2019年10月1日、玄武書房より全国発売されました。アマゾンにて購入いただけます。画像をクリックすると購入ページに飛びます。



 以下、礼拝メッセージの要約と共に音声もお聴き頂けます。
                      
2024年12月22日礼拝メッセージ マタイ21:18〜22 「あのため、このため、何のため?」 聴く メッセージは15分半からです。





2024年12月15日礼拝メッセージ Uコリント11:1〜6 「見事に、こらえて」 聴く メッセージは13分からです。

 「こらえて欲しい」と言いながら「いや、こらえている」とは、どういう事か。「と言うのも」との説明によれば「コリント教会を穢れ無き清純な(純粋な信仰を守り通す)花嫁としてキリストに捧げたい」のだと言う(1〜2)。しかしパウロの心配は、教会がキリストに対する真実と貞潔を失う事だ(3)。何故なら、偽使徒達が教会に入り込んでいたからである。だが教会は、何とか純粋な信仰に踏みとどまろうとしている(4)。それが1節の「こらえている」の意味だ。ただし、何とかこらえてはいるものの、もしかしたら惑わされるかもしれない…という心配もあるので、パウロは「私こそ真実な福音を語る真の使徒だ」と誇るのを「こらえて欲しい」と言うのである。
 それゆえに「私は、あの大使徒達に劣っていない」とパウロは言う。「たとえ話は巧みでないとしても、知識がある」と。すなわち、福音についての知識だ。勿論、それはペテロ達も聖霊によって悟らされてはいる。だが福音は、旧約聖書が教える事・律法に基づくものであり、パウロは、その律法の専門家なのだ。その上、主イエスご自身から悟らされた…それが「劣っていない」という自信の根拠である。だから「あえて誇るけど、キチンと福音を教えるから、偽りに惑わされない様に、こらえて(純粋な信仰に留まって)欲しい」「万一にも思いが穢されて、キリストに対する真実と貞潔を失ってしまわない様に」と言うのである。
 私達も、その為には、エバの様に欺かれない事が必要だ。つまり「神は本当にそうおっしゃったのですか」という惑わしに気を付けるべきなのだ。エバは、神が本当は何を命じたのかを正確には理解していなかった。だから同じ様に今、大事なのは「キリストは本当は何と言われたのか」なのである。主は本当に「父なる神と同じ様に、完全な者になれ」と言われたのだろうか。「はい、そうです」と多くの人は惑わされている。「主が言われた通り、右を打たれたら左も出さなければいけないのだ。それがクリスチャンだ」という風に。
 私達は、主の教えの本当の意味を知る者となりたい。そして、キリストの花嫁として相応しい教会となれる様に祈ろう。



2024年12月8日礼拝メッセージ マタイ21:1〜17 「そんな神の宮」 聴く メッセージは13分半頃からです。

 ソロモン以降は馬が最上級の乗り物とされて来たゆえ、ロバは、その座を奪われ、荷物運び役に格下げとなった。しかも主が乗られたのは借り物の子ロバ。車で言えばレンタカーのリヤカーだ。つまり、人が乗るものではないという事である。ましてや王なるお方が。だが、それは実に、十字架で死のうとする王イエスのへりくだりを表していると共に預言(ゼカリヤ9:9)の成就である。そして又、預言(詩篇118)の通り群衆は「ホサナ」と叫んで王を迎えた。すると都中が騒ぎ立ち「この方は、どういう方なのか」といぶかった。何しろ、王と言えば、民を守る為に先頭切って戦うのが常だが、イエスは柔和で、神との平和を作って下さる王なのだ。所が、イエスに従って来たはずの人々は「この方は預言者イエスだ」と言う。主も格下げされてしまった。
 そのあと、宮清めだが、主は「私の家は祈りの家と呼ばれる、と書いてある」と言われた。確かに(イザヤ56:7)。だが主の行動はエレミヤ7:1〜15の成就だ。つまり、いけにえの売り買いや両替自体は悪くないし必要な事ではあるが、それを利用して不当な金儲けをしていたという事が「強盗の巣」と主が断罪なされた理由なのである。そして主は、盲人や足萎え(律法的には宮に入れない人々)を癒された。
 つまり「宮清め」とは「神の宮はどうあるべきか」という事を示す為のものなのだ。すなわち「祈り、神との交わり、神の御心が行われるべき所」だという事である。所が、宗教指導者達は、子供達が「ダビデの子にホサナ」と叫んでるのを見て腹を立てた。主の対応は「詩篇に書いてある通りだ」である。
 結局、ロバの子〜エルサレム入城〜宮清め…この一連の出来事は全て預言の成就だという事である。なのにイスラエルは自分達の王を受け入れなかったばかりか、神の宮を強盗の巣にして私腹を肥やしていた。そんな堕落した神の宮を清めたい、そして平和の王としてキリストを受け入れて欲しい…それが神の御心なのである。
 同じ様に、神の宮である私達も清めたいと主は願っておられる。偽りや堕落した信仰から。それによって、神との平和を築く…それが神の宮のあるべき姿なのだ。



2024年12月1日礼拝メッセージ Uコリント10:12〜18 「霊・信仰の成長」 聴く メッセージは15分頃からです。

 果たして、ここに霊的な教えはあるのか。かろうじて信仰の為になりそうなのが17〜18節だが「主にあって誇れ」とはどういう意味か。「主にあって」と言いさえすれば何でも誇っていいのか。実は口語訳では「『誇る者は主を誇れ』と書いてある通りである」であり、エレミヤ9:23〜24の引用である。要は「自分の力を誇るな。もし誇るなら、神を知っている事(悟り)を誇れ」という事だ。それをパウロは、偽使徒を想定しながら言うのである。彼らは仲間内で推薦状を書いたり自己推薦したり、限度を超えて自らを誇り、自分の領域でない(パウロが開拓した)教会に我が物顔で乗り込んで霊的に荒らしていた。だからパウロは「私はそんな事をしない」と言うのである(13〜14)。ただ、コリント教会が霊的に成長したら安心して次の領域に働きに行くけど、それは決して人の上前をはねる為ではない(15〜16)と言う。
 とにかく問題は「限度を超えて自分を誇る」という事だ。少し誇るくらいは良いとしても、それ以上に神を誇るべきである。では逆に「神を誇っていない」とは、どんな状態か。それは「信仰生活を楽しんでいない」という事だと言える。何故なら、エレミヤ9章が言うのは「神を信じている、崇めている、賛美している…そんな私は素晴らしい、と誇れ」という事だからだ。だから、例えばもし、真実な礼拝を喜び楽しめないなら、それは神を誇っていないという事になる。
 さて続いて「主に推薦される人こそ、受け入れられる人」だとパウロは言う(Uコリント10:18)。これは例えば、転勤等で教会を転会する時に、主の推薦状が必要などという事ではない。あくまでも「真の使徒とは誰か」という問題だ。つまり、偽使徒達は自分で自分を推薦してるだけだという事である。
 誇るのも、思い上がるのも、少しなら良い。だが限度を越えてはいけないのだ(ローマ12:3)。神から与えられた自分の領域を越えない様に、という事である。その事をパウロは「一つの体と多くの器官」に例えて教える(ローマ12:4〜8)。だから私達は、神が一人一人に託して下さった領域において熱心に働くものとされたいと願う。「そんな私は素晴らしい」と誇れ、と聖書は言うのである。



2024年11月24日礼拝メッセージ マタイ20:17〜34 「逆転」 聴く メッセージは15分半頃からです。

 逆転である。あとの者が先になる。それは十字架と復活においても言える。権力から迫害を受ける「弱い立場=あとの者」である主が、栄光の体に復活する最初の者「先の者」となられた。
 さて、受難告知を聞いた「その時」ヤコブとヨハネの母が「二人を御国で大臣にして欲しい」と願った。さすがに主も、それは拒否した。すると他の弟子達がその二人に腹を立てたので、主は言われた。「偉くなりたい者は、仕える者になれ」と。ここにも逆転がある。先の者(偉い人)が仕える者(あとの者)になるのだ。実は、それら逆転の極致・模範こそ、主イエスである。神であられるお方(先の者)が罪人(あとの者)として十字架で死ぬのである。そしてなんと、聖い神の御子が死ぬ事によって、罪ある人間が救われる道が開かれたのだ。
 その後、二人の盲人が主に憐みを求めて叫んだ。主は「何をして欲しいのか」と問われたが、盲人は当然「目を開けて欲しい」と答える。すると主は、可哀想に思ったというのである。はて、何が「可哀想」なのか。二人が盲人なのは初めから分かっている事なのに今更だ。
 鍵は直前だ。二人の弟子の求めに対して主は「自分が何を求めているのか分かっていない」と言われた。一方、二人の盲人は地位・権力ではなく、神の憐みを求めた。だから主は「可哀想に思った」…それは新共同訳では「深く憐れんだ」である。盲人達が憐みを求めたのだから、それが当然だ。つまり、盲人達は正しいものを求めたのである。
 弟子達は、地位・権力を求めたが、退けられた(あとの者となった)。盲人達(弱者=あとの者)は憐みを求めたがゆえ、神の深い憐みを受ける(先の者)となった。この様に、この一連の物語は(盲人の癒しの奇跡も含めて)全て、逆転を表しているのである。
 そういう訳で、求めるべきは、神の憐みだ。癒し、富、祝福…を第一に求めるのは、ともすれば自分本位な願いとなる。御国で大臣に…と願った弟子達と同じだ。退けられて「あとの者」とされるだろう。そもそも私達は、神の憐み(悔い改めた者を救おう、という憐み)のゆえに救いの道を与えて頂いたのだから、その驚くべき神の憐みの深さに感謝しつつ、更に神の憐みを求めよう。



2024年11月17日礼拝メッセージ Uコリント10:7〜11 「恐るべき・・・再び」 聴く メッセージは16分半頃からです。

 パウロのうわべ(推薦状を持っていない、とか)だけを見て、パウロの使徒性を否定し、軽んじる…そんな、真実を見ようとしない人々にパウロは「もう一度よく考えなさい」と言う(7)。つまり、もし自分が、たとえダメなクリスチャンであったとしても「キリストに属している」と確信しているなら、尚の事パウロもそうなのであり、うわべの事(使徒らしくない、とか)だけで、どうして(自分の事を棚に上げて)パウロの使徒性を否定するのか、という事だ。
 そこで8節。「与えられている権威をチラつかせるのも悪くはないだろう」という様な主旨だ。勿論パウロは、教会を倒したいのではないが、神から与えられた権威を以て、除名・追放などの処置をする事も出来る。だが、その権威をチラつかせて脅しているように思われたくはない、と言う。(8〜9)。言い換えれば「パウロが強気なのは手紙だけだ」などと思うなという事だ。実際、そう思われていたから(10)釘を刺して言うのである。覚悟しておけ、と(11)。これは分かりにくいが、新共同訳では「離れていて手紙で書く私達と、その場に居合わせて振る舞う私達とに変わりはありません」だ。つまり「手紙では重々しいパウロも、面と向かっては弱々しく見えるパウロも、どちらも同じ権威を持っているパウロである」という事だ。だから「侮ってたら痛い目を見るぞ」と言いたい訳である。それが7〜11節の話の内容だ。
 ただ、パウロの願う事と、与えられている権威は、教会を倒す為ではなく立て上げる為なのだから、本当に強気な態度に出ないで済む様にして欲しい(2)という事、それが文脈なのであって、出来る限り、権威の行使・処罰等はしたくないのである。しかし、それでもダメなら、仕方がない。覚悟しておけ、という訳だ。
 さて、これもまた、恐るべき神の裁きの予表だ。「神は愛である」だけでなく「神は裁き主」なのである。神を侮る者・真理に背を向ける者を、最後の最後には容赦なく地獄に放り込む…それが、パウロとコリント教会の関係性の中に預言的に表されているのである。
 そんな事にならない様に、私達は、神を畏れ、真理を愛する者となろう。



2024年11月10日礼拝メッセージ マタイ20:1〜16 「損得」 聴く メッセージは15分半くらいからです。

 朝早くから働いた人と一時間しか働かなった人、どちらも報酬は同じ1デナリ。不公平だ、と誰もが感じる。結局、結論は「あとの者が先になり、先の者があとになる」だ。果たして、納得出来るだろうか。
 そもそも、この喩え話は何故に語られたのか。それは実は「あとの者が先になり、先の者があとになる」(19:30)事の説明の為なのだ。それも「天国はそんな所だ」という事ではなく「主人(神)は、そういうお方だ」という事を描いているのである。すなわち、神は労務者を熱心に探す。それは「神のしもべ(信仰者)になる人を探している」という事だ。そして、神の招きに応じて、しもべとなった全ての人に同じ恵みを施す…そう考えると、神は素晴らしいと思える。
 最大の問題は、損得だ。朝早くから働いた人と一時間しか働かなかった人、どっちが損(得)か。但し、これは実社会の話ではなく、信仰の話だ。つまり、若い頃に救われるのと年老いてから救われるのは、どっちが得なのかだ。確かに若い頃に救われたら、主に仕える時間も長くなるし、信仰の戦いも大いにあるだろう(12)。それゆえに「死ぬ間際になったら信じる」と言う人さえいる。しかし、早く信じた方が希望と平安と安心がある人生を長く送れる。その点、遅く信じた人は、本当の平安・喜びの無い人生を長年過ごす事になる。それを表すのが、夕方に雇われた人だ。彼は一日中、仕事の無い不安と焦りに苛まれた(6〜7)。だから、早く雇われた人の方が、喜びと希望に満ちた一日を過ごせた分、得なのである。
 では、遅く信じた人は、哀れな人なのか。いや、早く信じた人にも遅く信じた人にも、同じ報酬(天国)が与えられるのだ。それは、どれだけ働いたか(行い)に対する報酬ではなく、神の招きに応じた(キリストを信じた)事への報い・恵みなのである。中には、病床で信じたのち一度も教会の礼拝に出席する事なく召された人もいるかもしれない。まさに夕方5時に雇われた人であり「あとの者が先に」なったという事だ。実に、それを説明する為の喩えなのである。勿論、先の者への報いもある(19:29)。とにかく、信仰歴・働きの大小に拘らず、皆に等しく神の子の特権を与えて下さる神に感謝だ。



2024年11月3日礼拝メッセージ Uコリント10:1〜6 「恐るべき予表」 聴く メッセージは18分からです。

 自虐的と思える1節。その真意は「面と向かっても強気でいられるけど、むしろキリストの柔和と寛容を以てお勧めする」という事である。何を勧めるのか。それが2節だ。すなわち「本当に強気な態度に出なくて済む様にして欲しい」という事である。つまり、コリント教会の出方次第では厳しい態度で臨む事になるかもしれないという事だ。
 続く3節でパウロは「私達は肉に従って歩んではいない」と言う。しかし「肉にあって歩んでいる」事は認めている。違いは何か。肉にあって…は「肉ゆえの弱さ、限界がある…その中で歩んでいる」という事(人間誰でもそう)だが、肉に従って…は「肉ゆえの罪・欲に従って歩んでいる」という事、そんな歩みをパウロはしているという誹謗中傷に対する反論だ。更に「肉に従って戦ってはいない」と、偽使徒達(自分の欲・利得・肉に従って宣教活動をしている)との違いを主張する。パウロの戦い、その武器は「肉のものではなく、神の御前で要塞をも破る力のあるもの」だ(4)。それは真実な福音の事である。死と霊的盲目という難攻不落な要塞をも破る、それが真実な福音の力なのである。偽りの福音にそんな力は無い。そして真実な福音は「全ての偽り・人間的な思いを打ち砕き、キリストに従う者へと作り変える」のである(5)。しかし、それでも不信仰で逆らう者に対しては処罰する用意が出来ている、と言う(6)。これは未信者の事ではない。真実な福音に逆らう不信仰なクリスチャンに対しての言葉だ。実際にコリントの、ある信徒達に対してパウロは、除名・追放という厳しい処置を行う用意はあったのである。ただ、そうしなくて済む様にして欲しいという事だ。
 これは、恐るべき予表である。最後の審判の時、同じ事が起きるのだ。真実な福音に背中を向け続け、偽りの教えから離れなかった教会は厳しい処罰を受ける。そして主は「そうしなくて済む様にして欲しい」と願っておられるのである。だから今の内に、真実な福音を見出して掴まなければならない。今は、それが出来る「恵みの時・救いの日」だ。肉にあって歩んではいても、肉の欲に従う信仰にならない様に、御霊に満たされて歩める様に、主の助けを求めよう。



2024年10月.27日礼拝メッセージ マタイ19:27〜30 「すべては報われる」 聴く メッセージは15分頃からです。

 金持ちの青年が、富を捨てる事が出来ず悲しんで去って行った。そこでペテロは「自分達は全てを捨てて従って来たんだから、ご褒美貰えますよね」と言う訳である。とんだ見当違いの主張だ。
 そこで主は言われた(28)のだが、これは、天国で12使徒(この時点ではユダも含む)がイスラエルの12部族を裁くという事なのか。いや「私に従って来たあなた方」と呼ばれる為には、途中までではなく最後まで従い通すべきだ。当然ユダは除外される。だからこれは、12使徒の事ではなく、真の弟子・クリスチャンの事と考えるべきだろう。
 だが、イスラエルの12部族を裁くとは? 異邦人クリスチャンは裁かれない? それ以前に、天国でも裁かれるのだろうか? これは一体どういう事か。
 まず「主が栄光の座に就く時」だから「就いた後」ではない。つまり、天国が始まってから裁きがあるのではなく、天国が始まる際に裁きがなされるという事だ。その時、主イエスに従い抜いた真の弟子達が、不信仰なイスラエルを裁くのだ。と言っても、裁き主は神であって、真の弟子達はその時、神の側に立って、その裁きを見るのである。それが「主に従い通した者への報酬」だという訳である。だから決して、12使徒が天国で大臣になるという事ではない(マタイ20:20〜23参照)。
 また「捨てたものはその幾倍も受ける」(29)と言われた。確かに、もしかしたら、信仰の為に勘当されるという事があるかもしれない。その様な、信仰ゆえの苦難があったとしても、その辛さ以上の報いが天にあるという事だ。
 だから「何が貰えるか」と心配する必要は無い。主に従って生きる事に損は無いのだから。彼に信頼する者は失望させられる事が無いのだ。ゆえに、宝のある所・天に心を向けよという事である。
 ただ、先の者が後になり、後の者が先になる(30)。宗教指導者達より、罪人が主を信じた様に。選民イスラエルより異邦人がキリストを受け入れた様に。昨日信じたばかりの人が、アッサリと天に召される様に。しかし、早くに信じ、長年主に仕える…その労苦に報いはあるのだ。だから主に信頼して、忠実に主に仕え続けよう。


2024年10月20日礼拝メッセージ Uコリント9:8〜15 「言葉に表せない賜物」 聴く メッセージは16分からです。

 8〜11節は「沢山献金する事が出来る様に、神様がお金を増やしてくれる(金持ちにしてくれる)」と言っているかの様だ。10節では「種(献金)を蒔いても食うに困らず、種も増える」と言っている。「だから捧げなさい。元手は増えるから」という事か。「献金は額ではなく心だ」という話はどこに行ってしまったのか。
 勘違いしてはいけない。献金は、自分が豊かになる為のものではない。パウロが教えているのは、貧しい教会を助ける為の献金だ。それによって平等になる事を目指しているのである。だから「捧げたら祝福される(富が増える)」という考えは、献金を「先行投資」の様なものにしてしまっているという事だ。確かに神は「あらゆる恵みを溢れるばかり与える」(8)とあるが、それは「お金が増える」という事なのか。それが「義の実を増し加える」(10)という事だろうか。いや、結果的に増し加わるのは「神への感謝」だ(11)。つまり、貧しい教会が助けられ平等になるからこそ、神への感謝が増し加わるのであって、それこそが「捧げる事の祝福」なのである。そして、その神への感謝を通して「この奉仕の業」すなわち「弱い教会への助け」が満ち溢れるのだ(12)。それを証拠として…と13節。何の証拠か。「キリストの福音の告白に対して従順である事」の証拠、それが「貧しい教会への献金」だという事である。つまり「豊かな所から乏しい所へ」それがキリストの福音(8:9)であり、それに従っているという事だ。だから「自分を豊かにする為の献金」も「リターンを期待しての献金」も、キリストの福音の告白に従順ではないという事になる。
 13節の「惜しみなく与えている」は、脚注にある通り「分かち合っている」が良いだろう。14節「コリント教会に与えられた絶大な神の恵み」とは何か。捧げた何倍ものリターンがあったのか。いや「乏しい教会を助ける事が出来た」という事が「絶大な神の恵み」なのである。だからこそ、助けられた教会から慕われると言うのだ。
 最後にもう一度、「豊かな所から乏しい所へ」というキリストの福音…それこそが「言葉に言い表せない程の賜物」(15)であり、それゆえに神に感謝するとパウロは締め括るのである。



2024年10月13日礼拝メッセージ マタイ1913〜26 「誰が、天国に入るのか」 聴く メッセージは14分半からです。

 テーマは「誰が天国に入るのか」である。主は、子供達を指して「この様な者達が…」と言われた。子供の様な=自分の力に頼る事の出来ない=神にすがるしかない…人の事だ。すると「どんな良い事をしたら救われるのか」と問う青年が現れた。自分の行い・力に頼っている(子供とは対照的な)人だ。そこで「もし完全になりたいなら」という事で「財産を施せ」と主は言われた。だが、青年はそれを出来なかった。理由は、青年は勿論、当時の人々が「神に義と認められて祝福された、それが金持ち」だと考えていたからだ。つまり、自らの力「行いによる義」を捨てられなかったのだ。だから主は言われたのである。金持ち(行いによる義に頼る人)は救われない、と。
 「では誰が救われる事が出来るのか」との弟子達の質問に対して主は「神にはどんな事でも出来る」と答えられた(23〜26)。確かに、そうだろう。だが、それは、あくまでも「神には救える」という意味に限定すべきだ。でないと、ここでの議論が無意味になる。何故なら、神はラクダを針の穴に通す事が出来るからだ。しかし、そんな事はしない。それ故に、それ以上に、金持ちは救われないと言うのだから。その前提を崩してはいけない。あくまでも、神には何でも出来ると言うのであるなら、何故、青年は悲しんで去らなければならなかったのか。全能の神が救ってやればよいのだ。だから、ここは「神には救える」という意味に限定しなければならないのである。神は全能であるという事は、神は何でもしてくれるという意味ではない。
 さて「神には救える」…どうやってか。「行いによる義」では救われない。しかし「行いによる義」に遥かに優るものがある。「信仰による義」だ。それは、罪の性質の残ったままの(不完全な)者をも義人としてしまえるのだ。
 だから「誰が天国に入るのか」というテーマ…その答えは、子供の様な=自分の行い・力に頼らない=天国に入る為には、ただ神に(十字架による贖いに)のみ頼る…人なのである。それが聖書の教え…その中心・福音だ。この箇所でさえ、それを教えているのである。その神の救いの業に頼って、御国へまっすぐに歩もう。



2024年10月6日礼拝メッセージ Uコリント8:16〜9:7 「頑張らなくても」 聴く メッセージは15分過ぎからです。

 豊かな所から乏しい所へ…それがここでパウロが言う献金の本質だ。コリント教会は、それをやろうとしたのだから、やり遂げなさいとパウロは語って来た。だから献金を集めて用意しておいてくれと言うのである(8:16〜24)。何しろ、それはコリント教会が最初に始めた事で、それを皆が見倣っているんだから、言うまでもない事だ(9:1〜2)。だから、献金を用意しておいてくれないと困るという事である(9:3〜4)。
 そこで問題は5〜7節だ。「献金を惜しむな。捧げれば捧げるほど神に愛される。豊かに蒔けば豊かに刈り取る」のだ、と教会では教えられるが、それは、ここでの献金の趣旨に沿っているだろうか。
 文脈から考えれば「好意に満ちた贈り物」とは「エルサレム教会を助けたいと思う心での献金」のことだ。言い換えれば「豊かに蒔く」という事である。すると「少しだけ蒔く」とは「惜しみながら捧げる」事を意味するのであって、要は、献金は額ではなく心だ(9:7)という事である。だから「喜んで与える」は、献金額の多い事ではなく、好意に満ちて(好意が豊かに表れて)捧げる事なのである。そういう訳で、沢山捧げれば捧げるほど神に愛される…は間違いだという事になる。「豊かに蒔く」=「好意に満ちて、喜んで」という事だ。それがパウロのメッセージである。
 さて、パウロは確信して(疑いなく信じて)いた。コリント教会が献金を用意しておいてくれる事をだ(3〜4)。しかし、恥をかきたくないから「用意しておくように。やると言った事はやれ」と念を押すのである。確信していても、必ずそうなるとは思っていないのだ。何故なら、それはコリント教会への信頼であって、御言葉への信仰とは違うからだ。信じた通りになるのは聖書の約束だけである。それ以外の事を勝手に信じ込んでも、恥をかく事になるかもしれない。聖書は「何でも信じろ」と教えてはいないのだ。
 ここで聖書が教えているのは「好意に満ちて捧げる人を神は愛して下さる」という事だ。必死で頑張って引きつった笑みを浮かべて大金を捧げる人を…ではない。喜びは、外面的に作るものではなく、内側から湧き上がるものである。そんな喜びを主から頂ける様になりたい。



2024年9月29日礼拝メッセージ マタイ19:1〜12 「拠り所」 聴く メッセージは13分過ぎ頃からです。

 4〜6節の主の言葉から「離婚禁止」と教会は考える。しかし、9節を見ると、ある場合には許可だと言えるのではないか。それはパウロも言っている(Tコリント7:15)。では、4〜6節の意味は何か。それは、原則的に結婚は、離婚する事を前提にするものではないという事だ。つまり、パリサイ人達に対して「離婚する方法ばかり考えているのはおかしい」と批判する為に語られているのである。
 聖書が教える「夫婦」とは、男と女…それが神が決めた事である。それ以外のカップルは(一緒に暮らすのは自由だとしても)夫婦とは呼べない。だが、法律上の保護(夫婦と同等の法律上の権利)を与えるのは、今の時代(特に、神なき世界)では仕方ないだろう。
 さて「ではモーセは何故、離婚状を渡して妻を離別せよと命じたのですか」と、パリサイ人達は問う(7)。主は「あなた方の心が頑なだからだ」つまり、罪があるからだと答える(8)。初めは、アダムとエバに罪は無かった。その時は、名実共に一心同体だった。だが罪が入ってからは、彼らでさえバラバラになった。それ以来、夫婦はもはや一心同体ではなくなってしまっている(罪がある)という事だ。それで、やむを得ない場合は離婚も、しょうがないという事なのだ(9)。
 それに、モーセが「離婚状を渡して妻を離別せよ」と命じたのは、勝手な理由で妻を追い出していた男達への戒めの為であって、女性を守る為に「離婚状を渡せ」という事なのだ。離婚状があれば女性は再婚出来て、路頭に迷わずに済むからだ。
 そういう訳で主は、離婚は罪だなどとは言っておられない。勿論、離婚しないで済むならそれに越した事はないが、現代ではむしろDV等、離婚した方がいい場合が多いのかもしれない。
 だが、男尊女卑の時代・社会であった中で、弟子達も不満に思った(10)。しかし、独身者でいる事は誰にでも出来る事ではない、と主は弟子達の不満を退けられた(11〜12)。自発的に独身を通したのはパウロぐらいではないだろうか。
 とにかく、要は、男の身勝手な離婚を戒めているのである。そして、結婚は離婚を前提に行うものではないという事だ。



2024年9月22日礼拝メッセージ Uコリント8:1〜15 「富から貧へ」 聴く メッセージは15分半頃からです。

 献金という実にセンシティブな事柄についてであるがゆえに、注意深く取り扱う必要がある。まず基本的に、拝金主義は固く否定されるべきだ。お金を集める事が教会の目的ではない。敬虔を利得の手段とするなら、その人は知性が腐って真理を失っている、と聖書は厳しく責める(Tテモテ6:5)。
 そうは言っても、献金は善いものである。だが「神様の為に」という大義名分を振りかざして広く諸教会に訴え、集められる献金は、本当に神様の為なのか、という疑問は残る。あえて言えば「人のふんどしで相撲を取る」という様な事になってしまってはいないかという事だ。共有すべき事とそうでない事の区別、ケジメが必要であろう。
 そこで、この箇所での「献金」はどの様なものか。ポイントは2つ。まず10節…コリント教会は自ら率先して献金を集め始めた。エルサレム教会を支援する為だ。それをパウロは、神の恵み・交わりの恵みと言うのである(1〜5)。そして、それは素晴らしい事だからやり遂げなさいと言う(6〜7)。と言っても、献金を命令しているのではない(8)。ただ、やると言った事はやれ(11)という事だ(マタイ21:28〜31参照)。
 もう一つのポイントは、14節…コリント教会は比較的裕福だった。が、エルサレム教会は様々な事情で非常に困窮していた。だから彼らの欠乏を補うようにというのが、ここでの「献金」の本質である。つまり、裕福な(大きい)教会が、貧しい(小さな)教会を助ける為に献金しなさいという事だ。それで平等になる、と言うのである。
 では9節の意味は何か。それは、主がご自身の富を与えて下さったゆえに私達は霊的に富む者となったという事だ。これもまた「富む所から貧しい所へ」の型通りであり、ここでの「献金」の本質である。
 勿論、それ以外の献金の在り方はある。例えば、礼拝での献金は、それそのものが礼拝であって、純粋に「神様の為に」と捧げられる。また、個別の教会の内部において、必要(リフォーム等)の為に献金を要請する事もあるだろう。いずれにしても、共通するのは「持っている程度に応じて」(12)だという事である。不当な献金要請は悪しき事である。献金は、正しく行われるなら「善いもの」なのだ。



2024年9月15日礼拝メッセージ マタイ18:21〜35 「違います」 聴く メッセージは15分少し前頃です。

 1万タラントは約6000億円だ。それ程の借金を赦してもらったんだから、あなたも人を赦せ…と教えられるが、それは間違いだ。
 と言うのは、この「王としもべ達の清算」の譬えは、15〜20節の延長線上にある21〜22節からの展開であるからだ。つまり、勧告を聞き入れたら(悔い改めたら)赦して受け入れよ(15)という主の教えに対してペテロは「何度まで?」と問うたのであり、その答えが22節…すなわち「悔い改めると言うなら」(ルカ17:4)という条件付きの赦しなのである。決して、無条件にどこまでも赦せという事ではない。
 そういう訳で23〜35節は「悔い改めるなら赦す、それが天の御国だ」という事を教える譬えなのである。具体的には、しもべが返済出来ない借金を赦された理由は、自分の非を認めて心を入れ換える事(払えない→払います)を表明した(悔い改めた)からだ(26)。主人は、その心に免じて赦してやった(27)。所が彼は、間違った生き方のままだった(28〜30)。何が間違いか、それは、必死で借金を返そうとしているところだ。悔い改めたから赦されているのに、尚、自分の力で赦されようとしているのである。つまり、福音ではなく行いによって救われようとしているという事だ。それで主人は「悔い改めたはずではなかったか」と指摘する(32)。そして、自分がしてもらった様に、悔い改めた者を赦すべきだと(33)。だから、この大借金のしもべは、悔い改めの実を結ばず律法に生きるクリスチャンを表しているのである。
 彼は、悔い改めたときに赦された借金を再び負わされるのである(34)。つまり、一度信じて赦され救われたとしても、道を誤るなら、赦しを剥奪されるという事だ。聖書は「純粋な信仰を守り抜くなら…その為に最後まで耐え忍ぶなら、救われる」と教える。
 だから35節は「無条件に赦せ」という事ではない。「悔い改めた人を心から赦さないなら…」という事である。それが15節からの話の流れ(悔い改めた者を兄弟として受け入れよ)であり、悔い改めないなら教会から追放(17)という決断は、34節に通じるのである。その判断・決定の場に主も共にいて承認する(18〜20)のだ。そのとき、ペテロが「では何度まで?」と…話は繋がっている事を知るべきである。



2024年9月8日礼拝メッセージ Uコリント7:4〜16 「悔い改めと信頼」 聴く メッセージは14分過ぎからです。

 パウロの、コリント教会に対する信頼は大きく、全幅の信頼を寄せると言う(4、16)。それまで語って来た「信頼関係の修復」を求める切なる言葉はどこに行ったのかと思えるほどの変わり様だ。
 論理的に考えよう。まず、何故パウロは教会を信頼すると言うのか。それは教会が(Tコリントで指摘された問題を)悔い改めたからだ。しかし、まだ根源的な問題が残っていた。それで「神の和解を受け入れなさい」とUコリント6章までで迫って来た。その直後に「信頼する」とは、どういう事か、それは「今度もまたきっと悔い改めてくれるに違いない」という希望・期待・パウロの自信なのだ。
 では何故、そんなにコリント教会に対して信頼する事が出来るのか。当時、信仰の破船にあってしまった人達もいるのに(Tテモテ1:19〜20)。それは、コリント教会がパウロからの(第一の)手紙を読んで、心を刺され、神の御心に沿って悲しんだからだ(9)。その悔い改めは、救いに至る悔い改めを生じさせ、熱心な信仰を起こさせる(10〜11)。
 その事についてパウロはテトスに予め、誇りつつ語っていた。「この手紙でコリント教会は必ず食い改めてくれるに違いない」という様な事を。そして事実、その通りになったので恥をかかずに済んだと胸を撫で下ろしていたのだ(12〜15)。その喜びで書かれた手紙がUコリントであって、だからこそ今度もまたきっと…と期待し、信頼するというのである。教会は今度もまた悔い改めて「神の和解・真実な福音」を受け入れてくれるに違いない、と。
 最終的に、コリント教会は悔い改めたのか(神の和解を受け入れ、偽りから離れたのか)は分からない。少なくとも、ヒメナオとアレキサンデルの様な人達もいたのだから、コリント教会も脱落する可能性は無きにしも非ずだ。実際、その後の歴史の中で教会は堕落し、古の繁栄の神学は今も益々盛んだ。悔い改め…それは教会の歴史的課題だ。
 クリスチャンは一度、神の御心に適う悔い改め(キリストを信じ従う生き方へと方向転換)をした。ならば神は、私達を信頼し、期待しておられるだろう。真実な福音(キリストの言葉の本当の意味)に留まる事を。私達は、その期待に応えて、悔い改めの道を歩み続けたい。



2024年9月1日礼拝メッセージ マタイ18:15〜20 「神の臨在」 聴く メッセージは14分半頃からです。

 教会戒規(15〜17)が何故、突如ここに出て来るのか。いや、文脈がある。それは、小さく弱いクリスチャンが躓かされて滅びるのは父の御心ではない、信仰に留まってくれる事を喜ぶ(1〜14)という事だ。だから、除名・追放…も、悔い改めのチャンスを与える為なのである。
 問題は19節。二人が心を一つにして祈るなら、どんな事でも叶う…本当か。いや、これは、教会が何かを禁止したり許可したり…その判断・決定をする(15〜17)なら天でも承認する、という事(18)を「もう一度、告げます」と言うのが19節なのだ。つまり「二人」の証人(16)と共に教会が心を合わせて祈って決定した事(赦すか除名するか等)を、天の父は、教会が願った通りにしてくれるという事なのである。
 教会の決定・判断に、そこまでの権威がある理由、それが20節。その決定・判断の場に主も共にいて、それを導き、承認するからである。だから…2〜3人が心を合わせて祈れば何でも願いが叶う、と勝手に信じ込んでも、その願いは叶わない。
 御国に関する事・霊的な事柄において、教会は(主が共にいるなら)神の御心に適う決断をするはずであって、もし教会が悪を行うなら(免罪符、魔女狩り、クルセード…)その決断の場(教会)に主はいなかった(もはや教会ではない)という事だ。
 使徒15:28〜29で、神の御霊が教会の会議の場に同席し、ある決定を下した。その結果、ユダヤ人クリスチャンは、信仰に留まる事が出来た。これが「御国の鍵を使う」という事だ。同じ様に、教会戒規(マタイ18:15〜17)の過程の中で、悔い改めたなら受け入れる、ダメなら追放する…その判断・決定を天でも承認するという事を「もう一度、告げます」というのが19節なのであって、どんな願望も叶うのではない。
 基本的に、教会には主が共におられる。そうである限り、その教会の判断・決定は御心に適っているずだ。言わば、教会は、神の臨在があるかどうか、が命だ。逆に言えば、御心に背く決定・行動をするなら、そこに主はおられないという事だ。ゆえに、御心の表れである御言葉から離れてはいけない。御言葉の中にある神の御心を追い求めよう。その様にして、神の臨在して下さる教会であり続けたい。



2024年8月25日礼拝メッセージ Uコリント6:11〜7:3 「釣り合わぬ くびき」 聴く メッセージは15分半頃からです。


 神の和解・真実な福音を受け入れてほしいと、心を開いて懇願するパウロは、コリント教会の側も心を開いてくれる様にと信頼関係の修復に努める(6:11〜13)。そこで、続く14節だが、これは未信者との結婚を禁止する教えだとされる事が多い。文脈完全無視である。
 解釈は、自由ではない。「嫌い嫌いも好きの内」などという自己中心的な解釈を御言葉にまで適用してはならない。例えば、「私のくびきを負え」(マタイ11:29)と主は言われたが、主は「私と結婚してくれ」と言っているのだろうか。いや「くびきを負う」とは、結婚するという事ではない。事実、ユダヤでは、律法に従う事を「律法のくびきを負う」と言う。すると「不信者と釣り合わぬくびきを負うな」は「不信者の教えに従うな」という意味になる。特に、コリントの不信者=偶像崇拝者…彼らの宗教的ルールに同調するなという事だ。すなわち「霊的に聖められなさい」という事である。それは、パウロとの完全な信頼関係を築き上げる為…その文脈の中にあるのだ。そうすれば、神が共に住み、神が父となるという事である(6:14〜18)。
 では、教会は、どんなくびきを不信者と一緒につけていたのか。つまり宗教的に、どんな事を行い、同調したのかだ。それは「偽りの教えを受け入れる」という事である。それは不信者がやっている事で、真理の御言葉に立つ教会がやるべき事ではない。しかしコリント教会は偽使徒・偽りの福音を受け入れていた。まるで不信者がやっている事と同じ様にだ。その事を「不信者と、釣り合わぬくびきをつけるな。正義と不法とにどんな繋がりがあるか。キリストとベリアルとに何の調和があるか」と言っているのである。それを「未信者との結婚禁止の教えだ」とは笑止千万である。
 偽りからの分離=信仰的な聖めを保つなら救われる(6:14〜18)という約束が与えられているから聖さを全うしようとパウロは言う(7:1)。パウロへの中傷はデマだから心を開いて、と(2)。そのデマを真に受けた事を責めているのではない(3)と。パウロは心を大きく開いて、教会を神の愛の中に保とうとしている。いや、パウロを通して神が…だ。この、神の懇願を私達も受け取ろう。


2024年8月17日礼拝メッセージ マタイ18:1〜14 「小さい者≠子ども」 聴く メッセージは12分半頃からです。

 魚の口からスタテルが見つかった(17:27)、その時、弟子達は主に「天国で一番偉いのは誰か」と質問した。どういう脈絡か。主はそれに答えて「子どもの様になれ」と言われた。そうすれば天国に入れる、その人が天国で一番偉い人だ…という趣旨だ(8:2〜4)。
 子どもは、ユダヤ社会では「価値の無い者」とされていた。一般的にも、小さな子どもは権力や名声、財力も無い。その様な「自分の力に頼る術を持たない者」が天国に入れる…つまり、税金免除の特権とか、誰が一番偉いか等を自らの力とし、それに頼るなら、天国には入れないという事だ。だから「子どもの様になれ」と言うのである。
 次に5節。子どもなら誰でも…という訳ではない。「この様な」とある通り特定の子どもだ。それは勿論4節の、天国に入れる子ども、すなわち6節の「主を信じる小さい者」である。要は、名声や力に頼るのではなく、神に依り頼む信仰者であれという事だ。それが弟子達の質問への回答なのである。だから「子どもを大切に」「弱い人を助けよう」等は善い事だが、ここで主が言いたい事からは外れている。
 とにかく「小さな信仰者」を躓かせて滅びに追いやるな。躓きは忌わしい。滅びるより片手を失った方がましだ、と主は言う(6〜9)。しかし「躓きは避けられない」とも。つまり、小さな信仰者の中には、躓かされて、滅びに至ってしまう人がいるという事だ。その躓きの代表的なものが、偽りの教えなのである。
 続く10節も、弱く名も無い小さな信仰者を見下げるな、という事だ。力のある有能な人を重んじる傾向があるからだ。ただ主にすがるしかない人も、有能な人も、天においては差は無い。だから、天国で誰が一番偉いかを問う等という事は全くのナンセンスなのである。
 最後の12〜13節。迷い出た一匹の羊は、ここでは「失われそうなクリスチャン」の事だ。そして、その人が救いに留まる(回復する)のが喜びだと言うのである。裏返せばやはり、滅びに至る躓きを与える者は忌わしいという事だ。それは主の御心ではない(14)。
 私達は、自分の力に頼る事の出来ない「小さい者」として、主と真実な御言葉に依り頼み、救いに留まろう。それを主は喜ばれる。



2024年8月11日礼拝メッセージ Uコリント6:3〜10 「これが私!」 聴く メッセージは15分半頃からです。

 神との和解の務めを与えられたパウロは、その務めがそしられない為に、どんな事にも躓きを与えない様にと全力を尽くして来た。様々な迫害・苦難に遭おうとも怯む事なく(悩み苦しみながらも)忍耐し、使徒としての務めを果たして来た。敬虔を利得の手段とする様な似非伝道者には真似出来まい。さあ、パウロと偽使徒…どちらが信頼に足るか。どちらが信用出来るか。コリント教会は偽使徒を選んだ。しかし、神はパウロを選んで使節として派遣したのだ。
 更にパウロは、純潔と知識、寛容と親切…等(6〜7)によっても使徒として受け入れられるように努めた。また、褒められても高ぶらず、悪口を言われても腐らず、何とかして真実な福音を伝えようとした。
 引っかかるのは「人を騙す者の様に見えても」と言う所(8)だが、それは本当にそう見えていた訳ではなく、偽使徒への嫌味での言葉だ。つまり彼らは「羊を養う牧者」の様に見えても(事実そう見られていたが)実は偽り…「人を滅びに導く者」で、それに対してパウロ達は、気が狂ってると言われても真実だという事なのである。
 続いて「人に知られないようでも」神にはよく知られている(使徒19:15参照)という事。そして、何度死にかけても、罰せられても、コリント教会の事では悲しんだけども、天国の希望の故に、いつも喜んでいると言うのである(9〜10)。何よりも、「貧しいようでも」だ。パウロは事実貧しかった。けど、多くの人を霊的に富ませ、永遠の命の恵みをもたらした。パウロ自身「何も持たないようでも」人間に必要な「全てのものを持っている」…何が言いたいのか。それは「これが真実な福音だ」という事である。偽使徒達が教える様な「地上の祝福」とかではなく「天の祝福」、それこそが真の富だという事を分かって欲しい…それがパウロの願いなのである。だから彼は言う。「神の和解である真実な福音を受けいれなさい」と。そして、神と共にパウロは懇願する。「神の恵みを無駄に受けない様に」と。
 私達も「神に知って頂いている、永遠の命を持っている、苦難はあっても天国の希望の故にいつも喜び、貧しくとも生きる為に必要なものは全て持っている」(9〜10)…それが私だ、と言える者でありたい。



2024年8月4日礼拝メッセージ マタイ17:22〜27 「信仰と税金…?」 聴く メッセージは14分頃からです。

 何度目かの受難予告である(22〜23)。弟子達は非常に悲しんだ。主が去る事を弟子達は受け入れられないのだ。それは分からなくはないが、復活も予告されているのに、何故、そこは喜ばないのか。それは弟子達は、復活など信じていないからだ。
 十字架を理解せず、復活は信じない…弟子達は、この時点においては最悪…パウロが言う所の「世界一哀れな人」だ。そんな弟子達には悲しみしかない。復活・天国の希望が無いのだから。
 さて続く24〜27節は、受難予告と関係があるのか。それとも単に税金についての教えか。ペテロは宮の納入金を「納めます」と言ったが、主は「王の子らには納入義務が無い」と言う。これは「納入金」の理解の問題である。それは出エジプト記30:11〜12に基づく制度で、贖いの為のもの(納めれば災いに遭わないというもの)だ。つまりそれは、十字架の青写真なのである。だから、それはキリストには(クリスチャンにも)不要だ。何故なら、キリストは罪が無いお方、そしてクリスチャンは贖われた者だから…贖い金を払う必要が無いのである。だが結局は、納入金を収めた。それも魚の口から出たお金で。何故か。それは、所持金の中から普通に払ってしまったら、払うべきだと認めた事になるからだ。しかし、旧約聖書そのもの(十字架の青写真)を否定しない為に(人々に躓きを与えない為に)…なのである。
 ペテロが、十字架を理解せず、受難予告を受け入れないがゆえに、こんな問題が起きた。今でも「これは十字架に関連する教え」だと理解せず、単に税金についての教えだと考えるなら、聖書の重要なメッセージを失う事になる。この出来事に秘められた重要なメッセージ…それは「救われた者は、救われる為の行いは不要だ」という事である。すなわち、いい人になる事も、立派なクリスチャンになる事も、救いの為には必要は無いという事だ。
 ただし、何故救われたのか…を見失ってはいけない。それは勿論、十字架と復活を信じる信仰の故だ。だからその点において「純粋な信仰を守る事」は必要である。しかし、それは決して「行い」なのではない。あくまでも、信仰によって救われる…その為に信仰を守るのだ。



2024年7月28日礼拝メッセージ Uコリント5:18〜6:2 「今が、その時!」 聴く メッセージは15分半頃からです。

 ここでの「神の恵み」とは、祝福とか癒し・奇跡・守り…等ではなく「神の和解」の事である。だから受け入れなさいとパウロは言うのだが、果たしてコリント教会は、神と和解していなかった(救いを得てなかった)のか。コリント教会の一番の問題は何だったのか。
 それは、まずパウロは「キリストの使節」それも和解の言葉・務めを委ねられた神の使節だ。そのパウロを教会は、使徒として受け入れていない(偽使徒は受け入れるのに)、という事が問題なのである。
 和解の為の使節(パウロ)を拒むという事は、遣わした君主(神)を拒むという事であり、それは「神の和解」を受け入れないという事になる。それはまさに、神の恵みを無駄にする事であり、致命的な問題である。だからパウロは「懇願する」と言うのである(6:1)。
 仮にも教会なのだから、キリストを受け入れているはずだ。だが、そのキリストによる「神との和解=福音」を委ねられているパウロを何故受け入れないのか。偽使徒は受け入れるくせに。これは非常におかしな事だ。そんな事が起こるのは…人間的な標準で判断しているからだ。真実に基づく判断をしていないのである。だから「誰でもキリストにあるなら」そんな事はやめろ、と言うのである(5:16〜17)。
 今は、誰でも「キリストにある者」とされる事の出来る時代だ。キリストの十字架の故に、神との和解は、いつでも可能…「確かに、今は恵みの時、今は救いの日」なのである。なのに、和解の務めを担った使節パウロを受け入れない=神の恵みを無駄にしているのだ。せっかくの恵みの時なのにもったいない…それが6:1〜2の意味である。
 パウロからの手紙・指導を通して教会は、様々な問題・間違い…を悔い改めはしたが、根源的な所で大きな爆弾を抱えたままだった。真実な福音を探して見つけ出そうとしない、それを聞いても受け入れようとしない、偽りから離れようとしない、むしろ積極的に取り込む…致命的な爆弾だ。だからパウロは懇願する。そして、それは同時に、神の懇願でもある(5:20)。
 そういう訳で「受け入れなさい」と迫られているのは、未信者ではなく、教会である。神の恵みを無駄にしない為に、真実な福音を…。



2024年7月21日礼拝メッセージ マタイ17:14〜21 「神の子≠神」 聴く メッセージは14分半頃からです。

「信仰があればどんな事でも出来る」…その一例として「山が動く」が挙げられている。それは「聖書解釈の難問を解く」事のユダヤ的慣用句であって、本当の山が動くという事ではない。
 そもそも信仰とは何の為のものか。病を癒す為、悪霊を追い出す為、裕福になる為…そんな目的で持つものなのか。いや、信仰の目的は天国(神との和解)だ。「その信仰が死んでる」と主は弟子達に言われた。すなわち「からし種ほどの信仰も無い・命が無い」という事だ。言い換えれば「本来なら信仰はこうあるべき」という信仰が薄い、という事である(20)。では弟子達の信仰は、どんな信仰だったのか。
 その時、弟子達は既に悪霊を追い出す権威が与えられていた。そして、追い出しの成功体験もあった(ルカ9:1〜6)。しかし主は「喜ぶな」と言われた。勿論、癒しや悪霊からの解放自体は喜んでいい。しかし弟子達は、悪霊が自分に服従する事を喜んでいたのだ(ルカ10:17〜20)。まるで、自分が神になったかの様に「何でも出来る!」と高ぶったのである。主は、それを禁止された。そして、喜ぶなら天に名が記されている事を…と諭されたのだ。そう、クリスチャンは、赦されただけの罪人に過ぎない。たとえ癒しの賜物が与えられたとしても、それは自分の力ではなく、神の力だ。神の子になった=神になったのではないのである。(ただし、神の御子イエスは、元々神であるが)
 神と和解する為の信仰であるのに、「自分には何でも出来る」と自らを神格化し、神に敵対する…それを主は「不信仰な曲がった世だ」と嘆かれた。つまり弟子達は根本的な信仰から外れかけていたのである。それで「信仰が薄い、命が無い、死んだ信仰だ」と主は言われた。
 からし種のように小さくても命がある生きた信仰=本来ならこうあるべきという信仰(神との和解・信頼)があれば、神がその人を通して働かれる。そして神には不可能は無いのだから、神がなそうと思われる事(という特定の事柄においてなら)どんな事でも出来るのである。それはヨハネの教える「御心に適う祈りは聞かれる」(Tヨハネ5:14)に通じる。そういう風に、神に委ねる…それが神への信頼だ。そんな信仰を育もう。



2024年7月14日礼拝メッセージ Uコリント5:13〜17 「人間的な標準では…」 聴く メッセージは17分からです。

 偽使徒達が「パウロは気が狂っている」と悪口を言っていた事について「もしそう見えるなら、それは神に対して熱心だからであって、気が狂ってる訳ではない。むしろ、人に対しては正気で、適正に配慮している」と言うのが13節。何故なら「キリストの愛が取り囲んでいる」故に、逃げられない(キリストの為に生きる様にと捕まってる)からだと言うのが14節。そして「そうなる様にとキリストは死なれた」と言うのが15節だ。決して、神の為にならどんな非常識な事でも、気が狂ったように実行するべき…という事ではない。逆に、偽使徒達への批判である。つまり「彼らは狂った様に、信徒を滅びに導いている。キリストの為に生きるべきはずなのに全然新しくなっていない。キリストのしもべの振りをして、指導者ぶって、推薦状を欲しがって、尊敬されたくて、自分の欲の為に生きている」と。だから「もはや人間的な標準(知名度・見かけ・教会のサイズ…)で判断する事はしない」と言うのが16節。かつてパウロは、キリストと教会に対して人間的な標準で判断し、迫害した。だが「今はもうその様な知り方はしない」
 そういう話の流れでの17節である。つまり「もう人間的な標準で判断する事はなくなった」という意味だ。「古いものは過ぎ去って新しくなった」とはそういう事なのである。
 キリストを信じても、性格は大きくは変わらない。それは使徒ヨハネもそうだった(怒りっぽい性格のままだったという文献が残っている)。勿論、霊的には「古いものは過ぎ去って全てが新しくなった」というのは確かだ。滅ぶべき罪人から神の子へと変えられたのだから。それに加えて、ここでパウロが言いたい事は「誰でもキリストにあるなら、人間的な標準で判断するのはやめるべき。真理に基づく判断をするべきだ」という事である。御言葉に混ぜ物をして売る様な偽使徒達を受け入れるけど、真実な福音を語るパウロは受け入れない…そんな教会に対してのメッセージなのである。
 人間的な標準では、知名度、信徒数、教会堂の大きさ…それによって教会の善し悪しが判断される。しかし、大切なのは教えの純粋性だ。それに基づく判断をするべきである。誰でもキリストにあるならば。











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した所とは違う場所に流される。幸せ、健康、平安を目指すのに、苦しみ、病、問題に直面する。主が共にいて下さるのに、だ。何故か。私達は、パンの奇蹟(食事の面倒も見て下さる)から悟らなければならない。主は、私達の全ての面においてケアーして下さるお方だという事、主が共におられるなら大丈夫だという事を。それだけでも掴めば平安を得る。
 ゲネサレの人々は、弟子達のように、いつも主の側にいた訳ではない。知識もないかもしれない。けれど、主は力あるお方だという事だけは掴んでいた。12年の間病だった女性も、主の着物の端にでも触れば……と、イエスの真実(全能の神)、その一つの事を握っていた。
 私達も、聖書の全てを理解出来なくても、神の声が聞こえなくても、主は今も生きて、いつも共におられる全能の神だという信仰を掴もう。
神は、あなた方の事を心配(ケアー)して下さる、とTペテロ5:7は言う。たとえ逆風の時も、神の御心は、私達がその試練を通して強くなる事であり、主への信頼を学び取る事だ。
 信仰は知識だけで得られるものではない。困難や苦しみの度に、主に助けられ、心を支えられて、問題を乗り越えて行く、その体験によって信仰は強められて行くのだ。



2018年4月8日礼拝メッセージ 詩篇54 「密告・弁護・裁き」 聴く

 ジフ人がサウルにダビデの居所を密告した時の詩である。ダビデは52篇でもドエグに密告されていたが、いずれの場合も、その場所を襲われて死ぬことはなかった。神の守りであろう。だから私達も密告されても大丈夫、と言われてもピンと来ない。神は、この詩を通して何が言いたいのか。それは、救いについてである。
 クリスチャンは罪が赦され、神の子とされて、新しい体で天国に行ける。それが救い(の結果)だ。それを知らないクリスチャンはいないだろう。しかし、肉体の死ののち、すぐに天国なのか、紆余曲折あるのか、そのプロセスはどうなのかだ。
 黙示録21章は新天新地についてだ。その直前(天国に入る前)が20:11〜15の「白い御座の裁き」である。全ての死んだ人が神の前に呼び出されて、その行いに応じて裁かれ、ある者は「第二の死」地獄に至る。しかしこの時、クリスチャンの為に主が弁護して下さる(Tヨハネ2:1)。この世では、弁護団がついていても不当な判決が下される事がある。それゆえ詩人も必死に訴えているように見える(54:1〜2)。だが実は、新共同訳では「弁護」ではなく「裁き」を求める訳になっている。普通は裁かれたくはない。過剰な罰を避ける為に弁護士も雇う。しかし、裁きを求める理由は、神の裁きは正しいと知っているからだ。キリストを信じた者は救われる、という確信のゆえに、裁判において議論するよりもさっさと判決を下してくれということだ。
 こういうプロセスを経て、新天新地・天国に入るのだが、裁判は避けて通れない。その時、全ての行いが明るみになるのは恐ろしい事でもある。しかし、その恐れを取り除く、それが「救いの確信」なのだ。
 7節に「神は全ての苦難から救う」とあるが、本当か。救ってもらえず殉教した使徒達は敗北者か。いや、最後の裁きの、最悪地獄という恐怖、サタンの告発、密告、火の池、それら全てから救って下さるということだ。ゆえに「敵を眺める」ようになる、これも救いの確信だ。だからもはや律法が命じる(一時的な赦しを得る為の)いけにえは不要となる。むしろ、救いの確信のゆえに、自ら進んで捧げる「賛美のいけにえ」御名を称える唇の果実をもって神に感謝しよう。




2018年4月1日イースター礼拝メッセージ マタイ28:1〜15 「嬉しい日」 

 「事実は小説より奇なり」と言うように、時に、あっと驚くような事が真実であったりする。そんな時、多くの人が「信じられない! ウソだろ?」と言うように、事実は受け入れ難く、真実よりも嘘の方が「もっともらしく」聞こえるものなのだ。
 キリストの復活も、そうである。祭司長達は「弟子達が遺体を盗んだ」という巧妙なデマを広めた。「なるほど、さもありなん」と思える、実に上手い嘘だ。それで、『この話が広くユダヤ人の間に広まって、今日に及んでいる』。けれども、キリストの復活は歴史的な事実だ。にわかには信じ難いことかもしれない。だからこそ、もっともらしい(弟子達が盗んだという)嘘が信じられて、真実は隠されてしまったのだ。それは進化論も同じである。サルから人間へと進化した(サルが人間の先祖)という説の方がもっともらしい。なるほどと思えるのだ。しかし、人類の先祖という類人猿の骨は皆、偽物である事が暴かれている。それでも、神が人間を造ったという驚くべき真実よりも、嘘が広まっているのだ。
 村上一夫(ノーベル賞候補にもなった遺伝子研究の権威)はクリスチャンではないが、言う。「遺伝子には、とてつもない情報が書き込まれている。それは神の業だとしか言いようがない」と。神こそ命の源、それが最新の科学の結論なのだ。その「命の源である神」が、死ぬべき人間を救おうと計画された。それがキリストの十字架であり、よみがえりだ。主は言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです』(ヨハネ11:25)。と。
 「死んで終わり。天国なんか無い」と、もっともらしく言われる。しかし、真実は「あっと驚くような事」、すなわち「神が人間を造り、信じる者に永遠の命を与えて下さるという事」なのだ。
 人間は儚い存在だ。死んで、全て終わり、だとしたら悲し過ぎる。しかし、よみがえりの主キリストを信じる者には、永遠の命、天国でまた会える、という喜びの希望があるのだ。その希望を持たずに、その時を迎えたなら絶望だ。だから、人の死は悲しいのだ。しかし、キリストを信じる者には天国の希望がある。死んでも生きるのだ。




2018年3月25日礼拝メッセージ 詩篇53 「おそれ」 

 53篇は、14篇と殆ど同じである。だから片方は要らない、と言っていいか。それなら福音書も4つも要らないという事にもなる。いや、そんなはずはない。聖書である以上、その存在には意義があるはずだ。
 14篇との違いは5節だ。特に『見よ。彼らが恐れのないところで、いかに恐れたかを』という一文は不思議だ。恐れが無いのにどうやって恐れるのか。新共同訳では『それゆえにこそ、大いに恐れるがよい。かつて、恐れたこともなかった者よ』と、分かり易く訳している。
 では何を恐れた事が無かったのか。勿論、真の神を、だ。言い換えれば、偶像により頼んだという事である。それは、真の神を知らない全ての人だ。そのような人達に『大いに恐れるがよい』と聖書は言うのだ。これがもし「大いに喜べ」なら祝福であるが、『大いに恐れるがよい』は裁きである。つまり、彼らは大いに恐れる時が来る、という事だ。何故なら、神を恐れた事が無かったからである。
 神と神の民に敵対する彼らへの裁きは、骨がまき散らされ、神に捨てられる、という恐るべきものだ。だからそれが「神を恐れる事の無い者が、いかに恐れたかを見よ」という新改訳の翻訳なのである。
 しかしながら、クリスチャンも「かつては、神を恐れる事が無かった者」だ。『それゆえにこそ、大いに恐れるがよい』という言葉は、クリスチャンにも言われていると理解出来る。すると私達の骨もまき散らされ、神に捨てられるのか。いや、キリストを信じる者は、神の国で永遠の命を生きる。それが救いだ。では何故『大いに恐れるがよい』なのか。それは、神の素晴らしさ、恵み、憐れみの故に、だ。それが余りにも大きいので『それゆえにこそ……』なのである。つまり、かつては……だけでなく最後まで神を恐れない者に対しての『大いに恐れるがよい』は裁きであるが、神を恐れる者となった人には、それは祝福なのである。そう、溢れるほどの神の恵みを受けて、大いに神を恐れるがよい。崇めるがよい。たとえ、かつては神に頼らず、自分の力に頼ろうとした事があったとしても、『それゆえにこそ』これからは、神を大いに恐れるがよい、という事だ。この受難週、主の十字架、復活という恐るべき救いの業の故に、大いに神を恐れ崇めよう。




2018年3月18日礼拝メッセージ マルコ4:35〜41 「乗り切る」 

 ガリラヤ湖は地形の関係から、突然の嵐が起きるのはよくある事だ。そんな事は漁師であったペテロ達は百も承知のはずである。しかし、この時、彼らは、突然の嵐に異常なほど取り乱している。あたかも想定外の事が起きたかのように。何故、嵐が「想定外」なのか。それは「向こう岸へ行こう」と言われたのが誰あろう主イエスだったからだ。彼らは信じていた。イエス様について行けば大丈夫だ、と。いつもそうであったように全て上手く行く。その主が「行こう」と言うんだから問題は無い、安全だ、と。しかし、嵐は起きた。御心に従ったのに。
 主の御心は、私達が問題を避けたり逃げたりする事ではなく、どんな嵐の中にあっても勇敢である事だ(ヨハネ16:33参照)。この世は、ガリラヤ湖より遥かに嵐が多いのだから、共におられる主を信じて、その嵐を乗り切る事、それが主の御心なのである。だから御心に従って歩んでいても問題は起こる。問題が起きたからといって必ずしも「御心ではなかった」という訳ではないのだ。
 弟子達は「私達が溺れて死にそうでも何とも思わないのですか」と言うが、主はその舟に乗っておられるのだ。その舟が沈むはずがない。たとえ沈んだとしても、主は全能だ。弟子達を助ける事など容易い。「その信仰が無いのはどうした事か」と主は言われた。
 そもそも弟子達は「主が行こうと言うんだから大丈夫、嵐は来ない」と、主の全能の力を信じたのではなかったか。ならば嵐の時に何故「主がおられるから大丈夫」とは信じられなかったのか。それは、予想外の出来事に慌てていたからだ。嵐は来ないと思い込んでいた。
 だから常に備えておく事が大切だ。主が共におられても敵は来る。堅く信仰に立って立ち向かわなければならない(Tペテロ5:8〜9参照)。それが嵐を乗り切る秘訣だ。
 自分の力だけでは人生の荒波を乗り切るのは難しい。しかし主があなたの「人生と言う舟」に乗っておられるなら大丈夫だ。たとえ主が眠っておられるように見えても、それは決して、あなたを見捨てたのではない。「心配する必要は無い。信じて委ねなさい」という事だ。この信仰に堅く立って、嵐を乗り切ろう。




2018年3月11日礼拝メッセージ 詩篇52 「知らない」 

 サウルの忠実な家来ドエグは、ダビデに与したアヒメレクを始めとする祭司達85人をサウルの命令により虐殺した。それ以上に、乳飲み子に至るまでだ。それを非難しているのが、1〜4節である。『それゆえ、神はおまえを全く打ち砕き』と容赦なき裁きが宣告されている、それが5節である。が、ドエグが本当にそういう目にあったのかは分からない。聖書は記していない。では、これは単なる脅しか。いや、これは例によって(51篇がそうであったように)、実際の出来事を題材にした、全ての人へのメッセージなのだ。
 ドエグがした事は、神を恐れないが故の事である。もし神を恐れていたら、いくら何でもそこまでの虐殺は出来ないはずだ。何故、神を恐れないのか。それは、知らないからだ。神は恐れられるべきお方だという事を。
 主が十字架につけられた時、同じく十字架にかけられていた二人の内の一人が「キリストなら自分と私達を救え」とののしった。すると、もう一人が「お前は神をも恐れないのか」と、たしなめた。その「ののしり」悪口の、どこが、神を恐れていない、というのだろうか。
 まず彼は、本当にイエスはキリストだとは思っていない。単に嫌味を言ってるだけだ。それは兵士達もそうだった(36〜38節)。そして「自分と私達を救え」という言葉、これこそ、まさしく「神を知らない」証である。何故なら、自分を捨てて人を救う、それが救い主キリストであり、神の救いの計画なのだから。そして、その為に今、自分の隣で十字架にかかって下さっているという事を知らない。
 そのような、神を知らない(故に神を恐れない)者に対して詩篇は「滅びる」と言う。それが5節だ。
 しかし、神を恐れる者には勝利が約束されている、と8節。神の家で、限りなく恵みを味わうのだ。その事を知らないでいる訳にはいかない。知って、感謝し、神を畏れ敬おう。全ては神の恵みなのだから。
 最後9節の「御名を待ち望みます」は、新共同訳では「御名に望みを置きます」だ。イエス・キリストにこそ希望があるという事だ。だから、主を畏れ、とこしえまで感謝し、主に期待しよう




2018年3月4日礼拝メッセージ マルコ4:21〜23 

 「明かりを持って来る」という言葉は、原文では受動態ではなく能動態で書かれている。普通は「明かり(ろうそく、懐中電灯)」は誰かによって運んで来られるもの(つまり、受身形)だ。ろうそくは自分で歩いて来はしないのだから。しかし「明かりが自分で来た」と主は言われた。これは世の光である主御自身の事である。そして明かりは全体を照らす為であるのだから、主の光も全ての人を照らす為である。
 続く22節は、少し違和感を覚える。隠れるのは現れる為と主は言われた。だが、犯罪者が逃げ隠れるのは、見つかりたくないからではないだろうか。能動的に(自主的に)隠れるのは、やはり隠れる為だ。では、受動的に隠される場合はどうか。実は、口語訳や新共同訳では「隠されているもので現れないものはない」と翻訳されている。つまり、自分で隠れるなら見つかりたくない訳だが、誰かが隠したものなら必ず見つかる、という事なのである。その為に、光なる主は来た。
 主が現わそうとする「隠されたもの」は、神の国の奥義だ。それは人間の罪のゆえに隠されていた。しかし、主は来て、それを語られた。特に弟子達には「全ての事を解き明かされた」(マルコ4:34)。
 それでも、その弟子達にさえ話さなかった事がある。彼らに「耐える力が無いから」(ヨハネ16:12)だ。何故なら、まだ聖霊が注がれていなかったからである。奥義・真理を悟るのは、聖霊によってなのだ。
 もう一つ、隠されているもので必ず明らかにされるもの、それは罪だ。御言葉の光で心を照らされると、空気中のホコリの様に、普段は気付かないものを見出す。それは良い事だ。それを取り除きたいと思うようになるからだ。そして主によって、心は整えられ、軽くなり、楽になって行く。同時に、見失っていた(サタンによって隠されていた)本当の喜び、幸せを発見するのだ。
 そのように、隠されたものを現す為に、光なる主は来た。勿論、敵であるサタンは抵抗する。しかし、誰かが隠したものは必ず見つかるのだ。その為の光、それがキリストである。だから、その光を心のど真ん中に据えよう。全体を照らす為に。明かりは、そうするものであるのだから。そうして、本当の幸せ、喜びを見出そう。




2018年2月25日礼拝メッセージ 詩篇51 「ただ、のみ」 

 「ただ、神様にだけ罪を犯した」とダビデは言う。彼は偶像を拝んだのか、それとも神を呪ったのか。いや、他人の奥さんを奪い、その夫(自らの部下ウリヤ)を殺したのだ。被害者はウリヤである。ダビデはウリヤに対して罪を犯したのだ。勿論、それは神の前に罪である。しかし「ただ、神様にだけ罪を犯した」とはどういう事か。ウリヤに対しては何も悪かったと思っていないのだろうか。問題は、神は、この詩を通して何を言いたいのかを読み取る事だ。
 実は、この51篇は50篇の続きではないかと言われている。50篇は、神の民を告発する(神を忘れている、という)裁きのメッセージであり、それに応答しての悔い改め、それが51篇という事だ。だから1〜13節まで「どうか赦して」と訴えるのであり、「ただ、神様にだけ罪を犯した」というのは、50篇で指摘されている通り「神の民が神を侮った」という事で納得出来る。つまり、この詩は「ダビデの悔い改め」を用いての人間への預言的なメッセージだという事だ。そのメッセージとは「悔い改めるなら救われる」(10〜13節)、「救われた者は感謝し賛美する」(14〜15節)、そして「神への誠実こそ神に喜ばれるいけにえである」(16〜17節)という事である。それでこその18節だ。これがもし、ダビデが単に「自分の王座を守って下さい」と言ってるのなら、都合が良過ぎる。「ウリヤの魂を守って下さい」と願う事こそ悔い改めだろう。しかし、これは10〜17節の文脈の中で読むなら(シオンもエルサレムも、天の都を意味する場合もあるゆえに)18節は「天の都(神の支配)を確立して下さい」という意味に読めるのである。
 いずれにしても51篇は、裁きに対する応答(悔い改め)の詩だ。裏返せば「何が神に喜ばれるか」という事である。それは、砕かれ悔い改めた心、感謝、賛美……神への誠実である。だから私達も、見せかけの信仰ではなく、自分本位の信仰でもなく、ただ「神の御心がなる事を」のみ求める者となろう。その為にも、神の支配が確立する事を求めるべきなのだ。他の何処かではなく、自らの心の中に。そこが神の国だと主は言われた。そこに満ちているのは感謝、喜び、平安、愛である。そうなる為にも、神に誠実に感謝と喜びを捧げよう。




2018年2月18日礼拝メッセージ ヨハネ21:1〜6 「釣り合い」 

 復活の主に出会った後、弟子達は伝道ではなく漁に出た。まだ聖霊が注がれていなかったゆえに信仰的に安定していない状態だと言える。
 何事でもバランスを取る事は重要だ。勿論、信仰においても。例えば、信仰生活と社会生活のバランス。熱心のあまり家庭を壊してしまうような信仰は、バランスが崩れているのである。「自分の家族を顧みない人は信仰を捨てている、不信者よりも悪い」とTテモテ5:8にある通りだ。「いや、神が第一だと聖書は教えているではないか」と言うかもしれない。しかし、それと同じように大切なのが隣人を愛する事だと主は言われた。要は、どちらも同じくらい大切だという事である。
 次に、神学的なバランス感覚も重要である。聖書には、矛盾と思えるような両極端な教えが幾つかある。例えば、信仰による救いを説くローマ書と、行いによる救いを説くヤコブ書だ。しかし、その事を問題とする人は今やいない。行いは信仰の現れだ、とバランスの取れた理解がなされているからだ。同じように「信じる者は、蛇をも掴み、毒を飲んでも害を受けない」(マルコ16:17〜18)という御言葉も、「主なる神を試みてはならない」(申命記6:16)という教えとのバランスを取らなければならないのである。神を信じているなら蛇を掴め、と聖書は教えていないのに、「信じる者には出来る!」と言って蛇を掴もうとするなら、それは神を試みているという事になるかもしれない。確かに、パウロは毒蛇に噛まれても死ななかった。しかし、最終的には殺された。神の助け・守りは勿論、ある。だが、パウロが言うように「生きる事も死ぬ事も全て神の栄光の為」なのであり、シャデラク、メシャク、アベデネゴが言う通り「神は守って下さる。たとえそうでなくとも神に従う」というバランスを取る事が必要なのだ。
 主の復活後、漁に出た弟子達の信仰は、まだ不安定だった。自分の信じる力、決意、知識、主への愛……だけでは弱いからだ。ペテロをはじめ弟子達は、それをつくづく実感していたはずだ。だから主は『聖霊を受けなさい』(ヨハネ20:22)と言われた。聖霊の力、助け、導き、悟り……もあってこそ、バランスの取れた(安定した、揺らぐ事の無い)信仰者として、力強く立ち上がることが出来るのである。




2018年2月11日礼拝メッセージ 詩篇50 「欲しいのは…?」 

 神は、御自身が審判者としてイスラエルを「告発する(新共同訳)」(新改訳では、戒めよう)と言う。その証人として、天と地を呼び寄せる、と。その告発の内容は8〜13節だ。ここで神は「いけにえが欲しいのではない」と言う。民が年貢を納めていない(神のものを盗んでる)と怒っているのではない訳だ。そもそも、獣も山の鳥も全ては神のものであり、人間から与えられる必要は無い。神には足りない事など無いのだ。むしろ、いけにえは一応、キチンと捧げられている(8節)。だが、問題はそこではない。神は言う。欲しいのは感謝であり、誠実だ、と(14節)。つまり、物ではなく心だという事である。ホセア6:6に『わたしは誠実は喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ』とある通りだ。民が神を知らないのではない。神を恐れない(侮っている・敬わない)で形だけのいけにえを捧げる事が問題なのだ。神を敬い従う、それが神に対する誠実であるのだから。ゆえに「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとって全てである」(伝道者の書12:13)と聖書は言う。そのような誠実な者に神は助けを与える(詩篇50:15)。しかし、神を知りながら神を侮る者(悪者)を責める。彼らは、神を自分と等しい者と思っている。すなわち、神がどのような方であるかを忘れている。神は『きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方』(Uサムエル22:27)、侮られる方ではないのだ。
 神が喜ぶのは、悔い改めた心、誠実な心。感謝と喜び、その心を求めているのである。それこそが「霊と真による礼拝」だと言える。
 人間相手なら、心を込めなくても形だけで誤魔化せるかもしれない。しかし、神に対してもそう考えるなら、それは、神を自分と等しい者とする事だ。イスラエルはそれゆえに神に告発された。
 私達は神を忘れてはいけない。神がどんなに憐れんで下さったか、どれ程恵んで下さったか、を。そして、初めの愛を忘れずに、真心からの礼拝を捧げよう。この礼拝がいつも感謝と喜びに満ちたものとなるようにと願おう。それが「道を正しくする」事であり、その人に『神の救いを見せよう』(詩篇50:23)と神は言う。




