘を刺しているのである。所が教会は「夫婦は一心同体であるべき」として、旧約聖書をそのまま生活の規範とする。そこに悲劇がある。
弟子達は、その問題について主に尋ねた。すると主は「再婚は姦淫だ」と思える様な事を言われた(10〜12)。果たして、再婚は姦淫なのか。いや、文脈から考えるなら「正当な理由が無いのに、自分勝手に離婚状を叩き付けて、一方的に妻を追い出してから他の女性を妻にするなら、それは姦淫だ」という事だ。つまり、元の妻との離婚に正当性が無い(婚姻関係が正しく解消されていない)のに他の女性と関係を持つ、それが姦淫だという事である。
決して、単純に「再婚禁止」と言っているのではない。むしろパウロは「若いやもめは再婚しなさい」と言っている(�Tテモテ5:14)。落ち着いた生活をする為にである。
書いてある通り、そのまま信じる(単純な信仰)という事が美徳とされている様だが、それは言い換えれば、悟る気が無いという事ではないだろうか。とにかく聖書の教えは、離婚禁止でも再婚禁止でもない。そして大切なのは、離婚する事でも再婚する事でもない。聖書をいかに正しく読むか、それが大切だ。私達は心を尽くして、神の御心を求めて歩もう。
2026年7月19日礼拝メッセージ マルコ9:42〜50 「つまづきと、火と、塩と、和合と」
メッセージは13分40秒頃からです。
躓きとなるものを取り除け…それが手なら切り捨てろ、目をえぐり出せ、地獄に落ちるよりましだと主は言われた。それ位、徹底的に罪から離れろ、それがクリスチャンの標準、という事なのか。厳しい。ついて行けないと感じてしまう。それを本気で実行するなら目が幾つあっても足りないだろうし、そもそも、それは律法主義ではないのか。
問題は「躓き」とは何かだ。それは聖書では「罪・堕落への誘惑」であるが、それを受けて負けた結果「霊的な破滅」に至る。その破滅に追いやる事…それが「躓きを与える」という事なのだ。言い換えるなら、弱いクリスチャンの信仰をぐらつかせて滅びに向かわせるという事。そんな事をする者は死んだほうがましだと言うのである。
そこで、もし手(足・目)があなたを滅ぼすなら…というのが43〜47節の趣旨だが、実際の所、クリスチャンを滅ぼすのは「偽りの教え」だ。勿論、それを取り込むのが、手や目であるのだが。だから、滅ぼされたくないなら、そんな偽りの教えに近付くな(足を切り捨てろ)、触るな(手を切り捨てろ)、見るな(目をえぐり出せ)という事なのである。決して「些細な罪で目をえぐり出せ」という様な事ではない。
締め括りは「塩気」の話だ(49〜50)。「火によって塩気を付けられる」と言うが、その「火」は、ゲヘナの火ではない。「信仰生活での試練」の事を「火」と表現しているのである。それが信者を精錬するという事だ(�Tペテロ1:7)。だから「塩気を保て」とは、純粋な信仰を保て(世俗的な考えに染まるな)という意味なのである。と言うのは、その時、弟子達は「誰が一番偉いか」と言い争っていて(34)、プライド・嫉妬・妬みで人を阻害していたからだ(38)。だから「そんな事をやめろ」という意味で主は「互いに和合して暮らしなさい」と言われたのである。その文脈を読まなければいけない。単に「仲良くしなさい」では「塩気を保て」の結論にはならない。
一番偉い…、一番大きい教会…、一番有名な…それを良しとする風潮が教界にもある。まさに、特権意識・プライドではないだろうか。この時の弟子達と変わりない。そんな所から離れて、共に命の道を歩み続けようではないか。
2026年7月12日礼拝メッセージ マルコ9:38〜41 「報いを得よ」
メッセージは14分過ぎからです。
「反対しない者は味方だ」と主は言われたが、実際には「反対はしないけど味方ではない」という事がある。だから、この主の言葉は普遍的な真理という訳ではなく、ある場合における限定的なものなのだ。それは「誰がキリストを受け入れる者なのか」という話(37)の流れの中にある。ヨハネは「仲間でない(主を受け入れてない)者が悪霊を追い出している」ので止めさせた。味方ではないと判断したのだ。しかし主を受け入れていない者が悪霊を追い出せるのか。いや、返り討ちに遭うのがおちだ(使徒19:13〜16)。その点、悪霊の追い出しに成功しているのだから、信仰に基づいた行動であり、それは主を受け入れている証だ。ただ、弟子の群れにはまだ加わっていないだけである。そんな場合だから「反対しない者は味方だ」と主は言われたのだ。
実は、この話の裏には、弟子達の嫉妬がある。直前に弟子達は悪霊追い出しに失敗していた(17〜18)。なのに、弟子にもなっていない奴が悪霊を追い出していると知って、プライドが傷付いたのだ。それに苦言を呈する意味もあって「味方だ」と主は言われたのである。
続いて主は「キリストの弟子に水を飲ませる人は報いを失う事は無い」と言われたが、報いとは何か。救いか。水一杯与えるだけで救われるなら世話が無い。忘れてはいけない。救いの条件は、親切な人になる事や善行等ではないのだ。それに、報いとは「報酬」だ。その点、救いは報酬ではなく恵みである。では報いとは? まず、弟子に水をやるのは、弟子を受け入れる、それも「キリストの名の故に受け入れる」(37前半)という事だ。つまり「イエスはキリストと認める」という、霊的な目が開かれる第一段階(8:23〜24)である。その人は第一段階を経たからこそ次の段階(キリストを自らの主とする)に進む事が出来る(8:25)。そのチャンスは必ずある、それが「報い」であり「決してそれを失う事は無い」と主は言われるのである。ただし、そのチャンスをものにするかどうかは自分次第だが、少なくともチャンスは必ずある。あと一歩だ。早く本当の弟子になれ、という事である。そして、それが「主に反対しない者」ではなく「主の味方」なのだ。
