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2019年10月1日、玄武書房より全国発売されました。アマゾンにて購入いただけます。画像をクリックすると購入ページに飛びます。
以下、礼拝メッセージの要約と共に音声もお聴き頂けます。
2025年11月16日礼拝メッセージ マルコ1:1
メッセージは11分半頃からです。
2025年11月9日礼拝メッセージ マタイ28:18〜20
メッセージは12分頃からです。
大宣教命令と呼ばれる個所だが、そもそも宣教とは何か。未信者に伝道する事か。いや、宣言し(宣言を)教える事であるがゆえ、信徒に教える事…それも宣教なのである。
そこで「主の命じた全ての事を守る様に教えよ」だが、全てを守らなければ失格・地獄と言うなら、それは律法主義だ。しかし「神を愛し隣人を愛する」事によって、全ての事を守る…が可能となる(マタイ22:37〜40)。ただし「隣人を愛する」とは、救霊の思いと行動の事(それが神の愛)なのであって、親切にしたり仲良くする事とは違う…という様な事を教えなければならないのである。
次に「あらゆる国の人々を弟子とせよ」だが、誤解してはいけない。これは「全ての人をクリスチャンに…」ではなく「これからは異邦人にも伝道せよ」という事だ。
続いての命令だが「父・子・聖霊の御名によってバプテスマを…」なのか「イエス・キリストの御名によって…」なのかという論争がある。だが、それは本題から外れた事だ。実はこれは「神の御名の中に浸せ」という命令なのである。と言うのは「によって」は、ギリシャ語の「エイス(〜の中に)」となっているからである。もし「誰の名前によってなのか」と言いたい時は「エン」でなければならないからだ。要するに主は「洗礼を受けて弟子となった人を、更に神様漬けにせよ」と命じられたのだ。決して洗礼式の事ではない。勿論、洗礼式は必要だが、この命令は更にその上を行く。「弟子達を神の御名の中に漬け込め」…それが大宣教命令なのである。一夜漬けでは神の御心が染み込まないからだ。キリストに似た者になるなど程遠い。
この大宣教命令が下された理由・根拠は「主には一切の権威が与えられている」からだ。つまり、救いも裁きも、主に権威があるからなのである。その権威ある主は「いつも、あなた方と共にいる」と言われた。「あなた方」とは誰か。全ての人ではない。主の命令を守る人の事だ。では主の命令とは何か。どの命令を守ればいいのか…それを教えろと主は言われているのである。主がその人と共にいる為だ。
私達は、主が共にいて下さる者でありたい。
2025年11月2日礼拝メッセージ マタイ28:7〜17
メッセージは12分からです。
恐れるマリヤ達に、天使は「復活の主とガリラヤで会えると弟子達に伝えよ」と語った。それを受けて急ぐマリヤ達に現れた主が同じ事を繰り返して言う。それ程重要な事なのだ。そして「恐れるな」も繰り返された。恐れると正しい判断・行動が出来ないからだ。つまり、何としても復活を伝えてもらいたいのである。
一方、番兵達が一切の出来事を祭司長の所に報告に来た。通常なら指揮官である総督ピラトに報告すべきだが、任務失敗に伴う刑罰・死刑を恐れて、回避する為に泣きついて来たのだろう。それで祭司長達は番兵に指示を与えて庇ってやるのだが、そんな義理は無いはずだ。しかし思惑がある。すなわち、両者共、キリストの復活を隠したいという事だ。それがどれ程の恩恵を自分達にもたらすか…その点において利害が一致しているのである。その結果、イエスの遺体は盗まれた(復活したのではない)という話が広く広まってしまった。利得の為なら真実はどうでもいい事とされる。それは、どの世界でも同じだ。
そんな中で弟子達は、主に会う為にガリラヤに行った。騙されなかったのだ。自分達は盗んでいない事(真実)を知っているからだ。その様に正しい行動をとる為に「恐れるな」「ガリラヤに行け」を2回言われたのである。それで弟子達は見事に主とお会いした。「しかし、ある者は疑った」とあるが、トマスの事だろうか。彼は主の手に釘の跡があれば「甦った」と信じると言った。しかし、それなら単なる生き返りに過ぎない。結局トマスは復活を分かっていないのだ。復活の主は栄光の体である。だから「(傷跡を)見ないで信じる者は幸い」と主は言われたのであるが、これも甚だしく誤解されている。「自分の願い事がまだ実現していなくても、見ないで信じよう」という風に。
とにかく、広く広まっている話には気を付けたい。典型的なのが進化論である。現に、大多数の人々がそれに騙されている。そして、大本営発表とも言うべきテレビ・新聞等、マスコミによる過度の煽りだ。
真実はどこにあるのか。勿論、少数意見なら正しいという訳ではないが、こと天国への道については主の言葉の中に真実があるのは間違いが無い。全力でそれを読み解き、真実を知る者となろう。
2025年10月26日礼拝メッセージ マタイ27:62〜28:6
メッセージは12分半頃からです。
安息日であるにも拘らず、禁を破って自ら異邦人(ピラト)に接触した祭司長達の目的は、イエスの墓の番をしてもらう事だ。弟子達は主の遺体を盗む度胸などもはや失っていたのにである。しかし、この処置が結果的に主の復活の(盗まれたのではない)証拠となった。
さて、復活の朝、番兵達は天使を見て、非常なショックを受けた。それは任務失敗に伴う刑罰(死刑…十字架)を恐れる余りの事だろう。だが問題は、天使は何の為に来たのかだ。主を墓から出して差し上げる為ではない。復活の主は壁をもすり抜ける栄光の体だ。天使は、マリヤ達に空の墓を見せる(主は復活したと教える)為に来たのである。何故なら、その時点ではまだ誰も復活を信じていないからだ。復活は聖書の預言であり、主御自身も何度も前もって語られたのにである。
弟子達だけに限らず、人間は、自分が信じられる範囲でしか信じない傾向がある。それだけならまだしも、厄介なのは、自分が信じたい事しか信じないという事だ。たとえ真実に対してでも、それが自分の望む事でないなら目をつぶる。しかし、私達は信じるべきだ。自分の願いではなく、神の言葉・神の約束を(ルカ16:27〜31)。あえて言えば、聖書を丸ごと信じるのではない。聖書には、愚かな人間の間違った言葉も沢山あるからだ。例えばヨブ記。だから信じるべきは、聖書に込められた「神のメッセージ」である。そして「それ」が何であるかを知る為に聖書を調べるのだ。つまり、聖書の文字面を鵜呑みにしてはいけないという事である。何故なら、聖書そのものが永遠の命なのではなく、聖書の中に永遠の命への道があるのだからだ(ヨハネ5:39)。
そういう訳で聖書は、じっくり読み込んで調べる必要がある。聖書が証言しているのは何なのか、を。そして悟ったら、それを信じるのである。パウロも、よく考えてから信じるべきである事を言っている(Tコリント15:2)。勿論、まずキリストを信じるのが先決で、そのあと聖書をじっくり学ぶ・調べる・考える…が通常だが。最悪は、聖書を悟らないまま自分の信じたい事を信じ続ける事だ。それが、いびつなキリスト教を作り出す一因である。私達はキリストの真の弟子となる為に、留まるべき御言葉は何かを探し求め続けよう。
2025年10月19日礼拝メッセージ マタイ27:55〜61
メッセージは14分頃からです。
主の死を遠くから眺めている女性達が沢山いた。その内の何人かの名前がマリヤであった。「そこに重大な意味がある」と、ある人は言うが、むしろ「遠くから眺めていた」という事の方が意味深い。
午後3時に主の死。あと3時間程で安息日。それまでに葬らなければならないが、通常は、犯罪人の死体は、それ専用の穴に投げ入れられて獣や鳥の餌にしてしまう。女性達にはそれを阻む力が無く、ただ遠くから眺めるしかなかったのだろう。そこに突如現れたのがアリマタヤのヨセフだ。有力な議員で、主の弟子となっていたが、ユダヤ人を恐れて信仰を隠していた。なのに恐れを振り払って、主の体の下げ渡しをピラトに願い出た。神が彼の心を動かし、用いたのだ。何しろ、議員としての力があり、金持ちで、近くに新しい墓を持っていた。これ程の好条件を備えた人物は他にはいないのだから。そして、議員仲間で同じく隠れ信者のニコデモも加わった。全て備えられていたのだ。
