聖書 Ⅰサムエル記1120
1:1 エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに、その名をエルカナというひとりの人がいた。この人はエロハムの子、順次さかのぼって、エリフの子、トフの子、エフライム人ツフの子であった。

1:2 エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンナと言った。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。

1:3 この人は自分の町から毎年シロに上って、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。そこにはエリのふたりの息子、主の祭司ホフニとピネハスがいた。

1:4 その日になると、エルカナはいけにえをささげ、妻のペニンナ、彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えた。

1:5 また、ハンナに、ひとりの人の受ける分を与えていた。彼はハンナを愛していたが、主が彼女の胎を閉じておられたからである。

1:6 彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。

1:7 毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。

1:8 それで夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ。なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。」

1:9 シロでの食事が終わって、ハンナは立ち上がった。そのとき、祭司エリは、主の宮の柱のそばの席にすわっていた。

1:10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。

1:11 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」

1:12 ハンナが主の前で長く祈っている間、エリはその口もとを見守っていた。

1:13 ハンナは心のうちで祈っていたので、くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのではないかと思った。

1:14 エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」

1:15 ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。

1:16 このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」

1:17 エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」

1:18 彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように。」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。

1:19 翌朝早く、彼らは主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家へ帰って行った。エルカナは自分の妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。

1:20 日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして「私がこの子を主に願ったから。」と言って、その名をサムエルと呼んだ。


本日の講壇

聖書箇所 Ⅰサムエル記1120

説教題 『神の前に心を注ぎ出して』

■序論

 本日は母の日である。聖書に数多く登場する母親の中から、預言者サムエルの母ハンナの信仰に光をあてる。家庭の中で苦難を味わったハンナが、神への信仰によって立ち上がる姿を通して、私達も主に信頼する者の秘訣を学ぼう。

 

1、  ハンナの心の痛み(1~11節)

ハンナが苦しみ悲しんだ心の痛みの原因は、不妊の女であるがゆえに、家庭の中で居場所がなく、自分の価値を見失っていることであった。夫エルカナに愛されてはいても、第二夫人ペニンナとの関係の中で、不妊の女の立場のなさを辛く感じていた。それは毎年の巡礼の礼拝の場で特に強く感じ泣いていた。しかし、苦しみの中でも主なる神に訴えることができる。苦しみは神の最善への途中経過である。主に訴え、叫ぶ者に、神は慰めと憐れみを施される。(Ⅱコリント1:4~6)

 

2、神の前に心を注ぎだすハンナ(12~16節)

必死に祈っていたハンナであったが、祭司エリはその祈りの姿を酒に酔っていると誤解した。そのときハンナは、「神の前に心そそぎだしていた」と弁明する。神の前に心を注ぎだすとは、①神を寄り所、避け所として、神による解決を求めること(詩篇62:8、哀歌2:19)、②神の前に砕かれて罪を悔い改めること(Ⅰサムエル7:6)である。苦難の中で神に訴える祈りは、最初は苦しみの叫びであったとしても、次第に神の前に己の姿を問われるようになっていく。そこで悔い改めて立ち上がるならば、全く何の妨げもなく神に全てのことを委ね、明け渡すことができる。

 

3、変えられたハンナ(1720節)

神の前に心をそそぎだしたハンナは変えられた。「顔はもはや以前のようではなかった」のである。誰の目にも明らかに、ハンナは信仰の確信と明け渡しによって変わったのであった。そして、全てを明け渡したハンナの信仰(Ⅰサムエル2:1~10)に神は心を留めて男の子を与えられた。神に全く頼る者へと変えられたとき、私達の人生が変わり、価値観が変わり、そしてその証として表情にもそれが現れる。私達も確信によって日々変えられ続ける恵みに生きる者となろう。

                       (Ⅱコリント41618

 

■結論

私達には、どんな苦難の中を通ったとしても、心を注ぎだすお方がおられる。そして私達は主の恵みの中で変えられて新たな歩みをすることができる。