イエス殺しの罪とその赦し

使徒の働き2章36-40節
説教メモ
1.罪の赦しを求めた者たちの姿(36-37節)
ペテロはエルサレムの人たちに、「あなたがたが、イエスを十字架につけたのです。」と叫んで、人々を罪に定めました。
何世代にも渡って待ち望んでいた救い主メシア。歴史上、あらゆる国の支配と圧制を受けていた彼らの唯一の希望であるメシア。それがナザレ人のイエスだったとペテロに教えられました。

人々の心は刺されました。ショックを受けたのです。ペテロの言う通りだと。
私たちは心刺されるでしょうか。
罪について鈍感どころか罪への意識が本当に乏しい私たちは、心の中で殺人の罪を犯していると指摘されれば、しぶしぶ認めるかもしれません。しかし、このイエス殺し、メシア殺しの罪が私たちにもあると言われるとどうでしょうか。私たちは、2000年前には生きておらず、殺したわけでもなければ、ましてやそれを望んだこともありません。しかしイエスを認めず信じない人はイエスを十字架につけた罪に定められているのです。人に対しての罪ではありません。相手は、神です。

ショックを受けるでしょうか。神への罪の意識の乏しさを自覚しましょう。

2.罪の赦しの方法(38節)
ペテロはここで、罪の赦しの方法とそれに伴う一つの約束を語りました。その方法は、悔い改めて、イエス・キリストの名によるバプテスマを受ける事でした。
・悔い改め・・・自分の罪を自覚して、心の転換によって行動も、生活も、生き方も変わる全人格的な転換
・バプテスマ・・・悔い改めた者の新生の象徴、表明の形
水のバプテスマ(預言者ヨハネ)・・・「悔い改めのバプテスマ」
父と子と聖霊の名によるバプテスマ・・・「罪の赦しを与えるバプテスマ」、「(この時誕生した)教会に加わるバプテスマ」
・約束・・・賜物として聖霊(のバプテスマ)を受ける

3.その約束が及ぶ範囲(39節)
聖霊のバプテスマの約束は時代を超えて、国境を超えて、私たちの神である主がお選びになる人々に与えられると約束されています。これこそすべての赦された者、全ての救われた者に聖霊のバプテスマが与えられていることの根拠です。そしてその約束に私たちも入れられているのです。

~感じたこと~
イエス様を十字架につけた罪とその罪の赦しと聖霊が与えられる約束に入れられたことを学びました。自分の罪への鈍感さを嘆かずにはいられません。この罪の大きさをもっと自覚する事が出来るようになりたいと思います。神様と人に対する自分の罪深さ、自分が救い主メシアを殺した者であるという罪の悲惨さをもっと自覚し、自分を誇る事が出来なくなるように、深い悔い改めを日々主の前に捧げる事が出来るようにと祈る者です。バプテスマを受けたその後の歩みも、更にその罪の赦しの大きさを確信し続け、賛美をささげていきたいです。私は聖霊が神様からの贈り物として与えられ、新しい人とつくりかえられました。この醜く小さな私が、神様の大きな計画と約束の中に入れられ、生きることが出来る事を心から感謝します。

ナザレのイエスこそ主である(その復活と昇天)

使徒の働き2章24-35節

説教メモ

 

ペテロと使徒たちは復活されたイエスと会い、話をしました。このペンテコステから10日前にイエスの昇天を目撃しました。

しかし、ペンテコステの日ペテロの説教を聞いているイスラエルの人々は、復活され、昇天されるイエスを見ていません。

そんな彼らにペテロは、詩篇16篇と110篇を引用し、イエスの復活と昇天を説明しました。

五旬節の祭りにエルサレムに集まっていた敬虔なユダヤ人たちとって、英雄であり最も尊敬されている王様ダビデの記したことばから、復活と昇天を解き明かしたのです。

 

詩篇16篇8-11節は預言であり、主語の”私”はイエスです。主語の”私”がダビデではないことを説明する為に、29節でダビデの朽ちた(死んだ)肉体は墓にあることを共有しました。主語がイエスだと思いながら、読み返してみましょう。イエスの右には父なる神がおられ、肉体の復活のことが預言されています。詩篇110篇では、主語の”私”はダビデ自身であり、”主”が父なる神を、”私の主”がイエスです。イエスの昇天について、預言されています。

 