2018年2月4日礼拝メッセージ マルコ1:21〜28 「見損なう、な」 

 主は『悪霊共がものを言うのをお許しにならなかった』。それは「イエスが何者であるかを悪霊共が良く知っていたから」だと聖書は言う。その通りに、彼らは主に「私達を滅ぼしに来たのでしょう、神の聖者よ」と言ったが、主は『黙れ』と言われた。病を癒された人にも「誰にも言うな」と口止めなされた。が、人々は言いふらした。『その為イエスは表立って町の中に入る事が出来ず、町はずれの寂しい所におられた』(1:45)。
 主の大事な使命は「福音を宣べ伝える」事である。いくら十字架で死んでも「宣べ伝える人がいなければ、誰も信じる事が出来ない」(ローマ10:14参照)からだ。しかし、奇跡の評判が言い広められてしまった為に、本来なすべき「福音宣教」が出来なくなってしまったのである。その結果、人々は、イエスが何者なのかを見誤った。イエスに何を求めるべきなのか、その正しい判断をし損なってしまったのである。そして人々は、ついにはイエスに失望し、見捨てた。そうなるのを避けたくて主は、癒しを言いふらすなと口止めされたのだ。
 悪霊は主に「私達を滅ぼしに来たのでしょう」と言ったが、それは意図的な嘘である。主がこの世に来られたのは、信じる者が救われるようにと十字架で身代わりに死ぬ為であり、その「福音を宣べ伝える為」(1:38)だ。それを人間に悟らせまいと「イエスは悪霊を追い出し、病を癒す為に来た」と本当のような嘘をついたのである。だから主は『黙れ』と、それを言わせまいとされたのだ。しかし人間は、まんまとサタンの策にはまった。ある教会は今も、悪霊追い出しに必死だ。逆に、別のある教会は、奇跡や癒しを強調する事を嫌う。しかし、口止めは復活するまでだと主は言われた(9:9)。何故なら口止めは、福音宣教と十字架が妨げられない為のものだったからだ。十字架と復活(救いの業)が完成した後は口止めはもはや無用である。
 しかし、それでも、最も大切な事は、悔い改めだ。主は福音を伝え、私達を悔い改めさせ、救う為に来られたお方だからだ。それを見誤ってはならない。救い主を見損なってはならないのだ。たとえ目の前には問題が山積みで、悩み・苦しみがあっても、主は救い主なのである。




2018年1月28日礼拝メッセージ 詩篇49:1〜20 「謎の人」 

 「どうして私は恐れなければならないのか」と詩人は言う(5節)。それは「主よ、何故ですか!」という嘆きかと言えばそうではない。続く7〜9節には「人は必ず死ぬ」「命は買い戻せない」という事が言われている。つまり、文脈としては「豊かな富を誇る人などから中傷されても、どうって事はない。人は必ず死ぬ」という事だ。「彼らは、自分達と同じような人間が滅びるのを見る」「これが愚か者共の道」だ、と10〜13節に続く。「しかし神は私の魂を黄泉の手から買い戻される」と15節。「だから恐れるな」と16〜17節。つまり、5節の「どうして恐れなければ……?」は、恐れて嘆いて、主よ、と訴えているのではなく、何故、恐れる必要があるだろうか、という事なのである。
 そこで、この詩は、全ての人に対して訴える。「聞きなさい」(1〜2節)と。教えてあげましょう、と。さあ、あなたもですよ、と。何を教えようというのか、それは3〜4節だ。まず「知恵」は勿論、神を恐れる事だ。加えて詩人は言う。「私の謎を解き明かそう」と。果たして、この人は何者(謎の人)なのか。いや、どんな人にも謎はある。秘密や隠してる事ではない。理解に苦しむ事とか、納得出来ない事とか、何故、こんな事になってしまうんだ、という様な事だ。つまり、人生の不条理・理不尽という様なものを解き明かそうと言うのである。
 それは確かに、多かれ少なかれ、誰にでもある事だろう。しかし、それをどうやって解き明かすと言うのか。それは「たとえに耳を傾けて」だ。「たとえ」のヘブル語はマーシャルで、箴言、格言、教訓という意味だ。すなわち、神の教えに耳を傾けるなら全ての謎が解けると言うのである。それを知らなければ「黄泉に定められ」滅びる(14節)。しかし耳を傾けるなら、神が受け入れて下さる。すなわち、その人生を神の栄光の為のものとして下さる訳だ。そして魂も救われる(15節)。だから「恐れるな」と16〜20節。これが答えだ。
 たとえ地上の人生が豊かになっても「悟りが無ければ滅び失せる獣に等しい」(20節)と言う。悟りは、神の教えに耳を傾ける事によって与えられる。そして聖書は教える。この世の栄華を目指すのではなく、天の御国を目指し、神と共に生きる生き方をすべきであると。





2018年1月21日礼拝メッセージ 使徒2:40〜42 「しくじり先生」 

 ペンテコステの日、その日の内に3000人が弟子となった。これは本当の意味でのリバイバル(元々あった信仰が活性化する事)である。その点、日本人(異邦人)がクリスチャンになるのは回心(コンバージョン)なのであり、リバイバル(信仰の復興)ではない。もし、昔あった日本人の信仰(国家神道)が回復したなら、それはリバイバルと呼ぶべきかもしれないが。とにかく、ペテロは神の霊に満たされて語った。ペンテコステの日のリバイバルは預言(ヨエル2:28〜29)の成就だと。これが新約聖書による旧約聖書の解説だ。つまり「初めの雨」(ヨエル2:23)をペンテコステのリバイバルの預言とする考えは間違いだという事である。必然的に「後の雨」が世の終わりの大リバイバルの預言とする考えも間違いという事になる。そもそもヨエル2:23は、悔い改めた民に対する「神の赦しの宣言」とヨエルの喜びの言葉なのであり、遠い将来や世の終わりについての預言などではないのだから。
 では、リバイバルは来ないのか。いや、来るかもしれない。ただ「必ず来る」とは言えないだけだ。それは約束されていないからだ。それでも期待して備える事は必要である。アフリカのある牧師は、備えとして300人収容出来る会堂を建設した。するとリバイバルが来て3000人がクリスチャンとなった。が、会堂には入れず、導き手も不足し、霊的食物を与えられない3000人は教会から去って行ったという。その経験から牧師は語った。「会堂ではなく、信徒一人一人がしっかり聖書を学んで導き手となる、その訓練こそリバイバルの備えだ」と。
 ペンテコステの日に救われた3000人は、使徒達の教えを堅く守った(使徒2:4)。それでも人が増えると問題も起きた。そこで使徒達は御言葉の働きに専念した。「こうして神の言葉は、ますます広まって行き、弟子達の数が非常に増えて行った」のだ。
 皆が聖書学者になれという事ではない。キリスト教の基本を正しく教えれるように、という事だ(ヘブル5:12、6:1〜2参照)。更に言えば、キリストが教えた本当の事を学ぶ、それがリバイバルへの備えなのである。そうすれば同時に、その学びは、私達の人生における「転ばぬ先の杖」となり、教えの風に吹き回される事から守られる。




2018年1月14日礼拝メッセージ 詩篇48:1〜14 「シオンにおいて」 

 「シオン」は、エルサレム(その住民)、あるいは、ソロモンが建てた神殿のある丘をシオンとも呼ぶ。いずれにしてもごく狭い範囲である。そのシオンにおいて神は大いにほめたたえられるべき方だというのであるが、はて、神は全地でほめたたえられるべきお方ではないのか。そう、ここで言うシオンとは、単なる丘などの事ではない。実に、旧約の出来事は新約で示される神の御心のモデル(模型)であるのだから、シオンも何かを示し教える為のモデルなのだ。
 そこで、4〜8節では「神の力による救い」が語られている訳だが、それをイスラエルは先祖代々語り聞かせられて来た。そして、その聞いてた通りの事を自分の目で見て体験したと言うのである。かつてと同じように神の力で救われた、それがシオンだという事だ。それは、神は変わる事の無い方だという事の証明であり、神の計画は必ず成るという事でもある。加えて、神は昔だけでなく今も生きて働かれるという事だ。だから詩人は『私たちは、あなたの宮の中で、あなたの恵みを思い巡らしました』と言い、祈る(9〜11節)。「救いを喜び、恵みを感謝し、神の義と憐れみを求めるリアルな感情のほとばしり」が礼拝を活き活きとさせる。逆に言えば、それが無いと、礼拝は形骸化し、祈りは消失する。しかし私達は、内住する御霊なる神に力強く働いて頂きたい。そこで詩人は言う。かつての出エジプトの時のように神の力で救われたシオンを見よ(その救いの業を心に留めよ)と。私達も同じプロセスで救われた者(シオン)として、自らの救いの体験を思い出そう。信仰生活における神の恵み・守りを数えよう。それは『後の時代に語り伝えるため』だ。「神はとこしえに(死を超えて)導かれる」と。地上で生きている間だけ何かの御利益があるのではない。死んだ後も、死を超えて、永遠の御国にまで、とこしえに導いて下さるのだ。それが聖書の言う所である。私達はそれを聞いている。そして、その聞いた通りをそのまま自分の目で見、体験するのだ。それがシオン(神の力で救われた神の民)である。そのシオンにおいて、神は大いにほめたたえられるべきなのである。だから私達は、神の恵みを数え、喜び味わおう。そのような生き方が証となるのだから。




2018年1月7日礼拝メッセージ エペソ4:11〜15 「教会にクルン…?」 

 「終わり良ければ(最後に天国に入れば)全て良し」となる為には初め(神を恐れるという知識の初め)が肝心。その「知識の初め」を教える為に教会はあり、その知識を育む為に集う、それが教会だ。その為にキリストご自身が、ある人を……牧師としてお立てになった。
 具体的には、まず「キリストの体を建て上げる為」だ。どうやってか。聖徒を整える事によってである。奉仕をさせる事によってではない。優先は整える事だ。整えられてこそ奉仕が出来るのである。
 次に「完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達する為」だが、どんな状態が「完全な大人」か。それは「皆が信仰の一致と御子に関する知識の一致に達した」状態である。しかし、それは「教派がなくなる事」だとは思えない。一致出来る所、それはヘブル5:13〜6:2で言われているような「基本的な教理」だ。神は唯一とか、イエスは救い主、三位一体など、正統的な信仰を保つべきという事である。そこは、もはや議論するまでもない、一致するべき所なのである。そして、もう一つ一致すべき事がある。それは「キリストは何を教えたか」だ。これも一致出来るはずである。何故なら「キリストの本当の教え」、その真実は一つだからだ。皆がその真実に達するべきなのである。が、現実は「キリストの教え」が一致していない。ゆえに教えの風に吹き回されている。不思議な事に、いつの時代も、真理より偽りの方が喜ばれる傾向がある。初代教会の時でさえ「復活はもう起きた」という教えに耳を傾ける人が沢山いた。今も「再臨は何年何月に来る」とか「今年リバイバルが来る」というような声に一喜一憂し、振り回されている。
 私達は、真理を喜びたい。それはキリストを喜ぶ事であるからだ。何故なら『まさしく真理はイエスにある』のだからである。主も、ご自身を『真理』と言われた。だから、真理を喜ぶ事は主を喜ぶ事に等しい。主を愛するなら、真理を愛するべきなのだ。『ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい』(エペソ4:25) とある通りだ。私達は、この新しい年、そのような真理を語る者へと成長させて頂こう。




2017年12月31日礼拝メッセージ 詩篇47:1〜10 「負けたらアカン」 

 他の詩と違い、47篇には嘆き、呻きというようなものが無い。皆無だ。あるのは、ただ勝利。ヘブル人をカナンの地に導いてくれたいと高き神を誉めよと言う、この詩は実に神の勝利の詩だ。
 ただ、その時、神がどんな奇跡を行ったのかなどという事は問題ではない。何故なら、旧約の出来事は、新約で示された神の御心(救い)のモデル(模型)だからだ。ゆえに重要なのは「神が民を約束の地に導いた」という事実なのである。それは本当の約束の地(天国)へ神の民を導き入れる事のモデルなのだ。そして、それこそ神の(神は常に勝利を取るお方だが)最終的勝利なのである。
 裏返せば、サタンの攻撃は常にあるという事だ。始まりはアダムとエバへの誘惑を通して。しかし、その時から神は勝利の計画を始められた。それが原福音だ。そしてその計画の実現、それがキリストの十字架である。それはサタンの勝利などではなく、神の計画の成就・勝利なのだ。この神の勝利を歌え、とこの詩は言うのである。
 注目は9節だ。「国々の民の尊き者達」とは誰か。地位の高い人か。いや、神の目に「尊い」と見える人だ(参照イザヤ43:4)。それは、どの国の民であろうとも、神の愛(十字架)を受け取って、神の民とされた人達である。そのような、真のイスラエルが天国に集められるという事だ。すなわち、救いの完成である。それこそが、勝利なのだ。
 それまでは、クリスチャンは世にあっては、敗者のようであるかもしれない。病が、迫害が、苦しみがあるかもしれない。しかしクリスチャンは「何も持たないようでも全てを持っている」と聖書は言う(Uコリント6:10)。喜びも愛も、平安、永遠の命、希望も、必要なものは全て持っている。そして究極は救いの完成(完全なる勝利)だ。その約束(確信)を持たなければ、全ては虚しい。たとえ全世界を手に入れても真の命を失えば何の得があるか、と主が言われた通りだ。天国の約束と確信があってこそ、今の幸せである。
 地上の力、栄誉も神のもの、神は大いに崇められる方、と10節は言う。私達も神を崇めよう。そして、主の助け・恵みをかみしめて、新年も勝利の道を主と共に歩もう。



2017年12月24日礼拝メッセージ ルカ2:1〜14 「愛と平和、共に…」 

 ベツレヘムという人口数百人程度の小さな町。そこに宿屋があった。だが、当時その程度の規模の宿屋には仕切りが無い。一つの部屋で雑魚寝である。今で言えば、フェリーの2等室のような感じだ。そんな所で公開出産するわけにはいかない。かと言って、他の客に出て行ってもらうわけにもいかない。それで仕方なく、家畜小屋へ……というのが実情である。寒々しく、冷たい石の飼い葉桶、主イエスは、そんな所でお生まれになった。いやマリヤは、そんな所(医者もいない、助産婦もいない、奇麗なタオルも無い、産湯も無い、誰も助けてくれる人のいない所)で出産した、と言った方が、その過酷さが実感出来るかもしれない。しかし、主がそんな所で生まれたという事は、私達にとっては大きな慰めである事を知りたい。
 と言うのは、人の気持ち(特につらさ、悲しみ)は他人にはなかなか分かりにくいが、同じ体験をした人には、それが分かるからだ。だから『主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになる』(ヘブル2:18)と聖書は言う。つまり主は、助けの無い冷たく寂しい場所で生まれて下さったゆえに、人間の苦しみ、孤独、つらさを理解して、慰めと助けを与える事が出来るという事だ。そして十字架も。裏切られ、蔑まれ、のけ者にされ、傷付き、苦しまれた。だから、たとえ私達が、この世でどんなに傷付き疲れ果てたとしても、人から裏切られ、独りぼっちだと感じたとしても、主は、その苦しみを分かって下さり、見方になって下さるのだ。
 クリスマスは、その為の神からのプレゼントだ。その中身は永遠の命の恵みと天国の祝福である。そして、その喜びの知らせは、まず、社会的には最底辺で嫌われていた羊飼い達に届けられた。無責任な荒くれ者というのが当時の羊飼いの常だが、彼らは野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。羊を大切に思う愛と平和を求める心があったのだ。そう、虐げられ、悩み苦しみながらも、愛を求め、平和と幸せを求める人々にこそ、このクリスマスの喜びの知らせは届けられるのだ。冷たく寂しい、何の助けもない、そのような心の中に、主イエスは来て、喜びと平和、慰めと助け、愛で満たして下さるのである。



2017年12月17日礼拝メッセージ レビ記13:9〜13 「うつるんです」 

 皮膚に異常のある人を祭司が調べて、それがツァラアト(らい病の症状を含む重い皮膚病、NIVでは伝染性皮膚病)だと分かれば「けがれている」と宣言するのだが、紛らわしい場合は7日間隔離して、その後調べ直す。そのような処置は衛生的に妥当だと思われる。所が、「けがれている」と宣言された伝染病の患者を隔離する必要は無いという。それ以上に不思議なのは、その皮膚病が体全体を覆っているなら、その患者は「聖い」というのである。摩訶不思議だ。医学的にはどう考えても、聖いとは言えない。伝染しているのだから。しかし、その判定をしているのは医者ではなく、祭司である。つまり、これは医学的な問題ではなく、宗教的な聖さ・けがれについての教えなのだ。そして、それは他の旧約の教えがそうである(ex.創世記3:21がキリストの十字架の血潮によって義の衣が着せられることのモデルである)ように、新約聖書に現された神の御心によって理解されるのである。
 そもそも「聖」とは、混じり気が無い事を意味する。ゆえに、神に背いて罪が入った(混じり込んだ)人間は、神の前にけがれている訳だ。なのに、その事に気付かない、あるいは隠している状態を、レビ記では「部分的ならい病」に例えているのである。例えば、背中に小さな皮膚病(罪)がある。しかし、自分では見えないし、気付かないから何も問題を感じないかもしれない。しかし、その人は「けがれている」(神の前に罪人である)のだ。しかし、罪を認めて言い表す時、神は聖めて下さる(Tヨハネ1:9)。その事をレビ記は「全身を覆ったらい病は聖い」と言うのである。何故なら、それは表されている(隠す事が出来ない)からだ。そのように、もし自分の内にある罪に気付いて、それを神に告白し悔い改めるなら、神はどんな罪も赦し聖めて下さる。その事のモデルとしての教え、それが「全身を覆ったらい病は聖い」という事なのだ。イザヤは言う。たとい、あなた方の罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる、と。神の約束は真実だ。私達は、救われたのちも、失敗し、御言葉に背く事があるかもしれない。また、苦しい時も、つらい時も、事あるごとに祈ろう。神は全ての悪から聖めて下さる。




2017年12月10日礼拝メッセージ 詩篇46:1〜11 「必ず」 

 苦難の時、必ずそこに居まして助けて下さる(新共同訳)、それが神だと言う。頼もしい限りである。だが、何故いつもそこに居るのか。神のいる所に災いがあるという事か。いや、神が居る居ないに拘らず、人生に苦難はある。問題は、その時に助けがあるかどうかだ。
 そこで、神は助ける、と聖書は言う。「ならば、どうして?」と言いたくなる。ステパノを始めとして数多くのクリスチャン達は助けを得る事無く殺されていった。一体、いつ助けると言うのか。
 理解の助けとなるのは、癒しだ。「病は必ず癒される」という一つの信仰がある。確かに神には出来る。しかし、あのパウロでさえ癒されなかったではないだろうか。何故か? 主が行われた癒しは、一つには、御自身が「預言されていたキリストである」ことを証明する為のものだ。そして、それはもう証明された(十字架も復活も聖書も完成した)ゆえに繰り返す必要は無くなった。もう一つは純粋に「憐れみ」の故の癒しである。その憐みは今もある。だから今でも、癒しという恵みを受ける時がある。だが、憐れんで下さるかどうかは神次第であり、要は、癒しは必ず……ではない、という事だ。
 それでも、それを承知の上で、あえて言おう。病は必ず癒される、と。それは、いつかと言えば、天国に行った時だ。それは完全な癒しである。何しろ、キリストと同じく栄光の体(新しい体)になるのだから。彼の打ち傷の故に私達(人間と神との関係)は癒された(イザヤ53:5)故に天国に行けるのであり、天国では完全に癒されるのである。
 「必ず助ける」も、それと同じで、全ての人の苦難の時(死・世の終わり)、すなわち『夜明け前』に神は「必ずそこ(天国)に居て」信徒を引き上げ(携挙し)て下さるのである。そのような時、国々は立ち騒ぎ、王国は揺らぎ、地は溶ける(6節)。しかし『万軍の主は我らと共におられる』(7節)のだ。
 だから『やめよ』(「力を捨てよ」新共同訳)、主こそ神であると知れ、と10節。神は完全な助け・癒し・解決を備えておられる。だから、もがき足掻くなという事だ。そうすれば主が砦・助け・力となって下さる(11節)。その信頼を堅くした上で、主の憐みを求めよう。




2017年12月3日礼拝メッセージ マルコ16:16 「ことわざ…」 

「信じる者は救われる」 色々な場面でよく使われる言葉だ。しかし、聖書が教えているのは『信じてバプテスマを受ける者は、救われます』である。何が違うか。いや、何も違わない。信じる者は救われるのだ。けれども、それでは説明が足りないのである。ローマ10:10には「心で信じた事を口で告白して救われる」とある。心で信じた、その信仰を表明する事が必要なのだ。その「信仰の表明」の具体化したものが「水のバプテスマ」なのである。
 神の存在を信じるだけなら、悪霊共と変わりはない(ヤコブ2:19参照)。違いは、自らの信じる、その神に、従うかどうか、だ。サタンと悪霊共は神に従わない。ゆえに、彼らは「信仰者」とはみなされない。たとえ神の存在を信じていても、反逆者なのである。あくまでも、神に従う、それが本当の信仰である。神の言葉は必ず成る、神の約束は絶対だと信じるからこそ従うのである。だから、信じるだけで救われるというのは確かにそうなのだが、信じてるけど従わない、というのは信仰ではないのであって、信じているなら当然従う(御言葉に従ってバプテスマを受ける)それでこそ、確かに信じているという事である。
 ある人々は言う。「心で信じるだけでいい。教会に行く必要は無い」と。騙されてはいけない。聖書は「教会はキリストの体である」と教えている。教会という存在は、神の御旨なのである。だから「ある人々のように、一緒に集まる事をやめたりしないで……」とヘブル10:25は言う。大事なのは、教会に集う事によって御言葉が聞けるという事だ。勿論、自宅で一人で聖書を読むことも出来る。だが『導く人がなければ、どうしてわかりましょう』と宦官が言った通りだ(使徒8:31)。そう、御言葉の真理へと人々を導く為に、神は教会を建てられたのだ。
 信仰は聞く事から始まる。それも、キリストについての御言葉を聞く事だ。教会にはそれがある。加えて、神の臨在がある。聖霊の働きがある。恵みと賜物(カリスマ)がある。何よりも、キリスト(の降誕)救い主という最大の恵みの賜物がある。救いも恵みも祝福も、このキリストについての御言葉を聞く事から始まる。この恵みの賜物を大切にして、御言葉に従って、信仰生活を続けて行こう。





2017年11月26日礼拝メッセージ 詩篇45:12〜17 「花嫁・モデル」 

 ここには「御子」と「娘」の婚礼の様子が描かれているが、それは霊的には、キリストと教会の事である。そして、それは恋愛に基づく結婚ではなく、一心同体となる事を意味している(エペソ5:22〜31)。
 夫婦は一心同体。果たしてそれは本当か。「夫は妻を自分の体のように愛せ」と聖書が教えるのは、「現実は違うけど、そう思って愛せ」という事なのではないだろうか。その証拠に聖書は言う。一心同体、それは『キリストと教会の事』だと。そして『この奥義は偉大』だと。そう、キリストと教会こそが、文字通り一心同体となるのだ。まず、キリストがかしらで、その体が教会(同体)である。そして、クリスチャンが体の贖い(救いの完成)に与る時、罪は完全に無くなり、もはや、御心に逆らおうなどとは思わなくなる。つまり、心と思いが完全に御心と一つになり、まさしく、一心同体となるのである。それを教える為のモデル、それが夫婦なのだ。そして、モデルは、あくまでも模型に過ぎないのであって、決して本物と同じではないのである。だから、模型(夫婦)に完璧を求めてはならないし、模型(夫婦)の不完全さに失望してもいけないのである。
 大事なのは、キリストの花嫁として婚礼の場(天の御国)に入る事だ。その為に必要な「礼服」、それはキリストの血潮によって洗われた「白い義の衣」である(マタイ22:1〜13参照)。だから私達は、形だけの信仰ではなく、本物の神のしもべになる事が必要だ。その事を『娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ』と詩篇45:10は訴える。
 そして、義の白い衣は、単に客としての礼服ではなく、花嫁のドレスでもある。それは自分で作るものではなく、花婿から与えられるものだ。つまり、自分の力・行いでは救われないという事である。それゆえ詩篇45:16は言う。『父祖』(ユダヤ人)に代わって、恵みのゆえに信仰によって救われた神の子らが御国を受け継ぐと。
 何の働きの無い者に信仰による救いを与えて下さった神の恵みを覚えよう。「こんな罪人に何故ここまで恵みが…?」と思えば、不平不満ではなく、感謝が沸き上がる。私達は、主の恵みを喜び、感謝し、賛美して生きる者となろう。




2017年11月19日礼拝メッセージ ルカ15:25〜32 「カリスマ」 

 放蕩息子が悔い改めて帰って来た。父親は受け入れた。それで話が終われば、メデタシめでたし、というところなのだが、何故か、兄息子が登場することによって話はややこしくなる。兄は怒り、「長年父親に仕え、戒めは一度も破った事が無いのに、何の褒美も貰っていない。それなのに……」と言う。一理はある。しかし父は言う。「お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」と。
 息子というものは、どんな息子であろうとも、父にとっては息子であり、父の財産を受け継ぐ権利が息子にはある。なのに、この兄息子は「戒めを守り、熱心に仕えれば、褒美が貰えるはず」と考えていた。これが「律法主義」である。つまり、この兄息子はユダヤ人(特に律法学者、パリサイ人)を表しているのだ。彼らは、父なる神の選んだ民として律法を守り、神に仕えて来た(つもり)だった。が、神の祝福(天国の平安、罪の赦し)を何も受け取れなかった。そして、主が、悔い改めた罪人に恵みを与えるのを見て怒り狂ったのである。それが、ユダヤ人のキリストへの反抗だ。
 ポイントは「恵み」である。「あなた方は恵みのゆえに信仰によって救われた」と聖書(エペソ2:8)は言う。その信仰さえ、聖霊によって与えられた(Tコリント12:3)。救い、天国、祝福、全ては神からの賜物(カリスマ)である。放蕩して悔い改めた弟息子は、まさに、このカリスマを受けたのである。私達クリスチャンも同じだ。決して、兄息子のように、自分の行いによって報酬を得ようと考えるべきではない。何の働きも無い者がただで受ける、それが恵みなのだから。
 兄息子(ユダヤ人)がするべきだった事は、自分の置かれている立場(その恵み)に気付いて感謝する事、そして、神からの賜物である救い主キリストを受け入れる事だ。そうすれば、「全部お前のものだ」という父の言葉通り、救いも天国も、神の全ての祝福を受け取る事が出来たのだ。
 私達は、与えられた恵みを「喜び」「感謝」し、更なる祝福を「祈り」求めよう。「それ」を神は私達に望んでおられる(Tテサロニケ5:16〜18)。真の神に祈る事が出来る、それもまた賜物(カリスマ)だ。




2017年11月12日礼拝メッセージ 詩篇45:1〜11 「流れ出る」 

 この詩は、表面的には、地上の王への賛辞であると見える。が、実は、主の主・王の王キリストの事を歌っている「メシア詩篇」である。
 油注がれたキリストである御子は信じる者が救われる為にと身代わりに十字架で死に、葬られた。その葬りの時、キリストの体は没薬とアロエと香料(肉桂も香料)に包まれた。勿論、香料は永遠には香らない。しかし、キリストの体はその香りを放つという事は、キリストは甦って今も生きているという事を表すと考えられる。そう、だからこそ、信じる者にも復活と永遠の命の希望が与えられるのだ。それゆえに褒め称えられるお方、それがキリストである。その賛美の言葉が心の中に沸き立ち、流れ出ると1節で言う通りに歌われている、それが2〜8節だ。とにかく、キリストは素晴らしいお方であり、単なる「偉人」ではなく、全能の神なのである。そしてキリスト教は、人が作った宗教などではなく、宇宙の真理、命そのもの、天国の現れ、闇を照らす光、人を生かす神の力、全ての答えなのである。だから娘(神の民)よ、心して聞け、と詩人は言う。あなたの民、父の家を忘れよ(家・国を出て、王に嫁げ。完全にキリストの花嫁となれ)と。『そうすれば王は、あなたの美を慕おう』とある通り、キリストの花嫁となればこそ、キリストは「私の目にあなたは高価で尊い」と、その美しさを慕って下さり、恵みと慈しみを与えて下さるのだ。
 王の花嫁は王妃としての生活するようになる。例えば、民間から天皇家に嫁いだ人が皇族となるようにだ。その生活様式の変化は大きな戸惑いを生む場合が、この世においては、ある。しかし、キリストの花嫁にとって神の国の生活は、喜び、平安、感謝だ。神を愛する者にとって神の命令は重荷とはならない。主のくびきは負いやすく心地良いのだ。そして、本当のキリストの花嫁は、真理を知り、自由になるのである。だから、中途半端にではなく、完全にキリストの花嫁となれ、キリストと共に生きよ、という事だ。もはや、かつての(罪と死の中に生きていた頃の)ように、不安と恐れの中をあくせくしながら生きるのではない。私達は、主が共にいる喜びと平安の中をキリストの素晴らしさを味わう、そのような生き方をする者となろう。




2017年11月5日礼拝メッセージ 創世記2:8〜9、15〜17 「バカじゃない」 

 「食べてはいけないものを何故、わざわざ園の真ん中に生やしたのか」 それが多くの人の素朴な疑問だ。結果、人は、その実を食べてしまった。ほら見たことか、と言うところかもしれない。が、しかし、見落としてはならない。蛇が惑わすまでは、その木は人にとって何の誘惑にも躓きの石にもなっていない。目もくれず、動物達の命名に勤しんでいる。つまり、神は決して「ほら見たことか」と言われるようなバカな事はしてはいないのだ。神は『ご自分でだれを誘惑なさることもありません』とヤコブ1:13にある通りだ。
 さて、木の実を食べて善悪を知った人間は、皮肉な事に、善悪をわきまえなくなった。まず、責任のなすり付けだ。それ以降、人間は罪と悪の深みに落ちて行った。何故なら「知る」という言葉は、知識ではなく、体験的に知る事を意味しているからだ。つまり「善悪を知る」とは「良い事も悪い事も実際に体験するようになる」という事なのだ。だから人間は誰でも、たまに良い事をし、時々悪い事をする。完全に聖い人などいないし、完全な悪人もいない。悪い親でも自分の子供には良い物を与える、と主が言われた通りだ。
 人は「命の木の実」は食べてよかったのに、それを選ばず「禁断の木の実」を選んでしまった。しかし、それでも「禁断の木」は置かなければならなかった。本当の自由の為には「最低限のルール」が必要だからだ。ゆえに神は、たった一つの、最善の、全てを満たしたルールを、人間を縛る為ではなく、自由を与える為に定めた。それが「神に従え」だ。そして、従うかどうか、その象徴として「禁断の木」を置いたのである。決して、木の実に毒があるから「禁断」なのではない。神が造った物は全て良い物だ(Tテモテ4:4参照)。神に従わず、自分の欲望とサタンの声に従う事が「禁断」なのである。
 「命の木」は、今や救い主イエス・キリストとして私達の為に備えられている。同時に「禁断の木」(人間の勝手な欲望、サタンの誘惑)も常に隣り合わせだ。だからこそ主は、私を食べろ(マタイ26:26参照)と言われた。命を得る為に。十字架で開かれた「命の道」か、自分の欲望とサタンの声に従う「禁断」か、選ぶのは自分だ。




2017年10月29日礼拝メッセージ マタイ5:3 「そうかな、うそかな」 

 自分には罪があり、弱く、時に疑いや恐れを覚える、そんな貧しい心を持つ者であると認める人は、救いを求めるようになるから幸いだ。しかし一方では、聖書は常に「恐れるな」「疑うな」と訴える。果たして、恐れ疑う心が幸いなのか、それとも……?
 クリスチャン精神科医の工藤信夫氏は著書の中で「健全な信仰は、多少なりとも不信仰を含むのではないか。いや、不信仰があって初めて信仰は次の段階に進むのでは」と言っている。A.W.トウザーも「時には少しばかりの健全な不信仰が必要だ。それは私達を数多くの沼地から救う」と言っている。しかしながら「健全な不信仰」とは何か。
 例えば、律法を破る(ルール違反)は良くない。しかし主は、働いてはならないと定められていた安息日に病人を癒したではないだろうか。あるいは、無実の者が罰を受けるのは勿論、良くない。交通事故を起こしたのに身代わりに誰かを出頭させるというのはけしからぬことである。では十字架はどうか。全ての人の身代わりに罪の無い方を罰するというのは悪の極致では? しかし主は、信じる者を救う為に自ら進んで十字架にかかられた。だからこそ私達は十字架を喜んでいるのである。そう、人を救う為なら、それは悪くない。良いルール違反、良い身代わりなのだ。同じように不信仰も、疑いを感じ、真理を求め、その結果、信仰が前進するなら良い不信仰となる。それは罪ではない(的を外していない)のである。
 人生には雨の日も曇りの日もある。道標なる御言葉を見失い、神への信頼が揺らぎ、疑いを感じ、不安になり、悩むこともあるかもしれない。それは不信仰なのだろう。しかし、道に迷った時にナビに頼って助けを得るように、自分の判断ではなく確かな道案内を求める、すなわち神の御心と導きをより深く求めるようになるならば、その迷い、疑いは「健全な不信仰」となるのだ。結果、御言葉に信頼して歩む、その時に「恐れるな」「疑うな」と主は言われるのである。
 「こんな罪人の私を憐れんで下さい」と胸を叩きながら祈った取税人のように、私達もへりくだろう。そんな「心の貧しい者」が幸いなのだ。天の御国はその人のものだからである。





2017年10月22日礼拝メッセージ 詩篇44:9〜26 「帰りたくない」 

 イスラエルは神の力に頼って様々な戦いに勝利した。それゆえに『御名をとこしえにほめたたえます』と8節で結ばれた。『それなのに』神に見捨てられた、と9節から16節は言うが、それはイスラエルが神により頼まず、他の神(偶像)を頼みとしたからである。つまり、イスラエルが神に見捨てられたという事実(殆どの人が約束の地に入れず荒野で死んだことや、バビロン捕囚、エルサレム崩壊等)は私達への戒めであり、今ももし自分の力で救われようとする(神以外のものに頼る、古い皮袋=律法主義に戻る)なら裁かれるということだ。
 さて、イスラエルは、自分達は神を忘れてなどいない、と弁解するが、それは通用しなかった。たとえ、神を忘れはしていない(信じてる)としても、神に頼らなかったのであり、それで良しとはされないということなのだ。
 そこで23節から救いを求める祈りとなるが、その中で「神よ、何故、私達を見捨てるのですか」と訴えられている。何故……、それはイスラエルが神により頼まなかったからだったはずだ。そもそも、神に頼らずして(自分の力で)約束の地に入ることは出来ない、それがこの詩を通して受け取るべき神からの中心的なメッセージなのだ。ところが人間は、すぐに自分の力に頼ろうとする。律法主義(古い皮袋)に戻ろうとする。初代教会にも、ユダヤ化(割礼、律法順守)を主張する人達がいたが、使徒達は、それは良くないと決議した(使徒15〜16章)。そしてパウロは「神の恵みを無駄にしないで」と懇願して言う。せっかく、十字架によって「行いによらず信仰によって救われる」道が開かれたのに、その上で行い(律法)に頼るなら、それは神の恵みを無駄にすることだ。なのに、今も、キリスト教をユダヤ教化させようとする人がいる。同じ過ちが何度も繰り返される。だから、そんな考え方(神以外のもの、行い、律法に頼ろうとする心)から救い出して頂かなければならないのである。26節にある通り「神の恵みの為に」だ。神の恵みを無駄にしてしまわない為に、私達は、ただ神を忘れないだけでなく、神に頼る者であり続けたい。そのようにして、人生の勝利である約束の地(天国)へと神に導かれて入る者となろう。



2017年10月15日礼拝メッセージ マタイ5:3〜4 「悲しむ幸い」 

 「貧しい」というギリシャ語は「プトコス」(へりくだった、の意)である。つまり、心(霊)のへりくだった(自分の内に罪がある事を認め、神に赦しと救いを求める心を持つ)者は幸い、ということだ。何故なら、罪を認め、赦しを求める人を神は救って下さるからだ。
 そして、悲しむ者は幸い、とも主は言われた。これもまた(悲しみが無い方が幸いなのでは? と)戸惑いを覚える言葉ではある。確かに、悲しい出来事が起きる事は、幸いとは言えない。しかし、それでも、悲しみを感じる心を持っている事は幸いだと言える。何故なら、世の中には、悲しむべき事が余りにも多いからだ。犯罪、暴力、麻薬、差別、いじめ、自殺……それらは日常茶飯事と化している。身近な所でそれは起きているのだ。なのに、何も気にならない、心を痛めない、悲しみを感じないとするなら、それはもう、心が麻痺してしまっている、異常な状態である。例えば、ホームレス殺人。それを行う少年達には、殺人という罪の意識が無いという。この事に悲しみを感じないでいられるだろうか。私達は、今の、この狂った世の中を憂い悲しむべきである。人々が、神の戒めを無視し、神ではないもの(偶像)を拝み、占いに頼み、悪の限りを尽くしている事を。主も、人々の不信仰のゆえに「ああ、エルサレム、エルサレム」と嘆き、涙を流された。私達も主と同じような悲しみを感じることが出来れば幸いだ。
 何よりも、私達は、自分自身の中に、悪や罪の要素がある事に気付く時に、恐れおののき、悲しみを感じるはずだ。私は罪人だ、と悲しくなるはずである。しかし、それでいい。それが幸いなのだ。何故なら、その人は、神によって慰められるからだ。その慰めとは、罪の赦しである。自らの罪を嘆き悲しむ人にとって、赦しこそ最大の慰めなのだ。十字架には、その赦しがある。御霊による慰めと励ましもある。神は、私達を苦難から助け出し、魂を癒して下さるのだ。だからこそ私達も、苦しみ悲しむ人を慰めることが出来る、と聖書は言う。無責任な気休めの言葉などではなく、「信じるなら、あなたの罪も赦される」と導く事によってだ。心が貧しく、悲しむ者は幸いである、と。
私達は、その幸いを喜びつつも、悲しみを感じる心を大切にしよう。





2017年10月8日礼拝メッセージ 詩篇44:1〜8 「何に包まれて?」 

 一読した限り、敵と戦って勝利出来たのは神のおかげだ、というようなことが書かれていると思われる。確かにイスラエルは数々の戦いを神の力によって勝利した。だから? 聖書は私達にも「勇ましく戦え」と勧めているのだろうか。
 確かに、人生は戦いだ。しかし、それは決して隣人との戦いではないし、隣国との戦いでもない。罪と死、この世の闇の力との戦いであり、神に従うか肉に従うか、天国か地獄かの戦いである。その戦いに勝つには神に頼れということ(すなわち、福音による救い)のモデル、それが旧約聖書なのである。特に2〜3節は、イスラエルが約束の地を手に入れた時のことであり、それは神ご自身の御業であるということが語られている。決して、人が自分の力で手に入れた地ではないということだ。そして、その約束の地は、この世ではカナンという土地であるが、それは飽くまでもモデルであって、本当の約束の地は「天の都」である。それはまさに神御自身の御業(御計画)であり、人が自分の力(行いの正しさ、律法主義)で手に入れられるようなものではない。恵みのゆえに、福音によって救われるのだ。そして、それを信じることの出来るようにと聖霊による促しさえも与えて下さる。全て、神の恵みである。
 なぜ、神は、そこまで恵みを与えて下さるのか。それは、神が人を愛したからだと3節は言う。ただし、誤解してはならない。この『愛した』は、ヘブル語の「ラーツァー」であり、喜んだ、受け入れた、という意味の言葉だ。つまり、神を信じ従う者を神は喜んで受け入れた。だから彼らは天国に入れるということなのである。
 ヨハネ3:16の、神が世を「愛した」は、不定過去形(アオリスト)、すなわち、神は「過去に一度だけ全ての人に愛を示した」ということであり、それこそが十字架である。その十字架を信じ受け入れるなら、なお更に神の愛に包まれる。が、拒むなら、裁かれる。
 とにかく、人生は戦いであり、勝利は天国である。その勝利を得るためには、自分の力(人間的なやり方)に頼るのではなく、神に頼れということだ。そのようにして神の愛に包まれて、信仰の道を歩もう。





2017年10月1日礼拝メッセージ ヨハネ1:1〜5 「光・ライト」 

 何事にも「始まり」があり、始まるには「原因」がある。当然、宇宙にも始まりがあった。そして、その原因、それが『光よあれ』という神の言葉である。
 さて、『すべてのものは、この方によって造られた』と聖書は言う。確かに、神は天と地の造り主だ。が、新幹線はどうか。飛行機は。それらを作ったのは人間ではないか。そう。しかし、「造られた」と訳されているギリシャ語は「ギノマイ」であり、直訳すれば「存在するに至った」という言葉である。つまり、神が天と地を造り、人間に命を与え、そして人間はあるゆるものを作り出した、という訳で、万物の存在、その始まりは神だということ、すなわち「全てのものは、この方(神)によって存在するに至った」ということなのだ。
 更に『この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった』と聖書は言う。その神から離れた人間は、死ぬ者となり、その心は闇に包まれてしまった。恐れと不安、悩みと苦しみ、罪と絶望……。
 主が言われたように「心に満ちていることを口が話す」のであり、「良い倉からは良い物を取り出し、悪い倉からは悪い物を取り出す」。つまり、私達の「心に満ちているもの」こそが、自らの言動を決定付けるものである、ということだ。だから、もし心の中に怒りや恨み、妬みや不満が満ちていたなら、そこから、人を傷付け、攻撃し、破壊するという言動が出て来る訳であり、そんな闇の心を照らすために、神の(御言葉による)光が必要なのだ。
 光は闇の中にこそ輝く。そして闇は光に打ち勝つことは出来ないのだ。たとえ、どのような漆黒の闇の中でも、少しでも光が射すなら、希望が芽生える。御言葉の光を受け取ろう。それは、聖書を全て理解しようということではない。心を開いて、御言葉の教えを素直に受け取り、その光で自らの心を照らすのだ。その光が心に満ちていくなら、人を愛し、慰め、励ます、そのような言動となって出て来るはずである。そのようにして「世の光」として輝こう。「救いの喜び」「赦された感謝」「天国の平安」、それらが、この世にあっての「光」なのだ。その為に、まず自らの心を主に照らして頂こう。




2017年9月24日礼拝メッセージ 詩篇43:1〜5 「逃げようか?」 

 『わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか』…それは、神に絶望する必要は無い、ということである。何故なら、神の裁きは公正であるからだ。ゆえに詩人は『欺きと不正の人から私を助け出してください』と訴える。詩人の周りには、欺く人、不正な人が取り巻いていたのだろう。いやむしろ、この世自体が、欺きと不正に満ちていると言うべきなのかもしれない。しかし、失望する必要は無い。神は公正な裁きをして下さる。その究極は、世の終わりの最後(白い御座)の裁きだ。全ての人が神の前に連れ出されて、その行いに従って裁かれるのである。それは誰も逃れることが出来ない。もう一つの公正な裁き、それは、人は必ず一度死ぬ、ということである。これは全ての人に平等に来る。どんな金持ちも、権力者も、王様も、逃れることは出来ない。悪者(罪ある者)にとって、そのような裁きは、恐怖であり、苦しみだ。しかし、正しい者(キリストを信じて義とされた者)にとって神の裁きは、救いであり、報われる時なのである。神は、罪人を地獄に落とすことが出来るし、悔い改めた者を神の子として下さることさえ出来る『力の神』なのだ。
 確かに、この世においては、神に見捨てられたと思うほどの苦しみ、失望…を感じるかもしれないが、それは決して真実ではない。そんな時にこそ、真理の御霊によって、「神は見捨てない」という真実に導かれることが必要なのである。
 そのようにして、絶望を感じる時も、御霊によって光を見出し、立ち上がって「神の御もと」に行くと詩人は言う。そこが『最も喜びとする』所なのだ。それは地上では、神の宮における礼拝であるが、いつかは地上を去る時が来る。それでも最上の喜びは失われはしない。いや、その時こそ本当の「最上の喜び」すなわち、天の都(神の御もと)に行き、神を崇める時の始まりなのだ。その信仰(確信)をもって歩もうと、この詩は指し示すのである。そうすれば、もはや、絶望する必要は無い。何故、絶望しなければならないだろうか。『神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い。私の神を』
 これこそが、自らの心の葛藤に対する解決である。




2017年9月17日礼拝メッセージ ローマ1:20〜25 「花 太陽 雨」 

 造り主なる神の存在は、被造物によって明らかなのであり、彼らに弁解の余地は無い、と聖書は言う。「彼ら」とは、神の存在を認めない人達のことだが、「彼ら」は、いざ裁きの時に、一切の言い逃れは出来ないのだ。それ程に、神の存在は、造られた世界を見れば(科学的にも、生命の自然発生は無い、すなわち進化しない、ということは)明らかなのである。だから、神の存在というものは、「信じる、信じない」の問題ではない。信じようが信じまいが、神はおられる。それが事実だ。要は、その神に従うか背くか、である。
 そこで「彼ら」は、神の存在を知っていながら、偽の神を作った、と聖書は糾弾する。確かに、偽物は、本物を見て作るものだ。本物を知らずして偽物は作れない。ということは、偶像(偽の神)の存在もまた、本物の神が存在することの証拠だということだ。そして勿論、偽物を作れば罰せられる訳で、神は「彼ら」を、その心の欲望のままにけがれに引き渡した、と言う。あってはならない最低のところまで人間は落ちてしまったのだ。全ての原因は、偶像を拝むということ。それは、真理と偽りを取り換えることだ、と聖書は言う。つまり、嘘を本当だと言い、本当を嘘だと言うことなのだ。そんなことをしたら、全てがひっくり返る。命が死となる。それが偶像崇拝なのだ。
 だから、真の神だけを礼拝しなければならない。それは単に、一つの宗教を持つというような低い次元のことではない。それは、宇宙の真理と、人間の尊厳と、自分の命を守ることなのだ。また、日曜日に教会で礼拝するということも、何か規則に縛られた生活というようなものではなく、自由と喜び、永遠の命を楽しむ中で、更なる恵みを豊かに受けるということなのである。
 花・太陽・雨、全て神が造られたもの(神の恵み)に包まれて私達は生きている。すなわち、神の恵みなしでは生きては行けない、それが人間だということだ。何より、信じる者に罪の赦しと永遠の命を与えて下さる神の一方的な愛と恵みに感謝しよう。そして主は今も生きて働いておられるお方である。この事実を認め受け入れた上で、主に信頼し、御言葉に従う、真の信仰者となろう。




2017年9月10日礼拝メッセージ 詩篇42:5〜11 「何故?」 

 魂が渇いて命の水を慕い求めていた詩人は、言わば霊的断食状態の中で断食の明ける日を期待しているのかと思えば、なんと、絶望していると言うのだ。「何故?」と詩人自身、自らに問いかける。それは、絶望している理由を聞きたいのではない。「絶望する必要はないでしょ?」と主張している、それが「何故?」だ。だからこそ『私はなおも神をほめたたえる』と言うのである。さすがは信仰者、と思いたいところだが、続く6節で、またしても『私の魂は御前に絶望しています』と言う。やはり、絶望しているのだ。
 ただ、絶望したから信仰を捨てるとは言っていない。確かに、絶望はしている。けれども「それゆえ神を思う」と言うのである。決して理想的な環境ではない、それどころか荒野(苦しみの中)でも、神に会えないわけではない、神を思うことが出来るということだ。そして、絶望の中にあっても、神の憐みと守りはある。その中で神を思う時に神の恵みを知ることが出来るし、何よりも大事なことを確認するのである。それは「神こそ私の命」だということだ。たとえ全てを失ったとしても、命である神がおられるということに気が付くことが大切なのだ。その為に、絶望の中でこそ神を思うことが必要なのである。
 続いて『なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか』と嘆きは続く。「神に見捨てられた」と思えるほどの絶望感。この世のことについては、そういうことがあるかもしれない。どんなに頑張っても状況は悪くなる一方。苦しみが続く。裏切られる。先が見えない。詩人は全く失望している。けれども、神に絶望しているわけではない。いや、神に絶望してはいけないのだ。それゆえ『わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか』との言葉が再び繰り返される。「絶望する必要はない」ということだ。それが悩みの末の決着であり、解決であり、結論である。むしろ『神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を』だ。
 だから、涸れた谷に失望していた人は神を待ち望め、ということである。この世において絶望の時にこそ、なおも神を待ち望もう。そして、教会に豊かに命の水が溢れ流れることを祈り求めよう。




2017年9月3日礼拝メッセージ 出エジプト3:13〜14 「わたしは在る」 

 名前というものは他者との区別の為にある。その点、神は唯一なのだから、本来なら名前を付ける必要は無い。だが、いつの間にやら人間は偶像を作り、それらをも神と呼ぶようになった。
 そこでモーセは、「どの神なのか」と聞かれたら何と答えたらいいですか、と真の神に尋ねた。その時、神は「『わたしは在る』というものである」と言われた。それは『名前』ではない。「私は存在している」という主張なのである。そう言うことが出来る、それが「存在の証明」だ。例えば、「われ思う故にわれ在り」というある哲学者の言葉のように、人間が何かを思う(意識する)、それが存在の証明だということだ。その神が、ある時、「光よあれ」と言われた。そう思ったのだ。すると光が出来た。そのようにして天地万物、そして人間は生まれた。つまり、全てのものは「神思う故に在る」ということであり、人間は造られたもの(被造物)に過ぎない、ということだ。それゆえ人間は、存在ということに関して全くの無力である。自分で生まれることは出来ないし、自分の命を延ばすことも出来ない。しかし、復活し今も生きておられる救い主キリストを信じるなら、永遠の命が与えられる。まさに「神生きるが故にわれも生きる」のだ。なのに、その造り主なる神に逆らったから、人の世は、つらく苦しく悲しいものになってしまった。そして偶像を作り、神と呼び、拝むようになった。それが「罪」だ。そして「罪から来る報酬は死」なのだ。
 神は、罪人を地獄に落とす権威を持っている。「この方を恐れなさい」と聖書は言う。「キリストこそ神」と認め、「私は命を与えて頂いただけの者」と認めるべきなのだ。そのように、悔い改める者を天国に迎え入れることさえ神には出来る。
 神はモーセを遣わした。真の神を証し、人々を解放する為である。「私は存在している」と言うことの出来るお方、真の神、それがキリストである。この名前以外に救いは無い、と聖書は言う。私達も、この御名を証する為に遣わされていると言える。偶像に囚われ苦しむ人々を解放する為に、家族の救いの為に、まず自分自身が解放された(救われた)者として、その喜びを証して行こう。




2017年8月27日礼拝メッセージ 詩篇42:1〜4 「なにかれてる?」 

 私の魂は渇いている、と詩人は言う。命の水(霊的栄養=賛美、祈り、礼拝)が足りないのだ。それは、荒野を逃げ惑っているという状況だから無理もないことだ。だから「いつになったら思う存分、礼拝出来るだろうか」と、エルサレムにいた頃の礼拝の満足感などを思い出しながら、それが出来ない今の魂の渇き(胸の内、その苦しさ)を訴えているのである。よく言われるように「失ってみて初めて、その大切さに気付く」ものである。しかし「礼拝出来る環境」は失ってからではなく、失う前に、その大切さに気付いて守る必要がある。
 さて、鹿(女性名詞が使われているゆえ、雌鹿)が谷川の流れを慕いあえぐ、という訳だが、雌鹿は水飲み場などでは格好の餌食である。それでも生きる為には水を飲まなければならない。それと同じように、私達の魂も、命の水を慕いあえぐ。どれほどの厳しい状況でも、生きる為には神が必要なのである。少しくらいの妨げがあるからと言って諦める訳にはいかない。命を懸けて求めるくらい必要だということである。事実、信仰には命が懸かっている。永遠の命か、滅びか、だ。命の源である神を失うことは、命を失うことに等しい。だから主は言われた。心の貧しい(魂の渇いていることに気付く)者は幸い、と。
 興味深いのは、新共同訳『涸れた谷に鹿が水を求めるように』だ。つまり、水を飲もうと思って谷へ行ってみたら涸れてた。そこで「水をくれー!」と叫ぶ鹿のように、だというのである。命の水を提供すべき教会が、そんな涸れた谷のようであってはならない。が、現実はどうか。勿論「真理の御言葉」(例えば「赦しなさい」など)は語られるだろう。しかし、その「御言葉の真理」(悔い改めたなら……であること)が語られないなら、それは涸れた谷に等しいのではないか。鹿は水を飲めないまま、疲れ果て、死んでしまう。
 生ける神(その真実な教え)は、信じる者を生かす。自由にする。休ませる。「水をくれー!」と叫ぶ鹿のように、私達も、生ける神を、魂を潤して下さる神を求めよう。そして、心の奥底から生ける水の川が溢れ流れ出るようになることを求めて、聖霊なる神で満たして下さい、と慕い求めよう。




2017年8月20日礼拝メッセージ ヤコブ4:2〜3 「必ず聞かれる祈り」 

 神の御心に適う祈りは聞かれる、と聖書は教える。だが、祈りの聞かれ方も色々である。例えば、@祈った通り、すぐに答えられる場合 A後になって、祈った通りに答えられる場合 B祈った通りではないけれど、もっと素晴らしい形で答えられる場合 C祈ったこととは正反対の形で答えられる場合、等だ。@〜Bは、素直に感謝だが、Cは、どうか。つまり、パウロのように、癒しを祈ったのに癒されない、という時だ。勿論それも、神が祈りに答えてくれたということではある。が「祈った通りではない」ということには違いない。
 そこで、「必ず祈った通りに答えられる祈り」を紹介したい。それは「へりくだった祈り」だ。つまり、神を自分のしもべのように自由にコントロールしようとする(祈りという手段で神に命令する)のではなく、自分が神のしもべなのだということを理解した祈りである。その模範がゲッセマネの園での主イエスの祈りだ。
 誤解を恐れずに言えば、園での主イエスの願い(苦い杯を取り除いて……)は叶えられなかった。しかし、その時の祈りは、祈った通りに聞かれたのである。すなわち「私の願いではなく、父の御心をなして下さい」という祈りだ。その祈りの通りに、父の御心がなされ、主イエスは十字架で死なれ、素晴らしい救いの道が開かれたのである。
 私達にも、そのような祈りの心が必要である。何故なら、自分の願望、我がまま、浅はかな考えで願う祈りが通ってしまうよりも、神の御心がなったほうが最善だからである。何しろ、神の計画は災いではなく、将来と希望と平安を与える計画なのだから。勿論、何でも好きなように自分の願いを祈って構わない。しかし、最後に「主よ、私の願いではなく、あなたの御心がなりますように」と祈るなら、必ず、その祈った通りになる。主の御心がなるのだ。そうすれば、信仰生活の中で、「祈りが聞かれなかった」というようなことは無くなる。すべての祈りが、祈った通りに実現するのだ。それが「私の願いではなく、主の御心がなりますように」という祈りなのである。そして、それ(主の御心がなること)が自分にとって最善の結果であることを知るなら、喜びと感謝に満ちる。




2017年8月13日礼拝メッセージ 詩篇41 「とんでもない」 

 聖書は、ある特定の、時代・宗教的背景・政治的状況の下で書かれているということを踏まえて読まなければ、正しく理解することは出来ない。例えば、主は弟子達を伝道に遣わす際「神の為に働く者が食べ物を与えられるのは当然」と言われた。それは、ユダヤ(単一宗教社会)においてこそ、のことであり、今の日本では当然ではない。また「父母を敬え。そうすれば地上で長生きする」(エペソ6:2〜3)という約束も、ユダヤの律法に「親に逆らう子は殺せ」(申命記21:18〜21)とあるがゆえ、親を敬えば殺されずに済む(地上で長生き出来る)のであり、それが「約束の伴う教え」だということである。
 同じように、「弱い人に心を配れ」ということも、ユダヤ社会の中に暮らす(それがユダヤ人でなく、在留異国人でも)弱い人を虐げるな、ということ(申命記24章)である。何故なら、ユダヤ人自身がエジプトで奴隷として虐げられた経験があるからだ。だから、そのつらい状況がわかるだろ? ということである。
 そういう訳で『幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は』という、この詩編の言葉は、世界中の弱い人を…ではなく、主の集会(ユダヤ社会…に相当する教会)の中の弱い人を思い遣るようにということであり、その人は幸いなのである。ダビデも、そのような人だった。
 ただ、それでもダビデは病気か何かで苦しんでいた。身近な者に裏切られもした。それはキリストに重なる(9節)。しかし、神に助けを求める。『そうすれば私は、彼らに仕返しが出来ます』と言う。この「仕返し」は、ヘブル語の「シャローム」(平和)だ。つまり、そこに敵意が存在しなくなることを期待するということだ。キリストも、まさに、裏切られ苦しみを受けたが、神によって立ち上がらせられ、信じる者と神との間の敵意が取り除かれるようにして下さった。
 最後にダビデは『誠実を尽くしている』と言う。神の前に罪を犯した、と自ら告白しているのに、だ。確かに、決して立派な人間ではないかもしれない。それでも、神に向かい合うのをやめない、神の前から逃げない、神の語り掛けを受け止める、悔い改める、ということにおいて誠実なのだ。私達も、そのようにして、心の平和を保とう。




2017年8月6日礼拝メッセージ ヨハネ8:30〜34 

 主が神の国について教えられた時、多くのユダヤ人が信じた。しかし、そんな彼らが、手のひらを返したように「イエスを十字架につけろ」と叫んだのである。全く「何を考えているんだ」と言いたくなる。実に、人間とは「自分が何をしているのか、自分でわからない」ものなのだ。だからか、主は、その信じたユダヤ人達に予め言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら自由になる」と。そう、本当のクリスチャンになるということは、自由になることなのだ。だから、縛られるのが嫌な人はクリスチャンになるべきだと思うが、「いや、必要ない。私は自由だ」という人もおられるかもしれない。ユダヤ人達も「自分達は奴隷ではない」と反発した。けれども主は『罪を行っている者はみな、罪の奴隷です』と切り返す。
 最も端的な例は、先祖崇拝だろう。多くの日本人は、やめたくてもやめられない。祟りを恐れ、バチを恐れ、呪いを恐れている。間違いなく人々は、目に見えない何かに縛られている、まさに奴隷なのだ。
 しかし、主の言葉にとどまる(本当の弟子になる)なら真理を知り自由になる。ただ「知る」というギリシャ語は「体験的に知る」ことであって、そして真理とは単なる教えではなく、「私が真理である」と主が言われた通り、キリストが真理そのものなのだ。だから「真理を知る」とは「キリストを体験する」ことなのである。例えば、十字架による罪の赦し・救い、慰め、励まし、恵みなど、神の力を体験することだ。単なる良い教えでは人は救われない。しかし、真理であるキリストは信じる者を自由にする。罪から、呪いから、恐れから、病からも、死からも。永遠の命と新しい体の約束によって。そして、主の御霊(聖霊)を体験する事によっても心が解放される。御霊の実(愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制)によって。
 そのように、キリストを知る(体験する)なら自由になる。そして、自由になった本当の弟子(クリスチャン)は、更なる真理を求めて主のもとに集う。キリストをもっと体験する為にだ。私達は、聖霊によって益々真理なるキリストへと導かれよう。そしてキリストの力、恵み、守り、慰め、癒し……を体験させて頂こう。




2017年7月30日礼拝メッセージ 「何でしょう」 詩篇40  

 嘆き一辺倒という訳ではない。記念でもない、アルファベット詩でもない。では、教訓? 預言? この詩は何か。
 1〜2節は、救いの表現である。私達も、これとほぼ同じプロセスを通る。主を呼び求めて(底無し沼から引き上げられるように)救われるのだ。救いは、自分の行い、努力、修行などにはよらない。救い主によって救われるしか救われないのである。そして救われたら、その人の人生は確かなものとなる。素晴らしい主の恵みだ。
 そのようにして、私達の口に「賛美が授けられた」(神を賛美する者へと変えられた)と3節。その証を見て、父なる神が崇められる。
 続いて『幸いなことよ』と4節。主に信頼すると共に、変な方に行かなかった人が幸いだ、と言うのだ。変な方とは? まず「高ぶる」ということ。クリスチャン(主に信頼する者)であるのに、祈らない(神など無用だ、自分で何でも出来るという姿勢)、それが高ぶりである。もう一つは「偽りに陥る」。主に信頼しつつも間違った教えを受け入れてしまうということだ。それは教える側に責任があるのだが。だから、そのような教えを聞かずに済む(守られる)なら、それはいかに幸いか。ゆえに「主の御計りは述べ尽くせない」と5節。幾らでも言える。すなわち、神の偉大さ、栄光を宣言する「礼拝」は尽きないということだ。しかし「神は、儀式的・形式的な礼拝を喜ばない」と6節。それゆえ神は「私の耳を開いて下さった」と詩人は言う。つまり、真理を聞く耳を持つこと、それが神の喜ぶことだという訳である。主も、聞く耳のある者は聞きなさい、と何度も言われた。真理抜きの形式だけの礼拝を神は喜ばない。それを悟った詩人は「心を尽くして…神を愛せ」と『巻物の書』(聖書)に書かれていたことを思い出し、宣言する。高ぶりや偽りの教えに向かわないために、この大事なことを語り伝えると。真理を聞く耳を持つことが必要だ、と。
 助けて下さい、という11節の祈り、その祈りの理由は12節だ。それを新約的に言えば、絶望的なほどに敵に取り囲まれている(Tペテロ5:8参照)ということだ。だから「主よ、守って」と祈るのだ。私達も、神の助けを得て、霊・魂が守られるように(Tテサロニケ5:23)と願おう。





2017年7月23日礼拝メッセージ 「黙って3分、喋って一生」 詩篇39 

 舌は悪、死の毒に満ちている、不義の世界だ、とヤコブ書では厳しく指摘されている。ダビデも『舌で罪を犯さないために』と沈黙した。ただ問題は、『よいことにさえ、黙っていた』(別の翻訳では「良いことさえも何も言わなかった」)というところだ。それで苦しくなった、というのである。
 たまりかねて、ダビデは口を開いた、それが4〜13節である。ここに「語るべき『良いこと』」がある。9節は「これ(4〜13節)以外のことは言わない」ということであろう。
 まずは、人間(人生)は儚いということ。それを知る必要がある、と4〜6節で言う。だからこそ、神(に会う、すなわち天国に入ること)を望む、と7節。その為には、罪の赦しを得なければならないということを8節で。何故なら、神に責められて(罪を探られて)耐え得る人はいない(全ての人には罪がある)からだと10〜11節。ゆえに、憐れみを求めて祈るのが12〜13節である。
 ダビデは、それを語らなかった。「語らない」ということは、単に黙っているということ以上に、それを「自分の告白」としていない(それを認めていない、あるいは、それを自分の生き方としていない)ということであり、それはすなわち、死んだらおしまい、という虚しい人生だということである。苦しくなるのは当然だ。
 結局ダビデは、その「良いこと」(地上では旅人であり、天国を望んでいること)を自分の告白とし、神の憐みを祈り求めた。それが「神の子」だということであり、それを自分の告白(自分の生き方)としようということだ。
 人生は短い。儚さ、虚しさを感じることもあるかもしれない。しかし、だからこそ、天国に希望を持つべきなのだ。そこに希望がある。神の憐みを喜ぼう。そう、神の憐みのゆえに救いの道が与えられた。キリストを信じるなら、罪の赦し・天国が与えられるのだ。この大いなる恵みを黙っているわけにはいかない。『私の望み、それはあなたです』と告白しよう。それを、語るべき(そういう生き方をするべき)である。そのような告白をする信仰者となって、人にも語って行こう。





2017年7月16日礼拝メッセージ 「しか、さんか」 詩篇38 

 自らの過ち、罪の経験、その苦しさを忘れないように(記念の為に)、ダビデはこの詩を、読者の為にではなく、自身の為に書いた。その苦しみの表現が前篇に渡って切々と記されている。それでいて、表題には「賛歌」とある。果たして、この詩から私達は何を学ぶべきか。
 唯一、前向きな信仰が見られるのが13〜15節だ。「自分を非難する声が聞こえても何も言わない。それは、神を待ち望んでいるからだ。神が答えてくれる」と。つまり「神に全てを委ねている」ということだ。が、それは「非難を受けるのも神に任せた。神が責めを受けてくれる」ということではない。神に委ねるべき部分、それは、結果がどうなるか、という部分をこそ神に委ねるべきなのであり、自分のなすべき責任さえも委ねてしまってはいけない。例えば、試験。勉強は自分のすることであって、神に任せることではない。が、全力で試験を受けた後、その結果がどうなるか、あがいてもどうにもならない。だから、そこを神に委ねるのである。
 そのようにダビデも、自分の罪の結果を神に委ねたから、非難の声を聞いても反論しないし、言い逃れもしない、神の罰も受ける、ということだ。そういう意味で「全てを委ねている」のである。そして彼は祈った。私が弱っている時(である今こそ)、助けて下さい、と。
 神は、この詩を用いて、私達に警告を与えるのだろう。気を付けろ、ダビデのような経験しないほうがいいぞ、と。例えば私達は、人の証しを聞いて感動する。そのように、この詩を読んで、言わば「仮想体験」をし、自分への戒めとして(二度と繰り返さないように、と)覚えておくべきなのだ。もし仮に、実体験をしてしまったら、ダビデと同じように神を待ち望み、神に委ね、全てを神にお任せするしかない。
 人生の結末、最後の裁きの時、どんな結果が出るのか、それは神に委ねるしかない。しかし、その時が来るまでは、私達は最善を尽くす必要がある。天国を見失うという最悪の結果になることのないように、今、私達にはするべきことがある。全力で、主への信頼を育むことだ。主に信頼する者を主は助けて下さる。ダビデも、そう思うからこそ「早く、助けて」と訴えた。そう、神は助けて下さる。賛歌である。




2017年7月9日礼拝メッセージ 「 あ 」 詩篇37:35〜40 

 『平和の人には子孫ができる』と言うが、ある人はこの言葉に違和感を覚え、ある人(例えば、不妊で悩む人)は躓くかもしれない。これは翻訳の問題である。『子孫ができる』は直訳は『未来がある』であって、新共同訳では、ちゃんとそう訳されているのに、不思議だ。
 さて、この37篇は「この世にあって悪は栄える」ということを言う。それは『おい茂る野生の木のようにはびこっていた』と。うまい表現である。小さなハサミやスコップのようなちっぽけな個人の正義では歯が立たない。この世の悪はそれ程に根深い。『だが、彼は過ぎ去った。見よ。彼はもういない』と続く。これはいつのことを言っているのか。この世が終わった後のことだ。神の最後の裁きの時が来たら、悪は存在し得なくなるのだから。ゆえに新共同訳では『時がたてば、彼は消えうせ、探しても、見いだすことはできないであろう』と訳されている。その時は、まだ来ていない。ゆえに今、悪は栄える。毒麦の伸びる時期なのだ。果たして、悪が過ぎ去る日はいつ来るのか。悪が栄えるのは『しばらくの間だけ』とはいえ、すでに約6000年ではないか。それを「しばらくの間」と言うだろうか。いや、過ぎてみれば「あ」という間なのかもしれない。人生のように。そう、だから今の内に『全き人に目を留め、直ぐな人を見よ』とこの詩は言う。ボヤボヤしている暇はない。短い人生の中で信仰を確立させなければならないのだから、時間を無駄には出来ない、と。
 主に信頼し、神の家族に善を行い、信仰を糧とする人、心に神の教えが在り、それを語る人、神との平和を持っている人、その人には「未来がある」。地(新天新地・天国)を受け継ぐからだ。必然的に、悪者には未来がない。地獄、それは永遠の苦しみの世界だ。
 だから主は言われた。片手片足を失っても天国に入るほうがいい、と。その為なら、全てを投げ出しても構わない、それが天国だと。そのような信仰を確立させるために、今の時を大切にしよう。「信仰を建て上げるのに有益なこと」に目を留めよう。「そうでないこと」には心を留めないようにしよう。「そうでないこと」に直面したら、主に身を避けよう。主こそ我らが盾、隠れ場であるから。




2017年7月2日礼拝メッセージ 「知恵」 詩篇37:30〜34 

 正しい者は知恵を語る、と詩篇は更に言う。知恵と言えば、箴言だ(知恵についての教えが99回も出て来る)が、その中でも注目すべきは『主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである』(箴 9:10)だ。真の神がおられると知る(そして従う)こと、それが「知恵の初め」だと言うのである。口語訳では「知恵のもと」だ。そこから知恵が出て来るということである。すると、神を知らない人には知恵が無いということか。いや、日本の99%の人が神を知らないのにもかかわらず、この国は英知に満ちている。ただ、神抜きの知恵は、芯の無い(絶対的ルールの無い)知恵だ。だから悪知恵が働く。つまり、「知恵のもと」とは、神についての知恵(神を理解する知恵)であって、その初めが、神を知り従うことなのだ。そうすれば、『彼はますます知恵を得よう。正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう』(箴9:9)というわけなのである。ちなみに、「語る」という言葉は「口ずさむ」(詩篇1:2)と同じ単語である。それは「心の中に神の教えがある」ことの現れだ。心にあることを口が話すのであるから。その人の歩みはよろけない、と詩篇37:31に続く。
 この「よろけない」は、原語では「ズレない」である。歩みがズレないということは、目標をしっかりと捉えている、ピッタリ方向が合っている、必ずゴールする、ということだ。では、人の歩み(人生)は、どこに向かうべきか。それを知らずして、ズレるも何もない。人の歩みの向かう方向、それは天国である。その目標からズレるなら、その人生は、よろける。そして敵であるサタンは、そうなるように仕向ける。ズレさせるのだ。間違った教えに、気付かない内に、少しだけ。そうすれば天国を見失わせることが出来るからだ。しかし、神の教えを心に宿し思い巡らして(口ずさんで)いる人の歩みはズレない。知恵によって、神の言葉が指し示す方向を良く理解しているからだ。
 だから主(にお会い出来る日)を待ち望め、と34節に続く。すなわち、天国に入る日だ。そして『その道を守れ』と言うのである。天国に入るための道を1ミリでもズレるべきではない。主にお会い出来るように、その道を日々、守って歩もう。




2017年6月25日礼拝メッセージ 「ドンな歩み」 詩篇37:23〜29 

 「人の歩みが確かにされる」とは、人生が安定する、ということだろうか。いや、続く24節では『その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない』とある。その人は倒れない、とは言っていない。倒れても致命傷にはならないだけで、普通に倒れることもあるということだ。それを「安定」とは言えない。そもそも、世にあっては患難がある。人生は一歩先が見えない、そういうものだ。しかし、主に信頼して正しく生きる人は「地(新天新地・天国)を受け継ぐ」。その信仰の道を行く人の歩みは確かにそうなる(天国に行ける)ということ、それが『人の歩みは主によって確かにされる』ということなのだ。たとえ、倒れることがあっても(最悪、死んでも)破滅ではない。主の(天国の)約束に支えられているからだ。
 そのような正しい人(信仰者)が見捨てられたり、その子孫が飢えるなどということを見たことがない、とダビデは言う。しかし、日本でも迫害されて非業の死を遂げた沢山の信仰者達がいた。子供達に食べさせる物がなく、飢えて、やむにやまれず農民一揆を起こした信仰者達が天草にいた。そういうことを彼は知らないから言うのだろうか。いや、実はこれはダビデの親友ヨナタンと、その子メフィボシェテのことを言っているのである。ヨナタンは父サウル王に背いてでも、ダビデの命を守り助けた、正しい人だった。最終的にはヨナタンは戦死するが、決して見捨てられてはいない。魂は神の御手によって守られている。『その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない』ということだ。そして、その子孫も飢えることのないようにと、ダビデ王の食卓に着くようにされた。神のしもべに善を行う者は見捨てられないのである。主も言われた。「神のしもべに水一杯でも飲ませるなら、その人は決して報いに漏れない」と(マタイ10:42、25:40参照)。そう、神の子供達に対してしたことが、主にしたことなのである。
 だから、主にあって(神の家族に)善を行え、それが神に従う生き方だということである。その歩みは主が確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。倒れることがあっても、支えて下さる。守って下さる。信じて、神に従い、神の家族に善を行う歩みをしよう。




