本日の講壇

 

聖書箇所 伝道者の書3章1~15節

説教題  『何事にも神の時がある』

■序論

 伝道者の書のテーマは簡単に言うとこのようなものである。「神様が与えて下さった人生において、あなたは生きるために必死に労苦している。そして労苦の見合った儲けや益を神様は備えて下さる。しかし、あなたはその儲けを見出して得ているのか?せっかく神様の与えて下さる儲けを得ずに、無駄な労苦を人生の中でしていないか自分自身を吟味するように。」私達は神の前に自らを吟味しよう。

 

1、すべての営みに時がある(1~8節)

1~8節は、「~の時」というフレーズを28回繰り返して、人があらゆる時を刻んで生きていることを現している。この1~8節はリズミカルに、とんとん拍子で人間の営みの時を刻んでいるように見えるが、人生は規則的なリズムを崩すかのような出来事が起こるものである。「植えるのに時がある」と同時に、その反対の出来事である「植えた物を引き抜く時」がある。そうかと思えば、「殺すのに時がある」ように恐ろしい時を迎えると思えば、いやされる時もある。しかし、神様が私達のために定めて下った時を求め、それに合わせて生きるならば、神様の与える儲け、恵みを見出すことが出来る。(伝道者の書7:14)

 

2、神が与えられるもの(9~13節)

伝道者が「神様のなされることは美しい」と断言できるのはなぜなのか。その理由は、神様が「人の心に永遠を与えられた」からである。人間は神様に格別の待遇を与えられている。私達が神様から与えられた永遠とは、神様と人間が永遠の契約を結んでいるという事実である。永遠の契約のゆえに、神と人は離れられない関係にある。罪がその関係を断絶したが、御子イエス・キリストが間に立ち取り持って下さった。ゆえに神と人との永遠の関係は揺るぎないものとなった。永遠そのものである御子イエス・キリストを私達はいただいたのである。(創世記9:16)

 

3、永遠の神を畏れる(14,15節)

私達が神の与えられた儲け、益を受けることができるのは、神の時の中に生かされ、神の与える永遠を与えられて、神を畏れる生き方をするからである。神を畏れることは、神に創られた人間の基本である。神を畏れる者が、この世の中で喜びと楽しみを見出すことが出来るからである。(伝道者の書5:18~20)

 

■結論

私達は神の前に自らを吟味し、いただいている永遠の確信を持って、神の定めた時の中で、喜びを持って歩んで行こう。


聖書箇所 伝道者の書3章1~15節

3:1 天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。

3:2 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、
植えた物を引き抜くのに時がある。

3:3 殺すのに時があり、いやすのに時がある。
くずすのに時があり、建てるのに時がある。

3:4 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。
嘆くのに時があり、踊るのに時がある。

3:5 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。
抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。

3:6 捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、
投げ捨てるのに時がある。

3:7 引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。
黙っているのに時があり、話をするのに時がある。

3:8 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。

3:9 働く者は労苦して何の益を得よう。

3:10 私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。

3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。
しかし、人は、神が行なわれるみわざを、
初めから終わりまで見きわめることができない。

3:12 私は知った。
人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。

3:13 また、人がみな、食べたり飲んだりし、
すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。

3:14 私は知った。
神のなさることはみな永遠に変わらないことを。
それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。
神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。

3:15 今あることは、すでにあったこと。
これからあることも、すでにあったこと。
神は、すでに追い求められたことをこれからも捜し求められる。