預言者でもあったダビデは、知っていたのです。自分の子孫から、救い主メシアが生まれること、そのメシアは死から復活され、永遠に続く神の国の王座につくことを、、。

 

ペテロは復活したイエスに会ったこと、話したこと、ともに過ごしたことを詳細に説明したのではありませんでした。この体験からではなく、まず預言(みことば)を解き明かしました。

ユダヤ人が小さな時から学び、守ろうとしてきた旧約聖書のことば、何度も聞いてきた預言者ダビデのことばが、イエスの復活と昇天を預言していると伝えたのです。

イスラエルの人々の驚きと感動はどれほどだったことでしょう。神のことばを託されてきたユダヤ人たちが、神のことばの本当の意味を知った衝撃は、私たちの想像を絶するものだったのではないかと思わずにはいられません。

そしてイエスの昇天の目的は、聖霊の注ぎ(今見聞きしている聖霊のバプテスマ)だと語りました。

 

 

~まとめ~

1.イエスの復活

☆神がイエスを死の苦しみから解き放った(24節)

☆神がイエスをよみがえらせた(32節)

 2.イエスの昇天

☆神がイエスをご自分の右に上げた

☆昇天の目的は、イエスに聖霊を与え、イエスが聖霊を注ぐことである

ナザレのイエスこそ主である(その生涯と十字架)

使徒の働き2章22-23節

説教メモ

 

1.イエスの生涯

ペテロは、ナザレのイエスの生涯を思い起こさせます。

病人を癒したり、2匹の魚と5つのパンで大勢の人の腹を満たしたり、、。

一つや二つではない奇跡の数々は、人が成せる業ではなく、神のみが成せる業だと。

イエスこそが、イスラエルの人々が、ずっとずっと待ちに待っていた約束の救い主メシアなのだと、、、。神様が奇蹟によってそれを証明されました。

 

2.十字架

イエスは十字架にかかって死なれました。直接手を下したのはローマ兵、それを先導したのはユダヤ人の指導者たちでした。しかしペテロは、十字架にかけたのは、”あなたがた”だとイスラエルの人々を罪に定めます。

神の基準は人の心にあります。実際に手を下していなくても、そうなるように企てていなくても、イエスを憎んだ者、拒んだ者、心の中で彼を排除した者がイエスを十字架にかけたのです。

 

ペテロは人々の心の罪を明らかにした後、神様のご計画について話しました。イエスの十字架の死は、ローマ兵やユダヤ人の指導者たち、そしてサタンの勝利を意味しません。それは神様のご計画と勝利であり、イエスが死までも神様に従われたのです。自ら、喜んで。

神様はイエスの十字架によってこの方が救い主であることを証明されました。

 

聖書は人の罪とともに神様が全ての主権者であることを教えている。

 

一言

私たちは何によってイエスが救い主であると信じているのでしょうか。その「生涯」が、「十字架」がそれを実証しています。

そして「ナザレのイエスこそ主であること」の実証は「復活」と「昇天」に続きます。

聖霊とみことばの確信による大胆さ

使徒の働き 2章14-21節

説教メモ

 

ペンテコステの日、聖霊のバプテスマが使徒や弟子たちに起こりました。

彼らは聖霊によって他国のことばで主の御業を語ったのです。

その様子を驚く人々やあざける人々がいました。

ペテロは黙っている事が出来ず、声を張り上げました。

 

かつてのペテロはどうだったでしょう。

あまり深く考えず行動し、イエス様から注意されたことが何度もありました。

イエス様が捉えられた時、イエス様を3回知らないと言い、裏切りました。

イエス様の十字架の後は弟子達と共に怯えていたペテロ。

 

そんなペテロが大胆に「ユダヤの人々、およびエルサレムに住むすべての人々」と呼びかけます。イエス様から神の国のことを聞き、まさに聖霊のバプテスマを受けて、大きく変化した使徒ペテロの姿に胸が熱くなります。

 

ユダヤ教は安息日や祭りの日は朝9時以前は礼拝の時間なので飲食しませんでした。

それでこの朝9時に酔っているはずがないと伝えます。

聖霊のバプテスマはなんと旧約聖書の預言の成就だと、聖書から説明しました。

 

旧約聖書ヨエル書2:28-32の引用です。

ヨエルは南のユダ王国の預言者でした。

神様へのそむきの罪を神様は裁かれ、イスラエルは北と南に分裂していました。

ヨエルは、神様はその償いをなされると預言したのです。

 