2017年6月18日礼拝メッセージ 「のようなもの」 マタイ13:44〜46 

 天の御国の例えである。神の愛を教えているのではない。天国はこのようなもの(天国はこんな感じ)だと教えているのだ。
 二つの例え、「宝を見つけた農夫」と「最高の真珠を見つけた商人」、よく似た話ではある。しかし、前者では、天国は「宝」に例えられている。もし、両者が同じ趣旨の例えなら、後者では、天国は「真珠」に例えられるはずである。しかし、天国は商人のようなものだと主は言われた。つまり、農夫と商人は同一線上にはいない(二つは内容的に同様の例えではない)ということだ。
 まず、天国に例えられた「商人」は、最高の真珠を捜している。そして、それを得るためなら全てを引き換えにして構わないと考えているのだ。天国はそのようなものだ、と教えているのである。何物にも代えられないと考えるべきものだと。だからと言って、地上のことはどうでもいいという訳ではない。パウロも「脱ぎたい(死にたい)のではなく(新しい体を)着たいのです」(Uコリント5:4)と言っているように、天国で全てが新しくなる、それが最高の真珠(何物にも代えられないもの)だと考える人となるべきなのだ。
 前者は、天国を農夫に例えていない。宝に例えている。ポイントは、この農夫は小作人であるということだ。農夫にとって人生とも言える「畑」が借り物なのである。その人生の中で彼は宝を見つけた。それは文字通り、何かとてつもなく大切な、命とも言えるようなものだ。すると、その人は畑ごと買い取る。結果、その人は、借り物の人生ではなく、自分の人生を生きるようになる。天国は、その宝のようなものなのだ。つまり、真の神・信仰・天国の希望を発見すれば人生が変わる、と。頑張っても報われない借り物の人生ではなく、自分の人生として、生き甲斐を持って生きることが出来るようになるということだ。だから、畑と宝は切り離せない。宝を畑ごと自分のものとする必要がある。自分の人生の中に、天国の希望が必要なのだ。
 麦と毒麦の話も「天国の例え」だ。天国は、それを曖昧にしない。御言葉の真理を曖昧にしてはならないのである。『耳のある者は聞きなさい』と主は言われた。私達は御言葉に対して誠実でありたい。




2017年6月11日礼拝メッセージ 「しばらく」 詩篇37:8〜22 

 『怒ることをやめ』よと、この詩は言う。確かに、信仰者は柔和で温厚で人格者、というイメージがあるだろうから、怒りは相応しくないかもしれない。特にキリスト教は、愛し合いなさい、赦し合いなさい、受け入れ合いなさいと教えるのだから尚更だ。しかし『怒っても罪を犯してはなりません』(エペソ4:26)とあるように、怒りに任せて我を見失うな、と聖書は言うのであって、怒り自体は否定されてはいない。何しろ、神ご自身『日々、怒る神』(詩篇7:11)なのだから。
 この詩が言うのは、あくまでも「悪を行う者が栄える」のに対して怒るな、ということだ。それがたとえ、純粋な怒りであってもだ。何故なら、神がキチンと裁くからである。『彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ』(2節)、『ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる』(10節)とある通りだ。
 しかし、『しばらくの間』とは、どのくらいの期間なのだろう。「しばらく」、それは比較的短い期間であるはずだ。決して、50年、100年という単位ではないだろう。所が、サタンの支配する、この罪の世界は6000年程も続いているではないか。『しばらくの間だけ』のはずが、いつまで続くのか。いつになったら悪者はいなくなるのか。
 9節を見ると、悪者が断ち切られたあと、主を待ち望む者は地を受け継ぐ、とある。信仰者が受け継ぐ地、それは「新天新地・天国」だ。それはこの地が過ぎ去ってから現れる。つまり、聖書の言う『しばらくの間』とは「この地上が存続している間」のことなのだ。すなわち、この世のある限り、悪は繁栄するということだ。そう、そして、悪と不信仰に満ちて、艱難時代(後半の3年半は、大患難時代)が来て、ついに裁きの時が来るのである。しかし、その前に、クリスチャンは携挙される。主が迎えに来て下さって、空中に携え上げられ、まさに救われるのだ。これが慰めである(Tテサロニケ4:16〜18参照)。どんなに悪い世の中になっても、たとえ最悪の事態が来ても、主が守ってくれる。だから、今の内に、主への信頼を強めておくことが大切なのである。信仰を糧として、主の御側に行くことを自らの願いとしよう。その人は『豊かな平和に自らを委ねるであろう』(11節・新共同訳)。




2017年6月4日礼拝メッセージ 「足りなかったもの」 使徒1:3〜8 

 主は復活後、40日間地上にとどまり、弟子達に『ご自分が生きていること』の『数多くの確かな証拠』を示された。数多くである。それ程に、弟子達は信じていなかったということだ。彼らは主の復活によって立ち直りはしたが、それでもまだ何かが足りなかった。それは一つには勿論、聖霊の力である。だから主は、約束の聖霊を待て、と言われた。そして弟子達は聖霊を受け、力強く証し、教会は誕生した。
 しかし、弟子達には、もう一つ、足りないものがあった。それは「神の国の理解」だ。と言うのは、主が「聖霊を受けよ」と言われた後、弟子達は又しても主に政治的な革命(イスラエル国家再興)を期待しているからだ。何故、彼らはそこまで地上の王国にこだわるのか。それは「救い主はダビデの跡継ぎ」だと預言されていた(エレミヤ23:5〜6)からである。ダビデやサウルがそうであったように、王は国民を守る為に敵と戦う。ゆえに、その後継者であるキリストは、失われた国を民の為に再興してくれると考えていたのだ。確かに、人間には、そのような「王」が必要である。現代的に言えば、国や政府、市役所などが、その代わりをする。しかし彼らは、本当の意味で国民を守ってはくれない。自らの権力と地位を守る為に国民を犠牲にする、それが「地上の王」だ。けれども、キリストはこの世の王ではなく、神の国の王だ。民の真の命と心を完全に守ってくれる王なのである。だから主は復活ののちも、神の国を語られた。
 『何はともあれ、神の国と神の義とを第一に求めなさい』とも言われた通り、神の国を求める(神の国を最大の願いとする)、それが本当の信仰だ。その為に、聖霊に満たされることが必要なのである。何故なら、聖霊は「全ての真理の中に導く」お方だからだ。神の国を求める(正しい)信仰へと。そして、その「神の国」の王、それがキリストだという証へと。弟子達は聖霊によって、その真理へと導かれた。それ(神の国の理解)を証する力、それが聖霊のバプテスマであり、それが教会の原点だ。私達も、聖霊に満たされて、その証人となろう。すなわち、「神の国を求めるべきであること」「その王であるキリストを心に迎えるなら、完全に守られる」ということの証人と。




2017年5月28日礼拝メッセージ 「甘い言葉」 詩篇37:1〜7 

 悪が栄えるのを見るときに、怒りと共に、もしかしたら妬みも感じる、ということがるかもしれない。「そうだ、罪の限りを尽くして、死ぬ間際に悔い改めれば……」と。そんな考えを持たないように(それは甘い)ということが言いたい1節である。何故なら、彼らは必ず倒れる時が来る、と2節。だから主に信頼して、真面目に生きて、誠実を養え(新共同訳では、信仰を糧とせよ)と3節。
 ただ4節は、やや疑問だ。主を喜びとすれば心の願いが叶えられる、と言うが、そもそも、悪を行う者はなぜ栄えるのか、という怒りがあって、その人は、主を喜びとするからこそ、悪が栄えないようにと願っているのに、どうして、その心の願いが叶えられないのか、だ。
 現に今、悪は栄えている。世の中ますます悪くなっている。なぜ、悪は栄えるのか。本当は、その答えは分かり切っている。この世に悪と罪、不信仰が満ち溢れて、終わりの時が来る、それが聖書のシナリオである。その、終わりの時まで悪は増殖して行くのだ。
 それでは、4節は一体、どういうことか。前半は、新共同訳では「主に自らを委ねよ」である。5節にも『あなたの道を主にゆだねよ』とある。例えば、ステパノ。「我が魂を御手に委ねます」と自らを主に委ね切った。彼の心は何を願ったか。平穏な余生? 名誉と権力? いや、叶えられたのは、殉教(主のもとに行くこと)だ。パウロも、早く主のもとに行きたい、と言った。主に自らを委ね切った人の願い、それは、主と共にいる事であり、それが叶えられるということなのだ。
 すると、地上の人生に未練を残さず、さっさと死ぬべきということか。いや、地上でやりたいこと、人生設計、それらは悪くない。しかし、その願いを叶える、と聖書は約束してるのではないのである。「いや、何でも叶う」と教えるなら、それが「甘い言葉」だ。あくまでも、主に自らを委ねた人の心の願い(主のもとに行くこと)が叶えられるのである。その人の為の裁きは輝く。勝利の時、喜びと感動の時だ。だから、悪の繁栄を見て、怒りと不平をもって主に訴えるのではなく、主に信頼して祈れ、と7節。神の沈黙を責めるべきではない。私達が、沈黙する(主に信頼する)べきなのである。




2017年5月21日礼拝メッセージ 「どうよ」 詩篇36:1〜12 

 『罪は悪者の心の中に語りかける』と言うが、罪は生き物ではないし、口も持たない。結局は自分だ。そして、「語りかける」というヘブル語「ネウム」は「お告げ」を意味する。例えば「神のお告げ」のように、罪の性質に従う自分自身が自分の心にお告げをする、ということだ。そして、その「お告げ」に従って罪を行なう(お告げには背けない)というメカニズムになっているという訳である。その場合、自分自身が神になっている、とも言える。それはすなわち、神を神としない、ということだ。そして彼は、自分の罪・過ちを見つけて、それを軽く憎む(罪を過小評価し、自分自身を過大評価する)ことによって、自分に媚びる、欺いている、と聖書は言う。
 それに対して、神を神とする、それが信仰者だ。そのような行動原理を持つ人の人生は、そうでない人と比べて歴然とした差がある。
 ただ、一点。『あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ』とはどういうことか。特に『獣を栄えさせ』だ。例えば、ライオンなら、沢山のウサギを捕れるということか。それならウサギは栄えないではないか。スズメバチなら、大きな巣を作るということか。それは人に危険が及ぶではないか。むしろ害虫類などは栄えさせないで頂きたいと思う。そう、『栄えさせてくださいます』とは繁栄のことではない。直訳は「救ってくださる」だ。イザヤの預言にあるように、天国では狼もライオンも羊も共に草を食む、という訳である。その天国の素晴らしさを語る、それが7〜9節である。そして、その恵みを地上においても幾らか味わうことが出来るように『注いでください』と願うのであり、この素晴らしい信仰の道から外れないようにして下さい、と祈るのである(10〜11節)。信仰の道から外れるなら『そこでは、不法を行う者は倒れ、押し倒されて立ち上がれません』と12節。
 だから、そうならないように、神を神とせよ(神を恐れよ)ということだ。時には、神に従い切れないこともあるかもしれない。だが、神に従いたい、という思いまで失ってしまってはいけない。
 主の恵みを「注いで下さい」と祈りつつ、それを受け取ることが出来るように、主の道を歩む者となろう。





2017年5月14日礼拝メッセージ 「だったら、何故?」 詩篇35:1〜10 

 例によって、苦しみの叫びと悲痛な祈りだ。しかし、ダビデには、信仰による勝利の確信がある。だったら何故、神への批判があるのか。『目をさましてください』(つまり「正気に戻って下さい」)とダビデは神に訴える。神のしていること(悪を放置し、沈黙していること)は間違ってる、と批判しているのである。なのに、救われると確信しているのだ。そして、確信している割には神を批判しているのである。
 結果的にダビデは、敵対するサウルを殺さなかった。が、8節で『滅びが彼を襲いますように』と敵を呪っている。実は殺したかった、けど善人ぶっただけなのか。では神がダビデを「忠実なしもべ」と言うのは何故か。サウルにしても、最初は神の忠実なしもべだった。だからこそ王に選ばれたのだが、段々と変質していった。その点ダビデは、罪も犯したが、絶えず砕かれた心(悔い改め)で神の赦しと恵みを味わい続けた。そこが御心に適っていたのである。
 だから9節の「敵が滅びることによって、主にあって喜ぶ」というのは、ダビデの復讐心などではない。神の御心に沿った喜びなのだ。では、誰が滅びれば、神にあって喜べるのか。それは悪魔である(エペソ6:11〜12、Tペテロ5:8〜9参照)。悪魔は、どんなにあがいても神に勝つことは出来ない。決定的に立場が違う。神は創造主だ。その神が味方なら誰が敵対出来るだろうか、圧倒的勝利だ、とローマ8章は言う。だったら何故、今、悪魔の大暴れは放置されているのか、だ。それが詩篇35の深層心理だと言える。今も人々の目は眩まされ、惑わされている。勿論、最後には神のしもべが勝利し喜ぶ時が来る。それが8〜9節だ。だからこその18節の「天国での賛美」なのである。
 神のしもべが義とされることを喜ぶ者は、喜び楽しむようにして下さい、とダビデは神に願う。私達は何を喜ぶべきか。天国をこそ喜び楽しむべきなのだ。そして「ご自分のしもべの『繁栄』(新共同訳では『平和』)を喜ぶ神は大いなるかな、といつも言わせて下さい」とも。願うということは、それが不足しているからに他ならない。
 厳しく辛い現状はあるとしても、天国という勝利の時は必ず来る。その約束がある今、神の恵みを喜び楽しみ、大いなる神を崇めよう。





2017年5月7日礼拝メッセージ 「悩みは多い」 詩篇34:13〜22 

 心にあることを口が話す、と主は言われた。例えば、「お世辞を言ってやろう」という思いが心にあるから、口からお世辞が出るのである。心にも無いことは口から出ないのだ。ゆえに、心に何を満たすかが重要である。もし、聖霊に逆らうことを言うなら、それは、神を恐れる思いが心に無いからである。ゆえに、その言葉によって裁かれる(マタイ12:34〜37)。だから、神を恐れよ、ということだ。
 それで、神を恐れる者への祝福がいかなるものか、を覚えさせたい、それが15節からであるが、16節には『彼らの記憶を地から消される』とある。それが祝福か。いや、裁きだ。ただし、この場合の「彼ら」とは「悪をなす者」であるが。果たして「覚えさせたい祝福」とは何か。それを知る鍵は18〜20節に出て来る『彼』である。それは誰か。
 ヨハネ19:33〜36に、十字架上の主イエスのすねは折られなかった、ということが記されている。「このことが起こったのは、詩篇34:20の成就だ」と解き明かされている。ということは、詩篇34:18〜20の『彼』は、キリストのことだった、という訳だ。そして同時に「キリストの十字架と復活に与る者」のことでもある。すなわち、神を恐れる(神を愛し、信頼し、従う)者だ。そのような「正しい者」、魂の砕かれた者を救う(18節)と言うのである。
 19節には『正しい者の悩みは多い』とある。全能の神を信じ、祈る、そんな「正しい者」なのに、だ。確かに、祈れば何でも叶う、という訳ではないということも「正しい者」にとっては悩みの種だ。自分の信仰が足らないからか、と自分を責め、「何か罪が残ってるからだ」と他者から責められる。何と「正しい者」の悩みは多いことであるか。しかし『主は、そのすべてから彼を救い出される』と19節は言う。もはや偽りも惑わしも悩みも病も死も無い世界(天国)で新しい体を与えることによってだ。それこそが「神を恐れる者への祝福」なのである。それを覚えさせたい、このアルファベット詩である。
 神を恐れない(という悪)は、その人を破滅に落とす。キリストを信じる「正しい者」を憎む者は、既に神を憎んでいるゆえに罪に定められる。しかし『主はそのしもべのたましいを贖い出される』のだ。




2017年4月30日礼拝メッセージ 「神は、恐ろしい?」 詩篇34:9〜12 

 「主を恐れる(主を愛し、信頼し、従う)なら、乏しいことがない」と聖書は言う。これは、クリスチャンは金持ちになれる、ということか。いや、これは、若い獅子や若者(イザヤ40:30〜31参照)のように力があっても、やがては衰え、死ぬということに対してのクリスチャンの姿を言っているのだ。つまり「外なる体は衰えても内なる人は日々新しくされる」ということである。キリストを信じる信仰は、人間の欲望を満たす為のものではない。罪の赦し・魂の救いの為の信仰だ。
 では「命を喜びとし、幸せを見ようと、日数の多いのを愛する人」を探す、と言うような12節は何か。地上で長生きするとこそ幸せ(それを愛そう)ということか。いや、それは「この世」の考えだ。事実、パウロは「早くこの世を去りたい」と言う。「そのほうがはるかに優れている」(ピリピ1:21〜23)と。ただ、地上に残ることによって益になることもあるので地上にとどまっている、という訳だが、パウロの望みは「世を去る(天国に行く)こと」なのだ。だから、地上で長生き出来なかったとしても、それで不幸だという訳ではない。むしろ、長生きしても天国に行けないことのほうがはるかに不幸なのである。
 大事なのは「命を喜びとする」ことである。その為には、神を知ることだ。神抜きでは、それは出来ない。何故なら、神抜きでは、全ては偶然(意味も目的もない)ということになってしまうからだ。生まれた目的も生きる意味も知らないなら、命を喜びとすることは出来ない。人間は、意味のないことに耐えられない。意味のない人生は苦痛だ。神を知り、生まれた目的、生きる意味を知って生きる時にこそ「命を喜びとする」ことが出来るのだ。そのような人生が続くことを愛する、それが「幸せを見る」ことなのである。そのように生きる人は誰か。それは「主を恐れる人」だ。だからダビデは、『主を恐れることを教えよう』と言って、命を喜びとし……と続けたのである。私達も伝えよう。幸せを見たいなら神を知るべきだ、と。そして、生きる意味を知って、生きることを愛するようになりなさい、と子供達に教えよう。その手本となる為にも、私達は、まず自分自身が「主を恐れる」者となろう。「主に信頼して従う日々」を愛する者となろう。




2017年4月23日礼拝メッセージ 「あらゆる時に?」 詩篇34:1〜8 

 『私の口には、いつも、主への賛美がある』とダビデは言う。が、実際のところ詩篇は、かなりの部分が、ダビデの嘆きと悲痛な祈りの言葉によって占められているではないだろうか。特に、この34篇は表題にある通り、極限まで追い詰められた時(Tサムエル21:10〜15参照)に歌ったものだが、彼は『非常に恐れ』て、狂った振りまでして、屈辱の内に追い払われて、無様に去って行くのだ。どこにも賛美の言葉など見つからない。それでも『私はあらゆる時に主をほめたたえる』とは、どういうことなのか。
 それは、『私のたましいは主を誇る』と詩篇34:2にある通りだ。つまり、たとえ心の中は、嘆きと悲しみ、悔しさ、恥ずかしさ、屈辱でいっぱいであろうとも、それでも、そんな時でも、魂は主を誇る、と言うのである。ダビデの魂には、主は良いお方だと刻み込まれていたからだ。それゆえ、追い払われて、洞穴に避難した後、ダビデはモアブの王の所に行き、「神が私にどんなことをされるか分かるまで、どうか……」と、両親をかくまってくれるようにと頼んでいる。神が何かなさる、何か良いことをして下さる、と期待しているのである。気が狂った振りをしなければならないほどに追い詰められても、なお、神の素晴らしさを知っているがゆえに『私のたましいは主を誇る(主を崇め、祈り、賛美する)』、それが『あらゆる時に主をほめたたえる』ということなのだ。
 そして、『貧しい者はそれを聞いて喜ぶ』と続く。新約の例に倣って「心の貧しい者」だと理解しよう。どんな時でも「私の魂は主を誇る」と主をほめたたえる人がいる。そう、主は素晴らしい、ということ、それを聞く、それが、魂の(私には神が、救いが、必要だ、という)呻きに気付いている人には喜びなのである。
 私達も、主の素晴らしさを聞いて喜ぶ者となろう。何が素晴らしいか。それは、天国(救い)こそ「神の素晴らしさ」なのだ。それを『味わい、見つめよ』とダビデは言う。そして、幸いなことよ、「主こそ、我が避けどころ」とする人は、と。 私達は、天国という避けどころを与えて下さった「主の素晴らしさ」を魂に刻もう。




2017年4月16日イースター礼拝メッセージ 「待ちわびて」 詩篇33:20〜22 

 前回の「神の慈愛(救いの完成)を待ち望もう」の続きである。それを待ち望むのは、私達の「心」ではなく「魂」だと言うのだが、どういうことだろう。心では「宗教なんか要らない」と思う人もいるかもしれない。頭では「天国なんか無い」とも考えるかもしれない。しかし、魂は救いを求める、それが人間だということだ。
 問題は、その魂の渇望(うめき)を感じ取れるか、ということだ。例えば、肝臓が「沈黙の臓器」と呼ばれるように、魂も、ダメージを受けていることに気付かない、ということが有り得るのである。事実、私達もかつては、そのように生きていた。幸いなことに、神の憐みによって、魂の救いへと導かれたが。
 とにかく、「救いが必要だ」と、魂が感じないとしたら、それは極めて危険だ。例えば、神経がマヒすると、痛みも何も感じない。気付かない内に出血していた、ということにもなる。同じように、魂がマヒしてしまうなら、いつの間にか滅びに……ともなりかねない。現に、教会から離れてしまう人が少なからずおられる。
 だから私達は、救いが必要だということを魂に刻み込むべきだ。パウロが「心の中で(原文は「自分自身の中で」)うめきながら体の贖われること(救いの完成)を待ち望んでいる」とローマ8:23で言うように。何しろ「天国という希望こそが救いだ」ともパウロは言うのであるから。言わば、天国の望みを持っていない(死んだらおしまい、と考えている)なら救われていない、ということでもある。たとえ、洗礼を受けても、礼拝に出席していても、だ。せっかく、キリストを信じたのに、天国の確信が無い(ゆえに、天国に行けない)としたら、それは余りにも惜しい。もったいない。
 救われるということ、それは、死んでおしまいではないということ、いや、そこから本当の命が始まるということなのだ。キリストの十字架〜復活によって、それは約束された。もはや死は「最大の悲劇」ではなくなるのだ。この信仰を持たずして何のクリスチャンだろう。私達は、天国の希望を魂に刻み、救いの完成を待ちわび(喜び楽しみにし)つつ、今の時(地上での旅路)を期待して過ごそう。




2017年4月9日礼拝メッセージ 「なおも…」 詩篇33:18〜19 

 「主を恐れる者」とは、この世の財力、数の力などに拠り頼まず、神にのみ拠り頼む者である。しかし、全部、神任せでいいという訳ではない。自分の果たすべき責任もあるし、パウロも、自分には人一倍、人間的なものに頼るところがある(エリートのパリサイ人で、その熱心さが自分の頼る力だ)と言っている。ただし、キリストに比べればクズ同様だが、とは言うが。要は、人間的なものに頼っても救われない(それが「主を恐れる」ということ)と聖書は言うのである。
 さて、主は人の心を調べる。その『主の目は、主を恐れる者に注がれる』と言う。主を恐れていても、なおも疑いの目が注がれるのだろうか。いや、「死から救い、生き永らえさせる為に」だと19節に続く。
 勿論、神は全能であるから、病を癒し、助けることは出来る。しかし神は「人は一度死ぬ、そう定めた」お方である。その神の言葉は絶対、それが私達の信条だ。そして神は真実であるがゆえ、御自分の定めたことを否定することが出来ないのである。確かに「信仰は常識を超える」という一面はある。だが「聖書が示す常識・事実」にまで目をつむってはいけない。人は死ぬ。その神の言葉の前にへりくだる(受け入れ、認める)ことが必要だ。ただ、その上で「キリストを信じる者は死んでも生きる」その神の計画だけが成る、と信じるべきだと、この詩は言うのである。ゆえに、よもや「天国に行くより、一日でも地上で長生きするほうが良い」などというような心を持ってはいないか、を神は調べるのだ。罰するためではなく、救うために。
 19節は、ヨセフ物語である。そしてヨセフはキリストの予型である。つまり、これは「キリストによる魂の救い」のことを言っているのだ。その恵みを待ち望む者に主の目は注がれる。疑いの目ではない。慈愛の目だ。神の愛(人の救い)を待ち望む者に、それは注がれる。つまり「魂の救い」という恵みが注がれるのである。その「神の計画」だけが成る。たとえ、この世の命を失っても、永遠の命を生きる。病気が治らなくても、新しい体が与えられる。その慈しみの業(十字架)を成し遂げるために、主は、この日曜、エルサレムに入って行かれた。
 私達は、慈しみ深い神を崇め、なおも、神の慈しみを待ち望もう。




2017年4月2日礼拝メッセージ 「バレたらマズイ?」 詩篇33:13〜17 

 神は人の心を調べる。神は全知であり、何も神の前に隠すことは出来ないはずなのに、『地に住むすべての者に目を注がれる』のだという。一人残らず、その『わざのすべてを読み取る』と。そこまでして何を調べようというのか。それは、人がその心にどんな計画を持っているか、だ。何故なら、10〜11節に言われていたように、人間の「救いの計画(善行、偶像など)」は、ならないが「神の計画(福音)」だけが成るということ、それが文脈だからだ。その文脈を無視するなら、「糸の切れた凧」のような無秩序な解釈になってしまう。
 さて、『わざのすべて』とは、人生の全て(生き方)だ。「人間の救いの計画」に基づく人生なのか、「神の救いの計画」に従う人生なのか(うわべでは分からない、その本当のところ)をスキャナーのように神は『読み取る』のである。つまり、うわべは神に頼っているように見えても、その実は「行いを誇る」とか「自分の力、この世の力(数、財力など)に頼ろう」という「計画」にしがみついていないか、ということだ。だから『王は軍勢の多いことによっては救われない』と、この詩は言う。それらが正義ではない。それらを頼りにするべきではない。誇るべきでもないのだ。信仰者が、それらを誇り、頼る心であってはいけない。それゆえ神は、人の心を調べる。
 勿論、調べられる、ということは、良い気のするものではないかもしれない。しかし、例えば病院で、念の為に他のところも調べてもらったら、大きな病巣が発見され、大事に至らずに済んだということが起こり得る。だから、神に調べてもらったほうが良いのである。たとえ、それで悪い所が見つかったとしても、それでも、自覚症状がないまま手遅れになるより、ずっと良い。神が調べるのは、罰する為ではなく、救う為、癒す為なのだから。バレてマズイことはないのだ。
 とは言え、心を正しくし、信仰を聖く保つことが必要だ。『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく』と箴言4:23にもある。しかし、どうしても自分の力の及ばない部分もある。だからこそ、神に調べてもらったほうが良いのである。神に心を委ねるなら、神が守る。だから、神に心を調べて頂こう。





2017年3月26日礼拝メッセージ 「深くより広く」 詩篇33:9〜12 

 神の言葉によって天と地は造られた。『主が命じられると、それは堅く立つ』と9節にある通りだ。ただ、詩人が言いたいのは「神の言葉は絶対だ」ということであり、その一例としての天地創造をもって「ほらね」と示しているのである。そして、神の言葉の絶対性の説明として「主の計画はなるが、国々の計画は神が虚しく(無効に)する」というようなことが10〜11節に語られている。
 だが、しかし。果たして神は、一国家の政策に介入し、その方針を変更させ、企みを無効にするのだろうか。人間の計画は決して達成しないということだろうか。ならば「何故……」という疑問は尽きない。迫害や悪政という人間の悪巧みが横行し、弱い者は苦しむ。大きな疑問である。その果ては「何故、神は沈黙するのか」「何故、助けてくれないのか」という神への怒り、失望、不信仰へと行き着くだろう。
 箴言19:21にも『人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る』とある。一方は劣っていて、他方は優れている。そのような比較が成り立つのは、両者が同じ目的の計画を立てているからである。人と神が、それぞれに立てている計画、それは「救いの計画」だ。人は、行いによって(あるいは、偶像に頼って)救われようとする。しかし神は、十字架と復活(福音)によって救われよ、と教える。どちらも「救いの計画」ではある。だが、神の計画だけが成る、のである。人の(例えば、旅行の)計画ぐらい成るし、政府の悪しき計画も着々と進んでいる。しかし、救いにおいては、神の計画だけが成るのである。ゆえに『主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る』と詩人は言う。「信じる者は救われる」、その御言葉は絶対なのだ。だから幸いだ、と12節に続く。神を我が神とし、「神のもの」とされた人は、と。神は「ご自分のもの」を完全に守ることが出来るからだ。全能の神が「ご自分のもの」をみすみすと敵に奪われるわけがない。神のものとされた魂は決して滅びない。神が守る。その神がおられるなら恐れることはない。「神は天にいまし。世は全てこともなし」だ。主に信頼しよう。そして、自分(人間)の力の及ばない領域において、そこを「守って下さい」と神に祈ろう。




2017年3月19日礼拝メッセージ 「しんじょう」 詩篇33:1〜8 

 賛美は心の直ぐな人達(自らを罪人と認めて、悔い改め、赦され、救われた人)に相応しい。それは、お似合いであるというような意味ではない。救われた者こそが賛美するべき、ということである。いやむしろ、救われた者が賛美しないでどうするのか。何故なら、賛美は礼拝の中心だからだ。例えば、説教を聴くことも、神の言葉を(アーメン、その通りです! ハレルヤ! と)崇める行為なのである。献金も、命の次に大事(と言えるような)お金を捧げる価値が神にはある、ということを表明しているのであって、あらゆる方法で神を賛美する、それが礼拝なのである。神はそれ程に偉大であるということだ。ちょっとした音楽で表せる程、神はちっぽけなお方ではない。たとえ音の万華鏡のように煌めく音色をもってしても表わし切れない、それ程に神は偉大だということを知る必要がある。
 そこで、この詩篇は、神は天地の造り主であるということを宣言し、『世界に住む者よ。みな、主の前におののけ』と言う。天地の造り主には不可能はないのだから。例えば、漫画家は自らの描く世界において思うままに何でも出来る。たとえ主人公が死んでも生き返らせることが出来る。不可能がないのだ。ただし、それはあくまでも架空の世界においてであるが。その点、この世界は架空ではない。現実のこの世界の造り主は、まさに神なのだ。そして、神は自分の造った世界において何でも出来る。罪人を赦し、救うことが出来るのである。
 ゆえに、救われた者に対して「賛美せよ」と聖書は言う。それも『新しい歌を主に向かって歌え』と。新しい歌とは? それは、かつては知らなかった(救いの喜びの)歌だ。救われた喜びを歌う歌は全て(救われたからこそ初めて歌える)『新しい歌』なのである。
 私達は、自らが罪人であったことを認める。なのに、救われた。その喜びを忘れないようにしよう。そして、神の偉大さを知って、賛美しつつ、神と共に歩もう。それこそが『正義と公正』だ。神は、それを愛される。アダムとエバが罪を犯す前(主と共に歩んでいた時)のエデンの園がそうであったように、今も、主と共に歩むなら『地は主の恵みに満ち』るのである。




2017年3月12日礼拝メッセージ 「おしまい」 詩篇32:1〜11 

 罪を赦された人は幸いである。だから悔い改めなさい、という内容の(比較的シンプルな)詩である。が、幾つか引っかかるところもありはする。まず『心の直ぐな人』や、『正しい者たち』、『心に欺きのないその人』という表現だ。それは「悔い改めて罪を赦して頂いた人達」を指すのは間違いはない。つまり、神を信じ従う人、それが『心の直ぐな人』だというのである。すると、クリスチャンは皆、心が真っ直ぐだ(嘘をついたことがない)ということになるが、本当にそうだろうか。だとしたら、嘘をついたことのある人、ひねくれた心の人は、「私はクリスチャン失格」と、苦しむだろう。だから『心に欺きのない人』とは、どのような人かを理解する必要がある。
 改めて「悔い改め」。それは率先して行いたいと思うようなことではない。むしろ、避けたいと感じるものだと言える。謝ることさえ、素直には出来なかったりする。ましてや、自分の罪を告白する、というのはハードルが高い。だからダビデも『黙っていた時』があった(神の前に罪を隠していた、悔い改めなかった)と言う。そして、その時は苦しかった、と。何故なら、神は全てをご存じだからだ。隠し通せるはずがない。加えて、聖霊による悔い改めへの促しを受ける。ついにダビデは、耐え切れなくなり、罪を告白した。すると、赦してもらえた。だから、その人は幸い、と言うのである。そういう訳で、心に欺きのない幸いな人とは誰か、それは「私は罪人だ」と認めた人なのである。それが真実だからであり、そこに欺きはないのだから。
 それゆえ、神にお会いできる内に悔い改めなさい、と勧める。そうすれば神が隠れ場となって下さり、守って下さる。そのように、主に信頼するなら『恵みが、その人を取り囲む』と、この詩は言うのである。そして、その主の守り、恵み、赦し、永遠の命を『喜び、楽しめ』と。そう、信仰は、楽しむものであって、苦行のようなものではない。神の守りと恵みを、日々体験して、楽しみ喜ぼう。そして、信仰は、人生の一定期間だけ「やってみる」というような類のものでもない。信仰は、おしまいまで、貫くものだ。私達は、命の限り、主に信頼しよう。





2017年3月5日礼拝メッセージ 「とりでもないなら」 詩篇31:1〜8 

 悲痛な訴えと信仰の告白が交錯する、複雑な詩である。何があったのかダビデは極度の苦しみの中で、「神に見捨てられた」と不信仰になったのだとも言う。しかし彼は、そこから立ち直り、信仰による勝利の確信を持つに至る。不安と恐れの入り混じる中で、どうすれば勝利の確信が持てるのか。その秘訣は何か。
 まずは、主への信頼だ。当たり前の事ではあるが、これが一番難しいのかもしれない。出エジプトしたあと、イスラエルは、自分達を救い出してくれた主なる神を信頼し切れないで、偶像を作り、「我らの神よ」とすがった。神が自分達を救ってくれたと知っていながら、その神を「我が神」としなかったのだ。決して、偶像のほうが信頼出来るという訳ではなかった。ただ、自分で作り、自分で選んだのだ。
 どうせ信頼するなら、信頼に足るお方を選ぶべきである。「偶像は虚しい」と聖書は言う。むしろ、神以外のものは全て虚しいとも言える。何故なら、全てものは崩れ去るからだ。人間が頼りにするもの(自分自身、健康、命、お金、会社、建物、地球……)は、いつまでも残るものではない。しかし真の神は、永遠であり、命の源である。ゆえに『私の時は、御手の中にあります』とダビデは言う。命は神の手の中にある。そして神は、魂を地獄に落とす権威を持つお方だ。敵に回したらこれほど怖い存在はない。しかし、信頼し従うなら神ほど頼りになるお方はいない。だからダビデは言う。『私のたましいを御手にゆだねます』と。これこそ神への信頼、その極致である。主も十字架で同じ言葉を語り、息を引き取られた。が、神が甦らされた。
 人間にとって、魂は守るべき最後の陣地だと言える。それを失ったら、そのあとは無いのだから。そこを守る「最後の砦」、それこそ主なる神である。真実な神は、必ず信じる者の魂を守って下さる。だから、魂を委ねることが出来るのである。主の大きな慈しみは、主を砦とし、主に身を避ける者の為に備えられている。だから「全てを委ねて主の慈しみを待ち望め。それによって心を強くせよ」と、この詩は締め括る。私達も「主こそ我が神、わが砦」と、雄々しく告白しよう。そして、主の慈しみと憐れみを待ち望もう。





2017年2月26日礼拝メッセージ 「よみからかえる」 詩篇30:1〜12 

 致命的な危機からの脱出と回復、それが、この詩の内容であるのだが、どんな危機があり、どのように脱出したのか。ダビデは「私を見殺しにして神様に何の益がありますか。あなたを賛美出来なくなってもいいんですか」と、駆け引きをするかのように訴えた。それが功を奏したのか「神は、嘆きを踊りに変えてくださいました」とダビデは言う。では、そもそもどんな危機があったのか。そこで3節だ。ダビデの魂は地獄には落ちず、よみから引き上げられた、と言う。「よみ」とは、死人の魂が一旦とどまる場所である。すると、ダビデは一度死んで、よみがえったということか。そんな話は聞いたことがない。聖書のどこにもない。よみにまで下って、よみがえられたのはキリストだ。そう、詩篇16:10が、そうであったように、この詩(1〜3節)も、キリストを預言的に歌っているということだろう。そうであってこそ、4節『聖なる御名に感謝せよ』の意味が大きなものとなる。
 ここでの「御名」は、ヘブル語の「ゼーケル」であり、「記念する、覚える」という意味だ。神の聖なる「御名」は、聖4文字と言われるYHWH(に相当するへブル文字)であったはずだが……「記念する」それが神の御名とは?
 記念と言えば、すぐに思いつくのは「出エジプト」だ。その記念として「過ぎ越しの祭り」が制定された。神の救いの「記念」である。その「記念」そのものが、神の「御名」となっているのである。そして、その「過ぎ越し」は「キリストの十字架による救い」の予表である。その神の救いの「記念」、すなわち「イエスがキリスト」、それが神の御名となっているという訳である(ヨハネ17:3、11参照)。
 だから『聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる(記念)に感謝せよ』と言う。神の民が主を崇める、それが神の益、喜びだからだ。ダビデも私達も、神を賛美するようになる為に救われた。十字架による救いの記念(イエスがキリスト!)を感謝し賛美しよう。もし致命的な危機が来たとしても、脱出させて頂けるように、今、主により頼み、主を賛美し続ける者であり続けよう。そうすれば主は、嘆きを踊りに変えて下さる。





2017年2月19日礼拝メッセージ 「スギよりも」 詩篇29:1〜11 

 主に栄光を(返せ、ではなく)帰せよ、と聖書は言う。一旦、奪ってから返す、は良くない。栄光は主から出て主に帰るもの(誰のものでもなく、初めから主のもの)なのだ。では、どうやって帰らせるのか。それは、祭司として偉大な神を礼拝することによってである。その神の偉大さが3〜10節に記されている。「主の声は杉の木を引き裂く」とか「大森林を裸にする」とかだが、これは、人間が神と拝むもの(例えば、太陽、富士山、大木など)よりも神は力強い(それらを蹴散らしてしまう)ということだ。自然界にあるものは、全て神の御手による。だから「その宮(直訳は「彼の神殿」)で、全てのものが、「栄光」と言う(神を賛美する)というのである。続いて『主は、大洪水のときに御座に着かれた』だが、これは「混沌の時に」ということを表現しているのだろう。天地創造の初めの(闇が大いなる水の上にあり、混沌としていた)時に、神として天地を造り、全てを支配したのだ。それ以来とこしえに天と地の支配者である。その、神が造った太陽、大木……を拝むのは愚かだ、主の栄光をそれらに渡すな、主に帰らせよ、という訳だ。だから11節の『主は、ご自身の民に力をお与えになる』は、文脈的には「栄光を神のものとする為の力を与える」ということであろう。その為に主は、ご自身の民を祝福されるのだ。そして神の民は、祝福されることによって、その為の力を得る。そう「恵みの循環」だ。加えて、ここでは『平安をもって』祝福するとある。神の民は、幸福を祝って頂き、ギフトとして「平安」も頂くのである。そのような祝福のゆえに更に神を礼拝する、それが「神に栄光を帰す」ことなのである。そのような礼拝を祭司として捧げるようにという訳だが、祭司を必要とするのは誰か。クリスチャンは自分自身が祭司だから、祭司に執り成してもらう必要がない。それが必要なのは、まだ主を知らぬ人々だ。つまり未信者に、自らの生活を通して神の栄光を示せということ(神の平安の中に生き、世の光となる、その姿を見て、人々が神を崇めるように、ということ)だ。それが祭司としての「栄光の神への帰し方」なのである。その為の力を主が下さる。自分の力では難しい。だから、主は偉大だと知れ、とこの詩は言う。




2017年2月12日礼拝メッセージ 「レンジよりも」 詩篇28:1〜9 

 まず祈り。例によって「助けて、救って」と訴えている。そのあと独白としての「信仰の告白」が続く。ところが、最後の祈りでは、またもや「救って下さい」と訴えるのである。不安や恐れの中、信仰によって勝利の確信に至ったものの、それでも不安は完全には拭い去れなかった、ということだろうか。ならば、この詩は私達に何を教えようというのだろう。実は、最後の祈りは、同じ祈りでも少し様子が違う。前半の祈りは「私を」という個人的な祈りだったのだが、最後は「民を」「彼らを」という願いになっているのである。つまり、この詩は、まず嘆きつつ祈り、信仰によって勝利を確信し、とりなしの祈りへと引き上げられた、というストーリーなのである。
 その、とりなしの中の『民を祝福してください』だが、この願いは何だろう。「祝福」とは何か、だ。そもそもは「幸福を祝うこと」が祝福である。例えば結婚式で「おめでとう」「良かったね」と祝うようにだ。その「祝う心」抜きで(むしろ悪態と共に)プレゼントを貰っても、それは祝福とは言えない。むしろ呪いとみなされるのではないか。勿論、神から、癒し・奇跡・恵み・ギフトを受けることも祝福である。が、あくまでも「祝う心」と共に、だ。つまり、何かを貰うこと自体が「祝福」なのではないのである。例えば、最後の晩餐で主はパンを祝福された。パンに対して何かギフトを送った? 千切れたパンを癒した? いや、パンがあることの幸いを祝ったのである。何故なら、そのパンは、キリストが十字架で体を裂かれることを表すものだからだ。十字架によって、信じる者が救われる、その幸福を祝ったのである。そのように主は、救われている人に「おめでとう」と祝って下さる。時には、ギフトも添えて。たとえギフトは無しでも、言葉だけで嬉しい、それが祝福されるということだ。何故なら、それも結婚と同じで、誰よりも自分自身が、その幸福を喜んでいるからである。だから「おめでとう」という祝いの言葉だけで嬉しいのだ。そういうわけだから、私達も、救われていること(信仰を持ったこと)を喜び、主が羊飼いであること、いつも共におられることを喜ぼう。そして「そんな私の幸福を祝って下さい」と主に祝福を求めよう。





2017年2月5日礼拝メッセージ 「一つだけ?」 詩篇27:1〜14 

 主を待ち望め、とはどういうことか。心を強くせよ、ということは、気弱な人はだめだということだろうか。『雄々しくあれ』という、なんとも力強い言葉ではあるが、「漠然とした励まし」などではなく、具体的・実際的な力を、この詩から受け取りたい。
 ダビデは『一つのことを主に願った』。願い事があるということは、そこに弱さがある(神の助けが必要)ということでもある。彼が願ったことは『命の日の限り、主の家に住むこと』(要は、神との親しい交わり・礼拝)だ。つまり、それを求めないと自分は弱ってしまう、ということなのである。ただ、彼の願いはその一つだけというわけではない。「憐れんで、見捨てないで、見放さないで」と普通に願い事をしている。だから、それは「多くの願いの中から、一つ目のことを願った」ということである。それ程に、神との交わり・礼拝は、力だということである。何故なら、それは主が(と5節にある通り)助けて下さるからだ。ゆえに神を崇めたいと願うのである。そのような礼拝を神は喜び、更に恵みを注いでくださる。すると、その恵みのゆえに更に神を崇める。これは恵みのサイクル(循環)だ。
 現実にはダビデにも様々な問題・苦しみがあった。具体的には、偽りの証人が暴言を吐く、というものだが、「ダビデは滅びろ」とでも言ったのだろうか。確かに、罪人かもしれない。だが、神のしもべである。その点においてクリスチャンも、惑わされてはならない。キリストを信じる者は神の子、それが神の約束である。だから「もし生ける者の地(天国であろう)で主の慈しみを見ることが信じられなかったなら」とダビデは言う。もし、天国を信じられなかったら、絶望だ。
 それゆえに『待ち望め。主を』と続く。それは「主との交わりの時を待ち望め」ということである。それが文脈だ。神を礼拝する中での神の更なる恵みを待ち望め、それによって心を強くせよ、というのだ。それがないと弱ってしまうから、それが一つ目の願いだ、と。
 私達も、主の御顔を慕い求めよう。主との親しい交わりをいつも持てるようにと願おう。主の助けと守りを喜び感謝する、その礼拝の中に、さらなる神の恵みが注がれることを待ち望もう。




2017年1月29日礼拝メッセージ 「裁いてイイんです」 詩篇26:1〜12 

 『私を弁護してください』とダビデは言うが、それは助けを求めていると言うより、むしろ、裁き(正しい判断)を要求しているのである。新共同訳で『主よ。あなたの裁きを望みます』と訳されている通りだ。それも「私は正しく歩んだ」ということを判断してほしいというのである。そして、これからもそうするつもりだ、と。だから私を罪人と一緒に滅ぼさないで、と訴えているのである。
 しかしながら、神は判断を間違うようなお方だろうか。いや、神は正しい審判者であり、全てを見抜いておられる。罪ある者が裁きを免れることはない。だがこれは、自らの心の醜さを知る者にとっては恐ろしいことである。しかし同時に、自らの心の貧しさを認めるからこそ、そこに救いがある(罪を認めるからこそ救いを求め、赦しを得ることが出来るようになる)ことも忘れてはならない。だから、神が全てを知っているということは、キリストを信じる者にとっては恐ろしいことではなく、逆に、信仰のゆえに救われる、ということ(それが正しい裁き)の確実さ、喜びなのである。ゆえに「罪人と一緒にしないで」という訴えは無用だと言えるのだが、実は、この詩は「神の前に義とされるのは誰か(あるいは、義とされた者は、どのように生きるべきか)」ということが逆説的に語られているのだ。
 それは、まず「誠実に」だ。道徳的にではなく信仰的にである。つまり、主に信頼する(疑わない)ことだ。決して「何でも信じろ」というのではない。神の約束を疑うな(神を嘘つき扱いするな)ということだ。では、神の約束は何か。その最大・最高のものは「天国」である。全てはその為、と言っても過言ではない。そして、キリストを信じるなら天国に行ける、それが神の約束だ。その点において、よろめくな、というのである。律法主義に陥るな、騙されるな、真理の内を歩め、と。その他、信仰的に不真実な者と歩まない、など幾つかあるが、それらは結局、詩篇1:1〜3に通じることだ。そのような生き方をする者は幸いなのである。何故なら、正しく裁かれて(キリストを信じる信仰のゆえに罪が赦されていると認められて)天国に行けるからだ。だから神に「どうぞ裁いて下さい」と言える者となろう。





2017年1月22日 説教者 永井明牧師 (録音はありません。ご了承下さい)




2017年1月15日礼拝メッセージ 「○○のさしすせそ」 詩篇25:1〜10 


 アルファベット詩は、その内容を覚えやすくさせるという効果がある。では、この詩で何を覚えさせたいというのだろう。特徴的なのは「小道」という言葉だ。詩篇に4回ある内の2回がここに出てくる。
 主の小道とは、信仰者が歩むべき道のことだ。つまり「どのように生きるべきか」ということであるが「それを教えて下さい」とダビデは言うのである。何故なら、敵が襲い掛かってくるからだ。クリスチャンにとっての敵、それは、私達を神から引き離そうと(真理から遠ざけ、迷わそうと)するものである。だから「真理の内に私を導いて」とダビデは請う。真理の中を歩む、それが主の小道なのだ。
 さて、6〜7節でダビデは『覚えていてください』と主に訴える。それは、ダビデと神との間に何らかの事実が存在している、ということに基づいている。まずは、主の『憐れみと恵み』だ。それはいつも変わらずに、あったのだ。もし神が単に正しく聖いだけのお方なら、罪を犯した人間を即刻滅ぼしていただろう。しかし、神は憐れみ深いお方でもある。それゆえに救いの計画をとこしえの昔から立てて下さった。その事実をダビデは確認しているのである。もう一つは『私を覚えていてください』だが、それも「罪人だった私のことは忘れて」『あなたの恵みによって』覚えて、というわけだから、それは「主の恵みによって罪赦されている私」という事実の確認なのだ。
 主は『罪人に道を教えられる』。神を信じ従って生きる道(主の小道)へと。神に信頼して生きる者にとって、その小道は全て『恵みとまこと』である。が、16〜20節ではまたもや「どうか助けて」と訴えが繰り返される。いかに敵(神から引き離そうとするもの)が多いか、ということだ。だから『イスラエルを、そのすべての苦しみから救い出して』と祈るのである。全ての苦しみからの救い、それが天国だ。
 そういうわけで、この詩が読者に覚えさせたいこと、それは「主の小道(真理の道)を主から学んで歩め」ということである。そうすればうまく行く、良い人生になる、幸せへの道だということなのだ。それを願う人に、主は『選ぶべき道を教えられる』。かつて荒野でイスラエルに言われたように。『あなたは命を選べ』と。




2017年1月8日礼拝メッセージ 「神のイエ」 詩篇24:1〜10 


 契約の箱(神の臨在の象徴)が王宮に運び入れられた時の歌だと言われる。しかし、創造主なる神は、箱などに収まるようなお方ではないと、この詩は表明するのである。逆に、クリスチャンの体が聖霊なる神の宮であると聖書は言う。その集まる所に主も臨在される。まさに、エクレシア(召し出された者の群れ)である教会が神の家なのだ。
 さて、続いて「誰が神の前に立つことが出来るだろうか」と詩人は問う。それは『手がきよく、心がきよらかなもの……』だ。果たして、そのような人がいるだろうか。いや、人はみな罪人だと聖書は言う。そして、罪人は神の前に立ちおうすことが出来ないと。しかし、その罪人を赦し、聖め、救うために主イエスは十字架にかかられた。その時、神殿の至聖所の幕が裂けた。十字架によって、信じる者が、神の前に立てるようになったということだ。だから、私達は実際には「心がきよらか」とは言えない者であるが、信仰によって「きよらかな者」とみなされるということなのである。『その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける』。罪のない者として救われるのだ。「これこそヤコブである」との宣言が続く。ヤコブ(のちにイスラエルと改名)からイスラエル民族が生まれるのだが、『肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされる』(ローマ9:8)とある通り、神の約束を信じて生まれた神の子(クリスチャン)、それが真のイスラエルだ。そして、それは『神を求める者の一族』だというのである。「神に何かを求める」のは良いことだが、「神を求める」信仰がなくては神には喜ばれない(ヘブル11:6)のである。神を求める者、これこそヤコブ(真のイスラエル)である。
 では、神を求める者への報いは何か、それは神の国だ(ヘブル11章参照)。すなわち、神を求めるとは、神の国(神の支配)を求めるということである。だから「神の国を第一に求める」とは、神に支配されたいという願いを自らの第一の願いとすることであり、それが幸せへの近道なのである。何故なら、神の支配する所には、争いも悲しみも苦しみもないからだ。そのような神の支配を求める、これこそイスラエルだ。私達は、神の子として、そのような生き方をしよう。




2017年1月1日礼拝メッセージ 「恵みの がんじがらめ」 詩篇23:1〜6 


 主イエスが私の羊飼い。だから安心、安全、乏しいことがない。確かに。だが、たとえ死の陰の谷を歩くこと(絶体絶命というような状況)があっても恐れないと、私達は言えるだろうか。いや、高い所から落ちそうな時、恐怖を感じるのが普通ではないだろうか。そう、ここで聖書が言う『恐れない』のは『わざわいを』であって、死の陰の谷なんか怖くないと言っているのではないのである。つまり「死」というものに対して、多少の不安や恐れを感じたとしても、死後どうなるか(消滅するのか、地獄に落ちるのかという、そのような「わざわい」)を恐れない、それが神の羊・クリスチャンだということである。何故なら、死後は天国と決まっている(主が共におられる)からだ。
 そして、良い羊飼いは、その鞭と杖で獣を追い払ってくれる。だから、鞭と杖(神の「純粋な信仰を守れ」という厳しさ)が『私の慰め』なのである。事実、クリスチャンの敵である悪魔と異端の教え(私達を神から引き離そうとするもの)は常に私達を取り巻いている。しかし恐れることはない。悪霊に怯えて臨戦体制を取る必要もない。その敵の前でも主は私達に「食事」という楽しみを与えてくれる。つまり、ごく普通に人生を楽しみ喜ばせて下さるということだ。
 次に『いつくしみと恵みとが、私を追って来る』というのだが、すると「私」は逃げているのだろうか? 神から? それは良くない。「もっと恵みが追いかけて来るために、もっと逃げよう」と言うのは「恵みが増し加わるために、もっと罪を犯そう」と言うのと同じだ。それは有り得ない、新しい歩みをするべきだ、とパウロは断言する(ローマ6章)。新しい歩み、それは「主と共に生きる」ということだ。救われる前とは逆の歩み、それが「いつまでも主の家に住まう」ということ、そうである限りは、恵みが……ということなのである。
 私達は、神の子共。同時に、神の羊、神のしもべ、であり続けよう。それが「いつまでも神の家に住まう」ことが出来る者なのだから。そうすれば、いつくしみと恵みとが追い迫ってくる。隙間もないほどに、恵みのがんじがらめだ。そのようにして、いつまでも主の家に住む幸いを喜ぶ1年としよう。





2016年12月25日礼拝メッセージ 「クリスマスに…?」 詩篇22:1〜10 

 主の受難を預言した「十字架の詩篇」である。その預言の通り、主は十字架の上で『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』と叫ばれた。本当なら、罪ある人間である私達が神から見捨てられるべきなのに、御子が代わりに見捨てられて下さった。信じる者の罪を赦すためだ。その為に(見捨てられて死ぬ為に)この世に来られた、それがクリスマスである。しかも、それは最初から決まっていたことである。救いの計画はアダムとエバが罪を犯した直後から始まっている。ゆえに父なる神は、御子を世に遣わす時点で既に御子を見殺しにする覚悟をしていたわけだ。神は、そこまでして救い主を送って下さった。だから、クリスマスは単に「誕生の喜び」なのではない。「見捨てられて死ぬことを承知の上で、それでも、人間を救う為に来て下さったことの喜び」なのだ。
 ところが、21節には『私を救ってください』という願いの後に『あなたは私に答えてくださいます』とある。見殺しにする計画だったはずであるのに、だ。どういうことか。それは、復活のことを言っているのである。復活(永遠の命の約束)こそが本当の救いであり、それを与える為に、あえて十字架の時には救わなかった(見捨てた)ということだ。例えば、ステパノが殺される時も、神は沈黙した。何故か。それは、ステパノを天に召す為なのである。それが全ての解決だからだ。ゆえに、神の御心に従っているのになお苦しみにあっている人々は『真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい』(Tペテロ4:19)と聖書は言う。神は、必ず答えてくれる(永遠の命、新しい体が与えられる)からである。ゆえに詩篇22の後半は「喜びの賛美」となっている。『主を恐れる人々よ。主を賛美せよ』と。
 神は答えてくれる。神の約束は必ず実現するのだ。その証明、それがクリスマスである。初めからの計画通り、それは実現した。救い主は来たのだ。それも、御自身が見捨てられることを承知で、それでも来て下さったのだ。それほどに「永遠の命」という神の約束は必ず実現するということの証拠なのだ。だから、このクリスマスに、神の約束(永遠の命)こそが最高だ、という生き方をする決心をしよう。





2016年12月18日礼拝メッセージ 「彼らのすえの子孫」 詩篇21:1〜13 

 20篇において、神の民は王の為に祈り歌った。その祈りに神が答えて下さったゆえ王は勝利を取れた。その感謝の歌、それが21篇だとされている。すなわち、これは王の王キリストの勝利の歌なのである。
 ただ8節以降は神の裁きが記されている。神を憎む敵共を一人残らず見つけ出し地獄の炎で焼く、と。それは未信者のことではない。未信者は、神を知らないだけ(それが「的外れ・罪」なのであるけれども)であって、知らないがゆえに憎みもしないのであるのだから。神を憎み敵対しているのはサタンとそのしもべ共だ。加えて『彼らのすえを滅ぼ』すと10節にあるが、『彼らのすえ』とは誰か。主の言葉によれば、律法学者・パリサイ人が『蛇ども、まむしのすえども』(マタイ23:33)と呼ばれている。彼らがサタン共と同罪に扱われる、その重い刑罰は何ゆえか。それは「人々から天国をさえぎり、入ろうとしている人をも入らせない」(マタイ23:13)からだ。自らが天国に入れないだけならまだしも、他の人をも天国に入らせない、それは非常に罪深いことだと言わざるを得ない。
 では、更に同じ10節の最後に出て来る『彼らの子孫』とは誰か。この場合の『彼ら』は誰を指すのか、それは「サタン共」ではなく「そのすえ」である律法学者達だ。律法学者達の子孫、つまり、今も生き残っている「律法主義者達」をも滅ぼすということだ。自分も入らず、人をも天国に入らせないのだから罪深い(それは異端も同罪だろう)。
 勿論、彼らが神に対して悪を企てても何も出来はしない。が、神の民に対してはそうではない。惑わし、足をすくい、倒すことが出来る。弟子達もある程度のダメージは受けた。しかし主は『信仰がなくならないように』祈って下さった。そして父なる神は『彼の心の願いをかなえ』(詩篇21:2)て下さった。だから、これはキリストの勝利の歌なのである。キリストの願い(主の御心)は必ず成就するのだ。神に信頼し従う者を神は守って下さる。そしてついには、その全能の力で、私達を栄光の体に変えて下さる。その偉大な御力を崇めよう、と詩は締め括られている。私達も、主の御力がどれ程偉大であるかを知ることが出来るように、主の御力の現れを求めよう。





2016年12月11日礼拝メッセージ 「あなたは王様」 詩篇20:1〜9 

 聖書は、神から人間(私)へのラブレターだと言われる。確かにそうだ。だが、聖書の言葉を何でもかんでも自分に当てはめていいというわけではない。例えば『主があなたの願いどおりにしてくださいますように』と聖書が私に語りかけているのだから、私の願いが何でも叶うはずだ、と考えてはならないのである。何故なら、御心に適う願いだけが叶うと聖書は教えているからだ。
 表題にある「ダビデの賛歌」は「ダビデのための賛歌」とも訳せる通り、他の誰かがダビデのために書いた、という場合もある。この20篇はそれだ。つまり、『苦難の日に、主があなたにお答えになりますように』という「あなた」は、「王様」のことなのだ。そして、その祈りの通りに、神はダビデを助け、勝利を与えたのである。だが、そうすると、ダビデの願い(バテ・シェバとの姦淫)が叶い、はかりごと(その夫ウリヤ殺害)が成し遂げられたのも、神がして下さったからか。いや、神はそれを、ダビデの罪として責めた。だから『主があなた(王)の願いどおりにしてください』という民の祈りは、実は、王の王キリストについての預言的な歌だったということなのである。
 父なる神は、いつも御子イエスの願い通りにされた。人間のために救いの道を開く、という願い(その為の十字架と復活というはかりごと)を遂げさせて下さったのだ。だから『今こそ私は知る』と、この詩を書いた神の民は言う。主の願い(はかりごと)に父なる神は天から答えてくれる、と。すなわち、信じる者は救われる、ということだ。私達もこの『主の御名を誇ろう』。誇る(ヘブル語の「ザーカル」)は覚えさせる、記録するの意味に使われる。つまり、救い主の名を人々に覚えさせよう、ということだ。信じる者は裁きの時にもまっすぐに立つことができる。だから「キリストこそ救い主!」と誇りをもって。
 そして『王に勝利をお与えください(9節脚注)』と民は祈る。王が勝利を取る、それは、民が平和に暮らせるということだからだ。私達を苦しめる様々な問題に対して、王である主が勝利されたなら、心の中は平和になる。「平和の君」と呼ばれる主の、その願い(はかりごと)を『遂げさせてくださいますように』と祈ろう。





2016年12月4日礼拝メッセージ 「自分で?」 詩篇19:1〜14 

 6節までは宇宙について、7節以降は主の戒めについて、と2つの話に分かれているように思えるが、そこには一本の筋が通っている。それは「神の秩序」だ。
 まずは宇宙。それは規則正しく動いている。それは決して偶然にできたものではない。全能の神の御手の業である。ゆえに、天は神の栄光を証しし『大空は御手の業を告げ知らせる』と言うのである。もっとも、その「証し」の声は聞こえはしない。しかし、その主張は全世界に届いているという。すべての人は、神の存在の証明を見ている、ということだ。それはローマ1:20にもある通りだ。だから、近代科学の基礎を築いた科学者達(ニュートン、コペルニクス、ガリレイ、ケプラーなど)は「宇宙は第二の聖書だ」と考え、神を知るために宇宙を研究した。
 さて、その聖書は言う。太陽が『上る』『出て来る』と。確かに私達も「明日もまた日は上る」と言うことがある。とは言え、実際は太陽がではなく、地球のほうが動いているということを私達は知っている。ところが昔の人は知らなかった。天動説を信じていたのだ。特に、固く信じていた、それが教会だ。「何故なら、聖書には『太陽が上る』と書いてある」と。それゆえに、地動説を唱える科学者(ガリレイ達)を迫害し、酷い時には火あぶりにも処した。教会の過ちだ。
 果たして、その教訓は活かされているのだろうか。今も、「右を打たれたら左も出せ」「決して誓うな」「完全になれ」、そう聖書に書いてある、と信徒を苦しめる現実がある。
 しかし『主のみ教えは完全で魂を生き返らせ』る、と7節からの御言葉に続く。ただし、せっかくの「正しい主の戒め」も、誤解されたら毒となる。神の言葉は、正しく処方されてこそ魂を生き返らせ、心を喜ばせる。これもまた「神の秩序」なのだ。その秩序の中に生きてこそ、平和が保たれる。そのような『平和を作る者は幸い』なのだ。
 過ちを犯す、それが人間だ。だから『傲慢の罪から守ってください』と詩人は祈る。神によって守られることが必要なのだ。
 私達は、完全な主のみ教えを慕い求めよう。そうすれば魂が生き返るように、活き活きと力を得る。それもまた「神の秩序」である。




2016年11月27日礼拝メッセージ 「とこしえに」 詩篇18:43〜50 

 表題にある通り、この詩はダビデの実体験(サウルの手から救われたこと)を歌っている。だが、それにしては、やや誇張されていると感じる。例えば『私は私を憎む者を滅ぼしました』だが、ダビデを憎んだサウルを、ダビデは殺さなかったのに、滅ぼしたとは言い過ぎだ。
 詩篇は讃美歌集であると同時に、預言書としての側面をも持つ。例えば、Uサムエル7:12〜16は、ソロモンのことを言っていると思えるが、実はキリストのことを預言しているのであるのと同じように、この詩篇も、そこかしこにキリストについての預言が重ね合わせられているのであり、それこそがダビデの体験としては大げさと感じる部分なのだ。だから『私は私を憎む者を滅ぼしました』は、キリストを憎む者(サタンと全ての敵対する者)を地獄に落とす、という預言だと理解すればいい。そして『油注がれた者』は、ずばりキリスト(メシア=油注がれた者)であり、ダビデと『そのすえ』は、霊的イスラエル(クリスチャン)だと理解できるのである。
 問題は41〜42節の「主に叫んでも救われなかった人々」だ。それは直接的には、サウルをはじめとする「不信仰なユダヤ人」を指す。と同時に、最後の裁きの時に主の前から除かれる人々(マタイ7:21〜23参照)だと考えられる。彼らは(サウルも)主に叫ぶことを知っているが、御心を行わないがゆえに退けられた。『だから』と主は、結論的に「岩の上に家を建てた賢い人」のたとえを語られた。主の言葉を聞いて行う人が「賢い人」なのだ、と。その人は嵐のような時も倒れない。そして『私を引き上げ、暴虐の者から私を救い出されます』とダビデは言う。それはまさに、キリストによる救いなのだ。それゆえ、生きておられる主を崇めよう、とダビデは言う。単に個人的な神の恵み(助け)を歌うのではなく、キリストによる救いを賛美している、それが詩篇なのだ。
 そして、この18篇は「神を賛美し、礼拝し、御言葉に従う道を歩め」と私達に語りかける。それこそが、ダビデのすえ(霊的イスラエル・クリスチャン)にとっての完全な道なのだと。そうすれば、とこしえに恵みが注がれる。地上の人生だけではない。永遠の命の恵みだ。




2016年11月20日礼拝メッセージ 「掟破りの……」 詩篇18:16〜29 

 ダビデの祈りが神に届き、神は『天を押し曲げて降りて来られた』。それは、単にダビデを助けるためだけのことではない。『この主を呼び求めると、私は、敵から救われる』というダビデの言葉が、実は、人間の救いのことをも指している(ローマ10:13参照)のと同じだ。そう、まさしく神は、救いの道を開くために『天を押し曲げて降りて来られた』のである。それは、神の人類への「超自然的介入」だ。かつて「出エジプト」の時、紅海が真っ二つに割れたように、ヨシュアの時に太陽がほぼ1日動かなかったように、イザヤの時には、その太陽が後戻りしたように、森羅万象の掟を破って、神の御子が人となって地上に降りて来られたのだ。救い主が来た、ということは、それほどのことなのである。それゆえに、信じて救われるということは何よりも凄いことなのだ。
 さて、ダビデもサウルの魔の手から救われた。その理由は『主が私を喜びとされたから』と言う。これは、サウルを殺さずにおいた(Tサムエル24:4〜7)ことによる。「油注がれた方に手を下すことは出来ない」というダビデの判断が、主に喜ばれ、救われ、祝福されたというわけだ。ただし、「手を下す」とは「殺す」ということであり、「油注がれた方」とは「王・預言者・祭司」のことであるのだから、決して指導者を批判してはならない、という風に誤解してはならない。事実、ダビデはサウル王を殺しはしなかったが、痛烈に批判はしたのである。たとえ相手が王であれ、間違いは指摘し、正すべきなのだ。
 私達は、永遠の命を取り扱う聖書の言葉に対して、外科手術以上に、1ミリも狂うことなく、誠実に取り組むべきである。神は『全き者には、全くあられ、きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方』だとダビデは言う。御言葉に対し誠実であるなら、神も、その御言葉の約束を私達に誠実に成し遂げて下さる。キリストを信じる者は『死んでも生きる』との言葉の通り、永遠の命・天国へ入れて下さる。そして時には、超自然的介入とも言えるような、私達の思いを遥かに超えた(想像も出来ない)助けを与えて下さる。だから、完全な者にはなれないとしても、曲がった者にはならないようにしよう。





2016年11月13日礼拝メッセージ 「ま どんな?」 詩篇18:1〜6 

 サウル王から命を狙われるという絶体絶命の危機に、ダビデは神に祈った。すると、その祈りが神に届いた(命が救われた)というのである。さすがは信仰者ダビデというところか。ところが、そのダビデでさえ、子供が助かるようにとの祈りは神に届かなかったのである。
 「神に届く祈り」と「届かない祈り」の違いは何か。少なくともダビデは、信仰深く、6日間も、断食して祈った。しかし、そうしさえすれば祈りが神に届く、というわけではなかったのだ。ペテロも、足のきかない人を癒したときに、「信仰深さによって癒したのではない」と断言している。あくまでも「イエスを信じる信仰のゆえ」なのだ。
 パウロは、福音を語っていた時、足のきかない人に目を留め、彼には「癒される信仰がある」のを見て取った。どんな信仰か。それはギリシャ語の『ソーゾー』という言葉が使われている通り「主イエスを信じれば『救われる』信仰」だ。何しろパウロの語る福音を聞いて信仰を持ったのだから。塚本訳では「足が直るに必要な信仰」となっている。どんな信仰か。勿論「真の神に信頼する信仰」である。それは決して特殊な信仰ではない。クリスチャンなら誰もが持っているはずの、当たり前の信仰なのだ。信仰深さゆえに癒されたのではない。
 では、長時間祈れば届くのか。しかし主は『祈ったことはすでに叶えられたと信じよ』と言われた。ルカ18:1も「いつまでもずっと一つのことを祈れ」という意味ではない。「いつでも、どんな時も」だ。更に主は『お願いする前に、父はあなた方の必要を知っている』と言われた。ならば、長時間の祈りや、断食の祈りは何のためか。何故『絶えず祈れ』と聖書は言うのか。それは、祈る「自分の心が変えられるため」である。自分の要求を押し通すのではなく、神の御心を受け入れることが出来るようになるためなのだ。主も、そのためにゲッセマネで3度も祈られた。ダビデも、子供が天国に行くこと(神の御心)を受け入れるために、6日間の断食祈祷が必要だったのだ。
 ダビデも病には勝てなかった。が、『主を呼び求める(祈る)と、私は、敵から救われる』と言う。それは、最終的には、地獄(に落とそうとする敵)から救われるということである。その祈りは神に届く。





2016年11月6日礼拝メッセージ 「どこが?」 詩篇17:6〜15 

 神に心を調べられても何も見つからない、とダビデは言うが、それは本当か。彼は、それほどに完璧な人間だっただろうか。いや、不倫もしたし、その夫を騙して死に至らしめもした。どこが『無法者の道を避けた』と言うのか。事実、彼は自らの罪を認めて、それでも「あまり厳しく責めないで下さい」と詩篇6:1で、神の憐れみを求めているのだ。では何故、17篇では、一切の過ちを犯していないようなことを言うのか。果たして、この17篇のメッセージは何か。
 鍵は15節の『目覚める時』だ。それは、詩篇16:10や3:5などと同様、復活の時だと考えられる。その時、『正しい訴えで、御顔を仰ぎ見』るということは、「白い御座の裁き」を指すのであろう。世の終わりの後、全ての死人が神の前に引き出されて裁きを受ける。地獄か天国かが決められるのだ。そんな時に、神の御姿を見て『満ち足りる』のは誰か。それは、罪赦され義と認められた人、クリスチャンだ。
 勿論、クリスチャンとはいえ、突発的(偶発的)に罪を犯すことはあろう。ダビデも、しかりだ。しかし、悔い改めるなら、赦され聖められると聖書(Tヨハネ1:9)は教えている。そして神は、その罪を2度と思い出さない、とも(イザヤ43:25、エレミヤ31:34)。それゆえダビデは『正しい訴えで、御顔を仰ぎ見』る、と言うのだ。「主よ、あなたは私を義と認めて下さいましたよね。私の心を調べても何も見つかりませんよね」……それがダビデの『正しい訴え』である。ゆえに、『目覚める時、神の御姿に満ち足りる』と言うのだ。
 私達も、この「正しい訴え」をすることが出来る。それが慰めだ。たとえ、自分はダメなクリスチャンだと思えても、弱さはあっても、キリストを信じているなら罪は赦されているのだ。
 信仰生活には霊的な戦いがある。悪魔は、何とかしてクリスチャンを地獄に引きずり落そうとして、律法主義や異端に誘い込もうとする。また、人生には悩みも苦しみも病もある。ダビデのように『主よ。聞いて下さい。耳に留めて下さい』と叫びたくなる時もあるかもしれない。しかし、最後には神の御姿(栄光)を見て『満ち足りる』時が来る。それは必ずだ。その時まで主に信頼して祈り続けよう。





2016年10月30日礼拝メッセージ 「あなたの好む所は?」 詩篇16:1〜11 

 土地の分割に使う「測り綱」(巻き尺の代わりのもの)が、自分の好む所に落ちた(その土地が自分のものになった)というのだが、どんな土地を好んだのだろうか。悪い土地を好む人はいない。例えばロトは、豊かな土地を選んだ。しかし、人間的な目で見た「良い土地・条件」は、必ずしも良いとは限らない。それはロトの結末を見ればわかる。だから聖書は言う。「全てのことを見分けて、本当に良いものを堅く守りなさい」と。
 ダビデが「私の好む所」と言っているのは、実際の土地ではなく、神ご自身(神が相続地)である。神ご自身を相続地とする、それは、レビ族と同じだ。イスラエル12部族が相続地を分割した時、レビ族には土地が与えられなかった。それは人間的には不公平に思える。しかし、レビ族には何も与えられなかったのではない。神の愛、喜び、平安、天の御国も、全てを相続地として受けたのだ。それはレビ族が、神に仕えることに専念する、ということを務めとしたゆえである。つまり、ダビデが「良い土地を手に入れた」と言うのは、人間的な欲望が叶えられた、ということではないのだ。神に仕えることを「自分の好むこと」とする、それが本当に良いものであり、その人は、神の全てを相続する。それは必ずだ、ということなのである。
 そして、8〜11節は使徒2:25〜28に引用されているのだが、そこでペテロが「この詩篇はキリストの復活の預言であった」と言っているように、キリストの復活によって与えられる永遠の命(それが自分の相続地)それを「私の好む所」とせよ、ということ、それが、この詩の中心メッセージだ。
 私達は、神の子として、神の国を相続地として受けるが、それを「私の好む所」としているかどうかが問題だ。「この世の豊かさ」を自分の相続地とするべきではない。誘惑はあっても、神の国を相続することを喜ぼう。その為に、詩篇16:1〜2の、ダビデの祈りと告白を自分のものとしよう。私の幸いは主のほかにはない、と。
 天国以上に素晴らしい「ゆずりの地」は無い。それを手にしているのだから、「測り綱は私の好む所に落ちた」と言える者であろう。




2016年10月23日礼拝メッセージ 「どうすれば?」 詩篇15:1〜5 

 神に従って生きる(正しく歩み、義を行う)人、『その人は』こんなことをしない、と3〜5節まで続く。つまり、それが信仰者の生き方だ、ということである。そして、その人は『決してゆるがされない』。
 具体的には、どんな生き方をするというのか。まず「利息を取らない」。ということは、貸した分は返してもらっていい、ということになる。が、主は「平地の説教(山上の垂訓に類似した教え)」で「返してもらうつもりで貸すな」(ルカ6:34)と言われているのだ。また詩篇では『損になっても、立てた誓いは変えない』とある。そう、誓いは(約束も)積極的に守るべきだ。しかし、主は「決して誓うな」(マタイ5:34)と言われた。これらの食い違いは、どうすればいいのか。もっと腑に落ちないのは、『神に捨てられた人を、その目はさげすみ』という詩篇の言葉だ。そもそも、神は人を見捨てるお方か。主は『あなた方を捨てて孤児とはしない』とおっしゃたのではないだろうか。勿論、神を信じない者は最終的には裁かれる。それは仕方のないことだ。しかし、そんな未信者を蔑むのが信仰者の生き方なのか。いや、神は、そんな滅ぶべき罪人を憐れまれたのではないか。
 詩篇と福音書、どちらも「聖書」である。なのに、この食い違いはどうだろう。どちらが正しいのか、と惑うが、どちらも間違い、ではない。と言うのは、山上の垂訓における主の言葉(マタイ5:20〜48)は、行いの正しさで救われようとするならここまで完全にやれ(返してもらうな、誓いは果たせ)ということであり、それを行うことを要求しているのではないのだ。要は、恵みによって救われよ、ということだ。
 そこで詩篇の言う「信仰者の生き方」が意味を成す。「貸したお金を返してもらわない」という完全な行いは出来ないが、利息は取らない。それで良し、ということだ。約束は守れないことがあっても、約束そのものを誤魔化さない。そして何より、神は、見捨てない。その部分は新共同訳で『主の目に適わない者(英語では「下劣な者」)を退け』とある通り、霊的に同調しないということだ。結局、決して崇高な生き方でなくていい、完全な者になれなくていい、ごく普通に、真っ当に生きる、それが信仰者の生き方だということである。