一方、一番偉いのは誰か…等と息巻いていた使徒達は殆どが逃走(尤も、彼らも後には聖霊の力によって勇ましく主の証人となるのだが)。逆に、逃げずに残った隠れ信者達が主の葬りの為に大きく用いられた。そして弱い女性達も。彼女達は主の葬られる所をしっかりと見ていた。何故なら、時間の無い中での応急的な葬りだったので、安息日が明けたら油を塗りに来ようと思っていたからだ(マルコ16:1)。主を案じて「遠くから眺めていた」がゆえに、葬りの現場にも立ち会う事が出来たのだ。彼女達と隠れ信者達のおかげで主は、犯罪人としてではなく(鳥の餌になる事も無く)王として葬られたのである。
結局、神にどの様に用いられるかは決して均一ではないという事だ。だから、私達は主のしもべとして(力があろうと無かろうと)自分に出来る事(自分だから出来る事)を以て忠実に仕えたい。それは、派手な人に褒められる様な事でなくても構わない。マルタの妹マリヤの様に主の側で御言葉に聞き入るだけでもいい。主はそれを「どうしても必要な事」と言われた。そう、主の下に留まる事こそ、どうしても必要な事なのである。怯え、恐れ、失望して去って行くより、何も出来なくても主の為に、主の側にいる方が尊い。それが主の栄光となる。
2025年10月12日礼拝メッセージ マタイ27:54
メッセージは12分頃からです。
「百人隊長の信仰告白」とされるが、疑問がある。まずマタイは、主語を複数形にしている。百人隊長だけでなく、共にいた兵士達が皆、信仰を持ったのか。そして、仮に隊長だけだとしても、彼は「イエスは私の救い主」と信じたのか、すなわち、救われたのかという事だ。
救われる為の絶対条件は、悔い改めだが、「この方はまことに神の子であった」という言葉は、その条件を満たしているだろうか。彼がそう思った理由は、地震や色々の出来事を見て恐れたからだと聖書は言うが、奇跡を見たからとて必ずしも信じる訳ではないというのは祭司長達の行動から明らかだ。一方、マルコでは、その死に様を見たから…となっている。百人隊長は仕事柄、うんざりする程の十字架刑(凄惨な死に様)を見て来たであろう。だからこそ「この男は違う、こんな事は有り得ない、普通の人とは思えない、まさに神の子だ」と感じたのではないか。異邦人の感覚としては「凄い人=神」であるのは事実だ。特に「イエスは神の子を名乗った」と言って訴えられているのだし、死ぬ間際に「父よ、我が霊を御手に委ねます」と言えるなんて人間は、そうはいない。それを間近で見ていたからこそ百人隊長は「この男の『神への信頼』は凄い、神の子と言って過言ではない」と称賛したのではないか。だが、それを信仰と言えるか、である。
結局、彼は救われた、と断言する事は出来ないと思う。人間は表面的な部分で判断するが、救われる為に問われるのは、心の中の信仰が真実であるかどうかだ。しかし、それはうわべでは分からない。人の心の中(真実な信仰を持っているかどうか)は神だけが知るのだ。
要は「イエスをどう評価するか」ではなく、「イエスを主とするか」が問題なのだ。「イエスは神の子・救い主」と認めていても、イエスを主として従っていない(イエスをしもべの様に扱い、好き勝手な注文をする)なら、それは信仰とは言えないだろう。正しい在り方は「イエスが主で、自分はしもべ」である。つまり、主が何でもしてくれるのではなく、自分が主の為に何でもするという事だ。ただし「主が『やれ』と言われた」と、好き勝手な事をするのは頂けないが。だから「主は本当は何を言われたのか」を知る事が必要なのである。
2025年10月5日礼拝メッセージ マタイ27:51〜53
メッセージは13分半頃からです。
至聖所を仕切っていたぶ厚い(その厚みは20センチという)幕は、神と人との隔たり(罪)の大きさの表れであるが、それがキリストの死によって裂かれた事によって、誰でも神との親しい交わりに入る事が許され、祭司として賛美や祈りが出来る様になった。恵みである。
他にも、キリストの死の際、地震が起き、聖徒達の体が生き返った。それも「多くの」であるから大事件だ。その割にアッサリしている。これ以降聖書はその件について何も語らない。ちなみに、その出来事はエゼキエル37:12の預言の成就だと言われるが、ならば何らかの意味があるはずだ。では、この「生き返り」をどう受け取るべきなのか。
第一に、その時点ではキリストは未だ復活していないのだから、生き返った聖徒達は、栄光の体にはなっていないという事だ。何故なら、栄光の体に復活する「初穂」はキリストと決まっているからである。すなわち、聖徒達は単純に体が生き返ったという事だ。ラザロの様に。
では何の為に生き返ったのか。同時に起きた地震(神の怒り)等の意味は何か。驚くべき事に、それらは全て「主の日(裁きと救いの時)」に起こる事の予表なのである。まず暗闇(45)は、アモス5:20の予言通り、主の日に起こる事である。次に、至聖所の幕が裂ける(神の前に出れる様になる)事。それは、主の日には顔と顔を合わせて主を見る様になるという事である(Tコリント13:12)。そして地震・神の怒り・裁きは、黙示録16:17〜19にある通りだ。最後に、聖徒達の生き返り。それは、主の日には全ての聖徒達が栄光の体に復活する事である。初穂キリストが復活されたからこそだ。それを示すのが、生き返った人々が「イエスの復活ののちに墓から出て来て」(マタイ27:53)なのである。
この様に、キリストの死の際の出来事は、主の日に起きる事の予表なのである。つまり、やがてその時には、天変地異が起き、神の怒り・裁きがなされるが、聖徒達は栄光の体に変えられて、御国で顔と顔を合わせて主を見るのである。その時、地上での全ての出来事の意味を知る様になる(Tコリント13:12)。それを保証する「しるし」、それがキリストの死の際に現わされているのだ。この壮大な神の救いの御業から漏れる事の無いよう、御言葉に導かれて真っ直ぐ歩もう。
2025年9月28日礼拝メッセージ マタイ27:50 「完成」
メッセージは13分頃からです。
ルカによれば、「父よ、我が霊を御手に委ねます」が主の最後の叫びである。それも大声でだから、やはりこれもまた人々に伝える為だ。
主が最後の最後に伝えたかった事は何か。それは当然、信仰である。何しろ主は、信仰の創始者であり完成者だ(ヘブル12:2)。だが、主が来られる前から「信仰」というものは存在していた。聖書の中で一番初めに宗教的行為を行ったのはアベルとカインであろう(創世記4章)。とは言え、彼らが信仰の創始者という訳ではない。全てのものは神によって造られたのだし、人の心に永遠への思いを与えたのも神だ。ただ、創始者(アルケーゴス)という同じ単語が使われている所(ヘブル2:10)では「救いの創始者」とされている。つまり、イエスは「救いに至る信仰の創始者」だという事だ。事実、世の中には様々な宗教の「創始者」がいるが、救いに至る信仰(十字架と復活)を開いたのは主だけなのである。他にはいない。
では、完成者もキリストであるとはどういう事か。十字架と復活は「創始(開始)」である。それを信じて、天国への信仰の歩みが始まるのだ。その信仰の完成型とはどのようなものか。山を動かす信仰か、水の上を歩く事か。いや、信仰の完成…それを示したのが実は、主の最後の叫びなのだ。「父よ、我が霊を御手に委ねます」これこそ、救に至る信仰の完成型だという事は、逆に言えば、これは簡単な様で簡単ではないという事である。つまり、委ねるより足掻いてしまうのだ。強く信じ込む人ほどそうかもしれない。例えば、死期が近付いた時に「きっと癒される、主よー!」という風に。
もし神が「もう帰っておいで」と召して下さるのなら、そんな時は「我が霊を御手に委ねます」でいいのではないか。それこそ、神への完全な信頼だと言える。そして、それこそが「救いに至る信仰」の完成型なのだ。それを主は、十字架の上で見事に成し遂げられた。ゆえに「信仰の完成者」なのである。最後の叫びはそれを教える為だ。
私達は、天国がどんな所か正確には分からない。永遠に生きるのは退屈ではないかとか思うかもしれない。しかし主は、片手片足失っても天国に入る方が良いと言われた。それを信頼してこそ信仰である。
2025年9月21日礼拝メッセージ マタイ27:46〜49 「どうして?」
