2019年10月1日、玄武書房より全国発売されました。アマゾンにて購入いただけます。画像をクリックすると購入ページに飛びます。



 以下、礼拝メッセージの要約と共に音声もお聴き頂けます。
                      
2024年4月21日礼拝メッセージ Uコリント3:1〜11 「御霊の務め」 聴く メッセージは19分半頃からです。





2024年4月14日礼拝メッセージ マタイ14:22〜36 「信仰のスタイル」 聴く メッセージは17分頃からです。

 沈みかけたペテロに「信仰が薄い」と主は言われた。勿論、信仰は厚いに越した事は無い。何とか、厚い信仰を持ちたいものである。
 そこで、まずペテロは何故、水の上を歩けたのか。それは勿論、信じたから(信仰によって)である。すると、沈みかけたのは、疑ったから、という事になる。そう、疑わずに信じ込めば沈まなかったはずだ。そこまではいい。しかし、その論法で言うなら、信じれば何でも出来る、空も飛べるという事になるが、誰か空を飛んだ人がいるだろうか。水の上を歩いた人さえいない(ペテロ以外は)。
 根本的に、信仰とは何か、である。思い込みと信仰をゴッチャにしてはいけない。自分の目標・夢…を、神の導き・計画にすり替えるのも頂けない。信仰の父アブラハムは、年老いた自分に子供が出来る事を、自分で勝手に信じ込んだのだろうか。いや彼は、むしろ否定した(最終的には神の言葉を信じた)。ペテロは一番弟子の自負で「俺なら出来る」と、浅はかにも信じ込んだのだろうか。いや、主が「来なさい」と言われたから信じたのだ。そう、神の言葉は必ず成ると信じる…それが根本的な信仰である。なのにペテロは疑った。主の言葉を、だ。その事を「信仰が薄い。何故疑うのか」と主は言われたのである。
 荒唐無稽な事を信じるのが信仰なのではない。とは言え、私達の信じている永遠の命・天国・復活…に対して「バカバカしい」と言う人もいるかもしれない。しかし私達は、勝手に空想して信じ込んでいるのではない。神の約束だから、それは必ず成ると信じているのだ。それが信仰なのである。水上歩行の奇跡は、それを教えるのであって、忍術教室ではないし、人生の荒波の乗り越え方講座でもない。ただ、人生の海で溺れない為に「主から目を離すな」という教えは正しい。それはヘブル12:2にもある通りだ。しかし、そうしていたはずの使徒達も迫害にあって死んだ。ゆえに、そこでモノを言うのが「天国の約束を信じる信仰」なのである。
 神の約束は何か。キリストに何を求めるべきか。罪の赦し、天国、復活による完全な癒し…それらを、信じる者に与える、それが神の約束だ。それは必ず成る、と信仰を厚くする者となろう。



2024年4月7日礼拝メッセージ Uコリント2:12〜17 「キリストのかおり」 聴く メッセージは17分過ぎ頃からです。

 トロアスで主が伝道の道を開いてくれた、けれどもテトスに会えなかったので、せっかくの伝道有望地であるトロアスを離れてマケドニヤに行った。コリント教会の様子を聞く為に(12〜13)。それ程にパウロは、コリント教会を気にかけていた。必ずしも伝道が最優先という訳ではないという事だ。教会に聖霊の喜びが満ちる事、すなわち、天国の希望とその確信・喜び・感謝に満たされる事が最優先なのである。そして、それが使徒という働きの重さなのだと言うのが14節以降だ。
 まず14節…キリストによる勝利の行列に加えられるとは、キリストの捕虜となる事を意味している。それは当時のローマ軍の凱旋行進になぞらえての事だ。捕虜を引き回して行進する事で勝利の素晴らしさを示した。同じ様に、キリストによる勝利の行列に加えられる事によって、キリストに捕らえられる事の素晴らしさを示す…それがキリストを知る知識の香りだという事である。
 次は15〜16節…かぐわしいキリストの香りだ。それは良い行いによる香りなのか。いや、裁きの香りである。と言うのは、福音を伝える働き(伝道)は、ある意味裁き(福音を聞いた人が、受け入れるか拒むかに二分するから)である。行き着く所、救いか滅びかが決定するのであり、ふるいにかけるようなもの…それが伝道という事の重さなのである。その様な務めに相応しい者は一体誰だろうか、とパウロは言う。勿論、パウロはその自負がある。それが17節だ。
 神の言葉に混ぜ物をするなとは、証しや例話を説教に混ぜるなと言う事ではない。「混ぜ物をして売る」の原意は、行商をする、小売りする…である。つまり、当時の行商人が詐欺まがいの商売をしていた様に、デタラメでいい加減な福音は語らないという事である。しかし、多くの人々は、売れれば何でもいいとばかりにデタラメな福音を語っている、という事をパウロは非難しているのだ。それは神の言葉を腐敗させる事である(17節脚注)。私達は、本物の福音によって本物の弟子を作るべきだ。天国に入る事の出来る信仰を持つ、そんな真実なキリストの弟子を。それ以前に自分自身がそういう弟子でありたい。それこそが、神の前にかぐわしいキリストの香りである。



2024年3月31日礼拝メッセージ マタイ16:20〜26 「はずはない or ねばならない」 聴く メッセージは16分半頃からです。

 十字架と復活…これは、キリスト教の教えの核・最も重要な部分・基本である。普通、基本は最初に教えるものだが、それを主が教え始めたのは「その時から」で、最初からではなかった。しかも、それはその時点ではまだ起きていない(後に起こる)事を前もって語った、つまり預言である。預言なら「よみがえる」でいいはずだが、何故か主は「よみがえらなければならない」と言われた。するとペテロは「そんな事が起こるはずがない」と言う。殺されるという部分においては、その気持ちは分からなくはないが、復活についてはどうか。それが予め分かっているという事は、心強い事・安心・勝利・喜ぶべき事のはずだ。しかし弟子達は、復活を信じていなかったのだ。
 そんなペテロを戒めて主は言われた。「人は、たとい全世界を手に入れても、真の命を損じたら、何の得がありましょう」と(26)。そう、たとえ全世界の富を手に入れても地獄に落ちたら何の得もない。そして殆どの人は全世界の富など手に入れる事は無い…それどころか、苦労して、我慢して、虐げられて、病気になって、死んだら…一体、何の得があるのか。全て人生は無駄…と思えてしまうかもしれない。
 だから主は言われた。「よみがえらなければならない」と。復活は、義務的になされるのではなく、人間の希望の為…死んで終わりではない事を示す為、人生の意味と天国の希望を与える為、真の命・永遠の命・復活がある事を示す為に、どうしても必要なのだと。
 そして主は、予言通りよみがえられた。信じてなかった人達をも納得させる絶対的な事実として。それゆえそれが、信じる者には天国で永遠の命が与えられる事の証明となった。永遠の命とは、長生きする事ではなく、真の命・本来の命を生きる事であって、地上の人生の延長とか繰り返し(奪い合い、殺し合い、憎み合う)等ではない。神が支配する神の国だ。地球・世界が滅びた後の新天新地である。
 遅かれ早かれ、この世は過ぎ去る。地震・原発・戦争・火山…全てリアルな脅威だ。しかし、キリストを信じる者には神の国と新しい命が約束されている。その希望をいよいよ強くして、荒波の人生を力強く生きる者となろう。