2016年10月16日礼拝メッセージ 「悟り」 詩篇14:1〜7 

 1〜3節は、ローマ3章で引用されているように「全ての人は罪に捕らわれている、」いうことを言っている。皆が不法を行っている、ということだ。で『不法を行う者らは誰も知らないのか』と続くが、ここで詩人は、何を言いたいのか。不法を行う者らが「知らない」のは「何」か。とにかく、彼らは、何かを知らないがゆえに、主の民を食い物にし、偶像に拠り頼んでいる、と言うのだ。続く5節に『見よ。彼らが、いかに恐れたかを』とあるが、これは『そのことのゆえに、大いに恐れるがよい』という新共同訳が良い。つまり、不法を行う者らが「何か」を知らないがゆえに主の民を食い物にし、偶像に拠り頼んだ、そのことのゆえに大いに恐れるがよい、ということだ。何故なら、神は神の民と共におられ、『主が彼の避け所である』のだからだ。
 この4〜6節は、実は「出エジプト」のことを言っている。エジプトはイスラエルを奴隷として(主の民を食い物にして)いた。しかし、神はイスラエルと共にいて、彼らの避け所となり、彼らの家には災いが来ないように(過ぎ越し)された。そしてついにイスラエルは自由の身となったのである。そのことを「知らないのか」と言うのだ。つまり、不法を行う者らは「主が、御自身の民を解放して下さる方、自由にして下さる方、約束の地に導き入れて下さる方である」ことを知らないのか、ということだ。知らないから不法を行っている、と。
 それを知る(悟る)人を神は探す。昔(ソドムの時、ノアの洪水の時、バベルの塔の時)そうであったように、今も、悟りのある(神を尋ね求める=真理であるキリストと、その教えの真理を求める)者を神は探す。そして神は『神を求める者に報いて下さる』お方である。
 エジプトで虜となっていたイスラエルを、神は元の所に返した。それが、かつての「出エジプト」だ。が、その救いが来ますように、と過ぎたこととしてではなく、これからのこととして語られているのだ。何故なら、神は今も生きて働いておられるからだ。力ある御業をなし、不思議な助けを与えて下さる。だから、その時が来たら喜べ、楽しめ、と詩人は言うのである。たとえ今、何かに捕らわれ苦しめられているとしても、必ず解放の時が来る。そのことを信じて主を呼び求めよう。




2016年10月9日礼拝メッセージ 「いつまで?」 詩篇13:1〜6 

 『いつまでですか』と、4度叫ぶ詩人。苦しみの中での呻きのような祈り。それが、この13篇である。そのような姿は「信仰の勇者」には見えないかもしれない。しかし、果たして、苦しむことは不信仰なのか。信仰者はいつでも弱みを見せず、強く雄々しくあるべきか。確かに聖書は「いつも喜び、全てのことに感謝せよ」と教えている。だが、ダビデは「またか」と思うほど嘆いているのだ。詩篇9:18では「神に見捨てられることは決して無い」と確信を表明しながら、13篇では『私を永久にお忘れになるのですか』と悲観的になっている。
 そのような「浮き沈み」は、多少なりとも誰にでもあるのではないだろうか。例えば、不安になったら祈って平安を取り戻すし、癒されたと思ったら、また他の病気になる、というようにだ。信仰の歩みというものは、決して単調な、平坦な、真っ直ぐな道ではないと言える。中には、ジェットコースター並みの急降下、急旋回、という人生を経験する人もいる。しかし、ジェットコースターは、ついには、ゆっくりと、元に戻ってくる。その時の安堵感は筆舌し難い。
 ダビデも、浮き沈みはあった。けれども、悩み・嘆きの果てに辿り着いたのは「主への信頼」だ。最後には、やはり、元の所(主への信頼)に戻ってくるのである。そこに勝利がある。人生も、紆余曲折あっても、最後には神への信頼に辿り着くことが必要だ。そうであってこそ、「苦しみにあったことは幸いでした」ということが出来る。
 ダビデが主への信頼に辿り着けた理由、それは『主が豊かにあしらわれたゆえ』だ。「あしらわれた」(ヘブル語のガーマル)は、熟させる、完全に乳離れさせる、という意味に使われる。つまり、主がダビデを成熟させて下さったから戻ってこれた、ということだ。
 『いつまで』と何度叫ぼうが答えない神。そんな時に何に拠り頼むことが出来るか。ダビデは、神の恵みに拠り頼んだと言う。神は、愛するがゆえに、更なる恵みを与えるために、その子を懲らしめるということをダビデは知っていたのだ。だから、そこに拠り頼んだ。それゆえ成熟し、主への信頼に辿り着いた。私達も今、暗闇の中にあったとしても、主は恵み深い、という事実に拠りかかって、支えを得よう。




2016年10月2日礼拝メッセージ 「本当のこと」 詩篇12:1〜7 

 世の中で、卑しいことが崇められているときには、悪者が至る所で横行する、とダビデは言う。それはそうだろう。そうなるに違いない。残念ながら本当のことだ。が、アーメン! とは言いにくい。
 あえて、そんな嘆きの言葉で詩を結ぶのは何故か。この詩は、形式的には、「悪者が横行する」という結びの句に対して、「聖徒はあとを絶ち、誠実な人は消え去りました」と冒頭にあるように「対」になっている。とにかく、それもこれも、人々が卑しいことを崇めたからである。そんなことにならないようにするべきだ、と誰もが思うだろう。しかし、残念ながら今も世の中では卑しいことが崇められている。心を育むより、出世することのほうが崇められる。人に仕えるより、地位と権力で支配する人のほうが崇められる。信仰の世界においても、「真理なんかどうでもいい」と言わんばかりに、異端やカルトが大手を振っている。
 『主よお救い下さい』とダビデは祈る。「真っ当な主張をする(本当のことを言う)人が消え去ってしまった」と嘆く。そればかりか、偽り者は言う。『われらはこの舌で勝つ』と。事実、その雄弁な舌によって偽りが信じ込まされている。ダビデが『主よ、立ち上がって下さい』と祈ったように、私達にも祈りが必要だ。それに応えて主は仰せられる。『今、私は立ち上がる。私は彼を、その求める救いに入れよう』と。このことからも分かるように、私達は、卑しいことをではなく、救いを求めるべきなのだ。聖なる神を、混じりけのない御言葉を、崇めるべきなのだ。悪が横行するのを止めるために。
 勿論、この世から悪が完全に消え去ることはないだろう。むしろ、ますます悪は栄える。そして、ついには裁きの時が来る。しかし、だからこそ、自分の人生の中にまで悪が横行することのないようにしなければならないのだ。世の風潮に流されて、卑しいことを崇めないようにしなければならないのである。
 聖書を否定するメッセージを、この世は流す。しかし、神を信じ、御言葉に従う者に、神は報いて下さる。「真理はどこに行ってしまったのか」と悩む人に、「自分には神が必要だ」という貧しい人に。




2016年9月25日礼拝メッセージ 「誰が……?」 詩篇11:1〜7 

 言葉(音)は、空気の振動によって耳に届く。それが「聞く」ということだが、その聞いた言葉が心を動かす。時には、それが更に心の奥底に深く刺さる場合がある。それを「魂に届く」と言うのだろう。
 さて、「誰か」がダビデの魂に言う。『鳥のように、お前達の山に飛んで行け』と。それは、鳥のように「何かに身を潜めて、こそこそ逃げ隠れていろ」という侮辱の言葉である。そんな侮辱の言葉が魂に届いたなら、打ちのめされてしまう。更に「誰か」は言う。真っ直ぐに歩む者を悪者は暗闇から狙ってる、と。これはダビデに対してに限らず、世の常とも言えるものであり、同時に、全ての信仰者が置かれている状況でもある。つまり、光の子を悪魔は陰で狙ってる、ということだ。そう理解することに、この詩の聖書としての意味がある。
 その「敵」の攻撃によって『拠り所が壊されたら正しい者に何ができよう』と「誰か」は言う。クリスチャンの拠り所、それは聖書である。ゆえに、御言葉への信頼、純粋な御言葉の教え、その土台が崩れたら、総崩れとなる。だから悪魔は、そこを揺さぶる。つつく。「そうなったら信仰者も終わりだな」と「誰か」は、そのような攻撃を受けているダビデを見ながら言うのだ。つまり、「誰か」とは、直接的な敵ではなく、第三者(ダビデの周辺の人物)なのだ。
 しかし、主は人を調べる、とダビデは言う。敵の作戦は分かり切っている。土台を崩すことだ。ただ、誰がそんな作戦を立てているのか(誰が主に逆らう者なのか)を調べる、というのだ。ヨハネの手紙によれば『あなた方を(異端の教えで)惑わそうとする人達』である。主は、そのような悪には、相応しい報いを与える。しかし正しい者には御顔を現わして下さるのである。ゆえにダビデは『主に私は身を避ける』と言う。打ちのめされるほどの魂への攻撃から守られるために。
 例えば、急な雨の時など、身を避ける所がある、というのは幸いなことである。しかし、必ずしも、そのような場所があるとは限らない。それでも私達には完全、最高の避け所がある。神の国だ。全てから守られ、喜びと感謝に満ちる場所である。それを与えて下さる主に身を避けることが出来る、それが幸いである。




2016年9月18日礼拝メッセージ 「侮らない」 詩篇10:1〜12 

 悪が栄える陰で『不幸な人は、強い者によって砕かれ、うずくまり、倒れる』。そのような現実を見ることがある。それゆえに悪者は『神は忘れている。顔を隠している』と、神を侮る。
 面白いのは、彼らは、神の存在を否定してはいない、ということだ。ただ、侮っているのである。『私は揺るぐことがなく、代々にわたって、災いにあわない』、神の裁きはない、と。
 しかし、聖書は言う。『神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります』(ガラテヤ6:7)と。それでも悪者は、神は『決して見はしないのだ』と侮るが、詩篇の著者は反論する。神は『見ておられました』と。
 確かに、ノアの大洪水の時も、ソドムとゴモラの時も、神は地上に悪が増大するのをご覧になった、と創世記にある。そして裁いた。
 神はいる。しかし、悪は栄える。この不条理に対する解決、それが裁きだ。それは、捻じれたものが真っ直ぐになるとき、神の義が現わされるとき、神に身を委ねる者が救われるときなのである。例えば、エステルがハマンの悪巧みで窮地に陥ったとき、ダニエルが大臣達の罠にかかってライオンの穴に放り込まれたとき、神は彼らを助け出し、彼らを真っ直ぐにされたようにだ。
 神は、ちゃんと見ておられる。それも人の心(神を侮る心か、敬う心か)を。ダビデも、そうして神に「見い出された」人だ。とは言え、ダビデも罪ある人間である。過ちも犯した。しかし、彼は神に憐れみを求めた。神を侮らないからこそだ。神の憐れみを受けなければ自分は滅んでしまうと認める、それは神を侮っていないからなのである。つまり、神は裁き主、主の主、王の王だと認めることである。それが、神を侮らない、ということだ。その人を神は、決して忘れない。神は『みなしごと、しいたげられた者をかばって』助けて下さるお方だ。キリストに身を委ねるなら、今日、神の国が心の中に建てられる。今日、キリストに信頼する人を、主は見て下さる。そして、心を強くしてくださる。その信仰をもって、詩篇の著者と同じく、私達も祈ろう。『主よ。立ち上がって下さい。貧しい者を忘れないでください』と。




2016年9月11日礼拝メッセージ 「貧しさの幸い」 詩篇9:1〜12 

 「アルファベット詩」と呼ばれる詩であるが、肝心なのは形式ではなく、内容だ。この9篇は、神に背を向ける人々に対する裁きと共に、「貧しい者を神は決して忘れない」と宣言する。
 すると、聖書は、貧乏は良いことだと言うのだろうか。確かに「金持ちが天国に入るのは……難しい」と主は言われたし、「貧しい者は幸い」とも八福の教えにはある。ただし、それは「心の貧しい者」であるが……。心、それは原語はプニューマ(魂・霊)であって、要は、魂・霊が飢え渇いた人(自分には神が、罪の赦しが、必要だ。でなければ滅んでしまう罪人だ、と認める人)が幸いだということである。何故なら、その人は、神を求めるようになるからだ。そして神は、その求めに応じて、天の御国を与えて下さるからである。へブル11:6にあるように、神を求める者に神は報いて下さる(心の貧しい者に神は御国を与えて下さる)のだ。そして、それを保証するのが信仰だ、というのである。昔の信仰者達も、その信仰によって称賛された。
 さて主も、『神の国とその義とを第一に求めなさい』と言われた。それは具体的には、どうすればいいのだろう。神の国に属すること(祈り、賛美、礼拝など)を優先順位の一位にすることだろうか。勿論、それは正しいことだ。が、「求める」のとは微妙に違う。「求める」は、「それが欲しい、と願うこと」である。つまり、「他の何よりも、神の国が欲しいと願うこと」、それが、神の国を第一に求めることなのだ。そして「神の国」とは、「神の支配」という原語であるから、それを求めるということは、「神に支配されたい」と願うことなのだ。だから主は『神の国はあなた方のただ中にある』と言われた。神に心を支配されるなら、そこが神の国であり、神の平安と喜びが満ちるのだ。それは言いかえれば「聖い神の霊に満たされる」ということであるから、支配されるということに抵抗を感じる必要はない。神は良い方であることを知って、主に依り頼もう。詩篇9:10にあるように、神は、神を尋ね求める者を見捨てない。たとえ今はまだ不完全(心の貧しい者)でも、「神に信頼出来るようになりたい」と願い求めるなら、神は応えて下さる。それが貧しい者の幸いである。




2016年9月4日礼拝メッセージ 「何者?!」 詩篇8:1〜9 

 宇宙の余りの壮大さのゆえに『人とは何者なのでしょう』とダビデは言う。よく言われるように、広い宇宙から見れば人間など、踏みつぶしても気付かない虫のようにちっぽけな者なのである。なのに神は、気付かないどころか、『これを心に留め、顧み』て下さった、というのだ。なんという恵みだろうか。その恵みの大きさについてダビデは言う。『あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、万物を彼の足の下に置かれ』たと。これは、人間が造られた時のこと(創世記1:26〜28)を指している。確かに、神に似た(神に比べれば劣る)者として人間は造られたし、『全てを支配せよ』と神は人に言われた。だが、それにしてもダビデは、言い過ぎではないか、と感じる。『神よりいくらか劣る』と言うよりも、「かなり劣る(神のように全能ではない)」し、栄光と誉れは神のものではないだろうか。そして『万物を彼の足の下に置かれた』ということの成就を私達は未だに見ていない。
 実はこれは、人間が造られた時のことを指すだけでなく、キリストのことを預言的に語っていたのだということがヘブル2:6〜9で明かされている。要するに、詩篇8:4〜8は、キリストの十字架による罪の赦し(救いの道を開く、という福音)を預言していたということなのだ。それゆえ、万物を彼(キリスト)の足の下に置いた、というわけなのである。つまり、キリストこそ主の主、王の王ということだ。ゆえにダビデは、神の偉大さを称える言葉でこの詩を始め、同じ言葉で締めくくる。その偉大なる神の御手の業(宇宙)を見てへりくだり、神を自らの王とせよということ、それがこの詩のメッセージだ。
 それに対して、自分の栄光を求め、自らを王とする(神に敵対する)者を黙らせるために「幼子の口に賛美を置いた」ということがマタイ21:15〜16で起きている。それが詩篇8:2の預言の成就だ。
 私達も、自分の栄光を求める思い・心を鎮めるために、神の偉大さを賛美しよう。ちっぽけな者を心に留め、顧みて(救いの道を開いて)下さった神の前にへりくだり、神の国とその義とを第一に求めよう。そうすれば恵みはついてくる。




2016年8月28日礼拝メッセージ 「いませんか、いまするよ」 詩篇7:1〜10 

 6篇と同じく「嘆きの祈り」から始まっている。が、6篇とは違って7篇では、この苦しみは自分のせいではない、とダビデは言う。
 問題は、何故、神のしもべが、いわれなき苦しみを受けるのか、だ。「信仰を持てば、神が守って下さるのだから、苦しみに遭わないはず」と考える人にとっては、「神を信じても苦しむのなら、信じる意味がない。信じるのは無駄」ということになる。しかし聖書は『あなた方は、世にあっては患難がある』と教える。何故なら、全ての人は、神の愛と守り(エデンの園)の外側の世界(この世)に生まれ生きているからである。だから、この世には、病があり、戦争があり、飢餓があり、不幸がある。それが当然なのである。決して、神の愛が消えたのではない。神の愛は変わらない。ただ、罪が壁となり、断絶を生み出しているのである。しかし、信仰を持つなら、神との関係が回復し、断絶が取り除かれる。例えば、窓のない部屋の天井が取り除かれたようなものだ。天からの光(神の助け、愛)が注がれる。だから、確かに、信仰を持っても苦しみに遭うことがあるかもしれない。だからと言って、信仰は無意味ではない。主が盾となり、守って下さるのだ。
 『神は心の直ぐな人を救われる』とダビデは言う。それは、神に背く(曲がった)心を悔い改めて真っ直ぐにした人を救うということだ。一方、『神は正しい審判者』であり、必ず悪を裁く。それも『正しい神は心と思いを調べ』た上で、だ。つまり、悪は心と思いの中にある(神に逆らう心が悪の根源)ということである。『その暴虐は、おのれの脳天に下る』と聖書は言う。滅び、それが悪への報いだ。しかし、神を神とする正しい者には、命・天国を与える。たとえ地上の人生に苦しみがあったとしても、忠実な信仰者に神は報いて下さるのだ。その二つのどちらを選ぶか、それを選ぶのは自分自身だ。そして神は『あなたは命を選べ』(申命記30:19)と言われる。
 神は、誰に対しても、その人の選択に応えてくれる。救いを拒む者には、滅びを。救われたいと願う者には、命を与えて下さる。私達は、それを自分で選ぶことが出来るのだ。神に依り頼む(正しい道)を選ぼう。そうすれば、たとえ苦しみがあっても主が助けてくれる。




2016年8月21日礼拝メッセージ 「訴える先がある!」 詩篇6:1〜10 

 苦しみのあまり、嘆きで疲れ果て、涙の海で溺れそう……そんなダビデだが、そのような状況を招いたのは、自分の罪のゆえであることを彼は認めている。恐らく、バテ・シェバとの一件(及び、部下殺し)であろう。本来なら、責められて当然、神が憤るのも当然。自分のせいなのだから、どこにも言って行く先が無い。しかし、ダビデには訴える先があった。勿論、悪いのは自分だと分かっている。それでも神に憐れみを求めることが出来るのは幸いである。それはダビデに限らず、「全ての人は罪がある」と聖書は言うのであり、その自分の罪のせいで神に罰せられたとしても誰にも文句は言えない。しかし、幸いなことに、私達は神に憐れみを求めることが出来るのだ。そして神は、悔い改めてキリストを信じ従う者に憐れみを示して(救って)下さるのである。憐れみ深い神に感謝しよう。もし神が憐れんで下さらない(神に見捨てられた)なら、もはやどこにも希望はない。ダビデは、それ(神との断絶)を何よりも恐れた。勿論、神は「あなたを捨てない」とおっしゃる。しかし、罪が神との間の壁となり、断絶を作ってしまうのである。例えば、太陽が輝いていても、窓の無い部屋の中にいれば、壁が光を遮るようにだ。ゆえにダビデは、神との正しい関係が回復することを求めた。そして、それは、生きている内にしておかなければならない(死んでからでは遅い)とダビデは知っていた。
 当然ながら、死んでからのことは(例えば、葬儀も)死ぬ前に備えておかなければならない。いや、葬儀なら遺族が何とかしてくれるだろう。しかし、天国に行けるかどうかは、遺族任せではどうにもならない。自分自身が天国を信じ、神の言葉に導かれて歩まなければならないのだ。そして、天国の確信を持つこと、それこそが人生の問題を乗り越える力となり、苦しみの時の避け所、慰め、希望となる。仮に、その苦しみの原因が自分にあったとしても、それでもダビデのように私達には訴える先がある。神の憐れみを求めることが出来る。そして主は憐れんで下さる。ゆえにダビデは、この詩の最後で「勝利の宣言」を記した。神がダビデの祈りを聞かれたからだ。神との正しい関係が回復したのである。それが、世に勝つ、ということだ。




2016年8月14日礼拝メッセージ 「避ける、身を避ける」 詩篇5:4〜12 

 ダビデを殺そうと待ち伏せし、罠を張り巡らせている敵がいる。「だから彼らから私を守って下さい」という嘆きの祈りから、この詩は始まる。ダビデが狙われる理由、それはダビデが王という特別な権威・地位にあったからだ。それは私達一般人には無縁なことと思えるかもしれない。しかし、そうではない。何故なら、ダビデの王位は、神によって与えられた(神に選ばれ、油注がれた)ものであるからだ。その点、クリスチャンも、神によって与えられた「神の子」としての特権がある。そして、その私達の特権を奪い取ろうとする(何とかして地獄に道連れにしようとする、どうにかして信仰を失わせよう、捻じ曲げてやろうとする)敵がいるのである。そういう意味で、私達もダビデと全く同じ立場にあるということだ。決して無縁な、別世界の出来事ではないのである。その敵は、狡猾にも、様々な罠を張り巡らせ、手ぐすねを引いて待ち伏せしているのである。
 その罠の一つ、それが、異端の教えだ。それは『滅びをもたらす』とペテロは言う(Uペテロ2:1)。しかも、それは、気付かない内に『密に』忍び込んで来るのである。まるで放射能のようにだ。対策は、避ける(近付かない)ことだ。その為には、線量計をもって厳密に測るしかない。信仰において、その役割を果たすのが「正しい聖書理解」である。それに照らし合わせて、どれくらい基準からオーバーしてるか(どれくらい危険か)を測るべきなのである。ところが、その基準が気付かない内に変えられてしまう場合がある。聖書は「キリスト以外に救いはない」と言うのに、「クリスチャンでなくても救われる」というような考え方が一部の人達の間に浸透している。そのような教えに近付いてはならない。離れ、避けるべきである。避けて、逃れる先は、主イエスの元だ。主の元に身を避けるなら、主が守って下さる。それを求めて、ダビデは叫び祈る、それがこの詩だ。
 へりくだって主に依り頼む主のしもべ(正しい者)を、主は愛の大盾で守って下さる。神の愛に包まれるなら、恐れ不安は消える。人生の、どんな問題、悩みが襲って来ようとも、びくともしない。神の愛の大盾ですっぽりと包まれることを求めよう。




2016年8月7日礼拝メッセージ 「いいんです!」 詩篇4:1〜8 

 ダビデが息子から命を狙われるという危機を、主によって脱したのちに書いた詩である。だが、そこには、感謝ではなく、叫びとも言うべき祈り・願いが記されている。ダビデには、なおも命の危険が迫っていたのだ。しかし、決して失望ではない。ダビデは、今度もまた主が助けて下さるという確信があった。『あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えて下さいました』という経験を心に刻むがゆえである。
 そこでダビデは言う。『主は、ご自分の聖徒を特別に扱われる』と。
特別扱い(ひいき)するということは、ときに「悪」とされる。例えば、学校の先生がある特定の生徒を、ひいきする場合だ。他の生徒達は「差別された」と訴えるだろう。教師たる者、全ての生徒を公平に扱うべきである。しかし、ひいきすることに何の問題もない場合がある。それは、例えば、ある店を気に入って、ごひいきにする場合だ。他の店も公平に可愛がってやる必要はない。自分の好きな店にだけ行けばいいのである。それは、差別ではなく、区別なのだ。犯罪者は牢屋、善良な人には自由、というようにだ。同じく、神に背く人と従う人が公平な扱いを受けることはない。地獄か天国か、だ。そこに区別が生じる。『主は、ご自分の聖徒を特別に扱われる』のである。呼び求めるとき、主は聞いて下さるのだ。
 ダビデは父親としては失格だったが、苦しみのときに主によってゆとりを与えられた。ひいきにされた、その理由は、彼が、主を愛する人だからだ。だから彼は言う。主の前に恐れおののけ。そして罪を犯すな(神に従え)と。そして、義(正しいこと)の犠牲を捧げよ、と。つまり、神の前に正しいことを行うには犠牲が伴う、ということである。それでも主に依り頼んでそれを行う、それこそが主を愛する人であり、主が「ご自分の聖徒」とされ、特別に扱われる人なのである。
 けれども多くの人は、神に依り頼まず、権力やカネに期待する。全ての争いの原因がそこにある。しかし、主が心に与えて下さる喜びはこの世の何にも優る、とダビデは言う。それを求めて与えられたがゆえに彼は、平安の内に眠り、安らかに住まう。私達も、主に依り頼む者となり、主の下さる喜びと平安を求めよう。




2016年7月31日礼拝メッセージ 「落ちない、沈まない」 詩篇3:1〜8 

 ダビデは、神の目にかなって、選ばれた王だ。ならば祝福されるはず、と考えるのは当然である。しかしダビデは、王であるにもかかわらず、命を狙われて逃亡生活を強いられた。それも、実の息子アブシャロムから命を狙われたのである。
 何故、そのような災いにあうのか。罪を犯したからか。確かに、ダビデはバテ・シェバの件では罪を犯した。が、悔い改めて、赦されている(Uサムエル12:13)。アブシャロムの件は、ダビデの父親としての問題である。アブシャロムは、父としてのダビデに失望し、殺意を抱いたのだ。現代風に言えば、家庭崩壊である。
 それでもダビデは、聖書においては重要な存在、キーパーソンだ。たとえ、苦難と災いがあろうとも、自らの失敗によって苦しもうとも、神の祝福がある。ゆえに「主が共にいて守ってくれる、だから平安だ」と歌う、それが、この詩篇なのである。
 人間的な弱さは誰にでもある。完全な(失敗しない)人などいない。体の贖われる(罪の残る肉体を脱ぎ捨てる、救いの完成の)ときまでは、失敗があって当たり前なのである。ダビデでさえも、だ。しかし、その家庭崩壊ど真ん中のダビデにも、神の守りがあった。それが、神に依り頼む者の幸いである。パウロが言うように、患難、迫害などの中にあっても圧倒的勝利を取る、ということだ。ゆえにダビデは、逃亡中の苦しい状況でありながらも、主の支えの中で安心して眠り、(殺されないで)また目覚める、と言うのである。そしてそれは、ダビデ個人の心情のみを表すものではない。つまり、人の人生というものは(ダビデがそうであったように)戦いの連続であり、戦いの果てに、やがて死ぬ(身を横たえて眠る)ときが来るが、主に信頼するから、また目を覚ます(復活する)、ということをも表すのである。それこそが、聖書の教える、何ものにも打ち負かされることのない(決して、絶望の底に落ちない、沈まない)圧倒的勝利である。
 『救いは主にあります』と締めくくられる、この詩(ダビデの人生)を通しての神のメッセージを受け取ろう。そして『神の祝福が、神の民の上にありますように』と、信頼をもって主に祈ろう。




2016年7月24日礼拝メッセージ 「なぜ、なぜ、なぜ、」 詩篇2:1〜12 

 詩篇の預言書的側面を示すのが、この第二篇(メシア詩篇と呼ばれているものの一つ)である。1〜2節にある通り、指導者達は手を組んでキリストに逆らった。指導者に限らず「国民」もである。特に、1節の「つぶやく」は、1:2の「口ずさむ」と同じ単語であって、人々は単につぶやいたのではなく、いつも神に逆らうことを思い巡らし、考え、実行した、ということだ。何故、そこまで? と嘆きたくもなろう、というものだ。
 ただ実際は、イスラエルの宗教指導者達は、神に逆らいたいと思っていたわけではない。むしろ、律法を厳しく守り、罪人を遠ざけ、安息日を破るイエスを迫害した。そうすることが神に仕えることだと考えていたのである。所が実は、それが神に逆らうことだったのだ。その典型がサウロ(のちのパウロ)だ。神に逆らうつもりなどなかった。ましてや、神を信じない人にとっては、神に従うつもりも、逆らうつもりも無い。ただ、神を認めない(神を知らない)から平気で偶像を拝み、普通に占いに興じるだけなのだ。ということは、普通に生きようと考えれば考えるほど、実はそれは、神に逆らうことをいつも考え実行している、ということになるのである。神は、その者共を退ける。
 しかし、メシア(キリスト)を立てた、と6節に続く。神を認めない人々を『恐れおののかせる』為、つまり「キリストを見て神を知れ」ということだ。主も言われた。私を見た者は神を見たのだ、と。
 さて、7〜9節は、誰が誰に語っているかが問題だ。特に7節後半からは『』で括られている。そこでの『わたし』である父なる神が、御子イエスである「わたし」に語っているのだ(使徒13:33参照)。つまり、キリストこそ全地の主(全ては主のもの)だということである。それゆえ、王達よ悟れ、キリストに従え、というのである。それが「幸いな者」だからだ。8節は決して、人間に対して『全世界が与えられるように求めよ』と言っているのではない。『たとえ全世界を手に入れても真の命を損じたら何の得が?』と主は言われた。求めるべきは永遠の命・天国だ。ゆえに『神を第一にせよ』なのである。私達は、主の教えを喜び、忠実に従う「幸いな者」となろう。




2016年7月17日礼拝メッセージ 「逆風でも、日照りでも」 詩篇1:1〜6


 詩篇には「嘆きの祈り」が満ちている。それでも「讃美歌集」である、というのは何故か。それは、主は必ず助けて下さる、という信仰のゆえに、苦しみの中でも「主こそ神である」と告白する(それが賛美だ)からである。もし、その信仰が無ければ、残るのは嘆きだけだ。そこには救いが無い。希望の光が無い。だから、そんな道に歩むな、と教えるのが、この詩篇1篇(詩篇全体の要約)なのである。
 さて、この詩は、まず「幸いだ」という宣言から始まる。「悪者」=意図的に悪を行う(神に背くのみならず、法にも背く)者、「罪人」=神を知らずに的外れな生き方をする者、「あざける者」=高ぶった横柄な者(箴言21:24)…霊的なことを軽んじる者、それらの生き方に同調しない者が幸いだというのである。その点、クリスチャンは、キリストを信じて義と認められたのだから罪人ではない。勿論、悪者になどなるべきではない。しかし、霊的なこと(天国、永遠の命など)を軽んじるということはあるのではないか。すなわち、地上での繁栄を最重要視するような信仰だ。それは「あざける者」に同調していると言える。私達は、天に名が書き記されていることを喜ぶべきである。
 続いて、それらの生き方をしない人は、主の教えを喜び、口ずさむ(思い巡らす)生き方をする、と詩篇は教える。さらに言えば、思い巡らすだけでとどまるのではなく、その御言葉を実行するべきだ(ヤコブ1:22)。その人は、水路の側に植えられた常緑樹のように、真っすぐに伸びる。それとは違って、悪者は神の裁きの前に、もみ殻のように吹き飛ばされる。罪人は、天国に(教会にも)招かれてはいるが、罪人である限りは、天国の宴会(正しい者の集い)に入れない。
 締めくくりに『主は正しい者の道を知っている』と詩篇は言う。道とは、その「生き方」だ。正しい者がどのような人生を生きたかを、主はご存知で、報いて下さるということだ。たとえ悪者が、この世で営利と快楽を貪ろうとも、それ故に正しい者が苦しめられようとも、そのままでは終わらない。裁きがある。だから私達は主に信頼して、正しい道を歩む者となろう。その人の人生は、逆風でも、日照りでも、水路の側に植わった常緑樹のように真っすぐに伸びる。




2016年7月10日礼拝メッセージ 「裏切り…むしろ、○○」 ヨハネ21:15〜17 

 「私を愛するか」と3回問われて、ペテロは心を痛めた。「あんな人知らない」と3回言ってしまっていたからだ。弟子が師匠を裏切る、それは破門になってもおかしくはない。所が、主はご自分からペテロの前に現れた。責めもせず、悔い改めを迫りもしない。赦したのである。ペテロは何故、責められなかったのか。裏切りは悔い改めなくてもよいのか。では何故ユダは滅びたのか。もしかしたら、ペテロは、裏切ったのではないのかもしれない。
 勿論、確かに彼は主を否んだ。しかし、だからと言って主を愛してない訳ではないはずだ。愛してない(裏切るつもりだった)のなら、泣く必要はないし、それ以前に、危険を冒してまでついて行く必要もない。チャンスがあれば主を助け出そうと思っていたのだろう。「なのに、自分まで捕まったら誰が主を助ける、ここは何としても切り抜けなくては」との思いで、「知らない、分からない」と、つい誤魔化した。その時、鶏が泣き、主が振り向いて見つめた。ああ、「やっぱり裏切った」と思われてしまった。そんなつもりじゃないのに誤解された……それが涙の理由ではないだろうか。
 人の心の奥深いところ、その本心というものは、そうそう分かるものではない。「誰も分かってくれない」と、ペテロも思っただろう。しかし主は、ペテロを責めず、悔い改めを促しもしない。主は、ペテロが、裏切ったのではない、ということを知っていたのだ。それゆえ、ペテロは答えた。『主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です』と。アガペー(神の愛、無償の愛)で愛することはできなかったけれど、決して、愛してない訳ではない。人間としての全力で、フィレオー(人類愛、兄弟愛)で愛している、ということだ。そして主は、そのペテロの返事を「よし」とされた。
 主は全てをご存じである。誤解などなさるお方ではない。人には言えない苦しみ、悲しみも、主は知っていて下さる。「誰も分かってくれない」と思える時も、主は分かっていて下さるのだ。だから主の前に言い訳をする必要はない。どのような時も、ただ「主を愛します」と告白し続けよう。主は、それを「よし」とし、力を与えて下さる。




2016年7月3日礼拝メッセージ 「が、か、から、か」 ヨハネ21:1〜6 

 以前にも同じような出来事があったこと(主と共に過ごした体験)を思い出したとき弟子達は、復活の主だと気付く。この場面では「大漁の奇跡」だ。かつてペテロは、夜通し魚が取れなかったとき、「お言葉ですが」と言いたいところ、「お言葉ですから」と主の言葉に従って網をおろしてみた。すると奇跡が起きた(ルカ5:1〜6)。そのことから、「たとえ自分の考えとは違っていても、お言葉に従えばいいのだ」とよく言われる。例えば、ナアマン将軍のようにだ。
 確かに。だが、しかし、である。疑いながら従うより、疑わずに従ったほうが、より良い信仰ではないだろうか。
 ペテロはプロの漁師だから漁に関しては詳しい。しかし、主イエスは天地の造り主、全知なる神ではないか。その主が、魚の習性を知らないなどということがあろうか。いや、宇宙の果ても、深淵の源も、全てを知っている。だから、「魚は夜に獲るものだ。けど、お言葉ですから……」というのは、主より自分のほうが知ってる、ということであり、実は隠れた高慢なのである。それゆえ、大漁を見た時、ペテロは驚いて『私は罪深い』と自分を恥じた。罪を感じるほどに、主の言葉を否定していたのだ。「獲れるわけがない」と。それでも従ったのは、単に「お言葉だから」だ。例えば、白バイに「止まれ」と言われたら、大抵の人は止まるだろう。しかし、それは「信頼」というような行動ではない。ゆえに「お言葉ですからやってみましょう」というのは、必ずしも信仰の行動とは言えないのである。
 その点、ヨハネ21章では、まだ主だと気付いていない時点で(どこの誰だか分からない人物の言葉に)従っている。「主のお言葉ですから、やってみましょう」ではないのだ。ただ、行き詰っていて、何かにすがりたくて、やってみた、ということだ。
 私達はそうではない。聖書は神の言葉だと知っている。ならば「お言葉ですが」ではなく、「私は……でも、お言葉ですから」でもなく、「お言葉は真実だ」と信頼して従おうではないか。そうすれば、主の恵みを体験する。そのような「主と共に過ごす」体験が多いほど、主を見失うことなく、どんなときも平安を保つことが出来るのだ。




2016年6月26日礼拝メッセージ 「見た! 健康な○○」 ヨハネ20:24〜31 

 『信仰は目に見えないものを確信させるもの』だとヘブル11:1にある通り、見てないこそ信じる、それが信仰であると言える。ところが主は、トマスに「見て、触って、信じろ」と言われる。主は何を見せたのか。手とわき腹の傷だ。それは、死んだはずなのに生きている、という「しるし(証拠としての奇跡)」である。イエスは神・キリストだと信じさせるためのものだ。つまり、確かに、見てないものを信じる、それが信仰ではある。しかし、それは、何の根拠もなく信じるのではない、ということだ。例えば、天国も「神の言葉が約束している」「神の約束は必ずなる」という根拠のゆえに、まだ見てない天国を信じるのである。何の根拠もなく信じるのは、妄信だ。
 しかし主は、傷を見て信じたトマスに『見ずに信じる者は幸い』と言われた。「見て信じろ」と言ったはずなのに、そしてトマスは、見て信じたのに、だ。何故か。理解の鍵となるのは、何を見たか、だ。
 弟子達は、主の墓が空なのを見て、信じた。復活を、ではない。「誰かが主の体を盗んだ」というマリヤの言葉を、だ。「彼らは復活を理解していなかったのである」と聖書が言う通りだ。そのあと、マリヤは主と会うのだが、主だとは気付かない。それは、栄光の体(新しい体)になってるなどとは思いもしなかったからだ。弟子達も、主の手の傷を見て喜んだ。それは、復活(新しい体に変えられる)ということが分かっていないということである。だから主は、栄光の体なのに、あえて傷を残した。弟子達の不信仰のゆえである。だから、(傷を)見ずに信じる者は幸い、と主は言われたのである。
 そのように「証拠を見て信じること」と「(傷を)見ずに信じること」は別問題であることを知ろう。そして、最も信頼出来る証拠は聖書である。それによって、見えない神を信じ、まだ見ぬ天国を信じるのだ。ゆえに、聖書という確かな根拠を「見て信じる者は幸い」なのである。それゆえに、天国を「見ずに信じる者は幸い」なのである。
 天国では私達は、新しい体に変えられる。全ての病は完全に癒される。その根拠が、主の復活だ。それを私達は自分の目で見てはいないが、見ずに信じよう。根拠を見て、信じよう。そして期待しよう。




2016年6月19日礼拝メッセージ 「なし と げた」 ヨハネ19:28〜30 

 主は、瀕死の重傷を負わされた上、「最も残酷な死刑の道具」である十字架に約3時間吊るされた。普通なら、息も絶え絶え、声も出せないだろう。が、主は2回も大声で叫ばれた。そのうちの一つが『完了した』(テテレスタイ)だ。それは、「払い終えた」という意味でも使われる言葉である。私達の罪の代価を、ご自分の命をもって払って下さった、と理解出来る。しかし、それだけではない。それは、神の救いの計画が一つも残らず全て完璧に成し遂げられた、ということでもある。それは決して楽な道ではなかった。しかし、成し遂げた。主にしてみれば「やったぞ、これでついに、やっと、信じる者が救われるぞ!」という喜びの叫び、それが『完了した』だとも言えるだろう。福音(エウアンゲリオン)とは本来、そのような「勝利の喜びの知らせ」なのである。
 ただ、ある人は言う。「その喜びの知らせが、何故、今、私を救うのか」と。確かに、キリストの十字架と復活は約2000年前の出来事だ。しかし、それは人間の「罪と死に対する戦い(勝ち目のない戦い=人は必ず死ぬ)」を終わらせるためのものだった。つまり、信じる者に「罪の赦しと永遠の命・天国」を与える、それが十字架と復活なのである。ゆえに、信じるなら「罪と死に対する戦い」を終えることが出来るのだ。しかし、その知らせを聞いても信じないなら、否応なく戦いは続く。自分で戦い続けなければならない。それは、旧日本軍の兵隊が、終戦の知らせを信じないがゆえに30年もジャングルで孤独に戦い続けたのと同じだ。しかし、その知らせを信じた時に、30年前の「終戦」が、その時の彼らに訪れたのである。
 主は、救いの為の全ての計画を『完了』して下さった。死に打ち勝って勝利された。その「福音(良い知らせ)」は、何千年経っても、それを信じた時に、その人の「罪と死に対する戦い」を終わらせる。勝利を取らせる。自由と解放を与える。その点において『失望させられることはない』と聖書は言う。聞いたのに信じないせいで余計な苦労をするのではなく、信じて解放されよう。そして人々が、聞くことが出来るように、知らせよう。




2016年6月12日礼拝メッセージ 「仕方ない人」 ヨハネ18:1〜11 

 ある人は言う。「イエスが十字架で死んだのは失敗だ。しくじったのだ」と。確かに「いつものように」(ルカ22:39〜40参照)ゲッセマネに行ったがゆえに(それを予測したユダが連れて来た兵士達によって)捕らえられてしまった、とも言える。しかし主は、隠れる気などなかった。自ら名乗り出た。明らかに、主は、捕まろうとしたのだ。何故なら、主は十字架で死ぬ為にこの世に来られたからだ。所が、その後、主の態度は一変する。尋問に対して「私は何も悪くない」という(助かろうとするかの)ような主張をなさるのである。何故か。
 ユダヤ人達は、イエスを死刑にしようと策を講じ、結局のところ「神への冒涜」をねつ造する。しかし、律法では、神への冒涜は「石打ちの刑」なのである(レビ記24:16)。主は、十字架にかからなければならない。それが神の救いの計画(モーセが青銅の蛇を掲げた時のように、木に吊るされた者=呪われた者になって、それを仰ぎ見る者が救われる為)だ。みすみす「石打ち」などで死ぬわけにはいかないのだ。そこに全ての謎の答えがある。ピラトが『あなた方の律法に従って裁け』と言った時、ユダヤ人達は「私達には死刑は許されていない」と(石打ちという死刑があるのに)嘘をついた。それは、神の計画がなる為だ、と聖書は言うのである。
 ピラトは『十字架につける権威がある』が「イエスには罪は無い」と見抜いて、釈放しようとした。そこで主は、ピラトを挑発するような態度を取り、釈放されまいとした、とも言える。とにかく、何としてでも十字架に、という強い意志がある。それ程に、人間を救いたくて仕方ないのである。そして、このことから学ぶべきは、神の計画(御言葉の約束)は必ず成就するということだ。十字架という非常な困難な業を成し遂げて、約束通り復活された主は、永遠の命・天国の約束も必ず成就して下さる。新しい体、新しい人生、新しい命が与えられるのだ。そこには涙も苦しみも無い、栄光の世界である。『そこに彼らを私と共におらせて下さい』と主は祈られた。その『栄光を見ることが出来るように』だ。それを見失うなら、仕方ない、では済まない。私達は共に天国への道を歩み続けよう。




2016年6月5日礼拝メッセージ 「保 と 守」 ヨハネ17:11〜17 

 父が子に下さった父の御名「イエス・キリスト」の中に保って下さいと主は言われた。どういうことか。それは、その名を信じて神の子とされた者が、そういう状態(神のもの)であり続けるように保って下さい、ということである。
 と言うのは、教会は建物や組織ではないからだ。エクレシア(召し出された者の群れ)である。それも、この世という闇の中から光の中(神の国)へと。その為に、主が代価を払って買い取って(贖って)下さった。だから、「神のもの」とされる、それがクリスチャンなのである。そして、そうあり続けてくれるようにと主は願われた。何故なら、クリスチャンを神から引き離そうとする力が働くからだ。
 ローマ8:35で、パウロは「誰が私達をキリストから引き離すのか」と問うている。「誰もいない。危険は一切ない」と言いたいのではない。逆だ。まるで死に定められたかのように、屠られる羊のように、絶体絶命というほどに、滅ぼす力(患難、苦しみ、迫害……)が取り巻いているというのだ。
 他にも「偽兄弟の難」にあったとパウロは言う。主は「偽預言者・偽キリスト」の出現を予告された。新約の書簡は、その多くの部分が異端への注意で占められている。何故なら、それらが私達を「キリストから引き離す力」だからだ。それゆえ「神のものとされ続けるように」と主は祈られたのだ。そうすれば「圧倒的勝利者」となるからだ。
 続いて「彼らをこの世から取り去って下さい(早く天国に連れて行って)とは言わない」と主は言われた。本当なら、天国が一番安全であり、最終ゴールなのだから、そこに行ったほうがいい。しかし、私達が地上の人生を楽しみたいと願っていることを主は知っておられて、それを否定もなさらず、むしろ、そうなるように『悪い者から守って下さい』と言われたのだ。私達をキリストから引き離そうとする悪い者、その最大の脅威は、異端の教え(曲げられた御言葉)だ。だから『真理によって彼らを聖め別って下さい』と主は言われた。それが、悪から守られる道、人生を幸いへと導く道だ。私達は、神のものとされ続けよう。その為に、真理の御言葉によって聖められ、守られよう。



2016年5月29日礼拝メッセージ 「あなたのものは私のもの?」 ヨハネ17:10 

 主は父に『私のものはあなたのもの』と言われた。「自分の持っているものを全てあなたにあげる」ということではない。むしろ逆だ。「私の持っているものは全てあなたから頂いたもの」ということだ。(それは人間にも同じことが言える。命を始め、生きる為の全てのものは、与えられたものである。それゆえに、高ぶってはならないとパウロは言う。「神あってこそ我あり」なのだ)そして父は全てを子に与えた。ゆえに『あなたのものは私のもの』と主は言われたのである。
 さて、子が父から受け取ったものの内の一つは、御言葉である。『あなたが私に下さった御言葉を、私が彼らに与えた』とある通りだ。そして弟子達は、その御言葉を受け入れ、信じたから『彼らはあなたのもの』と主は言われた。要するに、主イエスの言葉を信じるということは、実は、父なる神の言葉を信じるということであり、その人は、父のもの(神の子)となる、ということなのだ。
 もう一つ、主イエスが父から受け取ったものに「全ての人を支配する権威」がある。全ての人とは『あなたが私に下さった者達』と主が言われた人々、すなわち、父のものである神の子(クリスチャン)だ。だから、クリスチャンを支配する権威を主は持っているというのである。「支配される」ことに抵抗を覚える人もいるかもしれない。確かに、もし、サタンに支配されたとしたら、縛られたまま、自由は無い。滅びる。しかし、主イエスに支配されるなら幸いだ。何故なら、神の支配、それこそが「神の国」天国だからだ。神のものとされることを喜ぼう。キリストを信じる者は、必ず天国に行ける。それが生きる希望となり、力となる。それゆえに、主は『私は彼らによって栄光を受けた』と言われる。栄光とは、神の尊厳、卓越性、完全性などを示すもの、神が神であることを現わすものである。つまり、私達が実を結び、喜びに満たされる人生を送ることによって、「キリストが神だ」ということが現わされる、ということなのである。
 そのために大切なポイントとなる、それが御言葉だ。何故なら、それこそが「父が御子に下さり」「御子なる主が私達に下さったもの」だからである。私達は、父の言葉であるキリストの言葉にとどまろう。




2016年5月22日礼拝メッセージ 「○○○は知ってても」 ヨハネ17:1〜3 

 永遠の命とは、イエス・キリスト(真の神)を知ることだ、と主は言われたが、イエス・キリストという名は世界中の人が知ってると言っても過言ではないだろう。すると、殆どの人が永遠の命を持っているということか。いや、そんなはずはない。名前を知ってるぐらいでは永遠の命は与えられない。永遠の命を受けるためには、罪が赦されなければならない。罪がある限り、天国には行けないのだから。
 では、どうすれば罪は赦されるのか。基本的には、罰を受けることである。罪を放置することは正義ではない。しかし、罰さえ受ければいいというわけでもない。本当に赦されるためには、本気の謝罪と悔い改めが必要だ。「もう同じ道を行かない」「方向転換して正しい道に行く」ということだ。そうしたら赦しなさい、と主は言われたのである。それは、神が私達を赦して下さったのと同じだ。神は悔い改めた者の罪を赦して下さる、それが神の愛である。そして、その為に主イエスが身代わりに罰を受けて下さった、それが神の正義だ。実に十字架には、神の愛と正義が両立しているのである。
 それらの理屈を学校で学んだ人もいるだろうし、教会で聞いた、という人もいるはずだ。しかし、理屈は知ってても、信じてないなら意味がない。更に言えば、信じてるだけでなく従うことが必要だ。「背いていた者が従うようになる」、それが悔い改めであるのだから。加えて、イエスは救い主ということだけでなく、イエスこそ真の神、というところまで知る必要がある。「父が子に与えた父の御名」それが「イエス・キリスト」なのだ(ヨハネ17:3、11参照)。そのイエス・キリストを知ることが永遠の命なのである。それも勿論、単なる知識としてではなく、体験として知るべきである。キリストに出会うという体験、あるいは霊・魂においてキリストが神だと悟ることである。賛美と祈りは、その為にある、と言ってもいいかもしれない。何故なら、賛美の中に主は臨在されるのであり、祈りにおいて私達は神と繋がるのであるからだ。心を注ぎ出して賛美し祈る時に、聖霊が私達の魂・霊に触れて下さるのである。そのようにして神の愛と恵みを日々、体験しよう。それが、キリストを「知る」ことである。





2016年5月15日礼拝メッセージ 「愛して欲しくない訳じゃない」 ヨハネ16:26〜27 

 『父ご自身があなた方を愛しておられる』、その理由は、まず弟子達がイエスを愛し、イエスを信じたからだ、と主は言われた。はて、聖書は『私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛した』(Tヨハネ4:10)と教えているはずだが、どうしたことか。しかも、ローマ5:8には『私達が罪人であったとき、キリストが私達のために死んでくださった』とある。どう考えても、まず人間が神を愛したので、神に愛された、という順序はおかしい。主は何を言っておられるのか。
 これは、『その日』の理解がポイントである。23節によれば、その日には、求めるものは何でも与えられる。が、その日には、主は私達の代わりに父に願わないという。何故か。それは、私達が自分で直接、父なる神に願うことが可能となるからだ。つまり、それは天国で共同相続人として、御国の全てを受け継ぐ、ということなのである。
 そんな素晴らしい権利が与えられる(天国に入る資格を持ち、神の子とされる)のは「キリストを信じ、愛した」からだ。まず神を愛し、神の子とされた。それで神が神の子を愛する、という順序に何もおかしなことはない。
 ただ、私達が神を愛するようになるために、まず先に神が愛してくださった、という事実があることを忘れてはならない。それが前出の御言葉にある通りの「不敬虔な者への神の愛」だ。それは「愛してくれなくても愛してあげる」という一方的な愛である。けれども、神とて、決して、愛して欲しくない訳ではない。いや、むしろ、神を愛するようになって欲しいと願っておられる。その神の愛に応答した(イエスを信じ、愛した)人を、神の子として、父は愛する、ということを主は言われたのである。
 そういう訳で、まず神が一方的に愛を与えてくださった、ということに間違いはない。その愛に応えてイエスを信じ、イエスを愛した者は神の子とされて天国に入る。その日には、もはやイエスに頼って祈る必要はない。神の子(共同相続人)として、御国の全てを受け継ぐ(何でも与えられる)からだ。それは、神の子(イエスを信じ、愛した者)を神が愛しておられるからなのである。




<2016年5月8日礼拝メッセージ> 「変わった人」 ヨハネ16:19〜22 

 主が去ることを弟子達は悲しんだ。しかし、その悲しみは喜びに変わる、と主は言われた。果たして、悲しみは喜びに変わるものなのか。
 例えば、失くした財布が見つかったら、嬉しい。ホッとする。安心する。しかし、それで「喜びに変わった」と言えるだろうか。それは「悲しみが消えた」だけではないのか。逆に、中身が抜かれていたら、かえって、失望だ。
 そもそも、主が言われたのは「悲しみは消える」ではなく「喜びに満たされる」だ。そのことを教えるためのたとえが、出産である。生みの苦しみは、出産によって過ぎ去る。しかし、単に苦しみが消えるだけではなく、それに加えて、新しい命の誕生という喜びが満ちるのだ。以前、無かったものが加わるのである。同じように、悲しみも、ただ悲しみが消えるだけでなく、新たな喜びが加わってこそ、「喜びに変わった」と言えるのである。言わば、財布が見つかって(悲しみが消えて)、おまけに中身が増えてた(新たな喜びが加わる)ようなものなのだ。
 そこで、弟子達の悲しみは、主が死ぬ、ということだが、それが喜びに変わる、というのである。なぜなら『もう一度会う』からだと主は言われた。復活だ。ただ、単に生き返っただけなら(その時は悲しみは消えても)また別れの時が来る(喜びは失われる)。しかし主は『その喜びを奪い去る者はない』と言われた。何故なら、よみがえられた主は『いつまでも生きている』からだ。そして主の復活は、信じる者も永遠の命を持つという約束であり、罪と死から解放されて、新しい体にされ、もはや涙も悩みもない、喜びと平安に満ちた世界・永遠の御国に生きるようになる、ということなのだ。だから、その喜びを奪い去る者はないのである。「主ともう一度会う」とは、そういうことを意味している。悲しみが消え、新たな喜びが満たされるのだ。
 そのように、キリストを信じるということは、悲しみを喜びに変えることになるのである。人生の悩み、嘆き、悲しみ、死にたくなるほどの辛さ、それらを消すだけでなく、喜びに変える、それが、キリストを信じる信仰だ。




<2016年5月1日礼拝メッセージ> 「フムフム、そうか」 ヨハネ15:18〜27 

 世は主を憎んだ。ゆえに、主のものである弟子達をも憎む、という、迫害の予告だ。勿論、迫害は喜べない。主も『迫害を受けたら、次の町に逃れなさい』(マタイ10:23)と教えられた。迫害は避けるに越したことはない。それでも、迫害は来る、と主は言われるのである。ただし、ここで言われている迫害は、世の終わりの時代に起こることではない。初代教会が迫害を受ける、という予告なのである。
 と言うのは、『世があなた方を憎む』の『世』とは「全ての人」ではなく「ユダヤ人」のことだからだ。それはヨハネ14:17での『世』がユダヤ人を指している(全ての人が聖霊を受け入れない、という意味ではない。事実、私達は受け入れている)のと同じだ。
 そういう訳で、これは明らかに、初代教会への迫害の予告である。このことで今、私達が恐れる必要はない。ちなみに、マタイ24:4〜28も、世の終わりに起こることではなく、AD70に起きた「エルサレム崩壊」の予告である。続く29節からが、世の終わりに起こることであるが、そこを読む限り、天変地異はあっても、迫害は出て来ない。
 では、世の終わりには迫害は無いのか。いや、『キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は迫害を受ける』(Uテモテ3:12)とある。実は、主も『しもべは主人にまさらない』と言われている。主のしもべは主の足跡を踏む(迫害を受ける)、ということだ。
 主がそれらを語られたのは、不安にさせるためなどではない。逆だ。『躓くことのないように』(ヨハネ16:1)であり『平安を持つため』(ヨハネ16:33)である。何故なら、主はすでに世に勝ったからだ。 『しもべは主人にまさらない(主の足跡を踏む)』のなら、主のしもべも、主と同じく勝利を取る、ということを知るためなのである。
 勝利とは何か。主は言われた。体を殺せても魂を滅ぼすことの出来ない人達を恐れるな、と。彼らが手を出せない部分、魂を神が守って下さるということ、すなわち、天国と復活、それこそが勝利である。神を恐れ、主に信頼する限り天国は約束されている。その点において失望させられることはない。それが、主が『与える』と言われた『私の平安』だ。どんな時も、天国を思うが故の平安によって勝利しよう。




<2016年4月24日礼拝メッセージ> 「・・・しようじゃないか」 ヨハネ15:1〜5 

 主にとどまらなければ実を結べない。ぶどうの木であるイエスから離れるな、繋がっていろ、主の枝になれ、ということだ。が、『私の枝で、実を結ばないものは取り除く』とも言われている。これは見過ごしに出来ない問題である。クリスチャンでも出来の悪い者は地獄行きなのか。成績至上主義なのか。いや、『何の働きもない者が、信仰によって義とみなされる』(ローマ4:5)のではないか。
 問題は「私の枝」とは誰か、だ。実を結ぶのは、イエスにとどまり、イエス(の御霊)もその人の中にとどまっている人、要はクリスチャン(主の枝)だ。当然、実を結ばないのは未信者であり、主の枝ではないと考えられるかもしれない。所が、百匹の羊の例えにあるように、迷い出た羊(神から離れた人間…未信者)は、元々、神の所有なのである。だから「私の枝」とは、主に属するクリスチャンだけではなく未信者も含まれているのである。ただし、未信者は「主の枝」であるにもかかわらず、主に繋がっていない。ゆえに実を結べない。その枝は取り除かれる、ということだ。だから、主に繋がらなければならないのである。繋がるなら実を結ぶ人生となるのだから。
 一方、実を結ぶ者(主に繋がる者)に対しては、更に実を結ばせるために刈り込む(原語は「きよくする」)という。「きよい」とは、混じり気がない(分離している)ということだが、『あなた方は、私が話した言葉によって、もうきよい』と主は言われるのである。つまり、クリスチャン(主に繋がる者)は、御言葉を受け入れたがゆえに、滅びと闇の中から光の中へと移された(この世から分離されて、神の愛と命の世界に生きている)ということなのだ。もうすでに、きよめられているのであるから「聖徒」と呼ばれるのだ。だから、「きよめられなきゃ…、もっと実を結ばなきゃ…」と、あくせくする必要はない。ただ主にとどまり続ければいいのだ。そして、主の御霊もとどまって下さるなら『多くの実を結ぶ』と主は言われた。加えて『私の言葉がとどまるなら』ともある。主の御霊と御言葉に満たされるなら他のもの(自欲や勝手な考え)が押し出される。御霊と御言葉だけになる(何も混じっていない)、それが更なる「きよめ」である。




<2016年4月17日礼拝メッセージ> 「・・・を思い出せ」 ルカ17:32〜33 

 昨日(4/16)の大地震を受け、予定していた説教を急きょ変更して、非常時だからこそのメッセージをお伝えしたい。
 ロトの妻を思い出せ。それは、世の終わりというよう時に、命を守るためである。ロトの妻は、せっかく神によって滅びから逃れさせてもらえるというのに(振り返ってはいけない、と言われていたのに)振り返った。ソドムには、財産があり、地位があった。それらこそ、自分の全て、命とも思えたのだろう。それを惜しんだ。守りたかった。振り返った。それで、自らの命を失った。『自分の命を救おうと努める者はそれを失う』ということだ。その点、「カネさえ儲かればいいんだ。それが全てだ。命だ」というような今の世の中のやり方は、まさにロトの妻のそれである。必ず、自らに滅びを招く。
 パウロは言う。『兄弟たちよ。時は縮まっています。今からは、妻のある者は妻のない者のようにしていなさい』(Tコリント7:29)と。それは『秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるため』である。もし、家庭の中に平和がない、心の中がざわついている、混乱しているなら、そのような状況では、ひたすら主に仕えるということが出来なくなる。事実、5年前は大震災〜原発事故が起きたことによって、日曜の礼拝さえ(本来なら、休むことなどあり得ないのに)行うことが出来なくなってしまった。ひたすら主に仕えるためには、平和が必要なのだ。世の中も、家庭の中にも、自らの心の中にも。だから、夫婦の間にもめごとがあれば、それを取り除いて、まるで結婚していない(ゆえに、いざこざがない)かのようになって、心を主に向けなさい、というのである。『泣く(この世の不幸で悲しんでいる)者は泣かない(この世のことに心を囚われない)者のように』、『喜ぶ(この世の楽しみを享受している)者は喜ばない(そこから心を離す)者のように』なって、心を主に向けることが必要だ。それが、「世の終わりが来た時に命を守る方法」なのである。
 明日が必ず来るという保証はない。だからこそ、今という時を大切にしよう。幾人かでも救われるようにと福音を伝えよう。主に心を向けよう。その為に、平和を求めよう。世の中にも、自分の心の中にも。





<2016年4月10日礼拝メッセージ> 「違う、、、平安!」 ヨハネ14:27 

 平安(安心な心の状態)を与えると主は言われた。それも『世が与えるのとは違う平安』だと。そのことについては「世が与える平安は一時的であって、主が与える平安はいつまでも続くのだ」とよく言われる。しかし、ここで主が言われるのは「比べてどっちが上か」というようなことではない。世が与えるのとは『違う』と言っておられるのだ。つまり、比べる対象ではない(質が違う)ということだ。それは『私の平安』と言われるように、主が所有しておられる(神に属する)確かなものであり、決して気休め的なものではない。「神の平安」なのである。
 さて「平安」はヘブル語の「シャローム」だが、それは単なる平和(平安)以上に、あらゆる面での完全な充足状態を表し、人間の至福のあらゆる要素が包含されている、とのことだ。全ての面で完全に満ち足り、最高の幸せが全て揃っている、それが「シャローム」=「神の平安」なのだ。この世が与えるもの(憎しみ、戦い、失望、不平)とは程遠い。それどころか、神の平安は、この世に無いもの(愛、喜び、希望、感謝、命)が満ちているのである。それは、まさに「天国」と言うべきであろう。最高の幸せに満ちている所だ。そう、天国には、もはや死も涙もない、と聖書は言う。真の平安なのである。だから主は『私の』と言われた。神の国、それが主の与える平安なのだ。
 ゆえに『恐れるな。心を騒がせるな』と主は言われた。「恐れなくてもよい」という励ましではない。「禁止」だ。何故なら、天国の約束を得て尚、心を騒がせる(死後を恐れる)なら、それは神に信頼していないということになるからだ。それは、言わば「神の言葉への反逆」である。だからそれは「禁止」なのだ。ただ、例えば、「不安禁止」と言われても、不安になる要素がある限りは、不安は消えない。命令は無意味だ。その点、天国には、心を騒がせる要素が無い(神は信頼出来る、永遠の命が与えられる、住まいはある)のだから、心を騒がせることを禁止出来るのだ。たとえ、地上での一時の別れ(死)があろうとも、主イエスを信じる者は天国でまた会える。心を騒がせる必要は無いのだ。




<2016年4月3日礼拝メッセージ> 「戒めは○○の為?」 ヨハネ14:21 

 「私の戒めを守る人は、私を愛する人だ」と主は何度も言われた。それは文字通り、戒めを守るのは、主を愛するゆえであって、救われたいからではない、ということである。しかし、ともすれば、戒めを破るなら地獄に落ちる、という考えになりやすい。例えば、自殺者は地獄、というふうに。
 聖書は教える。救いの道はただ一つ、イエス・キリスト(を信じる信仰)だけだ、と。それ以外にはない。戒めを守ることによって救われるという(もう一つの救いの)道はないのだ。あくまでも、戒めを守るのは、神を愛すること(Tヨハネ5:3)なのである。そして、それは重荷にはならない。何故なら、イエスを信じた時点で、救いの約束を得ているのだから「戒めを守らなきゃ」と必死になる必要がないのである。神の命令が重荷にはならないのだ。だからと言って、戒めを守らなくていいというわけではない。神を愛するなら戒めを守るはず、それが当然だ。ただ、それが救いの道ではない、ということだ。
 更に、「私の愛の中にとどまれ」と主は言われた。決して「私を愛せ(=命令を守れ)」ではない。「主の愛を受け入れよ、そこから離れるな」ということだ。それは、「豊かな実を結ぶため」である。主の愛(十字架)を受け入れて、そこにとどまるなら(すなわち、クリスチャンになるなら)実を結ぶ人生となるのであって、戒めを守るなら実を結ぶということではないのだ。
 では、神の命令(=神を愛する)とは何か。それは「あなたがたが互いに愛し合うこと、それが私の戒め」(ヨハネ15:12)だ、と主は言われた。それも、主が私達を(救いたい、滅びるな、と)愛してくださったように、である。そのように互いに、信仰を励まし合い、支え合って、天国への道を歩むことこそがクリスチャン同士の「愛」なのであって、それが結局「神を愛する」ことなのである。
 主が言われた通り「主の戒めを守る(=神を愛する)人は、神に愛され、その人を通して神の栄光が現わされる」。神を愛し、大宣教命令を死の床でも実践し、神に愛され、神の栄光を現した聖徒に倣って、私達も主を愛する者となろう。





<2016年3月27日礼拝メッセージ> 「リアルな世界」 ヨハネ13:36〜38 

 『あなたのためには命も捨てます』と言うペテロに、主は、『命を捨てる、と言うのですか』と言われた。それは、「見上げた根性だ」とほめているのではない。「あなたに、そんなことは出来ない」という意味である。だから主は、ペテロの裏切りを予告された。そしてそれは、もっと深いところでは「命を捨てる、ということが人間に出来るのか?」という問いかけであるとも言えるのではないか。
 可能かと言えば、出来ないことはないだろう。だが、許可はされていない。例えば、銀行に融資を申し込むことは誰でも出来る。けれども、誰にでも融資が認められる訳ではないように、可能だけど、出来ない、ということはあるのだ。その点において、聖書は『殺してはならない』と、殺人を認めていないのである。勿論、「自分の命ならいいよ」とも言わない。人間には、命を捨てることは認可されていない。
 しかし主は、「命を捨てる権威がある」と言われた。十字架のことだ。そして、「それをもう一度得る権威がある」とも言われた。復活のことである。復活する「権威」がある、それは、可能かどうか、というような問題を超えている。権威なのだ。そういう世界(神の領域)に人間は入って行けない。命を捨て、もう一度それを得る、など人間には出来ないのだ。だから主は、ペテロに言われた。『あなたは私の行くところ(十字架と復活)に今はついて来れない』と。
 しかし『のちにはついて来る』とも言われた。何故か。それは主が、救いの業(十字架〜復活)を完成されてのち、信じる者に、永遠の命が約束されたからだ。キリストを信じるなら『死んでも生きる』ようになるのである。つまり、神の世界に入るということだ。それを聖書は「復活」と呼ぶ。クリスチャンの復活は、死体が生き返ることではない。新しい体で、また生きるのである。体だけなら、クローン技術でも可能だが、魂は科学には扱えない、神の領域である。そして神は命についての権威があり、私達を新しい体でもう一度生かすことの出来るお方なのである。だから、復活は、夢や幻ではない。リアルな世界なのだ。それを保証する「キリストの復活」を喜び、賛美し、信じ主に頼ろう。どんな時も悲しみに沈み込んでしまわないために。





<2016年3月20日礼拝メッセージ> 「やっぱり、○○か!」 ヨハネ13:18〜19 

 「互いに仕え合う」は、対等な立場でも出来る。それ以上に、互いにへりくだれ、ということ、それが「洗足」だ。そうすれば祝福される。何故なら、恵みは上から下るからだ。
 ただ、それは皆に言ってるのではない、と主は言われる。へりくだれないで祝福を失う者がいる、ということだ。ユダである。彼は主を裏切るのだが、それは預言の成就だ、と主は言う。そして、それ(ユダの裏切り)が起こる前に、それを話しておく、と主は言われた。それは、それが起きた時に『私がその人であることを』信じるためだ、というのであるが、どういうことか。
 『私がその人である』の原文は「エゴーエイミー」(モーセに、神が「私は『私はある』というものである」と言われたのと同じ言葉)である。それは、言わば「神宣言」だ。つまり、イエスが神であることを信じるようになるために預言の成就を予告したということなのだ。
 奇跡は、エジプトの魔術師も行ったし、主の弟子ではないのに主の名によって悪霊を追い出していた人もいた。見たら信じる、と言っていた人々は、沢山の奇跡を見ても信じなかった。しかし、預言の成就は、イエスが神であることの決定的なしるしなのだ。何故なら、世界広しと言えど、誕生、その場所、どのように死ぬか、そして復活に至るまで、全てが預言されていたのは、ただ一人、イエス・キリストだけだからだ。他にはいない。実に、預言の成就が、本物のしるしなのである。
 今後、成就するべき聖書の預言はまだ残されている。最後の裁きだ。信じる者は救われる。信じない者は罪に定められる。それも必ず成就する。しかし、天国か地獄という裁きが起きた時に、「やっぱりキリストが本物だったのか」と分かってもその時は、手遅れだ。だから生きている内に信じよう。今の内に、主への信頼を強めよう。主は必ず、永遠の命へと導いて下さる。それまでの地上での人生も、平安と喜び、希望、生きる力を与えて下さる。それは必ず成就する。その時を、神の時を、待ち望もう。その時が来る前に、主にかかとを上げるなどということのないように、へりくだって、恵みを受け取る者となろう。




<2016年3月13日礼拝メッセージ> 「時は来た!」 ヨハネ13:1 

 この世を去る時が来たことを知られたイエスは、弟子達に語られた。惜別の説教とも言われるように、アッサリとした別れではなく、名残惜しさや辛さを含んだ別れ、まさに「死別」だ。そんな時に語る言葉だから、説教と言うより、遺言と言うほうが相応しいかもしれない。主は、『その愛を残るところなく示された』。
 ところが、実際は、一つも残さず全てを伝えた、という訳ではない。16:12によれば、話さなかったことが沢山あった、ということが分かる。勿論、一度に何もかもは話せない。時間にも限りがある。加えて主は、あえて話さなかったのだ。今言っても分からないだろう、ということで、言い残したのである。『残るところなく』ではなく、残るところ有り、だったのだ。
 ですから、『残るところなく』は、別訳で『最後まで』とあるし、塚本訳のように『最後の瞬間まで愛し抜かれた』というのが妥当だろう。時が来るまで(時間切れになるまで)愛を示し続けた、ということだ。全てを語り切れないのは分かっていても、少しでも沢山のことを伝えることが出来るようにと、ギリギリまで諦めずに語り続けた、ということだ。
 ところが弟子達は、主の愛を悟らない。ペテロは、洗足(しもべとして死に至るまで忠実に仕える、すなわち十字架、そこに示された主の愛)を拒んだ。ユダは、パン(十字架で裂かれる主の体、まさに愛を表す)を受け取ったらすぐに裏切るために出て行った。そのせいで、ユダは聞いていない。『私にとどまれ』という主の惜別の言葉を。一方、ペテロは(その時は理解してはいないが)全てを聞いていた。それは大きなポイントだ。何故なら『信仰は聞くことから始まる』のだから。それゆえ彼は、主の元から完全に離れ去ることだけは免れた。そして、主が言われた通り、のちに分かるようになった。
 主の語りかけをしっかり聞くことが大切だ。そこに、神の愛が示されている。そして今も、主は、終わりの時が来るまで諦めずに愛を示しておられる。今(今日)示されているのは、愛だ。「時間切れ」になる前に、主の声に応えよう。そうするべき時は来ている。




<2016年3月6日礼拝メッセージ> 「そのまんま!」 ヨハネ12:44〜50 

 命令とは、行動を強制(あるいは制限)するという性質のものである。例えば、止まれ、進めというような、行動を指示する命令だ。しかし主は、『父の命令が永遠の命であることを知っている』と言われた。父の命令が「永遠の命を与えよ」なら、命令として成立するが、「永遠の命」は、行動を指示する言葉ではない。どういうことか。
 実際のところ、主は、どんな命令を受けたのか。それは『父ご自身が、私が何を言い、何を話すべきかをお命じになりました』と主が言われた通り、「これを話せ」という命令を受けたのである。そして主は、父から聞いたままを話した。その内容は、結局は、「キリストを信じるなら救われる」ということであると言える。それを話せ、と父は命じた。すなわち「キリストを信じるなら救われる」、それが永遠の命だ、ということなのだ。言い換えれば、父の命じたことの中に永遠の命がある、天国への道はキリストしかない、ということだ。
 しかし、ある人は言う。信じる者だけ救うというのは心が狭い、神が愛なら皆救え、と。そして、あるクリスチャンは言う。はい、神は最後の最後には全員救ってくれる、と。何故なら、神は愛だから。愛の神が裁くはずがない、と。その根拠の一つは、『私を信じなくても私の言葉に従わなくても裁かない。裁くためではなく救うために来たのだから』と、主がここで言われた言葉だ。
 確かに主は、救うために来られた。裁くためなら、十字架にかかりなどはしない。だから、その時点においては、どんなに主に敵対した人も、誰も裁かれはしなかった。しかし、最後には裁きがある、と主は言われる。自らが拒んだ「信じるなら救われる」という言葉によって裁かれる。つまり、救われない、ということだ。
 そうはなってほしくない。だから父は命じたのである。「キリストを信じるなら救われる」と語れ、と。それが永遠の命だと主は知ってるから、そのままを語った、というのだ。つまり、永遠の命についての情報(どうすれば天国に入れるのか、ということ)は、勝手に変えてはいけない、ということだ。父が命じた通りを語らなければならない。「キリストを信じるなら救われる」のである。