メッセージは10分20秒頃からです。
ただでさえ死にかけているのに、大声で叫ぶには、それなりの理由がある。叫んだのは詩篇22の冒頭の言葉だ。それを聞いて何故だか、ある人達は「エリヤを呼んでいる」と思った。確かに日本人なら「エリ、エリ…」と聞けば「エリヤを…」と思うかもしれない。しかし、それを聞いていたのはユダヤ人だ。「エリ」とは「我が神」という意味だと百も承知の人達なのである。なのに「エリヤを呼んでいる」と思った理由は、思い込みしかない。つまり、人々は「まずエリヤが来るはずだ」と考えていた(マラキ4:5〜6)。けど「まだ来ていない」と思っていた。それで「エリ、エリ…」と聞いて「エリヤか?」と連想したのであろう。主が「エリヤは、もう来た」と言われたのに信じないから、思い込みから抜け出せないでいたのだ。
日本人にもヘブル語に詳しい人はいるだろう。しかし、ネイティブのヘブル語話者であるユダヤ人が自国語であるヘブル語の聖書を読んでも、誰がメシアなのかが分からないのである。つまり聖書というものは、ヘブル語・ギリシャ語、英語…を知っていれば分かるという訳ではないという事だ。何故なら、聖書は学問ではないからである。学問的に理解しようとすると、却って信仰から迷い出る。なのに、学問的な権威にすがろうとするするのはいかがなものか。
主の叫びを聞いた別の人は、酸い葡萄酒を主に飲ませようとした。恐らく、黙らせようとしたのだろう。最後の最後で民が惑わされない様にという算段だ。しかし主の叫んだ詩篇22はメシア詩篇である。預言通り救い主は今、十字架についているという事を知らしめる為に叫んだのだ。だが誰も(権威ある宗教指導者達でさえ)理解しなかった。
聖書は、御霊に導かれて悟るものである(Tコリント2:11)。しかし、御霊にではなく肉(この世的なもの・派閥)に属しているクリスチャンがいるとパウロは言う(Tコリント3:1〜3)。すなわち、権威・知識・経歴等を信頼の基準にする…それが、肉に属しているという事なのだ。
肉的な考え方を信仰に持ち込んではいけない。私達は、御霊に属する者でありたい。主の叫び「どうして私をお見捨てになったのですか」…「どうして?」…それは、信じる者を救う為である。
2025年9月14日礼拝メッセージ マタイ27:45 「闇の中で」
メッセージは10分過ぎからです。
主が息を引き取られる直前、全地が3時間暗くなった。春の満月の時期に日蝕は起きないし、日蝕ならせいぜい数分間のもので3時間は有り得ない。だから、特別(異常)な出来事だったのである。
そこで、新改訳聖書2017年版では「闇が全地を覆った」となっていて、ギリシャ語や英語の聖書も「闇が…」となっている。「闇」はギリシャ語で「スコトス」で、宗教的には「神から切断された世界」を意味する。つまり、ただ単に空が暗くなっただけでなく、神の光の無い暗黒が全地を覆った、という事なのだ。神の御子が罪ある人間に殺されるというのはそういう事だろう。真っ黒のドロドロの暗黒に陥ったのだ。だから主は予め言われた。「光ある内に光の中を歩め」と。
すると、主が死んだ(光が消えた)ので、もはや人間には何の希望の光も無いのか。いや、主が甦って今も生きていると信じる者には光がある。それを示す「型」が出エジプト10:22〜23だ。約束の地に向かう直前、モーセが天に手を指し伸ばした時、エジプト全土は3日間真暗闇となった――「しかしイスラエル人の住む所には光があった」ここが大事な所である――その「型」通りに主の死の間際に闇が全地を覆った。そして次は、主の日が来る前に暗黒が世界を覆うのである。すなわち、再臨が近付けば近づく程、闇の世になるという事だ。教会も堕落し背教が起こる。それが主の預言(聖書の既定路線)であり、現実である――しかし、キリストの真の弟子には光があるのだ――ヨエルも言っている。主の日が来る前に太陽は闇となるが、主の名を呼ぶ者は救われる、と(ヨエル2:31〜32)。ただし、口先で主の名を呼べばいいという訳ではない。必要なのは信仰であるのは言うまでもない。果たして「主の名を呼ぶ者」とは、どんな人か。それは…暗黒の、何の希望も無い恐怖の時、多くの人は叫び、狂乱し、パニックになるだろうけども、そんな切羽詰まった時に、ひたすらに主に信頼して、その名を呼ぶ、それが「主の名を呼ぶ者」なのだ。そんな人が救われる。
平安の時に、主の名を呼ぶのは(賛美するのも)容易い。しかし、闇の中にいる時にも、主に信頼し、主の名を呼ぶ…それが真の信仰者である。私達は、そういう人でありたい。
2025年9月7日礼拝メッセージ マタイ27:37〜44 「ののしりか、賛美か」
メッセージは10分からです。
「罪状書き」の原文は「彼の理由」であって、イエスが十字架に付けられたのは「ユダヤ人の王」だからだという事である。罪ではない。だが民衆の願いは、御国ではなく現世御利益であり、強盗達と共に十字架に(それも真ん中に)つけられた姿は民の不信仰を象徴している。
さて、処刑を見物に来た巡礼者達は、頭を振りながら罵って言った。「神殿を壊して3日で建てる人よ」と。遠方からの巡礼者が、夜中にこっそり行われた不当な裁判での偽証の言葉を知ってるのは祭司長達が吹き込んだからだろう。人は権威に弱い。その言葉をすぐに信じる。
最大の問題は、人々が主に「自分を救え」と叫ぶ事だ。人々の言う「救い」とは何なのか。もし主が十字架から降りたら「自分を救った」事になるのだろうか。そしてそれを見たら、民は「凄い! 十字架から降りた! 信じよう!」と言うのだろうか。だとしたら「救い」とは、現世での苦しみ・痛みを取り除く…それが救いだという事になる。事実人々は、そう思っていたのだ。それは「他人を救ったが自分は救えない」という言葉に現れている。つまり、人の病・苦しみは癒したが、自分の苦しみ(十字架)は取り除けない、という事だ。あくまでも、痛み・苦しみからの解放…それが救いだと考えているのである。
しかし聖書の言う「救い」はそれではない。救いとは「地獄に落ちないで天国に入れる」という事である。そして、それは罪ある人間にはどうしても必要なものであるが、罪の無い神の御子には無用だ。キリストは救われる必要が無いのである。だからキリストに向かって「自分を救え」と言うのは甚だ愚かな事であって、滑稽でもある。
「救い」を勘違いしてはいけない。勿論、全能の神は病を癒す事が出来る。問題を解決に導く事も出来るだろう。だが、それらは「憐み」あるいは「恵み」であって、救いではない。だから、たとえクリスチャンが精神的病ゆえに自殺したとしても「救われなかった」等と考えるべきではないのである。もし、病の癒しが救いだと考えるなら、その人の死の時、そこに満ちるのは失望と嘆きでしかない。
キリストが十字架で死ぬという事は、救いの道が開かれるのだから、そこに満ちるのは罵りではなく、賛美であるべきだったのだ。
2025年8月31日礼拝メッセージ マタイ27:24〜36 「全ては、完全な…」
メッセージは12分過ぎからです。
ピラトは、イエスには罪は無いと認めていたのに、十字架へと引き渡した。勿論、そうなる事が御心ではあるのだが、ピラト自身としては正義を行っていないのだから「非がある」と言わざるを得ない。
さて兵士達はイエスを「王に仕立てて愚弄」した。それは珍しい事ではないが、この場合「ユダヤ人の王」に対する当て付けでもある。更に、着物を脱がせて辱め、徹底的にイエスを痛め付けた。一歩一歩、十字架へと確実に近づいて行くが、ゴルゴタへと向かっている時に、クレネ人シモンに代わりに十字架を背負わせたのは、まさかの恩情か。いや、死刑が執行される前に死なれては困るからだ。苦みを混ぜた葡萄酒を飲ませようとしたのも、釘付けしやすくする為(暴れない様に)であって、恩情など一切無い。そして主が、それを舐めただけで飲まなかったのは「十字架の苦しみをまともに受ける為に麻酔を拒んだ」とも考えられるが、「舐めた」のギリシャ語「ギュオマイ」は「味わった」の意である。つまり、これが主にとっての過ぎ越しの食事(新しい契約)の3杯目の葡萄酒となったという事だ。4杯目(契約の完結)は御国での為に残されている。この様に、人間がどう動こうとも、十字架への道・救いの計画は着実に進められて行くのであって、それを教えるのが箴言19:21「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」だ。神の救いの計画は完全で、神の約束は絶対なのだから、真実な信仰に留まるなら必ず救われるという事である。