私達はキリストを自らの人生の主として歩み続けよう。
2026年7月5日礼拝メッセージ マルコ9:30〜37 「本質を」
メッセージは11分からです。
主は「人に知られたくない」と思われた。その理由は十字架と復活を予告したからだと言う(30〜31)。予告は既に2回目だが、弟子達はそれを理解出来なかった(32)。福音において最も重要な十字架と復活を理解しないままでは宣教はままならない。だから早く弟子達に悟らせなければならない時なのに、群衆が押し寄せて来たら時間を取られて困るので「人に知られたくない」と思われたのである。
所がその時、肝心の弟子達は、悟る所か、出世争いにうつつを抜かしていた(33〜34)。そこで主は「仕えよ。偉くなりたいと思うな」という趣旨の事を教えられたのだが、そのあと、何故だか、一人の子どもを連れて来た(35〜36)。確かに、子どもは偉くはない。だが「仕える者」の代表でもない。むしろ、世話をされる側だ。そして「私の名のゆえに子どもを受け入れるなら、私を受け入れるのだ」と結ばれた(37)。つまり「誰がキリスト・神を受け入れる者か」なのである。弟子達が、キリストの十字架と復活を受け入れないからだ。そこに話を持って行く為に、巧みに、弟子達の出世争いと子どもを用いたのだ。だから、35〜37節を文脈から切り離してはいけないのである。勿論、仕え合うのは良い事だが、そこに留まっていては真意は汲めない。
決して「幼子を受け入れたらクリスチャン」という訳ではない。ポイントは「イエスの名のゆえに」だ。すなわち、神の家族だから受け入れる…その人は既にキリストを受け入れているという事である。だから「幼子を受け入れる」事は、天国への条件ではなく、キリストを受け入れている証拠だという事だ。その様に、キリストを受け入れる者が父なる神を受け入れる者なのであって、それが父に受け入れられる事なのだ。「なのに何故、十字架と復活(それこそがキリスト)を受け入れないのか」という事だ。
「偉いのは仕える者」とかは、ただの話の「振り」だ。大切なのは、キリストはこの世の王ではない、むしろ、この世で惨たらしく殺される為に来た…それを受け入れる事である。この時、弟子達は、それを受け入れられなかった。逆に、地上での勝利(出世)に向かっていた。そこに悪魔の策略がある。それが、この話の本質だ。
2026年6月28日礼拝メッセージ マルコ9:14〜29 「困る」
メッセージは11分頃からです。
いつの時代も人間は神になりたがる。アダムとエバは「これを食べれば神の様になれる」と蛇に言われて、その気になってしまった。現代のクリスチャンも同様で「信仰があれば何でも出来る。不可能は無い」と、自らが全能であるかの様な宣言をする。確かに主は「信じる者にはどんな事でも出来る」と言われたが、その趣旨は「キリストにはどんな事も出来る」だ。つまり「信じる者」とは「信仰の創始者、完成者」の事を指しているのである。だから父親は「私には何でも出来ると信じます」とは言わず「不信仰な私を助けて」と言ったのだ。そして、彼の「信じる者」(キリスト)によって息子は癒された。
さて、弟子達には、件の息子を癒す事が出来なかった。それで主は「不信仰」と言われたが、弟子達にではない。御利益ばかりを求めて、根本的な信仰(神との和解)の乏しい群衆に対してだ(19)。
何故、自分達には出来なかったのかと問う弟子達に対して主は「この種のものは、祈りと断食によらなければ…」と言われた(28〜29)。果たして、断食祈祷で病は治るのか。ダビデの息子は、それでも死んだではないだろうか。そう「この種のもの」とは「てんかん」(直訳:月に打たれた)だ(マタイ17:15)。すなわち、一つの精神疾患である。その種のものには、祈りあるいは断食が必要だと言うのである。つまり、私達が信じる主イエスにはどんな事も出来る。だから私達は主に祈る。それに応えて主は(この時も、不信仰な父親だけど、その息子に)憐みを施した。「信仰があれば何でも出来る」とは逆なのだ。祈りや信仰を「超能力の様な力」と考えてはいけない。祈りと信仰の対象である神に力があるのだ。だから、その神に祈るしかない。神の憐みを期待して(断食してでも)ひたすら主にすがって…。それが「祈りと断食によらなければ」という事だ。ただし、その結果どうなるかは神に委ねるしかない。それは諦めではなく、むしろ信仰だ。「たとえ死んでも天国だ」と信じればこそ委ねられるのだから。その信仰が無いのを「不信仰だ」と主は言われたのである。
たとえ病が治らなくても、病気のままでも、片手片足を失っても、純粋な信仰を保って天国に入る方が良い、と思える者でありたい。
2026年6月21日礼拝メッセージ マルコ9:1〜13 「堅く心に留めても」
メッセージは11分半頃からです。
弟子達の中に死を味わわない者がいる(1)と主は言われたが、実際は皆死んだ。だから、ここでの「死」は、信仰を失う(滅びを味わう)という事で「中には、そうならない人がいる」という意味だ。という事は、それ(本当に救われる人)は少数だという事になる。実はこの1節は8:31〜38と一塊である。だから、たとえ全世界を手に入れても真の命を損じたら大変だ(8:36)というのは、弟子達への警告なのだ。
そこから話は変わって、変貌の山での出来事である。主がモーセ、エリヤと十字架について話しているとペテロが頓珍漢な事を言う。その時、雲の中から「イエスの言う事を聞け」という声がした。弟子達が十字架(の予告)を受け入れていないからだ。そんな事では死を味わう事になるから、十字架(の予告)を受け入れよという事である。
