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命のパンのしるし
ヨハネによる福音書6章1-15節
牧師 村松 惠美
イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。
また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。(11節)
大勢の群衆がイエスの後を追ってきました。しかし、このとき彼らが求めていたものは、イエスのしるしだったのです。群衆は主イエスがなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である(14節)」と言いました。人々は、かつてイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出し、荒れ野で水を出し、マンナを降らせてくれたモーセのような預言者が現れたのだと思ったのです。ローマの支配下に置かれ、苦しめられていたユダヤ人の願っていたのは、ローマを打ち破り、イスラエルの国を建てることのできる、自分たちにとって都合のいいメシアでした。
しかし、主イエスは、ご自分のことを理解していない群衆を憐れんでくださいました。主イエスはフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われました。こう言ったのは、フィリポを試みるためだとあります。フィリポは、大勢の群衆を見て、そして、自分たちの持っているものと比べて、とっさに計算し、無理だと決めつけました。自分の目の前におられる主イエスに心を向けようとしないのです。
アンデレも同じです。彼は、群衆の中に大麦のパン5つと、魚2匹を持っている少年を見つけましたが、「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と決めつけました。何の役にも立たないと言うのです。
しかし、人間の目から見れば何の役にも立たないような小さなものであっても、主がそれを用いてくださいます。何の役にも立たないと思われるようなものから、主は奇跡を行ってくださいました。「感謝の祈りを唱えた」とあります。これは、聖餐「ユーカリスト」という言葉のもとになった言葉です。わたしたちに最後の晩餐のことを想起させます。主イエスがパンをお与えになる、それは、主イエスご自身の体を与えてくださることです。目に見えるパンで肉体は一時的に満腹になったとしても、そのパンはやがてなくなります。しかし、主イエスの体であるパンをいただくことによって、わたしたちは決して飢えることがなくなるのです。
さらに、主は「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われました。「無駄にならないように」これは、「何も失われないように」、「一人も滅びないで」という言葉です。わたしたちはそれぞれに、人間的な弱さを持っています。自分は何の役にも立たないと思ってしまうかもしれません。しかし、主のもとにあって、すべての者が価値あるものとされるのです。主イエスにとって、無用だと思うものは何一つありません。主は、少しも無駄にならないように、一人も滅びないように、命のパンである御言葉を与えてくださるのです。主はご自分の命さえも与えてくださるのです。