では、真実な信仰とは何か。イエスを信じただけではまだ本当の弟子とは言えない。主の教えの真実にとどまるなら本当の弟子となるのだ。そうすれば真理を知って自由になる(ヨハネ8:31〜32)。逆に言えば、真理を知らない=囚われているという事であって、何から自由になるのかと言えば、偽り(サタンの誤魔化し、惑わし)からなのである。
ピラトはイエスを「義人・ユダヤの王」と信じた。だが真理を知らないので自由になれなかった。神の救いの計画は完璧だが、人間の側が駄目ならどうしようもない。勿論、完全な信仰者なんかにはなれない。しかし、真実な信仰者にならなれる。御言葉の表面に留まるのではなく、真実に留まる…それこそ「なすべき正しい事」だ(ヤコブ4:17)。
2025年8月24日礼拝メッセージ マタイ27:11〜23 「誤解・曲解・やめたかい」
メッセージは11分過ぎからです。
バラバは強盗で人殺し・ヤクザの様な人物…という認識が一般的である。しかし民衆は、そのバラバを釈放しろと要求した。祭司長達に誘導されたとはいえ、何故、人殺しの釈放を願う気になったのか。
実は「人殺しをしたのは暴動の時の暴徒達であって、バラバはその暴徒達と一緒に牢に入っていた」とマルコ15:7は言う。バラバが牢に入れられたのは、彼がその暴動を起こした人物だからだ。それも、ローマからの解放を目指す為の政治的な暴動だったのである。だから民衆には人気があった。しかも新共同訳等によれば「バラバ・イエス」という名前になっている(バラバはあだ名でイエスが本名)。それでピラトは「バラバと呼ばれているイエスか、キリストと呼ばれているイエスか、釈放するのはどっちだ」と問うた。民はキリストを選ぶだろうと思ったのだ。何しろ、キリスト・イエスには罪は無いのだから。所が祭司長達が惑わした。「キリストの方は一向にローマをやっつけようとしないけど、バラバの方は釈放されたらまたやってくれる。だからバラバだ」と焚き付けたのだろう。それで民はあっさりバラバを選んだのだ。要は、人々は、キリストの説く「神の国」等よりも、政治的革命者を求めたという事だ。言い換えれば、現世御利益である。しかし、だからと言って、何故キリストを憎むのか、だ。冒涜したからか。いや、それは誤解だ。実に誤解・曲解とは恐ろしいものである。
さてピラトの妻は夢を見て、イエスを「正しい人」と言った。釈放してやってくれ、という事だ。これをどう受け止めるべきか。誰がその夢を見させたのか。神か。いや、キリストを十字架に付けたくないのはサタンである。だから、十字架を否定するペテロに対して主は「下がれサタン」と言われた。つまり、キリストを釈放させる働きはサタンなのである。だから「ピラトの妻は元々主の仲間」とか「神の愛による助け」とかは正しくない。神の愛は十字架で御子を殺す事である。そこに愛が現わされていると聖書は言う。そこを間違えてはいけない。イスラエルは、その曲解のゆえにキリストを憎んだのだから。
幸いなのは、神の言葉を聞いて(ただ聞くだけでなく、御言葉の真意を掴んで)それを守る人達である。
2025年8月17日礼拝メッセージ マタイ27:1〜10 「不幸な羊」
メッセージは11分半頃からです。
ユダヤの議会において死刑確定とされた主は、いよいよローマの法律によって裁かれる為にピラトのもとに連れ出された。その時ユダは「罪の無い人の血を売った」と悔やんで首を吊った。とは言え、それは「イエスは罪の無い神の御子」という意味ではない。「イエスは死刑になる様な罪は無い」という事に過ぎない。
因みに、たとえキリストを信じていても自殺したら地獄だという意見がある。それは突き詰めるなら、何の罪も無い完璧な人でなければ天国に入れない(キリストを信じる時の悔い改めは意味が無い)という事になってしまう。一方では逆に、自殺は罪ではないという意見もある。遺族を傷付けない為には「自殺しても地獄ではない」と言いたい…その為には「自殺は罪ではない」という事にしなければならない…という論法だろう。だが、どちらも問題の本質を履き違えている。
信仰から出ていない事はみな罪(ローマ14:23)だが、果たして自殺は信仰から出ている(ゆえに罪ではない)のか。そもそも罪の概念が間違っている。罪とは「的外れ」の事である。では、自殺は的を射ている(正解・当たり)か。いや遺族は悲しむ(生きていてほしかったと思う)のではないか。そう、自殺は的を射ていない。的外れ(罪)なのだ。その的外れ・罪を赦すのがキリストの十字架なのだから、クリスチャンが自殺したからと言って、それで地獄という事にはならない。
さて、ユダが投げ入れた銀貨で祭司長達は陶器師の畑を買った。これが預言の成就だと聖書は言う。端的に言えば、キリストの型としての良い羊飼いゼカリヤをイスラエルは拒んで、賃金として銀30枚を払った。それを神は「私の値段だ(安く見積もられたものだ)陶器師に投げ与えよ」と言った(ゼカリヤ11:12〜13)。その通りに、イスラエルの指導者達は、良い羊飼いキリストを拒んだのである。何故なら、彼らは悪い羊飼いだから、彼らにとって良い羊飼いは邪魔なのである。
その様な悪い羊飼いに飼われる羊は不幸だ。羊飼いがいない以上に弱り果ててしまう。だから「羊飼いの声を聞き分けよ」と主は言われた。そして「私の羊は私の声を知っている」と。すなわち、キリストの声(本当の教え)をだ。主の羊とされて主の声を聞き分けよう。
2025年8月10日礼拝メッセージ マタイ26:69〜75 「知らない? 知らない!」
メッセージは12分頃からです。
ペテロが3度、主を否むシーンである。よく「ペテロもユダ同様、裏切った」と言われるが、実はペテロは、御心・十字架を受け入れられないがゆえに何とかして主を助けようとして(自分まで捕まっては…と思って)しらを切ったのであって、裏切りとは少し違う。
ただ「御心を拒む結果、主を否んだ」のは事実であって、これは一つの型・パターンである。そして、そのパターンを繰り返しているのがイスラエルだ。例えば、出エジプトの後、荒野で(箴言30:9、ホセア13:5〜6)。ついには、御心によって来たキリストを拒んで「ナザレのイエスとは何者か」と高ぶって敵対した。御心を拒むがゆえに「イエスなど知らない」と言うのである。だからペテロの件は、単なるおっちょこっちょい的なエピソードなのではなく、言わば預言的な出来事なのである。つまり、やがて来る再臨の時も、ある人々は、それを受け入れられず「キリストなど知らない」と言う事になるのだ。
問題は「主を知らない」と言う人に対して主も「そんな人は知らない」と言うという事である(マタイ10:33)。ペテロは、その主の言葉を聞いていた。そして自身が主を否んだ時(主を知らないと言ってしまったがゆえに)その言葉をも思い出したのではないだろうか。ペテロにしてみれば…本当は主を助けたかった。なのに、主から「あなたを知らない」と言われる…それは悲しかろう。ペテロは激しく泣いた。ペテロは悔い改めたから良かったものの、最悪の場合信仰を失ってしまっていたかもしれない。イスラエルは悔い改めず御心を拒んだままだ。
結局、誰がどれほど否定しようと、主の言葉は全て実現する。御言葉は真実、そして主は真理そのものだ。だから大切なのは、御言葉を悟る事である。たとえ、その御言葉の意味する事が自分の思いと違っていたとしても御言葉・御心を否定してはいけない。御心を拒む…それが、キリストを否むという結果になるのだから。ペテロの出来事はそれを示している。そして、キリストを否定する人を、神も否定する。神から「あなたを知らない」と言われる事ほど悲しい事は無い。
私達は、ペテロの様に、後悔して泣く事になりたくはない。だから御心を知って、御心を喜ぶ者とならせて頂こう。
2025年8月3日礼拝メッセージ マタイ26:57〜68 「沈黙…」
メッセージは11分半からです。