<2016年2月28日礼拝メッセージ> 「信じたってシンジる?」 ヨハネ12:37〜43 


 見たら信じる、と言っていたはずの人々は、目の前で沢山のしるしを見たのに、信じなかった。それはイザヤを通して語られた預言(神の言葉)の成就だと聖書は言う。神の言葉は必ず実現するということだ。『しかし、それにもかかわらず』と聖書は続く。指導者達の中に『も』(ということは、指導者達だけでなく、一般人の中にも)信じる者が沢山いた、というのだ。はて、神の言葉は必ず実現するのではなったか。結局、人々はイエスを信じたのか。ならば、イザヤの語った預言(神の言葉)の意味は何だったのか。そして、人間にとって「信じる」とは何なのか。
 主は言われた。『あなたの信じた通りになれ』『自分の言った通りになると信じるならその通りになる』と。果たして、何でも(どんな妄想も)信じればその通りになるのだろうか? いや、そんなことはない。どんなに信じても、ネス湖にネッシーはいない。
 「信じる」の反対は「疑う」だ。つまり、信じるとは、疑わないこと、となる。その点、世の中は、嘘と誤魔化しに満ちている。信用できない。しかし、神の言葉(その真実)は疑いの余地が無い。神の言葉は全て実現している。それは歴史や宇宙、大自然が証明している。天地創造の時の神の言葉の通りになっている。それは今も変わらない。しかし、この世界は無限ではない。終わりの時が来る。それもまた神の(最後の裁きがある、という)言葉のゆえだ。それも必ず成る。けれどもキリストを信じる者は死んでも生きる。この神の言葉もまた必ず成るのである。それを信じる、だからこそ従う、それが神への信頼、信仰である。その点、信じたという指導者達はどうか。彼らは信じたとは言うが、神からの栄誉(永遠の命・天国)よりも人の栄誉を愛したし、主に従うということがなかったのだ。それは信仰ではない。悪霊共(ヤコブ2:19)と同じ立ち位置だ。とどのつまり、人々は信じなかったということだ。神の言葉は必ず成る、ということの証明である。
 このことを通して、私達は、神の言葉への信頼を学ぼう。神の言葉が真実であることを更に知る者となろう。そうすれば、神からの栄誉(永遠の命・天国、本当の幸せ、喜び、平安…)が与えられる。





<2016年2月21日礼拝メッセージ> 「生きてるって、ナンダロ」 ヨハネ12:34〜36 

 主が、ご自分がどのようにな死に方をするかを語られた時、群衆は、キリストはいつまでも生きている、と律法にあるのに、どうして? と疑問を持った。確かに、キリストも死ぬなら普通の人間と同じではないか、というのも分からなくはない。しかし主は、一度死んだが、見よいつまでも生きている、と言われるお方だ。普通の人間も、死後、魂は残る。つまり、体が死んでも、本当の意味で死んではいない、ということだ。では、生きてるとは何か。死ぬとは何か。
 本当の死、それは、体の死後、魂が地獄に落ちることである。聖書は、それを「第二の死」と呼ぶ。それは、永遠の滅びである。滅びと言っても、魂がなくなるのではない。物質ではない魂は、残る。その魂が、終わることなく永遠に苦しむのだ。無限地獄なのである。これこそが、死である。これだけは、何としても、避けなければならない。
 どうすれば避けられるのか。どうすれば、生きることが出来るのか。主は言われた。『私を信じる者は死んでも生きる』と。それを教えるために、ラザロを生き返らせたのであり、さらに自身の復活によって、それを証明したのである。
 だから、主イエスは、確かに死んだけど、滅びてはいないのである。つまり、魂が地獄に落ちること、それが「死ぬ」ことなのであり、魂が地獄に落ちない、それが「生きる」ことなのだ。そして私達は、死ぬ者ではあるけれど、生きる者となることが出来るのである。
 ただし、光のある内にだと主は言われた。光とは、勿論、全ての人を照らす真の光であるキリストだ。が、主の昇天後、クリスチャン(教会)がその光を放つ役目を担っている。その光で、天国への道を照らさなければならない、それが教会だ。しかし、光がある内に、と主は言われた。教会からその光がなくなる(あるいは、他の道・広く大きな道を照らすようになってしまう)ことを主は危惧しておられる。あくまでも、教会の光は、天国への道を照らすための光でなければならない。私達は、その光を絶やすことのないようにしよう。一人でも多く、キリストを信じて救われるように、天国への道(本当の福音)を示して行こう。





<2016年2月14日礼拝メッセージ> 「平和しか…それ、ろば」 ヨハネ12:12〜18 

 いよいよ、ついに、十字架にかかる、その為に主はエルサレムに入られた。今でこそ私達は、そのエルサレム入城の記事を感慨をもって読むが、その時は、人々は、そうとは知らずに、王として歓迎しているのだ。弟子達にも、それは不思議な光景だった。
 人々の大騒ぎの理由は、ラザロの生き返りである。それを目撃していた人達が言いふらしたので、人々はイエスを迎えたのである。あたかも、引き金を引いたかの如く、もはや、祭司長達の目を恐れることなく、イエスを「奇跡を行う人」として歓迎するようになったのだ。
 ただし、そこには「罪の赦しを与えてくれる救い主」の姿は求められてはいない。これがいつの時代も大問題なのである。
 主は、何を与えようとして、この世に来られたのか。何のためにエルサレムに覚悟をもって入られたのか。そのエルサレム入城に際して、主がなされたこと、それは、ロバの子に乗ることだけだ。それは戦いではなく、平和の象徴である。つまり、主はご自身が、平和の王であることを示しておられるのだ。
 平和とは何か。戦争がなくなれば、平和と言える。だが、それでも人の心の中の戦いはなくならないだろう。恨み、憎しみ、隣人との争いがある。また、恐れ、不安、悩みとの戦いがある。究極は、神との戦い(神を否定すること)だ。その戦いに負けたら、地獄であるのだから、確かに究極の戦いである。逆に言えば、最大の平和は「神との和解」だということである。神と争うのではなく、神と共にいることが最も平和なのだ。何故なら、そこが「神の国(天国)」だからだ。その「平和(神との和解、すなわち、罪の赦し)」を得ることの出来るようにと、主は十字架にかかられた。
 主は、罪の赦しを与えてくれる「平和の王」である。私達が主に求めるべきは、それである。そして主は、それを与えて下さる。変わることのない平安を。主がいつも共にいて下さるという「最高の平和」を実感出来るように聖霊を。だから復活後の主は、弟子達に『平安があるように』と言ったあと『聖霊を受けなさい』と言われたのだ。
 聖霊に満たされて、主が共におられるという「平和」を味わおう。




<2016年2月7日礼拝メッセージ> 「その為に!」 ヨハネ12:1〜8 

 主がもうすぐ十字架にかかるという時に、マリヤが香油を主に塗るのであるが、それは単純に計算して300万円で売れるほどの高級品だった。もったいないと感じても無理はない。しかし主は、その行為を「よし」とされた。その理由は『あなたがたは、私とはいつも一緒にいるわけではないから』だ。
 はて? 主は世の終わりまでいつも共にいると言われたのではなかったか。加えて、『マリヤは私の葬りの日の為に、それを取っておこうとしていた』と言われるのだが、彼女は逆に「何故、無駄に使うのか!」と怒られているのではないのか。
 翻訳に問題がある。口語訳と新共同訳では『取っておいたのだから』と訳されている。つまり、マリヤは「香油をこれからもずっと使わずに取っておこう」としたのではなく、「葬りの日の為に使おうと思って、今日まで大切にとっておいた」ということなのだ。何故か? それは主が十字架にかかるからである。それこそが『いつも一緒にいるわけではない』ということの意味だ。事実、主は弟子たちを置いて十字架で死なれた。予め『取り去られる時が来る』とも言っておられた。そして弟子達は、その時、悲しみ、絶望して逃げ去った。
 主は何故、共にいて下さらなかったのか。主が共にいて下さりさえすれば、誰も悲しまずに済んだのに。
 そう。主が共にいて下されば。そうなのだ。だからこそ、そうなるために十字架にかからなければならなかったのである。復活して天に昇り、聖霊を送るために。聖霊が信じる者の内に内住して下さって、「ああ、主が共におられる」と全ての人が実感するようになるために。
 もう一つ。かつて初めの人間がエデンにいた時、園の(神の守りの)中、どこにいても、そこは「神が共にいる」世界だった。
 そのように、神の元(神の守りの中)に帰るなら、そこが「神が共にいる」世界なのである。そうなれるようにと、主は十字架で死なれた。それを信じることが、神の元に帰る道なのだ。『私が道であり、真理であり、命である』と主は言われた。この真理の道を、命に向かって真っすぐに歩もう。





<2016年1月31日礼拝メッセージ> 「かけちゃあ、ダメ!」 ヨハネ11:43〜47 

 「しるし」とは「証拠としての奇跡」であると聖書は言う。つまり、「イエスが救い主・真の神であることの証拠」、それが奇跡なのである。その奇跡をイエスが沢山行っているのを見て、祭司長達は焦り、「早く殺してしまおう」という結論を出した。おかしな話である。
 よく「神がいるなら証拠を見せてくれ。見たら信じる」と言う人がいる。ユダヤ人達もイエスに「しるしを見せてくれたら信じる」と言った。では、盲人の目が開かれ、死人が生き返るという、神にしか出来ない(すなわちイエスが神である)ということの証拠を彼らは嫌というほど見たのに、どうして「信じよう」ということにならないのか。
 現代においても「神が存在する」ことの証拠は豊富にある。進化論の間違いが、その証拠の一つだ。メンデルの遺伝の法則、エントロピーの法則、パスツールの実験など、様々な科学的法則が、ハッキリと進化を否定しているのである。
 ところが人間は、分かっていても認めたくない、という部分があるものだ。人は必ず死ぬ、ということもそうだろう。それは誰でも知っていること、分かり切っていることである。しかし、自分が死ぬということを認めたくない(考えたくない、そんなことは起きないと思いたい)、それが人間である。
 もう一つ、祭司長達にとって問題なのは、信じることを拒否してでも国・土地を守りたい(イエスを信じる者<イエスを主と呼ぶ者>が増えると、ローマ帝国への反逆とみなされ、ローマ人が攻めて来るから、そうなる前に殺そう)という考え方である。確かに、国・土地は大切かもしれない。しかし、その判断には、真実が欠落している。イエスは神という証拠がある、ということを度外視しているのだ。
 確かに、価値観は人それぞれ、天国より地上の人生さえ楽しければいい、という人もいるのだろう。しかし、真実は何か。神はいる。その真の神を失う(神のいない世界)は地獄である、ということだ。それが欠けてはならないのである。真実を度外視した価値観だけで判断するならば何を失うか、その失うものの大きさを知るべきである。
 神は確かにおられる。ならば信頼して従おう。




<2016年1月24日> *この日のメッセージは録音していません。ご了承ください。




<2016年1月17日礼拝メッセージ> 「またか、いつか、まさか」 ヨハネ11:38〜40 

 主は、憤りながらラザロの墓に来られた。泣きながら、ではない。あくまでも主が涙を流されたのは、人々が「信仰による希望の光(永遠の命の信仰)」を持っていないことを悲しんでのことである。
 さて、「もう臭くなっておりましょう」と言うマルタに主は言われた。「もし信じるなら神の栄光を見る、と言ったではないか」と。はて、いつ、そんなことをマルタに言われたのだろう。全く同じ言葉は見つからない。しかし「信じるなら」というフレーズを含む言葉はある。「……死んでも生きる。信じる者は決して死ぬことがない」という言葉だが、それは「キリストを信じるなら永遠の命を持つ、地獄に落ちることはない」という意味である。そして、それこそが「神の栄光」であり、その為のキリストの十字架と復活である。だから主は、確かに言っておられたのだ。「信じるなら(死んでも生きる、という)神の栄光を見る」と。その「希望の光」が無いということは、悲しく残念なことだ。死んでお終い、愛する人と二度と会えない……それは悲し過ぎる、主も涙せずにはおれないことなのである。
 別の時に主はマルタに言われた。「どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです」と。とは言え、誰にでも、大切なこと、守りたいものが沢山あるだろう。例えば、家、夢、人生、命などだ。しかし、どうしても守らなければならない(必要な)ことは、魂が滅びないようにすること(天国に入ること)である。それはクリスチャンなら当然、分かっているはずのことではある。が、実感はあるだろうか。「人は必ず死ぬ」ということもだ。誰でも、それは分かっている。が、実感はしていないだろう。何事も、体験してこそ実感するものだ。
 「死ぬかも」という体験をして実感することがある。それは、他のこと(家、夢、人生、命)は、どんなに守りたいと思っても、価値はあるけど、残念ながら壊れるものであって、どうしようもないのだ、ということだ。しかし、永遠の命・天国は、守ろうと思えば守れる。すなわち「キリストを信じるなら、死んでも生きる」のである。それが「神の栄光」だ。信じるならそれを見る、と主は言われたのである。私達は、大いにそれを見せて頂こう。





<2016年1月10日礼拝メッセージ> 「夜歩きはキケン」 ヨハネ11:7〜10 

 もう一度ユダヤに行こう、という主の言葉に弟子達は驚く。そこで主は言われた。昼間歩けば躓くことはないが夜歩けば躓く、と。主は一体、何が言いたいのだろうか。その真意を汲み取ることが大切だ。
 昼に躓かない理由としては、「この世の光を見ているから」だというのだが、それは太陽のことなどではない。主イエス御自身(全ての人を照らす真の光)のことだ。つまり、それは、キリストを見ながら(その教えに従って、信じて)歩むなら人生に躓くことはない、ということである。逆に、夜歩く(キリストを見ていない、信じない)なら人生の中の、ちょっとした段差(問題、悩み)に躓き倒れる。それは、その人の内に光がないからだと主は言われた。希望の光(天国の確信、死に対する解決)だ。それがあれば、ちょっとした段差は乗り越えられる。たとえ大きな段差に激突する(死の時を迎える)としても、それは敗北ではない。死に打ち勝ち、よみがえられたイエスを神の子と信じる者は世に勝つ(永遠の命を持つ)からなのだ。
 そのように話してから主はラザロを生き返らせに行かれた。その奇跡は「永遠の命はある」ということ(福音の光)を示す為のものであり、見事に繋がっている。話に一本、筋が通っているのである。
 さて、行ってみると、ラザロはすでに死んでいて、みな泣いている。主は、憤り、動揺し、涙を流された。現場にいた人々は、ラザロは特に愛されていたからだ、と考えた。しかし、神の人への愛は「信じる者が永遠の命を持つ為」のものだ。その「永遠の命はある」ことを示す為の奇跡(ラザロの生き返り)であり、だからこそ「主はラザロを愛しておられた」と強調しているのであって、決して、ラザロの死を悲しんでの涙ではないのである。
 「ラザロをどこに?」と聞かれて人々は「墓です」とは言わず、「主よ、来てご覧下さい」と言った。死を確認せよ(もう遅い、死の前には無力だ)ということだ。それを聞いて、主は泣いたのである。信仰による希望の光(天国・永遠の命)を持っていないということは、悲しむべきこと、不幸なこと、涙すべきことなのだ。私達は、希望の光を自分の内にしっかりと持っていよう。そうすれば夜でも躓かない。




<2016年1月3日礼拝メッセージ> 「アリエル、有る!」 ヨハネ11:1〜6 

 全能の神である。癒そうと思えば、どんなに遠く離れた所からでも癒すことが出来る。百人隊長のしもべの時も、主はそうされた。ならば、ラザロの時は何故、そうしなかったのか。それは、死後4日という蘇生が不可能な状態で生き返らせることによって、神の全能の力が崇められる(神の栄光が現わされる)為だと言われる。だとすると、生き返らせる為に、わざと死なせた、ということか。果たして「死なせてから生き返らせる」のと、「死なないように助ける」のと、どちらが誠実だろうか? これはきちんと理解しないと、「神は、自分の栄光(自分が褒められる)為に、人を死なせた」すなわち「神は自分勝手」だという印象を与えてしまう。私達は、よくよく覚えておかなければならない。癒しには目的がある、ということを。つまり、癒しが目的ではない、ということだ。癒しに目を奪われてしまうと本当の目的が見えなくなり、真理を見失う。
 そこでまず、キリストが受ける栄光とは何か、だが、それは十字架のことである。良い羊飼いとして人間を救う(つまり、十字架で一度死んで復活することによって、罪の赦しと永遠の命への道を開く)、それがキリストの栄光だ。そして、そこにこそ「ラザロの生き返りの奇跡」の目的がある。神が、この奇跡を通して教えたいこと、それは、祈れば死人も生き返る、ということではない。勿論、神には出来る。それは有り得ることだ。しかし、生き返ったとしても、いずれまた死ぬ。せっかく生き返っても、死んで地獄だと意味がない。本当の解決は、永遠の世界(天国)に入ることである。つまり、主が言われた通り、『私を信じる者は死んでも生きる』ようになることなのだ。そして、それは本当に起こり得る、いや、有る(キリストを信じる者は、死んでも天国で永遠の命を生きる)、ということを示す為の奇跡、それが「ラザロの生き返り」なのである。主は、そのことを『神の栄光が現れるため』と言われたのである。キリストを信じるなら、ラザロのように「死んでも生きる」。その信仰へと導く、それが、この奇跡の先にある「本当の目的」だ。私達は(ほかの何処へでもなく)、その信仰へと導かれて行かなければならないのである。




<2015年12月27日礼拝メッセージ> 「権威があるけん、いい!」 ヨハネ10:18 

 主は、何の罪もないのに、ユダヤ人達の妬みによって十字架にかけられた。しかし、「誰も私から命を取ることはできない」という意味のことを言われるのである。つまり、「殺されるのではなく、自分から命を捨てるのだ」ということだ。
 そもそも、全能の神を殺すことのできる人間がいるだろうか。神がその気になれば、どんな敵も一息で消し飛ぶ。神を敵に回すべきではない。神は、味方につけるべきだ。聖書も言うように、神が味方であるなら誰が私達に敵対できるだろう。サタンの攻撃から守ってくれる「良い羊飼い」、それが主イエスだ。そして本当に、羊である私達人間を救うために自分から命を捨てた、それが十字架である。
 主には、命を捨てる権威がある、という。命の源(造り主)である神には、その命を左右する権威(権利と力、資格も)あるのだ。人間にはそれはない。何故なら、命は自分で得たのではなく、与えられたもの(預かりもの)だからだ。預かったものは守る責任がある。だから神は、人間に対しては「殺してはならない」と言うのである。これは、命についてのルールである。ルールがあってこそ、秩序と平和、安全が保たれる。その「命のルール」を守らないから、この世は荒れ果てている。心の中も。命よりカネだ、と。今さえ楽しければいいんだ、と。そのような考え方が、人生を破滅に導く。しかし、神のルールに従うなら、心に平和が生まれる。
 主は、命を捨てる権威も、それをもう一度得る権威もある。事実、復活された。それゆえに教会が存在している。クリスチャンの存在は、主の復活の証拠なのだ。加えて、主は、信じる者に、新しい命(新しい人生、天国、希望、将来)を与える権威もあるのだ。その証拠もクリスチャンである。その生き様が、それらが事実であることを証明している。だからパウロは、私を見倣って下さい、と何度も言う。彼自身が、キリストによって新しい人生を与えられたことの見本なのだ。
 神に従うなら、生きるために必要なもの(喜び、平安、愛、助け、支え、希望)は与えられる。永遠の命、完全な癒し・天国が与えられる。それを与える権威が神にはあるのだ。





<2015年12月20日礼拝メッセージ> 「クリスマス礼拝」 ルカ1:28〜31 

 未婚の女性が妊娠するということは、当時においては、あってはならないことだ。婚約者からは捨てられ、石打ちの刑にされてしまう。なのに、何が「おめでとう」なのか。それは、救い主があなたと共におられる、ということである。
 これは一つの「型」だ。つまり、主の御霊(主御自身)がその人の内に宿って下さる、ということ、それが(イエス・キリストを信じる全ての人にとって)「おめでとう」ということなのである。
 人間は、自分の力では天国に行けない。それどころか、いくら努力しても、ほんの小さな幸せさえ、手に入れることは難しい。だからこそ、救い主キリストは来て下さった。信じる者を救うために、上から。下から(人間の努力)では、天国には届かない。次元が違うからだ。
 永遠の世界は存在する。この世(有限の世界)にさえ、すでに「無限の世界」が存在している。例えば、「数」だ。数には、上限も下限もない。どこまでも続く。無限なのである。もう一つ、「言葉」。言葉は、どんなに使っても減らない。勿論、語る体力は尽きるが、言葉そのものは、どんなに使っても、減らない、尽きないのだ。
 神も、そのように、目には見えないけど確かに存在している。そして人間にとっての最大の恵みを与えて下さった。私達、滅ぶべき罪人にとって最大の恵みは、新しい命、救い、である。その為の救い主を受け入れるなら、それは「おめでとう」と言うべきことなのである。
 本当なら、受け入れられないことなのに、「神のなさることなら」と、マリヤは受け入れた。そして、キリストが生まれ、信じた多くの人が生きる力を与えられ、希望が与えられ、救われた。その祝福は全世界に拡がったのだ。
 同じように、キリストを信じることも、神の導きである。信じるなら、罪の赦し、永遠の命・天国が与えられる。もしかしたら、受け入れ難い、と感じるかもしれない。どうしてそのようなことが出来ましょう、と言うかもしれない。しかし、神の導きを受け入れることが、祝福の始まりなのである。主が共にいて下さるようになるのだから。信じて、「おめでとう。恵まれた方」と言われる人になろう。




<2015年12月13日礼拝メッセージ> 「入るんだ、門」 ヨハネ10:1〜6 

 主は、魂の羊飼いなるお方である。そのことに異論はなかろう。だが主は、『私は門だ』と言われた。「門から入る羊飼い」ではなく、門のほうなんだ、と。では、何故、羊飼いの例えを話されたのか。
 まず、主イエスを通って入るなら救われる、というのだが、何から救われるのか。羊なら、狼から、となるだろう。門の中(囲いの中)に狼は入れない。では、人間にとっての狼(天敵)のような存在は何か。それは、一人でも多くの人を地獄に引きずり落とそうと狙っている悪魔である。しかし、門を通って入るなら、そこに敵は入って来れない。だから救われるのだ。しかし、その門は、沢山あるわけではない。どうやって入るか、その方法も、ただ一つ(キリストを信じる)だけだ。それは神が決めたことだ。従うしかない。例えば、外国に入る時には入国審査がある。その国の決めた基準を満たさなければならない。同じように、神の国への入国審査は、キリストを信じたか、どうかだ。キリストを拒む(罪人)は、神からも拒否される。ゆえに、キリストを通ってしか神の国には入れない、キリストが門なのである。
 所が『私は門』と語ったそのあとで『私は良い牧者だ』と言われた。それは、主は単なる雇われた無責任な羊飼いではなく、自分の羊を飼う(命がけで羊を守る)ということだ。
 結局、羊飼いの例え話は、何を表しているのか。それは、教会の姿だ。雇われた羊飼い、それは牧師であり、羊はクリスチャンである。羊は羊飼いの声(導き)に従ってついて行く。『ほかの所を乗り越えて来る者』は、滅ぼす者・異端だ。羊飼い(牧師)は、それを見過ごさず、対決するべきであって、敵前逃亡するような悪い雇われ羊飼いに成り下がってはならないのである。羊の帰るべき場所(人間の帰るべき場所=天国)へと導く、それが本当の羊飼いだ。私達は、そこへ導かれなければならない。それ以外の所へ導く声に聞いてはならない。だから、その声(教え)の導く先は、どこなのかを見極めることが必要だ。もし、その導く先が天国でないなら、それは、滅ぼす者の声である。私達は、キリストの声(言葉)を聞き取ろう。本当の幸い、永遠の命へと導く「良い羊飼い」について行こう。




<2015年12月6日礼拝メッセージ> 「ザ・神のわざ」 ヨハネ9:1〜7 

 『神のわざが現れるため』と言って、主は、盲人を癒された。そこである人は考えるかもしれない。「そうだ、癒しという神のわざは現わされなければならない。病気は癒されるのが当然であって、それが神のわざだ」と。しかし、ならば、現実には癒されないケースが多々あるのは何故か。罪があるからか。いや、主は、罪のせいではないと言われた。神のわざが現れるためだと。では、神は、癒すために病気にしたのか。いや、全ての良いものは神から来る、神は光であって神の内には暗い部分がない、と聖書は教えている。真の神は疫病神ではない。病は、始めの人間が神に背いたことによって世界が歪んでしまった(人間も、死ぬ者となった)ことによる。そして、サタンが一時的に支配する「この世」においては、患難があり、病がある。それは何も不思議なことではないのだ。だから、病は神のわざではない。
 神のわざとは何か。それを『昼の間に行わなければ』と主は言われた。夜にはそれが出来ない、と。そう言ってからなされた癒しだが、それ(盲人の目が開かれること)は旧約聖書によれば「救い主到来のしるし」である。つまり主は、ご自分が救い主であることを示しておられるのだ。そして盲人は、癒しをきっかけに、主を信じるに至った。そのように、救い主の到来(福音)を伝えること、それを信じるなら救われるということ、それこそが「神のわざ」なのである。
 そのわざが出来なくなる時、それは世の終わり・人生の終わり、の時だ。それを「夜」と表している。だから、今の内(昼)に信じなければならないし、伝えなければならないのである。
 病気は、死ぬべき人間にとって、この世では当たり前のことに過ぎない。人は、苦しむ。悩む。失望する。涙にくれる。死ぬ。
 だからこそ、神は「救いたい」と願い、その為に救い主を遣わされた。人間のすべての不幸は「救い」によって解決する。それを、この盲人に示されたのだ。
 主は、必ずしも、全ての病人を癒したわけではない。しかし、救いという「神のわざ」は、誰でも受け取れる。求めるならば。ただし、昼の内にだ。福音を伝えることも。それが「神のわざ」なのである。




<2015年11月29日礼拝メッセージ> 「羽ばたくチョウ」 ヨハネ8:30〜32 

 多くの者がイエスを信じた、とあるが、その「イエスを信じた人々」をイエス御自身は信用していないのである。本当の弟子は私の言葉にとどまる、と主は言われた。そうすれば自由になる、とも。それを聞いて「信じたユダヤ人達」は反論する。私達は奴隷ではないのに、何故、自由になると言うのか、と。その後も議論は続き、とうとう「信じた人々」は、イエスに石を投げて殺そうとするようになる。
 御言葉が入っていない(根を下ろしていない)から本物ではない、と主が言われることから考えると、「キリストにとどまる」ということには、二つの面があると言える。一つは「御言葉が私の中にとどまる(根を下ろす)」ことだ。もう一つは「私が御言葉にとどまる」ことである。この二つはセットだ。『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら』(ヨハネ15:7)と、ある通りだ。あくまでも、その条件のもとに、『求めれば何でもかなえられる』と主は言われたのであって、キリストにとどまっていない(御言葉が自分の中にとどまっていない)人が何を願っても与えられはしないだろう。何故なら、そのような人は御心にかなう願いをしないからだ、と言える。本当のキリストの弟子ではないということだ。
 キリスト教は、言わば、ユダヤ教の完成形である。例えて言えば、サナギがチョウになったようなものだ。チョウは、いつまでもサナギ(殻)にとどまっているべきではない。同じように、キリストを信じた者も、ユダヤ教にとどまっていてはならないのである。しかし当時の「信じたユダヤ人達」は、ユダヤ教徒としてイエスを信じた(「ユダヤ教キリスト派」的な不完全なところにとどまっていた)のである。だから主は『私にとどまれ(古い殻を脱ぎ捨てろ。それはもう要らない)』と言われたのだ。そうすれば自由になって羽ばたける、と。
 私達も、キリストにとどまる「本当の弟子」になろう。古い殻(この世の価値観、宗教観など)はもう要らない。古いキリスト教の殻(行いや倫理道徳によって救われるかのような考え方)も脱ぎ捨てたほうがいい。キリストを信じた(チョウになった)者は、サナギに戻る必要はない。むしろ脱ぎ捨てて大空に羽ばたこう。




<2015年11月22日礼拝メッセージ> 「サバク? 裁かない?」 ヨハネ8:1〜11 

 姦淫の女性が連れて来られた際、主は、律法学者達に自らの罪を気付かせるために地面に文字を書いた、と言われる。だが聖書を丁寧に読むなら、実際はまず、主が朝早くから民衆を(地面に文字を書きながら)教えていた所に律法学者達が来て詰め寄ったのであって、彼らに詰め寄られてから書き始めたのではない、ということが分かる。つまり、主が地面に書いてた内容と、姦淫の女性の一件とは、関係がない、ということだ。
 そもそも、律法学者達は「十戒など守っておる」と自負していたのだから、地面の文字を見たくらいで反省などしようはずがない。彼らが去った理由は、主の『罪の無い者が最初に』という言葉だ。罪の無い者が一人目だ、ということは、罪のある者は2番目以降だということになる。つまり、誰かが最初に投げるなら、それは「我こそが罪の無い人・義人だ!」と宣言することになるのだ。それは、年長者を差し置いて若輩者がするわけにはいかない。視線は年長の律法学者に注がれる。けれども、それは同時に「他の律法学者達は皆、罪人だ」と言うことに等しいのであり、年長者だからとて、そんなことは言えない。だから、年長者から順に去って行ったのだと考えられるのである。
 問題は、主は何故、その女性を『罪に定めない』のかということだ。主の言葉によれば「私は人間的判断では裁かない」だ。つまり、神の判断では、人間は皆、罪人(死刑)なのであり、その女性が罪を犯したから「裁く」というのなら、同様に全ての人を死刑にしなくてはならない。しかし、主は、その滅ぶべき人間を救うために来られたのだ。だから、今、罪に定めることはしない、というわけである。ただし、『これからは決して罪を犯すな』と言われた。完全無欠の人間になれ、ということではない。それなら十字架による罪の贖いは不要となる。だから、それは「これからは神に従う、という覚悟を持て」ということだ。それが「悔い改め」なのだから。
 主は決して、完全な行いを求めているのではない。人は行いでは救われないのだ。主が求めておられるのは、悔い改めである。私達は、これからも、神に従う覚悟を、日々新たにしよう。




<2015年11月15日礼拝メッセージ> 「どこ見てんの?!」 ヨハネ7:28〜30 

 仮庵の祭りが近づいた時、主は、ユダヤには行きたくない、と思われた。その理由は、ユダヤ人達の殺意である。勿論、殺されるはずはない。まだ十字架にかかる時ではない(過ぎ越しの祭りでもない)からだ。だから、結局は祭りに行った。しかし、殺されるはずはないと分かってはいても、殺意(拒絶する心)を向けられるのは嫌なものだ。日本でも在日韓国人に対する「ヘイトスピーチ」があるが、吐き気を催すほどに嫌な気分になる。余りにも悲しいことだし、怒りも感じる。だからついに、主は、大声で叫ばれた。「お前達は神を知らない!」とユダヤ人に言ったのである。当然、更なる怒りを買う。が、一方では、多くの者がイエスを信じたというのである。結果オーライか。いや決して、イエスがキリストだと信じたのではない。彼らは、イエスはキリスト以上だ、と言うのである。これは、キリストへの過小評価だ。イエスがキリスト(本物)なのに、本物より凄い、と言うのである。一体、どこを見てるのか、ということだ。
 主は言われた。『うわべで裁かないで、正しい裁きをしなさい』と。うわべで判断するな(本質を見抜け)ということだ。信じなかった(イエスを殺したいと思った)人達は、うわべで判断していたが、実は、信じた人達も、うわべで判断していたのである。イエスがキリストだという「本質」を見抜いていないで「イエスに比べたら、さすがのキリストでも、ここまでは出来ないだろう」と言うのだから。
 「いくら神でも、これは無理だろう」と考ること、それは「祈っても無駄だ」と言うことに等しい。勿論、祈ったからといって何でも思い通りになるわけではない。しかしそれは、神にも限界があるという意味ではない。神にはどんなことでも出来る。けれども、それは、神は何でもしてくれるということでもないのだ。「神は全能」という、うわべで(祈れば何でも叶う、というような)判断をしてはならない。どこを見るべきか。「神は良いお方」という本質を見て、信頼するべきなのである。
 私達は、主が言われたように、御子を遣わされたお方の御心を知ろう。そして、その御心を受け取って、神により頼んで歩もう。





<2015年11月1日礼拝メッセージ> 「パンをうのみに?」 ヨハネ6:47〜58 

 主は、ご自分を『命のパンだ』と言われた。すると人々は、そのパンを『いつも与えて下さい』と言う。一回では足りない、また、飢える、ということだ。やはり人々は、主の言われる「命のパン」を、毎日食べるパン(肉の糧)としか考えていないのである。しかし、主が与える「命のパン」を食べる者は、決して飢えることがなく、渇くことがない。魂が満たされ、永遠の命を生きるようになるのだ。
 そのような主の言葉を聞いて、多くの弟子達が躓いた。それは主が『私の肉を食べ、血を飲め』と言われたからだ。確かに、人肉を食べ、血を飲め、というのは『ひどい言葉』だ。『聞いてられない』というのももっともである。だが、それは「主の割かれた体と流された血を受け取れ(十字架を受け入れよ)」ということであり、それが永遠に生きるための命のパンなのだ、ということである。
 弟子達は主の言葉を、そのまま文字通りに(人肉を食べる…と)受け取ってしまった。そして、躓いた。
 聖書の教えは、全て真実である。だから「そのまま信じなさい」とよく言われる。しかしパウロは「キリストは罪人を救うためにこの世に来られた」という言葉は、まことであり、そのまま受け入れるに値する(Tテモテ1:15)という。他の聖書の言葉はウソだ、と言うのだろうか? いや、「キリストは罪人を救うために来た」という言葉、これは、そのまま鵜呑みにしていい(文字通りの意味であって、隠れた意味などない)ということだ。しかし、他の御言葉は、良く噛み砕いて、真意を味わえ、ということなのだ。聖書は、書かれてある、そのままを鵜呑みにするのではなく、書かれた目的と、込められた意味とを汲み取って、それを信じるべきなのである。
 キリストは罪人を救うために来た。まさに、アーメンである。ただし、あくまでも「信じる」者(信じている者)が、であって、拒否する者までもが救われるわけではない。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになる(ガラテヤ6:7)とある通りだ。
 『私の言葉は、霊であり命である』と主は言われた。命のパンである主の御言葉に従うなら、命を刈り取るのだ。





<2015年10月25日礼拝メッセージ> 「集めてみよう」 ヨハネ6:5〜13 

 『どこからパンを買ってきて食べさせようか』と、土台無理なことを、主は『ピリポを試すために』言われた。これには2つの意味がある。まずは、人間には限界(自分の力の及ばない時、物理的にもどうにもならない時)があって、そんな時は神に祈るしかない。なのに、弟子達はそうしない。主に助けを求めない、ここに問題がある。もし弟子達が主に助けを求めたなら、主は、パンを増やしてあげただろう。主は『自分がしようとしていることを知っておられた』のだから、そうなるように導こうとした、それが、ピリポを試した一つ目の理由だ。
 もう一つは、単なるパンではなく、命のパンのことを主は言っておられるということだ。つまり「本当に生きるための命のパンは、どうすれば手に入るか」ということをピリポに問うているのである。それは、主が自分のしようとしていることを知っていた、というところにポイントがある。主のしようとしていることとは何か、だ。それは、究極的には十字架である。主の生涯、その歩みは、ただ一つ十字架への道である。そして、すぐそのあとで『私が命のパン』だと言われた。ご自分の体を十字架で裂いて人々に与える(キリストからパンを受け取って生きる者となれ)ということだ。つまり、この5千人の給食という出来事は、単なる奇跡ではなく、十字架を示しているのである。私達は、しるしそのものではなく、しるしの意味を理解しなければならない。そもそも神は、無から有を生み出したお方(天地の創り主)だ。たかがパンが増えたくらいで驚くのは、全能の神に対して失礼というものだろう。この世界、宇宙の存在にこそ驚くべきだ。
 さて、主は、残りのパンくずを集めさせた。何のためにか。そんな必要はないはずだ。弟子達も不審に思いながらも『集めてみた』。すると、それを見た人々は驚いた。大群衆の中に埋もれて、何が起きてるのか分からないままパンを食べた人もいただろうし、それではせっかくの奇跡(神の恵み)も無駄になる。だから、神の恵みを無駄にしないために、集めて示したのだ。
 私達はすでに命のパンを頂いている。生活の中で有り余る恵みを。それらを集めて、数えて、恵みを再確認して、感謝しよう。




<2015年10月18日礼拝メッセージ> 「先生もビックリ!」 ヨハネ5:28〜29 

 ユダヤでの葬りは、火葬ではなかった。主も、十字架から降ろされて、布に包まれて、そのまま墓の中に納められた。ゆえに、死人は墓の中にいる、というイメージがあったかもしれない。だからと言って、墓の中から出てくるかと言えば、それは有り得ない、と常識では思う。
 実は、ここは「白い御座の裁き」のことを言ってるのである。全ての死人が、そこに呼び出されて裁かれる。全知なる神の前に言い逃れはできない。キリストを信じないまま死んだ罪人は地獄だ。その時まで死人(罪人)はどこにいるのか。よみ(ハデス)の苦しみの場所だ。恐ろしいことに、死んですぐに地獄ではなく、よみで散々苦しんだ挙句、よみがえらされて、そのあとで地獄に落とされるのである。
 しかし、25節では『死人が神の子の声を聞いて生きる、今がその時だ』とある。神の子(クリスチャン)が祈れば、死人が生き返る、と読める。が、今、信じて祈れば生き返るんだ、凄い! と、驚いてはならない。クリスチャンの声を聞くのは誰か。死人には聞こえないだろう。もっとも、神の声(白い御座への呼び出しの声)なら聞くことになるのだが。ハデスの苦しみの場所であえいでいる死人に、生きた人間の声は届かないだろう。では、聞いて、生きるようになるのは、どんな人か。それは、未信者である。つまり、ここで言う『死人』とは「霊的に神から離れている人」のことなのだ。そのままだと最後には地獄に落とされる(つまり、今、死にかけている)けど、クリスチャンが語る福音を聞くなら生きる、ということだ。それが『今』なのだ。ただし、聞く、と言っても、ただ聞くのではない。聞き流さず、聞き入れるということだ。いわゆる「言うことを聞く」ということなのである。そうすれば、罪の赦し・永遠の命・天国が与えられる。本当だろうか、と驚き怪しむべきではない。聞き入れるべきである。なぜなら、最後の裁きから逃れるためだ、ということを主は言われているのである。
 その為に、私達は語らなければならない。今がその時だと主は言われる。救い主を喜ぶ真の礼拝者として、光り輝く、その姿が福音の証となって人々に届くように。幾人かでも、愛する人々が救われるように。主を喜んで輝く「福音の証人」となろう。




<2015年10月11日礼拝メッセージ> 「安息の反則」 ヨハネ5:1〜13 

 38年も病んでた人は、「きっと良くなる」というような強い信仰を持ってはいなかった。しかし主は「起きて歩け」と、一方的に癒された。癒しは人間の努力や信仰深さによるのではなく、神の恵みである。
 ところが、ユダヤ人は「安息日に床を取り上げてはならない」と言う。ルカの福音書では「安息日には癒されてはならない」とまで言っている。癒しは神の恵みなのに、律法のゆえにそれを阻むのだ。
 律法は本来、良いものだと聖書は言う。律法(すなわち、聖書)自体が神の恵みであるはずなのに、その律法が人を苦しめ、縛るのは何故か。悪いのは律法ではない。神の教えを曲解し、捻じ曲げ、無にしてしまう人間に原因がある。御言葉を曲解することは、滅びの始まりであるとペテロは言う(Uペテロ3:16)。
 それゆえ主は、安息日論争に対しては徹底的に挑まれた。妥協しなかった。安息日にしていいのは殺すことか救うことか、と。このベテスダの池での出来事も、そこがポイントであり、癒しは、きっかけに過ぎない。奇跡に目を囚われないで、教えの本質を掴むことが大事だ。
 そこで問題は、「もう罪を犯すな」という主の言葉である。「せっかく癒されたのに、また罪を犯したら、もっと重い病気になるぞ」と言ってるかのように思える。事実、そういう考え方が根強い。病は罪のせい、貧しいのも、問題が山積みなのも……。罪のない正しいクリスチャンは繁栄する。あなたは正しくない、祈りが足りない、だから病気なのだ、というような教えがまかり通っている。
 罪とは何か。それは根本的には、神に従わないこと(それが、的外れ=ハマルティア=罪)である。つまり、もう罪を犯すなとは、これからは神に従え、ということだ。そうでないと、もっと悪いこと(最終的には地獄)になるからだ。それはどんな病よりも最悪である。
 病は、完全に癒される。新しい体が与えられることによってだ。それが天国である。それこそが、本当の安息なのだ。それまで地上での人生も、神に信頼することによって心に安息が与えられる。安息日の教えは、その(神に信頼する)ための訓練だ。神の教えを曲解することなく、御言葉に信頼しよう。そうすれば心に安息が来る。





<2015年10月4日礼拝メッセージ> 「オカシな食物」 ヨハネ4:31〜34 

 推測するに、主は断食しておられたのだろう。それも、かなりの長期間に及んで。主の体を気遣う弟子達は「食べて下さい」と願う。だが、食物はある、と主は言われた。それは、本当の意味で生きる為の食物のことであり、神の御心を行なうことだというのである。荒野の誘惑での言葉を思い起こさせる。勿論、パンは要る。けど、それだけではダメだ。神の言葉に従って生きるということをしなければ、従わない(罪のまま)では地獄(本当の命を失う)からだ。
 ただ、どっちも必要という時、どっちを優先させるかが問題だ。普通は、リスクの高い(緊急性のある)方を優先する。それは「パン(この世で生きる為のもの……お金や仕事等)」だということになるケースが多いと思う。しかし、本当にリスクの高いのはどっちか。神に従わないことのリスクは、すぐには現れないかもしれないが、最終的には地獄であるのだから、優先させるべきは、神に従うことのはずである。そして、それは「パン」をないがしろにすることにはならない。神の言葉は、落ち着いて仕事をして、自分で買ったパンを食べなさい、と勧めているのだから。とにかく、体だけでなく魂も「生きる」為には、神に従うことが必要なのである。
 そして主は、それと共に「神の御業を行なうこと」を食物とされた。神の御業、それは主にとっては十字架である。その為に地上に来、生きている、十字架を成し遂げる為の命だ、死ぬ時は十字架以外にない。だから断食ごときでは死なない、というわけだ。
 私達にとっての「なすべき神の御業」は何か。それは、地の塩・世の光となることである。そこで『まだ4カ月あると言ってはいないか』と主は問う。例えば「信仰の種はまだ蒔かれたばかり、私の信仰はまだまだです」と。しかし「種は蒔かれたばかりではない、すでに蒔かれている、今が刈り取る(輝く)時だ」と主は言うのである。つまり、御言葉の真理はすでに誰かによって開かれている。だから、あとはそれを刈り取って(その真理を自分のものとして)生きる、そうすれば、ということだ。すでに刈り取っている(真理によって自由にされ輝いている)者がいる。私達も、真理によって輝く人生を生きよう。




<2015年9月27日礼拝メッセージ> 「踊りより喜び!」 ヨハネ3:21〜24 

 霊とまことによる礼拝とは何か。それは、心を込めて真剣に、とか、ダビデの時代のような熱狂的な賛美、あるいは、霊的現象が起きる礼拝、というような受取り方がなされているのではないだろうか。
 理解のポイントは、ヨハネの福音書の特徴にある。この「第4福音書」は、時系列よりもメッセージの連続性を重視して書かれている、ということだ。つまり、3章でニコデモ(ユダヤ人の指導者)は、イエスの教えが分からなかったわけだが、続いて、バプテスマのヨハネの弟子達もイエスを受け入れなかった。本当なら、真っ先に理解し、受け入れるべきであるはずの人達である。それに対して4章では、サマリヤ人がイエスを救い主と理解し、受け入れた。ユダヤ人は分からなかったのに、だ。ヨハネ1:11〜12にある通り、ご自分の民(ユダヤ人)は受け入れなかった。しかし、受け入れた人々には神の子供としての特権が与えられた、のである。このような連続性がある。
 このことから、霊とまことによる礼拝とは何か、が分かる。ユダヤ人(代表的に、ニコデモ)は、救い主を受け入れないまま礼拝していた。それが、どんなに立派な礼拝でも、それは形だけの礼拝に過ぎない。サマリヤ人も、救い主を『知らずに礼拝』していた。しかし、神は真の礼拝者を求めておられる。今がその時だ、と主は言われたのである。そしてサマリヤ人は、イエスが救い主だと理解し、神の子とされる特権を得て、救いの喜びと感謝をもって神を崇める者となった。すなわち、神の民でなかった者が、神の子とされて(救い主を喜んで)神を崇めること、これこそが、霊とまことによる礼拝なのである。決して、礼拝のスタイルや方法論などではない。ましてや、不気味な声色で霊的雰囲気を醸し出すことなどではない。今、私達(異邦人・神の民でない者)が神の子とされて、救い主を喜んで礼拝している、それがすでに、霊とまことによる礼拝なのである。
 神はそのような礼拝者を求めておられる。私達は、神の求めに応えよう。救いを(救い主を)喜ぼう。それが力である。天国の希望、それこそが、どんな困難も乗り越える力だからだ。その希望を与えて下さる主を喜び礼拝しよう。それを神は喜んで下さる。




<2015年9月20日礼拝メッセージ> 「お前はもう、〇〇ている」 ヨハネ3:18〜21 

 世の終わりには裁きがある。そして、その時はまだ来ていない。なのに、『信じない者はすでに裁かれている』と聖書は言う。加えて、『信じる者は裁かれない』というのだが、『人は一度死ぬここと死後裁きを受けることが定まっている』はずではなかったか。「白い御座の裁き」(黙示録20:11〜13)によれば、命の書に名の記された者(キリストを信じた者)が裁かれている。勿論、裁かれた結果、無罪として天国に入るのだが。では『裁かれない』とは、どういうことか。
 裁きとは何か、だ。聖書が言う『裁くな』とは、うわべで裁くなということ(ヨハネ7:24)である。むしろ『正しく裁け』と主は言われた。正しい裁きを受けることが出来ずに不当に苦しむ、ということがあってはならないのだ。残念ながら、この世では、それが起こってしまう。だからこそ、神の教会では、そういうことがあってはならないのだ。
 裁く(クリノー)は、分割する(仕分ける)が原意だ。例えば、死刑の人と、懲役の人とに仕分ける、それが「裁き(クリノー)」である。同じく、ゴミの分別も。生ゴミは仕分けて外に出す。それが裁きなのである。そういう意味で『信じない者はすでに裁かれている』のだ。まだ火の中に投げられてはいないけれど、その為に仕分けられて外に出されている。時(収集車)が来たら、燃やされる。一方『信じる者は裁かれない』。外に出されない、ゴミとはみなされていない。ゆえに主は『あなたを捨てない』と言われるのである。勿論、本来ならば全ての人には罪があるので、裁かれて燃やされるはずだった。しかし神は「逃れの道(十字架)」を備えて下さった。そして信じる者を、外から中(神の国)に入れ戻して下さり、「高価で尊い」と見て下さるのだ。そのように、『信じる者は裁かれない』のでありながら、最後には裁かれて天国に入る、ということが成立するのである。
 罪ある者は光のほうに来ない、と聖書は言う。しかし『真理を行なう者(キリストを信じる者)は光の方に来る』のだ。その行ない(悔い改め、平和と幸せを求めたこと)が神にあってなされたことが明らかにされる(神にあって実現される)ためである。いよいよ光である主イエスを愛し(教えに従って)、主の御元に行こう。





<2015年9月13日礼拝メッセージ> 「父より母が好き?」 ヨハネ3:16 

 神は世(全ての人)を愛した、とヨハネの福音書(新約聖書)は言う。その通りに、新約に出て来る神は、優しく、愛に満ち、忍耐し、裁かず、赦してくれる。それに比べ、旧約に出て来る神は、冷たく厳しい、情け容赦なく滅ぼし、愛を感じない……という風に思ったことはないだろうか。神は愛だと言うのなら、何故、殺せと命じるのか。
 そのような疑問から生み出された考え方に、グノーシス主義という異端がある。旧約の神は、真の神ではなく、造られた低級な神「デミウルゴス」だ、と。しかし、これは多神論となる。異端だ。
 似たような考え方に、旧約の神は厳しく叱り育てる父性愛の神で、新約の神は温かく包み受け入れる母性愛の神だというものがある。時には、聖霊を母なる神と言ったりもする。父が居るなら母も居るだろう、という至極人間的な考えだ。しかし「三位一体なる神は、神という本質において同一(ニケア信条)」なのであり、その本質(愛、唯一、等)において違いなど無い。これが正統的三位一体論だ。
 主がニコデモに言われたように、蛇をもってイスラエルを裁いた神は、モーセに命じて逃れの道を用意して下さった。それと同じ方法(木に吊るされた者=呪われた者を仰ぎ見る者は救われる)で、神が世の為に逃れの道を備えて下さった、それが十字架だ。神がなさっていることは、旧約においても新約においても何も変わってはいない。決して、旧約の神は愛が無いのではない。同じ神なのだ。
 ヨハネ3:16を正しく理解することによって、神への信頼を学ぶことが出来る。イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも同じなのだ。神にある者を『高価で尊い』と見、ケアーして下さる。だから、キリストにとどまり続けることが大切なのである。そうすれば実を結ぶ。それも御霊の実を。そして何より、永遠の命を見失わない為に。
 神の愛(アガペ)は、滅びゆく罪人への思い遣りの行動である。人間が気に入った(人間との恋に落ちた)とかではない。だからあえて、神に気に入られよう(神の気を惹こう)とする必要は無いのである。それは神にエロスの愛を求めていることになる。ただ神は、神を畏れる者(従う者=御心に適う者)を憐れまれる。神に信頼して従おう。





<2015年9月6日礼拝メッセージ> 「愛はムダか?」 ヨハネ3:16 

 神は世(全ての人)を愛した(ケアーした)。そして神は、全ての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる。滅びるな、救われてくれ、という「神のアガペ」は全ての人に対してだ。だから、全ての人は愛されている、と言っても間違いではないのかもしれない。しかし、未信者にとっては、「では何故、私はこんなにも苦しんでいるのか?」「神は、愛してると言いながら、地獄に落とすのか?」という怒り(不満)が出て来る。それはやはり、「愛されてる」=「今も大切にされてる・気に入られてる」と受取ってしまうからなのだ。
 どう伝えるべきか。神の愛の具体的な行動(十字架)、神が如何に犠牲を払われたかを伝えるべきなのだ。決して、神は人間と恋に落ちて、盲目になって、挙句の果てに自ら死んだというようなことではない。神は、「滅ぶべき罪ある人間にとって何が最善か、何が一番の幸いか、それは罪が赦されて永遠の命を持つことだ。生きてても、この世の地獄、死んでも無限の地獄、それだけは避けるように」と思い遣って下さったのである。それが十字架だ。
 その「思い遣り」を無駄にしてはならない。十字架は、信じ続ける者が救われる為である。だから、神の思い遣り(十字架)を無駄にしない為には、「一度信じたことがあればいい」のではなく、信じ続けることが必要なのである。そして、信じ続けるには、力が要る。私達をキリストの愛から引き離そうとする様々な攻撃があるからだ。それらの中にあっても圧倒的勝利者となる為の条件は『私達を愛して下さった方によって』(ローマ8:37)である。神の愛の中にとどまることによって、信じ続ける力が与えられるのだ。ただし「神の愛の中にとどまる」を誤解してはならない。あくまでも「神の愛」とは、思い遣り(十字架)である。その十字架の元にとどまる(キリストから、すなわち、キリストの教えから離れない)ことが大切なのである。
 滅びに至る道は広く、通り易い。救いへの道は狭く、見つけにくい。しかし、神の思い遣りによって、救いの道は開かれているのだ。神の思い遣りを無駄にすることなく、しっかりと受取って、十字架の元にとどまり続けよう。




<2015年8月30日礼拝メッセージ> 「好き嫌いしない!」 ヨハネ3:16 

 神は世を愛された。と、過去形である。もう終わったこと(今は愛してくれていない)ということか。いや、そんなはずはない、と誰でも思う。それどころか神は、全ての人を愛している、と。
 問題は、愛とは何か、だ。神が世を愛した。その「愛」は「アガペ」である。神は人間を「エロス(性的・肉体的な愛)」で愛したのではない。つまり、神は人間との恋に落ちたわけではないのである。ゆえに、神に愛されていると言っても、神に好かれてる(神が私に魅力を感じている)という意味ではないのだ。しかし人間は、そういう意味に取る。「私のどこにそんな魅力があるのだろう」と。そこに誤解がある。だから神の愛が分からないのだ。Tヨハネ3:16や同4:8にあるように、簡単に言えば、クリスチャンにならなければ、神の愛は分からないのである。所が、そのクリスチャンが、愛を誤解している。「神様とラブラブ」というように。『神を愛するとは、神の命令を守ること』(Tヨハネ5:3)だ。私達は神の「愛」を悟らなければならない。
 「アガペ」は、無条件の愛という意味ではない。それは、英語で言えば「ケアー」が一番近いのだそうだ。「思い遣り」の行動である。しかも、その「アガペ」は、文法的には「不定過去(アオリスト)」になっている。これは単なる過去形ではなく、過去に一度だけ起きたことに対して使われる。例えば、「私は母から生まれた」というような時だ。それは二度無い。たった一度だけなのである。つまり「神は過去に一度だけ世を愛(ケアー)した」のである。では、今はもう嫌われてるのか、と驚く。それが誤解なのである。エロスではない。アガペだ。神は人間を思い遣って一度だけ行動した。それが十字架なのだ。たった一度だけの完全なケア―(永遠の救いの道)なのである。決して「神はいつも全ての人を愛している」ということではないのだ。
 ではクリスチャンも、愛されたのは一度切りか。今はもう、私達が苦しんでても、放ったらかしか。いや、今も神の憐れみと慈しみが注がれている。『神があなた方のことを心配(ケアー)して下さる』(Tペテロ5:7)とある通りだ。神を愛する者に対する神の愛は尽きることがない。だから私達も、神を愛する(御言葉に従う)者となろう。




<2015年8月23日礼拝メッセージ> 「証人は要らない」 ヨハネ2:23〜25 

 主が行う「しるし」を見て、多くの人が信じた。が、主は、その人々を信用しなかった。ヨハネ4:48でも、主は、しるしを見て信じる人々を批判しておられる。トマスに言われたように、『見ずに信じる者は幸い』なのだ。しかし、そうは言いつつも主は、奇蹟を数多く行なわれた。決して、奇蹟や癒しが悪いのではない。ただ、問題は、しるしを見て何を信じるか、だ。
 2:11では弟子達は『イエスを信じた』とあるが、しるしを見た人々は『御名を信じた』。何が違うのか。一方、1:12には『その名を信じた人々には……』とあるが、どの名を信じれば、神の子とされるのか。それは勿論、救い主の名(イエス・キリストという名)である。ただし、それは「人物の名」ではない。主が地上におられた時には、そのような名で呼ばれてはいない。と言うことは、しるしを見た人々が信じた御名とは、イスラエルの神の御名ということになるだろう。つまり、ナザレのイエスという偉大な預言者を遣わした神の御名を信じた、ということだ。要するに、イエスが神だと信じたわけではないのである。ならば主が、彼らを信用しなかったというのも当然だろう。
 主は、その人の信仰が本物かどうか、知っておられる。そのことについて誰の証言も必要としない。ある人は「私は御名を信じているのに……!」と主張するだろう。しかし神は、そんな自己主張も必要としない。全ての人の心の内を知っておられるからだ。神は心を見る。
 私達は、そのことを恐れる者となってはならない。逆に、それは、主に依り頼む者には慰めである。人があなたをどう言おうが関係ないということだ。神は人の証言なんかでブレたりしない。私達は、人の声に振り回されないで「主の御心を行なう」者となろう。その人が御国に入ると主は言われた。そして、御心は全て聖書に記されている。だから弟子達は、聖書と主イエスの言葉を信じる信仰に辿り着いた(ヨハネ2:22)。結局、『その名を信じる』、それは『すなわち』キリストを受け入れることだ(ヨハネ1:12)。救い主として、だけでなく、神として受け入れるのである。その心を主は見て下さる。人に見せる為ではなく、ただ御言葉を信じ、主に信頼し、仕えよう。





<2015年8月16日礼拝メッセージ> 「カナコンの幹」 ヨハネ2:1〜11 

 「カナでの婚礼」において主イエスは「最初のしるし」を行なわれた。それは私達に何を示しているのか。「奇跡を起こす秘訣」というようなことを教えたいのだろうか。いや、奇跡は、神の主権の元になされることだ。人がコツを掴んで上手くやれば奇跡がポコッと起きるというようなものではない。確かに、しもべ達は従った。それゆえに奇蹟を見た。だが、仮に従わなかったとしても、主は奇跡を起こされたろう。神は無から有を生み出すお方だ。空っぽの水がめにぶどう酒を満たすくらい訳はない。
 「カナでの婚礼」は、何を示しているのか、である。枝葉ではなく、幹を見極めなければならない。主は、ご自分の栄光を現わす為に「証拠としての奇跡」をなされた。主イエスの栄光とは何か。それは、十字架である。つまり、この奇跡は、十字架を示す「証拠」なのだ。だが果たして、どこに十字架が示されているのか。
 一つには「婚礼」だ。神とイスラエルの関係は「夫婦」になぞらえられている(例えば、ホセア書)。そして「きよめのしきたりの水」は律法を示し、それを満たせ、と主は言われた。『律法は廃棄されるべきものではない』からだ。しかし、水がめは6つ。律法は不完全であることを示す。そして主は、その不完全な律法を示す「水」をぶどう酒に変えて、宴に喜びが満ちた。
 「律法」は守るべき。しかし、不完全。だから、キリストが律法を成就させ、喜びが満ちる。これは実に、十字架による救いの喜び、すなわち「福音」が示されているのだ。だからこれを「最初のしるし」(神の救いの計画の啓示)とされたのである。それは、マリヤの指示によってなされるものではない。神に主権がある。ゆえに「関わるな」というように、主はマリヤに言われた。それは「冷たさ」ではない。
 勿論、マリヤの主への信頼も、しもべ達の従順も、良いことだ。しかし、それは奇蹟を起こす為ではない。交換条件的に従うのではなく、神への信頼の故に従うのである。私達は、神の主権を認めなければならない。神がなさることも、なさらないことも、受け入れるべきなのだ。何故なら、神は良いお方だから。それが、神への信頼である。




<2015年8月9日礼拝メッセージ> 「だ・か・ら、何を?」 ヨハネ1:35〜39 

 アンデレともう一人の弟子は、師であるヨハネの言う「神の子羊」について行った。それを見た主イエスは『何を求めているのか』と聞く。弟子達は、要は、イエスの弟子になりたかったわけだが、問題は、何を求めてイエスの弟子になるのか、ということだ。福音書を通して浮かび上がるのは、結局のところ、弟子達はイスラエル王国の再興(革命)を求めていたということだ。神の国を求めていなかったというわけではない。ローマから解放されて、ダビデの時代のような輝かしいイスラエル王国が復興すること、それが神の国だと考えていたのである。それを見通しておられた主は『何を求めているのか』と問われた。これは実に、核心を突いた問いである。
 主イエスは度々、同じような質問をされた。盲人バルテマイが『憐れんで下さい』と訴えた時。それは通常、施しを求める訴えであろう。しかし主は『私に何をして欲しいのか』と問われた。つまり、キリストに何を求めるべきか、ということだ。又、弟子達が、頼みごとを叶えてほしいと求めた時も、『何をして欲しいのか』と。弟子達の求めは、主の栄光の座の右と左に座ることだったが、主は『自分が何を求めているか分かっていない』と言われた。弟子達の考えていた「主の栄光の座」とは、この世の政治的な権力の座のことだからだ。
 今も多くの人がキリストに求める。祈る。熱心に。しかし、問われるのは「何を求めているのか」だ。勿論、クリスチャンなら「神の国を、神の栄光を」と言うだろう。しかし、それは弟子達も同じだった。ただ「神の国とは何か」を悟ってなかった。ゆえに『自分が何を求めているのか分かっていない』と言われたのである。
 『求めなさい。そうすれば与えられる』との御言葉を聞いて、ある人は、自分の願望が叶うことを求める。しかし、求めるなら必ず与えられるものは聖霊だと聖書は言う。私達は、キリストに何を求めるべきなのか、神の国とは何か、悟らなければならない。そして、求めるなら、それに加えて必要なものは与えられる。「必要なもの」とは? 富や名誉、成功、権力などではない。神の助け、守り、慰め、生きる力、平安、希望……それこそ、本当に必要なものだ。





<2015年8月2日礼拝メッセージ> 「〇〇は、見た!」 ヨハネ1:18〜27 

 『いまだかつて神を見た者はいない』とヨハネは言う。神を見た者は死ぬ(出エジプト33:20)からか。しかし、聖書の中には、神を見て、死ななかった人がいる(出エジプト24:10〜11等)。とすると、ヨハネは何を言っているのか。彼が言う『見る』は、ギリシャ語の「ホラオー」であり、「見る、会う、まみえる、見抜く」という単語である。つまりヨハネは、『神に会って、見て、「ああ〜、神ってこんなお方か、なるほど」と、神を見抜いた(神の何たるかを理解した)人はいない』と言っているのだ。だから、『キリストだけが神を解き明かした』というわけである。勿論、人々には見抜けなかった。バプテスマのヨハネがキリストか、と思った。
 その『ヨハネの証し』だが、『私のあとから来られる方が、あなた方の中に立っている』と言う。あとから来られるのだから、まだ来ていないはずなのに……だ。それは、『この方は元から世におられたのに、世はこの方を知らなかった』と既に書かれている通りだ。神はイスラエルといつも共におられたはずなのに、民は拒否し続け、誰も悟らなかったのである。しかし、ただ一人、キリストが神を解き明かして下さった。だから、『私を見た者は父を見たのだ』と主は言われた。神を解き明かすことの出来るお方、いや、神ご自身であるお方、キリストを見抜くなら神を見抜いたのだ、ということだ。つまり、主イエスを理解することが神を知ることなのである。だからヨハネは、その手紙で『キリストが十字架で死なれたことによって私達に愛(注:神は愛)が分かった』と書いている。
 ゆえに、大切なのは、キリストを知るということだ。どうやって知ることが出来るだろう。それは勿論、キリストの教えを悟ることによってだ。それを間違えたら、神を見失う。この世のことしか見えなくなる。私達は、神を見失うのではなく、神を見る者となりたい。その為に、キリストが神を解き明かして下さった。その教えを悟る者となろう。ヨハネの福音書は、キリストは永遠の神、恵みとまことに満ち、命があり、人の光であると教えている。それを悟るなら、いつの日か、神を見る(天国に入る)。その道を見失わないようにしよう。




<2015年7月26日礼拝メッセージ> 「恵と真と優」 ヨハネ1:14〜16 

 キリストは、約2000年前に来られた、それは歴史的事実である。が、『元から世におられた』と聖書は言う。それは、紀元前にもキリストは地上にいた、ということではない。要は、キリストは造り主なる神であるということだ。だから、バプテスマのヨハネは、『キリストは私より先におられたから私に優る』と言う。ただ、「私より優る」という表現は、「キリストの方が、少し点数が上」なだけという印象を与えかねない。「私より優る」は、直訳は「私の前に成った」である。「成った」はギリシャ語では「ギノーマイ」(生じる、起こる、現れる、〜に達する)であり、「優れている」というような意味はない。原文は『私のあとから来る方は、私より前におられた』だ。つまり、ヨハネ1章は、キリストの神性(造り主、元からおられた=永遠、真の命、光)を強調して語っているのである。
 『私達はみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを受けた』と聖書は言う。加えて、『銀は我がもの、金も我がもの』『求めなさい、そうすれば与えられる』等の御言葉を組み合わせると、富や宝も与えられるという解釈になりかねない。確かに、金も銀も神が造った。神のものだ。祈りは聞かれる……それもそうだ。が、神は何に満ちてる、と聖書は言うのか? 『恵みとまことに満ちてる』と聖書は言うのである。だからペテロは言った。『金銀は私にはない』と。何があるのか。キリストの名による真の命と恵みだ。ペテロはそれを『私にあるもの』として与えた。更に言えば、『恵みの上に更に恵みを受けた』も、別訳は、『恵みに代えて恵みを受けた』だ。こちらの方がふさわしいと思う。つまり、初めの人間は大いなる恵み(エデンの園、真の命、愛)を受けた。が、神に背き、せっかくの恵みを無駄にした。そこで神は、恵みに代えて呪いを……とせず、なんと、「救いの計画」という恵みを与えて下さった。真の命を無駄にした人間に、また、真の命を与えるというのだ。これが『恵みに代えて恵みを』ということである。それを私達は受けた。それが分かれば、『私の恵みはあなたに十分』という御言葉も納得できる。私達は、主の恵みを忘れず、恵みの中にとどまり続けよう。




<2015年7月19日礼拝メッセージ> 「命っ!」 ヨハネ1:1〜5 

 『初めに、ことばがあった』というのは、「神の始まり」のことを言っているのではない。この世の始まり(天地創造)の時、そこにキリストがおられた(キリストは造り主)、ということである。
 で、『この方に命があった』というのだが、この「命」とは何か。それは単に、神が生きている、ということではない。真の命(永遠の命)がキリストにある、ということだ。それゆえ、キリストを信じる者は、死んでも命がなくならない。『私を信じる者は、死んでも生きる』と主が言われた通りなのである。だから、それが「人の光」、希望であり得るのだ。
 そして、『光は闇の中に輝いている』だが、これは言わば、当たり前のことだ。いや、むしろ、『闇は、これに打ち勝たなかった』どころか、逆に、闇が光を飲み込むことさえある(例えば、ブラックホール)、それが現実だ。では、ここで聖書は、実は何を言っているのか。『これに打ち勝たなかった』は、別訳では「悟らなかった」、原文では「把握しなかった」「捕捉しなかった」である。つまり、「闇」は、キリスト(神)を拒む「この世」を表わしているのであり、キリストを拒む人は光(真の命・永遠の命)が分からない、ということなのである。勿論、私達も、永遠について完全に把握しているとは言えないかもしれない。しかし、捕捉することは出来る。「キリストにこそ永遠の命がある」と、ターゲットを捉えるのだ。そして、そこから目を離さないことである。そうすれば、死んでも命はなくならない。かつて人間が失った「真の命」が、もう一度与えられるのである。それが『全てが新しくなる』ということ(Uコリント5:17)だ。それは、クリスチャンになれば性格が変わる、というようなことではない。新しく真の命を持つ者に変えられる「新しい創造」なのである。
 真の命はどこにあるのか、人生の闇を照らす光は何か。それを捉えない限り、人生は闇だ。ターゲットを捕捉しないまま必死で矢を射っても「的外れ」なのである。それを聖書は「罪」と呼ぶ。
 全ての人を照らす真の光である「キリストから目を離さない(キリストの教えから逸れない)」で、しっかりと捉えて生きよう。





<2015年7月12日礼拝メッセージ> 「悟り、開く」 ルカ24:44〜48 

 「私があなた方に語った言葉は、キリストについての預言(十字架〜復活)は、全部必ず成就するということだ」と、あたかもそれしか語っていない(それが全てである)かのように主は言われる。
 確かに主は様々な教え(…共にいる。…すでに世に勝った。…神の国を第一に。etc.)を語られた。が、例えば「…共にいる」という教えは、主が復活されたからこそ、その言葉の通りに、信じる者といつも共にいることが可能なのであるように、他の教えも全て、十字架と復活を悟ることによって意味をなすものなのである。結局、主の語られたことは全て、十字架と復活(キリストについての預言は成就する)に集約されるのだ。それは、どんな律法があろうと、全てはこの二つ(…神を愛せよ。…隣人を愛せよ)にかかっているというのと同じだ。
 それを悟らせる為に、「十字架と復活は聖書に書いてある」と、もう一度同じことを語られた。が、今度は、弟子達の『心を開いて』だ。
 同じ御言葉も、心を開いて聞くと、違う。使徒16:4で、ルデヤという、神を敬う女性が出て来るが、彼女が、パウロの言うことに心を留めるようになったのは、神が彼女の心を開かせたからこそである。
 さてそこで、主が、弟子達の心を開かせたのは、彼らに『聖書を悟らせる為』とある。その為に語られた、それが、十字架と復活は聖書に書いてある、ということだ。つまり、「キリストについての預言は全部必ず成就するということを悟る」、それが「聖書を悟る」ことなのだ。だから主は、私が話したことはこれに尽きる、と言うかのように、それを語られたのである。
 聖書には、難解な箇所が多い。それゆえ曲解する人も多い。端から端までを正しく理解するのは至難の業だ。しかし、十字架と復活を悟るなら、それは、聖書を悟ったと言ってもいいのかもしれない。要は、聖書の目的は何か、ということだ。聖書が書かれたのは『信じて救われる為』(ヨハネ21:31)だ。他のこと(成功、繁栄、癒し…)は最大の目的ではない。それを間違うなら、それは、聖書を悟っていないということになる。しかし、悟るなら、人生は祝福される。主が共にいる、世に勝つ……それらの教えが意味のあるものとなるからだ。




<2015年7月5日礼拝メッセージ> 「やっぱり家が一番!」 ルカ24:36〜43 

 復活の日、主が、女性達とエマオの途上にある二人に語られたことは、共通している。「御言葉を思い出せ」だ。神の約束を信じる……それが信仰だからである。
 さてエルサレムで、主の復活について話し合う弟子達の真ん中に主が現れた時、弟子達は、驚き恐れた。幽霊だと思ったからだ。しかしながら、「主がよみがえった」という話をしていたはずなのに、何故、幽霊だと思うのか。彼らは、まだ「復活」を悟ってはいないからである。「よみがえったのは霊的に生きてるだけだ」と考えていたのだ。試しに一切れ魚を差し出した、というところにも、それが伺える。
 復活は、霊的に生きているだけではないし、死体が息を吹き返すことでもない。復活は、新しい体(完全な体、死なない、病気にもならない体)が与えられるのである。それは神が最初に人間を造られた時のような「真の命」であり、その「真の命」が復活するのだ。当然、エデンの園でのアダムとエバがそうであったように、食事もできる。生きる為にではない。死なないのだから。楽しむ為だ。
 勿論、病の回復は求めるし、生きる限りは一日でも楽しく、長く、生きていたいと願う。だが、死んだあとも生き返りたい、というように必死でこの世にしがみつかなくても天国にも楽しみはある。それどころか、人は地上では旅人であって、神の元に帰る時にこそ本当の安らぎがあるのであり、そうであってこそ、地上での旅も楽しめるというものだから、やはり、帰るべき場所に帰ることこそが最善なのだ。
 その、天国(新天新地)は、どんなところか。キラキラした世界が黙示録(21:11)(21:18〜21)(21:23)(22:5)には描かれている。が、実はそれは、天国の中の「都」(神の幕屋)であって、決して、天国全体がキラキラしているのではない。あくまでも、都には太陽は要らない(21:23)のだ。ということは、都以外の天国には太陽は必要(つまり、眠ったり食べたりする)のだと思われる。
 天国には、今の世界と似たような部分がある。決定的に違うのは、「死なない」ということだ。最大の問題に対する解決があるのだ。それが主の復活によって約束された。私達は神の約束を信じよう。




<2015年6月28日礼拝メッセージ> 「約束は必ず」 ルカ24:1〜8 

 毎週の日曜が復活の記念日であり、主の復活にこそ、全ての問題(最終的には死)の解決があるのだが、その、主の復活の朝、墓が空なのを見て女性達は途方に暮れてしまった。そこで、天使は言った。「イエス様が言っておられた言葉を思い出せ」と。主は予め「よみがえる」と言っておられたのだ。「エマオの途上」で主も言われた。「キリストの復活は聖書に書いてあったではないか」と。「何故、聖書の全てを信じないのか」と。
 「全てを信じない」というのは、「何一つ信じない」という意味ではない。「神の約束は、10あれば10信じるべきなのに、一つか二つしか信じていない」ということ、それが「全てを信じない」(心が鈍い、愚かだ)ということである。
 そもそも「信仰」とは何か。聖書が教える「信仰」とは、神の約束を信じることである。ノアは、天気予報ではなく、神の約束を信じた。アブラハムもイサクもヤコブもヨセフも、神の約束を信じたのであり、その信仰によって称賛された。決して、有りもしないことを勝手に信じ込んだのではない。ヘブル11:6も、「神 に 求めるなら報われる(すなわち、祈れば何でも叶う)」と教えているのではない。「神 を 求める者には神は報いて下さる」と……つまり、神ご自身(ひいては、神の国と神の義)を求める者に報いて下さる(神の国は与えられる)と教えているのである。要は、主イエスが言われた「神の国と義を第一に求めるなら、それに加えて必要は与えられる」という約束を信じることだ。その信仰がなければ神に喜ばれない、ということなのである。
 神の約束、その最大・最高の約束は「信じてバプテスマを受ける者は救われる」だ。その実現の為に、主は約束通り十字架にかかり、よみがえられた。その「十字架と復活」という勝利のゆえに約束された。「私はすでに世に勝った。あなたを見捨てない。いつも共にいる」と。
 いずれにしても、「どうしても必要なことは一つだけ」と主は言われた。神の国と義を第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて必要なものは与えられる。この約束の言葉を信じよう。