ヨエル書とペテロが引用したヨエル書のことばにはいくつか違いがあります。

⒈「その後」が「終わりの日」と言い換えられています。

引用箇所の前の部分ヨエル2:25-27の預言がメシア到来による終わりの日であるという事。つまり、イエス様が来られたその終わりの日に、この聖霊のバプテスマが起こったと立証しました。

 ⒉「彼らは預言する」が付け加えられています。

聖霊を受けた者たちが預言する、つまり神様のことば:聖書のことばを宣べ伝えていく時代が始まるのだと伝えました。

 ⒊「恐るべき日」が「輝かしい日」となっています。

さばきの恐ろしさではなく、輝かしい恵みを強調しました。

 

「終わりの日」に「預言される」聖霊による福音宣教のメッセージは何でしょうか。

それが21節「しかし、主の名を呼ぶものは、みな救われる」です。

 

しかし19,20節の神様の裁きも見落としてはなりません。

「血と火と立ち上る煙」は最後の裁きとして黙示録8章以降に記されています。

ですから裁きが無くなったのではありません。

「主の名を呼び求めない者たち」は滅ぼされるのです。

 

一言

ペテロの大胆さは、どこから来ているのでしょうか。

それは、聖霊とみことばへの確信です。

聖霊のバプテスマを、現象や感情の高揚から神様からのものだと説明しませんでした。

ユダヤの人々が皆知っている、聖書から説明したのです。

それが聖霊によって福音を伝える方法だからです。

福音宣教の始まりと終わり

礼拝説教メモ

使徒の働き1章1節~11節

ルカ(使徒ではない)が、

テロピオ(名前からある程度地位のあったローマ人と推測される)へ

宛てて書いた個人的な書。

「あなたのもとへ、どのように、福音が宣べ伝えられたのか。」

ルカの福音書に続き、神の霊感によって書かれた、使徒たちの働きの歴史的な書。

「使徒の働き」について、これから学んでいきましょう。

 

☆聖霊による福音宣教の始まり 3-8節

イエス様は昇天されるまで神の国のことを語り、

生きておられることを使徒たちに示されました。

 

使徒たちにとってその40日は、あっという間のことだったでしょう。

心が燃えていたことでしょう。なんと幸いな時間であったことでしょう。

 

イエス様は使徒たちに言いました。

・エルサレムから離れないで聖霊を待つこと

→エルサレム(イエス様の十字架の場所)から、福音が伝えられ始めました。

・聖霊のバプテスマが与えられること

☆水のバプテスマと聖霊のバプテスマについて(参考)

水によるバプテスマ 聖霊によるバプテスマ
共通点 浸かる、一度きり
相違点 人が求める 父の約束(必ず与えられる)
目的 悔い改め 福音宣教

→私たちクリスチャンにも聖霊によるバプテスマが与えられています。

なぜなら、救われ、御国に繋がれ、主を見上げて生き、

福音宣教に励む者たちに聖霊のバプテスマが与えられているからです。

(Ⅰコリント12:13 この節は、教会の一致について語られている箇所です。)

 

☆福音宣教の終わり 9-11節

天使たちが大切なメッセージを伝えました。

それは、再臨についてでした。

これから使徒や弟子たちが、宣教に赴く前に、

再臨を意識するように励ましたのです。

再びイエス様が戻ってこられる、再臨に焦点を定めましょう。

宣教の働きは、したくても出来なくなる時が来るのです。

福音を伝え続けたクリスチャンたちは、

再臨を意識して福音宣教に取組んだのです。

 

最後に、、、

 

ペンテコステの日、聖霊のバプテスマを使徒たちが与えられ、

福音を伝えていく働きが始まりました。

この働きは今も続いており、再臨の時に終わります。

これまで約2000年間をかけて、

全世界にこの福音宣教が拡がり続けています。

使徒たちが忠実にイエス様のみ業を引き継ぎ、

クリスチャンたちがその働きを受け継いできたことを覚えると、

感動と感謝と喜びが湧き上がるのではないでしょうか。

私たちも再臨までのこの働きの一部を担いたいと、

切望する思いがこみ上げてきます。

教会として聖霊のバプテスマによる力を持って、

暗闇の中に生きている人々に救いが与えられるよう、

用いてくださるように祈りましょう。

 