捕えられた主は、その夜の内に裁判にかけられた。それも不当な悪意に満ちた裁判だ。そんな状況の中にペテロは潜り込んだ。神の御心・十字架を受け入れられないからこそ、主を助けたい(生きていて欲しい)と思ったのだ。だがそれは決して「勇気がある」とは言えない。
さて、宗教指導者達はイエスを訴える偽証を求めた(59)。実は、イエスに罪は無いと分かっているからだろう。勿論、偽証は証拠にはならないが、最後の二人が本当の事を証言した(60〜61)。そこで大祭司が問い質すが主は答えない。これを、ある人達は「沈黙の美」と言う。「元々不当な裁判なのだから真面目に答えても仕方がない。沈黙こそ最も理に適った事である。だからあなたも、この主の姿に倣え」と言うのは暴論だ。それなら冤罪も受け入れて、潔白を主張するなという事か。そもそも主は沈黙を貫いてなどいない。「あなたはキリストか」という質問にははっきりと答えている(62〜64)。では何故、偽証・誤解に対しては弁明しなかったのか。それは、神の計画・十字架を妨げない為だ(53〜54参照)。つまり、十字架にかかる為に、あえて言わせておいただけという事だ。イザヤ53:7は、それを預言していたのである。沈黙は美徳、クリスチャンはそうあるべき…等ではない。
とにかく主の厳しい主張に対し、カヤパは「冒涜だ」と叫び、その主の発言が決め手となって死刑が確定した。しかしながら、主の発言のどこが「冒涜」なのか。神の子を名乗ったからか。しかしそれはカヤパが言った事だ。主も「それはあなたの言った事です」(新共同訳)と言っている通りだ。だから結局、カヤパを怒らせたのは「主が裁き主として来る」という部分(64)だ。言い換えるなら、今イエスを裁いているカヤパを、やがて主が裁くという事である。それでカヤパ達は「もう、どうでもいいから殺せ」となったのである。
ペテロと宗教指導者達は、立場は違えど、どちらも神の御心を拒んでいる。十字架を理解せず、道徳ばかりを語るキリスト教もだ。確かに「イエスは神の御子キリスト」とは言うが、それはカヤパも口にした。それは単に口にしただけなのか「本当の所はどうなのか」は再臨の主が裁くだろう。私達は、主の再臨の時に御心に適う者でありたい。
2025年7月27日礼拝メッセージ マタイ26:45〜56 「預言・計画・御心…判別」
メッセージは12分過ぎからです。
心は燃えていても肉体は弱い…それは、睡魔に負けるという意味ではなく、肉の弱さのゆえに神の御心を拒みたくなるという事だ。そんな誘惑に陥らないように祈るべきなのだが、弟子達はそれが出来なかった。つまり弟子達は誘惑に立ち向かう準備が出来てない(御心を拒む心のまま)なのだ。なのに、時が来てしまった。主にとっての「時」は十字架だが、弟子達にとっては、誘惑との戦いの時である。勝算は、ある訳が無い。だが行くしかない。「裏切る者が近付いた」のだから。
やって来たのはユダと大群衆。皆、寝返った人達だ。特に群衆は剣や棒を手にしている。イエスが奇跡を行う事を知ってるからこそ恐れているのだ。だから、奇跡を見て信じる人もいるかもしれないが、むしろ、奇跡を見ても本当には信じない人が大多数なのだろう。
さてペテロは、相手を本気で殺す気で脳天を狙って剣を振り下ろした。大暴走だ。当然、主は制止する。そして切り落とされた耳を直してやった。敵をも愛したという事だろうか。いや、ペテロの暴走を帳消しにする為だ。ペテロを庇う理由は3つ。「剣を取る者はみな剣で滅びる」(52)、「ペテロの力を借りるまでもない」(53)、「神の御心・計画を妨げてはならない」(54)からである。特に3つ目「御心を拒まない」という事を弟子達はゲッセマネで会得出来なかったので、主はこの土壇場でも弟子達を庇ってやらなければならなかったのだ。その主の計らいも空しく、弟子達は「預言(神の計画・御心)が成就する」との主の言葉を聞いて、主を見捨てた。「預言が成就する」と聞いて、逃げたのである。御心を拒みたくなる誘惑に見事に陥っているのだ。
結局、御心は受け入れるべきという事である。ただ、その為には、御心かどうかの判断が重要だ。サタンの惑わしもあるし、自分の勝手な願望を「御心だ」と都合よく思い込むという事もある。だから、正しく判断する(すなわち誘惑に陥らない)為に、霊的に目覚めて祈れと主は言われたのだ。そして、御言葉によって判別出来る(ヘブル4:12)。
その御言葉を、どこまでしっかりと掴めるか、である。文字面だけとか、通り一遍の理解だけでは、掴めたとは言えない。真理を掴まなければならない。「真理があなたを自由にする」のだから。
2025年7月20日礼拝メッセージ マタイ26:36〜44 「誘惑」
メッセージは14分過ぎ頃からです。
ゲッセマネにおいて主は弟子達に「一緒に目を覚まして祈っていなさい」と言われた。「十字架という苦しみを乗り越える為には、主でさえ、執り成しの祈りが必要だったのだ」と言われる。だが結局、弟子達は眠りこけ、祈らなかった。なのに主はちゃんと十字架にかかられたのだから、執り成しなど必要ではなかったという事になる。では何の為に「祈れ」と言われたのか。明らかなのは「誘惑に陥らない様に」だという事だ。ただ問題は、どんな誘惑の事を言っているのかである。そこに、ゲッセマネの祈りの真実がある。
一方「ゲッセマネの祈りこそ祈りの神髄」と言われる。つまり「私の願いではなく御心を成して下さい」という事だ。しかしながら、御心を受け入れるのは時に茨の道である。主御自身それをゲッセマネで経験されたし、主の母マリヤしかりである。だからポイントは、神の御心が行われる事を喜ぶ事が出来るのか、である。例えば、世の終わり。それは突如、たちまち、一気に、来るというのが御心だ。それを喜べるか…いやむしろ、ゆっくり、じわじわと来てくれた方が助かる。色々準備が出来るから。もし、明日という事になったら「一か月待って下さい主よ、明日、新会堂の献堂式ですから!」と思うかもしれない。それは、極端に言えば、御心を喜べない…という事だ。全てを失っても「御心が成りますように」と祈る…そんな境地に達するのは簡単ではない。主も苦しまれた。誘惑に。
主にとって「荒野の誘惑」に並ぶ誘惑、それがゲッセマネ。すなわち、十字架を避けたい…という誘惑だ。十字架にかかる為にこの世に来られたはずなのに、である。それこそが「心は燃えていても肉体は弱い」という事なのだ。誘惑とは、眠気の事などではない。どれ程「神に従う」と固く決心しても、それでも神の計画に「待った!」と言いたくなる…それが誘惑なのである。その誘惑に陥らない様に、霊的に目を覚まして(神の御心・計画を知って、それを受け入れられる様に)祈らなければならない。それが弟子達にも必要だから「祈れ」と言われたのである。祈りの助けが欲しかったのではない。私達も誘惑に陥らない(御心を良しと出来る)様になれればと願おう。
2025年7月13日礼拝メッセージ マタイ26:30〜35 「ベストな反応」
メッセージは13分過ぎからです。
過ぎ越しの食事(コース)の中の3杯目の杯を「契約の血」「十字架で流す血の象徴」だと主は言われた(27〜28)が、主はそれを飲んでいない。だが十字架の上で、まさにその契約の血を流しながら、苦みの混ざった葡萄酒をなめた。それが主にとっての第3の杯である。
その様にして過ぎ越しの食事も大詰めとなり(順番通りに)賛美の歌を歌ってオリーブ山に。そこまで進んだ(契約がほぼ完了しようという)「その時」主は弟子達の躓きを予告する。弟子達は全員否定する。勿論「はい、そうです」とは言えないだろうが、主の確かな言葉を否定するのは不遜ではないか。例えばペテロは、主が御自身の死を予告された時、それを否定し、主をいさめた。民もキリストに対して、政治的革命者という様な間違った期待をしていたがゆえキリストを拒んだ。全て原因は、神の救いの計画を悟っていないという事だ。
