【イエス様の弟子】 私たちの教会は今年の目標のみことばが、「イエス様の弟子となろう」ということで、出発しましたので、 このページにも書かせて頂きました。 飯田中央キリスト教会 牧師 吉川 八重子 「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたの ほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが 多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」 <ヨハネ15::7-8> あなたは、この地上の生活に必要なものを手にすることが1番の願いでしょうか?今よりもっと良い仕事を したい。学校の成績が良くなりたい。試験に合格したい。結婚したい。新しい車が欲しい。貯金をしたい。 家を持ちたい。もっと健康になりたい。それは当然の願いですね。 すばらしい約束をイエス様は私たちに与えて下さいました。「ワォ〜!何でも求めていいんだよね。 祈ります、祈ります。でも、どうしてすぐに聞かれないの」 「何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのために それがかなえられます。」 と言っているのに、どうしてすぐに答えてくれないのだろうか、と思うことが ありますね。そこで、イエス様が言われたもう1つの視点から考えてみましょう。 「神の国とその義とをまず第1に求めなさい。そうすれば、 それに加えてこれらのものはすべて与えられます。」 <マタイ6:33> 神の約束のポイントは、神の国とその義とをまず第1に求めるならば、この祝福に増し加えて、 あなたがたが必要と願うことはすべて与えられますと言っています。父なる神は、私たちがイエスキリストを 信じることによって、すべての罪を告白するなら赦し、救い出そうと願っておられます。 イエス様が私たちのために、十字架に釘付けられ、からだを裂き、血を流されました。十字架で死なれる 前までは羊が民の罪を背負って身代わりに殺され焼かれ、神と民が和解するためのいけにえになって いました。イエス様の十字架は、民らの罪を背負って死んでいった羊の代わりに、血を流して くださったのです。父なる神は、イエス様のいけにえを受け取られたことによって、私たちのすべての罪を みな赦そうと願われたのです。父なる神は、イエス様を通して、信じる者に永遠のいのちと天国を与え、 霊、たましい肉体が健康で、すべての点ですこやかになることを願って下さいます。 私たちは、「イエス様の弟子となろう!」 イエス様の弟子となることを目標に、出発しようでは ありませんか。そこで、弟子になるには信仰が必要となります。イエス様と弟子との関係は、実に深いもの なのです。それは、いつも一緒にいるからという単なる親しさというレベルではなく、キリストが主であり、 弟子は全くイエス様に依存するものであり、イエス様と弟子との相互の愛にあるものです。弟子たちは イエス様につながっている限り、生きることができ、実を結ぶことができます。もし、弟子がイエス様から 離れるなら、ただちにその機能は失い、ついには枯れて死んでしまいます。イエス様と弟子との関係は、 生か死かの関係であり人格的なものです。弟子がイエス様につながっているとは人間的な尊敬や 自分の感情的な熱心さに基づくのではなく、イエス様のことばに立つことです。そこで、人はイエス様の ことばに従って行く時のみ、その人の中に住み、働きかけ、愛と良い行いができるようにしてくださいます。 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらの ものはすべて与えられます。」 <マタイ6:33> 神の国とその義とをまず第一にというこの「まず」とは、1番という意味より絶対的にという意味です。 「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」 <ルカ10:42> どうしても必要な1つとは何でしょうか。宝を天に積む生き方を心得るものです。神の国は、神の支配で あり、その義とは、神との正しい関係を指します。神に従い、神との正しい関係において生活する。 イエス様を信じて、喜びの生活をすることです。謙遜であり、従順であり、神のおこころを1番に考えて 自分の行動を選びます。 神を信じない人は神を信頼しないために、富・権力に望みを置きます。しかし、キリストの弟子は、「神が 自分の必要なものを知っており、必要なものをそなえて養ってくださる。」この信仰が、不安や思い煩いを 打ち破るのです。世は悪魔の支配下にあり神に敵対し、悪魔は人間を罪の中にとじこめていく、おそるべき 勢力です。しかし、神のひとり子イエス様が、大罪人として十字架にかかり死んで下さったという事実が、 悪魔への勝利であり、人間を罪より解放し永遠のいのちを完全に与えて下さったということです。 そして、イエス様に敵対する者を裁かれるのです。神のおこころと神の意思への従順の一致からそう されました。イエス様は私たちを愛するあまり進んで十字架について下さったのです。もし、十字架の死が なかったら、イエス様と弟子の関係はなくなってしまいます。イエス様と弟子との関係は救い主と信仰者の 関係で、罪からのきよめは信仰を必要とし、すべての人々のために十字架にかかられたので、信仰のない ものには、その効果が現れないのです。私たちがイエス様を理解し心から信仰することは、聖霊様の働きに よる他はないのです。私たちが聖霊様の助け無しには、イエス様を理解することはできないです。 イエス様と3年半、共に生活した弟子たちでさえも、従えず威張ったり喧嘩したり、イエス様を悲しませる ことを言ったり裏切ったり、イエス様が十字架にかかられる心は理解できなかったのです。復活された イエス様が、天にお帰りになられた後、120名がイエス様の約束を信じて待ち望み、聖霊を求めて10日間 祈られ、その結果彼らに聖霊が降り、彼らは変えられたのです。 神の愛が人間のものとなるには、決定的な1つの段階を踏まなければならなりません。それは聖霊を 受けることであり、聖霊の助けによる以外に方法はないのです。人間的にイエス様について行きますと 宣言したとしても、聖霊のお力がなければ出来ない訳です。 私たちの希望は、本当の国籍が天にあるということです。そこは、悪魔の支配するこの世とは異なり、 神の支配により、平和と喜びと感謝の生活があるところです。クリスチャンは、この世から救い出され、 別の世界に入れられる者であって、本当の国籍は天にあるのです。私たちはイエス様を通して、 人間の理性で理解することのできない真の神の姿を理解でき、父なる神を知った者となるのです。 イエス様の十字架の出来事は、人間の絶望を希望に変える救いのわざです。弟子たちは、イエス様の 十字架の愛を受け入れ、彼を信じ彼の愛のうちにおることであり、彼らは喜びで満ちあふれることが 出来たのです。 私たちも、そういうお弟子さんの一人にして頂きましょう。 |