次にエリヤ問答だが、洗礼者ヨハネこそが再来のエリヤなのに「山でエリヤを見た」と言えば人々は更に誤解するだろうから「誰にも言うな」と主は特に命じられた。弟子達は、その言葉を心に堅く留めた。だが、その直後に弟子達がしたのは「死人の中からよみがるとは、どういう意味か」と論じ合う事だ。主の教えを心に堅く留めたにも拘らず、何も悟っていないのである。同じ様に、幾ら「御言葉に立つ」と正当的な事を言っても、その肝心の御言葉を誤解・曲解していたら台無しだ。そう、誤解した御言葉の上に堅く立つ様に仕向ける偽使徒・偽教師…それがサタンの業である(�Uコリント11:13〜15参照)。
最後に「エリヤが来て、全てを立て直す」の次に「しかしエリヤはもう来た」と繋げばスムーズなのに、主は質問を挟む。「では、キリストは多くの苦しみを受け蔑まれると書いてあるのはどうしてか」と。それは、ペテロ達が主の十字架の予告を否定するからだ。つまり「聖書にそう書いてあるのに何故、否定するのか」という問い掛けなのである。書いてあるのに、それを読んでいるのに、悟れない。それは昔も今も変わらないようだ。�Uテモテ4:3〜4で警告されている通りになっている(警告を受け止めていない)のが今の時代の現実である。
父なる神は「イエスの言う事を聞け」と言われた。その為には、どれが主イエスの声(教え)なのかを聞き分ける事がどうしても必要だ。
2026年6月14日礼拝メッセージ マルコ8:31〜38 「キリストの弟子」
メッセージは13分過ぎからです。
主はペテロの戯言を聞いて振り向き、弟子達を見ながらペテロを叱った(32:33)。ペテロを叱る形で弟子達全員に教えようとしているのだ。何故なら、ここは初めから弟子達全員への教えだからである。すなわち、十字架での死と復活の予告だ(31)。その中で主は「よみがえらなければならない」と言われたが、新共同訳の「復活する事になっている」の方がすんなり来る。要は、その計画通りに絶対よみがえらなければ…という事だ。なのにペテロは諫めた。「そんな事が起こるはずが無い」と。健全な信仰者は災いに遭わない…という繁栄の神学に似ている。しかし、十字架はまだしも(人情的には、起きて欲しくは無いという気持ちを理解は出来るが)復活も起きるはずが無いと言うのは、神の計画を否定する事(神への反逆)ではないか。それはサタンの業だ。だから主は「下がれ、サタン」と言われた。ペテロにサタンが入ったのではなく、ペテロの発言(考え方)がサタンによってもたらされたものだという事である。更に主はペテロに「神の事を思わないで人の事を思っている」と言われた。と言っても、それはペテロだけではない。だから全員に「自分を捨て、自分の十字架を負ってついて来い」(34)と言われた。それは決して「自我を殺せ」とか「殉教も覚悟せよ」という様な事ではない。と言うのは、当時の死刑囚は自分で自分の十字架を負わされたからだ。つまり「自分の十字架を負う」とは「私は死刑囚だ」と自覚せよという事なのだ。そして「何故、私が死刑囚なのか」と訝る自らを否定せよ…それが「自分を捨てる」である。要するに「罪人だと自覚して(悔い改めて)ついて来い」という事だ。そうでなければキリストの弟子にはなれないのである。だから「罪は無い(死刑囚である事を認めない)」と、自分を守るなら、その人は「何にも優る真の命」を失うと言われたのだ(35〜37)。
最後に38節だが…「堂々と信仰を表明せよ。恥じるな」という風に理解されているかもしれない。だが「恥じる」とは、人がキリストから離れる事を表す特別な用語だ。つまり、キリストの真の弟子とならない(地上の事しか考えない)、それがキリストを恥じる(キリストから離れる)事なのである。主も、その人を恥じて離れる。
2026年6月7日礼拝メッセージ マルコ7:31〜8:30 「ハッキリと見えるように」
メッセージは13分40秒頃からです。
難しかったのか、様々な手段で癒しを試みる主(7:32〜37)。盲人の癒しは一回では不十分で、2回目でやっとだ(8:22〜25)。「目の癒しには2段階ある」と言う人がいるが、全能の神は「お言葉だけで…」(マタイ8:8)「お心一つで…」(マタイ8:2)癒す事が出来るはずではないか。
理解の鍵は勿論、文脈。いや、それ以上に一連の記事の構造にまで視野を拡げる必要がある。まず耳の癒し。そしてパンの奇跡。それから目の癒しと、パンの奇跡が真ん中に挟まる構成になっているのだ。そこに意図がある。つまり、耳の癒しと目の癒しに挟まれたパンの奇跡の結末は何かである。それは「目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか」だ(8:18)。痛烈な叱責である。
だから、癒しを癒しとして独立させて考えるのではなく、霊的な悟りを象徴するものとして見るべきなのだ。それで「エパタ(開け)」と、わざわざアラム語で強調しているのである。嘆息も、しるしを求める人々に呆れるが故だ。彼らは、キリストである事のしるしを求め続けるが、どれ程しるしを見ても悟らないのである(8:11〜12)。
悟るべきは、イエスとは誰なのか(命のパンを与えて下さる方・命の源だという事)である。だから最後に8:27〜30の話で締めとなるのだ。「イエスとは誰か。それを霊的に悟れ」という事…それがこの一連の記事の目的なのである。そこでペテロは「あなたはキリストです」と言った。しかし主は、それを「誰にも言うな」と戒めた。伝道禁止という事ではない。恐らく「安易な信仰主義」(イエスをキリストとして受け入れれば良いのであって、主として受け入れなくて良い…という昔からの異端的な考え方。言い換えるなら、真の悔い改めや、聖め=偶像や偽りからの分離…が無くとも救われるという考え方)に対する警鐘であろう。主も言われた。キリストを信じただけでは本当の弟子ではない(ヨハネ8:31)と。事実、この時ペテロはまだ本当の弟子にはなり切れていなかった。