2024年3月24日礼拝メッセージ マタイ14:1〜21 「ヘロデのパンだね」 聴く メッセージは19分頃からです。

 5000人の給食と呼ばれる奇跡…それが起きるきっかけとなったのが、バプテスマのヨハネ殺害事件だ――ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れて果たせないでいた。そんな時、思わぬチャンスが来た。なのにヘロデは心を痛めた。理由は、ヨハネは聖なる正しい人と知っていて、保護も加え、その教えを喜んでいた(マルコ6:20)からだ。ならば何故、殺したいと思うのか。それは妻ヘロデヤの事でヨハネを恨んでいたからだ。では殺せばいいのに、いざとなれば心を痛めた。実に複雑な心理であるが、結局ヨハネは殺された――その知らせを聞いて主は一人になられた。だが、多くの群衆が追いかけて来た。その姿を見て主は深く憐れまれた。人々が、羊飼いのいない羊の様に霊的に飢え渇いてやせ細っていたからだ。宗教指導者達も国主ヘロデにも彼らを本当に養う力は無い。しかし主には出来る。それを示す為の奇跡、それが5000人の給食なのである。
 所で、ヘロデはピラトに似ている。ヘロデはヨハネを、ピラトはイエスを、共に「正しい人」と認めていながら死に追いやった。神の教え・真実…に心を惹かれながら従おうとしない、そんな指導者が民の魂を養う事など出来はしないし、自らも神に背を向ける結果となるのだ。ピラトに至っては、イエスには何の罪も無い、釈放する…と言いながら、それでも十字架につける為に引き渡した。この不条理、理不尽の極み。これが、神に背く人間の世界の仕組みだと言える。そんな不条理の世界の中に教会は存在し接触しているのである。影響されてしまいかねないのだ。だから主は「ヘロデのパン種に気を付けろ」と言われた。それが教会の中に入ったら、全体に広がってしまうからだ。
 私達も、一人一人が自ら気を付けておくべきである。イエスはキリスト(聖く正しい方)と知っているし、神の教えを喜んでもいる。だが、それだけならピラトやヘロデと同じだ。彼らの二の舞となってはいけない。だから大切なのは、聖書が言う通り「今日、御声を聞いたなら、心を頑なにしてはならない」(ヘブル3:15)という事である。
 御言葉は命のパン。主は、それを豊かに与えるお方である。私達は、受け取った御言葉によって養われて生きる者であろう。



2024年3月17日礼拝メッセージ Uコリント2:5〜11 「しっかり!」 聴く メッセージは18分半頃からです。

 主題は「赦し」であるが、まず基本は踏まえておきたい。悔い改めたなら赦す…それが基本・大前提だ。その上で、パウロが言う「赦してあげなさい」とはどういう事なのか、である。
 パウロは既に涙の手紙を書き送っているが、その涙の原因となった人がいる。それはパウロのみならず教会全体の悲しみである(5)。なのに、赦してやれと言う理由は、十分処罰を受けたからだ。それ以上、押し潰されてしまう程の罰を与えるのは酷だという訳である(6〜7)。処罰の目的は悔い改めさせる事であるのだから、そこから逸脱してはならない。だから、もう十分だから赦し、慰めてやれ、と言うのであって、決して、一方的に無条件に赦す事を教えているのではない。
 つまり、問題は「悔い改めているのに赦してやらない」という事だ。悔い改めていないなら怒るのも仕方がない。主も、律法学者・パリサイ人・宮の商売人達に対して怒りを顕わにされた。しかし、悔い改めたなら赦すべきであり、その基本から逸脱してはいけない。そうでないと、処罰の目的(悔い改めさせる事、すなわち愛)からも逸脱してしまう。だから、愛を確認し、従順であれと勧める(8〜9)。その様な経緯があっての10節である。そして、悔い改めた者を赦さないならサタンの術中にはまる、と言うのが11節だ。
 さて、サタンの策略、その目的は、一人でも多くのクリスチャンを地獄に引きずり落し、道ずれにする事である。その為に、偽りをコッソリ教会に持ち込み、御言葉を曲解させ、真理をあやふやにし、悟らせない様にと画策する。そして、ある程度それは成功し、あるクリスチャンは無条件の赦しを行なえない自分を責め苦しむ。
 だから、何が偽りなのかを気付く事が必要であり、サタンに欺かれない為には、御言葉を深く知る事が大切なのである。それも通り一遍にではなく、本当の意味を知る事が大切だ。それは決して容易な事ではないかもしれない。しかし、御霊は全ての真理へと導いて下さる。ただし神は、拒否する者に押し付けるような事はなさらない。聖霊は求める者に与えられるのだ。だから聖霊による真理への導きを求めつつ、私達の側も、自ら進んで何が正しいかを判断する者となろう。