 

 

 

イエス様の証人

礼拝説教メモ

ルカの福音書24:44-53

復活をされたイエス様が、
弟子たちに栄光のからだを現されました。

見る事ができる、話す事ができる、
触る事ができる、魚を食べる事ができるイエス様。

昇天される前にイエス様は、弟子たちに話されました。
遺言とも言えるでしょう。

44〜47節                                                 託されたメッセージについて

1.イエス様は約束の救い主

「私についてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、
必ず全部成就するということでした。」

→イエス様が、キリスト教という宗教を開いたわけではない。
イエス様は生前からある旧約聖書に約束された救い主 である。

2.イエス様の十字架と復活

「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、・・・」

→イエス様が、完全な罪の為のいけにえ、罪の贖いとなられた。

3.イエス様は罪の赦しを得させてくださる

「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、
エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」

→イエス様によって、悔い改めと罪の赦しが与えられ、
救いの道が拡がり、イエス様を信じる人々が全世界に起こされる。
48節                                                    証人について
「あなたがたは、これらのことの証人です。」

福音はエルサレムから始まって、
神のみ業により(信仰者たちの宣教により)、伝えられました。
それは1、2、3のことです。

1.イエス様は約束の救い主

2.イエス様の十字架と復活

3.イエス様は罪の赦しを得させてくださる

私たちクリスチャンは、これらのことの、
イエス様の生きた証人です。

このメッセージがイエス様から託されています。

49節
聖霊について
a.父の約束してくださったもの
b.いと高きところからの力

父が約束してくださったものを、
イエス様(主語)が、聖霊を
私たちクリスチャンに与えて下さいます。

私たちは愚かで弱いものです。
イエス様は私たちが愚かで弱い事をよくご存知です。
ですから、「完全な助け主」を与えて下さいました。

〜 一言 〜
私たちが、日本に住む私たちが、イエス様の証人になっています。
神様の約束の成就、み言葉の恵み、信仰者たちの涙の種まき(情熱)を思います。
私たちは、イエス様からメッセージを託された「イエス様の証人」です。
何の証人なのでしょうか、、、。
私たちは、何を証する者なのでしょうか、、、。
証の内容は、イエス様。
それはシンプルで純粋で、人が何かを付け加える必要のないことです。
1、2、3のことを信じて いる私たち。これが奇跡であり、恵みであり、全てです。
福音が純粋であるということ。
福音に混ぜ物をしないということ。
託されたメッセージを思う時、
自分のこれまでのクリスチャンとしての歩みを嘆かずにはいられない。
福音の純粋さを理解し、伝えることは本当に難しい事だと感じて、
悔い改め、神様の助けを祈らずにはいられない。
自分に起きた奇跡と恵みを感謝し、
神様を礼拝し、真実の福音を述べ伝えたいと思わずにいられない。

復活されたイエス様のからだ

礼拝説教メモ
ルカの福音書24章33-43節

2人の弟子は、エマオへの道で、イエス様に聖書全体から
ご自身について書いてある預言を説き明かされた。

イエス様との再開からではなく、聖書のみことばを理解する事から
心が燃えた二人の弟子たち。

パンを裂かれ、弟子たちに渡されるとイエス様の姿が消えた。
食事もまだ食べていないのに、
夜であったのに(強盗や暗い夜道の危険があったのに)、
エルサレムまでまた2時間ほどもかかるのに、
二人の弟子はすぐにエルサレムに戻ります。

使徒たちに会って、この出来事を伝えたい !
悲しみと恐れの中、意気消沈している彼らを励ましたい!

