「『スロー』への招待」

 スピード偏重の現代社会への反省から、最近「スローフード」、「スローキャリア」、「スロービジネス」、「スローライフ」などという、「スロー」が入った言葉がよく使われているようです。「ゆとり」「ゆっくり」ではなく、あえて「スロー」(遅い)という言葉を用いなければならないほど、私たちの社会は「はやさ」に固執することから自由になっていません。「スピードをあげることは、真であり、善であり、美であるという暴風のような哲学」、「スピード主義」(相澤好則著『スピード・熟慮・平和』キリスト新聞社)に侵されているかのようです。
 
 スピードの出しすぎによって起きた事故(2005年4月のJR福知山線の脱線事故)などは、「はやさ」よりも大切なものがあることをはっきりと教えています。しかし、「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」と言われて久しいにもかかわらず、相変わらず「もっとはやく」が交通機関だけでなく、政治や経済、教育の世界の中でも叫ばれているのです。
 古来より「はやさ」の危険性を示すことわざが日本でも使われてきました。例えば、「急いては事を仕損じる」。物事をじっくりと、時間をかけて行うことの重要性を教えています。「早いものに上手なし」は、はやく完成させることは表面的には格好よく見えるが、その仕上がりはよいものではないことを意味します。
 科学技術の進歩がもたらすスピードの恩恵に与っている私たち現代人は、時間をかけることの大切さを再発見すること、そのためにもその影響力を強める「スピード主義」に対抗して、あえて立ち止まってみることが必要です。なぜなら、「はやさ」は、往々にして私たちの生活をあわただしく、忙しくし、「考える葦」(パスカル)である人間にとってなくてはならない、考える時間を奪ってしまうからです。「ただ『はやい』や『はやく』が行き過ぎると、真実がわからなくなるという、由々しい問題がある。これは重大である。…『はやい』『はやく』が流行ると、『考えなくなる』からである。」(相澤好則著『スピード・熟慮・平和』キリスト新聞社)
 
 ところで、『スロー・イズ・ビューティフル』(平凡社)の著者で、明治学院大学国際学部教授の辻信一さんはその近著『スロー快楽主義宣言!』(集英社)の中で、スローライフについて次のように述べています。
「スローな暮らしには、スローな社会には、愉しさ、美しさ、安らぎ、おいしさが満ちている。どうしてだろうか?その理由は簡単。スローとは、『つながる』ということだから。スローな快楽はつながりそのものから湧き出すものなのだ。」「つながる」
「スロー」、そして「人生」についてさらに次のように記しています。
「つながるということは時間がかかる。スローなのだ。関係的な時間は非効率。効率や経済効果ばかり追い求めるファストな社会では、つながりが断たれ、関係的な時間が切り捨てられやすいのはそのせいだ。」「人生は、面倒臭くて、回りくどいし、停滞も、繰り返しも、待たされることもたくさんある。しかしだからこそ、人生は生きるに値するのではないか。効率的に人を愛したり、愛されたりすることはない。効率的に生きるなんてもったいない。生きることは、スローなのだ。」
 
 人は関係の中で生きる、「つながることなしには生きることができない存在」(辻信一)です。それは聖書が「人は、ひとりでいるのは良くない」(旧約聖書・創世記2章18節)と言っているとおりで、他者との関係の中でこそ、私たちは人間らしく生きていくことができるのです。
 そして、その関係を築き、楽しむためには時間が必要です。時間をかけなければ出来ないことがたくさんあることを私たちは決して忘れてはなりません。薄っぺらで、表面的な関係ではない、本物の、そこに豊かさと実りを見出すことができる関係作りは、「ファスト」「スピード」ではできません。じっくり、のんびり、たっぷり、しっかり、ゆっくりと、時にはあえてスローにつくり上げていくものなのです。
 
「天の下では、何事にも定まった時期があり、
 すべての営みには時がある。」
(旧約聖書・伝道者の書3章1節)
 
 私たちは、この「時期」「時」をはぶくことに努力するよりも、人生や毎日の生活の中でそれらを大切にし、楽しむことを心がけたいものです。