2024年3月10日礼拝メッセージ マタイ13:44〜58 「御国の弟子」 聴く メッセージは17分半頃からです。

 天の御国はこの様なものだ、という3つの例えを弟子達が「分かった」とは思えない。彼らはその後も度々主から叱られているのだから。
 まず主は、天の御国は畑に隠された宝の様だと言われた。が、隠されているので見つけにくい。同じ様に、御国の奥義を悟るのも容易くない。で、もし見つけたら、それを一旦隠しておくのだと言う。天国は全財産と引き換えにしてでも手に入れるべきものだから誰かに奪われないように…という事か。天国は独り占めするべきものなのか。いや、そもそも「畑に隠された宝」は他人の物だ。それを見つけたからと言って勝手に自分のものにする訳にはいかない。だから畑ごと買い取る…それが正規の手続きである。つまり、天国は正しい方法で(道であるキリストを通って)入るべきだという事を教える例えなのだ。
 次に、御国は良い真珠を捜す商人の様だという例え。ポイントは、宝の価値ではなく証人の行動(宝を捜している)が、御国に似ているという所だ。つまり、神は尊い魂を捜している。そして全財産(御子の命)をもって買い取る、という事を教える例えなのだ。
 3つ目、御国は地引網の様だという例え。手当たり次第に集めるけど選別する。これは、世の終わりの裁きの事だ。畑の毒麦の例えと同様、その時には、教会の中から裁きが始まるのである(42,49〜50)。
 「これらの事がみな分かりましたか」(51)と主は言われたが、弟子達は勿論、今の時代でも多々誤解されている。そこで続けて主が言われたのが52節だ。つまり、御国の奥義を本当に悟った人(御国の弟子となった学者)は、一家の主人の様に自分の倉から自在に物を取り出す権威・特権があるという事だ。その点、ナザレの人々は人間的な古い価値観が心の蔵に満ちていたので「あれは大工の息子ではないか」と言ってイエスに躓いた。御国の奥義を何も理解していないのである。だから、奇跡を見せても無駄だと主は判断なさった(58)。全然見せなかった訳ではない(54脚注:奇跡)。しかし、見ても悟らなかったのだ。これもイザヤの預言の成就である(14〜15)。
 私達は、聞いて悟る者でありたい。そして、御言葉の恵みを旧約からも新約からも自在に・豊かに受け取れる者となろう。



2024年3月3日礼拝メッセージ Uコリント1:12〜2:4 「喜びのために働く協力者」 聴く メッセージは19分過ぎからです。

 取り留めの無い…と感じる箇所であるが、まず12〜13節。これは、教えではなく、弁明であり、お願いである。背景には、コリント訪問の計画が一転二転した事がある。それは決して軽率なものではない事の理解を求めてだ(14〜17)。その根拠として、アーメンであるキリストにあっての自らの宣教姿勢を挙げる(18〜19)。そこに偽りは無いという事だ。では何故パウロは、計画を何度も変更したのか。それは、教会を悲しませる事(コリントに出向いて、厳しく叱責して処罰する事)は二度としたくないから(思い遣り)だと言う(1:23,2:1)。
 我が子も同然である教会が悲しむのは、パウロにとっても悲しい事だから、教会が悔い改めてくれるようにと「涙の手紙」を書いた。それが功を奏し、教会は悔い改めたのだから、計画変更(コリント訪問延期)は大成功であり、喜びと感謝で手紙(現存するUコリント)を書いたのである。故に、計画変更は軽率な行動ではないと言えるのだ。誠実に、神の恵みによって行動しているのだと。確かに、もし出向いて処罰すればパウロの権威は保て、人の栄光となるが、そうしなかった結果、神の栄光となったのだ(1:20)。
 さて「神の国は義と平和と聖霊による喜びだ」(ローマ14:17)とパウロは言う。その聖霊が天国の保証(*手付け金)として与えられている(1:22)のだから、聖霊による喜びが教会に満ちる様になるべきだと考えるパウロは、自らを「喜びの為に働く協力者」だとする(1:24)。その為には、自らへの信頼を損ねる事になるかもしれない計画変更をも辞さない、教会・信徒を支配などしないという事である。何しろパウロは、一切の事を愛をもって行え(Tコリント16:14)と教え、結果として喜びになる為にと「主を愛さない者は呪われよ」(それが嫌なら主を愛する者となれ)と言うのだから。呪いさえも、愛をもってである。
 そういう訳で私達も、神の国の手付け金(聖霊による喜び)が教会に満ち、神に喜ばれる事を求めたい。では何が、神の喜びか。それは、行きつく所、私達が御国を手に入れる事だ。主は言われた。小さな群れよ、恐れる事はない。神は喜んで御国を与えて下さると。そして、その時、天で大きな喜びが湧き起こるのだから。



2024年2月25日礼拝メッセージ マタイ13:24〜43 「隠されていること」 聴く メッセージは19分頃からです。

 種蒔きの例えに続いての「また別の例え」だ(24)。必然的に、そのテーマは引き続き「福音という奥義」であるが、まずは「麦と毒麦の例え」だ。毒麦とは偽りの教えの事であり、それが神の畑(教会)の中に生え出ているというのである。それはサタンの仕業だと主人は言う。では抜きましょうかと言うしもべに対して、判別しにくいから今は放って置けと答える主人。育ち切ったら裁くという訳だ(24〜30)。まさに「裁きは教会から始まる」という事である(Tペテロ4:17)。だから、純粋な福音を守らなければならない。その点、今は、終わりが近付いているからか、幾分、判別し易くなっている。つまり、何が毒麦かが明らかになりつつあるという事だ。
 さて続いて、同じテーマでの「また別の例え」だ。御国はからし種の様だと主は言われる(31〜32)。これは、神の国の拡大の事だと理解されている。次のパン種の例えも同様だ。確かに別の聖書の箇所において、からし種は「からし種ほどの信仰を持て」と肯定的に語られているが、パン種に対しては「パリサイ人やヘロデの偽善の事だ」と否定的だ。勿論、ルカ13:18〜20では肯定的な意味で語られているのだが、マタイの方では、迷惑なものとして描かれている。何しろ(神の)畑の中に、からし種が蒔かれているのだから。それが成長したら野菜が育つのに邪魔になる(ルカでは庭に蒔かれるので益となる)。つまり、パン種(偽善)も、からし種も、神の国に少しでも入ったら、全体に広がって手が付けられなくなるという事だ。そして、それが「世の始めから隠されている事共」だと言う(34〜35)。そう「神の国(教会)の中に偽りが混じり込んでいるという事」が、だ。それは「世の初めから」だと言う通り、エデンの園の中で蛇は偽りを語ったのである。人が罪を犯す前・完全だった時に。その事が隠されている(忘れられている?)が故に、キリスト教の中に偽りが混じり込んでいる事が気付かれにくいのだろう。しかし、それは、毒麦にやられてしまっているという事だ。だから主は言われた。「耳のある者は聞きなさい」と。私達は、聞く耳を持って、純粋な福音を守ろう。そして、御国で太陽の様に輝く者となろう(43)。