鍵が掛けられていた使徒たちの集合場所に入ると、
予想外にその場は興奮に溢れていた。

シモン(ペテロ)にもイエス様が現れたと
復活について話されていたのだ。

6人の証言が一致した。
3人の女たち→2人の弟子たち(男)→使徒ペテロ(リーダー)
証言がより確実に、信ぴょう性が増していった。

その喜びの最中に
イエス様ご自身が彼らの真ん中に立たれた。

彼らはイエス様の”霊”だと思い(部屋は鍵がかけられていたから)
驚き恐れた。

そんな彼らに、イエス様は”栄光のからだ”を示された。

イエス様の復活は肉体をともなっていた。

十字架の傷跡が残る手と足、槍が刺された脇腹、
そして今まで何度も見たイエス様が魚を食べられる御姿。

”栄光のからだ”は、見る事ができる、話す事ができる、
ふれる事ができる、食事をする事ができる。

この世の必要にも、天国の必要にも従う事ができる”栄光のからだ”。

やがて私たちにも再臨時の復活において、
”栄光のからだ”が与えられる。

ピリピ3:20-21、1コリント15:40-44、コロサイ3:1-4、ローマ8:29-32

仏教思想が文化的な背景にあるので、私たちは
死後は”霊”として存在する と想像しがちだ。
輪廻や成仏などの影響。。。

しかし復活は肉体がともなうということをイエス様が示された。

聖書は私たちもイエス様と同じように、
肉と骨を持ち、飲み食いが出来る、永遠の”栄光のからだ”を持つと教えています。

一言:神の国が来たならば、イエス様と共に聖餐を肉と骨のある”栄光のからだ”で味わうことでしょう。
ルカ22:15-19
大きな希望を持って、復活に備えましょう。

エマオヘの道で

「みことばの教師イエス様」

礼拝説教メモ

ルカの福音書24章13-32節

女たちがイエス様の復活を使徒たちに伝えました。

使徒たちは、イエス様の復活を信じませんでした。

過ぎ越しの祭りを終え、
エルサレムからエマオへ向かう2人の弟子がいました。

栄光の体となったイエス様が、彼らと一緒に歩いていました。

彼らは、話の的であるイエス様と気づきませんでした。

(彼らの目は、イエス様によってさえぎられていたのです。
→後にイエス様によって目 が開かれます。)
⒈イエス様が「話していることはどんなことですか?」と質問したのはなぜ?

→十字架と復活について、事実を知ってはいるが、
聖書の預言から理解していないことを指摘する為だった。
2.イエス様が、十字架と復活をどのように説明されたか?

→聖書全体からの説き明かしを丁寧になされた。

復活したことを示すだけなら、
会った瞬間に「私がイエスだ。」とご自分を現されるだけで良かったでしょう。

しかしイエス様は彼らの目を遮り、ご自分を現さないようにされ、
エマオヘの2時間ほどの間、イエス様は彼らに聖書全体から教え られた。
3.みことばを理解した弟子たちはどうなったか?

→彼らの心のうちは燃えた。

彼らはイエス様に聖書を教えられ、
イエス様の十字架と復活をみことばから確信した。

彼らの心が燃えたのは、イエス様に会ったからではない。
(彼らはイエス様と気づいていなかったからだ。)

みことばからイエス様の十字架と復活を理解し、
確信したから、彼らの心のうちは燃えた。

イエス様がパンを裂き、彼らに与えると、
彼らはイエス様だと分かった。
イエス様が彼らの目を開かれた。

イエス様は声もかけず、抱擁を交わすこともなく、姿を消した。

イエス様との再開によって心が燃えたならば、

イエス様がまた見えなくなってしまえば、その心の炎は消えてしまうかもしれない。

しかし、永遠に変わる事のないみことばを学び、確信した彼らは
みことばにあらわされている神のみこころを
みことばの教師イエス様の思いを
受け取ったのではないだろうか。

私たちは、自分が聖書を知らない事を自覚しているだろうか。
私たちは、聖書全体から神様を 理解しているだろうか。
私たちの心のうちは、燃えているだろうか。

→みことばを知らないこと、
聖書全体(みことば)から理解していないこと、
心のうちが燃えていないことを神の前に悔い改め、
神の助けを祈り求めよう。

キリストの復活

礼拝説教メモ

ルカの福音書24章1-12節

イエス様は十字架にかかった後、有力者ヨセフの墓に納められた。

金曜日に十字架にかかり、日曜日に復活された。

本当にイエス様は復活されたのだろうか。

☆遺体は誰かに盗まれたのだろうか。
(1)祭司長たちやローマ人たちが盗んだのだろうか。(マタイ27:62-66)

