日本基督教団 富士吉田教会

ようこそいらっしゃいませ。日本基督(キリスト)教団富士吉田教会は、山梨県富士吉田市にあるプロテスタントの教会です。

礼拝説教

説教本文・(時に要約)を掲載しています。音声配信もあります。

2016年9月25日 「わたしたちの病を担う」 今村あづさ伝道師
マタイによる福音書8:14~17

5章~7章まで、山の上で説教をしていたイエス様は、説教を終えられて、山から下りて来られました。山上の説教をしたところは、丘になっていて、ところどころに岩がのぞき、斜面に野生の小麦が生えているようなところです。あまり、人家のあるところではありません。パンの奇跡を起こしたところも、ここからすぐの所にあって、今は教会になっています。
イエス様の生まれたところは、もう少し南東のナザレですが、この時にはカファルナウムに住んでおられました。それで、家に帰られると言う訳です。カファルナウムには現在、立派なシナゴーグ、つまりユダヤ教の教会の跡がありますけれど、それは先週のローマの百人隊長が建てたものだと言う伝説があるそうです。そして今日のペトロの家は、そのシナゴーグの跡のすぐ近くにあります。マルコによる福音書では、シナゴーグでの説教を終えられて、ヤコブ、ヨハネと共に、アンデレとペトロの家に向かったと言います。「礼拝が終わったから、先生、うちに寄って行ってくださいね」、と誘うには、便利な場所です。
ペトロの家の跡と言うのは、大きな五角形の建物で、当時のほかの家の遺跡の大きさから見て、異例の大きさです。当時、ペトロは裕福だったのだろうか、ヤコブとヨハネの兄弟の家は、雇い人を使っていましたから、そちらの方が裕福そうですが、良く分かりません。もちろん、後代に教会になって、大きくなったのかもしれません。今後の研究課題としておきます。
イエス様は、ペトロの家に行きました。家には、ペトロの姑が熱を出して寝込んでいた、と言います。マタイによる福音書は、余計なことは言いません。マルコによる福音書が、一緒に行ったのがほかに何人いたとか、その人たちがイエスにこのことを伝えてイエスがやって来て、とか書いてあるのですが、それは皆、マタイによる福音書は省いています。逆に言うと、マタイによる福音書は、重要なことを残したのです。つまり、ただの「女」ではなくて、「ペトロの姑」であることが、重要なことだったのです。
この一言で、いろいろなことが分かります。まず、ペトロは結婚していたんだ、と言うことです。ペトロの奥さんは聖書では一回も出てきません。けれども、とにかく彼は、独身ではなかった、家庭を持っていたということです。
重要な点の一点目は、この点です。ペトロは、使徒の筆頭であると、自分でも自負していました。ペトロは、福音書の中ではへまばかりしているように見えますけれど、ペンテコステの出来事の後では、福音伝道の中心人物となりました。最後は、十二使徒の筆頭使徒として、ローマで殉教しました。ローマのサン・ピエトロ大寺院というのは、そのペトロのお墓の上に建てられた教会です。「サン・ピエトロ」とは、「聖ペトロ」のことですから、「サン・ピエトロ大寺院」とは、「聖ペトロ大聖堂」と言う意味です。ローマ・カトリック教会の、いわば総本山です。ペトロは、ローマ・カトリック教会の初代教皇なのです。
ところで、そのローマ・カトリックの聖職者と言えば、神父もシスターも独身であることが要求されます。ところが、その教皇が結婚していたのです。実際、ローマ・カトリック教会の聖職者に独身が要求されるようになったのは、中世になってからなのです。
ですから、プロテスタント教会になってから、聖職者は皆、結婚しました。ルターは子だくさんでしたし、ウェスレーにはたくさんの兄弟がいます。それはちっともおかしなことではなくて、教会が最初は持っていなかった権威の鎧を付けて神秘的なものにしようとしていた時代から、教会本来のあり方に戻っただけのことなのです。
重要な点の二番目は、ペトロがお姑さん、つまり結婚した奥さんのお母さんと同居していたということです。これは、ペトロの住んでいた家に、結婚した奥さんがやって来て、奥さんと一緒に奥さんのお母さんがやって来た、と考えることも出来ます。ないわけではないでしょう。けれども、分かりやすいのは、ペトロがマスオさんだったのだろう、という考えです。つまり、ペトロはお婿さんだった、と言う訳です。
そこで、お婿さんは、ユダヤ人の間では普通だったのか、と言うことを考えてみます。聖書には、そんな記述はありません。マタイによる福音書の冒頭の系図だって、すべて男系の系図です。
旧約聖書の中で、思いつくのは、子どもがすべて娘の場合です。民数記の36章に、「相続人が女性である場合の規定」と言うのがあります。この場合、女性は父方の部族の一族の者としか結婚できないという制限があります。また、ヨシュア記の17章では、民数記と同じ娘たちが再登場し、男たちと同様に嗣業の土地を与えられますが、その土地は父親の住んでいた場所ではなく、父親の兄弟たちの土地の間に、土地を与えられたことが書かれています。となると、彼女たちは、生まれ育った家からは出て行かなければならなかったということです。
実際的には、娘の結婚は父親が存命中に行われたでしょうから、娘は結婚して、夫の家族と共に住んだことでしょう。それは、父方の部族の一族の者としか結婚できなかったのですから、父の兄弟たちの土地の間に住んだということです。そして、父親の兄弟たちの土地が父親の娘たちに分割された、というヨシュア記の記述では、父親の亡くなった後、娘が父親の土地を相続できたのかどうか、あいまいなままです。
けれども、形式的には娘たちは父親の相続人なので、母親は夫が亡くなった後、娘と共に暮らしたはずです。娘のお母さんは、産んだ子供に男の子がいなかったために、肩身の狭い思いをしていたことでしょう。ペトロの姑には、こんな事情があったのだろう、と考えられます。
ペトロの姑はこの家で、主イエスに出会い、手を触れられて癒され、起き上がります。起き上がる、と言う言葉は、蘇る、復活すると言う意味を持つ言葉です。「起き上がる」と言う言葉に、新しい神の命が与えられたという意味が、こめられているのです。
「イエスをもてなした」と言う言葉も、テーブルで給仕すると考えてもいいし、多分その意味なのでしょうが、「仕える」「世話をする」「助ける」と言う意味もあり、果ては「奉仕者として仕える」と言う使い方まであります。最後の言い方は、教会での役割のことを言うのです。
夕方になると、悪霊に取りつかれた者が大勢連れて来られ、イエスによって癒されていきます。そういった業もまた、彼女が助けた、世話をしたという風にも読むことができます。イエスによって癒され、喜びと共に用いられて行く、女性の姿があります。

