聖書箇所 ヨハネの福音書4章1~14節 説教題 『永遠のいのちに至る水』 ■序論 水と御霊によって新しく生まれることは、本書におけるテーマの一つである。渇きが満たされるために、いつ、どこで、誰が、何によって潤されたのか分かち合おう。 1、真昼にサマリヤのヤコブの井戸で(1~6節) イエス様はバプテスマのヨハネとは別に宣教活動をしておられた(3:22)。イエス様はユダヤからガリラヤに行く途中、最短距離となるサマリヤを通られた。サマリヤは昔北イスラエルの首都で、アッシリヤが占領後(BC722年)、ユダヤ人は雑婚によって混血民族となった。一方、南ユダ王国はバビロンで捕虜となったが(BC605年)、70年間、自民族の血統を守った。歴史的経緯があり、ユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑し、両者は対立関係にあった。しかし、両者とも父祖とするヤコブの井戸で、イエス様は、サマリヤの人々の心の闇に、真昼の強い光を照らそうとしておられた。 2、水汲みに来るサマリヤの女性(7~10節) その井戸に一人のサマリヤ人女性が水を汲みに来た。この女性は、目に見える物質がすべてと考える求道者の心や価値観を象徴している。井戸の水汲みは1日のうち、涼しい朝と夕方、2回行われ、人々の交流の場だが、真昼のこの時間帯、女性とイエス様は一対一で話すことになる。イエス様は相手の性別、人種、立場によって差別せず、その魂の状態を御覧になっている。女性はユダヤ人男性であるイエス様がサマリヤ女性に話かけた上に、イエス様が話す内容に非常に驚いた。イエス様は全てを御存知で、生ける水によって霊的な渇きを満たすお方である(使徒3:6)。 3、イエス様こそ、いのちの水(11~14節) サマリヤの女性はこの井戸の歴史的経緯を知っていた。しかし、井戸に何も汲む物を持って来ていないイエス様を不思議に感じた。イエス様に対する認識も「ユダヤ人男性」→「先生」→「私たちの父ヤコブよりも偉い方」と変化している。イエス様が話しておられるのは井戸水のことではなく、目には見えない神の賜物としての聖霊のことである(7:37~39)。生ける水は➀その水を飲めば誰でも決して渇かない➁その人のうちで泉となる③永遠のいのちへの水が湧き出る。人は物質によっては決して満たされないが、イエス様に与えられる聖霊がいのちの泉となる。 ■結論 目に見える物質は決して人に満足を与えられない。イエス様によって与えられるいのちの水が、私達の渇きを満たす。渇いている人に、いのちの水を差しだそう。 |