2024年2月18日礼拝メッセージ Uコリント1:1〜11 「死もまた益」 聴く メッセージは14分半頃からです。

 紆余曲折あって悔い改めた教会への(実は4通目の)手紙、それがUコリントである。が、挨拶に続いて記されているのは、苦しみと慰めについてだ。パウロは自らがどれ程苦労したかを語る(8〜9)。それは恩を着せる為か、それとも何か見返りを求めてか。いや、信徒の慰めと救いの為だと言うのである(6)。つまり、苦しみから救われたパウロの姿(神の慰め)が、信徒の信仰を強め、信徒は慰めを経験したが故に苦しむ人を慰める事が出来る様になるという事だ。例えば、神御自身も苦しみを経験された(創世記6:5〜6)し、御子を十字架につけられた時など、どれ程の苦しみであっただろうか。その様に父なる神が苦しまれた事は御子にとっても苦しみであって、その経験の故に主は試みられている者を助ける事が出来るのである(ヘブル2:18)。
 その様な「神の助けと慰めがある」という信仰が強められる為にパウロは自らが非常に激しい苦しみを受けた事を言う。しかも、それはとても耐えられない程だった(本気で死ぬと思った)と。そう、耐えられない様な苦しみは、あるのだ(Tコリント10:13は、偶像礼拝を拒むための戦い・試練には耐える事が出来るという意味である)。
 所がパウロは、その死の危険から救われた。一時は死を覚悟し、せっかく復活に期待する様になった(9)のに、予想外の事が起きたのだ。その結果パウロは「神は今後も必ず危険から救って下さる」という望みを置くようになった。だがしかし、ならば何故、パウロは殉教したのか。それは、いくら信仰があっても、不死身の体になる訳ではない(人は一度死ぬ事が定まっている)からだし、「神が危険から救ってくれる」というのは「望み」であって、望みは必ず叶えられる訳ではないからだ。だからパウロが、救出という慰めを受けたのは信徒への慰めの為。苦難は、復活に希望を置くようになる為に役立つ為だ。
 それでもパウロは信徒に、救出を神に祈る様に要請する(11)。が、結局その祈りは聞かれず、パウロは殉教した。祈りは無駄だったのか。いや、パウロは言う。「死ぬ事もまた益」だと(ピリピ1:21)。救出だけが恵みなのではなく、死(天国に行く事)も恵みだという事だ。私達も信仰を以て、その恵みを感謝する者となろう。




2024年2月11日礼拝メッセージ ヨブ記42:7〜17 「釈然と」 聴く メッセージは21分頃からです。

 ヨブの所有物は2倍になり、一見、ハッピーエンドの様だが、釈然としない。それ(富)が、ヨブの苦しみに対する埋め合わせなら結局はカネで解決という事か。新たに子供(特に美人の娘)が与えられたからとて、失くした子供の代わりにはならない。ヨブの苦しみに対する慰め・本当の解決は、やはり天国の希望である。先に死んだ子供達も天国…なら、何とか飲み込めるというものだ。
 所で、3人の友人達は、いつの間にやら家に帰ったのだろうか。不誠実さを感じる。そんなエリファズにも神は現れ語る。生贄を携えてヨブの所に行け、と。それで友人達は神に受け入れられ赦されたのだろうか。いや、神が受け入れたのはヨブだ。ヨブの執り成しの故に友人達は罰を受けずに済んだだけで、赦されてはいない(8〜9)。救いはあくまでも自分の信仰によってである。それも聖い(偽りの混じっていない)信仰が求められる。彼らの信仰が正されなければならない。
 とにかく、神が受け入れたのはヨブの執り成しの祈りである。だから、10節以降の「祝福」は、執り成した事への報いであって、死んだ子供達や病などに対する埋め合わせではないのである。死んだ子供についての解決は天国しかない。そして、その天国の希望をヨブは握った。だから、何のわだかまりも無く恵みを受け取ったのである。
 そういう訳で、この結末(あるいは後日談)を「苦難に耐えた故の祝福」と考えてはいけない。だが、そう考えられがちだ。「苦難を乗り越えれば、その先には祝福が待っている」という風に。それは見当違いだ。ヨブ記に込められた神のメッセージは「天国の希望を持て!」そうでないと何の解決も無い、という事である。ヨブは全てを失って苦しんだけど「それ」を手に入れた。主が言われた様に、たとえ片手片足を失っても、その方が良いのだ。その為に、神と個人的に出会い、人格的な交わりを深める事が必要である。神についての知識だけでは足りない。尚の事、間違った知識、…解釈などは「足りない」どころか、逆にマイナスだ。3人の友人達の様に、神に受け入れられはしないのである。私達は、神に会う事を求めよう。祈り・賛美・礼拝・御言葉…の中に、神は御自身を現されるお方だ。




2024年2月4日礼拝メッセージ Tコリント16章 「神を愛したい」 聴く メッセージは18分頃からです。

 1〜12は、献金の勧めと旅の計画。特に後者は、決して霊的な教えとは言えないが、一点、アポロに関して。コリント教会においてアポロは、ペテロ、パウロに並ぶ存在であり、雄弁で大きな働きをした。所が、パウロの強い勧めにアポロは従わなかった。何故、一致出来なかったのか。どちらかが聖霊に導かれていなかったという事か。いや、指導者と言えども人間、自分の思い、自分の判断…感情等があるのだ。パウロ自身、ペテロに反対した事があった。その時はペテロが間違っていたからだ。だから、たとえ指導者に対してさえ、盲従してはいけない。大切なのは、間違いを見抜く事だ。そして見抜いたら、同調しない事である。一致する事が必ずしも正しいとは限らない。
 さて13〜14節は、教えであり勧告だ。霊的に目を覚ませ…すなわち、偽りを見抜け、惑わされるな、真理を悟れという事。その上で、堅く信仰に立つべきである。曲がった信仰に堅く立ってはいけない。次に「男らしく強くあれ」とは「雄々しく強く生きなさい(新共同訳)」だ。
 15〜24節は、ねぎらいと挨拶だが、その中に「不信仰な者は呪われよ」という様な非情な言葉がある(22)。14節で「一切の事を愛をもって行え」と言いながらだ。不信者には救いを願う…それが愛ではないのか。勿論、しかし「呪われよ」は、不信者に対してではなく、コリント教会のクリスチャンに対しての言葉(ギリシャ語のアナテマ)だ。それは、共同体から除名する時に使う言葉である。その目的は、悔い改めを促す為である(Tテモテ1:19〜20)。言わば「呪われよ」と言うのは「それが嫌なら主を愛せ」という叱咤激励なのである。これが「一切の事を(呪いさえも)愛をもって行う」という事であり、パウロの説く愛だ。だから、その直後(23〜24節)で本心(愛)を表している。
 とどのつまり、神を愛せという事である。では、神を愛するとは? それは「神の命令を守る事」だと聖書はハッキリ言う(Tヨハネ5:3)。ならば、神の命令とは何か。それを知らずして神を愛する事は不可能だ。どんなに神を愛しているつもりでも、守るべき神の命令を知らないなら、結局、神を愛せてはいない事になる。それはとても残念な事、空回りである。私達は神を愛したい。その為に御言葉を深く知ろう。