今日の聖書の箇所は、最後にイザヤ書の53章が参照されています。8章の初めから登場している重い皮膚病の人、百人隊長の僕、そしてペトロの姑という、三様の病人の癒しの締め括りとして、置かれていると考えることができます。
これらの三人の登場人物はいずれも、体の病ばかりでなく、ユダヤ人社会の中で、弱さを抱えていました。重い皮膚病のゆえに、異邦人のゆえに、そして女性であるがゆえに、社会を中心で支える立場にはなれず、むしろ、よく聞く言葉では、「社会の周辺に追いやられていた」と言う訳です。つまり、一人前扱いされなかった、社会からは疎外されていた、肩身の狭い思いをし、充分守られていなかった、と言うことです。
主イエスは、このような人々を癒されます。この主イエスの癒しこそが、イエス・キリストとはどのような王様かを、示しています。イエス・キリストのキリストとはメシアのこと、救い主のことですが、メシアとは旧約聖書では、王であったり、預言者であったり、祭司であったりしました。マタイによる福音書では、王としてのメシアとして、主イエスを描いています。しかしその王国は神の王国であると言うことを、示しているんだ、と言うお話をしてきました。その王国の王は、わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担う王だ、と言うのです。
重い皮膚病の、汚れた人に、イエスは手を差し伸べて触れられました。お付き合いをしてはいけないとされている異邦人に、触れることはなかったけれど、話しをしています。そしてまた、熱を出して寝込んでいる女性の手に触れられます。これらは、彼らの汚れを、身に引き受けていることになります。相手の汚れを担うことによって、相手を癒す。そういったことを繰り返し繰り返し行うことによって、御自身に汚れを引き受け、そして最後はわたしたちの病と弱さをすべて自分に引き受けて、十字架の上で死んでいったのだ。ここでイザヤ書を引用したマタイは、このように考えています。
このことがよく分かるのは、重い皮膚病を患った人の清めの儀式のやり方です。4節で、モーセが定めた献げ物を捧げよ、と命じています。それはどんなものかと言うと、儀式のために用意した鳥二羽のうち、一羽をいけにえとして殺し、もう一羽は殺された一羽の血に沈めてから、空に放つのです。この意味していることは、一羽の生命と引き換えに、もう一羽は贖われると言うことです。つまりそれは、主イエスの命と引き換えに、病を負った人々の病が癒されると言う意味でしょう。わたしたちを神の生命に生かすために、わたしたちの代わりに死んでくださったお方、その方こそが、わたしたちの王、主イエスなのだ、と言うことです。
わたしたちは、4章の初めに、主イエスが、悪魔の誘惑を受けられたことを覚えています。パンの誘惑、天使の誘惑、この世の栄誉への誘惑を、悪魔が行います。もちろん、主イエスはそれらすべてを退けられます。それは、イエスご自身への誘惑だったのでしょうか。むしろ、福音書を読んでいるわたしたちの心の中の主イエスへの期待を示していないでしょうか。この誘惑は、主イエスへというよりは、わたしたちの王をこの世的に成功した方、この世的に力ある方、この世的に誉れある方としたいと言う私たち自身への誘惑なのです。物質的な成功や、繁栄へ導く方として、わたしたちはしばしば、この方をあがめていないだろうか。しかし、本当の神の国への道は、そこにはない。わたしたちの心の底の、どうしても父なる神と向き合うことのできていない、弱さ、苦しみ。自分自身が、自分から不可能と考え、自分から心にふたをして、「人には見えないで」と思っている弱さ、その弱さをこそ、主イエスは担ってくださって、そこをこそ、蘇らせてくださる。そして私たちは、自分自身も忘れそうになっていた自分の弱さと向き合い、そこにこそ神が共にいてくださって、命をくださるのだということに気づく。主イエスがわたしたちに触れて下さることによって、そのことに気づくのです。
その御手に、自分自身をゆだねることができるように、祈りましょう。
天にいらっしゃる、主イエスの父なる神様、あなたは、わたしたち一人一人のことをご存知です。あなたはわたしたちの一番弱いところにこそ働かれ、わたしたちをあなたの命へと招いておられます。どうか、わたしたちが主イエスに自分をゆだねて、あなたの命へと生かされますように、主イエス・キリストのお名前によって、祈ります。アーメン