確かに「イエスはキリスト」というのは一つの霊的な悟りだ。しかし次の段階がある。盲人の2段階の癒しは、それを示すのである。私達は、主をぼんやり見るのではなく、はっきり見る者となりたい。
2026年5月31日礼拝メッセージ マルコ7:24〜30 「そこに福音が」
メッセージは13分45秒からです。
福音の恵みを告げ知らせる為に休む事無く(安息日にも)働かれた主は、異邦の地であるツロに行かれた。だが、誰にも知られたくなかったというのは何故か。それは「異邦人の所には行くな」と自ら命じておられたからだ。福音宣教には順番がある故だ。その禁を破ってまで行くのだから公には出来ない。目的は、勿論、福音の恵みを異邦人にも施す為だ。サマリヤの女性の時の様に、自ら行かれたのである。だから、目立つ訳には行かないが、かと言って「隠れている事は出来なかった」。為すべき事があるからだ。
そこに一人の女性が、娘から悪霊を追い出して欲しいと願いに来た。おあつらえ向きのチャンス到来ではないか…と思えるが、主はそれを断るのである。「まずはイスラエルにだ」と。尤もだ。所が最終的には主は、御自身が言われる「良くない事」つまり、異邦人に恵みを施す事をしたのである。何故か。初めからそれが目的でツロに来たからだ。この出来レース? 茶番? と思えるやり取りの中に福音がある。
と言うのは、この女性は、主の言われる「順番」を「その通り」だと認めた。すなわち「神の計画」を理解しているという事だ。その上で「神は恵んで下さるお方だ(子犬でもパンくずは頂く)」と訴えた。実に、神の御心と憐みを悟っているのである。それで主は「あなたの信仰は立派だ」と言われ、彼女の信じた通りにパンくずを与えた。
確かに、神の計画・順番・ルールは、ある。しかし、ルールに固執し過ぎて「神の言葉を空文に」する…そんな信仰を主は「偽善だ」と言われた(1〜13)。それに比べて、神の御心を知った上、神の憐みをも理解して求める異邦人。どちらが神に受け入れられるか。それを主は示そうとしているのである。そう、ここに福音がある。
福音は、その順番も、恵みも「全て神の憐みの故」に与えられているものである。ルールは「そこ」に導く為のものであるべきだ。すなわち「律法はキリストへの養育係」だという事なのだ。だから、クリスチャンを苦しめ、キリストから離れさせる様な戒め(例えば、右を打たれたら左も…とか、一方的に赦せ、完全になれ…)は、キリストの教えを誤解している(現代版口伝律法)と言わざるを得ない。
2026年5月24日礼拝メッセージ マルコ7:1〜23 「目的と趣旨」
メッセージは12分15秒からです。
沢山ある口伝律法(3〜4)に対して主は「言い伝えを守る為に神の戒めを蔑ろにしている」と言われた(6〜9)。そんな本末転倒を「沢山している」と言うのである(10〜13)。因みに、主が「裁くな」と言われたのは「口伝律法に基づいて裁くのを止めよ」という趣旨であって、罪の指摘や悔い改めを迫る事を禁じているのではない。
その後、主は「口から入る物は人を穢さない」と言われた(14〜19)が、実際には、過剰に摂取すると体に害となる物がある。水や塩でさえ、時には死に至る原因となる。では「全ての食物を聖いとされた」とはどういう事か。パウロは主にあっての確信として「それ自体で穢れているものは何一つ無い」と言う。ただ「穢れていると認める人にとっては穢れている」のだとも(ローマ14:14)。例えば、麻薬。それは身勝手な快楽、あるいは不法な金儲けの為の物…と認識する人にとっては穢れた物(忌み嫌われる物)であると言える。しかし、医者にとってそれは、患者の苦しみを和らげる為の物であって、決して穢れた物などではないのである。シンナーも同様。塗装業者にとっては作業に欠かせないものだ。だから、何が聖いか、穢れか…は一概には言えない。らい病も患者は穢れていると聖書は言うが、それが全身に広がった場合は聖いと言うのであるから。御言葉の趣旨を知る事が必要だ。
主は「また言われた」。「人の心から出るもの(悪い考え、貪欲、高ぶり、愚かさ…)それらの悪が人を穢す」と(20〜23)。だから、へりくだれ、高ぶるな、貪欲を捨てろ、と教会は教えるかもしれない。それは尤もだが、心の中の一切の悪を捨てろと言うなら、それは律法主義だ。御言葉の趣旨を見失っている。主は何が言いたいのか。「食べ物は他人を穢さない」という事だ。すなわち「手を洗ってからパンを食べよ」と言う口伝律法は人を聖くしない…それが主の御言葉の趣旨である。だからと言って、高ぶっていいという事ではないが、愚かなクリスチャンは地獄…という事でもないのである。
福音こそが、人を聖めるものだ。ただ、肉の体にある内は、完全にはなれない。ましてや、現代版口伝律法の様な「人間の教え」では苦しむばかりだ。純粋な福音・真理によって解放と自由を得よう。
2026年5月17日礼拝メッセージ マルコ6:45〜56 「矛盾と教訓」
メッセージは10分半からです。