2024年1月28日礼拝メッセージ ヨブ記38章〜42:6 「神に会う」 聴く メッセージは21分45秒あたりからです。

 ついに、神が、語る。既にエリフが代弁した「神の偉大さ」を、再び、自ら、延々と、徹底的に。例えば「あなたはカバを掴めるか。ワニに手を出せるか。ワニを造った神に立ち向かえる者が誰か居るか」とかだ(38:1〜41:11)。勿論、誰もいない。
 続く41:12〜34は、ワニの力強さの事と考えられているが、19〜20等は言い過ぎの感がある。そこで文脈だが「ワニに手を出す奴はいない。尚の事、誰が神に立ち向かえるか」であるのだから、それに続いての12〜34は「ワニより更に神は力強い」と言っているのではないかと思える。19〜21の描写はダニエル10:6の神の姿に類似しているし。いずれにしても、神に立ち向かえる者は居ない。
 それでヨブは、2度目の詫びを入れる(42:1〜6)。神は、一度目の時とは違って、今度は受け入れる。神はある程度満足したという事だろうが、ヨブに天国の希望を持たせるという目的は果たせたのか。
 ヨブは言う。「神にはどんな計画も成し遂げられる。私は自分で悟り得ないことを告げた」と(42:2〜3)。ヨブには思いもよらなかった神の計画…天国だ。神の力を思い知らされた事によってヨブは自らの浅はかさに気付いた。大きな進歩だが、最たるはヨブが神に会った事だ(42:5)。ヨブは神に会いたかった…その願いは叶えられたのだ。それで本当の悔い改めに至ったのである(42:6)。「神との個人的な出会い、それゆえの悔い改め」…これこそ、信仰においてどうしても必要な事だ。それ抜きでは。岩地に落ちた種の様に「根が無い」ので、やがて枯れてしまう。神についての知識だけでなく、神との人格的な出会いが真の信仰と天国の希望を育むのだ。
 これがヨブ記の結論である。42:7〜17は、あとがきに相当する。神に会えるという事は、究極的には天国で常に神と共に生きるという事だ。それが祝福の全てである。逆に、神に会えないという事は、地獄を意味する。そこには希望も何もない。それは、たとえ地上で全世界を手に入れても何の得にもならない事だと主は言われた。なのに、全世界の祝福を手に入れようとする…そんな信仰を戒める、それがヨブ記だ。私達も、神に会える様に、神御自身を求めて歩もう。




2024年1月21日礼拝メッセージ Tコリント15:45〜58 「勝つ且つ活!」 聴く メッセージは18分過ぎからです。

 最初の「人(アダム)」と、最後の「人(復活のキリスト)」は、「血肉のもの」と「御霊のもの」、「地から出た者」と「天から出た者」…その体は全く異質である事をパウロは語る(45〜47)。
 そこで、キリストの似姿にならなければ天国には入れない、と言うのである(49〜50)が、人間は、地上にいる限りは最初の人に似た者でしかない(48)のだから、誰も天国に入れないではないか。いや、終わりの時に、神が変えて下さるのだ(51〜53)。それが携挙の時、朽ちない体・御霊の体に変えられる時だ。そうであってこそ不死の(永遠の)世界に入れる。例えば、潜水服を着てこそ深海に入れる様にだ。だから、地上で生きている内にキリストの似姿になろうとするのは、地上で潜水服を着て生活しようという様なものなのである。潜水服は海に入る時に着るもの。主の似姿(御霊の体)も、その時になって着るものだ。そしてその時、とうとう最後の敵・死に勝利する(54)。死の棘(罪)の力である律法に打ち勝つのだ(55〜56)。勿論、律法は本来「良いもの」だが、使い方を間違えると薬も毒になる。そして、その律法の間違った使い方によって苦しみが生じているのが現実だ。
 しかし、神はキリストによって私達に勝利を与えて下さった(57)。勝利とは? 律法の正しい使い方を知る事によって、棘が利かなくなり、死が無力になる(死に勝つ)という事である。それが「不死を着る」という事、復活だ。
 ですから主の業に励めとパウロは言う(58)。主の業とは? 伝道? 会堂建設? いや、死に勝つ為には…という話しである。その為には「律法を正しく使う」事だという文脈だ。だから、それが「主の業」であり、それに励めという事なのである。そうでないと、罪の力にやられる〜死に負ける〜滅びだからだ。
 御言葉を正しく理解し、真理を悟る…それは大変な事だ。しかし、その労苦は無駄ではないとパウロは言う(58)。輝かしい栄光の御国を獲得するのだから。秘訣は、律法を正しく使う(御言葉を悟る)事だ。
 私達は、堅く立って、動かされる事なく、いつも、その主の業に励んで、死に勝つ者となろう。




2024年1月14日礼拝メッセージ ヨブ記36〜37章 「道備えと促し」 聴く メッセージは16分過ぎ頃からです。

 エリフは、神を弁護する為に更に続ける。神は正しい、と。そして、神は悪を懲らしめる。だから、ヨブよ、悔い改めよ、と(36:5〜21)。
 続いて、神の力と偉大さを語り、「だから聞け」と促す(36:22〜37:18)。それは、あたかも神御自身が語っているかの様な、有無を言わせぬ圧倒的な言葉だ。それで、この偉大な神にどんな文句が言えようかと迫る(37:19)。「神に直接語りたい」と言ったヨブへの返答だ。そんな事をすれば滅ぼされるぞ、とも(37:20)。何しろ、罪ある者は神の前に立つ事が出来ず、神を見たら死ぬとまで聖書に言われているのだから。神への直談判など、自殺行為だ。
 とにかく、どんな大雨の日も、太陽が無くなった訳ではないのだとエリフは語る。やがて神の黄金の輝きが現わされる、と(37:21〜22)。結局エリフが言いたいのは、何がどう転ぼうが神は正しい、正義だ、完全な知識を持っている(37:16、36:4)という事である。「だから、神を恐れよ」(37:24)と語り、エリフは言葉を終える。ヨブは最後まで一言もエリフに反論出来なかった。そして、ついに現れる神の前に、ヨブはひれ伏し、悔い改めへと導かれるのだが、この展開を見るに、エリフはまるで(主の道備えをした)バプテスマのヨハネの様だ。
 所で、基本的に、この世にあっては苦しみはある。しかしエリフは、神は「苦しめる事をしない」と言う。「だから神を恐れよ」と(37:23〜24)。つまり神は、神を恐れる者には地獄という苦しみを与えないという事だ。故に「神と戦うな、神には勝てない」とヨブに言うのである。この様に、エリフはバプテスマのヨハネの役割だけでなく、聖霊の役割(悔い改めへの促し)をも担っているかの様だ。いずれにせよ、神を恐れる者は地獄の苦しみから救われる…これはヨブ記の中の福音・畑の中に隠された宝だ。
 神との知恵比べは無駄である…など、エリフの諭しによってヨブは、神の登場を待つまでもなくコテンパンに打ちのめされた。それでも神は、あえて出て来てヨブに語るのだ。そして、遂にはヨブを癒し恵みを注ぐ。何よりも天国の希望という恵みを。これが神の愛だ。この神の愛に応えて、神を恐れ、天国の希望をいよいよ強めて生きよう。