2016年9月18日 「あなたが信じたとおりに」 今村あづさ伝道師
マタイによる福音書8章5節~13節
2016年9月11日 「主よ、御心ならば」 今村あづさ伝道師
レビ記13章45~47節、マタイによる福音書8:1~4

月曜、火曜に教区の伝道研修会があって、一泊二日で伊豆長岡温泉に出かけてきました。「公の礼拝を守る教会」と題して、佐々木美知夫牧師が講師をなさいました。10年間で、現住陪餐会員が、教団全体で12,000人減少しているという現象があります。また、各年代の信徒数は、60代以上が63%、それに対して20代、30代はそれぞれ5%ずつだと言うことです。そんな中で、教区はこれまでの委員会活動中心の教区活動ではなく、各教会の伝道にもっと積極的に貢献できる活動に舵を切るべきであると、仰っていました。
とすると、教区でどんな具体策になるのか、と言うところに期待が集まりますが、それはこれから具体策が出て来ると言うことのようです。まず第一歩は、教会員一人一人が教会についての理解を深め、伝道力を強めることだと言うこと、主日の礼拝を大事にすると言うことです。教師の養成とか、生涯教育なども、具体案として出ているようでした。今、正教師試験がとても難しくなっています。わたしも、来年の今頃は受験するのですが、合格率は半分ちょっとと言うところです。難しくなっているのも、生涯教育などと、関連しているのかもしれません。
昨年も話があった、伝道圏伝道について、今年も話がありました。伝道圏伝道と言うのは、一つまたは複数の教会の協力により、地域を定めて長期間計画的に伝道する方策だと言うことです。香長伝道圏が例に上がりました。CS生徒大会、伝道圏キャンプ、牧師婦人会、会報発行、役員研修会、教職勉強会、合同夏期伝道実習、代務教会への礼拝説教者派遣などの活動があります。
実際には、これらの多くは、すでに山梨分区で行われていることです。東海教区で、これらの活動をますます勧めて行こうと言うことだと思います。来年2月には、分区聖日合同礼拝がおこなれますが、ここでも教会協力に向けて、心を一つにしていくということだと思います。
富士吉田教会も、さまざまな面で、支えられています。昨年、わたしの就任式の時に、10年は居て、と松木田博東海教区議長に言われました。教区議長がどう言おうと、それは神様のご計画である訳ですけれど、それは教区はそのつもりで支えて下さると言うことです。教会は会衆の集まりです。教会を作る働きは、聖霊によるものですが、それは造り主なる神のご計画によるものです。わたしたちは、目に見えない教会から富士吉田教会を通じた地域伝道を担っています。担わせていただいている光栄を思いつつ、進んでいきたいと思います。