<2015年6月21日礼拝メッセージ> 「見える? 見えない?」 ルカ23:33〜48 

 『指導者達 も あざ笑いながら』ということは、指導者達だけでなく他の誰かも、あざ笑っていた、ということだ。それが民衆である。彼らは、イエスの死を見届けて、あざ笑う為について来たのだと思われる。なのに、結局『悲しみながら帰った』のは何故か。それは『色々の出来事を見た』からだ。それも、天変地異を見たと言うよりも、イエスの死に様を見たからである。それで百人隊長は悟り、神をほめたたえて言った。『この方はまことに神の子であった』と。彼は信仰に至った(悔い改めた)ことが伺える。一方、民衆も同じことを見ていた。そして、悲しんだ。が、去って行った。対照的である。イエスと共に十字架につけられた二人の犯罪人も、対照的だ。
 一つの事柄に対しての受取り方は、確かに、人それぞれではある。しかし、「いわしの頭も信心から」と受け取ればそれでいいのかと言えばそうではない。受取り方・感じ方は、十人十色でも、変わることのない真実がある。例えば、1+1=2なのであって、受取り方によって3になったり、見方によって4になったりはしない。真理とはそういうものだ。曲げられないし、曲げてはいけないのである。ゆえに私達は、聖書を読んで「どう感じるか」ではなく、自分勝手な解釈を施すのでもなく、聖書の中にある「真実」を見出すべきなのである。それを見出した人は、必ず同じ答えに辿り着く。ルターが「信仰義認」というパウロと同じ答えに辿り着いたように。百人隊長が『この方はまことに神の子であった』と悟ったように。
 百人隊長も群衆も、2人の犯罪人も、同じことを見ていたのに、真実を見出せなかった人々がいる。今も、同じ聖書を見ていても、そういうことが起きる。見えるか、見えないか、そこには大きな差がある。私達は、真実を見出し、その真実(真理)の中にとどまらなければならない。特に、霊的な真理は、聖霊によらなければ悟るのは難しい。『真理の御霊が、あなた方を全ての真理に導き入れる』と主が言われた通りだ。私達は、真理の御霊によって、霊の目を開かせて頂こう。そして、今、主の元に集まっている私達が(あの群衆のように)悲しみながら帰る……ことのないように、主の元にとどまろう。




<2015年6月14日礼拝メッセージ> 「シリアスな話」 ルカ23:27〜31 

 慕い愛する主が殺される(無罪でありながら死刑にされる)、その不条理に嘆き、泣くのは普通だろうと思うのだが、何故か、主は『私の為に泣いてはいけない』と言われた。
 主は、よみがえられたあとも『私にすがりついてはいけません』と、マリヤに言われた。その時は、『私はまだ父の元に昇っていないから』(すがりつかれたら天に昇れない、すなわち、聖霊を送れない。いや、むしろ、これからは、いつも共にいて下さる聖霊にすがるべきなのだ)と、理由を語られた。しかし、十字架の道においては理由を語ってはおられない。何故、泣いてはいけないのか。
 一つには、ユダヤでは、死刑囚に対する宗教行事として「泣く(哀れむ)」ということが行われていたことがある(エレミヤ9:17にも「泣き女」がいたことが示されている)。その点、主は罪が無いのに、自ら人間の罪を背負って十字架で死ぬのであって、そんな「哀れな」死刑囚とは違う。「私のことで泣くな」は、それを意味していると言える。が、女性達は、ただ純粋に悲しんだのであって、泣き女の真似をしたなどということではない。だから『エルサレムの娘達よ、むしろ自分と子供達の為に泣け』と語られたことの方にこそ、より大きな意味がある。それは、エルサレムの裁かれる時が来る(裏返せば、悔い改めよ)ということだ。悔い改めないまま裁きが来た時の恐ろしさを思って泣け、ということなのである。が、結局、エルサレムは、悔い改めないまま滅亡を迎えてしまう。ユダヤ人は決して、神を信じない人々ではない。それどころか、誰よりも真の神の存在を知っているはずの、神の民だ。だが、真実な信仰ではなかった。常に預言者を通して「悔い改めよ」と迫り続けられていた。まさに「枯れ木」のような、命のない信仰だったのだ。枯れ木にさえ、それ程に厳しい裁きがあるのなら、腐った木には何が起きるのか、と思う。真理から外れ、ご利益ばかりを求める、今の時代こそ「悔い改めよ」というメッセージが必要だ。悔い改めないまま裁かれることの恐ろしさを思って泣くべきなのだ。それが『私のことで泣くな』の意味だ。悔い改める者を救う為に主は十字架にかかられたのだから。十字架を喜ぼう。




<2015年6月7日礼拝メッセージ> 「三回でなく、誤解」 ルカ22:54〜62 

 ゲツセマネで主が捕えられた後、ペテロは、危険を顧みず、ついて行った。案の定、見つかってしまうのだ(3度に渡って)が、その間、2時間近くの時間があったのにもかかわらず、何故か、彼は逃げようとしない。逃げるチャンスはいくらでもあったろうに、だ。きっと彼は本気で主を助けようと思っていたのだろう。その機会を伺う為に、その場をやり過ごそうとして、「知らない」と言ったのだと思われる。そんな時、鶏が鳴いた。振り向いて主が見つめる。ペテロは「しまった!」と思ったろう。彼は外に出て泣いた。それも『激しく』だ。ここに、ペテロの気持ちが表れている。助けるつもりだったのに、「裏切り者め」と思われた。誤解されたと思ったのだ。
 本当の気持ちを分かってもらえないというのはつらい。それが、『ご一緒になら死んでも構わない』と言うほど愛する人に分かってもらえないとすれば、やりきれない。これはペテロにとって「心の傷」だと言える。癒されなければ、命がけの伝道など出来ようはずがない。
 そこで、復活後の主との3回の問答でペテロは癒された、と言われるが、それは誤解だ。その時点では、もうすでにペテロは癒されていた。何故なら、初めから3回とも、彼の答えは同じ『私があなたを愛することはあなたがご存知です』だからだ。誤解されたと思って激しく泣いたけど、それこそが誤解だったということに気付いた。つまり、ペテロの本心を主は知っていて下さる、ということだ。
 そもそも、「ペテロの裏切りの予告」とされる主の言葉も、「裏切る」ではなく、ただ単に「3回、知らないと言う」と言っておられるだけだ。そして、まさにその通り、ペテロは、「知らない」と言っただけだ。やはり主は一切をご存知だったのだ。主は誤解しておられない、分かってくれている、そう気付いたからペテロは立ち直ったのだ。そのきっかけは、やはり最後の晩餐での出来事だろう。全てをご存知の主が予めとりなして祈って下さっていた、それを思い出したのだ。
 私達も誤解しないようにしよう。「主が私を誤解してる」と思うのが誤解なのだ。私達が主を愛していることを、主はご存知だということに気付こう。たとえ、躓いても、落ち込んでも、泣く必要はない。




<2015年5月31日礼拝メッセージ> 「決断を間違うな」 ルカ22:31〜32 

 主はペテロの信仰が無くならないようにと祈られた。その甲斐あってか、ペテロは後に立ち直る。さすが、主の「祈り」は聞かれる、ということか。ではユダが立ち直らなかったのは、主がユダの為に祈らなかったからということか。いや、主はいつも弟子達の為に、ひいては全ての人の為に(十字架の上で『父よ彼らを赦して下さい』と、兵士達の為のみならず、神に背く全人類の為に、とりなして)祈られた。その中には、当然、ユダも含まれていることになる。しかし、ユダは立ち直らなかった。結局、主が祈ったからといって、必ずその通りになるとは限らないのだ。たとえば、『父よ彼らを赦して下さい』と祈られたことによって全人類が赦されたのなら、伝道などする必要が無い。しかし主は、福音を宣べ伝えよ、と言われた。赦しには悔い改めが必要だからだ。使徒16:31も、誰か一人が救われたら、それで家族全員が救われる、という事ではない。あなたも、あなたの家族も主イエスを信じなさい、そうすれば……なのである。だからパウロは、そう言ったあとすぐ、『その家の者全部に主の言葉を語った』。そして、全家族が信じた。それは実に幸いなケースだ。が、時には、信じない家族もいるかもしれない。信じるか信じないか、その最終決断はもう本人次第であって、いくら家族とはいえ、洗脳するわけにはいかない。それだからこそ、とりなして祈るのだ。勿論、祈れば必ず、というわけではない。最終決断は、あくまでも本人次第だ。だからこそ、その最終決断を間違えないように聖霊が導いて下さい、と祈ることが必要なのである。それがとりなしの祈りだ。
 そして主は、弟子達の為に『真理によって彼らを聖め別って下さい』と祈られたように、今も私達の為に「偽りから分離されて聖別されるように」と願っておられる。ところが教会は、異端やカルトなどの偽りに染まってしまっている、という現実がある。聖別されるかどうか(純粋な信仰にとどまるか、も)やはり本人次第なのである。だから、自分から進んで何が正しいかを判断せよ、と主は言われた。その決断へと、聖霊が導いて下さるように祈ることが必要なのである。自らを含め、家族も、良い決断に導かれるように祈ろう。




<2015年5月24日礼拝メッセージ> 「えっ、世の終わりが?!」 ルカ21:29〜36 

 世の終わりの時には、人々は、恐ろしさのあまり気を失う、と主は言われた。2011年3月の大震災〜原発爆発も恐ろしかったが、それ以上だろう。何しろ、天の万象が揺り動かされるというのだから。
 その恐ろしい世の終わりのことを、何と、主は『贖い』だ(救いの時が近づいた)と言う。未信者の救いか。いや、クリスチャンの救いが完成する時である。すでに受けた(救われた)と信じたことが本当にそうなる時なのである。その時には、体をまっすぐにし、頭を上に上げなさい、と主は言われる。何故なら、主がいよいよ私達を迎えに来られるからだ。だから、その時に『果たして地上に信仰が見られるだろうか』とおっしゃる主に、見つけて頂けるように、「ここに私がいます」と、信仰に立っておくことが必要なのだ。ゆえに、その時、信仰がダウンしていないようによく気を付けておきなさい(落ち込んだとしても、早く浮かび上がれ、立ち直れ、信仰に立て)というのである。その時は、例外なく全ての人に臨む(全ての人がふるいにかけられる)からだ。
 しかし、と36節に『いつも油断せずに祈っていなさい』と御言葉は続く。が、何を祈れというのか。リバイバルか。教会成長か。いや、それは『やがて起ろうとしている(世の終わりの恐怖、パニック、絶望、裁き)これら全てから逃れ、キリストの前に立つことが出来るように』だ。どうすれば、そうなれるか。勿論、純粋な信仰を持ち続けることによってである。だから、異端やカルトに惑わされないように、祈らなければならないのである。『真理の御霊が来ると、あなた方を全ての真理に導き入れます』と主は言われた。逆に言えば、真理から外れているのは、聖霊に導かれていないということだ。聖霊以外の何かに導かれてしまうのはいとも容易い。油断すると、やられる。
 主は、ヨハネ17章で『父よ、真理によって彼らを聖め別って下さい』と弟子達の為に祈られた。私達も、いよいよ聖別されることが必要だ。偽りから分離されて、真理の中に導き入れられることを求めよう。それをして下さる、それが真理の御霊(聖霊)だ。聖霊によって真理に導き入れられるように、油断せず、祈ろう。





<2015年5月17日礼拝メッセージ> 「なりませんってば!」 ルカ20:9〜18 

 主人の息子さえ殺してしまった農夫達を主人が滅ぼす、というたとえ話を聞いた民衆は『そんなことがあってはなりません』と言った。何故ダメなのか。それは、農夫達とは、イスラエルのことを指して語られているからだ。つまり、自分達(イスラエル)が滅ぼされるなどとんでもない、というわけである。しかし、それは自分勝手な言い分だ。どう考えても悪いのは農夫達(イスラエル)なのだから義なる神が裁くのは当然であるし、それは神が決めることであるのに、それをダメと言うのは、「神のことを思わず、人のことを思っている」と言わざるを得ない。主が十字架にかかることを話された際、ペテロが『そんなことが起こるはずがありません』と言ったことと似ている。そのとき主は『下がれ、サタン』と言われた(十字架を妨げるのはサタンの働きだから)。十字架による罪の贖いは神が決めたこと。人間がそれを善し悪し言える立場ではない。裁きも、神の権威と決定によってなされる。なのに、『そんなことがあってはなりません』と裁かれる側が言うのは自分勝手にもほどがある。主は、そんな民衆を見つめて言われた。家を建てる者達の見捨てた石(キリスト)が礎の石となった。この石の上に落ちれば粉々に砕ける、と。それは、神の御旨に対して自分勝手なことを言う人々への裁きのメッセージだ。
 聖書は、イエス・キリスト以外に救いはない、と言っている。この宣教の言葉の愚かさを通して信じる者を救おうと定めた、と。キリストを信じることによってのみ、罪の赦しと天国が与えられるのだ。なのに、「そんなことがあってはなりなせん」と言う、それが万人救済説であり、「一度救われたら、永遠に……」という考え方だ。そして、世の終わりには背教が起きる、救われる人は少ない、と聖書は言うのに、「そんなことがあってはなりません」(大リバイバルは起きなければならない)と言う。それは、まさに「神の御旨を思わず、人の願いを思っている」のである。聖書は言う。『ことは人間の願いや努力によるのではなく、憐れんで下さる神による』と。神は誰を憐れむのか。神を恐れる者(神を敬い、御言葉に従う者)を、だ。その人を主は憐れんで下さる。




<2015年5月10日礼拝メッセージ> 「神を待ってミナ?」 ルカ19:11〜26 

 ザアカイの家に救いが来た、それで主は『人の子は、失われた人を捜して救う為に来た』のだと言われた。人々がそれらの事に耳を傾けている時に語られた、それが「ミナのたとえ」だ。
 さて、ザアカイの救い〜ミナのたとえ……この一連の話には、一つのテーマとなるポイントがある。それは、まず、ザアカイは「救いの訪れを待ち望んでいた」という事。主が「お前の家に行く」と言われて、彼は大喜びで主を迎えたのだ。次に、ミナのたとえで、国民が、王になるべき人を憎んでいた、という事。これはユダヤ人を現わしている。ユダヤ人は、イエスをこの世の王としようとした。神の国の民でありながら、神の国の王を待ち望んでいなかったのだ。もう一つは、主人を酷い方だと考えていたしもべ。彼は、主人の帰りを待ち望んでいなかった。本当は、主人は良い方なのに(それを信じて待ち望むべきなのに)悲観していた。
 改めて、このたとえが語られた理由は、人々が「イスラエル再建こそ神の国の到来」と考えていたからである。つまり、イエスを政治的な王(この世の幸を与えてくれる王)だと考えていたのであり、本当の神の国(救い)の訪れを待ち望んでいなかったからだ。それを正す為に語られた、すなわち「神の国(主の訪れ)を(ザアカイのように)待ち望め」というメッセージなのである。そのように、待ち望む人を捜して救う為に来た、と主は言われるのだ。
 私達は、主イエスを「この世の幸を与えてくれる王」としてはならない。私達の心を治める王として迎えるべきなのだ。それこそが、神の国の到来なのであり、だからこそ、『神の国は、あなた方のただ中にある』と主は言われたのである。そのような、神の国(主の訪れ)を、ザアカイのように、待ち望もう。たとえ、祈りの応えが遅くなっても、主は酷い方だなどと思わず、主は良いお方だと信じて、忠実に仕えるしもべとなり、待ち望もう。そのように「主の訪れを待ち望む人」を主は捜しているのである。そして、救い、恵みを注いで下さる。それは、十ミナも(十分過ぎるほど)持っているしもべに、更に一ミナが与えられたように、追いかけて来るほどに恵みが与えられるのだ。





<2015年5月3日礼拝メッセージ> 「していい事と、悪い事」 ルカ18:9〜14 

 取税人は、ローマの手先、罪人として、同じユダヤ人から嫌われていた。しかし、生きる為にその道を選ばざるをえなかったというような事情もあったのかもしれない、とも思う。ただ、その立場を利用して悪どく私腹を肥やしていた、そこはやはり、罪ある人間だ。で、パリサイ人は「こんな罪人ではない事を感謝します」と言う。勿論、そんな祈りはひんしゅくだ。しかし、それと似たような祈りをする時はないだろうか。例えば、「私は祝福されていることを感謝します」だ。普通は、それは変な祈りではないだろう。しかし、ある特定の場合においては、それは、罪人を見下すことになるかもしれない。それは、「祝福されていない(癒されない・貧しい)のは、罪があるからだ」という考え方の上で自らの祝福を感謝する時だ。それは「私は罪人ではない事を感謝します」というのと同じではないだろうか。それは義とは認められないと主は言われるのである。
 感謝は、「恵み」を感謝するべきだ。いくら『全ての事を感謝しなさい』と言っても、していいことと悪い事がある。少なくとも、人の不幸を感謝するべきではない。自分の不幸を「試練」と受け止めて感謝するのは構わないが……。だから、自分が罪人でない事を感謝するのではなく、罪人なのに「赦された」ことを感謝するべきなのである。この「赦された」という意識を忘れると、高ぶり、恵みを失う。自分を高くする者は低くされるのだ。しかし、自分を低くする(罪を認め、赦しを求める)者は高く(神の子と)される。主イエスを信じる時に、それはまさに実現する。その後の信仰生活も、そのように自分を低くする、それがクリスチャンの生き方だと言えよう。すなわち、子供のように、「私には神(神の憐れみ、助け、恵み)が必要です」と自分を低くする事だ。そうすれば高くされる。ただし、決して、高くされる事を目的とするのではない。それは本末転倒だ。ただ自分の弱さを認めて、神を必要とする事。神の憐れみ無しでは生きて行けない、それが私だ、と認めるのである。取税人は、同胞から嫌われても、そうやって生きるしかない哀れな一番低い者、それが自分だ、と分かっていた。そして、ただ憐れみを求めた。それが義と認められたのである。




<2015年4月26日礼拝メッセージ> 「振り返るな」 ルカ17:33〜37 

 「自分の命を救おうとする」のは何も不思議な事ではない。しかし、そうする者は命を失う、と逆説的に主は言われた。実はそれはロトの妻の事を言っている。ソドムが滅びる時、彼女は、神の憐れみにより救い出されたのに、逃げる途中で振り返った。残して来た財産を惜しんだからだ。彼女は、それ(財産)こそが自分の命を守るもの、あるいは、わが命と考えていたのだろう。つまり彼女は、自分の命を守ろうとして、命を失ったのである。それを思い出せ、と主は言う。つまり、世の終わりの時、どうすれば命を守れるか、命を救う為に本当に必要なものは何か、その時には家財を取りに戻るな、ということだ。
 確かに、この世で生きる為にはお金は必要だ。が、決してお金で命が守れるというわけではない。核爆弾が落ちて来たら札束など何の役にも立たない。逆に、経済最優先ゆえの原発が人の命を奪う。しかし、それを捨てるなら命を保つのだ。だから、振り返ってはならないのである。かつては、それ(経済・財産)こそが命と考えていたかもしれないが、もう振り返るな、ということが教えられている。
 聖書は予め私達に全ての事を示してくれている。世の終わり(裁き)の時には、きっと、ロトの妻のように振り返る人がいるのだ。彼女も、決して、神に敵対していた人だというわけではなかったろう。同じように、神に仕える者でありながら、振り返る人が出るのだ。だから、2人の内、1人は取られ1人は残される、と主は言う。それは必ずしも半分に、ではなく、2つ(天国と地獄)に分けられるという事だ。一見、同じ事(賛美、祈り、礼拝……)をしていても、そこに決定的な違いがあるならば、分けられる。その違い、それが、狭い門から入るかどうか(御言葉の真の教えに従って歩むかどうか)、だ。残念ながら、広い道を行く人が多い、と主は言われた。
 弟子達は、どこでですかと聞く。主の答えは、死体のある所どこにでも禿鷹が集まるように、人の居る所どこででも……だ。全ての人は裁かれる。しかし、救いがある! 救いの門は、決して閉ざされてはいない。狭いけれど開かれている、通ろうと思えば誰でも通れるのだ。私達は、真理の御言葉に頼って、命を得る者となろう。





<2015年4月19日礼拝メッセージ> 「大いなる勘違い」 ルカ17:1〜6 

 『信仰を増して下さい』と使徒達は願った。すると主は、信仰があれば何でも思い通りになる、というような事を語られた……と理解していいのだろうか? 実は、主は使徒達の頼みに「ダメだ」とも「いいよ」とも応えていない。何故か。山上の垂訓では「頼みを断るな」と自ら教えておられる。それらの教え(決して誓ってはならない、とか、右を打たれたら左も出せ、とかの山上の垂訓)を実行しなければならないと考える人は、主を批難するべきだろう。「主よ、あなたは間違っている」と。しかし、いつの場合も、正しいのは神であり、人間が神を言い負かす事など出来はしない。つまり、間違っているのは、人間の側の「御言葉の理解」なのである。
 そもそも使徒達が、そんな願いをした理由は、果てしなく赦すべきであるとの主の言葉を聞いたからだ。「それは無理だ」と思うのが人情だろう。信仰が必要だ。だから「増して下さい」と願ったのであるが、しかし、そこに勘違いがある。
 事の始まりは、『つまづきを起こさせる者は忌わしい。そんな者は死んだ方がまし』との主の言葉だ。勿論、それは最善ではない。最悪の事態になるくらいなら、その方がまだまし、という事であって、最善は、悔い改めに導く事なのである。だから『気をつけていなさい』と続く。きちんと戒めているかどうか、という事をだ。なのに使徒達は、見事に勘違いして、赦す為の信仰を増して下さいと願った。まず、戒めが先決であり、それゆえに悔い改めが起こり、その結果、赦すに至るのであるのに、それを理解していないのだ。ゆえに主は、からし種ほどの信仰もない(信仰が死んでる)と言う。すなわち、御言葉を実行していない、という事である。何故、実行出来ないか。それは、御言葉を悟らないからだ。悟っていないから実行出来ないのである。
 ところで、と続く「たとえ話」、その結論は、『なすべき事をしただけ、と言いなさい』だ。それは直訳では「負うべき負債を払っただけ」である。つまり、戒めないのは、自分の借金さえ払わないのと同じ、ということだ。そうならないように主は『気をつけていなさい』と言われた。御言葉を悟って、忠実なしもべとなろう。





<2015年4月12日礼拝メッセージ> 「唐突な夫婦の意味」 ルカ16:14〜18 

 イエスの話(15章から)の一部始終を聞いていたパリサイ人達。それらは、彼らにとっては馬鹿馬鹿しく感じられるものだった。極めつけは『誰も二人の主人に仕えることは出来ない』だ。それを聞いて『金の好きなパリサイ人達』は「我らは金と神の両方に仕えておるわい」と言うかのようにイエスを嘲笑った。で、主は、人間の間で崇められる者(=金持ち=富に仕える者)は神に嫌われると言われた。何故なら『誰も二人の主人に仕える事は出ない』からだ。そこで18節の「姦淫について」の言葉が出て来る。それは唐突のように感じるが、実は繋がっている。つまり、神のしもべが富に仕えるのは姦淫だ、という事なのである。
 本来、人間は、神にのみ仕えるべきである。神が主だ。その関係性を教える為に、夫婦になぞらえられている。夫がいるのに他の男に行けば姦淫だ、と。結局、「姦淫するな」は、単なる男女の問題ではなく、神に変わるもの(富や偶像)を禁止する為の教えなのである。
 16節も、決して唐突ではない。律法は今も生きている、その律法が「姦淫するな(すなわち、神にのみ仕えよ)」と教えている、という事が言いたいのだ。なのに、パリサイ人達はイエスを(と言うより、むしろ律法を)嘲笑った。それでそのあとすぐたとえ話が話された。結論は「律法に耳を傾けよ」だ。
 律法の教えは、単なる規則ではない。その真意を酌まず、表面的に掟として守って、人の前に自分を正しいとしても神に喜ばれはしない。勿論、確かに律法の時代は終わった。だが、律法は無意味になったのではない。律法のその本当の意味を見失うな、神にのみ仕えよ、という事、それが「姦淫するな」なのである。
 主の叱責の言葉は、私達にも当てはめる事が出来る。神のしもべでありながら、同時に他の何かに仕えているという事のないように私達は聖書の教えに耳を傾けよう。主なる神に仕えるしもべとなるなら、主人の持っているもの(愛、平和、命)を報酬として受ける事が出来るのだ。直接的に主に仕える事(礼拝など)は勿論、間接的にでも、それを通して主が崇められる事を願って仕えるしもべとなろう。





<2015年4月5日イースター礼拝メッセージ> 「入る? 入らない?」 ルカ13:22〜24 

 信じてバプテスマを受ければ救われる、と聖書が教えているように、救われたいと思うならば、その道はあるのだ。しかし、天国に入ろうと思っても(救われたいと願っても)入れなくなる(滅びから逃れられなくなる)人が多い、と主は言われた。これは聞き流すことの出来ない問題である。例えば、核爆発(あるいは、核戦争)が起きたら、もはや地球上には逃れる場所は無いだろう。それと同じように、神の裁きの時には、宇宙のどこにも逃れる場所などない。今はまだ、神の裁きの時は来ていないからいいが、その時が来たら(唯一の逃げ場である「永遠の命」の扉が閉められた後では)もう、どうにもならない。判決が下ったあとで謝っても遅いのだ。それが『入ろうとしても入れなくなる』ということである。そして、そうなる人が多いと主は言う。だが今なら入れる。キリストを信じる者は滅びることなく永遠の命に入るのだ。それを約束している、それがキリストの復活である。
 復活と聞くと、ある者は嘲笑った、と聖書にあるように、「バカげている」と多くの人は考える。確かに、単に生き返っただけなら、また死ぬわけで、何の解決にもならない。しかし、復活は、そのような無意味なものとは違う。復活は、死人が生き返るのではなく、新しい体が与えられ、新しい命を生きるようになるのだ。それを証明したのが、キリストの復活なのである。そして、信じる者にも、キリストと同じように栄光の体が与えられる。
 命は、そもそも、神が与えてくれたものだ。「命は、命からしか生まれない」と科学の法則もそれを証明している。その神が、新しい命を下さるというのだ。何も不思議なことではない。全ての人はそれを既に一度経験しているのだから。拒む必要もない。手遅れになる前に、今の内に手に入れておくべきだ。カネなら、人の命を犠牲にしてでも手に入れようとする、その醜い欲望を神として従う人が多い。彼らの最後は滅びであると聖書は言う。裁きの時に、地上はおろか、宇宙のどこにも逃れる場所は無い。しかし、私達の国籍は天にある。そこに救いがある。その唯一の逃れの場所に、今入ろう。その為の努力をしよう。その門は狭いのだ。努力して入れ、と主が言われた通りに。




<2015年3月29日礼拝メッセージ> 説教者 永井 明牧師 マタイ9:35〜10:8 「宣教命令」 




<2015年3月22日礼拝メッセージ> ルカ13:18〜21 「…とかけて、その心は?」 

 「神の国」とは、原意は「神の支配」である。支配者は絶対的な権力を持っていて、何でも自由に出来る。ゆえに、支配者次第で、その国が平和かどうかが左右される。そこで、もし、自分の人生(命)を自分自身が支配すればどうなるか。果たして「自分」という支配者は、良い支配者か。いや、『なすべき正しいことを知っていながら、それが出来ない』悪い(罪ある)支配者だ。当然、支配された「人生」に平和は訪れない。だから、支配者は選ばなければならない。
 主は『私は良い羊飼いです』と言われた。ご自分のものである(支配している)羊を救う為に命をも捨てると言うのだ。そして、本当に私達人間を救う為に十字架で死なれた。それを信じた(イエスを主とした=すなわち、神の支配を受け入れた)人は神と和解出来る。つまり、神が支配する所に平和が訪れる。それが「神の国」だ。
 ただ、どうしても、支配されるということに対するアレルギーが人間にはある。支配されたくない、どころか、自分が支配したい、という欲望もある。しかし、自分自身さえ、自分の人生の支配者としては失格なのだ。しかし、神は良いお方であって、神が支配する(神のやりたい放題にしてもらう)ことによって、自由になる。解放され、守られ、助けられ、生きる力が与えられる。それが「神の国」なのだから、神の支配を嫌がる必要はない。
 そして実は、神の国は何に似ているか、という主の教えは、その直前の出来事(18年間病に苦しんでいた女性の癒し)を受けての説明なのである。彼女は、弱く惨めな存在だった。しかし主によって、新しい人生を生きるように変えられた。それが「神の国」であって、まるで「からし種」や「パン種」のようだ(小さく惨めな者が何より大きくなる、滅ぶべき罪人が神の子とされる)ということなのだ。つまり、癒しは「神の国」の一つの表象に過ぎないということだ。例えば、食事の喜びは「生きていることの喜び」の一つに過ぎないのであって、食事さえ出来れば死んでもいいということにはならないのと同じだ。神の国(天国)こそが「完全な癒し」なのである。だから、神の国(神の支配)を受け入れよう。その心は、平和になる。





<2015年3月15日礼拝メッセージ> ルカ13:6〜9 「そうではない うそではない」 

 番人のとりなしによって、切り倒されること(裁き)を一年猶予されたいちじくの木は、果たして一年後、どうなったのか。その結末は、ハッキリとは語られていない。が、恐らく、切り倒されたのだろう、と思う。何故なら、この「たとえ」は、前段落で語られたこと(悔い改めないならみな滅びる。裁きは免れない)を教える為のものだからだ。つまり、悔い改めの実を結べ、ということだ。しかし、悔い改める人は少ない。
 ただ、これは単に悔い改めを迫るのではなく、人間の中に潜む問題を追及している。ポイントは、誰が罪深いのか、だ。人々は「あのガリラヤ人は、罪深いから災難に遭ったんだ」と考えていた。それは例えば、東日本大震災が起きた時もそうだ。ある人は「神の裁きだ」と言った。東北の漁村に暮らす人々が、特別に罪深いと言うかのように。勿論、自業自得ということはある。暴飲暴食すればお腹をこわすように。しかし、それとこれとは微妙に違う。もし本当に、罪深いから災いに遭うのなら、今、善人だけが生き残ってるはずだ。
 クリスチャンの世界にも、そういう間違いがある。例えば、癒されないのは不信仰だからだ、と。災いに遭うのは告白していない罪があるからだ、と。逆に言えば、祝福されてる(繁栄してる)人が信仰的な人だ、大きな教会が正しい教会だ、と。であるならば、パウロが癒されなかったのは不信仰だから、使徒達が殺されたのは罪深いから、ということだ。そのような考え方が問題なのである。主は言われた。『そうではない』と。悔い改めないなら皆同じように滅びる。
 勿論、クリスチャンなら、すでに悔い改めている(神に従う道に方向転換した)はずだ。しかし、考え方をも方向転換する必要がある。罪深いから災いに遭うのではない、という考え方に。どんなに問題(苦しみ)があっても、キリストを信じて罪は赦されている、と。神様は全てのことを働かせて益に変えて下さる、と。苦しい時こそ、そういう考え方に方向転換しよう。そして、祈れば何でも叶うと考える(それは、全世界を手に入れようとするに等しい)のを悔い改めて、神の国を求める、という方向に進もう。




<2015年3月8日礼拝メッセージ> ルカ12:22〜31 「心配は要らない 借家は売れない」 

 心配するな、思い煩うな、と聖書は教える。が、だからと言って、何も気にしないで生きて行くわけにはいかない。むしろ聖書は、様々な面において「気を付けなさい」と教えている。異端の教えにも、主のしもべとしての責任を果たしているかということについてもだ。では、主はここで何を「心配するな」と言うのか。
 主が言われたのは、命のことで『何を食べようかと心配するな』であって、決して、命はどうでもいい、ということではない。それどころか『命は食べ物より大切』だ。ところが逆に、命の心配をしたところでどうにもならない、とも言われているのが不思議なところだ。
 多くの人は、自分の命は自分のもの、と考えているのだろう。しかし、もし本当に自分のものなら自分の自由に出来る(例えば、自分の家なら改造も売却も出来る)はずだが、命は自分の自由にはならない。自らの命を絶つことさえ決して自由ではない。何故か。それは、自分のものではないからではないか。主は、そのことを言っておられる。自分の命は自分のものではないのだ。命を意のままに出来る(地獄に落とす権威を持っておられる)のは、命の源であられる真の神だけだ。この方を恐れなければならない。
 突き詰めれば、命は神のもの。それを認めるなら、神が命の責任を持ってくれる。私達の地上での人生を守り、永遠の命・天国へと導いてくれる。何しろ、命は神のものなのだから。だから、何はともあれ神の国を第一に求めなさい、ということだ。神は喜んで御国を与えてくれる、と主は言われた。
 そういうわけで、「命のことについて何を食べようかと心配する」……それは、言い換えるなら、「死んだらどうしよう」「不幸になりたくない」「どうすれば幸せになれるだろうか」と心配することなのである。しかし、救い主を信じ、命は神のものと認めるなら、そんな心配は要らない。必ず、天国に行けるし、本当の幸せも与えられる。天国に行けるかどうか、ということについての心配は要らないのである。だから、何はともあれ神の国を第一に求めよう。そうすれば必要なものは与えられる。神は報いて下さる。




<2015年3月1日礼拝メッセージ> ルカ11:29〜36 「明るい目、だよな」 

 しるしばかり求める悪い時代だ、と主は「この時代」を責められた。それで、南の女王が(ニネベの人々も)裁きの時には「彼ら」「この人々」を罪に定めると言うのだが、不思議なことに、いずれも『この時代の人々と共に立って』だ。一体、責められているのは誰なのか。
 まず、罪に定められる理由は「異邦人である南の女王でさえソロモンの知恵(神の奥義)を愛したし、ニネベはヨナの説教で悔い改めたのに、ソロモンやヨナより優ったキリストの言うことを聞かないから」である。そんな「彼ら・人々」が裁かれる。実はこれは、『幸いなのは、神の言葉を聞いてそれを守る人達です』という主の言葉から繋がっている。つまり、「この時代」の中の、キリストの教えを聞いても悔い改めない人々が裁かれるということだ。とは言え、実際に罪に定める(その権威がある)のは神お一人である。ただ、異邦人でも神の言葉に従ったんだから、という意味で、南の女王とニネベの人々によって罪に定められるということだ。
 ゆえに、大切なのは、キリストの言葉に聞く、ということだ。そして、聞いたら従う(心をかたくなにしない)ことである。続けて語られている『体の明かりは目だ』という教えは、そのことを言っている。すなわち、部屋の明かりは全体を照らす為(恵みが全ての人に届く為)に燭台の上に置く。同じように、体の明かりである目が健全であるべきなのは、恵みが体中に届く為(生活全体が祝福される為)なのだ。
 ソロモンより優ったキリストが目の前にいるのに、その語る言葉が見えない(悟れない)なら、それは霊的な目が健全ではない(暗い)ということだ。しかし、もし、霊の目が明るくて、キリストの教えを悟るなら、その光は全身を輝かせ、恵みが生活全体に及び、祝福が人生に満ちるのである。その祝福とは、勿論、この世の富などではない。霊的祝福(愛・喜び・平安・希望・感謝・永遠の命)である。そこも悟るべき大事なポイントである。
 キリストの言葉は今、私達の目の前にあり、見ることが・聞くことが・読むことが出来る。その幸いを喜び、霊の目を明るくして頂き、しっかり悟って従う者となろう。そうすれば体全体が輝く。




<2015年2月22日礼拝メッセージ> ルカ11:5〜10 「なんで、なんでも?」 

 祈れば何でも叶うと、この聖書の箇所は教えているのだろうか。
 まず、「彼」は友達の頼みを断っている。当然だろう。真夜中だし、頼む方が非常識だ。主も言う。『彼は友達だからということで起きて何かを与えることはしない』。にしても、と続くのだが、そこが問題だ。単純に考えれば、祈り続ければ必ず与えられる、ということになるかもしれない。しかし、この教えは13節まで続くのであり、その結論は、「求めるなら誰でも聖霊が与えられる」ということなのだ。つまり、主が『あなたがたを友と呼ぶ』と言われた通り、私達は、主の友である。が、だからと言って(クリスチャンだから、ということで)聖霊のバプテスマが与えられるのではなく、あくまでも「求めるならば」なのである。それが、この部分のメッセージだ。が、実は、ここには、それ以上のメッセージがある。
 この話は最初に、弟子達が『祈りを教えて下さい』と主に頼んだことから始まるのだが、それはバプテスマのヨハネの弟子達への対抗心から出ている。彼らは互いをライバル視していたと思われる。それゆえ、優位に立つ為に、更なる祈りの教えを求めた。そこで主は、改めて、神の国をまず求めよ、ということ(主の祈り)を教えられた。それが信仰者(祈り)の基本だからだ。祈り(信仰)は、自らの欲望を満たす為のものではなく、神の国を求める為のものだ。そして、神の国(神の支配)は、聖霊に満たされる時に、心の中に実現する。ゆえに、聖霊を求めよ、求め続けるなら誰でも与えられる、ということを教える為に、この「たとえ」が話されたのである。決して、祈れば何でも叶う、ということを教えているのではない。
 この世の欲望を求めるなら、この世と共に滅びる。詩篇109には、呪うことを愛した(呪いを求めた)ので、それが自分に返って来た、と言われている。そして、神の国も、求める者に与えられる。神の平安、聖霊の満たし、それらは求めるべきなのだ。そこにこそ、人間にとっての本当の幸せがあるのだから。それを与えて下さる唯一のお方(真の神、救い主、イエス・キリスト)に求めよう。この世は、本当の幸せを与えてはくれない。神の国を、主に、求めよう。





<2015年2月15日礼拝メッセージ> ルカ10:1〜2 「どんなもんだい !!」 

 70人を二人ずつ遣わした、ということは、35組。意外に沢山の町や村(もしかしたら100くらい)があったのだ。大まかに計算すると、一つの町に平均10万人という人口、そこに二人だけだから結構大変だ。
 働き手が少ない、と主は言われた。日本でも牧師のいない教会がかなりの数あると聞く。だから、献身者が起こされるように、とか、宣教師が日本にもっと来るように、とか、そんな祈りをせよと主が言われたのかと言えば、そうではない。マタイ9:37〜38にも同じ言葉が記されているが、それは主があちこちで福音を語り、多くの人を癒したのに、群集は弱り果てて倒れている、と主の目に映った、その時に語られたものだ。癒しも必要だが、それ以上に、もっと福音を語ることが必要だということ、それが「問題」だ。その問題の解決の為に働き手が必要だった。そこで『ご自分が(福音を語る為に)行くつもり』の町村に弟子を遣わす時に言われたのである。『働き手を送って下さるように祈れ』と。果たして弟子達は祈ったろうか。「誰も遣わされる人がいませんから、どうか、誰か伝道者を送って下さい」と。いや、彼らは自分達が今、遣わされようとしていたのだから、そんな人ごとのような祈りをするように、と主が言われるはずがない。
 問題は、福音(を語ること)が足りないということ。主はあちこちで語ったが、癒しを求める群衆のゆえに、十分に福音が語れない。だから弟子達を遣わすにあたって「祈れ」と言われた、それは「福音を語る為の働き手として私を遣わして下さいと祈れ」ということだ。
 伝道者を狼が狙っている、と主は言われた。狼とは勿論、サタンであり、異端の教えであり、この世の誘惑などだ。殉教だけではなく、福音を誤解し、捻じ曲げ、まっすぐに語らなくなること、それも伝道者にとっての「死」だと言えよう。だからこそ「福音を語る為の働き手として主が送って下さるように」祈れ、ということなのだ。
 『堅く信仰に立って悪魔に立ち向かえ』とTペテロ5:9にある。信仰なら何でもいいわけではないと同じように、『ほかの福音』(ガラテヤ1:6)にも注意が必要だ。伝道者だけでなく、自分自身も、純正の福音を語る為の働き手として主が遣わして下さるように祈ろう。




<2015年2月8日礼拝メッセージ> ルカ7:11〜17 「証拠は、ある!」 

 神には「何でも出来る」。しかし、それは、神は「何でもしてくれる」という意味ではない。私達は、自分の希望通りに神を動かそうとしてはならないのである。
 死人の生き返り、という奇跡も、ラザロを代表に事実起きたことであるが、必ずしも、全ての死者が生き返ったわけではない。むしろ、聖書に記されているのは、わずかだ。神は、何故、全員を生き返らせないのか。このような疑問は多くの人が感じるのではないか。何故、奇蹟は滅多に起きないのか。何故、癒しは、たまにしか起きないのか。非業の死を遂げたバプテスマのヨハネを神は何故、生き返らせなかったのか。生き返らせた方が伝道が進んだのではないか。ヨハネもイエスに奇跡を期待していた(助けてほしかった)のかもしれない。弟子をイエスの元にやって「あなたがキリストなら……」というようなことを言わせている。しかし主は「キリスト来臨のしるし(証拠としての奇跡)」を「ヨハネに報告せよ」と使いを返した。
 証拠は、何かを明らかにする為のものであり、それによって何かが明らかになったなら、もうそれ以上は不要なものである。「もっと証拠を!」と求めるのは、疑ってる、ということだ。だから主は「しるしばかり求める悪い時代だ」と言われたのだ。
 勿論、今も神は生きて働かれる。憐れんで下さり、助け、慰め、時には癒しも与えて下さる。それでも、「祈れば必ず……!」ではない。祈りは、打ち出の小づちではないし、四次元ポケットでもないのだ。
 ヨハネは殺された、多くのクリスチャンが迫害されて殺された、使徒達もほとんどが、だ。そして今も試練はある、困難もある、苦しみもある、それが現実である。けれども、つまづいてはならない! 『誰でも私につまづかない者は幸い』と主は言われた。
 『神の御心は何か、何が良いことで神に喜ばれ完全であるか』(ローマ12:2)、それは、神への信頼だ。主イエスは救い主だということと、天国と永遠の命は、しるしによってもうすでに明らかになっているのだから、私達は、たとえ「祈ったのに……」というような時も、つまづくのではなく、主に信頼して幸いな者となろう。





<2015年2月1日礼拝メッセージ> ルカ6:20〜26 「何が貧しいって、そりゃあ…」 

 マタイ5章の「山上の垂訓」に似ているが、これは並行記事ではない。「平地の説教」と呼ばれる、違う時に語られた「別の説教」である。が、共通点もある。例えば、貧しい者は幸い、という教え。普通は、豊かなことこそ幸いと考えるものだが、そんな「人間的価値観」を逆転させる教えである。
 違いは、平地の説教では、哀れな者についても教えられていることだ。しかも、『あなたがたは』と、(〜〜な者は、という一般論としてではなく)今、目の前にいる人々を指して『哀れだ』と主は言われているのである。
 何故、何が、哀れなのか。主は『あなたがたは富んでいる、食べ飽きている』と言われた。それは文脈から判断すれば「人間的価値観」のことだろう。それを逆転させるのが前半(幸いな者)の教えであり、それを逆転させなければならない(人間的価値観に満ちている)現状を「哀れだ」というのが後半の教えであるのだ。例えばペテロは、キリストを「この世の王」と考えていた。群集もしかりだ。そして人々は、癒し(この世の幸)ばかりを求めて群がって来ていた。だから主は、この説教を語られたのである。貧しい者(天国の信仰を持たない人生の貧しさに気付いた者)は幸いである、と。そして、この世を去る時が来ても(それは救いの完成の時、と)平安でいられる為に、人間的価値観を捨てよ、と。勿論、神は人間の必要を知っておられる。しかし、それらはついて来る。神の国をまず第一に求めるなら。
 神の国(原語の意味は、神の支配)を求める、それは、「神に支配されたい」と願うことであり、神の思い(御霊に)満たされることである。が、少なからず、「支配される」ということに抵抗感を感じてしまう、それが人間だ。人間的価値観で考えれば、それが当然かもしれない。実に、神の国(御霊の満たし)を打ち消すもの、それが人間的価値観なのだ。だから、それを捨てよ、と主は言う。捨てずに(逆に、富んで)生きる人は哀れだ、と。そのような人生こそが、本当の貧しさであると知るなら、その人は幸いだ。私達も、貧しさを知る者となろう。御言葉に、信仰に、御霊に、満たされたい、と。





<2015年1月25日礼拝メッセージ> 「分別はあるか」 ルカ6:6〜10 プラス 「第二礼拝」 

 律法学者達の考え(安息日に病人を癒せば訴える)を主は良く知っていた。そして知っていたのに、あえて癒した。単純に考えれば、敵の思うつぼである。しかし主は、『訴える口実を見つけよう』とする彼らへの対抗の為に、『安息日にしていいのは何か』という問いかけを癒しの前にされたのである。それは、「律法は何の為か」「信仰は何の為か」「神の御心は何か」ということである。
 何故、神は人間に律法を与えたのか。確かに、ある面、律法は人間を縛る。絶対的なルールである。だが、ルールなしでは「自由」は成り立たない。ルールが無い世界、そこは、殺し殺され、盗み盗まれ、何でもありの、混乱と破滅、およそ「幸せ」からかけ離れた世界である。だから神は、人間の幸せの為にルールを与えた。殺すな、盗むな、父母を敬え、偶像を拝むな……それらが守られてこそ、自由に生きることが出来るからだ。当然、「安息日を守れ」という律法も、人間の幸せの為(自由を得させる為)のル−ルなのであるが、残念ながら今でも多くの場合、表面的に「安息日に働くな」という「縛り」と化してしまっている。その律法が本当に目指していることは何か、が理解されていないのだ。本当は、それは「神に信頼して(養われて)生きるようになること」を目指している。神は、人間にそうなってほしのである。それが幸せな(自由な)人生への道だからだ。それが分からないと、律法は逆に人間を苦しめるものとなる。
 神の御心は、命を救うこと、律法は二の次。「安息日だから善を行なうな」というような宗教は本末転倒……それが主の言わんとすることである。すると『彼らはすっかり分別を失って』と聖書は記す。
 「律法(信仰)は何の為か」「神の御心は何か」、その分別を失ってはならない。「いかにすれば救われるか(天国に入れるか)」、それが信仰の目的であり、その為にこそ神は人間を信仰に導く。それが神の愛である。ゆえに、その「天国への信仰」という神の「愛」を抜きにした信仰は虚しい。どんな奇跡を行なう信仰も、愛が無ければ虚しい、と聖書は言うのだ。救い(神の国)、それが信仰の目的である。私達は、それを求めよう。その為の信仰であるのだから。





<2015年1月18日礼拝メッセージ> 「眠ってはいけない!」 マルコ13:31〜37 

 この天地は滅びる、と主は言われた。気をつけなさい、目を覚まし、注意していなさい、とも。その理由は、その時がいつであるか私達は知らないからだ。だから、世の終わりが来るのはいつかを予測せよ(天気のように、毎日チェックせよ)ということではない。何しろ『それがいつかは誰も知らない』のだから。その説明として、旅に立つ人がしもべに仕事を割り当てる、というたとえが語られた。それは、帰りが「いつか分からない」ことを説明しているのではない。「しもべには果たすべき責任がある」ことを教えているのだ。それこそが「気をつけておくべきこと」なのである。
 さて、門番の責任は『目を覚まして』いることだ。居眠りしていては門番は務まらない。だが、皆が皆、門番ではない。それぞれに割り当てられた仕事がある。だから、『目を覚ましていなさい』というのは、自分の役割・仕事が何であるかを「気づいていなさい」ということであり、その責任を果たしているかということに注意していなさい、ということなのだ。
 主は、それを『全ての人に言っている』。少なくとも、全てのクリスチャンには、ある一つの使命がある。それは「キリストの証人」となること、福音を宣べ伝えることだ。それは、ダイレクトな伝道に限らず、人生を通して信仰を証しすることでもある、ということに気づいておかなければならない。「私はダメなクリスチャン」などと思ったりせず、目覚めておかなければならないのだ。
 一つの体には沢山の部分があるように、クリスチャンの数だけ、働きの種類があると言える。そして、小さな部分こそ重要だと聖書は言う。加えて、それら全てが、その力量に相応しく(自分の力を過信せず)働く力によって組み合わさってこそ、教会なのである。
 いつ世の終わりが来るかは分からないが、その時まで、自分の責任を果たしているかどうか、そして全てのクリスチャンの使命(福音を宣べ伝える)においても教えの純粋性を守っているか、そのことに気をつけていよう。そうしている所を主に見て頂けて、「良い忠実なしもべだ」とお褒めを頂けたら幸いである。





<2015年1月11日礼拝メッセージ> 「100回目の、わだかまり」 マルコ11:25 

 「赦し」についての誤解が甚だしい。基本的に、赦しは、悔い改めがあってこそ、だ。イエス・キリストの十字架を信じた(つまり、悔い改めた)からこそ、神は私達の罪を赦して下さったのであり、それと同じように赦し合いなさい、と聖書は言うのだから、悔い改めが絶対条件なのだ。なのに、赦さなきゃ自分も赦されない、と強迫観念的に「無条件の赦し」を行なおうとする、それが「誤解」なのである。もし、誰かを赦すことによって自分の罪も赦されようとするのなら、それは「行ないによって救われようとする」ことではないか。もし、そうしたいのなら「完全になれ」(マタイ5:48)と主は言われたのであり、それは無理だからこそ「神の恵みによって救われなさい」ということ、それが「福音」だ。自分の罪が赦されるのは、何かをしたからではなく、十字架によってのみ。この基本(土台)の上に立って考えなければならない。
 さて、『誰かに対して恨み事があったら』だが、実は、原文には「恨み事」という言葉は無い。直訳は「誰かに対して何かを持っていたら」だ。つまり「何か心にある」ということ、いわゆる「わだかまり」のこと(感情の問題)なのだ。もし、感情ではなく、現実の問題(相手が罪を犯した、とか)がある場合は、まず責め、戒め、悔い改めに導くべきであり、悔い改めたら赦すべきである(ルカ17:3〜4)。何度でも、だ。が、余りにも回数が重なると、いくら「赦す」とは言え、さすがに心にわだかまりが残るのではないだろうか。その「わだかまり」を握りしめていないで手離せ、ということ、それがここでの『赦しなさい』なのである。「赦す」と言いながら、わだかまりを持っている、それが罪なのであり、それを捨てることによって自分も解放されるのだ。赦しを強要して苦しめるのではなく、心を自由にし、解放する、それが「キリストの教え」だ。勿論、それは相手が悔い改めた時に限る。そして、赦したけど、心にわだかまりが残っている時に、この教えを適用しよう。加えて、人に対してのみならず、神様に対しても、変なわだかまりがあるなら、それも捨てて、晴れやかな心で神の前に立ち、礼拝で喜びと感謝を味わおう。






<2015年1月4日礼拝メッセージ  +  第二礼拝での修正> 「ヘロデと日本」 マルコ6:14〜20 

 ヘロデ大王の次男(ヘロデ・アンティパス)は、バプテスマのヨハネを聖なる人と知って、恐れ、保護を加え、当惑しながらも教えを喜んで聞いていた。が、『あなたの結婚は不法だ』と責められたので、ヨハネを捕えた(注:マタイ14:5には『ヘロデはヨハネを殺したかった』とある)。そこに、妻と娘の悪巧みによって、ヨハネを殺す絶好のチャンスが訪れた。しかし彼は意外にも『非常に心を痛めた』。その割には、見栄と体裁を優先させて、あっさりとヨハネを殺した。いったい、ヘロデは良い人なのか、悪い人なのか。
 主イエスは、ヘロデをパリサイ人と同列に置いている(マルコ8:15)。ルカ3:19〜20で聖書は、ヘロデのしたことを『悪事』と言う。加えてヘロデは、イエスにも興味を持ちながら、殺そうともしていたことが分かる(ルカ9:9、13:31)。それで主は、ヘロデのことを『あの狐』と言われた。聖書はヘロデを「神に敵対」と断定している(使徒4:26〜28)。このような人を「神に愛された人」と言えるだろうか。これは日本人のキリスト教(真の神)に対する態度にも共通しているように思う。日本国民は、クリスマス・チャペル結婚式・ゴスペル・十字架……が大好き(ファン)だ。しかし、その教えには心を閉ざす。敵対しているとも言える。そんな日本が「神に特別に愛されている」と言えるだろうか。勿論、神は全ての人を愛している。しかし、それは「救いたい」という意味であって、ある特定の人に対しては『忌わしい』と言われているように「救われてほしいと願われていても、神に喜ばれてはいない」状態が有り得るのだ。それがヘロデであり、日本だと言える。つまり、日本は「特別に」愛されているのではなく、「普通に」愛されているのだ。「救われよ」と。
 もし「神に特別に愛されたい」なら、エノクのように「神に喜ばれる人」になるべきだ。その為には、信仰が必要である。それも、ただ『神がおられる』と信じるだけでなく、『神を求める』信仰と、『神を求める者には報いて下さる』と信じることが必要なのだ(ヘブル11:6)。信じず、恐れ退くなら、彼を喜ばない、と神は言われる(ヘブル10:37〜39)。信じて命を保ち、神に喜ばれる者となろう。




<2015年1月1日元日礼拝メッセージ> イザヤ43:14〜21 




<2014年12月28日礼拝メッセージ> 「命を捨てても?」 マルコ8:34〜38 

 神は、私達が自分の意思で神に従うことを決定するようになることを望んでおられるのだから、その為には、自我は生きていなければならない。では、『自分を捨てる』とは何か。
 それが語られたきっかけは、ペテロが主をいさめたことである。彼は十字架(主イエスの使命)を理解していなかった。政治的な王となってほしかったのである。それで主はペテロに言われた。『神のことを思わないで人のことを思っている』と。勿論、この世のことを無視はできない。しかし、政治や社会制度を整えれば幸せになれる(命を守れる)と考えるなら、それは「神のこと(神の御心=人間の本当の幸せ=救い)を思っていない」ということだ。だから『命を守ろうと思う者は命を失う』というのは、すなわち、この世の力・お金・見栄や体裁によっては、真の命は守れないということなのだ。
 それゆえ主は言われた。『自分を捨ててついてこい』と。それは結局「自分の力で救われようとする自分を捨てなさい」ということ、「神の方法で救われる道を選び取れ」ということなのだ。要するに、これも「律法主義に対する批判」の一つである。
 そして『自分の十字架を負う』とは、「自分の使命の為に生きる」ということ、「どのような生き方で神の栄光を現わすか」ということ。主イエスの使命は、人間の身代わりに死ぬこと。その為に主は生き、そうして神の栄光を現わした、それが「十字架」だからである。
 そのように、『自分勝手に生きるのを捨てて、神の栄光を現わす生き方を選び取れ。そして、私についてこい』ということを主は言われたのだ。何故なら、全てを投げ打っても、命は買い戻せないからである。だから、本当に命を得たいと思うなら、御言葉を恥じるな(神の御心を喜べ)、神に従え、ということだ。
 どんなに頑張っても、聖人になどなれはしない。だから神が神の方法(十字架)で救いの道を開いて下さった。それが神の御心だ。主が言われたように、『姦淫と罪の時代にあって』 も私達は、神の御心と御言葉(キリストの純正の教え)を喜び、受取り、大切にしよう。そうして来たる新年も、主について行こう。




<2014年12月21日礼拝メッセージ> 「めぐみのクリスマス」 ルカ1:26〜38 

 未婚の女性が身ごもるという、当時としては、死刑にされてしまうほどのとんでもないことを、何故、マリヤは受け入れたのか。それは、天使が伝えた神からのメッセージによって「これは恵みだ」と信じたからだ。決して、自分で勝手に「恵み」と思い込んだのではない。自己暗示による現実逃避でもない。信じるに値する根拠があった。それが「神の言葉」だ。
 信仰と思い込み……これは微妙な問題であるが、先ず基本的に、神が下さるものは全て良いものだ。「不幸」は神が与えるのではない。
 理解が難しいのは、病気とか試練とかだ。「病も恵み」という考え方がある。確かに、『苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした』と詩篇119:71にあるし、『神は全てのことを働かせて益と変えて下さる』(ローマ8:28)とも教えられている。それは本当だ。
 しかし、『益に変わる』ということは、変わる前のそれ(例えば、病)は「益」ではないのだ。だからこそ『益に変わる』のであって、病自体は決して、嬉しいものではなく、善でもないのである。つまり、「病も恵み」なのではなく、「病さえも恵みに変わる」が正しいと言える。結果的には同じように思えても、厳密には全然違う。
 だから、マリヤに訪れた異常事態(身に覚えのない妊娠〜死刑)は、普通なら、恵みであるはずがない。それどころか、あってはならないこと、喜べるはずのないことなのだ。なのに、マリヤは、『この身になりますように』と受け入れた。それは「将来、益に変わるから」ではない。マリヤが受けたのは、病や苦しみなど(いつか恵みに変わるもの)ではなく、それ自体が「神の恵み」であるのだ。「それ」とは何か。「それ」は、それこそが「救い主の誕生」だ。
 救い主が来て下さったということが、どれほどの恵みであるか。そして、信じる者に与えられる恵みがどれほどであるか。聖書は、恵みについて『何の働きもない者に与えられるもの』と説明している。それは、この世では有り得ないことである。計り知れない神の恵みを喜び感謝しよう。そして、主イエスを信じて、主と共に生きるということが、人生の苦難を乗り越える為の「神の恵み」であると知ろう。





<2014年12月14日礼拝メッセージ> 「そんな時、どうする」 マルコ6:34〜44 

 主は弟子達に「あなた達が彼らに食べさせなさい」と言われた。弟子達は「私達がパンを買って来て……ということですか?」と問い返した。果たして、当時の『へんぴな所』で、1万人分以上ものパンを揃えるなどということが出来るのだろうか。そうでないなら、「奇蹟を起こせ(パンを増やせ)」ということか。主は何故、そんな無茶なことを言われるのか。
 現実に、パンは手に入らないだろう。そんなお金もない。人間にはどうしようもないのだ。そんな時、どうするべきか。それは勿論、主はご存知である。が、弟子達は反発した。
 私達クリスチャンは、自分ではどうにもならない時、どうするだろう。仮にも信仰者であるなら、祈るのではないか。いや、信仰のない人でも、そう(神頼み)する。ましてや、全能の神を信じているのなら祈るべきである。そう、弟子達がするべきことは、パンを買って来ることでも、奇跡を起こすことでもないし、そもそもそれは出来ないことだ。だから彼らは、祈るべきだったのである。「父よ、今日の糧を与えて下さい」と。それはすでに教えられていたことだ。「主の祈り」において。そして「荒野の誘惑」において、神の子の生き方は、石をパンに変えることではなく、「パンを与えて下さい」と父に願うことだ、と。
 根本的に、養って下さるのは神である。たとえ「これは自分で育てた野菜だ」と主張したとしても、究極的には、それも神の業があってこそである。だから、祈ってパンが増えるというわけではないにしても、祈るべきなのだ。何故なら、主が共にいて、祈りを聞いておられるからだ。そして、祈りに応えて助けてくれる。主の「無茶振り」は、そこに狙いがあった。弟子達がどうするかを主は試されたのだ。しかし、弟子達は「共におられる主に信頼すればいいんだ」ということを悟っていなかった。
 クリスマスを間近にした今、主は『インマヌエル(神は共にいる)と呼ばれる』お方であることを覚えよう。今日まで、主は共にいて助けて下さった。そして、これからも。この主に信頼しよう。




<2014年12月7日礼拝メッセージ> 「モテる者に!」 マルコ4:24〜25 

 「人に量ってあげるその量りで自分も量られる」という、その「量り」を、いわゆる「モノサシ」(自分の持っている価値観、尺度、基準)のことと考えると、おかしなことになる。何故なら『持っている者は更に与えられる』というのだから、例えば、パリサイ人なら、その律法主義的考え方に更に磨きがかかって人々を苦しめることになる。
 ルカ6:38でも「量り」が出て来るが、それは「どれくらい人に与えることが出来るか、という自分の心の許容量」を意味している。それに応じて自分も与えられる、ということだ。そうすると、マルコ4:24の「量り」は「どれくらい聞く耳を持っているか・御言葉を悟る心」のことだと分かる。その度合いによって恵みの量も変わるということだ。しかしながら、その「悟る心」が小さいことによって『さらにその上に増し加えられ』るとはどういうことか。
 「御言葉を悟らない」という「量り」は危険な量りだ。御言葉の誤解が全ての不幸の始まりなのだから。そんな「量り」で人を量ると何が増し加わるか。それは勿論、「不幸」が増し加わるのだ。御言葉の間違った解釈がクリスチャンを苦しめ、傷付ける。そんな教会はやがて滅びる。御言葉を悟る心の量りが小さいことは、恐ろしく不幸な結果を生み出してしまうのである。だから、それが『持たない人は、持っているものまでも取り上げられる』ということなのだ。私達は、御言葉を悟る心を豊かにしなければならない。その為に必要なことは「根を張る」ことだ。御言葉の種が心の中に根を張ることによって心が固まる。同時に、御言葉が心の中で生きる。その、心の中に生きている御言葉によって私達は生きる力を得るのだ。
 御言葉を悟る(御言葉に信頼を置いて従う)、それこそが恵みの源泉である。最大の恵みである「救い・天国」も、イエスは主と、ただ理解しただけでなく、御言葉に従って洗礼を受けることを実行したからであり、それが「悟る」ことなのだ。それが豊かであればあるほど恵みは増し加えられる。持っている人は更に与えられるのだ。ですから『聞いていることに注意しなさい』と主は言われた。聞いている御言葉を悟っているか、注意して、持てる者になろう。





<2014年11月30日礼拝メッセージ> 「へ? 理屈?」 マルコ2:1〜12 

 主が罪の赦しを宣言された時、律法学者達は『神のほか誰が罪を赦すことが出来ようか』と心の中で理屈を言った。「神にしか罪を赦すことは出来ない」という主張は正しい。だから、それをしているお方が神だと知るべきなのだが、彼らは「神でもないくせに」と言うのである。そのことを並行記事では『心の中で悪いことを考えている』とされている。決して「理屈をこねるな」ということではない。
 主は言われた。『……どちらがやさしいか』と。それは、どちらが簡単か、ということだが、人間にとっては「罪の赦しを宣言すること」のほうが簡単である。言うだけでいいからだ。誰も真偽を確かめることは出来ない。だから、中世において教会は、いとも簡単に何の恐れもなく、それ(免罪符)をやってのけた。それに比べれば「起きて歩け」とはおいそれとは言えない。言うだけでは済まないからだ。
 逆に、神にとっては「起きて歩け」のほうが簡単である。神は全能だからだ。 神にとっては、むしろ「罪の赦し」の方が大変である。何故なら、義なる神は罪を見過ごすことが出来ないからだ。パリサイ人がやってる程度の「行ない」では人間の罪は赦されない。完全(神と同じくらい)でなければならないのだ(マタイ5:20〜48参照)。
 唯一「神の恵みによる罪の赦し」だけが可能なのだが、それも神にとって簡単なことではなかった。それにはとてつもない犠牲(十字架)が払われた。御子を見殺しにしなければならなかったのだ。「罪の赦し」は、それ程までに大変なことなのだ。しかし『神には出来るということを知らせる為に』と主は、奇蹟をもって神の全能を示された。
 奇蹟は、御言葉が確かであることの証拠だ(マルコ16:20参照)。ということは、御言葉が確かだと信じたなら、そうなら、もはや奇蹟は必要ないということになる。勿論、奇蹟を拒否はしない。主は憐れみ深く、弱さに同情して下さるお方だ。しかし、決して「癒されたら信じる」という姿勢であってはならない。
 神には罪を赦す(人を救う)ことが出来る。それは聖書の教え(御言葉の約束)だ。『それを知らせる(分からせる)ために』と主は言われた。私達が分かるべきは「御言葉が確かだ」ということである。





<2014年11月23日礼拝メッセージ> 「本当にしたい事は…」 マルコ1:32〜38 

主が十字架で息を引き取られた時、様々な驚くべきことが起こった。特に『聖徒達の体が生き返った』というのは驚きだ。
 生き返った「聖徒」とは誰か。今なら、クリスチャンのことであるが、その当時においては、いわゆる「旧約時代の信仰者達」ということになる。代表的には、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ヨシュア、ダビデ……そんな歴代のヒーローが、というわけではないにしても、続々と死人が生き返ったのなら大騒ぎになるはずだ。が、そんな記録はない。彼らは『多くの人に現れた』のに、何故か。
 恐らく、人々は、それが生き返った人だとは思わなかったのだろう。「ラザロと金持ちのたとえ」で主が言われた通り、たとえ死人が生き返っても信じないのだ。事実、祭司長達も、兵士達から、イエスの復活の報告を受けた。そしてそれを認めた。だからこそ、誤魔化す為にデマを流したのだ。「イエスは復活した」からといって信仰には繋がらなかったのである。では「聖徒達の生き返り」には何の意味があるのか。死体が生き返ることにどんな必然性があるのか。クリスチャンは「生き返り」を求めるべきなのか。勿論、神には出来る。だが、必然が無い。何故なら、クリスチャンが死ねば、次は、栄光の体によみがえるからだ。そして、永遠の命を生きる。天に名が記されているのだ。それを何よりも喜べ、と主は言われた。
 永遠の命に入る、それを聖書は「脱出」(使徒2:40)、「贖いの完成」(ローマ8:23)だと言う。それを『うめきながら待ち望んでいる』、それがクリスチャンだ。その「待ち望んだもの」が、今まさに手に入るというその時に、生き返りを求めるなら、それは「永遠の命より、この世の命だ!」と言うことに等しい。勿論、生きている限りは、一日でも長く、喜びと楽しみの日々を送りたい。それが「神の賜物」であると伝道者の書に教えられている。しかし「その時」が来たら、それは「完成」の時、「やっと家に帰れる!」という「待ち望んだ」時なのだ。そう思えるかどうか、そこが信仰である。
 聖徒達が生き返った……それは、主が十字架で「罪から来る報酬・死」という問題を解決した、というしるし(永遠の命の象徴)である。





<2014年11月16日礼拝メッセージ> 「もう一度、〇〇たい?」 マタイ27:50〜54 

主が十字架で息を引き取られた時、様々な驚くべきことが起こった。特に『聖徒達の体が生き返った』というのは驚きだ。
 生き返った「聖徒」とは誰か。今なら、クリスチャンのことであるが、その当時においては、いわゆる「旧約時代の信仰者達」ということになる。代表的には、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ヨシュア、ダビデ……そんな歴代のヒーローが、というわけではないにしても、続々と死人が生き返ったのなら大騒ぎになるはずだ。が、そんな記録はない。彼らは『多くの人に現れた』のに、何故か。
 恐らく、人々は、それが生き返った人だとは思わなかったのだろう。「ラザロと金持ちのたとえ」で主が言われた通り、たとえ死人が生き返っても信じないのだ。事実、祭司長達も、兵士達から、イエスの復活の報告を受けた。そしてそれを認めた。だからこそ、誤魔化す為にデマを流したのだ。「イエスは復活した」からといって信仰には繋がらなかったのである。では「聖徒達の生き返り」には何の意味があるのか。死体が生き返ることにどんな必然性があるのか。クリスチャンは「生き返り」を求めるべきなのか。勿論、神には出来る。だが、必然が無い。何故なら、クリスチャンが死ねば、次は、栄光の体によみがえるからだ。そして、永遠の命を生きる。天に名が記されているのだ。それを何よりも喜べ、と主は言われた。
 永遠の命に入る、それを聖書は「脱出」(使徒2:40)、「贖いの完成」(ローマ8:23)だと言う。それを『うめきながら待ち望んでいる』、それがクリスチャンだ。その「待ち望んだもの」が、今まさに手に入るというその時に、生き返りを求めるなら、それは「永遠の命より、この世の命だ!」と言うことに等しい。勿論、生きている限りは、一日でも長く、喜びと楽しみの日々を送りたい。それが「神の賜物」であると伝道者の書に教えられている。しかし「その時」が来たら、それは「完成」の時、「やっと家に帰れる!」という「待ち望んだ」時なのだ。そう思えるかどうか、そこが信仰である。
 聖徒達が生き返った……それは、主が十字架で「罪から来る報酬・死」という問題を解決した、というしるし(永遠の命の象徴)である。





<2014年11月9日礼拝メッセージ> 「わざわざ罠」 マタイ26:47〜56 

 聖書の預言が成就すると(聖書は真実だということを)聞いて弟子達はみな逃げてしまった。真実だからといって、それを受け止めることは決して容易くはない。祭司長達もイエスを認めたくなかった。自分の目で奇跡を見、教えの素晴らしさに驚嘆していたにも関わらずだ。彼らは、イエスを『言葉の罠にかけ』『騙して』捕えようとした。しかし何故か、計画に反して、力づく(武力)で捕えた。さすがの主イエスも「それはおかしい」と言うかのように憤られた。更におかしいのは、そうまでして力づくで捕えたのにもかかわらず、彼らは依然としてイエスを言葉の罠にかけようとあがき、偽証を連ねるのである。が、主は、それらの偽証には一切反論しない。ただ、大祭司には返答をされた。それは、彼が自分でも知らずに、預言者として神の働きを進めていた(ヨハネ11:49〜52参照)からだ。それに対し、祭司長達の偽証に反論しなかったのは、彼らが自分でも知らずにサタンの働きを進めていたからである。その働きとは、イエスを罠にかけて殺す(つまり「不幸な犠牲者」に仕立て上げる)ことである。
 主イエスは、あくまでも自ら進んで全人類の罪を背負って十字架で命を犠牲とされたお方である。サタンは、そうさせたくなかった。十字架を「イエスの敗北」にしたかったのだ。その為に、祭司長達は「言葉の罠にかける」ことにこだわったのである。ゆえに、彼らの企みに乗らない為に主は黙されたのである。
 それでも群衆には言われた。『宮で教えていた時には私を捕えなかったではないか』と。いやそれどころか、喜んで教えを聞いていたではないか、ということだ。確かに彼らは、イエスをメシアとして「ホサナ」と叫び喜び迎えた。その「メシアに対する期待」は間違ったものではあったけれども、どうして「イエスはメシア」という信仰さえ失ってしまったのか。そこに主は憤慨しておられる。
 真理の御言葉から離れてはならない。私達は今、喜んで御言葉を聞いているからこそ、だ。世の終わり、人生の終わり(死)も、聖書の言葉通り、いつか必ず来る。御言葉が成就される時が来るのだ。その時に、弟子達のようにではなく、最後まで主と共にいる者であろう。





<2014年11月2日礼拝メッセージ> 「違いの分かる〇〇」 マタイ25:31〜46 

 主が栄光の座に着かれる時、羊と山羊とが分けられる。羊は御国を継ぎ、山羊は永遠の刑罰に入る。普通に考えて、永遠の刑罰(地獄)に入るのは、真の神を信じない人達である。しかし、その『永遠の刑罰に入る』と言われた人は『いつ私が主イエスを信じなかったというのですか?』(いやむしろ、熱心に主に仕えて来たつもりです)と主張するのだ。すると主は、『この最も小さい者達の一人にしなかったのは、私にしなかったのだ』と言われた。
 問題は「小さい者」とは誰か、だ。社会的弱者か。勿論、弱者に手を差し伸べることは立派なことだ。しかし、聖書が「小さい者」と呼ぶのは、まるで子供のように「父なる神に信頼し切る人」のことではないか(マタイ18:4〜6参照)。そして『これらの私の兄弟達』とも呼ばれているのだから、それは当然、御国を継ぐ「羊(クリスチャン)」のことなのだ。だから「神に信頼するクリスチャン」にしたことが、主イエスにしたこと、なのである。逆に言えば、主イエスに何もしなかった、と言われるのは、クリスチャンを苦しめた人のことだ。所が、彼ら(山羊)は、自身では、主に仕えたつもりなのである。マタイ24:45〜51にも似たような人が出て来る。任されたしもべ達に、きちんと食事を与えない(飢えてるのに、渇いてるのに、苦しめる)、悪いしもべ達だ。つまり、山羊とは、偽預言者、偽使徒、偽牧師達のことなのである。麦と毒麦が似てるように、羊と山羊も見た目では区別がつきにくい。だが、違うのである。
 本当の神の子は、互いに愛し合う、とヨハネの手紙は教える。それも、神の愛に応えて神を愛そうというのではなく、クリスチャンを愛そうというのだ。勿論、神を愛さないわけではない。それは第一の戒めだ。だからこそ、クリスチャンを愛そうと言う。何故なら、その小さい者にしたことは、主イエスにしたことだからだ。
 その愛し方、それは、一人一人が御言葉に従うことによってである。何故なら、聖書(律法)の究極の目標は(神への、そして隣人への)愛だからだ。だから、一人一人が御言葉に従う時、自ずと私達は、互いに愛し合っていることになるのであり、神の愛が全うされるのだ。