主は、ゼカリヤ13:7の預言が成就すると言われた(31)。キリストに敵対する者達(宗教指導者達)がキリストを打つ。すると羊(弟子)達は散り散りに逃げる、という事だ。続いて「全地はこうなる」と神は言う(ゼカリヤ13:8〜9)。これは「イスラエルの救いの事」という解釈もあるが、7節が主の弟子達の躓きの預言であるという文脈から考えるなら、「3分の1が残る」はクリスチャンの事だと理解すべきだろう。背教・棄教を免れて残った数だ。だが、その残った3分の1を更に「火の中に投げ入れて」不純物を取り除き聖める、「試す」と言う。とにかく徹底的に、偽りの教えを取り除くのだ。そのふるいにも持ち堪えて残ったのが、ようやく「私の民」と神に言われるというのである。実に、神の民と認められる人は、決して多くはないのだ。主が再び来られる時に「果たして地上に信仰が見られるだろうか」(ルカ18:8)と言われたのと通じる。散り散りに逃げた弟子達の様に、ふるい落とされるのは誰か。自分かもしれない。弟子達は「私は決して」と主の言葉を否定したが、それはよろしくない。かと言って肯定する訳にもいかない。なすべき最善の反応は何であるか。それは「もしそうなら主よ、私を悔い改める事の出来る者として下さい」と祈る事である。悔い改めるなら赦される…それが神の救いの計画なのだから。
2025年7月6日礼拝メッセージ マタイ26:26〜29 「聖餐式」
メッセージは15分半頃からです。
出エジプトという神の救い・恵みを忘れない(思い出す)為、それが過ぎ越しの祭りである。そして、それはキリストの十字架による救いの型でもある。すなわち、神の小羊の血によって信じる者は救われる…その時が来たから「これは私の血だ」と主は言われた。つまり、聖餐式は新たなる過ぎ越しの祭りなのであって、だから「主が来るまでこれを行え=忘れるな」という事なのである。
さて、旧来の過ぎ越しの食事は、現代のコース料理の様にきちっとした順番がある。最初に祈りと共に赤ワイン、次に苦菜…という様に。それで26〜27節は8番目か9番目としてパンを裂き3杯目の杯を取ったという事になると思われる。その前にユダは、2杯目の杯の後(25と26節の間に)出て行った。ユダは言わば、腐敗(発酵)したパン種で、それが取り除かれた後に聖餐の制定となっている訳(種なしパンの祭りと同じ)で、聖餐は、出エジプトした後の十戒の様な位置にあると言える。だからルカの福音書によれば「新しい契約」と言われているのであって、もはや過ぎ越しの祭りは、メモリアル的な儀式ではなく、生きた契約(言うならば、キリスト契約)となったのである。
その様にして弟子達に3杯目の杯を与えた後、主は、御国で飲むまでもう飲まないと言われた。4杯目まで飲まなければ過ぎ越しの食事は完成しないのにだ。契約が未完のままでは契約内容を忘れかねない。それゆえ主は「私が来るまで覚えてこれを行え」と言われたのである。キリスト契約が完全に結ばれて、その効力を発揮する時、それは「主の来られる時」なのだ。すなわち、御国で主と共に4杯目の杯を飲む…それが天国での小羊との宴会(祝宴)なのである。
ただし、契約には注意事項がある。つまり「この様な場合に契約は有効となる」という事である。それは「主が来られるまでパン種を取り除き続ける事」つまり「純粋な信仰を保ち続ける事」である。すなわち「救いはキリストの十字架の血潮によるのであって、他の何物(善い行いとか、善い人になる事とか)にもよらない」という事だ。それが守られないなら契約は無効だ。その事を魂に刻み付けながら、御国へと共に歩む、それが聖餐式の本当の意義・目的なのである。
2025年6月29日礼拝メッセージ マタイ26:17〜25 「裏切り」
メッセージは12分半頃からです。
過ぎ越しの食事の時に主は、弟子達の内の「一人が裏切る」と予告した。勿論ユダの事だ。しかしこの時点では、弟子達全員が主を見捨てると、主御自身も言っておられる(31)のに、何故「一人が」なのか。
裏切りとは、期待・信頼に背く事であり、見方を捨てて敵に付く事である。その点、ペテロ達は期待に背いて主を捨てたのはユダと同じだが、敵に付いたのはユダだけである。だから「完全に裏切るのは一人」だという事を主は知っておられた。だが、ならば何故、止めてやらないのか。ペテロが主を否む事も主は知っていて、予め執り成して祈ってあげていたのにだ。ユダが裏切るのは神の計画だからか。ならば裏切りはユダの責任ではない、むしろ功労者だ。
確かに、十字架で死ぬ事は神の計画だ。しかし、キリストを裏切る事はあくまでも人間の意志によるのである(24)。人間は操り人形として造られたのではないが、残念な事に、その自由意思によって人は偶像や偽りの教え・異端に走る。アダムとエバしかり、その責任はその人自身に問われるのである。ユダも一旦は主の弟子に選んで頂いたのに裏切った。勿論、主はユダにも悔い改めるチャンスを与えていた。その期待に背いて敵に付いたのだから、その責任は自らにある。
父から「ぶどう園に行って働いてくれ」と言われた兄と弟。父の期待は「行きます」という返事と「実際に行く事」だ。弟は「行きません」ではなく「行きたくありません」と言った。体調が悪かったのかもしれないし、先約があるとか、期待に応えられない場合はある。だから弟は「後でぶどう園に出かけた」。しかし兄は「行きます」と言った(父もそう期待した)のに「行かなかった」のだ。「行けなかった」のなら仕方ないが、そうではなく、行けるのに「行かない事にした」のである。これが「背いた」という事だ。ユダはそれに加えて、敵の側に付いた。それは、神の愛を受ける側ではなくなったという事である。これ程の悲劇は無い。私達は、神の期待に応える力が無い時もあるかもしれないし、それは仕方がない。しかし、期待に応えたいという心を捨ててはいけない。少なくとも「十字架の恵みに留まって欲しい」という神の期待だけは裏切らない様にしよう。
2025年6月22日礼拝メッセージ マタイ26:1〜16 「ナルド油は、愛?」
メッセージは14分頃からです。
世の終わりについて、その締め括りに「永遠の刑罰か永遠の命か」(25:46)という究極の分かれ道を話した後、語るのが十字架である。つまり、キリストが十字架で死ぬという事をどう捉えるか…そこが分かれ道という事だ。その点、宗教指導者達は論外だ(3〜5)。
さて、300デナリ(約300万円)以上で売れるというナルド油を惜しむ事無く主の頭に注いだ女性…それ程に彼女は主を愛していた…美しい愛の物語と言われる。弟子達は、それを「無駄な事」と非難した。だが主は、それを「立派な事・埋葬の用意」と喜んだ。そして「この福音が宣べ伝えられる所で彼女の記念となる」と言われたが、「この福音」とは、何を指しているのか。Tコリント15:1〜5で語られている様な「福音」が、この箇所のどこにあるのか。定説によれば、これは「愛の物語」のはずではなかったか。果たして福音はどこに。
彼女が「埋葬の用意」をしたという事は、キリストが十字架で死ぬという事を受け入れていたという事である。その時点では他の弟子達は誰一人、理解すらもしていなかったのにである。その上で、高価なナルド油を注いだ。あたかも、キリストが十字架で死ぬならお金なんか惜しくないと言うかの如くに。それはすなわち、キリストの十字架は何にも優る最高の価値があるという宣言だ。何しろ、信じる者の罪を赦し、永遠の命を与える…それがキリストの十字架なのだから。そう、そこに福音があるのだ。彼女は他の誰より先駆けて、それを悟ったのである。勿論、主が死ぬのは悲しいが、受け入れて、その用意をした。彼女の、その「した事」が語られて記念となると主は言われた。彼女のした事、それは「十字架の意味を理解した」という事だ。
福音を悟って受け入れる事が、弟子達の言う様に「無駄な事」なのか、それとも主が言う様に「立派な事」なのか。もっと言えば、何が無駄で何が無駄でないのかだ。福音を深く知る為に労力を注ぐのは決して無駄ではない。出来る限りそうした方が良い。もし教会にそれが無いなら、教会に集うのは無駄という事になるのかもしれない。
パウロが「最も大切なことはこれ」と前置きをしてから語った…それが福音である。私達も、それを最も大切な事として求めよう。
2025年6月15日礼拝メッセージ マタイ25:31〜46 「救いの道は・・・」
メッセージは14分頃からです。
終わりの時、主は王として全ての人間を裁く。羊飼いの様に羊と山羊を選り分け、羊に「御国を継ぎなさい」と言うのだ。
ではどんな人が御国を継ぐ「羊」なのか。それを説明するのが35節以降だが、「小さい者にした事がキリストにした事」だと理解されている。ゆえに「親切に人の世話をする人が天国だ」と考える人も多い。勿論、親切は悪い事ではない。だからと言って、それで天国なのか?