さて、今日の聖書箇所は、マタイによる福音書もレビ記も、「重い皮膚病」と書かれています。けれども、わたしが慣れ親しんだ1955年の口語訳聖書では、いずれも「らい病」となっていました。
「らい病」が「重い皮膚病」に変更された事情は、旧約聖書と新約聖書では異なります。新共同訳聖書が最初に出版されたのは、1987年です。この時、新約聖書は「らい病」となっていました。ところが、旧約聖書の方は、すでに「重い皮膚病」に替っていたのです。
旧約聖書の元の言葉「ツァーラアト」といいますが、この言葉はらい病だけを意味するものではありません。今日読んだ46節の次の47節を読むと、衣服にカビが生じた場合の対応が書いてあります。ひどければ焼き捨てよ、大したことがなければ水洗いせよ、と言うものです。この箇所も、口語訳では「衣服にらい病の患部が生じた場合は」となっていました。これでは意味をなさないので、新共同訳では、従来の「らい病」を見直して、実態に合わせて皮膚病、重い皮膚病、カビなどと訳し分けるようにしたのです。
新約聖書の方は、ギリシア語で「レプラ」と言う言葉を使いますが、これももともとは先ほどの「ツァーラアト」の訳語として使用したものだったそうです。しかし、中世にらい病の意味で使われるようになりました。そして1987年の時点では、従来の言葉をそのまま使っていました。
手元にある新共同訳聖書で、新約聖書の方も「重い皮膚病」になっているのは、2001年からです。また、2002年日本聖書協会から口語訳の「らい病」は「重い皮膚病」と読み替えるように、というお知らせが出ました。これらは、1996年の「らい予防法」廃止に伴う措置だと言うことです。
レビ記の箇所では、重い皮膚病の患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口髭を覆えと書かれています。これらは、すべて、悲しみの行為です。葬式のときも、このような動作をしました。死んだも同じだ、と言うことでしょうか。この人は「一人で宿営の外に住まねばならない。」と書かれています。この意味は、イスラエルの共同体の聖なる集会に参加することができないと言うことです。ということは、共同体からは排除されると言うことです。居留者、奴隷と同じ立場です。社会的に葬られると言うことでしょう。社会的には死んだも同じ、と言うことです。
マタイによる福音書の今日の箇所は、マルコによる福音書にも、ルカによる福音書にも、同じような物語が納められています。現代の聖書学者は、これらの福音書のうち、一番最初に書かれたのはマルコによる福音書で、マタイとルカは、マルコによる福音書と、それぞれが持っていた独自資料を使って福音書を書いた、と言われています。
マタイによる福音書の物語は10行で、マルコの15行に比べるとかなり短くなっていますが、その中でマタイが逆に、付け加えた言葉もあります。それが、重い皮膚病の人がイエスに近寄って来て最初に言う「主よ」と言う言葉です。「主よ、御心ならば」。この人は、イエスが、神の権威をお持ちの方だと信じ、イエスに信頼していたのです。
旧約聖書の様々な律法は、その中心に主なる神のイスラエルの民への慈しみがあります。その慈しみにふさわしく生きるようにと、人々に律法が与えられました。その律法の中心は、主なる神への従順、信頼、愛です。
しかしながら、律法の中には、古代の時代のタブー、清さと汚れの区別があります。一旦、汚れていると判断されてしまったら、神の共同体から排除されることになります。そして、自分の努力では、共同体に復帰することができない。この人の病気は、この人のせいではありませんが、この人の病気は、自分の努力で癒されるものではありません。悪いことは何もないのにも拘らず、この人は共同体から排除され、それはその人の社会的な死を意味するのです。
祭司は清いかどうか、宣言することができます。今日読んだレビ記13章の次の14章を読むと、1章分がすべて、重い皮膚病を患った人が清めを受ける時の指示になっています。祭司は彼の体を調べ、何日もかかる清めの儀式を行った後、清くなったと宣言します。
イエスの言葉は、旧約聖書の定めそのままです。その点では、ユダヤ教の律法から出るものではないし、癒された人もまた、イスラエルの自分の属していた共同体に帰って行くのです。けれども、旧約聖書の律法では、祭司は重い皮膚病を患った人を癒す訳ではありません。ただ、共同体から排除し、神が働いてくださり、清められたかどうかを、本人の申し出によって確認するに過ぎません。自分では自分を癒すことのできない人を、イエスは神の権威を持って癒す。そこに、わたしたちの救い主としての姿があります。