<2014年10月26日礼拝メッセージ> 「痛い話し」 マタイ24:15〜27 

 マタイ24章は、世の終わりについてだな、という印象を持つだろう。少なくとも私達は、携挙、再臨、新天新地……を夢物語のように考えてはならないし、むしろ、そこにこそ希望があると聖書は教える。
 だが『その日、悲惨なのは』と主は言われた。だから『冬や安息日にならぬよう祈れ』と。そうでないと困ったことになるからだ。最も困るのは、『その時、人々は、あなた方を苦しい目に会わせ、殺します』という言葉だ。私達はそれを経験しなければならないのだろうか。
 ルカの並行記事によれば、実はそれは、エルサレム滅亡(AD70に成就。143日間で60万人が殺された)についての預言であることが分かる。勿論、それを主が語られた時点では「未来のこと」であるが、それをあとで書き記した(マタイは、AD80後半に書いたと言われている)のであり、もはや過去のことであったのだ。だから誤解しないように、あえて「読者はよく読みとるように」と注意書きしているのだろう。
 いずれにしても、それで全てが納得がいく。例えば、何故、冬だと困るのか。それは、その地方は冬は雨季で谷を渡れないからだ。安息日は、エルサレムの門が閉ざされるので逃げられないからだ。一刻を争う緊急事態において、身重の女性や乳飲み子を抱えた女性は逃げ遅れてしまうので、悲惨なのだ。いずれも今の時代には当てはまらない。
 問題は『これらの苦難の日(注:エルサレム滅亡)に続いて』起こる「本当の世の終わり」(マタイ24:29〜)だ。その日がいつかは誰も知らないのだから、「分かった」と言うのは偽りだ。ただ、いつ来てもいいように備えておくことが大切なのだ。そのたとえ話として主は語られた(24:45〜51)。結論は、泣いて歯ぎしりするのは「(同じ主人に仕えている身内である)しもべ」だということ。それも「しもべ達の世話を任されたしもべ」なのだ。だから、そのような立場の者は、きちんと食事(純粋なバランスのとれた御言葉の糧)を与えなければならない。それによってクリスチャンの信仰が成長し、救いを完成させる為だ。たとえそれが「耳の痛い話」であっても語るべきことがある。何が本当の聖書の教えか……惑わされないように身を慎み、目を覚まして、悪魔のたくらみに対して立ち向かおう。





<2014年10月19日礼拝メッセージ> 「何をして欲しい?」 マタイ20:29〜34 

 ギリシャ語の「ソーゾー」は、「救われた」「癒された」どちらの意味でも使われる言葉である。さて、この盲人も「ソーゾー」されたのだが(マルコ10:52、ルカ18:42参照)、果たして、単に癒されただけか、それとも救われたのか。それは文脈から判断しなければならない。
 この盲人は、イエスに『憐れんで(ギリシャ語の「エレイソン」)下さい』と叫んだ。それに対して主は、可哀想に(スプランクニゾーマイ)と思われた。この言葉は、エレイソン以上の「身を切り刻むほどの痛切な憐れみ」とされる。果たして、何をそんなに? 盲人は世界で一番可哀想な人だということか。いや、マルコ6:34では「羊飼いのいない羊のようである人々」に対しても深く憐れまれた(スプランクニゾーマイ)とある。主の憐れみは、病気の度合いに応じて、ではなく、人々が霊的な命を持っていないことに対する憐れみなのだ。
 この盲人も、言わば、霊的に死にかけている人であるのだから、本来なら、真の神に求めるべきは、救い・永遠の命であろう。だが彼は、肉眼・視力(オフサルモイ)の癒ししか求めない。主は『何をして欲しいのか』と(盲人であると分かった上で)あえて尋ねたのに、目先のことを求めずにはいられない人間の弱さ(不幸)を憐れまれたのだ。
 勿論、誰でも、癒されたい、豊かになりたい、などと求める気持ちはある。しかし、それが最大の願いになりかねない、そんな弱さに打ち勝つためにも、信仰による救いが必要なのだ。
 だから主は、盲人の求め(オフサルモイが開かれること)以上に、目(オマトン)に触れて、心の目を開かせ、救いへと導かれた。ただし『あなたの信仰があなたを救った』と言われた通り、盲人にも信仰があったのは間違いない。それは、「肉眼を開かせることの出来るお方、救い主、キリスト、ダビデの子」という信仰だ。
 私達も本当なら、初めから、神の国とその義を、神の栄光を、第一に求めるべきだ。しかし、自分の祝福を求めないではいられない「弱さ」を、主は憐れんで下さった……それが、今私達が救われている、ということではないだろうか。憐れみ深い主に感謝しよう。そして、更に心の目が大きく開かれて、神の栄光を求める者となろう。





<2014年10月12日礼拝メッセージ> 「えっ、金持ちが?!」 マタイ19:13〜26 

 ある一人の金持ちの青年の質問に対して、主は『持物を売り払って貧しい人に施せ』と言われた。そうでないと命には入れない、と。それを聞いた青年は悲しんで去って行った。それで主は言われた。『金持ちが天国に入るのは難しい』と。では、私達も貧しくなるべきだろうか。貧しいことと豊かなこと、どちらが神の祝福なのか。当時の人々は(現代の人々も)、金持ちは神に祝福された人だと考えた。それで、その金持ちが救われないなら一体誰が? と非常に驚いたのである。
 そもそも主は『子供のようにならなければ天国には入れない』と、神に委ね切ることを教えられたのに、この青年には行ないを要求したのは何故か。それは彼が「良いことをしなければ天国には入れない」と考えていたからだ。つまり「行ないによる救い・律法主義」を追及していたのである。その方式を採るなら、戒めを完全に守るしかない。そして彼は、自分は完全に守っていると思っていた。だから主は言われたのだ。『もし完全になりたいのなら、持物を……』と。
 私達は、自分の行ないの正しさによって救われようなどとは思っていない。それどころか、自分は罪人であり、神の憐れみにすがって十字架の恵みによって救いを受け取る者である。だから、持物を売り払うことは、私達に要求されているのではないのである。あくまでも「もし、完全になりたいなら(行ないの正しさによって救われようと思うなら)ここまでやるしかない」ということなのであり、律法主義を否定する為に語られているのである。それは、マタイ5:20〜48と同じだ。やはり主の教えは、信仰によって(神の恵みによって)子供のように委ねて救われよ、ということである。神の祝福(承認を得る)とは、「貧しくあること」でもないし、必ずしも「富むこと」というわけでもないのだ。
 では「神の祝福」とは何か。弟子達も、そんな気持ちで『誰が救われるのですか』と尋ねた。主が言われたのは、それ(完全になること、行ないによって救われること)は人には出来ない。しかし、不完全な者を救うことが神には出来る、ということだ。その神に信頼して委ねる者の為の国、それが神の国だと主は言われた。私達は、今一度、子供のように主の御言葉に信頼し委ねる者となろう。





<2014年10月5日礼拝メッセージ> 「完全な子供に!」 マタイ18:1〜4 

 天国では誰が一番偉いのか、という弟子達の質問に、主は『自分を低くする者』と答えられた。それも『子供のように』だ。何故なら『子供のようにならなければ、天国に入れないから』だという。ということは、天国に入れた人はみな偉いということだ。弟子達はさぞガッカリしただろう。みな「自分こそ」と思っていたから。
 さて問題は「何を」「どう」子供のようになれと言うのかだ。それは「自分を」子供のように「低く」するということであるが、それを「へりくだり」「謙遜」と理解するべきではない。その点においては、子供は模範にならないからである。
 子供の何が模範となるのか。それは、小さな子供は親に完全に委ね切っている、というところである。自分が生きる為に必要な事々も何もかも、親任せで、何も心配していない。ゆえに平安。それと同じように、父なる神に信頼せよ、ということであり、それが本当の神の子供なのだ。そうでなければ、決して天国に入れない。たとえば、『天に住まいを用意する』という主の言葉、『十字架によって全ての罪は赦される』という聖書の教えに、もし信頼しないなら、どうして天国に入れるだろうか。その点においては、小さな子供のように、全く父なる神に信頼し委ね任せ切らなければならない。そうでなければ決して天国に入れないのだ。
 そういうわけだから、全てを神に委ねよう、とは言わない。それは聞こえはいいが、偽りだ。聖書は私達人間が自分でなすべき責任があることを教えている。神に委ねるべきは、自分の力ではどうにもならない事(命や、家族の救いなど)である。勿論、出来る事(健康管理、伝道、祈り)は全力を尽くすべきである。しかし、全力を尽くした後、その結果がどうなるかは、手の届かない領域であり、委ねるしかないのである。が、それが難しい。どうしても、自分の願い通りの結果を求める。それが人間だ。だから、そこで、子供のようにならなければならないのである。神は最善をなして下さると信頼して委ねよ、ということだ。それでこそ、完全な神の子供であり、その人が天国に入れる「偉い人」なのだ。





<2014年9月28日礼拝メッセージ> 「立派な見直し」 マタイ15:21〜28 

 良く言われるように、「娘の癒しを求めるカナン人の女性に対する主イエスの態度は冷たい」と感じざるを得ない。そして最後には、女性に対して『ああ、あなたの信仰は立派です』と言われた。ということは、やはり、間違っていたのは主イエスの方だということか。いやそこには思惑があるはずだ。改めて見直そう。
 確かに、子供達のパンを取り上げるのは良くない。救いはまずイスラエルからだ。だがしかし、異邦人を救ったからといって、イスラエルの救いが無くなるのだろうか? 無限の神は、実際のパンだけでなく、命のパンを幾らでも与えることが出来る。だから、主は(『イスラエルにしか遣わされていない』と言いながら)サマリヤの女性にも救いの導きをなされた。そのように、異邦人を救うことはイスラエルから救いを取り上げることではないのだ。勿論、順序的にはイスラエルから、ということではあるが、しかし神の目的は、イスラエルから始まった救いが全世界に及ぶことなのだ。その神の御心を悟ることが大事なのであって、戒めに縛られて御心を見失うのは愚かなことだと、主は数々のたとえによって教えられて来た。このカナン人の女性は、そこに気付いた(のか、どうか……無意識にかもしれないが)。そして、その主の御心にすがったのだ。そのような信仰を『立派だ』と主は言われた。それこそ主が、群集に悟らせたかったことだからだ。
 もう一人、百人隊長も、主から信仰を称賛された(マタイ8:5〜13)。兵士として、上官の権威を良く知っていたゆえ、神の言葉の権威を堅く信じたからだ。比べれば、カナン人の女性は、ごく普通の人、一般人、しかも異邦人だ。何の働きも無かったのではないだろうか。しかし、それでも、その信仰を『立派』と称賛された。だから、私達も「立派な信仰者」になれる。厳しい修業をしなくても、大きな働きをしなくても、有名にならなくても、ただ、神の御心は生かすこと、救うこと(律法は縛る為ではない、戒めを守る為に生かされているのではないの)だということを知る、それが「立派な信仰」なのだ。私達は、御心を理解し、信じて主の憐れみにすがろう。そして、そのような信仰が自らの内に常にあるかどうかを、見直しつつ歩もう。





<2014年9月21日礼拝メッセージ> 「良くきく、いい伝え」 マタイ15:10〜20 

 手を洗わないでパンを食べるのは違反である、と律法学者達が言うので、主は群衆を呼び寄せ(それまでは「聞いても分からないように」と、たとえで話されていたのに)、『聞いて悟れ』と言って「口に入る物は人を汚さない。口から出るものが人を汚す」と話された。それほどに悟ってほしかったことなのだ。 確かに律法は「汚れを避けるように」と教えているが、「パンを食べる前に手を洗え」というのは、人間の考えで、あとから付け足された掟(言い伝え)に過ぎない(衛生上は良いことだが、神が決めた宗教上の律法ではない)。だからもし本当に、律法に従って汚れを避けようというのなら、口から出るもの(悪い思い、罪など)を取り除くべきではないか、というのが主の主張である。要は、律法の目的は何か、ということだ。形式的に掟を守ることよりも、律法の本当の目的を知って、それを行なうことが重要なのである。それは主が常に律法学者達と論争していたことである。安息日に人を救って何が悪いのか、という風に。 主が言われた通り、聖書の教えは、縛る為ではなく、生かす為である(律法は、罪を自覚させ、キリストの救いに導く為)。それは新約聖書も同じだ。例えば「主の祈り」。それは「唱えなければ……」というような掟ではない。その祈りを通して「日ごとの糧を与えて下さる」主への信頼を養うことが目的なのだ。そのように、キリスト教は、教えを守ることを目指すのではないのである。主は、そのようなことを悟らせたかったのだ。その為に、群衆を呼び寄せて言われたのだ。 ローマ13:9に『どんな戒めも、隣人を自分のように愛せよという言葉の中に要約されている』とある。つまり、殺すな、盗むな……それらは、要は「隣人を愛せよ」ということである。偶像を拝むな、神を試すな……それらも要は「神を愛せよ」ということである。律法の目的は、愛なのだ。ゆえに『愛を追い求めなさい』(Tコリント14:1)と聖書は言うのである。
 神は私達を教えで縛る為に召し出されたのではない。神を愛し人を愛し幸せになる為に、教えが与えられているのだ。その伝えられた教え(聖書)は、愛と幸せに良く効く「いい伝え」なのだ。





<2014年9月14日礼拝メッセージ> 「恐ろしい歯ぎしり」 マタイ13:34〜43 

 「種蒔きのたとえ」に続いて「天の御国のたとえ」まで、群衆はおろか弟子達にも理解出来なかった。そこで主は再び解説をされたのだが、基本的に、解説というものは、分かり切ったことは言わない。聞く者が理解していない(あるいは誤解している)部分を説き解すのだ。
 さて、ポイントは『火の燃える炉に投げ入れられて泣いて歯ぎしりする』のは誰か、だ。勿論、真の神を信じない者は、そうなるのだろう。だが、ここでは、未信者のことを言ってるのではない。『御国から』とあるように、クリスチャンの中から『つまづきを与える者(注:クリスチャンをつまづかせるのは、実に、クリスチャンである)、不法を行なう者』を取り集めて火に投げ入れるのだ。49節にも『正しい者の中から悪い者をえり分け』とある通りだ。実に『泣いて歯ぎしりする』のは、クリスチャンの中のある人々、なのである。
 私達は、「クリスチャンである」ということに安心し切ることは出来ない。救いを疑えということではない。主イエスを信じた者はすでに救われている。ただ、「クリスチャン」だからと言って全てが正しいというわけではないのだ。酷い場合には、「神がいるかどうかは分かりません」と言う牧師もいる。偽教師、偽預言者、偽使徒がウヨウヨしているのだ。それが畑の中に蒔かれた「毒麦」である。
 その毒麦を「育つままにしておけ」というのだが、何故、悪を放置するのか、という疑問もあるかもしれない。『間違って麦も一緒に刈るといけない』と言うが、神なら正しく判断(見分けが)出来るだろう。何故、悪を放置するのか。実は、これはカルト化が大問題となっている現代の教会への神の憐れみである。と言うのは、もし今、神がご覧になれば、「毒麦」と判断される教会があるとしても、後には、正しい道に戻るかもしれないのだ。だから、最後まで主は待つのだ。ただし、最後の時に『地上に信仰が見られるだろうか』(ルカ18:8)と主は危惧しておられるのだが。
 だから大切なのは、そんな、どっちに転ぶか分からないような危ない信仰に立つのではなく、今の内から教えの純粋性を守ることだ。そうすれば、『御国で太陽のように輝く』のだ。





<2014年9月7日礼拝メッセージ> 「ナンの事?」 マタイ13:1〜9 

 良く知られた「種まきのたとえ」である。が、これは実は理解が難しい。何故なら、この「たとえ話」は、聞いてる人に分からせない為に語られたものだからだ。その上、神の国の奥義を知ることが許されている弟子達にも分からなかったのである。で、主は解説なされたが、果たして「良い地」とは何か。分かっているのは、「道端のような心」や「岩地のような心」「茨のような心」ではいけない、ということだ。だから「聞いた御言葉をサタンに奪われないように、しっかり握ろう」「かたくなな心を捨ててへりくだろう」「心の中の小石や雑草を取り除こう」という風に教えられる。勿論、それらは良いことだ。しかし、そうすれば「良い地」というわけではないのである。主は言われた。『御言葉を聞いて悟る人』、それが「良い地」だ、と。
 大切なのは「悟る」こと(ギリシャ語のスィニーミ)だ。弟子達にはそれが許されていたはずなのに(だから更に与えられて豊かになるはずなのに)、「信仰が薄い」「足りない」と主から叱られた。主が何度も嵐を静められたことからも、パンの奇跡からも『悟る所がなかった』のである。そしてついに、あきれ果てたかのように主が教えて下さったことによって、ようやく弟子達は『悟った』(マタイ16:12)。マタイ17:13では、『ヨハネのことを言われたのだと気付いた(スィニーミ)』。つまり「悟る」とはどういうことか、それは「主が言ってるのは何のことか(御言葉は本当は何を教えているのか)に気付くこと」なのだ。例えば、『右を打たれたら左も……』という教え。これは、律法主義を否定する為の教えであって、そんなことをクリスチャンに要求しているのではない、ということ。そういうことを悟らなければならないのである。それを悟らないから、実を結ばないのだ。
 少なくとも、聖書は、錬金術のようなこと(金持ちになれる、とか)を教える本ではない。聖書は、永遠の命への道を教える本である。神は信じる者にそれを約束している。だから「恐れるな」「神に信頼せよ」「いつも共にいて助け守る」と約束しているのだ。
 神が何をおっしゃっているかを悟る、それが「良い地」であり、そうすれば豊かに御霊の実(愛・喜び・平安……)を結ぶ。





<2014年8月31日礼拝メッセージ> 「恐れは消える」 マタイ8:23〜27 

 嵐を恐がる弟子達に、主は「信仰の薄い者達」と叱り、嵐を静められた。マタイ6:30でも、主は「信仰の薄い人達」と弟子達に語られた。恐れ、不安から解放される為には、薄い信仰ではダメなのだ。ただ、「信仰が薄い」(オリゴピストス)というギリシャ語は、特殊な言葉で、一般的なギリシャ語には使われない言葉だそうである。聖書とキリスト教文献にだけ使われているのだ。その聖書の中でも、この言葉は、弟子達に対してだけ使われている。群衆に対して使われるのは「不信仰」(アピストス、又は、アピスティア)だ。その理由は、マタイ13:10〜13にあると思われる。弟子達には(群衆とは違って)神の国の奥義を知ることが許されていて、それゆえに更に与えられ豊かになるはずなのに、信仰が薄い(足りない=オリゴピスティア)のはどうしたことか、というわけだ。エマオの途上で主が言われたように、弟子達は、預言者達の言葉の全てをではなく、一部分しか信じていなかった。「信じていたこと」の数が少ないのである。
 信仰は、ある意味「増やす」ものなのだ。弟子達は主に、それを求めた(ルカ17:5参照)。その言葉は「プロスティセミ」(「重ねる」等の意)であり、最も有力な意味は「付け加える」である。
 弟子達は何を信じていたのか。彼らは、「主よ、助けて下さい」と叫んだ。イエスは主、助けることが出来るお方、と信じていたのだ。しかし、その信仰だけでは足りなかった。その上に更に付け足して、重ねなければならないのだ。「神が共にいる」という信仰を。そして「神が共にいるなら大丈夫だ」という信仰を。事実、主は、同じ船に、共におられた。そして、嵐などものともせず、眠っておられた。「それほどの全能の神が共にいるから大丈夫」という信仰が足りないのだ。
 今、目に見えない神を信じている私達には、見ていた弟子達以上に、この信仰が必要だ。その為に御言葉の約束を握ろう。主は世の終わりまでいつも共にいて下さる(インマヌエルなる)お方だ。それがキリストであるとイザヤは預言した。その上に更に、「主は憐れみ深いお方だ」という信仰も付け加えよう。そのように「主はどのようなお方か」を沢山知ることが、信仰を増し加えることになるのだ。そうすれば、恐れは消える。




<2014年8月24日礼拝メッセージ> 「大ドンデン返し」 マタイ5:48 

 神と同じくらい完全になれ、と主は言われた。その為には、「右を打たれたら左も出さなければならない」し、「敵を愛し迫害する者のために祈らなければ」ならない。これは時にクリスチャンを苦しめ、未信者をつまずかせる教えだ。そもそも人間が神と同じになれるわけがない。では何故、そんな無茶なことをやれと主は言われるのか。一つの解説として、「『完全でありなさい』のギリシャ語は未来形であるから、将来の約束として受け取ればいいのだ」というものがある。確かに、将来、天国に入った時には、私達は、体も贖われ、もはや何の罪もない、完全な者に変えられる。素晴らしいことだ。しかし、それでは遅い。何故なら、天国には「右の頬を打つ」者はもはや存在しないからだ。迫害する者の為に祈れるのは、地上に居る間だけなのだ。そして、地上に居る間(罪の性質・肉を持つ身である間)は、不完全であり、だからこそ、パウロは、『うめきながら体の贖われるのを待ち望んでいる』と言うのであって、これはどう考えても根本的に無理のある教えなのだ。が、解決はある。肝心なのは20節『律法学者達の義に優る義でなければ決して天国には入れない』だ。どんな義かと言えば、「右を……」であり、「敵を……」であるわけだが、それらを全てまとめて言えば、『神のように完全になれ』となる。つまり主が言われたのは、「律法学者達のように、行ないによって救われようとするのなら、律法学者達程度の行ないでは、足りない。甘い。もっと上だ」ということなのである。それぐらい(つまり、神と同じくらい完全になって)こそ、初めて、行ないによる義が達成されるということだ。そして、そんなことは無理に決まっている。主もそれは分かっておられた。だから十字架にかかり、信仰による救いの道を開いて下さったのだ。要するに、ここでの「無理難題」と思える教えは、実は、律法主義を否定する為のものであって、クリスチャンにそれを要求しているのではないのである。「主のくびきは軽く、心地良い」のだ。
 とは言え、それらの教えを無視するべきではなく、むしろ少しでも聖められることを求めるべきである。しかし、それらは決して必須の課題ではない。大切なのは、不完全な者を救って下さる神の恵みだ。





<2014年8月17日礼拝メッセージ> 「頼れば知る権威」 使徒19:11〜20 

 主の言葉が『驚くほど』『力強く』広まった要因として、3つの出来事(パウロによる驚くべき奇蹟、パウロを真似て返り討ちにあった祈祷師、それらを見て恐れ魔術を捨てた人々)が記されていて、そこには共通点がある。それは「神の権威」である。
 まず、パウロの身につけていた手ぬぐいや前掛けを病人に当てると癒された、という「驚くべき奇跡」だが、勿論、それは事実だ。しかし、だからと言って、それはいつの時代の誰にでも、というわけではない。例えば、アブラハムは「イサクを殺しても帰って来る」と信じた。事実、イサクは帰って来た。しかし今、誰が、そう信じて長男を殺すだろうか。モーセが紅海を割ったこと、ペテロが水の上を歩いたこと、マリヤが処女懐妊したこと等もしかりだ。それらは全て、「その時、神が、直接その人にだけ与えた導き」であって、それは決して「全ての人に当てはまる普遍的な教理」ではない。そもそも、癒しは人間の努力、願い、信仰深さなどによるのではないことは明らか(使徒3:12、ローマ9:16参照)だし、パウロが手拭いに祈りを込めた、とも聖書は言っていないのである。従って、「クリスチャンは皆、ハンカチに祈りを込めるように」という教えは聖書には無い。あくまでも「神が――パウロの身に付けていた物を使って――奇跡を行なわれた」のであって、主権は神にある。そう、神(主の御名)には権威があるのだ。次に、その「権威」を真似た祈祷師だが、彼らは「主の御名」を使う権威を持っていないので、悪霊に返り討ちにあった。ここでもポイントは「神の権威」だ。そして、それらを見た人々は「神の権威」を恐れた。こうして、主の御名は驚くほど広がったのである。
 そこでもし、私達が「神の権威」を人々に示すことが出来るなら、日本でも「主の言葉が広まる」ことを期待することが出来るのではないか。それは勿論『人間の願いや努力』というやり方にはよらない。「聖書の教えを実践し、その真実を体験する」という方法、すなわち『私の言葉にとどまれ』と主が言われた通り、「神の方法」によるのだ。私達は、身近な問題の一つ一つを主に頼って(主の力で)解決して頂こう。そうすれば人々は、神の権威を知り、驚くだろう。





<2014年8月10日礼拝メッセージ> 「掟破りの神のわざ」 ヨハネ9:1〜7 

 当時、病気は罪のせい、と考えられていた。それで、『この人が生まれつき盲目なのは誰が罪を犯したからですか』という質問が出たのである。しかし主は、『この人ではなく、両親でもない』と言われ、そのような考え方を否定なされた。
 問題は、続けて言われた『神のわざがこの人に現れる為だ』という言葉である。どういうことか。神が、この人を盲目にしたのか。いや、そんなはずがない。理解のポイントは、「神のわざ」とは何か、だ。
 主は、その後、その「わざ」(地面につばきをし、泥を作り、盲人の目に塗り……癒した)をなされたのだが、その日は安息日であった。実は、安息日につばきをすることは禁止されていた。つばきによって土が動く、それはすなわち耕したことだ、労働だ、というのである。全く、バカバカしいとしか言いようがない。ただし、それは神が決めたのではなく、人間の考えで付け足された掟なのだが。
 主は、そのような「人間の掟」を破って、人間の教えの愚かさを示された。加えて、それによって「神のわざ」を現わされた。つまり、人々が集まるシロアムの池で、盲人の目が開かれることによって、それはイザヤの預言の通り「メシアが来た」のだということを現わしているのである。その為に、あえて泥を作り、盲人の目に塗られたのだ。
 救い主の到来(十字架と復活、天国)、それこそが、まさに「神のわざ」である。それを『昼の間に行わなければ』と主は言われた。『誰も働くことの出来ない夜が来る』と。それは、要するに、福音(神のわざ=十字架と復活、天国)を伝えること、伝道のことである。救いの時は、この世が存在する間(人が生きている間)しかないのだ。だから、生きている内に信じなければならないのである。そして私達は、今の内に福音を伝えよう。やがて夜(暗黒の時代)が来る、そんな気配だ。エペソ5:16にも『機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです』と言われている。
 主が地上におられる間、主は世の光だった。しかし今は、『あなた方は世の光です』と主が言われたように、私達クリスチャンが輝くべき時である。そして「神のわざ」が現わされることを求めよう。





<2014年8月3日礼拝メッセージ> 「と、とどけ幸せ!」 ローマ3:23〜24 

 全ての人は罪を犯した、と聖書は言う。人の前になら、「私には罪は無い」と言える人がいるかもしれない。しかし、神の前にそんな主張が出来る人はいない。それが「原罪」(アダムとエバ以降、全ての人は神に背中を向けて生きている、ということ)だ。
 そのせいで『神の栄誉を受けられない』のだ、と聖書は言う。別訳に『神の栄光に達しない』とあるように、届かないのだ。求める「幸せ」に。神の用意しておられる栄光ある姿に。
 さて、罪とは何か。多くの場合、聖書の教えは誤解されている。罪もしかり。どうしても、罪と聞くと、何か悪いことをした、とイメージされるのではないだろうか。勿論、それも罪だが、本質的には罪とはそういうことではない。
 Tコリント10:23では、『何をしてもいい』と教えられている。ただし、全てが有益とは限らない(有害なものもある)が。
 さて、何をしてもいいとはいえ、信仰は捨てられない。『主の杯を飲んだうえ、さらに、悪霊の杯を飲むことは出来ない』(同21節)のだ。つまり、「何をしてもいいけど、出来ないことがある」ということだ。逆に、「出来るけど、してはいけない」こともある。真の神を無視して自分勝手に生きることがそれだ。多くの人は容易にそれをしている。しかし、それはしてはいけないことである。すなわち、「主イエスを信じなさい。そうすれば赦される」と悔い改めに導く聖霊に逆らう罪は決して赦されない(マタイ12:31〜32)のだ。主イエスを信じるなら、どんな罪も赦されるが、それを拒む(聖霊に逆らう)のだから、何一つ赦されはしない。地獄に落ちるしかない。
 結局、「こんな事をしたら地獄だ。決して赦されない」というような罪は無い、のである。主イエスを信じるなら、どんな罪でも赦される。『キリスト・イエスの贖いのゆえに、値なしに義と認められる』のである。そして、それは『ただ、神の恵み』による。神は、その恵みと栄光の中に私達を導く。御言葉と御霊によってだ。それに逆らうことは出来るだろう。しかし、それはしてはいけない。私達は、主に従って、神の栄誉に届く(恵みを受け取る)者となろう。





<2014年7月27日礼拝メッセージ> 「万病のもと、ひえ〜!」 ローマ5:1〜5 

 失望に終ることがない、と聖書の言うその「希望」を生み出すのは、練られた品性であり、それは忍耐によって生み出され、それは患難によって生み出されるという。では、患難を生み出すものは何か。何が患難の元(その一番の始まり)か、それが問題だ。
 何事にも、始まり(事の起こり)、原因というものがある。例えば、風邪。体を冷やしたせいで、免疫力が落ち、ウイルスに対する抵抗力が弱くなり、感染してしまう。つまり、原因は「冷え」だ。よく言われるように、「冷えは万病の元」なのだ。そして原因が分かれば、予防も解決も可能となる。そう、体を温めればいい。
 しかし人生には病気以外にも様々な問題がある。悩み、不安、恐れ、極めつけは死だ。それらは命にかかわる大問題であり、なんとか解決したいと誰しもが願っているはずだ。その為には、それらにも当然あるはずの原因(そもそもの始まり)を知らなければならない。そのことについて聖書は、初めの人間であるアダムが神に背いたことが始まりであるという(ローマ5:12参照)。それまでは、エデンの園で神の愛に包まれ温かく守られていた。しかし、罪(神との断絶)によって、言わば、心が冷えてしまったのである。やはり「冷えは万病の元」と言えるだろう。とにかく、神に背く「罪」、これが全ての問題の根本的原因である。そこで、自ずと対策は浮かび上がる。神との断絶で心が冷えたのなら、神の愛で心を温めればいい。神との関係を回復させるのだ。神との平和、それが希望への始まりである。
 ただ、体を温めたからといって、この世からウイルスがなくなるわけではないのと同じように、神の愛で心を温めても、問題というウイルスは入って来るかも知れない。しかし、心を温めれば抵抗力がつく。つまり、患難が来ても、忍耐(抵抗力)が発揮されるのだ。そして、練られた品性を生じさせ、希望を生じさせる。その希望は失望に終ることがない。何故なら、聖霊によって神の愛が心に注がれているからだ、と御言葉は続く。神の愛が注がれる限り、希望は失望には終わらないのだ。そして聖霊は、私達を神の愛の中へと導く。今、心を開いて、聖霊に導かれて、心に神の愛を更に豊かに注がれるよう求めよう。





<2014年7月20日礼拝メッセージ> 「さ が す 愛」 使徒13:16〜23 

 「救い主はダビデの子孫から出る」というのだから、ダビデは神の「救いの計画」に欠かせない。しかし神は、その『ダビデを見い出した』という。なんと、神は、「計画」を実行する為に必要な人材(忠実な信仰者)を「捜して」、そして見つけたというのだ。見つけた時、神は、さぞかし喜ばれたろう。主のたとえ話(ルカ15章)で言われている通り、神は「捜すお方」なのだ。それも、見つかるまで。
 だが問題は、「見つかるのか?」ということだ。そして神は、世の終わりの時には、地上に信仰者を「見つけられないかも……」と思っておられる(ルカ18:8)。
 確かに今の時代、パウロもペテロもいない。聖人・偉人と言われる様な信仰者はいないかもしれない。しかし、神は、そのような(ある意味特殊な)信仰者を捜してはいない。主が捜しておられる「信仰」は、原文では「冠詞付きのピスティス」、英語では、the faith 、つまり、「イエスは主、真の神、救い主」という根本的な、これぞ信仰、という信仰なのだ。その信仰が終わりの時に「見つかるだろうか」と危惧しておられるのである(マタイ7:21〜23参照)。要するに、主が捜しているのは、本物の信仰者だということだ。世の終わりには、偽預言者、偽りの教えがはびこる。だからこそ主は、本物の信仰者を捜すのだ。勿論、見つからないなら「石ころから造る」ということもできる(ルカ3:8)。が、主は捜す。何故なら、見つからないと悲しいからだ。例えば、子供を捜して見つからないから、次を作るか、では済まないのと同じだ。見つかるまで捜す、それが愛なのだ。
 ダビデの時は、見つかったから良かった。しかし、ソドムとゴモラの時は見つからなかった。その時、神はさぞ悲しまれたろう。そして次に主が来られた時に、地上に本物の信仰が見られなかったら、主はどれほど悲しまれるだろう。私達は、主を悲しませることのないように、見つけて頂ける者となりたい。その為に、『純粋で混じり気のない御言葉』を慕い求めよう。『それによって成長し、救いを得る』為だ。教えの風に流されてはならない。ユダ20〜21にある通り、聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、主の憐れみを待ち望もう。





<2014年7月13日礼拝メッセージ> 「○○な人への福音」 マルコ1:38〜42 

 神であるお方が、「福音を知らせる為に」わざわざ人となって来て下さった。が、それにしては、あまり歓迎されなかった。ヨハネ1:11にある通りだ。
 例えば、花粉症の特効薬の開発は、それで悩む人には福音だが、そうでない人には何も「良い知らせ」ではない。どうでもいい情報に過ぎないのだ。同じように、「自分で生きて行ける」「救いなど必要ない」という人には、罪の赦し・救いを伝える「福音」も無用なものとなってしまう。しかし、救いを求める人・神を必要とする人には、まさしく福音である。
 さて、主は、深く憐れんで、病人を癒された。創世記19章では主は、ためらっていたロト達の手をつかんで救い出された。それは『主の憐れみによる』と記されている。救いも癒しも、主の憐れみの故であって、決して、人間の願いや努力によるのではない。
 だからと言って、「憐れんで下さい」という願い(祈り)が無用ということではない。しかし、「求める」という行為に対して必ず報いがあると考えるならば、それは「報酬」であり、恵みではなくなってしまう。あくまでも、神が「憐れもう」と思って下さるならば、ということであり、主体は神であるのだ。
 では神は、誰を憐れまれるのか。それは、「神を恐れ、主の御名を尊び、忠実に仕える者」をだ(詩篇103:13、マラキ3:16〜17)。
 その点、律法学者・パリサイ人達は、自らを「義なる者」と考えていた。それは、言いかえれば「自分には神の憐れみなど無用だ」ということなのである。そこに神への恐れはない。
 神の憐れみを必要としない人には、せっかく主が知らせて下さった「福音(=神の憐れみによる、救いと解放と癒しの知らせ)」も単なる情報に過ぎなくなってしまう。しかし、「私は神の憐れみがなくては生きて行けない弱く小さな者です」と、へりくだり、神を恐れる人にとっては、「福音」は、救いと癒しと解放をもたらす、まさに「良い知らせ」となるのだ。
 私達は神の憐れみを必要とする者として、へりくだって、求めよう。





<2014年7月6日礼拝メッセージ> 「とまれとどまれ」 マタイ26:20〜28 

 ユダは「裏切り者」と呼ばれるが、「神の御心の理解者」という評価もある。確かに、十字架を妨げるのはサタンの働きだ(マタイ16:21〜23参照)。その点、ユダは(御心が成るように)十字架を推進したと言えるかもしれない。しかし主は、そのユダの行為を『裏切り』と言う。そして、『そんな人は生まれなかった方が良かった』と。
 とは言え、主はユダをやっつけようなどとはなさらず、ユダに悔い改めのチャンスを与えられた。それが、『あなた方の内の一人が私を裏切る』と語られたことに現れている。それを聞いて弟子達は「もしや自分では?」と焦ったが、その時点では、誰が裏切り者なのかは弟子達には分からない。ただ、ユダにだけは(裏切る本人であるがゆえに)分かった。つまり、主は、ユダにだけ分かるように巧みに語りかけられたのだ。「そのまま行けば滅びだ、今気付け、止まれ、私にとどまれ」とのメッセージだったのである。
 主を裏切ったまま(主の元に戻らず)滅びてゆく人が、どれほど不幸な結末を迎えるか(地獄、その悲惨さ)、それは、苦しみのあまり、死にたいと思っても死ねず、「こんなことなら、いっそ、生れなかった方が良かった」と嘆く程に苦しみが永遠に続くのだ。そこには、もはや救いが無い。主は、何としてでも人間を救いたいのに、そうなってしまったら、もう救ってあげられないのだ。だから、主の言葉は、「そんなことになるぐらいなら、その人は、生れなかった方が、その人の為には、むしろ良かっただろう」という憐れみであり、愛なのだ。
 決して、「ユダなんか生れなかったら良かったのに。あんな奴!」というような恨み節ではない。ユダも救われるべき魂だった。神の愛からこぼれてはいなかった。主はユダも救いたかった。その為に手を差し伸べられた。ユダは裏切り者であり続けることも、悔い改めることも、自分で選ぶことができた。けれども結局、戻って来なかった。
 そんなことにならないように、私から離れるな、と主は言われるのだ。生れなかった方が良かった、というような結末は悲し過ぎる。だから、生まれたからには救われなければならないのだ。そして、生きている限り、救いの道は開かれている。そのことを覚えよう。





<2014年6月29日礼拝メッセージ> 「たんじゅうの苦しみ」 使徒8:9〜13 

 彼こそ神か、と思われていた魔術師シモンがキリストを信じ洗礼を受けた。現代なら、「大きな証」「主の栄光」として、さぞかし売れっ子になっただろう。しかしペテロは彼に「滅びてしまえ」とまで言う。理由は、シモンが神の賜物をカネで買おうとしたからだ。
 確かに、それは罪だろう。しかしシモンは、仮にも洗礼を受けたクリスチャンではないか。クリスチャンでも罪を犯したら地獄なのか。それとも、シモンは偽クリスチャンだったのか。
 ペテロは続けて言う。『私にはよくわかっています』と。曰く、シモンはまだ『苦い胆汁と不義のきずなの中にいる』のだと。これは英語の聖書(NKJ)から直訳すれば、「苦みに毒されて不正に縛られている」であり、ギリシャ語から意訳すれば、「悪意のある気質から抜け出ていない」となる。要するに、まだ新しくされていない、魔術師の頃の気質のままだ、ということである。
 残念ながら、そういうことは起こりうる。何故なら、聖書が教えるのは、「キリストを信じるなら」ではなく、『キリストの内にあるなら、その人は……』だからだ。勿論、キリストを信じるだけでも神の子とされる。その意味では新しくなる。しかし、それで「全てが」ではない。あくまでも、『キリストの内にあるなら』、その人は誰でも全てが新しくなる、と聖書は言うのである。
 キリストの内にある、とは、キリストの言葉から離れないで、御言葉の教えの中に生きる(神の国の中に生きる)ことである。そこへ、この世の生き方(価値観、方法論等)を持ちこんではならない。ゆえに、アダムが罪を犯した時、神は言われた。『あなたはどこにいるのか』と。その時点ではアダムはまだ、エデンの園(言わば、神の国)の中にいる。だが、同時に彼自身は、神の言葉に背く世界にいたのだ。
 私達は、いつも、「今、自分は、どこにいるのか(どの世界に生きているのか)」を意識する必要がある。神の国の考え方(価値観)によって生きているかどうかだ。私達は、ただキリストを信じるだけでなく、キリストの中(御言葉の教えの中)に生きよう。そして、全てを新しくされ、自由にされよう。





<2014年6月22日礼拝メッセージ> 「真説ノアの箱舟」 「創世記9:1〜7」 

 ノアは、約100年かけて箱舟を作った。その間、人々はノアから伝道されていたらしいことが伺える(Uペテロ2:5参照)。もしかしたら当初には、信じた人もいたかもしれない。しかし、100年もの間、ノアが語ったことは何も起きなかった。信じていた人もその内、愛想を尽かして離れて行ったのだろう。結果的には、人々は信じなかったのだ。だがノアは、「神の約束は必ず成る」と信じ続け、箱舟を完成させた。「その信仰が称賛された」とヘブル11章で言われているのである。ちなみに、今話題の映画では、ノアの時代にカインがまだ生きているそうだが、実際は違う、ということは計算してみれば分かる。
 さて、舟から出てノアが最初にしたことは、礼拝である。だから「礼拝したら祝福される」という順序(あるいは方程式のようなもの)を設定すべきではない。というのは、ノアは、そもそも、そういう『正しい人』だったから祝福された(救われた)のであり、だから、舟から出た後も、当然、礼拝しただけであって、礼拝したから祝福された、という順序ではないのだ。あくまでも「正しい人は祝福される」、それが第一義である。では、何が正しいのか、と言えば、それは、「祝福があろうが無かろうが、そんなことには左右されず、なにはともあれ、神を礼拝する」ことが正しいのであり、そういう正しさに対して神は報いて(祝福して)下さるのだ。
 続いて、神は肉食を許可された。しかし、『血のあるままで食べてはならない』……これは勿論、輸血禁止ということではない。これには「贖い」の宗教的意義がある(ヘブル9:22参照)。「先ず血を流してから食べる」、それは、「罪の赦し(永遠の命)が先決であり、その次に生活(今の命)だ」ということのモデルである。つまり、天国の約束(信仰)があってこそ、安心して今の生活を送ることができるということ、それが生きる上においての優先順位なのだ。逆に言えば、今の生活がどんなに順調でも、最後に地獄ではなんの得があるかということ。『たとえ全世界を手に入れても真の命を損じたら……』と主が言われたとおりだ。
 私達も御言葉の約束を信じ、その信仰を守ることを大切にしよう。





<2014年6月15日礼拝メッセージ> 「しかも、赤ちゃんも!」 詩篇42:1〜5 

 鹿(それもヘブル語では女性名詞が使われているので、雌鹿)は、力の無い弱い動物だ。水場では他の獰猛な動物に襲われる危険がある。しかし、生きるためには、水を求めてそこへ行かなければならない。そんな雌鹿のように、どれほどの妨げ(リスク)があっても、生きる為に神を慕い求める、というのだ。つまり、私達にとって、水場に行くということは、神の前に出るということなのである。
 ただ、この詩の作者は、かつての恵まれた礼拝の日々を思い起こしながら、「いつになったら神の前に出れるのだろうか」というような嘆きを語る。それが不可能な状況にあったのだ。命が危険にさらされる、そのような非常事態においては、「ひたすらに主に仕える」ということが困難となる。ゆえに、秩序ある生活(平和な世の中)が守られなければならない(Tコリント7:35参照)。
 今、私達は、神の前に出る「自由」が与えられている。それを奪われないようにしたい。だが、もしかしたら、自分自身がそれを奪ってしまうことがあるかもしれない。余りの問題の大きさのゆえに、苦しみ・悲しみのゆえに、絶望して、神の前に出ることを諦めてしまうかもしれないのだ。
 しかし『わが魂よ。何故、おまえは絶望しているのか』と作者は自問する。確かに。生ける真の神を信じていて、何故、絶望しなければならないだろう。そう、思い乱れている場合ではない。神を待ち望み、神を慕い求め、雌鹿のように水場に行くべきだ。そこに命の水がある。
 Tペテロ2:2では、『生まれたばかりの乳飲み子のように』御言葉のミルクを慕い求めよ、とある。鹿も赤ちゃんも、弱く力が無い。しかし、生きる為にどうしても必要な「それ」を得る為に全精力を傾ける。そんな彼らのように私達も神を慕い求めるべきだ。勿論、絶望を感じる時も、思い乱れる時もあるかもしれない。それでも『なおも神をほめたたえる』と作者は言う。『私の救い、私の神を』……そこに「救い」があり、「助け」があり、「慰め」がある。私達の魂もそれを求めてあえいでいる。生きる為に「それ」が必要だ。だから、命の水を慕い求めて、雌鹿のように、全力で水場(神の前)に行こう。





<2014年6月8日礼拝メッセージ> 「生まれもし、生きるもし」 ガラテヤ5:16〜25 

 『もし私達が御霊によって生きるのなら』とあるが、それは、「御霊によって生きない」という選択肢があることを意味はしない。何故なら、クリスチャンはみな、聖霊によってイエスを主と告白し、新たな命に生きるようになった者(すなわち、御霊によって生きる者)であるからだ。であるならば、御霊に導かれよう、というわけである。
 そのような『キリストにつく者』は、『自分を十字架につけてしまった』と言う。パウロも自身がそうだと言うし、『もはや自分は死んだ』とまで言う。そこから導かれて来る考え方に、「自我に死ぬ」というものがある(そして、それが「聖め」だという)のが定説だ。
 が、自我とは……? それは、知性、感情、意志、思考などである。それらが死ぬということは、それは、ロボット化すること(人間でなくなること)だ。神はそんなことを望んでおられるのか。いや逆に、自らの意思で神に従うことを選び取るように、と願っておられるのではないか。アダムとエバに対してそうであったように、礼拝も、献金も、だ。強制ではなく、律法でもなく、自発的に行われてこそ、神に喜ばれる。自我が死んでいては、何も自発的に行なうことは出来ない。
 事実、十字架に付けられて死んだのは、パウロの「自我」ではなく、「古い自分」(ローマ6:6)だ。それは、「罪人であった自分」すなわち、「神に背いていた自分」のことである。それを十字架につけて殺す、と言うのだ。つまり、「これからは神に従って生きて行きます」ということ、それを自らの意思で決心する、それが「自分を十字架につける」ことなのである。その為にこそ自我は必要だ。
 ただし、そのせっかくの自我が肉の欲に導かれてはならない。御霊に導かれるべきである、ということが重要である。導き手が複数あっては舟は進まない。御霊に導かれる為には、御霊に満たされればよい。そうすれば、肉の欲の混じっていない(神の御心だけ)の「聖め」が実現する。神は、私達がそうなることを望んでおられる。(Tテサロニケ4:3〜8)だから、聖霊が与えられているのだ。その聖霊を更に豊かに注がれ、教会は誕生した。だから、教会(クリスチャン)である私達は、御霊に満たされ、御霊に導かれることを求めよう。





<2014年6月1日礼拝メッセージ> 「備えあれば、うれしいな」 ルカ14:25〜35 

 クリスチャンは、師である主イエスから真理と幸せへの道を学ぶ者であり、『あらゆる国の人々を弟子としなさい』と主が言われた通り、全ての人は主の弟子になるようにと招かれている。
 だが、「家族を憎み、自分の命をも憎まなければ弟子にはなれない」とも主は言われた。それが、主の弟子になる為の備えであり、重要なポイントである。例えば、塔を建てる時や敵と戦う時に、備えが不十分だと、嘲笑われる結果となる。なおのこと、主の弟子となる備えは、ぬかりなく、十分過ぎる位に必要なのである。
 しかしながら、聖書の教えは、「自分を愛するように隣人を愛せ」「家族を顧みなさい」ではなかったか。
 実は、「憎め」ということの意味は、「軽視する」「より少なく愛する」ということである。つまり、家族や自分を愛することをやめろ、というのではないけれども、神より上の位に置くな、ということなのである。要するに、偶像にするな、ということだ。
 ともすれば、色々なものが、家族でさえも、偶像となり得る。勿論、クリスチャンなら、家族を神としたり拝んだりはしないだろう。しかし、神より大切なものは偶像となってしまう。だから「家族を愛するな」と言うのではない。主は何と言われるか。「捨てろ」(マルコ10:29〜30)だ。ただ、これも「ゴミのように扱え」という意味ではなく、「そのままにしておく」「残して去る」ということである。家族への愛をゼロにするのではなく、10なら10のまま、それはそのままで、一旦それを置いて、主に従え、ということである。
 では、家族を恨んだり、呪ったり、敵対したりする必要はないのなら、何も変わらないではないか、いったい何が「弟子の備え」なのか、と思えてしまう。しかし、そんな自分の思いをも捨てて十字架を負う(神の御心を受け入れる)ことが必要だ。そうでないと、自分の思い(自分自身)が偶像になりかねないからである。
 とにかく、偶像を作らないこと、それが「備え」だ。その備えがあれば、嬉しいな、と主は喜ばれるだろう。そして、師から学ぶ弟子である私達の人生にも喜びが満ち溢れる。




<2014年5月25日礼拝メッセージ> 「争か逃か勝か」 マルコ14:41〜49 

 「私の願いではなく、御心の通りを……」とゲツセマネで祈られた主は、捕えられる際にも、「天の軍勢を呼び寄せて応戦」などなさらず、聖書が成就するため、と言われ、父の御心を受け入れられた。
 だがペテロは、主の御心に反して、(「そんなことがあってはなりません」などという)自分の勝手な思いで剣をもって立ち向かい、マルコスの耳を切り落とした。主は、その耳を治してあげられた。驚くのは、その癒しの御業(神の全能の力)を目撃していた群衆と兵士達が、その後なおも主に敵対したことである。「奇跡を見せてくれたら信じる」という人間の言葉は、真実ではない。
 一方、弟子達は、『聖書の言葉が実現するため』と言って、父の御心のままに捕らえられていく主の姿を見て、逃げた。武装した群衆が来た時には、逃げるどころか立ち向かって行ったのにだ。もし主が、「聖書は間違い」「私は救い主ではない」と言ったのなら、弟子達もあきれるし、見捨てて逃げるのも当然だろう。だが主が言われたのは「神の御心は成る」ということだ。なのに、である。
 奇跡を見ても主に敵対した人々。聖書が実現すると聞いて逃げた弟子達。この「争」と「逃」は、何を現わすのか。それは、神の御心を拒む人間は、そのどちらかになってしまう、そして余計な苦しみを味わう、ということだ。例えば、御言葉の促しを素直に受け入れない時、従うべきか従わざるべきか、と心の中に戦いが起こり葛藤する。また、信じるなら救われるのに、拒む人は「死」という問題から目をそらし、恐れから逃げる日々となる。そのように、神の御心を受け入れない限りは、どうしても争うか逃げるかになってしまうのだ。
 しかし、そのどちらでもない、第3の道がある。それは勿論、御心を受け入れることだ。そうすれば、「争」でも「逃」でもなく、「勝」となる。それこそがキリストの復活に現わされているのだ。
 主は言われた。『自分を捨てて、自分の十字架を負って、そして私について来なさい』と。自分の勝手な思いを捨てて、神の御心を受け入れて従いなさいということだ。そうすれば、敗北ではない、逃げて苦しむのでもない、喜びと勝利と感謝の人生を歩むことができる。





<2014年5月22日(木) 聖書の学び> 「信仰とは何か」 ヘブル11:1 聴く





<2014年5月18日礼拝メッセージ> 「倍返しだ !!」 詩篇109:26〜31 (録音に失敗してしまいました。ご容赦下さい)


 「詩篇」すなわち「賛美歌集」でありながら、この109篇は、「呪いの詩篇」と呼ばれる。つまり、「呪いの賛美歌」だ。違和感甚だしい限りである。
 確かに、著者ダビデは、敵の攻撃を受けていた。それに対してダビデは当初、愛をもって執り成して祈ったようである。が、その愛に対して敵は更に憎しみを(善に換えて悪を)報いたというのである。そこで出て来たのが、この「呪いの詩篇」だ。さすがのダビデも堪忍袋の緒が切れたのか。それとも、信仰者であっても、そこまでされたら我慢できない、呪っても仕方ないということか。果たして、敵を呪うことは私達に許されたことなのか。
 聖書は悪についてこう教える。手向かうな、復習するな、と。それは私達が悪に対してどう行動すべきかという教えである。しかし、それとは違って、別の観点から「悪」というものについて教えていることがある。それは、「悪の受ける報いは何か」ということだ。究極的には、神に背く者(悪)は、最後には滅びだということである。そして実は、ダビデの呪いの言葉は、後者を現わしているのである。
 神は一人一人のその行ないに応じて報いをする、と聖書は教えている。人は種を蒔けばその刈り取りもすることになる、とも教えられている。「自業自得」、それは、聖書的な思想であるのだ。『彼は呪うことを愛したので、それが自分に返って来た』とある通りだ。とにかく、ダビデは、個人的な復讐を求めたのではなく、神の御心がなる(悪が裁かれる)ことを求めたのである。そもそも、祈りとは、そのように「神の御心がなることを求める」ものであって、自分の要求を押し通すことではないのだ。主も、ゲッセマネの園で、そのように祈られた。そしてダビデも、神の義を求めた。だから、この詩は、ダビデにとっての信仰の表明であり、神への信頼、賛歌なのである。ゆえに、それ(神の義、助け、救い、守り)がダビデに返って来た。
 神に敵対するなら、神もそれ(敵対・裁き)を返される。神の義(御言葉)を喜ばないなら、それは遠く離れて行く。しかし平和を愛し、神を愛するなら、神の国(平安)が返って来るのだ。幾倍にも。




<2014年5月11日> この日、牧師は、筑紫野南キリスト教会における特別伝道礼拝でメッセージしました。こちら聴くからお聴き頂けます。




<2014年5月4日礼拝メッセージ> 「見ちゃダメ!?」 ヨハネ20:26〜29 

 復活の主に出会った後も、弟子達は、恐れ隠れていた。特にトマスは後世「疑いのトマス」と呼ばれるほどに、証拠を求めた。しかし、決してトマスだけが特別に疑い深かったのではない。他の弟子達も皆、自分で復活の主を見て、触って、証拠を得て、納得するまで信じなかったのである。だから主も、トマスに「証拠なんか無用だ」とは言わず、むしろ、「触って、指を差し入れなさい」と言われた。納得させて信じさせようとされたのだ。
 ただ問題は、主は、そうやって見せて、触らせて、信じさせておきながら、『見たから信じたのか』と、逆に、それを否定するかのように言われたことだ。『見ずに信じる者は幸い』とは、やはり「証拠がなくても信じろ」「鵜呑みにせよ」ということか。
 いや、少なくとも確かなのは、主は、『数多くの確かな証拠を示された』のであり、積極的に、証拠によって信じさせようとされたということだ。であるならば余計に、である。何故、『見ずに信じる者は幸い』だと言われるのか。そのヒントは、ルカ16章にある。金持ちとラザロの話だが、その結論は、「神の裁きがあるということは聖書が教えている。それが証拠だ。それを信じろ」ということである。聖書を信じていなかった金持ちは、自分で神の裁きを見て、ようやく信じた。が、手遅れだった。この場合、見てから信じたのでは遅いのだ。
 つまり、いつか「終わりの時」が来る、「天国と地獄(神の裁き)がある」ことを聖書は教えているのに、「それ」を見たら信じる、ということは、その時は、自分が地獄に居て「それ」を見ているのだから、もう遅い。「死後どうなるのか」を自分で見る前(死ぬ前)に聖書を信じなさいということである。その人は幸いなのだ。だから主は、聖書を信じさせるために証拠を示されたのだ(マルコ16:20参照)。
 信仰とは、自分の信じたいことを信じるのではない。信じ難いようなことでも、神の言葉が約束しているなら信じる、それが信仰であり、その「信仰の父」がアブラハムだ。彼は、神の約束を握りしめ、それに依り頼んだ。だから私達も、御言葉が何を約束しているかを追求し、その上で、御言葉の約束に信頼しよう。





<2014年4月27日礼拝メッセージ> 「なるほど! ザ・信仰 なっ、トーク!」 ルカ24:44〜48 

 よみがえり、ということを唐突に聞かされても、にわかには信じ難いかもしれない。しかし弟子達は、予め、そのことを聞いていたし、聞いた通りになったし、自分の目で見て触って確認もした。それでも、『嬉しさのあまり』信じられなかった。嬉しい、ということは、拒否しているわけではない、喜んでいるのにである。いったい「信じる」とは、信仰とは、何なのだろうか。
 AWトウザーが言うように、「何でも信じる人は、何をも信じない人と同じくらい神から離れている」のだ。少なくとも、根拠の無いものを簡単に信じるべきではない。信じるために必要なのは、確かな根拠だ。それが無い(ゆえに納得できない)時、人は「信じられない」と言う。ということは、「信じる」とは「納得すること」と言ってもいいのかもしれない。だから主は、嬉し過ぎて信じられない(霊ではないかと疑う)弟子達に、納得できるように、魚を食べて見せられた。
 そこで、多くの人は、科学に根拠を求める。しかしながら、科学は、宇宙のなんたるかも何も解明はしていない。間違いやウソもある。その点、聖書が真実であることは、歴史も考古学も、科学でさえも証明している。私達は、夢か幻のような、空想話を信じるのではない。納得できる根拠(真実)が聖書にはある。だから信じるのだ。
 主は、納得できないでいた弟子達に、聖書の真実を悟らせるために預言の確かさを解き明かされた。十字架と復活だ。その舞台であるエルサレム。さらにそこで約束の聖霊が降臨し、そこで教会が誕生した。それは決して偶然ではない。その同じ場所で、十字架と復活の予表として、イサクが捧げられていた。神の初めからの計画通り、エルサレムは、『主がご自分の名を置くために選んだ町』(T列王記14:21)なのだ。
 神の計画は必ず実現する。それを悟らせるのが、預言の成就(キリストの復活)だ。そして復活の主は、納得できるように『数多くの確かな証拠をもって』ご自分が生きていることを示された。私達は、この「確かな」お方に信頼しよう。そうすれば大丈夫だ、ということの証人、それが弟子達である。私達も、信じて、証明できる者となろう。





<2014年4月20日イースター礼拝メッセージ> 「ゴールはどこだ」 Tテサロニケ4:13 

 基本的には、人が死ぬ、というのは、当然ながら悲しいことである。愛する人に二度と会えない、その声を聞くことはもう出来ない、笑顔も見ることが出来ない、悲しい、寂しい、悔しい、つらい、と感じる、それが死である。しかし、そんな悲しみにいつまでも沈み込んでしまわない為に知ってほしいことがある、と聖書は言う。それは勿論、復活、永遠の命、天国だ。死で終わりではないということなのである。
 もし、人間の行き着く先(ゴール)が死であるなら(そこから先は無いなら)、人は死ぬことを目指して(死ぬ為に)生きているということになるのではないか。それなら、今、頑張って生きることに何の意味があるだろうか。それどころか、本当は誰でも、死なない為に頑張っているのではないか。そう、死はゴールであってはならないのだ。
 何をゴールとするか(何を目指すか)、それで人生が変わる。もし天国を目指すなら(死んでおしまいではないと信じるなら)、その信仰が生きる力となる。努力や、頑張って生きることが無駄ではなくなるからだ。それも、私達は根拠の無いことを妄信するのではない。キリストは確かによみがえられたのだ。その事実があるゆえに今、教会が存在しているのであり、それを信じる信仰のゆえに、多くの人に、新しい人生、希望が与えられているのだ。信仰には、その力がある。
 その神の力は弱いところに現わされると聖書は言う。何よりも、全ての人にとっての最大究極の「弱さ」がある。それが死だ。しかし、その「弱さ」に完全に現わされる神の力、それが復活・永遠の命・天国なのである。その希望(信仰)が、力であり、人生の宝だ。
 宝のあるところに心もある、と主は言われた。ということは、宝(天国というゴール)を知らない、持っていない…なら、心も見失われる。墓がゴールなら、心も死ぬ。しかし、キリストは墓からよみがえられた。信じる者に希望と力と命を与えるために。だから、地上での人生の中に、たとえ、どんな弱さ、悲しみがあろうとも、そこに神の力が現わされる。復活の勝利が与えられるのである。
 このことを知らないでいてもらいたくない、と聖書は言う。希望なく、悲しみに沈みこんでしまわない為だ。主の復活を喜ぼう。





<2014年4月13日礼拝メッセージ> 「来週のイースターに備えよ」 ヨハネ14:25〜27 

 イースターは、クリスマスとは違い、派手な飾り付けが無いし、一般の人にとっての喜びとなるようなもの(ケーキ、宴会等)も無い。実に、イースターを喜べるのは、信仰があればこそなのである。それも、形だけではない、本物の信仰が必要だ。
 さて、主がロバの子に乗ってエルサレムに入られた時、人々は、大歓迎した。主がラザロをよみがえらせた奇跡によって、信じるようになっていたのである。しかし、その人々は、それからわずか5日後に「イエスを殺せ」と叫ぶ。一方、「たとえ死んでも…」と『弟子達はみな言った』(マタイ26:35)。が、その後、彼らはみな、主を『見捨てて逃げてしまった』(マルコ14:50)のである。結局、弟子達も、群衆も、本物の信仰ではなかった、ということだ。
 そんな弟子達に主は予め、愛を残る所なく示そうとして(弟子達を励まし、力付け、助け、本物の信仰へと導く為に)語られた教え、それが「告別の説教」であるが、その中で、主は「聖霊を送る」と約束された。聖霊が来たら信仰が本当に分かるようになる、というのだ。
 本物の信仰とは、どのようなものであるか。それは勿論、いざという時に逃げたりしない、主を裏切らない、どんな時も主に信頼して、信仰によって平安が保たれる、そういうものであるはずだ。だから主は『わたしの平安を与える』と言われた。それは、この世の平安とは違う、神の国の平安だ。そして、神が支配される所が神の国であるのだから、私達が神の御霊に満たされる時、そこに神の国(主の平安)が実現するのである。その為に、聖霊を送る、それが主の愛なのだ。
 復活の後、主は怯える弟子達に言われた。『平安あれ』と。ただ無責任に言うだけではない。『聖霊を受けなさい』と、平安を得ることの出来る道を具体的に示された。
 神の国の平安、そこには混乱は無い。あるのは、平和(秩序)だ。言いかえれば、順番が守られている、ということだ。一番は何か。神の国と神の栄光である。だから、心の平和の為には、それが一番でなければならない。その順番を崩すなら、秩序(平和)が崩れる。私達は、聖霊に満たされ(神の支配を受け入れて)、心の平安を保とう。





<2014年4月6日礼拝メッセージ> 「聞かずは、一生の損」 ヨハネ13:1〜7 

 「最後の晩餐」と呼ばれる、その特別な『夕食』の時、ユダは、すでに主を裏切るつもりになっていた。『が』と聖書は続く。この『が』に意味がある。つまり、確かに、主は裏切られた。が、そのせいで死んでしまった、のではないということだ。主は、初めからの神の御計画に従って、十字架で死ぬ為にこの世に来られたのだ。
 そして、『父から来て父に行く(つまり、十字架で死んで後、天に帰る)ことを知られ』て、主は、弟子達の足を洗われた。洗足、それは、しもべの仕事である。主は、とことんまで、しもべとなられた。それは『死に至るまで忠実に』だ。つまり、その洗足は、十字架で死ぬほどに人間に仕えられた主の姿を表しているのである。ゆえに、その洗足を拒むということは、十字架を受け入れない(神との関係が無くなる)ことに繋がる。だから主はペテロにそう言われた。実に、ペテロには主の御心が何も分からなかったのだ。
 さて、『ご自分の時が来たことを知られ』て、主は、『その愛を残すところなく示された』 最後の最後に、愛する者に残す、心を込めた言葉、それが「告別の説教」である。しかし、その説教の中で主は、ユダとペテロの裏切りを予告された。二人は、確かに主を裏切った。だが、ユダと違ってペテロは立ち直った。何故、ユダは悔い改められなかったのか。二人の違い、それは、御言葉を聞くか聞かないか、だ。ユダは、『最後の晩餐』の途中で出て行った。そののち主が語られた、『私にとどまれ』などの教えの数々をユダは聞いていなかったのだ。ペテロは聞いていた。『信仰は聞くことから始まる』と聖書の言う通り、その聞いた御言葉が力となり、彼は、弟子達の元に戻って来た。主の元から去るという最悪の事態に至ることは避けられたのだ。
 御言葉を聞くか聞かないか、その差は余りにも大きい。それは天国と地獄ほどの差を生む。だから主は、ありったけの愛を込めて、告別の説教を語られた。御言葉を聞かせること、そこに「愛」があるのだ。そして主は今も、私達にその愛の言葉(教え・聖書)を語られる。私達は、その愛を残すところなく受取ろう。御言葉を聞くことを大切にして、御言葉に生き、主の中にとどまる者となろう。





<2014年3月30日礼拝メッセージ> 「どこから? 今から!」 詩篇121:1〜8 

 人は一人では生きられない。私達は、何かにつけて何らかの助けを受けながら生きている。しかし人間の力には限界がある。助けたくても助けてあげられない、という様々な問題が現実に多々ある。そのような時、助けはどこから来るのか。
 この詩の作者は、『私は山に向かって目を上げる』と言う。それは「神の住まい」「聖なる山」と言われた「シオンの山」を指している。そこに目を上げるということは、「私の助けは、天地の造り主なる真の神様から来る」という確信の表明なのである。決して、日本の「霊山」のような、山に対する信仰ではない。生きるか死ぬか、天国か地獄か、というような切羽詰まった究極の問題に対して、本当の助け(解決、救い)は、本当の神様からしか来ないのだ。
 その神は、まどろむこともなく、眠ることもなく守ってくれるという。まるで24時間体制の警備会社のようだ。ただし、警備会社がそうであるように、守られるためには、契約が必要だ。神の守りを得るための契約、それは、イエス・キリストを信じることである。そうすれば、『神の子供とされる特権』が与えらて、父なる神は、いつでも助けてくれる。
 ただし、クリスチャンになれば、災いが来なくなるということではない。むしろ、来る、と聖書は教える。何故なら、この世は、罪と悪の支配する『曲がった世の中』だからだ。だからペテロは、そこから逃れなさい、と言った。どこへ逃れるべきか。それは、神の愛と守りの中へだ。そうすれば、『今よりとこしえまで』守られる。神との契約は、一定期間ではない、とこしえまで、いつもだ。それゆえに、真の神を信じて、助けを求めて祈ることが出来る、ということは幸いなのである。人間の力ではどうにもならない問題に対する解決は、そこにしかないのだから。
 真の神を信じるなら、その信じた時、その瞬間、その時が『今』であり、神に信頼を置いたその『今』よりとこしえまで、主は守って下さる。この神の約束は確かで、真実だ。
 主イエスに今、信頼しよう。





<2014年3月23日礼拝メッセージ> 永井 明牧師   (録音していません m(__)m )




<2014年3月16日礼拝メッセージ> 「よそ見しないで!」 ヤコブ4:4〜7 

 世を愛することは神に敵対することであると聖書は言う。ゆえに『世をも、世にあるものをも愛してはならない』とTヨハネ2:15に言われている。果たして、私達は世を憎むべきなのか。いや、誰よりも、神ご自身が世を愛されたではないか。それも、『ひとり子をお与えになるほどに』だ。では、「世を愛することは神に敵対すること」とはどういうことか。それは、3節の『願っても受けられないのは、自分の快楽のために願うから』ということについて言われているのである。
 問題は、信仰や祈りは何の為か、ということだ。ここで責められているのは、それが自分の快楽のためになっているということである。
 勿論、癒しや祝福、恵みを求めて自分のために祈っていい。しかし、それは、あくまでも、そのことを通して神の栄光が現わされるように、と願ってのことであるべきで、そうでないなら、結局のところ、祈りが自分の欲望のためということになりかねない。本当は、究極的には、「生きるのも主のため、死ぬのも主のため」、それが信仰であるはずだ。
 そのように、神の栄光のための信仰(神を喜ばせるべき)なのに、その為に使っていない(この世の欲望のために使っている)ことを「世を愛すること」と言うのであり、そのような人のことを「貞操のない人(浮気者)」と聖書は言うのだ。そして、神は『妬む』という。それは、例えば、夫婦でデートしている時に、夫が他の女性に見とれている時のようにだ。
 もし、私達が、神とのデート(礼拝)の時に、心ここにあらず、気もそぞろ、となるなら、主は妬まれるだろう。だから、神から目をそらさず、神と向かい合うことが必要だ。それでこそ、主が求めておられる「真実な礼拝」となることが出来るのだから。
 『神の命令を守れ。これが人間にとって全てである』と聖書は言う。神の命令とは? それは、『心を尽くして……主を愛する』こと、それが命令の全てだ、と主は言われた。その命令を守ることが「神に従う」ことなのである。そうすれば、悪魔は逃げ去る。
 心からの礼拝と賛美を捧げ、神を愛する(神に従う)者となろう。





<2014日3月9日礼拝メッセージ> 「心中の戦い」 ヘブル4:12〜13 

 言葉には、とりわけ神の言葉には、非常に大きな力がある。だからこそ、慎重に取り扱わなければならない。下手に扱うと、甚大な被害を及ぼす危険がある。人を救うはずの神の言葉が、人を苦しめる道具になってしまうのだ。まさに「取扱注意」である。
 その神の言葉は生きている、と聖書は言う。それは、神の言葉は霊であり命だと、ヨハネ6:63にある通りだ。神の言葉は、命そのもの。あるいは、命は神の言葉から出て来たとも言える。何しろ、神は、言葉で世界を造り、人を造られたのだから。いや、もしかしたら、神の実体・実態は、言葉なのかもしれない。聖書も言う。『初めに、ことばがあった。ことばは神であった』(ヨハネ1:1)と。
 とにかく、生きていて、力があり、全てを判別する、それが神の言葉だ。ゆえに、隠れているものは全て神の前に露わにされる。それは、『両刃の剣よりも鋭く』だ。つまり、神の言葉は、従えば祝福だけど、背けば裁きとなるということである。だから神はイスラエルに言われた。『見よ、わたしは、あなたの前に祝福と呪い、命と死を置く。あなたは命を選べ』(申命記30:19)と。祝福か呪いか、それは自分で選べるのだ。実は、そこに重大な霊の戦いがある。御言葉に従うことを選ぶか拒むことを選ぶか、その戦いが常に自分の心の中で巻き起こっているのだ。それは、私達をキリストの愛から引き離そうとする様々な力(試練、苦しみ、病、経済的問題、人間関係……)との戦いでもある。その激しい戦いに勝利する為に、神に従いなさい、と聖書は言う。いや、むしろ、神に従うことを選び取れるかどうか、そこが戦いなのである。マルコ5章に出て来る「ゲラサの人々」は、その戦いに負けた。彼らは、イエス様に「立ち去ってくれ」と願った。彼らは、神と共に生きることより、悪霊と共存することを選んだのだ。
 『私達は、この神に弁明をする』(ヘブル4:13)時が来るのだが、罪については、すでに処分は済んでいるはずだ。では、何を弁明するのか。それは、文脈から明らかなように、「何故、御言葉に従うことを選ばなかったのか」ということだ。
 祝福か呪いか、命か死か。私達は、祝福と命を選び取ろう。





<2014年3月2日礼拝メッセージ> 「本当は(に)・・・?」 マタイ6:6 

 祈る、その動機は何か。何を願い、求めているのか。それは、神からの報い(祈りの応え……)である。だからこそ、教会に来る。
 神からの報い、それは「この世」では手に入れることは出来ない。その最たるものが、罪の赦し、永遠の命、天国だ。そして、それに伴う、喜び、平安、愛、希望……。加えて、神の憐れみ、慰め、助け、癒し、恵み。
 問題は、どうすれば、それらを豊かに受けることが出来るのかだ。主は言われた。自分の奥まった部屋に入って隠れて祈れ、と。そうすれば、父なる神が報いて下さる、と。この教えを文字通りに受け取るなら、公の場で祈ってはダメだということになる。自分の部屋を持っていないと祈れない。教会で祈る祈りには報いはない、ということだ。 が、果たしてそうだろうか。まず、そもそも普通、隠れるのは、どんな時か。それは、やましいことがある時、逃げている時だ。例えば、アダムも罪を犯した時、神の前から隠れた。加えて、恥ずかしい時も隠れる。あとは、かくれんぼをしている時か。いずれも、出て来たくない、見つかりたくない、だから隠れるのである。
 しかし聖書は教える。隠れるのは、現れる為だと(マルコ4:22)。これは直接的には、たとえの中に奥義を隠したが、それはいつか必ず現わにされるということを言っておられるのだが、ルカの並行記事の方では、どんなことでも隠れているものは必ず現わされる、と言う。例えば、「隠れて言った言葉」(ルカ12:2〜3)。そして罪も(Tコリント4:5)。
 では、隠された祈りから現わされるものとは何か。それは、施しがそうであるように、その動機・本音だ。人に褒められたいからなのか、それとも本当に神からの報いを求めているのか、が明らかになる。もし、一人で祈っているなら、それは、本当に祈りたいからだろう。ただひたすらに神の報いを求めている……それが本音なのだ。だから、誰が見ていようがいまいが、いつも神と一対一になれ(真剣に神と向かい合え)ということ、それが「隠れて祈れ」という教えの真意なのである。そうすれば神が報いて下さる。





<2014年2月23日礼拝メッセージ> 「予測不能」 マタイ24:44 

 再臨・世の終わりは、『思いがけない時に来る』。その「時」に、どのようにしているしもべが幸いか。それは、主人から任されたしもべ達に食事を与えるしもべだと45〜46節で主は言われた。要するに、それは、主のしもべを養う羊飼い(牧師)のことだ。それも『きちんと』『忠実に思慮深く』である。そうでない「悪いしもべ」は厳しく罰せられ、偽善者と同じ報いを受ける。それは、地獄に落ちるということではない。人からの称賛を受けるだけで、神からの栄誉は受けられない、ということだ。(参照マタイ6:1〜5)
 続く25章は、普通のしもべ(クリスチャン一人一人)についてである。まずは、10人の娘のたとえで、「その時が思いのほか遅くなっても備えておくべきことの重要さ」を教えている。
 2つ目は、タラントのたとえ。『役に立たぬ』と叱責されたしもべは、外の暗闇に追い出され、泣いて歯ぎしりする、というのだが、それも、地獄に落ちるということではない。何故なら、彼も一応、「しもべ」であるからだ。つまり、神のしもべ(クリスチャン)であるなら、出来が悪かろうが、怠け者であろうが、それで地獄に落ちることはない。主イエスを信じるなら、それだけで誰でも救われるのだから。
 問題は、何をもって『役に立たない、悪い』と言われているのかだ。確かに、能力には差がある。しかし、能力の低いしもべも主人から同じく褒められている。そのポイントは「忠実」だ。彼らは、主人の心を汲み取って、忠実に働いた。それが喜ばれたのだ。だから、もし商売に失敗して、預かった金を失ったとしても、主人は責めはしなかっただろう。しかし、叱られたしもべは、商売をしようともせず、主人を酷い方だと考えていた。
 褒められたしもべ達は、「主人の心を汲み取る姿勢」と「主人は良いお方だ」という心を持っていた。が、もう一人は、それらを持っていなかった。そこが、『役に立たない。悪い』と言われている部分なのだ。結果、持っている者は与えられ、持たない者は取り上げられる。
 私達も用心していよう。御心を汲み取り、忠実に仕えているか。主は良いお方だという信仰を持っているかどうか。