思い違いをしてはいけない。「これらの私の兄弟達」その中の「最も小さい者達の一人に」した事がキリストにした事だと主は言われたのである。「これらの」とは、主の右に選り分けられた羊(クリスチャンである事は明白)だ。その中の最も弱い人にした事が…なのであって、それ以外(主にとっては全ての人が愛すべき兄弟である、とか、見ず知らずのホームレスとか病人の事、とか)は拡大解釈である。
では、クリスチャンの中の最も弱い人とはどんな人か。それは「もし信仰があるなら御言葉を行え!」と言われても出来ない人である(出来るのにしない…は論外)。何の奉仕も、伝道も出来ない…主にすがって憐みを求めるしかない、力の無い、そんな子供の様なクリスチャンだ。そんな小さな弱いクリスチャンを助けてあげるべきであって、お金(物資)の問題ではない。つまり、天国に入れる様に霊的な食物をキチンと与えるという事だ。それを主は望んでいるのだから、それをする時にこそ「主にした」という事になるのではないか。それをしない(妨害する)悪いしもべは厳しい罰を受ける(24:45〜54)。
「自分達はした」と主張する人々がいる(25:41〜46)。確かに、人に親切にしたのだろうが、「最も小さい者」が誰なのかを誤解している。主が求めている事(クリスチャンに霊的な糧を与えるべきという事)も分かっていない上に「親切な人が天国に入る」と語る。それは、救いの道をぼやけさせる事、迷わせ霊的に飢えさせる事だ。
ただ天国に入りたくて、ただ主にすがって憐みを求めるクリスチャン…それが最も小さく弱い者である。永遠の刑罰に入るのか、永遠の命に入るのか、その瀬戸際において、救われるのは誰なのか。救いの道をぼやけさせられる事なく、純粋な霊的糧をたっぷりと頂こう。
2025年6月8日礼拝メッセージ マタイ25:14〜30 「持っている者」
メッセージは16分頃からです。
与えられたタラント・賜物を用いよ、と語られる個所だ。それは正論ではあるが、これは未だ「世の終わりについて」の教えなのだから、再臨にどの様に備えるべきか、神は何を求めておられるのかを読み解くべきである。因みに、主人が長旅に出て帰って来るという設定は、やはり再臨は「すぐ」ではない事(のちに、たちまち)の暗示だろう。
さて、5タラントは約3億円、大金だ。それをポンと預けられるしもべは、それなりの立場(しもべ頭)と思われる。それで、タラントを活用したしもべは「僅かなものに忠実だ」と主人に言われた。5タラントは決して「僅かなもの」ではない。2タラントでも1億2千万円なのだから。そう、彼らは、与えられた使命に忠実だったのである。しもべ頭の使命、それは他のしもべ達にキチンと食事を与える(御言葉で養う)事だ(24:45)。復活の主がペテロに「私の羊を飼いなさい」と言われた通り、それがしもべ頭の使命なのである。たとえ、それが僅かな羊であってもキチンと勤め上げるなら「あなたは僅かなものに忠実だったから、沢山のものを任せよう」となるのである。だから、この「タラント」は、現金の事ではなく、羊を養う為の「能力・才能」の事だと理解出来る。従って「5タラント儲けた」とは「才能が花開いた・成長した・更に良い牧者になった」という事であろう。だからこそ、それを「主人の喜び」と言うのである。一方、悪いしもべ頭(当時の宗教指導者達)は、民を養うべき責任を果たしていなかった(24:48〜49)。せっかくタラントを与えられたのにだ。神観にも問題がある(25:24〜25)。だから、利息云々は、主人の本意ではない。「律法に生きるなら律法によって裁かれる」(ローマ2:12)という事だ。
そういう訳で、このタラントの喩えは、しもべ頭に対し、再臨に備えて責任を果たすべき事を教える。すなわち、御心を汲み取って、律法から離れて、福音を受け取って、霊の糧をキチンと与える事だ。そうでないと、暗闇で泣いて歯ぎしりする事になる(29〜30)。ただし「誰でも」とある通り、皆が律法主義から離れるべきだ。そして、神の愛と御心・福音を知って、神に対する感謝と喜びを持つ者となろう。それが「持っている者」であり、更に与えられ豊かになるのである。
2025年6月1日礼拝メッセージ マタイ25:1〜13 「ともしび」
メッセージは13分頃からです。
未だ「世の終わりについて」の教えである。ゆえに結論は「聖霊に満たされていなさい」ではなく「再臨の時を知らないのだから、目を覚ましていなさい」(13)なのである。そして、その結論は既に24:42で語られていた事であり、要は、再臨に備えてどうするべきか(その心構え・信仰の在り方・注意すべき事)が教えられているのである。
さて、花婿は再臨の主を表している。そして主は「私はすぐに来る」と言われたが、再臨は二千年経ってもまだだ。花婿が遅くなる事が設定済みという事を考えると、主は初めから、すぐに来るつもりなんか無かったのではないか。やはり「すぐ」は「たちまち」(24:29新共同訳)なのだ。いずれ時が来れば、一気にそれは起こるのである。
そこで問題は、何故遅く来るのかだ。早い方が良いのではないか。この喩えでは「夜中になって」である。眠くなるのは当然だ。そして娘達10人全員が眠ってしまったのである(5〜7)。だから「目を覚ましていなさい」とは「気付いていなさい」という事なのだ。
娘たちの違いは、5人は油を切らした事であるが、彼女達も油の必要性は知っていたし、買いにも行って手に入れもしたが主人に拒否された(8〜12)。神から「あなた方を知らない」と言われたのは、御心を行わない(不法をなす)者だ(マタイ7:23)。致命的な問題だ。それと同じ位に致命的な問題が愚かな娘達にはあった。それは「灯火を整えてなかった」事である(25:7〜8)。整える為に油は勿論必要だから、聖霊は無関係という訳ではない。だが油だけでなくランプも必要(それが灯火)だ。つまり、再臨に備えて整えるべきは灯火だという事である。そして、信仰者の歩みの為の足の灯火と言えば、それは勿論、御言葉である(詩篇119:105)。その御言葉を疎かにする悪い羊飼い・偽教師・偽預言者達がいるのだ(24:45〜51)。彼ら「はげたか」は死体(死んだ様な信仰の人)に集まって来る(24:28)。だから、寄せ付けない様に御言葉の灯火を整える必要がある。それを教える為に「悪いしもべ頭」の喩え(24:45〜51)の次に「そこで」(5:1)と10人の娘の喩えが始まるのである。だから「目を覚ましていなさい」とは、再臨に備えて偽りに惑わされない様に「真理に気付いていなさい」なのだ。
2025年5月25日礼拝メッセージ マタイ24:36〜51 「その日、その時」
メッセージは13分頃からです。
再臨・終わりの時、それがいつなのかは分からない。主も知らない。その理由が「ノアの日の様だから」だ。洪水が起きるまで人々は日常生活を普通に送っていた。それと同じ様に、終わりの時も、人々は破滅するまで気付くことなく日常を過ごしているという事だ。
同じ主の言葉である黙示録によれば、世の終わりの近付く頃には「獣の刻印を受けていないと何も買えない」程の、生きる事さえままならない様な世界になっていると思えるのだが、それは実際には何の事なのか、はっきりと解明されている訳ではない。だから、同じ主の言葉なら、分かり易い方に基づけば良いだろう。つまり、世の終わりの直前も(洪水の時と同様に)人々は普通に暮らしているという事だ。そして、普通に暮らしていると、ある日、泥棒に入られて「あっ泥棒だ」と後から気付くように、再臨・携挙も、それが起きてから人々は気付くのである。
そこで主は「あなた方(信仰者)も用心していなさい」と言われた。何に用心するべきか。偽りに惑わされない様に、だ。何故なら「悪いしもべ」がいるからである(45〜51)。しもべ達の世話を任された「しもべ頭」なのに、他のしもべ達にキチンと食事を与えもせず苦しめている。それは、牧会者が信徒を御言葉で養わない(偽りを語る・偏っている)事を表している。携挙はいついつだ…とか。そんな「悪いしもべ」は厳しく罰せられる(50〜51)。その教えに従う人も同様だろう。二人いると一人は取られ、一人は残される。それも携挙に取り残された後に気付くのだ。だから「用心せよ」なのである。
再臨の時「キリストにある死者」が、まず初めによみがえり、携挙されるという(Tテサロニケ4:16〜17)が、一人は取られ、一人は残されるのだ。違いは、本当に「キリストにあった」かどうかだ。それは神だけがご存じだ。いずれにしても最終的には全員が神の前に引き出される。最後の審判だ。その時になって慌てても遅い。だから、偽預言者・偽りの教え・御言葉の偏った解釈…に用心する事が必要なのである。
平和で安全と思える日常に突如滅びが襲い掛かる。だから霊的に目覚めている事が大切だ(Tテサロニケ5:3〜6)。
2025年5月18日礼拝メッセージ マタイ24:29〜35 「備えは、今!」
メッセージは13分過ぎからです。