彼らはイエス様が死後3日後によみがえると以前言っていたのを覚えていた。

「弟子たちが遺体を盗み、イエス様はよみがえったと言えば、
イエス様を信じる人が多くなり、暴動がおこる」と考えた彼ら。

総督ピラトに墓の前に番兵をつけるよう願い、かなった。

つまり彼らは、イエス様の遺体が墓にずっとあり、
復活しなかったと証明したかったので、イエス様の遺体を盗むはずはない。
(2)弟子たちが盗んだのだろうか。

弟子たちは、イエス様が復活すると信じていなかった。

イエス様の十字架の死後、自分たちも捉えられるのではないかと恐れ、
身を潜め、隠れていた弟子たち。

そんな彼らが、復活を演じる為に、イエス様の遺体を盗むという事は考えられない。

彼らは、ユダヤ人やローマ兵を恐れておびえていたので、
リスクを侵してイエス様の遺体を盗むはずはない。

誰もイエス様の遺体を盗まなかったと結論される。
☆天使の啓示

天使が墓の石を転がした。と聖書にある。

ラッパを吹いて、優雅に空を飛ぶといった天使のイメージを持たれやすいが、
この天使の顔は稲妻のようであり、彼らを見た番兵や女たちは恐怖に震えた。

天使が石を転がしたのは、イエス様のためではなかった。

イエス様はすでに栄光の体となっており、石を通り抜けられたからだ。

では、何のために、、、。

それは、女たちや弟子たちが、イエス様の復活を信じる為ではないだろう か。

天使たちはイエス様の言葉を思い起こさせた。

空の墓を見、天使による神の啓示(みことばと一致する)を受け、
彼女たちは、復活を信じた。

愛するイエス様が復活したと信じた。
☆私たちがイエス様の復活を信じるという事

それは、死んだイエス様ではなく、
今も生きておられるイエス様を信じるという事。

それは、救いの条件である。(ローマ10:9)

新しい命の確信が与えられる。

復活を信じる者もまた復活するという希望が与えられる。(1コリント15:20,23)
一言:イエス 様が復活された場面は、フィクションのようだと思うかもしれない。

神しか成し得ないその御業に、神の愛と配慮を感じずにはいられない。

復活を信じる私たちは、大いなる神の計画とみ胸の中に憩う。

この希望と愛は、永遠。

そしてこの地上で、人々と愛し合いたくなります。

キリストの埋葬

礼拝説教メモ

3/20(日)は「キリストの埋葬」を学びました。

 

ルカ23章50〜56節

☆イエス様の死・埋葬が、神のみが成し得る神のみ業であると分かるポイント☆

①イエス様の死のタイミング

当時十字架刑では、罪人は2-3日後に息を引き取るのが普通だった。

しかし、イエス様は6時間で死なれた。

死んだ時間:午後3時・・・過ぎ越しの小羊のほふられる時。

→イエス様は過ぎ越しの祭りで毎年捧げなければならなかった動物のいけにえに変わり、永遠に一度きりの贖いとなられ、ご自身を神に捧げられた。

→私たち一人一人の罪の為であった。

 

②イエス様の死の確認方法(ヨハネ19:31-37)

兵士は、イエス様が死んでいるのを確認したのですねを折らなかった。

(死んでいない場合はすねを折り、呼吸困難で死に至らせる為)

確実に死んでいるかを確認する為に、イエス様のわき腹に槍を刺した。

そこから血と水が出てきた。

→イエス様の死の確認方法(すねを折られない事とわき腹を槍で刺される事)は、出エジプト記12:46、預言者ゼカリヤ12:10の預言の成就であった。

→神が完全な救いの道を計画し、実行した。

 

③イエス様の埋葬者:ヨセフ

当時、十字架につけられた罪人の体は解剖に回された。

イスラエルの議員70人の1人、有力者のヨセフ。

彼はイエスの弟子である事を隠していた。

しかし、彼はイエスの十字架の死を見、彼の心に変化があった。

彼は思い切って総督ピラトに遺体の引き渡しを願った。

(彼は地位や名誉や大切なものを失うことよりも、主のために行動した)

イエスの手の杭を抜き、いばらの冠を外し、血と泥まみれのイエス様を洗った。

そして、自分たち家族の墓にイエスを納めた。

→有力者の墓に入る事もイザヤ53:9の預言の成就であった。

まとめ:イエスの死・埋葬は、普通ではなかった。全てが預言の成就であった。

    恐れを抱いていたヨセフが、神の預言の成就に用いられた。

一言:イエス様の十字架と復活の間にある「埋葬」に、こんなにも神様のみ業が溢れていたなんて、、、。神様を感じて、恐れと感動に震える思いです。