パンの奇跡(ルカによれば、それはベツサイダで為された)の後、すぐに舟で移動した先はベツサイダだとマルコは言う(45)。その点、ヨハネ6:17は「カペナウムの方に」だと言うのだが、マルコによれば、着いた所はゲネサレの地だ(53)。一体全体、どうなっているのか。とても要約には書き切れないので、その説明は省くが、大事なポイントは、主が弟子達を「強いて」行かせた、という所だ。強い意図・目的が感じられる。そのあと主は、祈る為に群衆を解散させ、山の方に行かれた(46)。あくまでも山の方であって、山に登って祈ったとは限らない。主は「陸地におられた」のだ(47)。そこで主は、弟子達の舟が向かい風で進めないのを見て、水の上を歩いて近付いて行かれた。だが、通り過ぎる積りだったのだと聖書は言う(48)。やはり強い意図がある。しかし、それは変更された。弟子達が水上を歩くイエスを見て怯えてしまったからだ(49〜50)。という事は、本来の目的は、弟子達を安心させる為に「通り過ぎる積りだった」という事になる。言い換えるなら、主がどの様なお方かを教える為(そうすれば安心出来るから)という事だ。と言うのは、通り過ぎる…それは神の顕現を表すからである(出エジプト33:20〜22、�T列王19:11)。神を直接見る事は出来ないので、神の栄光が通り過ぎるしかない…それを主は再現して見せようとしたのだ。所が弟子達は安心どころか錯乱してしまった。そこで主は、恐れるな「私だ」と言われた。ギリシャ語で「エゴー・エイミー」すなわち「私は、あるという者である」又もや神顕現だ。弟子達は非常に驚いた(51)。ただし、その驚きは水上歩行や風がやんだ事に対してであって、神顕現にではない。と言うのは、弟子達は「パンの奇跡から悟る所が無く、心は固く閉じていたからである」(52)。
パンの奇跡から悟るべきは、主は命のパンを与えるお方(命の源)だという事、主御自身が「命のパン」だという事である。だから主は「私を食べよ」と言われた(ヨハネ6:53〜58)。所が人間は、肉のパン(この世の祝福)ばかり求める。何より大切なのは命のパンを手に入れる事なのに。信仰は、命を得る為のものだ。そして真の命は、偽りに抗って、最後まで耐え忍んで、手に入れるものである事を覚えよう
2026年5月10日礼拝メッセージ マルコ6:30〜44 「満腹で満足」
メッセージは12分過ぎからです。
パンの奇跡・5000人の給食…果たしてそんな奇跡が今でも起こるのだろうか。もし「起こる」と言うなら、信仰があれば水の上も歩けるという事にもなる。そして、そういう風に信じる人も少なくはない。エリコの城壁が崩れた事を再現しようとするかの様に、祈りながら町を巡り歩く人、エリシャの様に2倍の霊的賜物を求める人など様々だ。しかし聖書は「祈ってパンを増やせ」と教えてはいない。「働いて得たパンを食べよ」(�Uテサロニケ3:12)と言うのだ。勿論、パンの奇跡を否定はしないが、バランスの取れた理解・信仰が必要だという事である。
では、このパンの奇跡は何の為か。霊的教訓はあるのか。もっと言えば、聖書とは、何をどう信じればいいものなのか。話を元から辿ろう。主は宣教から戻って来た12使徒を休ませる為に舟で彼らを「寂しい所へ」送り出した(30〜31)。ただ、この辺の記述が共観福音書間ではチグハグで戸惑うのだが、それは矛盾なのではなく、各書それぞれに情報が少しづつ抜けているせいであって、各書のパーツを重ね合わせると全体像が見えて来る。とにかく、主と弟子達はベツサイダに行った(ルカ9:10)のである。そのあと問題の、パンの奇跡だが要は、パンを分け与える=命のパンを与える事を示しているのである。だから主は弟子達に「あなた方で与えなさい」と言われた(37)。何故なら、弟子達は宣教から戻って来て「悔い改めを説き広めた」事を主に報告したからである(12〜13,30)。すなわち、命のパンを与えて来たという事だ。だから、この5000人以上の人々にも…と主は言われたのである。所が弟子達は実際の食べるパンの事だとしか考えられなかった。それで仕方なく主は、実際のパンを与えてやったのである(38〜41)。これが、パンの奇跡の顛末であって「祈ってパンを増やせ。この通りにやれ」という事ではないのだ。私達が与えるべきは「命のパン」だ。
しかし人々は、食べて満腹した(42)。そんな事を何の為に記すのか。人々が、食べて満足した(それ以上何も求めなかった)という事だろう。その様な現世御利益だけを神に求めるのではなく、真理を見出す事を求める必要がある。地上の事だけを考えるのではなく、思いを天に向けよう。天にあるものを思えと主は言われたのだから。
2026年5月3日礼拝メッセージ マルコ6:14〜29 「ヨハネ、お前もか」
メッセージは13分過ぎからです。
ヘロデは、ヨハネを正しい聖なる人と知り、保護を加えていながらもヨハネを投獄した。原因はヨハネがヘロデに「自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤを妻とするのは不法だ」と言い張ったからである。一瞬、背徳感を感じさせはする。だがもし、ヘロデがピリポの妻を奪ったのなら、恨まれるべきはヘロデだ。しかしピリポは沈黙している。円満に離婚したのか、ピリポがヘロデヤを捨てたのか。いずれにしても、独身になった後なら再婚して何が不法なのか。仮に略奪婚であったとしても、何の法・どの法律に抵触すると言うのか。実はヨハネの主張は律法に基づいてのものだ。すなわち、元夫の生存中に再婚するのは姦淫となるという思想である(レビ20:21、�Tコリント7:39)。
しかし、ヘロデ達はユダヤ人ではないのだから、ユダヤの律法に従って生きる義務は無い。例えば、クリスチャンはイスラムの掟に縛られてはいないのだから、豚肉を食べたから死刑だと言われる筋合いは無いのと同じだ。所がヨハネは、それを「不法だ」と「言い張った」のである。それで恨まれ、殺されたのだ。「妥協・堕落を一切許さない」というのは立派なのかもしれないが、異邦人に対してユダヤの律法を押し付け、責め立てるのは、さすがにやり過ぎだろう。失敗だ。
