冨永憲司 とみなが けんじ
略歴
自己紹介
わたしは、小さい頃から何かを求め続けてきました。それが何かはわからないまま、心の中に湧き起こる内的な促しに従って、ある時はこちらに、ある時はあちらに、とさまよい続けてきました。正直に申しましょう。若い時には恥ずかしくも、汚れた道にも迷いこみました。わたしは「さまよい人」でした。
そう言えば、西行から牧水、山頭火に至る系譜を辿るまでもなく、古来日本人も人生を旅と観じ、旅人として生きることを生涯の願いとしたところがありますので、わたしの中に見ることができるものも日本人一般の心象風景だと言ってもよいのかもしれません。
しかし、その程度の納得では、わたしの心の渇きは癒されませんでした。だれが、こんなわたしを救ってくれるのでしょうか。幸いなことに、わたしはやがて聖書との出会いの中で、わたしもまた「神を求める旅人」(アブラハム)なのだと知りました。
もう少しはっきりいうと、わたしが何も知らないときに、神さまがわたしの心の奥深くに働きかけてくださり、わたしをご自分との出会いの
旅に導き続けてくださったということがわかったのです。
「神よ、あなたはわたしたちをあなたご自身に向けて創造なさいました。
それゆえ、わたしたちはあなたご自身の胸に憩うまでは、安らぎを得ません」
(アウグスティヌス『告白』)
しかし、そうは言っても、こんなに多くの罪と問題を抱えたわたしが、どうして神のみ前に、そう簡単に、安易に、進み出ることができるというのでしょうか。わたしの無知による、あるいは、故意による罪や汚れがそれを邪魔します。しかし、聖書の神は、罪を厳しくさばく正義の神であると同時に、キリストにおいて罪を許してくださる大いなる愛の神です。ですから、神と人間との間に立つ仲保者イエス・キリストを信じて心から悔い改めるなら、だれでもその罪と汚れを許されて、神との出会いをもつことができるようになるのです。
その救いの出来事が起こるところが、教会という神と人間との出会いの場なのです。教会にお出でになりませんか。あなたのさまよいつづける魂に安らぎが与えられ、神の義と愛に満ちた新しい人生が、きっと始まることでしょう。