らい病と言う言葉は、差別的な意味合いがあると言うことで、今はハンセン病と呼びます。1996年に「らい予防法」が廃止され、その後は元患者の方たちへの謝罪・名誉回復、社会復帰の支援、補償、療養環境の整備、普及啓発活動が行われています。
教会の青年会など、いろいろな機会に療養所を見学させていただく機会がありました。青森、草津、東村山、神山の療養所に伺ったことがあります。御殿場の神山は、沼津教会の宮本先生が代務をしている神山教会があって、ここでも説教をいたしました。
聞いている皆さんの多くが、ご存知かと思いますが、日本では昭和6年、1931年に強制隔離を伴う癩予防法が施行されました。その時、都道府県レベルでは、無らい県運動、つまり県内かららい病をなくそうという運動が起き、多くの患者を強制的にらい療養所に押し込める結果となりました。昭和18年1943年に特効薬プロミンが出て、治る病気になっても、なおこの措置は続きました。人々は、強制隔離され、外出も治癒後に療養所を出ることも出来ず、結婚しても子どもは持てず、所長は懲戒検束権を持ち、違反者の懲罰をすることができました。働かなくても生活できるように、との配慮は労働禁止と言うことになり、その結果は生活保護レベルでの生活を余儀なくされたと言うことです。
患者に対する差別は続き、家族も含めて村八分になると言うことで、一家心中をした家もあります。家族への差別を目の当たりにして、入院を決意した人たちもいました。入院すると、退所はできず、家族の差別を恐れて戸籍を抹消し、療養所内では偽名で暮らしていた人たちも多かったそうです。家族のきずなを絶って、入所したということです。このため、療養所内には埋葬のための施設もあり、納骨堂もありました。入所の時に、神道か仏教かキリスト教のうち一つを選ばされるということで、キリスト教会も設置されています。しかしながら、宗教を許すところには、生き生きとした人生を諦めさせる、後ろ向きの考え方も見え隠れします。
このハンセン病とキリスト教会のつながりは、明治の初めからありました。現代でも、全国に十数か所のハンセン病療養所がありますが、最初に設立したのは、宣教師の方たちです。日本に最初にできたのは、御殿場の神山だったそうです。
現在、患者さんの平均年齢は80歳を超えています。らい予防法が廃止され、入所者の名誉回復と生活向上が行われたとはいえ、その人生が根こそぎ破壊されたことは間違いありません。
プロミンという薬ができてから、ハンセン病は治る病気となり、入所者に患者は残っていません。けれども、退所しないで療養所に住み続けているのは、病気の影響で目が不自由だったりと言うこともありますが、家族との関係が絶たれ、帰るところがないからでもあります。
青森の療養所を尋ねた時、入所者の方にお話しを伺う中で、幼いころに分かれた母親と共に思い出すのが、りっぱな箱入りの世界文学全集だったとか、人形だった、という思い出話が出てきました。そこに、教育を重んじ、大事にされて育った少女時代を感じました。入所者と言うと、何かこう、同じような人々のような気がしてしまうのですが、実際に会ってみると、個性豊かな、名前も家族もあった人々だったのです。

これからしばらく、さまざまな人々の癒しの物語が続きます。ある面では、同じような物語が続くのです。そして今日、ハンセン病のことをお話しをしながら感じていたのは、これはハンセン氏病の患者さんだけの問題ではないと言うことです。結核、HIV,エボラ出血熱などなど、偏見や差別が問題となる病気はわたしたちの周りにたくさんあります。病気ではなくても、障害を持っていたり、薬物依存があったり、高齢であったり、女性であったり、などなど、社会の差別と偏見の中で暮らさなければならない人はたくさんいます。
主イエスは、重い皮膚病を患っていた人を清め、そして「祭司に体を見せて、供え物を捧げ、人々に証明しなさい」と言いました。そのようにして、自分の所属していた社会にもう一度帰って行くようにと、送り出されたのです。
「主よ、御心ならば」。病が癒されても、人々の心からわだかまりを取り除き、病気だった人が受け入れられるのは、容易なことではありません。しかし、「よろしい、清くなれ」とおっしゃって下さる方がいて、わたしたちは清められます。「この人たちは清いのだ、わたしの王国に喜んで迎える人々なのだ。」権威を持って宣言してくださる方がいます。その方のもとでこそ、わたしたちは互いに愛し合い、神の国の住人となることができるのです。
一言、お祈りいたします。
主なる神様、キリストを主と仰いだ人に、あなたは天の国を開いてくださいました。私たちもまた、御子キリストにのみ依り頼んで、行くことができますように。わたしたちの頑なな心を開いてください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン

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