「人間の中で最も偉大」と言われるヨハネだが、それでも人間だ。失敗もある。彼は投獄された後「イエスは本当にキリストなのだろうか」という疑いを持った。主が言うには「ヨハネは躓いた」のだ(マタイ11:2〜6)。だから「ヨハネは世の権力をも恐れず、その罪を正面から指摘する勇敢な預言者」という様な評は、お門違い・筋違いなのだ。同じ様に、仏壇を「偶像、罪」と言い張って壊して回るなら、それは勇敢なのではなく、やり過ぎ(神社油撒き事件の様なもの)である。「偶像礼拝は罪」という理屈は未信者には通じない。
聖書人物だからと言って決して完璧ではない。主以外は皆人間だ。それで主は言われた。「天の御国の一番小さい者でもヨハネより偉大だ」と(マタイ11:11)。つまり、純粋な信仰を保って御国に入る者の方が偉い、という事だ。だから優先されるべきは、世の偶像を破壊する事・罪を責める事ではない。真の神への信仰こそが最優先なのである。
2026年4月26日礼拝メッセージ マルコ6:7〜13 「その責任は」
メッセージは13分過ぎ頃からです。
宣教の旅に「何も持って行くな」と主は使徒達に命じられた。確かにイスラエルでは、神の仕事をする人をもてなすのが習わしだ。だからと言って、手ぶらでというのは極端、あるいは甘え過ぎではないか。別に70人の弟子達を遣わす時には、主の道備えという狙いがあった(ルカ10:1)訳だが、今回の狙いは何か。単純に福音宣教、又は訓練か。
解せないのはイスラエルだ。彼らが待望するキリストが来たという福音を(イエスがキリストという事を疑うのならまだしも)「聞こうとしない」人がいる(11)のは何故か。
とにかく弟子達は、悔い改めを説き広め、悪霊を追い出し癒しを行った(12〜13)。それで、人々は悔い改めたのか。別の70人の時も、弟子達は「悪霊共でさえ従う」と喜んで報告したが、人々が悔い改めたという報告は無い。だから主は「悪霊が従うからと喜ぶな」と言われた。すなわち「天に名が記される事が大事だ」という事である。という事は、弟子達の宣教は成功しなかったという事なのだろうか。
宣教…それは、改宗させる事ではない。福音を伝える事、それが宣教だ。その結果、信じない人が確定される。それは仕方無い。そんな人々に対して「足の塵を払い落とせ」と主は言われた。福音をどぶに捨てるなら、もう異邦人と同様に見なすという事だ。
使徒13:49に「御言葉は、この地方全体に広まった」とあるが、パウロ達は「彼らに対して足の塵を払い落とした」(51)。御言葉が広まったとしても、それが必ずしも「人々が信じた」という意味ではないのだ。18章でもパウロは頑ななユダヤ人達に呪いと共に「私には責任が無い」と宣言した(エゼキエル3:18は、信じない人がいるのは伝道者の責任だという事ではないのである)。
結局、12使徒の派遣の目的、それは恐らく、イスラエルの信仰を点検する為だと思われる。直前のナザレの人々が酷かったからだ。それで、働き人を受け入れて食事を与えるかどうか…その為に無一文で遣わしたのだろう。だから重要なのは、福音を受け入れて悔い改める事、癒し等を見て、主イエスの御名の権威を認める事だ。そうしたのはナザレ同様少数なのだろう。私達はその少数の中に留まり続けたい。
2026年4月19日礼拝メッセージ マルコ6:1〜6 「驚くばかりの」
メッセージは11分過ぎからです。
主の力ある業は多くの人々を驚かせたが、ナザレの人々は「主の教えを聞いて驚いた」のである(2)。その驚きは「権威のある教えだ」(1:27)という肯定的な驚きではない。「どこで学んだのだ?」という否定的な驚きだ。すなわち人々は、イエスを権威ある者と思っていない(見下している)のである。だから、主が奇跡を行う事が不思議でならないという訳だ。加えて「大工ではありませんか」とも。それは「その様な職種の者は知恵ある者にはなり得ない」という当時の人々の考え(偏見)の表れだ。更に「マリヤの子で」という言い方も。通常は父親の名で呼ぶ、それが習わしであって、母の名で呼ぶ場合は「父親知れず」の場合のみなのである。つまり「イエスは私生児だ」と人格否定しているという事だ。それはもはや冒涜である。「預言者を尊敬しない」云々のレベルではない。
キリストの存在そのものを否定している様なものだ。 さすがの主も、それには驚かれた(6)。
例えば、教会が牧師を牧師として認めないなら、牧師は(能力があっても)講壇に立てないだろう。同様に、キリストを認めないなら、主もそこで力ある業を行う事は出来ないのだ。だから、主を認めたのであろう少数の病人を癒しただけだった(5)。ヤイロの娘を癒した時の「神の絶対的主権」は、ここではまだ隠されたままであるという事だ。そして、その圧倒的な主権(裁きと、憐みによる一方的な救いの権威)は今も、最後の裁きの時までは現わされはしない。とは言え、時たま(ヤイロの娘の時の様に)現わされるかもしれないが。
とにかく、神を認めない(神に期待しない)…それは信仰が無いと言わざるを得ないのであって、そこに救いは無い。罪人が神の子に変えられるという奇跡はそこでは起こり得ないのだ。だから「神がいるかどうかは分からない」と言う牧師の教会に集う事は霊的な不幸だ。同じ様に、曲がった信仰の教会に集う事も不幸である。当然の事ながら、私達には「純粋な信仰」が必要だ。それに基づく神への期待を持つべきである。そうでなければ、そこでは神も御心を行えない。
私達は、主を喜び、慕い求め、御言葉を愛し、信仰をいよいよ聖めて(純粋にして)行こう。
2026年4月12日礼拝メッセージ マルコ5:35〜43 「神の決定を」
メッセージは13分過ぎからです。