AD70のエルサレム崩壊の後「すぐに」天変地異が起きる、と主は言われた(29)。「すぐ」ならAD75〜80頃か。そして「その時」再臨だと言うが、そんな事実は無い。神の憐みのゆえに再臨は延期されたというのが定説だが、どうもしっくり来ない。そこで新共同訳だが、「すぐに」ではなく「のち、たちまち」となっている。「すぐ」ではなく「のち」なら3000年後でも「のち」だから、再臨がまだでもおかしくはない。とにかく、のちに何が起きるのか。たちまち太陽は暗くなる(新共同訳)のだ。その時が来たら、あっという間に、一気にであるから対処のしようがない。世界中の人がパニックになる。その時、再臨の主が現れる(30)。それを見て全ての民族は悲しむのだ(ルカ18:8参照)。そんな中でも真の弟子は携挙に与る(31)。それら(前兆)を見たら「再臨の主が戸口まで近付いていると知れ」と言う(32〜33)のだが、再臨を見たら再臨が近づいているとは、おかしな話だ。それもそのはず、脚注には「人の子、あるいは、その事」とある。その事とは、世の終わりの事だ。つまり、天変地異〜再臨〜携挙が起こるのを見たら「もう、この世の終わりだ」という事である。そして、それらは突如として一気に起きるので、その時になって慌てても間に合わない。
天地は滅び去る。「しかし」と比較する(35)のだが、比較対象は「滅びる天地」だ。それに対する「主の言葉」とは「永遠の御国の約束」であって、それは決して滅びる事の無い御国なのである。つまり、この世は滅び去るけれども天国・滅びない御国がある…その約束は必ず成る、覆される事は無い、たとえ、この天と地がひっくり返っても…という事なのである。
「見よ、私はすぐに来る」と主は黙示録で言われたが、「すぐ」が「のちに、たちまち」という意味でない限りは「すぐ」という約束は覆された事になる。それが、憐みのゆえであったとしても、ひっくり返された事に変わりはない。しかし、再臨〜携挙〜新天新地は一気に来る。間延びしない。裁きの時に猶予は無い、それは覆る事が無いのだ。だから、備える(天国への道を歩み続ける)時は今なのである。私達は、主が来られるのを見て、悲しむのではなく喜ぶ者でありたい。
2025日5月11日礼拝メッセージ マタイ24:15〜28 「はげたか」
メッセージは13分からです。
世の終わりまでの大まかな流れ(〜14)の後、次は具体的な事(2節で主が預言されたエルサレム崩壊の事)が語られている…それがこの箇所だ。ただ、このマタイ福音書が書かれた時点(AD80年代)では、エルサレム崩壊は既に10年以上位前に起きた事なのでマタイは、読者が「将来の事」と誤解して恐れない様に「良く読み取れ」と注意するのである。だから、この悲惨な出来事の預言は、私達にとっても過去の事だから(これから起こる事ではないので)心配は要らない。
ただし、23〜26節は別だ。何故なら再臨はまだ来ていないからである。エルサレム崩壊はAD70年に起きたが、再臨にまつわる事は、これから起きるのだ。そして偽キリスト・偽預言者は今実際に起きている。偽りの教えを語り、根拠の無い空想話を語り、携挙・再臨の時を予言する人が後を絶たない。そして多くの人が惑わされている。主は「再臨は稲妻のように来る」と言われた(27)。つまり、予測出来ないという事だ。ただ「雷が来そうだ」という事は、空を見れば予測出来る。同じ様に「そろそろ再臨かも」という予測は不可能ではない。しかし、稲妻が発せられる瞬間は予測出来ないのだ。だが同時に、一旦稲妻が走れば、その瞬間を見逃した人にも分かる。その様に、再臨の正確な時は予測出来ないけれども、それは誰にも分かる形で来るのである。
最後に主は「死体のある所にハゲタカが集まる」と言われた(28)。脈絡の無い言葉の様に思えるが、文脈から考えれば「ハゲタカ」とは、信徒を食い物にする偽キリスト・偽預言者の事だろう。すると「死体」は信徒だ。それも「死体」と表現されている通り、死んだ様な信仰の信徒である。ヤコブが言うには「行いの無い信仰は死んでいる」(ヤコブ2:17)。しかし、だからと言って「善い行いをしなければ」と言うなら、律法主義に陥ってしまう。だから「行い」とは、言わば「どう生きるか」という事だ。つまり、信仰によって出て来る全ての行いをひっくるめた「生き様」なのである。その「どう生きるか」が問題なのであって、神を求めず、ご利益・奇跡・繁栄を求める生き方…そういう所にハゲタカが集まるのだ。私達は、主が来られるまで、そんなハゲタカを寄せ付けない様に注意深く歩もう。
2025年5月4日礼拝メッセージ マタイ24:1〜14 「それから、終わりの日」
メッセージは11分50秒からです。
ユダヤ教に対して決別を宣言した主は、それを行動でも示した。宮を出て行ったのである(1)。それを惜しむ弟子達に主は「エルサレム崩壊」を預言する。永遠と思われた程の荘厳な宮が壊れると聞いて弟子達は「世の終わり」かと思い「その前兆は?」と聞く。それで主は、世の終わりまでの大まかな流れを話された。それが14節までだ。
前兆は、偽キリスト出現、戦争、飢饉と地震、迫害…だが、それらは必ず起こる事(生みの苦しみの初め)であって、終わりが来たのではない。つまり、それらの前兆は、世の終わりの直前に起きるのではなく、世の終わりまでの間(何千年?の間)に起きる事なのだ。
その中でも、魂を守る為に一番大切なのが「人(偽キリスト)に気を付ける」事である。驚くべき事に、偽キリストを信じる人々が沢山いる。加えて、偽キリスト教を信じる人々もだ。奇跡があれば本物だと考える人々も。教義の善し悪し、信仰の純粋さ等は関係無いかの様に。更には、リバイバル。「世の終わりには全ての国がキリスト教国になる」と言う人もいるらしい。信じる人は大喜びだろう。だが主は「惑わされるな」と言う。世の終わりまでに起こる事は、キリスト教の腐敗・背教・カルト化だ。それで大勢の人が躓くのである(10〜12)。大リバイバルなど一言も無い。だから結局、主が予め注意して下さったのに、クリスチャンは見事に惑わされてしまっているという事だ。しかし(「惑わされてたまるか」と)耐え忍ぶ者は救われる(13)。例えばヨハネは、多くの反キリストが現れていると言う。反キリスト…それは腐敗して曲がったキリスト教徒の事だ。そして彼らの教えが「肉の欲・目の欲・暮らし向きの自慢」なのである(Tヨハネ2:16〜19)。その誘惑に抗って耐え忍べという事だ。
最後にマタイ24:14。全ての国民が信じて(大リバイバルが来て)終わり…と主は言っていない。ただ福音が、全ての「人の住む地」に行き渡って終わりだと言っているのである。それは10年後か、100年後かは分からない。いずれにしても大事なのは、その時まで、惑わされない事である。最後まで耐え忍んで、救いの完成を得る者となろう。それが「世に勝つ」という事である。
2025年4月27日礼拝メッセージ マタイ23:29〜39 「訣別の時」
メッセージは13分20秒からです。
律法学者・パリサイ人達は、自分達の先祖が殺した預言者達の墓を建てて弔っていたが、その何が「忌わしい」のか。主は「先祖が罪を犯したのだから、その子孫を赦さない」と言うのか。
主が「偽善」と指摘するのは、彼らが「自分達は預言者殺しに加担する事は無い」(30)と言っている部分である。と言うのは彼らは、この時まさに「預言者殺し(キリスト殺害計画)」を遂行していながら、先祖が殺した預言者の墓を建てて善を装っている…という事実があるからだ。それが、自分達も先祖と同類である事の証だという訳である。
それで主は「先祖の罪の不足分を満たせ」(32)と言うが、罪を奨励しているのではない。神から遣わされた人を迫害する…その究極は御子を殺す事であり、その預言だ。つまり「キリスト殺害計画を実行するがよい(するだろう)」と言っているのである。その罪は滅びを招くと主は言う(33)。34節も同様に、使徒達の宣教の中で実行されて行く。それが「この(罪の)時代」であり、その報いは必ず来る(35〜36)。報いとは、エルサレム崩壊だ(38)。主は、それを思って嘆いていた(37)。イスラエルの中のイスラエル(エルサレム)こそが「自分に遣わされた者を打つ者」なのだ。その「罪の時代」は、今もである。現代の教会に対しても神は、真の福音の使者を遣わされているはずだが、多くの人は、福音よりも繁栄を好んでいる。
主は「今後、私を見る事は無い」と訣別を宣言された(39)。だが、これは文字通りではない。これはユダヤ教との決別宣言だ。律法主義から福音(主の御名によって来られた方を受け入れる)へと変わらない限り、決して神を見る事は出来ないという事なのだ。
では私達は、今後必ず神を見れるのか。聖書は言う。誰も聖くなければ主を見る事は出来ない(ヘブル12:14)と。これはユダヤ教への宣言と本質的には同じで、どちらも「偽りの信仰から離れよ」という事である。つまり「律法主義から離れて福音へ…」と同じく「偽りの福音から離れて純粋な福音へ…」という事。そうでない限りは決して神を見る(天国に入る)事は出来ない。私達は、主にお会い出来る者でありたい。だから聖められる(偽りから分離される)事を求めよう。
更なるバックナンバー(要約)は、順次、ブログに移行。