2024年1月7日礼拝メッセージ Tコリント15:35〜44 「メタモルフォーゼ」 聴く メッセージは19分頃からです。

 「死者は、どのようにしてよみがえるのか」(35)、それを知りたい…という訳ではなく「有り得ない」というニュアンスである。例えば、ゾンビになるのは嫌だが、仮に元通りの普通の人間によみがえるとしても、以前と同じ年相応に弱った体のままなのか、日本人は日本人によみがえり、黒人は黒い肌によみがえるのか。それなら地上と何も変わらないではないか、誰がそれを喜ぶのか、という様な事である。
 それに対してパウロは「愚かな人だ」と言う(36)。何故なら、復活を疑うという事は、信仰そのものを疑うに等しい事だからだ。信仰とは何か。神がおられると信じるぐらいは信仰とは言えない。そんな事は悪霊共でさえ知っている事だ。ゆえにパウロは、復活とはどの様なものかを説明するのだが、これが分かりにくい(36〜41)。
 まず36節は麦(死ねば豊かな実を結ぶ)だ。それがどうしたのか。「しかし神は…それに体を与える」と言う(38)。そして、「復活もこれと同じ」だと言うのである(42)。つまり、種が死んで(地に落ちて)全く違う形(からし種は大木)に変わる。全て神のプログラム通りに色々な体が与えられるのだと(39〜41)。オタマジャクシがカエルに、蛹が蝶にメタモルフォーゼ(変態)する様に、血肉の体から御霊の体に変えられる、それが復活なのだと(42〜44)。(血肉の体とはこの世に属する体、御霊の体とは永遠の世界の体、という様な事)
 天国には結婚という制度は無いという事を主は言われた(マタイ22:23〜30)。では、地上での家族関係・家族愛は失われてしまうのか。だとすれば少し悲しく感じられる。しかし、天国に悲しみがあるのはおかしい。家族愛は、あった方が良いのではないだろうかと思う。だが、家族には家族ならではの愛憎がある。それまでをも天国に持ち込むのはいかがなものか。天国では、そんな愛憎からも解放されるのだ。そして本当の家族・神の家族になる。主は言われた。「私の家族とは誰か。父の御心を行う者だ」と。それが最善だと受け入れられるかどうか、そこが信仰だ。少なくとも、天国は地上の喜怒哀楽の延長ではない。復活も、蘇生ではなく新生あるいはメタモルフォーゼである。私達は、一人でも多くの家族が、本当の家族になれる事を求めよう。




2024年1月3日新年礼拝メッセージ マタイ13:1〜23 「種蒔きの種明かし」 聴く メッセージは17分頃からです。




2023年12月31日礼拝メッセージ ヨブ記35章 「神は来る」 聴く メッセージは19分頃からです。

 神についての議論…と言っても語るのはエリフだけだが。ヨブと3人の友人達に対して「人間のちっぽけさ」をエリフは語る(4〜8)。無限の世界・永遠の神…その前で人は何が出来るか、また人が多くの悪事を行ったとして神が何か被害を受けるか、或いは人が出世したからといって神に何の得があるか、人がどう足掻いたところで神には何の影響も無い、ただ人間の間だけの事に過ぎないのだ、という事である。神の存在、この世界は造られたものである事…それらは人が認めようが認めまいが(信じようが信じまいが)変わらない事実なのだ。
 続いてエリフは、神が沈黙する理由を語る。まず、世にある不幸・悲しみに対して人は泣き叫び、助けを叫び求める、と(9)。それは勿論、命を守る為だろう。ならば何故、命の造り主なる神を捜し求めようとしないのか…と問いかける(10〜11)。本当の命をこそ守るべきではないかという事だ。地獄こそ最も避けるべき悲劇であるのだから。
 さて、それで、神が沈黙する理由だが…本当の命を守ろうとしない人の願いなど神は聞いてはくれない、という事である(12〜13)。何故なら、本当の命を守ろうとしないという事は、天国など要らないという事であり、今さえ良ければいいんだという事でもあるからだ。そんな願いは聞いてやれない…というのは尤もだろう。つまり神は、本当の命を与えたいのである。地獄ではなく天国を。なのに何故、神を捜し求めないのかという事である。
 しかも、とエリフは続ける。ヨブの訴えは神に届いていると。だから信仰者なら、神を待て、と(14)。さもなくば罰せられると(15〜16)。
 結局、どんなに泣き叫んでも事実は変わらない。人間に出来る事は真の神(本当の命)を探し求める事だ、という事である。そして、神を信じる者は神を待て、という事だ。神を捜し求める者に対して神は来る。答えを携えて。
 私達は、どんな答えを期待するべきだろう。この世の命だけでいいのだろうか。いや神は、そんな願いは聞いてやりたくない、と言うのだ。だから、本当の(永遠の)命・救いの完成を求めよう。その願いは神に届いているし、神は必ず答えを持って来て下さる(ヘブル11:6)。



