聖書箇所 ヨハネの福音書4章31~38節 説教題 『目を上げて見なさい』 ■序論 この箇所には、サマリヤの女性の回心の出来事の後に、主イエスが弟子達に教えられた言葉が記されている。サマリヤ人の異邦人女性が救われるという、当時のユダヤ人社会の価値観では理解できない驚くべき出来事が起こった。主イエスはこの出来事を通して、神様の御業が進められる中で、目を上げて見るべき真理がある事を教えられる。 1、主イエス・キリストの食物(4:31~34) 弟子達は主イエスに食事をとってもらうように言ったが、主イエスは「わたしにはあなたがたの知らない食物があります。」と言われた。それは父なる神様の御心を行うことである。何かと比べて、御心を行うことの方が大事だと言うのではなく、「ある」と宣言された。神の与える救い、恵み、永遠のいのちは絶対的に「ある」ものである。私たちは、神が絶対的に「ある」と宣言されるものに目を上げることを求められている。(ヨハネ6:35、6:27) 2、主イエス・キリストの畑(4:35,36) 主イエスは「目を上げて畑を見なさい」と言われる。主イエスの備えた畑(働き)は色づいて、刈り入れるばかりになっている。主の救いの御業には、福音の種蒔きの後、即座の刈り入れ、実を得る祝福が待っている。主イエスは時間も距離も超えた働きをなされる。『まだ四ヶ月ある』と、主イエスの畑を見ることをせず、自分の種を蒔いた自分の畑にしか目を向けない者は、主の新しい働きに参加することは出来ない。主の備える畑に目を向ける者となろう。(ヨハネ11:40、Ⅰコリント9:23) 3、主イエス・キリストの収穫(4:37、38) 主イエスの救いの御業、福音宣教の働きは、自分の労苦(奉仕・伝道)の結果として収穫を得るものではない。「あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせる」と主イエスは言われる。神の救いの働きは時間も距離も歴史も超えて、主の計画の中で前進する。その中で、相応しい者に賜物としての働きの場が備えられる。収穫は主の備えるものである。自分の労苦の結果ばかりを求めていては、主の収穫の素晴らしさに期待は出来ない。主の収穫に目を上げて、収穫の主の絶大な力に信頼しよう。(エペソ1:19) ■結論 「目を上げなさい」と言われる、主の見せてくださるものに目を向けて歩もう。 |