長血の女性の一件で足止め状態の所に「ヤイロの娘は死んだ」という知らせが入った。間に合わなかった。しかし最終的に娘は直った。主が言われた通りに「恐れないで信じ続けたからだ」と言われる。しかし、闇雲に何でも信じて求めれば全て叶うという訳ではないはずだ。特に、神が約束していない事を勝手に信じ込んでも、それは信仰ではない。妄信だ。では何故、主は娘が死んだ後も「信じ続けなさい」と言われたのか。そして、それでヤイロは「分かりました」と言って信じたのか。もし「信じ続けたから癒された」と教えたいのなら、それを書くべきだろう。それどころか逆に人々はイエスを嘲笑った。つまり、人間の信仰によって奇跡が起きたのではないという事である。
とにかく、娘は直って、歩き始めた。それを聖書は「12歳にもなっていたからである」と言う(42)。すなわち「生き返ったからではない」と言っているのだ。では死んでなかったのか。いや死んでいた。ある時点までは。しかし主が「子どもは死んだのではない。眠っているのです」(39)と言われた時点で、娘は肉体的には直ったのである。だから「もう起きなさい=タリタ・クミ」と言われた。するとその時(ルカの記述によれば)娘に「霊が戻った」のだ。それゆえ、子どもは赤子ではなく12歳にもなっていたから歩いた、という事なのである。
そこで問題の「信じ続けなさい」だが、その意味は何か。勿論「神の約束を信じ続けよ」である。では、どの約束か。それは24節。主はヤイロの切なる願いに応えて出かけた。その時点で主は、娘を癒す事を決定しているのだ。その神の決定(約束)は絶対なのである。だから、その神の決定(約束)を「信じ続けよ」という事だ。ヤイロがそれを理解したか・信じたかは分からない。だが、人間の信仰によってではなく、神の主権によって「娘を癒す」事は決定していたのだ。
最後に主は、娘に食事をさせるよう指示し、この事を誰にも知らせるなと厳しく命じた(43)。神の絶対的な主権が発動された事を隠そうとしているのだ。まだその時ではないからである。いずれにしても、娘の癒しは主の憐みによる。そしてその憐みは私達にも注がれている。天国での復活だ。その神の決定・約束は変わらない。
2026年4月5日礼拝メッセージ マルコ5:21〜34 「そういう信仰」
メッセージは11分過ぎからです。
12年の長血の女性が主の着物に触った。「そうすれば、きっと直ると考えていたから」だと聖書は言う(28)。その「考えていた」の直訳は「言っていた」だという所が注目される。「告白の信仰である」と。しかし、もし本当に「何でも口で言った通りになる」なら、その人は神だ。ただ、ある場合には、言葉に出す事によって自分に言い聞かせるという効果はあるだろう。つまり「告白の信仰」というものは、心理学と混ざったもの(純粋な聖書の教えではない)のだと言える。
では彼女は何故「きっと直る」と思ってそれを言い続けたのか。勿論「イエスの事を耳にして」が理由だ(27)。「イエスの着物に触れば癒される」と聞いたのか。いや、そんなはずは無い。そんな事実はそれ以前には無いのだから、そんな噂は立たない。恐らく「イエスはキリストかも」との噂だろう。それで彼女はキリストに救いを求めたのだ。何もかも失って絶望の淵にあった彼女にはもうそれしか望みが無い。「イエスがキリストなら、手を伸ばせば、きっと…」そう信じて言い続けたのだ。だから主は「あなたの信仰があなたを救った」と言われた(34)。(「直した」の原語はソーゾ―「救った」である)
主は「誰が私の着物に触ったのか」と言われた(30)。信仰の表明を求めたのだ。それで彼女は「真実を余す所なく打ち明けた」(33)。真実とは何か。「告白し続けたら、その通りになる」という事か。いや「絶望の淵に沈んでいたけど、キリストにすがれば救われると信じて手を伸ばして主に触れたら救われて、おまけに恵みも受けた」という事、それが「余す所の無い真実」だ。そして、救われたなら、地上の人生にも意味が生じる。無意味な人生ではなく、神の栄光の為の人生となるのだ。では何が神の栄光となるのか。それは、天国の希望によって平安と喜びを持って生きる事だ。それで主は「病気にかからず健やかで」と言われた(34)。もう病気にはならないという約束ではない。「元気でね」という気持ちの表れである。そして、健やかな信仰を保つ様にという事でもあろう。何しろ「健全な信仰を保って確実に天国に入れ」(片手片足を失っても天国に入る方が良い)それが徹頭徹尾、聖書の教えなのだから。その様な信仰を保ち続けよう。
2026年3月29日礼拝メッセージ ヨハネ12:23〜25 「イースター記念(直前)棕梠の主日・合同礼拝」
今回はメッセージのみです。
主は十字架で殺される事を「栄光を受ける時」と言われた(23)。普通は、優勝とか金メダル等、何か目的を達成した人が栄光を受けるものだが、十字架で死ぬ事がなぜ栄光なのか。それは、十字架こそがキリストが来た目的だからだ。救いの道を開くという、その大きな目的を達成する時だから「栄光」の時なのである。そして、自らを「一粒の麦」に喩えて「十字架で死ぬ(一粒の麦が落ちる)事によって豊かな実が結ばれる」と言う(24)。その実とは、信じる者に罪の赦し・永遠の命・天国が与えられるという豊かな実なのである。
一方「一粒の麦」は、人間の事をも指すと言えるだろう。何故なら、人は誰でも必ず、死ぬ(地に落ちる)時が来るからだ。ただし、死んで豊かな実を結ぶかどうかは人それぞれであって「死んだらお終い。天国なんか無い」と言う人は、死んでも何の実も結べない。自分自身が言う様に「死んでお終い」なのだから。しかし、キリストを信じて罪が赦されて「死んでお終いではない」と確信する人は、天国で新しい命を生きる。全ての悩み・苦しみから解放されて喜びと平安に満ちる。そんな豊かな実を結ぶのだ。