2023年12月24日礼拝メッセージ ルカ1〜2章 「こんなクリスマス」 聴く メッセージは16分頃からです。

 未婚の乙女が身籠る…本来なら石打の刑・死であるが、神はヨセフに働いて、マリヤを守らせた。その後、マリヤは親戚エリサベツの元に急いで行った。つわりの期間(1:56)身を隠す為だ。何故なら、夫ヨセフ以外の人達は、マリヤの妊娠を理解していないからだ。「ふしだらな」という事で石打ちの刑になるだろう。その点、エリサベツには、マリヤを受け入れる様にと聖霊が働いた(1:41)。またもや、神がマリヤを守ったのである。それもこれも、救い主誕生の為だ。
 マリヤが家に帰ったその頃、住民登録の勅令が出た。そのせいで旅先で出産する羽目になるのだが、これは不運な出来事なのだろうか。いや、つわりを見られるのは避けられても、次に問題となるのはお腹が大きくなる事だ。これは地元の人達の目に留まる。しかし旅先なら、見知らぬ妊婦がいても誰にも気にされない。安心して臨月を迎えられる。その様にしてマリアが守られるようにと神は、アウグストをも用いたのだ。キリスト誕生を成就させる為の神の奇跡だ。
 出産後、羊飼い達に御使いのお告げがあった。「これがあなた方の為のしるしです」(2:12)。何が「しるし」か。布にくるまってる事か、飼い葉桶に寝ている事か。いや「みどりご」御自身(キリスト)が、人間の為のしるし(証拠としての奇跡)だと天使は言うのである。すなわち、救いの、命の、希望の、天国の証拠…それがキリストなのだ。羊飼いたちは、それを知らせた(2:17)。所が人々は「不思議に思った」(2:18新共同訳)。訝しんだのだ。マリヤも決して腑に落ちた訳ではなかった(2:19、49〜50)。マリヤが信じたのは「身籠る」という事だけだった。そして、それは確かに「お言葉通り」実現した。エリサベツの言う通り…信じ切った人は幸いなのだ(1:45)。しかし、主が何を語られたのかを完全に理解していないなら、その幸いは不十分となる。故に、最後の(十字架の)時にマリヤは心を痛める事になる(2:35)。
 とにかく、このクリスマス・ストーリーにおいてマリヤは何度も守られた。神は、救いの計画の為になら何でもなさるのだ。どんな奇跡も、御子をさえ十字架につける事までも。
 この壮絶なクリスマスを感動と喜びで祝おう。




2023年12月17日礼拝メッセージ Tコリント15:29〜34 「恥ずかしい思い違い」 聴く メッセージは15分半頃からです。

 パウロは「死者の為のバプテスマ」を根拠として、復活がある事を強調する。するとパウロは死者の為のバプテスマを肯定しているのか。いや、もし復活が無いなら何故わざわざ危険に立ち向かうのか、もし復活が無い(生きている内が花)ならあとの事など考えずに飲んで遊べ、という事になるはずだ(31〜32)という文脈だ。つまり、死者の為のバプテスマは間違っているけれど、そこまでする程に復活を信じている、それ程、復活は確かな事だ、と言いたいのである。
 続いて「友達が悪ければ、良い習慣が損なわれます」(33)と続く。更に「目を覚まして、正しい生活を送り、罪をやめなさい」(34)と。不良とは付き合うな、朝早く起きてキチンと学校に行って、タバコやシンナーはやめなさい、という事か。まるで中学生への戒めだ。
 だから、33節の始めに「思い違いをしてはいけません」とある様に、これは「偽りの教えと交われば信仰が歪む」から「正しい信仰生活を送りなさい」その為に「霊的に目覚めなさい」という事なのである。「罪をやめなさい」も、…それは勿論そうだが、だからと言って、罪をゼロにしろ(完全な人になれ)という事ではない。それは土台無理なのだから十字架がある。律法主義に陥ってはならない。
 罪とは何か。ハマルティア(的外れ)である。それをやめろと言うのだ。では何が「的が外れている」と、ここでパウロは言っているのか。それは「復活は無い」と主張する人々の事だ。そして、そんな偽りの教えから離れない人々もまた「的外れ」なのであり、それをやめなさいと言っているのである。
 最後に「神についての正しい知識を持っていない人達がいます」とパウロは言う。日本人の事ではない。コリントのクリスチャンの事だ。その人達を「辱める為に言う」…つまり、真理の御霊が内住されているはずのクリスチャンが、神についての正しい知識を持っていない(偽りを見抜けない)という事は恥ずべき事だと言う訳だ。
 私達は、本当の羊飼いの声を聞き分ける必要がある。そして、何が「しっかり保つべき本当の福音」なのかも。その為に霊的に目を覚まして、正しい信仰生活を送ろう。




2023年12月10日礼拝メッセージ ヨブ記34章 「口は…、耳は…、霊は…」 聴く メッセージは17分頃からです。

 3人の友人達と同じく、エリフもヨブを悪人と言う。だが友人達が言うのは、ヨブの行いが悪いから悪人だという事であり、その点、エリフが言うのは、ヨブが天国への道を歩んでいないからであって、同じ「悪人」という言葉を使っていても、その意味が違う。
 「だから、聞け」とエリフは言い、「神は悪を行わない。神は正しい。権威がある。偉大だ。誰が神を咎め得よう」と語る(10〜30)。そう、神は人の思いを遥かに超えている。そこで「たとえ御心が分からなくても信頼して従えば良いのだ」と教えられるが、それは危険をはらんだ教えだ。例えば、もし神が「殺せ」と言えば、自分の考えでは理解出来なくても従うという事になる。確かに神は正しい。しかし、その信仰も、「だから神は殺せ等と間違った事は言わない」と考えるのか、「だから殺す事は正しい」と考えるのかに分かれるのだ。
 続いて31〜33節。悪人が反省の言葉を神に述べる。それに対し、あなた(ヨブ)が反対(罰するべきだ、と主張)したからと言って、神が「はい、そうですか」と従うとでも思うのか、とエリフは言う。神に指図するべきではないという事だ。
 更に「利口な人は私(エリフ)に言うだろう」と34節。「ヨブの言葉には思慮が無い」と(35)。何故なら、ヨブが神に指図するからだ。故に、ヨブは悪者だと36〜37節。やはり、3人の友人達が言う「ヨブは悪者」とは全然意味が違うのだ。
 一例。「神に不可能は無い」…クリスチャンなら誰もがそう言うだろう。しかし、それを「神は何でもしてくれる」という意味にするのか「神の計画は必ず成る」という意味にするのかだ。同じ言葉を使っていても(信じていても)中身が違う。
 だからエリフは言う。「言葉を聞き分けろ」と(3〜4)。口が食物の味を知る様に、だ。決して、耳が自動的に聞き分ける訳ではない。努力して聞き分けるべきなのである。それをしない人々に主は言われた。聞いても聞かず、聞くが悟らない、と。
 エリフが言う様に、私達は一つの定め(神の真理)を選び取り、何が良い事であるかを見分けよう(4)。