<2014年2月16日礼拝メッセージ> 「預言の成就」 ルカ23:33〜43 

 『彼らは自分が何をしているのか分からないのです』という祈りは、全人類の為の祈りであるとは、すでに述べた。が、それは同時に、直接的に、兵士達の行為に対しての言及でもあった。彼らは何をしていたのか。主の、その祈りのあとに、聖書は記している。『彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた』と。これは詩篇22:18に記されていた預言の成就である。勿論、兵士達はそんなことを知るはずもない。つまり、彼らは、まさに、自分が何をしているのか分かっていなかったのだ。自分でも知らずに、聖書の預言を成就させてしまって(聖書の真実を証明して)いたのである。
 旧約聖書の、救い主についての預言は全て成就した。聖書が教えていることは全て本当だということだ。ということは、世の終わり、死後の裁き、天国・地獄も全て本当なのである。
 世の終わりは、いつ来るのか。『その日は誰も知らない』と主は言われた。しかし、その日が来るための条件は幾つか教えられている。偽キリスト、偽預言者、偽教師達が多く現れることだ。そして、今、それがまさに起きて(猛威をふるって)いる。
 彼らは、自分が何をしているか分かっていない。彼らも、自分で気付かずに、聖書の預言を成就させてしまっているのだ。そして、それは、世の終わりが来るのを加速させることであり、それは(皮肉なことに)自分が裁かれる時が来るのが近くなるということなのに、だ。
 主の御心は、一人でも多く(出来れば、全ての人が)救われることだ。が、それは、あくまでも本人の悔い改めがなされてこそだ。だからその為に、主は、終わりの時を、今も、忍耐して、猶予しておられる。本来なら、それはすぐに来るはずだった。使徒達は、明らかにそう確信していた。だが、主の憐れみのゆえに、その時は延ばされているのだ。私達も、主の御心に倣い、幾人かでも救われる為に、世の終わりが来るのを少しでも遅らせて頂ければと願う。その為には、偽預言者・偽教師が増えてはならない。それは世の終わりの時を加速させるからだ。だから私達は、それに対抗して、キリストの本当の教えを学び、伝えることが必要なのである。





<2014年2月9日礼拝メッセージ> ルカ23:33〜34 

 主イエスに罪は無い、ということは、信じる者だけが勝手に言ってるのではなく、客観的にも認められていた。ピラトは3度も、無罪を宣告している。なのに人々は、主を十字架に付けたのである。それも、明らかに凶悪なバラバの釈放を要求し、主イエスを『好きなように』したのだ。よくもまあ神は、こんな罪深い人間を「救いたい」と願われたものだ。しかし、それは他人事ではない。イエスを十字架に付けた人間の「罪」、それは私達も同じなのだ。
 その十字架の上で、『彼らを赦して下さい。彼らは自分が何をしているのか分からないのです』と主は祈られた。それは、全人類の為の祈りだが、はたして、その祈りは実ったのか。その時点で、全ての人の罪は赦されたのか。勿論、その後に信じて救われた人はいた。しかし、決して全員ではない。日本では未だに大部分の人が罪赦されていない状態だ。では、主の「祈り」は、聞かれなかったのか。無駄だったのか。主は、『私の願いをいつも聞いて下さることを知っています』と父に祈られたではないか。
 一つだけハッキリ言える。それは「赦し・救いは、本人が悔い改めてこそ」ということだ。悔い改め無くして赦しは無い。たとえ主イエスが祈られようが、それで自動的に赦されるわけではないのだ。
 では、『迫害する者の為に祈れ』という教えは何か。それは、『自分の側に関する限り全ての人との平和を求めなさい』(ローマ12:18詳訳聖書)との御言葉に答えがある。つまり、相手がどうするか、どうなるか、という問題ではなく、ただ自分の側では平和(ひいては、相手の最善:すなわち救い)を求めるようにということだ。そのような「とりなし」であって、それ以上(何か強制力があるの)ではない。
 結局、主の十字架上での「祈り」は、単なる無責任なお願いなどではなく「彼らが悔い改めたなら赦してあげて下さい」という心であり、その為に、ご自身が、まさにその時、十字架にかかっておられ、救いの道を整えておられた。そして、罪に気付くようにと聖霊を……。
 主は今も私達を幸いに導こうとしておられる。その聖霊の導きを受け入れるかどうか、それも自分次第である。





<2014年2月2日礼拝メッセージ> ヘブル12:2〜3 

 十字架をも忍ばれた主イエスのことを考えなさい、と聖書は言う。それは、私達の心が元気を失わない為、疲れ果ててしまわない為であるのだが、はて、どんな時、私達の心は元気を失ってしまうのだろうか。箴言13:12には、『期待が長引くと心は病む』とある。いつまで経っても望みが叶わない……これは辛い。心も折れる。だから箴言は続けて言う。『望みが叶うことは命の木である』と。
 もし、ある一つの、その願いが絶対に叶わないものであると決定しているのなら、諦めるしかない。仮に、可能性が僅かにあったとしても、必ず願いが叶うという確証があるわけではないから、期待が長引けば長引くほど「もうダメだ」という気持にもなる。だから、そうなってしまわない為に、主の十字架を見なさい、と聖書は言うのだ。
 何故、主は、十字架という苦難の道を耐え、走り通すことが出来たのか。それは、『ご自分の前に置かれた喜びのゆえに』である。つまり、復活という「勝利・ゴール」は見えていた。それは確実だったから、ということだ。
 願いが必ず叶うという確証さえあれば、たとえ、どんなに長い年月がかかるとしても、それは必ず実現すると保証されてさえいれば、希望は失われない。そして、主イエスが復活されたように、信じる者にも勝利が約束されているし、今も生きて働かれる主は、いつも共にいて、助け、支えて下さる。それが私達の確信だ。ですから、その『確信を投げ捨ててはなりません』(ヘブル10:35)と聖書は言う。『それは大きな報いをもたらすもの』だからだ。そのことを証明する証人達が雲のように私達を取り巻いているのだから、忍耐をもって走り続けよう、と聖書は私達を激励する。もし「失望感」が襲って来たとしても、私達は、それに対して徹底的に抵抗しなければならない。その為の訓練として、主は愛する者を叱り懲らしめられるのだ。
 私達には勝利が約束されている。その確信を見失わない為に、主イエスを見つめていよう。主は、その信仰の模範であり、完成者なのだ。主イエスの十字架に、希望と勝利と喜びがある。そのゴールが見えてさえいれば、心が元気を失わないですむのだから。





<2014年1月26日礼拝メッセージ> 黙示録3:19〜22 

 親が子供にすると同じように、神は、愛する者を叱り、懲らしめる。それは、ありがたいことだ。ただし、親の場合は、ある一定の『短い期間』だけ、そうするのであるが、神はそうではない。何故なら、親はやがて老いて、子供の力の方が親より上回るようになるのだが、神と人間の立場は、そのように逆転することはないからだ。神は、いつまでも変わることなく、力強く、聖いお方である。ゆえに、神は、私達教会に対して、今も、ご自分の聖さに与らせるために『熱心になって悔い改めなさい』と迫る。そのような「お叱り・懲らしめ」を受けないとすれば、それは愛されていないのであると聖書は言う。(ヘブル12:5〜10参照) 確かに、「どうでもいい存在」なら放って置くだろう。しかし神は、私達を放って置かない。つまり、それほどに大切にしてくれている、ということだ。
 真実な愛には、厳しさが伴う。過保護にすることは、愛ではない。神も、私達に対して、本気で人生をやり直しさせる為に、悔い改めを迫る。悔い改めなくして赦しはない。それが「愛」だ。
 それに対して私達人間は、「心の戸を開ける」ことが必要だ。ノックするのは神だが、開けるのは人間の仕事なのである。
 これは一つの「信仰のパターン」である。例えば、神は与える。全ては神の恵みだ。しかし、人間には「求める」という仕事がある。つまり「祈りなさい」ということだ。また、『来なさい』と神は招く。招かれた私達は、「主の元に行く」、それがなすべきことだ。そのように、私達は、主の呼びかけに対して応答しなければならない。主が何度も言われた、『耳のある者は聞きなさい』というのは、そういうことだ。そして私達が、応答して、心の戸を開くなら、主イエスの愛と恵み、感謝と喜びを味わうことができる。まさに『神の国は心の中に』が実現するのだ。
 今、神は、あなたに何を迫っておられるだろうか。悔い改め? 熱心になること? 一人一人が聞いている「ノックの音」に応答して心の戸を開こう。主の迫りを受け入れて従おう。そうすれば豊かな恵みが溢れてくる。





<2014年1月19日礼拝メッセージ> 「今日の労苦」 マタイ6:33〜34 

 あす、何を食べようか、何を着ようか、という心配は無用だ、と主は言われた。何故なら、神が養って下さるからだ。だからと言って、働かなくていいというわけではない。(Uテサロニケ3:12参照) それでも、働ける・生きているということ、地上の環境も全て、神の恵みである。結局のところ、私達は決して自分の力だけで生きているのではなく、神によって命が支えられているということだ。だから、「あす何を食べよう」という心配は、結局、自分の力で生きようとすることであり、それをやめなさい(神に信頼して生きなさい)、ということなのである。
 さて、では、『あすのことはあすが心配する』とは、どういうことか。それは恐らく、「あすのことはあすになってから心配しなさい」ということなのだろうが、それでは少し無計画過ぎないか。
 一方、『(自分の力で生きようとする)あすのための心配は無用』なのに、『今日の労苦はある』と言う。今日の労苦とは何か。
 考え直そう。『明日の為の心配が無用』なのは、神に信頼すればこそだ。しかし、その「神への信頼」が今日、失われたらどうなるのか。その信頼を、あす、回復させるつもりが、その前に今日、死んだらどうなるのか。そうなれば、どんな完璧な計画も万全の備えも吹っ飛んでしまう。
 あすの心配が無用になる為に、どうしても必要なこと、それは今日、神への信頼(信仰)を守ることだ。その為に信仰の戦いがある。それは、先延ばし出来るようなものではない。『その日、その日に、十分ある』のだ。だから、「あすのことはあすになってから」でいい。今日、神への信頼を確かにすることが先決だ。それが『今日の労苦』なのである。そうすれば、あすの命は神が支えてくれる。
 ただし、『神の国とその義を第一に求める』なら、という条件がある。あくまでも、「そうすれば、生きる為の必要は与えられる」のであり、『だから、あすのための心配は無用』となるのだ。
 神を第一と出来るかどうか。それも、「今日なすべき労苦(戦い)」である。私達は、今日、その日その日に、神への信頼を確かにしよう。





<2014年1月12日礼拝メッセージ> 「栄光のゴールを!」 Tコリント9:23〜27 

 「幻」とは、神からの語りかけ・戒め・メッセージの、一つの形であって、それを持たない民は堕落する、と箴言では教えられているのであり、決して、大きな夢や野望を持て、ということではない。
 しかし、それでも目標は必要である。何故なら、目指すべき正しい標的からズレてしまうことを聖書は「罪(的外れ)」と言うのだから。
 パウロは、目標をはっきりと見定めていた。彼の向う方向、それは、『すべてのことを福音の為に』だ。ただし、福音の為に全てを犠牲にする、という意味ではない。その真意は、19〜22節にある通り。要は、人の心に届く伝道を心がけたということだ。彼のやった(相手と同じ立場に立つ)ことは全て、福音を伝わり易くする為なのである。
 そのようにして、何とかして福音を伝えるという「正しい方向」に進んではいるが、それは「方向」であって「ゴール」ではない。まだその先がある。それは『何とかして福音を伝えることによって』彼自身も『福音の恵みを共に受ける者となる為』だと言う。違う表現では、『人に宣べ伝えておきながら、自分が失格者にならない為』であり、『朽ちない冠を受ける為』なのである。そして、その結果、ついには神の栄光がほめたたえられる為(参照エペソ1:3〜14)である。そこが行きつく先(本当のゴール)だ。
 そのゴール目指して自制する、とパウロは言う。スポーツマンがそうするように。例えば、ボクサーなら食事制限だ。チャンピオンという目標の為には、辛いけども自制が必要である。しかし、目標が違えば自制の内容も変わる。横綱を目指すなら、体を作る為に食べなければならない。これも辛い自制だ。つまり自制とは、感情や欲望を抑えることではなく、目標の為に自分の生活・行動を整えることなのだ。
 では、私達の目標は何か。それは、神の栄光がほめたたえられることだ。その為に自制するということは、その目標に相応しい生活・行動をする、ということなのだ。どうやってか。それは至ってシンプルだ。何かをしようとする時、「それが神の栄光となるかどうか」を考えて、それを選び取ればいいのだ。そのようにして、自らの体をもって神の栄光を現わす者となって行こう。





<2014年1月5日礼拝メッセージ> 「ま、幻? もっと光を!」 箴言29:18 

 「幻」は、英語では「ビジョン」である。それは、将来の計画とか目標、あるいは理想像というような意味合いで使われることが多い。しかし、ここで聖書が教える「幻」は、そのようなものではない。勿論、単なる夢や幻覚などではない。神から与えられた重要な意味のあるものである。それは、使徒18:9に、『ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。……この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われた』とあるように、ビジョンを見せるという形で語られた神からのメッセージなのである。その最大のものが黙示録だ。神はヨハネに壮大な幻を見せた。世の終わりには霊的な世界において何が起きるのか、どのようにして救いは完成するのか、神の計画のクライマックスである。それは決して、ヨハネ個人の年間目標などではないし、人生設計でもない。神からの啓示であり、預言、すなわち、メッセージなのである。
 というわけで、『幻がなければ民は、ほしいままにふるまう』という御言葉は、「大きな夢・志・目標を持て」というようなことではない。その本当の意味は、「神からの語りかけ(教え・戒め)がなければ、民は堕落する」ということなのだ。それゆえに、『しかし、律法を守る者は幸いである』と続くのであり、それでこそ意味が通じる。つまり、『幻』も『律法』も、神の言葉(戒め)のことなのだ。
 そこで文脈を拡げて見ると、15〜17節では、子供をしつけよ、と教えられている。しかし、19節には、『しもべを言葉だけで戒めることはできない』ともある。確かに、口先の言葉だけでは人は変わらない。説得や強制では子供も反発する。ましてや、赤の他人である未信者に正しい教え(神の言葉)を伝えても、簡単に「はい、そうですか」とはいかないだろう。必要なのは、身をもって示すことだ。信仰による心の平安、感謝、喜び……その生き様こそが証しなのだ。ゆえに聖書は言う。『自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい』(Tコリント6:20)と。勿論、言葉で伝えることは大切だ。それに加えて、この年、私達は、御言葉に信頼し、自分自身の生活の中に信仰の光を益々輝かせて、証しして行こう。





<2014年1月1日元日礼拝メッセージ> ピリピ4:6〜7 

 私達は、願い事だけが祈りではない、ということを知っている。ということは、裏返せば、願い事も祈りだ、ということでもあるのだが。しかし、ここで聖書は、祈りと願いによって神に願いごとを知って頂け、と、「祈り」と「願い」を、あえて区別するのである。
 例えば、「賛美の祈り」というものがある。目的は、賛美だ。しかし、神を賛美する方法としては、別に祈りでなくても構わない。音楽を使えば良い。勿論、祈りという手段でも構わないが。つまり、この場合、「祈り」が「目的」なのではなく、「賛美」が目的であり、祈りはその為の一つの手段だということだ。
 ダニエル書9:20〜23で、ダニエルは「願いの祈り」をしていた。その祈りの中で「罪の告白」もしている。これも、「目的」の為に手段・方法として「祈り」を用いているということだ。
 逆に、使徒16:25で、パウロとシラスは、『祈りつつ賛美の歌を歌っていた』。これはギリシャ語では、プロセウコメノイ(祈る)ユムノウン(賛美の歌を歌う)トン セオン(神に)であるが、「祈る」という言葉の後に「動詞」が来ている。この場合、その動詞は、「祈りの方法・手段」を現わす、という文法上の特質がある。つまり、彼らは、「賛美の歌を歌う、という方法で祈っていた」ということだ。この場合、祈ることが「目的」であり、賛美は「手段」となる。
 結局、「祈り」が手段であれ、目的であれ、いずれにしても、『神に』ということがポイントである。つまり、祈りとは何か、と言えば、それは、「神に繋がること」だと言える。いや、そうであればこそ、『絶えず祈れ』という教えが実現出来る。賛美、黙想、祈り……手段は何でいいのだから、いつも神に繋がる……それは、可能となる。
 その「祈り」を感謝をもって(新共同訳では『感謝を込めて』)祈るように、と聖書は言う。たとえ悲しくても、その悲しみを込めて、ではなく、「主は良いことをして下さる」という信仰から来る「感謝」を込めるのだ。そうすれば、人の思いを超えた神の平安によって心と魂が守られる、と聖書は教える。
 この新年の始まり、感謝の心を込めて祈ろう。





<2013年12月29日礼拝メッセージ> 「今日も祭りだ」 コロサイ3:15 





<2013年12月22日礼拝メッセージ> 「クリスマス礼拝」 ルカ2:22〜33 

 救い主の誕生、それは『喜びの知らせ』である。天使達も、羊飼いも、東方の博士達も、大いに喜んだ。が、最も喜ぶであろうはずの母マリヤだけは、何か引っかかっていたのか、『すべて心に納めて、思いを巡らしていた』。その「何か」をシメオンは明かす。『御覧なさい。この子は……反対を受けるしるしとして定められている』と。すなわち、死ぬ為に生まれて来た、ということだ。
 そのような過酷な宣告を受けた母マリヤ。しかも、彼女はやがて、その息子の死を自分の目で間近に見るのである。実に、母と子という視点で見る時に、この救い主の誕生は、悲しいスト―リーである。シメオンはそれを預言してマリヤに告げた。『剣があなたの心をも刺し貫くでしょう』と。
 問題は、その次だ。シメオンは言う。『それは多くの人の心の思いが現れるためです』と。ここでの『思い』と訳されるギリシャ語は「ディアロギスモス」で、「計算、打算」という意味である。普通は、それらは「建前」の奥に隠されているものだ。それが現わされるということは、本音が暴かれるということである。
 一体、救い主の誕生(クリスマス)によって、人々のどんな本音が明らかになるのか。それは、クリスマスは、ただ単に楽しみたいだけなのか、それとも、救い主を求めているのか、その重大な部分が分かれる(本音が暴かれる)時なのだ。
 さて、私達がクリスマスを祝う、その本音は何か。クリスマスはキリストの祭りである。祭りは、例えば、過ぎ越しの祭りがそうであるように、神の恵み(救い)を忘れない為のものだ。そして、キリストの祭り(クリスマス)は、救い主は私達の代わりに死ぬ為に生まれた、という、その恵みを忘れないで感謝する為に祝われるものなのだ。
 心配、悩み、不満などは、放っておいても勝手に溢れてくる。しかし、感謝は、そうではない。ともすれば忘れてしまう。だから、思い出す為に、祭りが必要なのだ。主は十字架で死ぬ為に生まれて下さった。私達は、その恵みを思い起こして感謝しよう。クリスマスは、その為の時だ。それが本音である者として、礼拝と感謝を捧げよう。





<2013年12月15日礼拝メッセージ> 「目ざし・・・は愛」 Tテモテ1:1〜5 

 愛は、きよい心と、正しい良心と、偽りのない信仰とから出てくる、と聖書は言う。しかし、もしかしたら、虚栄心、独占欲、貪欲などから出てくる「愛」もあるかもしれないが、いずれにしても、それらは屈折した愛であり、本当の愛とは言えない。
 愛とは何か。キリストの十字架に愛がある、と聖書は言う。滅びるよりも、悔い改めて救われること、それが、罪人である私達人間にとっての最善であり、その為にキリストは十字架にかかられた。「それが愛だ」と聖書は言う。そう、愛とは、相手にとっての最善を行なうことなのだ。そのような愛は、きよい心と、正しい良心と、偽りのない信仰から出てくるのであって、それが目標だというのである。
 まず、少なくとも、偽りの信仰から愛が出るとは思えない。間違った聖書理解は人を苦しめる。だからパウロは、弟子テモテに『ある人達が違った教えを説いたりしないように』と命じている。それは、「偽りのない信仰から出る愛」を目標としているがゆえであり、決して対立したいわけではないのだ。
 次に、正しい良心。本来「良心」とは、正しい心のことであろうはずだが、間違った価値観に基くならば、そこから出てくる良心も「正しくない」場合があるということだ。神の前に「正しい」と言える価値観、それは勿論、聖書の教える価値観だ。つまり、正しい良心は、偽りのない信仰から出るということである。
 そして、きよい心。「聖い」とは「混じり気がない」ということであり、例えば、心の中に神への信頼と疑いが同時に存在しているような場合、それを「きよくない」と言う。だから、「心を清めよ」という教えは、「神への信頼だけにせよ」「一つの心になれ」ということなのだ。そしてそれも、偽りのない信仰から出る。
 そういうわけで、土台は「偽りのない信仰」だ。その為に、違った教えを避けるように、とパウロは言う。それは、あくまでも、愛が目標だからなのだ。この目当てを見失ってはならない。同時に、自分自身が、信じた御言葉を実行する「偽りのない信仰」であり続けることを求めよう。





<2013年12月8日礼拝メッセージ> 「えぇ! こんなに?!」 ピリピ1:12〜18 

 パウロは、4度、合計4年に及ぶ投獄を経験した。教会にとっては大きな損失であり、痛手であるはずだ。迫害する側も当然、それを狙ってのことである。ところが、それが『かえって福音を前進させることになった』というのである。これは驚きの大逆転だ。キリストの復活にも通じる大勝利である。こんな素晴らしいことを知らないでいてほしくない、『知ってもらいたい』とパウロは言う。
 一体、教会に何が起きたのか。それは、『確信』だ。パウロの命がけの伝道、何をも恐れぬその姿を見て、クリスチャン達は、「それほどに福音は素晴らしんだ。福音は恥ではないのだ」というパウロのメッセージを受け取ったのである。「たとえ死んでも大丈夫、天国に行ける。大きな報いがある」……その確信が与えられ、恐れることなく益々大胆に伝道したのである。
 ただ、中には、不純な動機(妬み、党派心)で伝道する者もいた。パウロの投獄を「チャンス」と捉え、その間に自分達の派閥を大きくしようと考えたのだ。勿論、教会が大きくなることは喜ばしい。しかし、不純な動機での伝道は『私を苦しめる』とパウロは言うのである。
 それでも、もしキリストが宣べ伝えられているのなら、そのことを喜ぶ、とパウロは言う。だから「見せかけでもいい」と言っているのではない。あくまでも、見せかけの伝道は、パウロにとって苦しみなのである。パウロが喜ぶのは、ただ「キリストが宣べ伝えられる」こと、その一点だ。
 パウロは、その為に命をかけた。それによって教会には「福音は素晴らしい。永遠の命・天国に優るものはない」という確信が与えられた。その確信によって教会は迫害に勝った。そして、迫害していたローマ帝国は、のちにキリスト教国家に変わった。まさに、キリストの復活のような逆転勝利だ。
 イエス・キリストに優るものはない。この確信を持つことが私達を強くする。あらゆる問題に打ち勝ち、世に勝つ力なのである。このキリストを宣べ伝える(キリストの教えを伝える)ことを大切にしよう。





<2013年12月1日礼拝メッセージ> 「羊かい? いるかい?」 マルコ6:34 

 「羊飼いのいない羊」は、自分だけでは生きて行けない。羊は、他の動物と違って、自分の身を守る能力(速い脚、牙、角、臭い……)を持っていないのだ。加えて、羊は、他の羊が向かう方向と同じ方へ行く性質がある。その先が崖であっても、前に倣え、とドンドン突き進んで行く。だから、羊には羊飼いが必要なのである。が、昔のイスラエルの羊飼いは、無責任な「悪い牧者」だったようだ。そんな羊飼いに飼われる羊は可哀想である。
 同じように、主は、人々が『羊飼いのいない羊のよう』であることを見て、深く憐れまれた。と言うのは、当時のイスラエルの指導者達・律法学者(つまり、民を牧するべき立場の人々)は、「悪い牧者」 だったからだ。エゼキエル34:1〜5で、そのことが言われている。だから主は、『わざわいだ。偽善の律法学者』と、厳しく責められた。彼らは、人々から天国を遮り、入ろうとする人を入らせないようにしていた。それゆえ、人々は、弱り果てている、と主は言われたのだ。
 それは何も、昔のイスラエルだけでなく、現代も、人間の魂は、羊飼いのいない羊のようだ。何とかして自分の身を守ろうと、様々な鎧(学歴、お金、地位、権力……)を身に付けるが、肝心な「心」が守れないまま、弱り果てている。
 そんな人間を、主は、深く憐れみ、自ら「良い羊飼い」となり、羊の為に命を捨てて下さった。
 その「良い羊飼い」に飼われる羊の幸いをダビデは詩篇23篇で歌っている。その時、彼は、実の息子に命を狙われて逃げていた。そんな悲惨な状況でも、神への信頼は揺るがなかった。やはり「神への信頼」こそが、最強の鎧なのだ。
 人生という広い草原……どこに何があるか、何が起きるか、見当もつかない。しかし、どこに行っても、神の守りがある。何故なら、ダビデも言うように、『主が私と共におられますから』
 魂の羊飼いなる主は、私達を緑の牧場に導き、養い、守り、助けて下さる。更に、主の教えに聞き、導かれて行こう。





<2013年11月24日礼拝メッセージ> 「最強のヨロイ」 Uコリント5:1〜4 

 約束の地へと向かう旅の途上、幕屋(テント)で暮したイスラエルのように、私達の魂も、天国へと向かう旅の途中である地上では、「体」という幕屋の中での仮住まいである。
 仮住まいには当然、不都合があるし、いつかはそこを出なければならない時が来る。すなわち死だ。しかし私達は、神の下さる建物(新しい体、復活の体)があることを知っているし、そうなれば安心だ。
 ただ、それでも決して、この体を脱ぎたいのではない(死にたいのではない)、『かえって天からの住まいを着たい』とパウロは言う。その結果、『死ぬべきものが命にのまれてしまう』のだと。それは「生きたまま再臨を迎えたい」ということなのだが、それは叶わなかった。そこで今、私達は、これをどう理解すべきだろうか。
 例えば、寒い冬にTシャツ1枚ではつらい。だからと言って、脱ぎたいのではない。むしろ、着たいのだ、と考えてみよう。そう、Tシャツの上から毛皮のコートにすっぽりと包まれてしまえば、もはや、Tシャツの欠点は無意味だ。むしろ1枚多い分温かい。これもまた、『死ぬべきものが命にのまれてしまう』ということであろう。
 あるいは、「闇は光に打ち勝たない」ということだとも言える。その命の光であるキリストが死に打ち勝ち甦られたのであり、それゆえに、滅ぶべき罪人に永遠の命が与えられるということ、それを信じる私達の人生に逆転勝利をもたらす復活の力が働く、これも『死ぬべきものが命にのまれてしまう』ことだ。
 その為に、今の幕屋(体)の上から、更にオーバーコートのように「天からの住まい」を着よう。具体的には、「神の守り、安心、平安、恵み…」、要は「神への信頼」を身に付けることである。これこそ最強のヨロイ・最高のコートだ。これに包まれれば、どんな荒野も、寒い冬も乗り越えられる。そして、それを可能とするのが聖霊である。御霊の働きによって私達は、主と同じかたちに姿を変えられて行く。まだ地上での幕屋を脱いでいないにもかかわらず、あたかも、復活の主と同じように天からの住まい(新しい体)を着たかのように変えられて行くのだ。『死ぬべきものが命にのまれてしまう』のである。





<2013年11月17日礼拝メッセージ> 「希望を持つ為に」 ヤコブ1:2〜4 

 「忍耐」は、御霊の実の中には含まれていない。どうすれば、忍耐は生じるのか。それは、試練が来る事によってだと聖書は言う。だから、試練が来たら喜びと思いなさい、と言うのだ。ただ、この『思いなさい』という言葉は、エーゴ−マイ(想像しなさい・考えなさい)である。つまり、試練を喜べというのではなく、「試練は嫌だけど、多分これはいつか、喜べる結果に変わるんだろうなあ」と想像しなさい、ということなのだ。何故なら、「忍耐」という、御霊の実にも無いものが生じるからである。大袈裟に言えば、「御霊の人」以上の人になるのだから喜ぶべきだろう。
 ただし、『忍耐が生じる事を(知識として)知っている(ギノスコー)』だけでは不十分である。大切なのは、その忍耐を完全に働かせる事だ。つまり、忍耐を休ませてはいけない、忍耐し続けなさい、という事である。そうすれば、完全なクリスチャンになる、と言う。その人は、ローマ5:3〜5にあるように、試練を通して忍耐、最終的には希望を生み出し、その希望は失望に終る事がない、と確信する人だ。どんな希望か。それは、ローマ8:28の通り、神は全ての事を働かせて益に変えて下さる、という希望だ。その事を『私達は知っている』とパウロは言う。これは、ギノスコーではなく、オイダ(体験的に知っている)が使われている。そう、私達は、「神が益と変えて下さる」という事を、知識として知るだけでなく、体験するべきなのだ。そして、それを体験をする為には、試練が必要なのである。たとえば、温泉の有難さを体感する為には、「寒さ」が必要なように。
 勿論、試練は嬉しくはない。主もゲッセマネの園で祈られたし、『試みにあわせないで下さい、と祈りなさい』と教えられた。主は、私達が平安である事を望んでおられる。しかし、当然のように試練は来る。(参照:Tペテロ4:12) が、それを乗り越える力、それが信仰であり、神は全ての事を益に変えて下さる、という希望だ。
 ですから、試練の時は、「これは、きっと益に変わるんだろうなあ」と想像しよう。その希望があればこそ、忍耐が働く。その忍耐を完全に働かせる時、平安な義の実が結ばれるのだ。





<2013年11月10日礼拝メッセージ> 「何を聞くべきか?」 ローマ10:11〜17 


 信仰の土台は、人間の教えにではなく、神の御言葉にこそ置くべきである。何故なら、御言葉は、揺るぐことのない真理だからだ。その聖書が『こう言っています』と言えばこそ、素直に「アーメン」と言うことが出来る。
 さて、聖書は言う。『彼に信頼する者は失望させられる事がない』と。決して、クリスチャンは失望しない、という意味ではない。クリスチャンとはいえ、ガッカリすることぐらいある。この世にあって、何もかも思い通りに行くはずがない。自分の勝手な願いが潰えたからといって、「神に失望させられた」と言うのはお門違いである。そもそも、初めから神は、「信じたら、人生、何でも思い通りになる」などという約束はしていない。神の約束、それは『主の御名を呼ぶ者は誰でも救われる』だ。この点において、『信頼する者は失望させられる事がない』と、ここでは言われているのである。つまり、主イエスを信じるなら、必ず救われる。罪は赦されて天国に行ける。この約束は必ず実現する。裏切られる事はない、という事なのだ。それに伴い、平安と感謝と喜びを持って日々を歩む事が出来るようにもなる。
 そのような信仰の始まり、それが「聞く」事である。それも脚注にあるように、『キリストの言葉』を聞く事が大切だ。と言うのは、「キリストについての教え」にもピンからキリまで色々あって、何でも聞けばいいというわけにはいかないからだ。聖書も、『混じり気のない純粋な御言葉の乳を慕い求めなさい』と教えている。何かが混じった「キリストについての教え」ではなく、「キリストの教え」られたこと(その本当の意味……主イエスは実は、何をおっしゃったのか)を聞かなければならない。それが、「キリストの言葉」を聞く、という事だ。それでこそ、そこから本物の信仰(主は裏切らない、主の約束は必ず実現する。だから、どんな時も揺るがず、主に委ねられる、という信仰)が始まる。
 たとえ、思い通りにならない事があっても、私達は、自分の心の声や、人の言葉を聞くのではなく、神の言葉を聞く事を選びとろう。そこから信仰が始まる。そして、主への信頼が確立される。





<2013年11月3日礼拝メッセージ> 「魂のケアーを!」 マタイ10:28〜31 

 ここで主は、「体を殺されることを恐れるな」と言っているのではない。拷問でさえ、想像するだけでも恐ろしいものだ。主が言われているのは、「〜な人などを恐れるな」ということだ。何故なら、本当に恐れるべきは、体も魂も滅ぼす権威を持っておられるお方、真の神をこそ恐れるべきだからだ。そして、神を恐れるとは、神を「崇め、敬い、従う」ということであり、そのような態度を「この世の人々」に対してとるべきではない。すなわち、「この世に屈服するな」ということである。決して、体を大事にするなということではない。
 ちなみに、「からだ」という言葉の語源は、卵の「殻」だという。中に身が入っていて、それを入れる器が殻である。つまり、肉体というものは、中に魂(身)が入った「殻だ」ということなのだ。要するに、大切なのは、中身である。殻が割れないようにするのは、中身を守るためだ。同じように私達も、体が壊れないように守る。であるならば、尚のこと、中身(魂・心)を気にかけて、守らなければならないはずだ。
 ゆえに主は言われた。神を恐れよ、と。体も魂も滅ぼす権威を持っておられる神様は、雀一羽さえ養い守って下さる。ましてや、雀より優れた私達を良くして下さらないことがあろうか。神こそ、私達の魂を守り養って下さるお方だ。
 だから、主を認めなさい、と御言葉は続く。これは、クリスチャンであることを隠すな、ということ以上のことだ。この世にあって、イエスを主と認めるということは、誰が何と言おうと主の御言葉に従って生きる、ということである。それがまさに、神を恐れる、ということであり、魂を守る道なのだ。
 魂(心)は、ナマモノだ。すぐに腐る。だから、きめ細かいケア―が必要である。ケアーを怠るとあとで痛い目を見る。油断大敵である。油を絶やしてはならないことは聖書の教えるところだ。だから、絶えず祈りなさい、命のある限り賛美せよ、いつもキリストを思っていなさい、と聖書は言う。それが、魂のケアーなのだ。祈り、賛美、礼拝という魂のケアーを大切にしよう。





<2013年10月27日礼拝メッセージ> 「隔たりを壊せ!」 エペソ2:14〜16 

 隔ての壁(*エルサレム神殿にあった壁のこと)、それはすなわち敵意(*異邦人の庭とユダヤ人の庭を仕切っていた)であり、敵意とは律法(異邦人は聖域に入るべからず、という掟)のことであると聖書は言う。その隔ての壁をキリストは打ち壊して下さった。それも、ハンマーでではなく、十字架で。それゆえに、キリストは私達の平和であると聖書は言う。つまりキリストの十字架は、あらゆる意味においての敵意(隔ての壁)を打ち壊す力なのだ。例えば、恨み、憎しみ、怒り……人と人を隔て、争いを生み、不幸を招く「壁」が心の中にある。主は、その壁を打ち壊し、心の中に平和を実現させることが出来るのだ。『神の国は、あなた方のただ中にある』という主の言葉は、それを現わしている。死んだあと、天国に行けるというだけでなく、地上で生きている間も、心の中に、神の支配する平和が実現するということなのだ。十字架には、その力がある。
 そして、ただ単に、心の問題を解決するだけでなく、十字架は、神との和解へと私達を導く。神と人間との間にあった「隔ての壁」である「罪」を葬り去る、それが十字架だ。そうすれば、神との平和を築くことが出来る。もはや死後の裁き、滅び、地獄を恐れる必要はない。それどころか、神の愛と守り、恵み、祝福を受けることが出来る。それこそが、神との正しい関係である。何故なら、神は、初めから、そうする為に人間を作ったのだから。
 ですから私達は、神の守りと恵み、祝福を求めて祈るべきである。祈らないなら、それは、神に頼らない(神を必要としない)ということであり、自らを神とすることに等しい。それは、神との正しい関係ではない。神は人間を愛し、恵もうとしておられる。そんな神を私達は信頼する。これが正しい関係(神との平和)だ。それを崩してしまってはならない。
 十字架によって「罪」という「隔ての壁」が打ち壊され、実現された「心の平和」。その平和を保つために、主を崇め、信頼し、いつも主と共に歩む者となろう。そのようにして神との関係を、いつも正しい形に整えておこう。





<2013年10月20日礼拝メッセージ> 「喜びが喜び」 詩篇104:31〜35 

 礼拝(ワーシップ)とは、「価値有りとすること」が原意である。私達は毎週の日曜、神を賛美し礼拝する。それは実に、神にはその価値があるからだ。それは、「神は愛である。いつくしみ深く恵み深い。いつも良いことをして下さる」などとほめ歌う通りであり、その宣言は、神への信頼の表れでもあるのだ。ゆえに、その信頼(すなわち、賛美)がある時、私達は様々な問題に対して勝利を得ることが出来る。
逆に言えば、賛美と礼拝が捧げられない時、それは、神への信頼が無いのであり、それゆえに、不安になり、悩み、恐れ、問題に押しつぶされてしまうのだ。聖書が言うように、『主を喜ぶことは私達の力』なのである。
 さて、主は初め、御自身の造られた世界を「非常に良かった」と喜ばれた。が、人間が罪を犯し、完全だった世界が崩れ始めた。主は、それを回復させようと、救いの計画を立てられた。そして、一人の人が悔い改めるなら、天には大いなる喜びが起きる、と聖書は言う。つまり、『主がその御業を喜ばれますように』という願いは、「一人でも多くの人が救われますように」という所に行き着くのである。そのようにして私達が、初めの時のように、神に喜ばれる者となること、それが、神にとっての喜びなのだ。
 そして、『私の心の思いが神の御心にかないますように』と詩篇の作者は願うのだが、その為に何をするべきか。作者は、『私自身は、主を喜びましょう』と言う。そう、主を喜ぶことは、自分自身の力であると共に、主の御心にかなうことでもあるのだ。
 ゆえに、その素晴らしい神をほめ歌おう、と作者は言う。他の誰かが、ではなく、『私は』。誰が何と言おうが、『私は』。しばらくの間は、ではなく、『命のある限り』。それが御心にかなうこと、神に喜ばれることだから。私達は、主を喜ぶ、ということをもっと追い求めよう。そうする時に、あたかも天国にいるかのような、喜びを体験することが可能となる。神の素晴らしさを喜ぶ私達と、そんな私達を喜ぶ神との交わり、それが賛美と礼拝なのである。





<2013年10月13日礼拝メッセージ> 「心が、あらわれる」 ヨハネ1:1〜13

 三位一体なる神の第二位格のことを、「ことば」と呼ぶのはなぜか。それは、言葉は心を最も良く現わすものだからである。主が言われたように、『心にあることを口が話す』のだ。つまり、キリストは「父なる神の御心」を完全に現わすお方だから、「ことば」なのである。

 では、父なる神の御心とは何か。それは、『子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つこと』(ヨハネ6:40)だと主は言われた。その「御心」を主は十字架で完全に現わされた。ところが、『民は受け入れなかった』。「ことば」として、父の御心を完全に現わされたキリストを受け入れないということは、すなわち、そもそもの「御心」である永遠の命・救い・天国を拒むということだ。その結果は、残念ながら滅びである。救いを拒むのだから仕方がない。

 しかし、キリストを受け入れた人々には、神の子供とされる特権が与えられた。これが私達の受けた恵みである。それは『血(血筋、民族、国籍)によってではなく』とあるように、たとえユダヤ人であるとしても、それで救われるのではないのだ。また、『肉の欲求や人の意欲によってでもなく』とあるように、一生懸命努力して、その熱心さで救われるのでもない。『ただ、神によって生まれる』のだ。ゆえに私達は、「神の御心」を受け入れることが必要だ。実は、それこそが、「キリストを受け入れる」ことなのである。何故なら、キリストは「神の御心」を現わす「ことば」なのだから。そして、その人こそが、「神によって生まれた」人なのだ。
 そのような「神によって生まれた者」は、世に勝つし、罪の中に生きない、とヨハネはその手紙の中で言う。何故なら、罪の中に、ではなく、神の愛と守りの中に生きる者となるからだ。勿論、世にあっては患難がある。しかし、信仰によって試練を乗り越える力が与えられ、この世の悩み・苦しみに勝利するのだ。そう、神は、私達が自分の力に頼るのではなく、信仰によって世に勝つことを望んでおられる。その「御心」を受け入れて、神の憐れみと恵みを求めて祈る、それが「神によって生まれた者」なのである。そして、その「神の子」に与えられた特権、それこそ、祈ることなのだから、祈らない手はない。神の御心を受け入れて(神によって生まれた者として)、その特権を用いて(祈って)、勝利を取る者となろう。




<2013年10月6日礼拝メッセージ> 「最善×最悪=完璧」 伝道者の書3:11〜14 

 二つのことが言われている。まず、「神のなさることは、みな永遠に変わらない」。途中で計画変更などは無い。初めから完璧な計画なのだ。その「神のなさること=神の御計画」とは、救いの計画であり、それを教えるのが聖書だ。そして、聖書(神の言葉)は、草が枯れ花は散ろうとも、とこしえに変わらない。信じる者を完全に救うことが出来る、完全な計画なのである。「それを取り去ることは出来ない」と伝道者は言う。罪ある人間には救いが必要だ。それを取り去るわけにはいかない。それゆえ神は、人に「永遠を思う思いを与えられた」。言い換えれば、神を思う思い(信仰心・宗教心)だ。時代がどんなに変わっても、それは変わることが無い。人は常に神を求めている。その「思い」を取り去ることは出来ない。しかし人は、それ(神を思う思い)を与えた「造り主なる神」を悟らない。永遠を思う思いがあるにもかかわらず、地上のことしか考えようとしない。確かに神は、地上での人生における、楽しみ・喜びを与えて下さった。しかし、それは本当の満足を与えてくれるわけではない。神が備えて下さった全ての祝福は地上にではなく、天(神の元・天国)にあるのだ。だから人間には、どうしても神が、救いが、天国が必要なのである。それを取り去るわけにはいかない。
 そのような「神のなさること」、もう一つは「全て時にかなって美しい」だ。神は、いつも一番良い(一番効果的な)タイミングで最善をなされる。しかし、それは裏返せば「最悪の状況」だとも言える。例えば、野球で9回裏ツーアウト、ツーストライクという状況。ここで逆転ホームランを打てば最高! というシーンだ。まさに「ここぞ」と言うべき、一番効果的なタイミングだろう。だが、それは、あと一球でお終いかもしれない「もうあとが無い」「絶体絶命」「風前の灯」という最悪の状況でもあるのだ。しかし、だからこそ、それが絶好のタイミングとなる。神の時は、そんな時であることが多い。死後4日も経ったラザロがよみがえらされたように、人間の力の尽きた時(最悪の状況)が、神の働く時なのだ。そのような「神のなさること」は、完璧なのであって、その神の前に、へりくだり、神の時を待とう。





<2013年9月29日礼拝メッセージ> 「しるしで知るし」 マタイ12:38〜40 

 しるし(証拠としての奇跡)を見たい、と言うパリサイ人達に、主イエスは『ヨナのしるしの他にはしるしは与えられない』と言われた。が、実際、主は数多くの奇跡を行なわれたではないだろうか。では、ヨナ以外にしるしは無いというのはどういうことか。
 「しるし」、それは「御言葉が、確か(本当・真実)である証拠」だ。どんな事実も、証明しなければ認められない。例えば、身分証明書だ。私が私であることは事実なのだが、それを証明することが求められる。神の存在・愛も事実であり、間違いないのだが、「証明しろ。証拠を見せろ」と人々は言う。それに対して、主は「すでに見せた」と言うのである。つまり、「証拠は、ヨナだ」というわけである。
 ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたのは、主イエスが十字架で死んで三日目によみがえることの予表であり、十字架のひな形である。ただ、それは何もヨナに限ったことではない。聖書(つまり旧約)全体が、救い主(十字架)の約束であり、神の愛の証明なのだ。その「救いの計画(福音)=十字架」を教える神の言葉(聖書)こそが、最大の証拠であり、それ以外には与えられない。それが「ヨナ以外には、しるしは無い」ということの意味なのだ。
 ルカ16章で、「死人がよみがえれば、彼らも信じるだろう」という訴えに対して、アブラハムは「すでに与えられている聖書を信じないなら奇跡は無意味だ」と答えた。何故なら、奇跡は、あくまでも「神の言葉が真実であることの証拠」だからだ。だから、第一歩として、御言葉を信じる為に「証拠」は必要かもしれない。主も、天に帰られた後も、御言葉に伴うしるしをもって御言葉を確かなものとされた。しかし、そうして、御言葉を信じた(御言葉は真実だということが分かった)なら、もはや、証拠は要らない。あとは御言葉に信頼するのみだ。なのに、証拠としての奇跡(しるし)をことさらに求めるのは、御言葉への信頼が足りないということになる。
 私達は「御言葉信じる為の証拠」を求める「幼子」ではなく、主は憐れみ深い、という御言葉を信じる「成長した大人」として、主の憐れみ(癒し、慰め、御業)を求めよう。





<2013年9月22日礼拝メッセージ> 「本当に・・・、その3」 ヨハネ8:31〜32 

 どうすれば自由になれるのか。「@真理を知れば」と主は言われた。真理とは何か。簡単に言えば、「真実な道理・本当のこと」だ。
 本当のことを知らないせいで愚かなことをしていた、ということがある。知れば、「なあんだ、そうだったのか」と、その愚かなことから解放される。特に、霊的なこと・死後の問題・神……についての真理・本当のことを知らないまま変な固定観念に縛られている人は多い。
 どうすれば、真理を知ることが出来るのか。主は言われた。「A本当の弟子(クリスチャン)になれば」、と。例えば、「13日の金曜日」。キリストが殺された不吉な日、と一般的に認識されている。が、しかし、本当は正反対。それはクリスチャンにとっては、キリストが十字架で死んで、私達の罪を処分してくれた日、救いの道を完成して下さった日、グッド・フライデーなのだ。他にも、「信じる者だけ救う、というのは心が狭い。キリスト教は排他的だ」というような声を聞くが、本当は、「誰でも救われる」と聖書は教えている。そして「全て疲れた人重荷を負っている人はわたしのところに来なさい」と主が言われた通り、排他的なのではなく、逆に、全ての人を招いているのである。本当だから、嘘じゃないから、信じなさい、と言っているのであって、信じた者にはそれが本当だ(真理だ)と分かるのだ。
 では、どうすれば、そんな本当の弟子になれるのか。「Bわたしの言葉にとどまるなら」と主は言われた。そのことを教える為に、「ぶどうの木と枝」のたとえ話がある。木から離れた枝が枯れてしまうように、神から離れた人間は(たとえ一時的に、生け花のように、見事に咲き誇ることはあっても)、やがて枯れてしまうのだ。
 では、どうすれば、キリストに「とどまる」ことが出来るのか。それは、御言葉に従う(実行する)ことだ。「信じる」という観念的なところにとどまっているのではなく、その信じた御言葉に従って行動する、それが「キリストにとどまる」ということなのだ。そうすれば、本当の弟子となり、真理を知り、(『わたしが道であり真理であり命だ』と言われた、その)真理である主イエス御自身が、その全能の力をもって、あなたを自由にする。





<2013年9月15日礼拝メッセージ> 「明日の為に、その3」 ヨハネ15:16 

 『私が、あなた方を選んだ』と主イエスは言われた。それは、『聖霊によらなければ、イエスを主と告白することは出来ない』と聖書にあるように、「信仰は神によって与えられるものだ」ということだ。ということは、私達人間が、イエスを救い主に仕立て上げた(祭り上げた)のではない、ということである。それは実に、神の主権による。神からの一方的な恵みなのだ。
 その目的は3つ。まず、@「実を結ぶ為」。御霊の実(愛・喜び・平安……)である。それが無いと心が破壊されてしまうほどに、全ての人が、それを欲しながら、それでも手に入れることが困難で苦しんでいる、その「愛・喜び・平安」を与える為に、神は私達を信仰へと導いて下さったということだ。次に、A「その実が残る為」。聖書が教える通り、神が下さる「愛・喜び・平安」は、いつまでもなくならない。そして、驚くべきことに、B「主イエスの名によって祈るなら、何でも与えられる為」だという。これは特権である。普通は、他人の名前を勝手には使えない。権威ある人の名前なら尚更だ。それなのに、主の主・王の王、唯一真の神である主イエスの名を使うことがクリスチャンには許されているのだから、この特権を使って祈らない手はない。
 ただ、問題は「何を祈るか」だ。聖書は、『御心に適う祈りは聞かれる』と教えている。わがままをゴリ押しすることが「祈り」なのではないのだ。では、主の御心は何か。それは、明らかだ。『神は、全ての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる』。そう、神は、私達が信じるようになる(神に信頼するようになる)ことを望んでおられるのだ。ゆえに、「信じたいです」という願いは聞かれる。聖霊なる神が働いて下さって、主イエスを信じる心を与えて下さるのである。更に主は、私達が神に信頼して、あらゆる問題に勝利するようになることを望んでおられる。ゆえに、「その信仰を与えて下さい」という願いは、御心に適うのである。もし今、自分の信仰が足りなくて、乗り越えられない問題があるとしたら、それは『願わないから』だとヤコブは言う。私達は祈ろう。「神への信頼を強めて下さい」、「御霊の実を結ばせて下さい」と。特権を用いて。





<2013年9月8日礼拝メッセージ> 「誤魔化さない」 使徒2:37〜41 

 「神の計画によって、あなた方の為に遣わされた救い主を、あなた方は殺したのだ」というペテロの説教を聞いて、人々は心を刺された。「取り返しのつかないことをしてしまった、どうしたらいいんですか」という悲痛な訴えにペテロは答えて、「この曲がった時代から救われなさい」と言った。すると、3000人ほどが洗礼を受けた。
 真の神に従わない「この世」、あるいは、その人生は、曲がっていると言わざるを得ない。「命よりカネ」という今のご時世だ。その曲がった時代から救われる(逃れる、脱出する)ということは、聖書の教える(たとえ全世界を手に入れても、真の命を損じたら何の得があるのか。今さえ良ければいいのではなく、永遠の尺度で生きるべきだ、という)価値観で生きることであり、それが「悔い改めて、洗礼を受ける」=クリスチャンになることなのだ。
 ただし、「逃れる」と言っても、決して現実逃避するのではない。もし私達が、現実の問題に目をつぶって、天国を想像して、苦しみを忘れようとするなら、それはマルクスが言ったように「宗教はアヘンだ」となってしまうだろう。私達は、自分を誤魔化すのではない。天国の信仰を持つことによって、命を大切にするようになり、生きる力が与えられ、希望と平安が与えられる。神には、その力があると信じることによって現実の生活が変わるのだ。
 主イエスは、十字架の苦しみの中で、差し出された「没薬を混ぜたぶどう酒」を飲まなかった。何故なら、それは「感覚を麻痺させる為のもの」だからだ。主は、十字架の苦しみから逃避することなく、人間の全ての罪を受け止めて、ついには復活によって、その苦しみに勝利された。この、神の御計画に従って召された人の為には神は全てのことを働かせて益と変えて下さるのである。ゆえに、信じる者は、現実の問題に勝利することが出来るようになる。主は、苦しんでいる者を助けることがお出来になるのである。そのように、現実の中で、力強く生きる術、それが信仰なのだ。
 曲がった「この世」の価値観で生きるのではなく、救われて、聖書の教え(その価値観)で生きる者となろう。





<2013年9月1日礼拝メッセージ> 「還る、帰れ、必ず帰る」 イザヤ55:6〜13 

 神に帰れ、とイザヤは言った。神を信じるということは、何か異常な別の世界に行ってしまうことではない。それは元に戻ること、人間の本来あるべき姿(初めの人間が罪を犯す前の、エデンの園にいた、神の愛と守りの中にある幸いな状態)に還ることなのだ。
 その「帰る場所」が無い(知らない)ということは、迷子と同じだ。自分がどこから来てどこへ行くのか分からない、ひいては、何の為に生きているのか、自分は何者なのか、分からないということだ。
 しかし聖書は教える。人間は神によって造られた、と。これが「どこから来たのか」の答えだ。そして、やがて天国(神の元)に帰る。これが「どこへ行くのか」の答えだ。それまでの間(地上の人生)は、旅だと聖書は教える。その旅を楽しむ為に、どうしても「帰る場所」が必要なのである。帰る場所を知らずに旅しているなら、それは旅とは言わない。さまよってる、と言うのだ。そんな人生は当然、苦しい。
 だから聖書は言う。帰って来い、と。そうすれば赦し、豊かに憐れんで下さる、と。どれほど豊かにか。それは人間の思いをはるかに超えている、と神ご自身が言う。
 神の元に帰る、それは、天国に行くことのみを意味するのではない。今、地上の人生を送る中で、悔い改めて、救い主イエス・キリストを信じる、それが「神に帰る」ことなのだ。そうすれば、罪の赦し、永遠の命、生きる意味と生きる力、喜びと希望、新しい人生が与えられる。それは、必ずだ。それは降った雨が、必ず地を潤し、物を生えさせるように、必ず、その人生に豊かな実を実らせる。茨の代わりにもみの木が、おどろの代わりにミルトスが……つまり、呪いに代わって祝福が臨むのだ。
 神は待っておられる。今の内に神に帰るべきである。決して、神が会ってくれなくなるのではない。神が離れて行ってしまうのではない。離れてしまうのは、いつも人間の側だ。エデンの園から出て行ったのは人間なのだ。私達は、そうはなってはいけないし、今、そうでない(神から離れようとしていない)内に、神を呼び求めよう。主は豊かに憐れんで下さる。




<2013年8月25日礼拝メッセージ> 「本当の(に)愛?」 Tコリント13:1〜13 

 愛とは……? 色々な説明の仕方があろうけれども、一つは、愛するとは、「大切にすること」と言うことが出来る。それゆえ、相手の最善となることを求め行う。当然、そこには厳しさも伴う。甘やかすこと(何でも許すこと)が愛なのではない。
 さて、聖書は、神からの愛の言葉である。私達人間にとっての最善を願ってのものだ。すなわち、キリストに導いて自由と解放を与える(罪の赦しと永遠の命へと導く)為のものなのである。ゆえに、旧約の律法も、キリストに導く為に正しく用いられてこそ意味がある。例えば、申命記21:18〜21だ。簡単に言えば、「親に逆らう子供は殺してしまえ」ということだ。「この教えも守るべきだ」と主張する人々がいるが、しかし、「子供を殺せ」という教えを聞いて、クリスチャンになりたがる人がいるだろうか。
 聖書は、特定の民族の、特定の時代・社会の中で、特定の状況を前提として語っているのが大部分であり、それを、「いつどこででも通用する普遍的な掟」として読んではいけない。それを無視して、全ての教えを生活に当てはめようとすれば大変なことになる。
 問題は、「何が本当に人間の為になるのか」だ。神は、その「人間の為」を願って聖書を与えられた。しかし、その聖書の言葉が、時に、人間の為にならない形で使われてしまう(本末転倒している)場合がある。例えば、『安息日(律法)の為に人間があるのではない。人間の為に安息日がある』(マルコ2:23〜27)とイエスは言われた。そう、だから私達は、自分の為に(自分の幸せの為に)安息日を守る。そうしなければ、幸せになれない。「だから、安息日厳守だ。死んでも守れ!」……ここまで行けば、本末転倒である。
 どこまでが人間の為か、どこからが律法の為になってしまうのか。「裁くな」という戒めを守って、罪を放置するのが人の為なのか。裁いてでも罪を取り除くのが人の為か。そこに本当の愛が必要だ。何でも目をつぶる(責めない、甘くする)……そこに愛はない。
 だから聖書は言う。愛を追い求めなさい、と。その意味で、究極の最善は、人々をキリストに導くことだ。それを追い求めよう。






<2013年8月18日礼拝メッセージ> 「喜びの増やし方」 ローマ12:15 

 一般的に、泣くことが「良いこと」であると積極的に考えられることはあまりない。クリスチャンでも、それを「不信仰」と捉える場合があり得る。しかし聖書は、共に泣きなさい、と言う。そう、喜びも悲しみさえも共有する、それが教会だと言うのである。
 ヤコブ5:13には、苦しんでいる人は祈りなさい、とある。勿論、私達は、いつでも祈るべきである、と聖書から教えられているのだが、特に、苦しい時は、いや、苦しいからこそ祈るべきなのだ。とは言え、苦しさのあまり、祈りの言葉さえ出てこず、ただうめくように、「主よ」とつぶやくしかない、という時があるかもしれない。しかし、そのような時、実は、聖霊なる神が、共にうめき、祈って下さっているのだ。(ローマ8:26)
 共に泣き、共に苦しんでくれる……それが慰めであり癒しである。だから、主イエスは、苦しむ者の苦しみを共有して下さったのだ。例えば、「私達を憐れんで下さい!」と叫ぶ二人の盲人を見て、主は、かわいそうに思い、癒しを与えられた。何より、神から離れて、苦しみの人生を送り、やがて地獄の苦しみに落ちようとしている人間の、その苦しみを背負って主は十字架に掛かられた。実に、私達と共に泣き、共に苦しみ、私達を慰め、全てを癒して下さるお方なのだ。
 そればかりか、主は喜びをも増し加えて下さる。その為に、『喜ぶ者と共に喜べ』と言うのだ。例えば、喜びを隠して我慢するのは苦しい。しかし、それを誰かに分かつ時、抑えていた喜びが溢れ爆発するものだ。それゆえ聖書は言う。『あなた方の中で喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい』と。救いの喜び、恵み、感謝……それらを皆で一緒に、共有するのだ。そうすれば、その喜びは溢れ爆発する。それが教会なのである。
 今、もしかしたら、病や問題の中にある方がおられるなら、主の憐れみを求めて祈ろう。主も共にうめき、泣き、慰めを与え癒して下さる。そして、教会には、主の恵みと憐れみを喜んでいる人が必ずおられる。その人と共に、一緒に主を喜び賛美しよう。そうすれば、喜びが増し加わる。






<2013年8月11日礼拝メッセージ> 「平和を取り上げるな」 ルカ10:38〜42 

 マルタが、もてなしをしていたこと自体を主は責めてはおられない。一人一人異なった賜物を持っているのだから、奉仕であれば奉仕しなさい、と聖書(ローマ12:6〜8)も言っている。が、問題は、マルタが、「気を使っている」(ギリシャ語のソルバゾー。意味は、「心をかき乱している」)ことだ。それに対してマリヤは、心を一つにして主の御言葉に聞き入っていた。どちらが良いことか。つまり、比べられているのは、御言葉か奉仕か、ではない。心をかき乱すか、平安(心を一つにする)かなのだ。マリヤは、その良い方を選んだ。
 だが、主はマルタに、「あなたもそうしなさい」とは言わなかった。直前に出て来る「良きサマリヤ人のたとえ」では、『あなたも行って同じようにしなさい』と言われたのに、マルタに言われたのは、『彼女からそれを取り上げてはいけません』だ。
 さて、「どうしても必要なことは一つ」について再確認しよう。それは、他のものは要らないという意味ではない。むしろ今の時代、無いと困るものが沢山ある。携帯しかり、パソコンしかりだ。しかし、ヨハネは、「世にあるもの(肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢)などを愛してはいけない」と言う。それらを愛し求め過ぎる故に、いさかいが生じる、それが現実だ。確かに、お金も、必要だが、そのせいで心が壊れるなら意味がない。つまり、どうしても必要なもの、それは、心の平和なのだ。それが無いから、人は死ぬ。
 マルタの心はかき乱れて、怒り、不平、不満、苛立ちが心に渦巻いていた。心に平和がなかったのだ。しかし主イエスの言葉に聞き入るマリヤの心には、恐れも不安も悩みもなく、平和が満ちていた。その「心の平和」さえあれば、どのような境遇でも生きて行ける。それこそが、どうしても必要なことなのだ。マリヤは、それを手に入れることを選んだ。そして主イエスは、『それを取り上げてはいけない』と言われた。誰が、取り上げようとするのだろう。それは、時には、自分自身ではないだろうか。聖書を読むのを、祈るのを、教会に行くのを、やめてしまうことによって。どうしても必要な「心の平和」を得る為のたった一つのこと、それを自分から取り上げてはならない。





<2013年8月4日礼拝メッセージ  説教者 永井 明牧師> 「神との連れ合い」 創世記3:8〜15 




<2013年7月28日礼拝メッセージ> 「出来ない、出来る!」 ローマ10:8〜11 


 ここで聖書は、『御言葉は、あなたのすぐ近くにある』、すなわち、一個人にとって信仰を持つことは何も難しいことではない、と教えている。それどころか、そもそも信仰は誰でも(無宗教の人でも)持っている。と言うのは、信仰とは「何かを信じ頼ること」だからだ。ある人は、お金を、会社を、国を、科学を、過剰に信じ頼っている。だが、その信頼は裏切られる。実に、この世の中は、嘘と誤魔化しだらけである。しかし、キリストへの信頼は裏切られることはない、と聖書は言う。何故なら、キリストは嘘がつけないからだ。例えば、救いの計画。それは、キリスト御自身が人間の身代わりに死ぬことだ。それは当然、嬉しいことのはずがない。キリストも苦しみ、その計画が避けられたら、と願われた。だが、キリストは、あくまで当初の計画通り、自ら進んで十字架に掛かられた。ご自分が立てた計画を曲げるなどということは出来なかったのだ。それほどに嘘をつくことが出来ないお方なのである。まさに、彼に信頼する者は失望させられることがないのだ。
 ただし、問題は、その「信頼の仕方」である。例えば「神は全能だから、任せておけば全て上手く行く」と信じ頼るなら、失望するだろう。勿論、神は全能であり、良いことをして下さる。それは本当だ。けれども、それは、何でも願いが叶うということではない。私達がどんなに願っても、努力しても、思い通りに行かないことが沢山ある。幸せも、皆が願い、一生懸命頑張っている。しかし、皆、苦しんでいる。幸せも、救い(天国)も、人の願い・努力によるのではなく、神の憐れみによる。その「神の憐れみ」、それがキリストの十字架だ。何の行いのない者でも、信じるなら、救われる。弱い人も、貧しい人も、差別されている人も、誰でも救われる。そして、その信仰を持つことは難しいことではない。『あなたの近くにある』のだ。手を伸ばせば(心を開けば)、掴むことが出来る。救われる。
 その(キリストへの)信頼は、決して裏切られることがない。何しろ、キリストは嘘をつくことが出来ないのだから。そういうお方に信頼すればこそ、安心出来る。





<2013年7月21日礼拝メッセージ> 「おーい、おーい!」 ヨハネ10:1〜6 

 聖書は、究極的には、全ての人に対する神からのメッセージである。が、それ以前に、聖書に記されている「言葉」は、「その時、誰に対して語られていたのか」を無視してはならない。
 さてそこで、ヨハネ10:1〜5の例え話だが、これはパリサイ人達に対して語られている。つまり主は、当時の宗教的指導者達は盗人で強盗だ(人々から天国を奪い去っている)と、非難しているのである。それが、「その時」のメッセージだ。所が、語りかけられた(それを受け取るべき)当のパリサイ人達は、『何のことかよくわからなかった』という。このことの意味は深い。
 主は言われた。羊は自分の牧者の声を知っている、と。呼ばれたら分かる、それが羊だ。いや、むしろ、方向音痴である羊は、自分の牧者の声を敏感に聞き分けてついて行かなければ、生きて行けないのだ。同様に、私達(主の羊)も、私達の魂の大牧者であられるお方の声に敏感にならなければならない。つまり、「それが本当に主イエスの声かどうかを聞き分ける必要がある」ということだ。これが、この例え話の持つ「全ての人へのメッセージ」である。語りかけられた私達は、それを分からなければならない。
 所が、それが難しい。よく似た声が沢山あるからだ。勿論、声と言っても、耳に聞こえる声のことではない。それは、聖書の教えのことだ。「これは本当に聖書の教えなのか」「何か混じってはいないか」……それを見分けるのは容易いことではない。下手をすると、アダムとエバの二の舞になってしまう。Uコリント11:13〜14には、にせ使徒、にせ預言者の存在が言及されいている。『しかし、驚くには及びません』と言うのだ。何故なら、『サタンさえ光の御使いに変装する』からだ。それほどに、偽りの教え(キリストの心からかけ離れた教え)が蔓延しているということだ。私達は、主イエスの声(聖書の教え)を自分で聞き分けなければならない。何が神の御心か、何が聖霊の導きか、を判別しなければならない。それが出来ない(させない)としたら、それはもはやマインドコントロールかもしれない。
 私達は、主イエスの声(教え)を知る者となろう。






<2013年7月14日礼拝メッセージ> 「天国は、かえる?」 Tペテロ1:23〜2:2 

 『草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない』……これが福音だ、とペテロは言うのだが、はて、私達が聞いた福音は、Tコリント15章で、はっきりと言われているように、キリストの十字架と復活ではなかったか。そうだ、十字架で私達の罪を背負い身代わりに死なれ、三日目に甦られて今も生きておられる救い主イエス・キリストを信じるなら救われる、これこそが福音だ。
 ただ、ペテロは、「その福音の言葉がこれだ」と言うのである。つまり、「その福音の言葉は、とこしえに変わることがない、と聖書に書いてあるとおり、たとえこの世が滅びても、信じる者は必ず救われる」ということなのである。
 クリスチャンは、その「変わることのない真理の御言葉」に従う(信じてバプテスマを受ける)ことによって救われた。だが、知らず知らずのうちに教会での教えの中に異質なものが入って来て、信仰的な聖さが失われてしまうのだ。例えば、ニューエイジ、心理学、自己啓発・可能性思考……。そのような教えを捨て去り、混じり気のない純粋な聖い御言葉を慕い求めなさい、とペテロは言う。何故なら、「それによって成長し、救われる為」だ。
 誤解してはならない。クリスチャンは既に「信仰によって救われた」(エペソ2:8)のであって、救われる為に何かをしているのではない。だが、その「信仰によって救われた」という教えに何かが混じり込んでしまうなら、救いを見失ってしまう。だから、黙示録2章で、主は、「初めの愛に帰れ」と言うのだ。
 クリスチャンの始まり、その信仰の原点、すなわち、Tコリント15章にある通り、キリストの十字架と復活である。この「福音をしっかり保っていれば救われる」のだ。そして、これこそが、純粋な、混じり気のない、聖い御言葉の教えなのである。
 この信仰をしっかり保つ為に、「純粋な、御言葉の乳を慕い求めなさい」と聖書は言う。それによって成長するのは勿論、「福音をしっかり保って」救いを得る為なのだ。





<2013年7月7日礼拝メッセージ> 「くう、きよめ?」 Tペテロ1:13〜16 

 クリスチャンは、試練はあっても、喜びを失わない。何故なら、信仰の結果である救いを得ているからだ。「ですから、キリストの現れ(すなわち、再臨)の時にもたらされる恵みを待ち望め」とペテロは言う。
 やがて世の終わりが来る。そして、携挙・千年王国・新天新地という途方もない出来事が起こることを聖書は教えているが、私達は、どれくらいそれを実感しているだろうか。いや、勿論信じてはいるが、実感はないという方が正直ではないだろうか。しかし、その時に注がれる恵みの大きさを知って、喜び待ち望むべきだ。それも『心を引き締め、身を慎み』ながらとペテロは言う。それが、再臨の備えなのだ。そして、『従順な子供となり』『聖なる者とされなさい』も加える。
 再臨の備えとして、何故、「聖め」が必要なのか。聖い人しか天国に行けないからだろうか。いや、『あなたがたも、聖でなければならない』と言われる理由は、『わたし(神)が聖であるから』だ。
 それは旧約からの引用であるが、レビ記11:41〜43には、ある種の虫を食べるな、と教えられている。その理由が、『神が聖であるから』だ。はて、「聖め」とは、虫さえ食べなければ、成し遂げられるのだろうか? いや、これは、エデンの園での「禁断の木の実」と同じく、神の言葉に従うかどうか、なのだ。アダムとエバは背いた。その時、人間に罪が入った。従っていれば罪は入らなかった(完全に罪から「分離されている」、すなわち、「聖い」)のだ。つまり、神の言葉に従うことこそ、「聖め」だということである。
 その意味で、「あなた方は、真理に従うことによって、魂が聖められている」と、Tペテロ1:22に言われている。すなわち、救われているのだ。だから、更に御言葉に対して「従順な子供となって聖められるように」と聖書は言うのである。それも『あらゆる行いにおいて』だ。何事においても、御言葉の指し示すところに従って行う、それが再臨の備えなのである。
 世の終わりが近い、ということは実感する今の時代、主をお迎えする備えとして、私達は、御言葉に従う(=聖い)人となろう。







<2013年6月30日礼拝メッセージ> 「いつもここから」 ピリピ3:17〜21 

 パウロは、ひたむきに目標を目指して一心に走った、そのような生き方を見倣うように、と言う。それも、すでに達している所を基準として、だ。勿論、信仰の成長具合とか、知識とかは、人それぞれだ。しかし、全てのクリスチャンがすでに到達している所がある。それは、天に国籍を持つ者となった(救われている)ということだ。そこが基準であって、いつもそこから進んで行くのである。決して、後戻りしてはならないし、救いを疑うべきではない。パウロのように、前進あるのみだ。
 『と言うのは、多くの人が十字架の敵として歩んでいるから』だと続く。それは、教会を迫害しているというようなことではない。その意味は、地上のことだけを考えて生きているということだ。多くの人が、そのように、この世のことだけを考えて生きているのであって、『彼らの最後は滅び』だと聖書は厳しく指摘している。それは、神によって決められていること(裁き)であり、変えることの出来ない厳然たる事実の提示である。その逆は、『信じてバプテスマを受ける者は救われる』だ。従って、私達人間が「あの人は天国、あの人は地獄」などと裁く(罪に定める)ことは出来ないが、ハッキリ言えることは、十字架の敵として歩むなら、その最後は滅びだ、ということだ。
 そして、クリスチャンであっても、もし、天国の希望を忘れている(考えてない)なら、それは、十字架に敵対することなのである。何故なら、十字架は、信じる者に天国(救い)を与えるものであるからだ。なのに、天国の希望を忘れて生きるなら、それは十字架に敵対することになってしまう。
 『けれども、私達の国籍は天にある』と聖書は断言する。そう、それこそが、私達全てのクリスチャンの達している所(基準)なのだ。そこから更に、ひたむきに、前進して行かなければならないのである。決して、地上のことを無視しろというのではない。しかし、もし、地上のことしか考えない(天国の希望を忘れる)なら、最後に残るのは、絶望だけだろう。それが、十字架に敵対することなのだ。私達は、いかなる時も、天国の希望を持って歩もう。そこが基準である。







<2013年6月23日礼拝メッセージ> 「本当は・・・ネ」 ヨハネ8:30〜32 

 真理を知らない多くの人は、偶像に縛られ、祟り、呪い、バチに縛られ、自由がない。私達人間は、聖書を、真の神を知らなければならない。
 さて、主イエスの話を聞いた多くの人がイエスを信じた、と聖書にある。しかし、その「イエスを信じた人々」に対して、主は言われた。『もし、わたしの言葉にとどまるなら……あなたがたは自由になる』と。つまり、イエスを信じただけでは、まだ本物ではない、主イエスの言葉にとどまるなら本当にキリストの弟子であり、そうすれば真理を知り、自由になるというのだ。
 当時、主イエスが伝道しても、信じる人は、意外に多くはなかった。奇跡がたくさん起きても、死人がよみがえっても、だ。
 勿論、神は全ての人が救われることを望んではいる。望んではいるが、一方では、「救われる人より、滅びる人の方が多い」という意味のことを言っておられる。それどころか、滅びの人が現れなければならない、とまで。大きな門(広い道)を通りたいと思う人が多く、救いに至る小さな門(狭い道)を選び取る人は少ないのだ。
 であるなら、クリスチャンの少ない日本で、私達が救われているということは、大きな恵みだ。救われる人はわずかだ、という、そのわずかの中に入れられていることを感謝しよう。
 だが問題は、その「わずか」の中に、家族や友人も導くことだ。その為に、まず私達が、本当のキリストの弟子にならなければならない。すなわち、主イエスの言葉にとどまって(その教えから離れることなく、キリストの心を学び取り)、御心を行うことだ。そうすれば、真理を知り、自由になれる。
 主イエスの「大宣教命令」を思い出そう。主は、『あらゆる国の人々を弟子としなさい』と言われた。クリスチャンが増えるのは喜ばしいことではある。しかし、主が命じられたのは、『弟子としなさい』である。大事なのは、本当にキリストの弟子となることだ。私達は、主イエスの言葉にとどまろう。キリストの心を知って行う者となろう。それが、本当の弟子だから。