その様な人生になる為にと、主は「自分の命を憎め」と教える(25)。問題は「自分の命」とはどんな命の事か、だ。多くの人は「地上の人生だけ」を自分の命と考え、それだけを守ろうとしている。だが、その愛する命(地上の人生)は必ず失われる時が来るのは事実だ。それが「自分の命を愛する者はそれを失う」という事だ。だから「死んでお終い…なんて、そんな虚しい人生は嫌だ。そんな悲しい結末を迎える人生なんて大嫌いだ」と言う人が「この世でその命を憎む者」なのであり、その人は永遠の命に至るという事なのである。それを約束する為に主は甦られた。
加えて、恵みなのは「死んでお終いという人生を憎む」人は「それを保つ」と言う所だ。「それ」とは…地上の人生である。つまり、その人は、ただ天国に入れるだけでなく、この世の命・地上の人生を生きる為の力が与えられる(それを保つ)という事なのである。私達は、十字架を感謝し、復活を喜び、それを自分の命としよう。
2026年3月22日礼拝メッセージ マルコ5:1〜20 「どんなに大きな事を…」
メッセージは13分40秒頃からです。
共観福音書全てに記された悪霊追い出しの出来事である。その中でマルコの特色は何か。注目したいのは悪霊達が「この地方から追い出さないで」と主に懇願した事だ(10)。悪霊にとっては、さぞかし居心地の良い地方なのだろう。他の所には行きたくないという訳である。ならば何故、豚に乗り移らせてと願うのか(11〜12)。それはマタイによれば「ずっと離れた所」だと言う。主はそれを許可した。すると豚の大群は湖になだれ落ちて死んだ(13)。さて、どこにも行きたくなかったはずの悪霊はどうなったのか。豚と一緒に溺れて死んだのか。いや、霊は肉体を持たないが故に溺れない。考えられるのは、豚から出て元の地方に戻って来た…それ程、その地方に留まりたいという事だ。
その地方(ゲラサ人の地)の人々は、豚(財産)を失って、キリストを拒んだ。悪霊との共存・富を選んだのだ(14〜17)。異邦人の中でも特に神から遠く離れている。そこで悪霊を追い出してもらった人が「お供をしたい」と主に願うが、主は地元で証しをするように、と言う。それを聞いた人々は驚いた(18〜21)。彼はどんな証しをしたのだろう。それは「主がどんなに大きな事をして下さったか、どんなに憐れんで下さったか」である(19)。確かに彼は悪霊を追い出してもらった。だが、そんな人はその時点で既に沢山いた(マタイ4:23〜25)。その宣教のごく初期においてデカポリスからも沢山の人が主に付き従っていたのだから、今更「悪霊追い出し」と言われてもデカポリスの人は驚かないのではないかと思えるが、驚いたのだ。何故か。ポイントは「主がどんなに憐れんで下さったか」である。主の憐み…それが「悪霊追い出し」でないなら何か。それは、ゲラサ人の地へ舟でわざわざ渡ったという事だ(4:35)。まだ異邦人伝道の時ではないのにである。そして特に、悪霊によって人生が崩壊している人に恵みを施す為に。更に「キリストを拒む地元の人々への証」を命じた。これこそ、神から最も遠く離れている異邦人への憐みだ。ここに福音がある。選民だから…ではなく、キリストを受け入れる者が救われるのだ。それが異邦人(私達にも)して下さった「大きな事・神の憐み」なのである。
福音の恵み…を感謝して「それ」を証しする者となれれば幸いだ。
2026年3月15日礼拝メッセージ マルコ4:35〜41 「どういう方?」
メッセージは11分半頃からです。
突然の嵐で舟は波を被って水で一杯になった。「溺れて死にそう」だと言う弟子達に、主は「信仰が無い」と言われた。それは「信仰があれば溺れない」という事なのだろうか。ならば、ひいては「信仰があれば死なない」という事になってしまうのではないか。
主が「信仰が無い」と言われたのは、弟子達が「怖がっている」からである。では彼らは何故、怖がっていたのか。死にそうだからだ。すると主が言われたのは「信仰があれば死ぬのは怖くない」すなわち「死を恐れるのは不信仰だ」という事なのか。確かに主は死に打ち勝って甦られた。今、信じる者は主と共に勝利者だ。しかし、だからと言って、山で熊に出くわした時、怖くないだろうか。ビルの屋上から突き落とされるのは怖くないのだろうか。いや、恐怖を感じて不思議ではないはずだ。しかし、信仰があれば「死んだ後どうなるかは怖くない」のである。永遠の命だと分かっているから、地獄、滅び、無…を恐れる必要は無いのである。それがクリスチャンだ。ただ、それでも、死ぬような目には遭いたくない…それは人情だ。主も十字架を前に、ゲッセマネの園で「恐れ、悶えた」し、時と場合によっては、恐れを感じる事は必要である(エペソ6:5、ユダ23)。ただ、主は永遠の命を与えてくれる救い主だと信じていれば、死後の事を恐れる必要は無い。
だから弟子達が恐れている(信仰が無いと言われた)のは「主が永遠の命を与えるお方だと信じていない=天国の確信が無い」という事なのだ。それで弟子達は主に対して「この方はどういう方なのだろう」と言った(41)。主がどういう方なのか、分かっていないのだ。
勿論、死ぬ様な拷問は、考えただけで身震いがする。恐ろしい。では、本当に死にそうな時はどうすればいいのか。「主よ、我が霊を御手に委ねます」と言えばいいのである。それが「勝利」だ。決して、この世で栄える事が勝利なのではない。どんなに栄えた所で、この世の中、上には上がいる。だが、カネ(この世)の力では行けない所がある。天国だ。そこに入るのが「世に勝つ」という事だ。
聖書は言う。誰が世に勝つのか。「イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」と(�Tヨハネ5:5)。
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