2023年12月3日礼拝メッセージ Tコリント15:23〜28 「それから、終わりが」 聴く メッセージは19分過ぎからです。

 キリストと同じ様に、クリスチャンも栄光の体に変えられるのだが、それは「キリストの再臨の時」だとパウロは言う(23)。何故なら、その時、携挙されるからだ。それから終わりが来る(24)。ただ、携挙については、クリスチャンでも「聞いた事が無い」という方がおられるそうだが、携挙とは、主が再臨の時に、真実な信仰者を雲の中に一挙に引き上げて下さる事だと聖書は教えている(Tテサロニケ4:16〜17)。
 さて定説では、携挙の後、地上に降りて来てキリスト共に千年の間地上を治める(千年王国)とされているが、パウロは(そして主も)それには言及していない。唯一、黙示録20章によれば、第一の復活に与る者が千年の間、王となるとの事だ。問題は「第一の復活」とは何か、である。「彼らには第二の死(永遠の滅び・地獄)は何の力も持っていない」ともある。では、地獄に落ちないのは誰か。真実な信仰者だ。つまり、信仰によって、死んでいた魂が生き返る(クリスチャンになる)という事、それが「第一の復活に与る」という事になる。そしてクリスチャンは、霊的には神の子・王・祭司となる(Tペテロ2:9)のだから、教会時代という恵みの時、それが千年王国だと言える。
 その間、サタンは縛られている(故に、キリストを信じる人が起こされる)が、だからと言って、地上が天国の様になる訳ではない。何故なら、悪霊共は縛られていないからだ。そして、ついには、その教会時代ののち、サタンは解き放され、大暴れする(黙示20:4〜9)。
 そういう訳で主もパウロも、クリスチャンが携挙後に地上に降りて来てキリストと共に千年の間、地上を治めるという「千年王国」を語らないのである。携挙の後、すなわち、教会時代の終わりの時・地上が過ぎ去る時、キリストの支配が終わる。そして、それは定められていた事なのだ(Tコリント15:23〜25)。それによって遂に「最後の敵である死も滅ぼされる」(26)。永遠の世界・新天新地の始まりだ。それらは全て、神の支配の下でなされる事である(27〜28)。私達はただ従うのみだ。再臨・携挙・復活・救いの完成・永遠の命…この福音をしっかりと保とう。そして、神の子として今、霊的な王・祭司として、一人でも多くの魂の救いの為に執り成し祈ろう。




2023年11月26日礼拝メッセージ ヨブ記33章 「オレの話を聞け」 聴く メッセージは16分半頃からです。

 エリフは続けて「真心から」語る。「反論出来るならしてみてくれ」と(3〜5)。3人の友人達の様に抑圧的に決め付けるのではなく、ヨブと同じ立場・目線に立って、である(6〜7)。
 まずはヨブの主張を確認し(8〜11)、その後エリフの主張が展開される。「神は人より偉大だから、ヨブは正しくない」と(12)。裏返せば「ヨブは自らを神より偉大とした」という事である。具体的には、神が答えてくれないからとヨブが怒っている事を言っている(13)。何故なら、神は自分に答える義務があると考える(神に義務を負わせる)なら、それは自分を上に置いているという事になるからだ。だから、ヨブの怒りは立場をわきまえていない、とエリフは言う訳である。
 では神は一切、人に答えるつもりは無いのか。神に何を問いかけようが、祈ろうが、無駄なのか。「いや、神は答えている。ただ人間が気付かないだけだ」とエリフは言う(14〜18)。確かに実例がある(創世記20:3〜7)。あるいは、病を通して語られる事もある、とも(19〜22)。何やら、ヨブの事を言っている様な気がする。すると23〜24節の「御使いの様に遣わされた人」はエリフの事なのか。その執り成しによって神の憐みを得るなら、25〜28節は、まさしくヨブの後の姿(42章)だ。そうなると29節が大きな意味を持つ事になる。何故なら、ヨブのドン底からの復活の物語は「救いの道を示すもの」の一つなのだから、「神はそれを何度も行われた」という事になるからだ。事実、イサクしかり、ヨセフしかり。救いの予表を神は何度も示されていた。人の魂を黄泉の穴から引き戻し、命の光を照らす為だ(30)。
 実にエリフは、神を代弁するかの様に摂理を語る。故に「ヨブよ、聞け。黙れ」と言うが、言い返して欲しいともエリフは思っている。つまり「天国の希望」があるなら示して欲しい、という事だ(31〜32)。神はそれをヨブに持たせたいのだし、エリフが神の使者ならばそれが当然エリフの願いでもあり「真心からの言葉」である。
 聖書が常に「聞け、知恵を得よ、悟れ」と言うのは何故か。救いを得させる為だ。だから、その為に、御言葉は聞き続けるべきなのである。そして御霊によって真理を悟って、救いへと導かれよう。



2023年11月19日礼拝メッセージ Tコリント15:12〜22 「信仰の実質」 聴く メッセージは18分過ぎからです。

 「復活は無い」という主張、それは明らかに福音に反している。そして、もし復活が無いなら、宣教・信仰は実質の無いものとなる(14)。
 では、信仰の実質とは何か。言い換えるなら、キリストを信じたらどうなるのかという事だ。もし、信じてもどうにもならないならば、それは中身が無いという事である。果たして、信仰の中身・実質とは?
 ある人は言う。信じたら人生が豊かになる。病気が直る。金持ちになる、と。確かに、そういう事もあるかもしれない。しかしそれはキャラメルで言えば、オマケの方だ。実質とは言えない。キリストを信じる信仰の実質、それは、天国で新しい体に復活する事である。それを「救われる」(救いの完成)と言うのだから。ゆえに「復活は無い」と言う事は、信仰の実質が無いものになるという事なのだ。それどころか、復活が無いと言うなら「(キリストの復活を含む)福音を語る」事は神に逆らう事にもなる(15)。仮に、キリストの復活は信じていたとしても、自らの復活(天国)を目標としないなら哀れだ。キリストの復活は、信じる者の復活を約束する為のものなのに、地上での繁栄しか考えないなら一体何の為にキリストを信じたのか、信仰の実質は何処に行ったのか、という事だ。だから、天国(新しい体への復活)を目標としない信仰は、空っぽの信仰であり、神に逆らう信仰なのだ。どんなに熱心でも。たとえ奇跡を行っても(マタイ7:21〜23)。
 しかし、キリストは初穂として甦った(20)。実際には先に、ラザロや旧約時代にも生き返った人はいた。しかし、キリストは栄光の体に復活した初穂だという事である。そして、それはアダムが失った「栄光(不死)の体を取り戻せるようになった」という事だ(21)。それが、キリストの復活によって、信じる者に与えられた「救い」なのである。
 すなわち、と22節。「キリストによって生かされる」とは、私の内に生きておられるキリストによってこの世を生きる(ガラテヤ2:20)のみならず、この世を出た後も、キリストによって生かされる事をも意味する。その為にキリストは栄光の体に復活して下さったのだ。
 そういう訳で、信仰の実質は、天国で栄光の体に復活する事である。この福音をしっかりと保って、救いの完成を自分のものとしよう。










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