1:1 ベニヤミンの地アナトテにいた祭司のひとり、ヒルキヤの子エレミヤのことば。

1:2 アモンの子、ユダの王ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、
エレミヤに主のことばがあった。

1:3 それはさらに、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代にもあり、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月、エルサレムの民の捕囚の時まであった。

1:4 次のような主のことばが私にあった。

1:5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、
あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、
あなたを国々への預言者と定めていた。」

1:6 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、
私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」

1:7 すると、主は私に仰せられた。
「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、
わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。

1:8 彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、
あなたを救い出すからだ。――主の御告げ。――」

1:9 そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。
「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。

1:10 見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、
あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、
あるいは建て、また植えさせる。」

1:11 次のような主のことばが私にあった。
「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」
そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」

1:12 すると主は私に仰せられた。
「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」

本日の講壇2017212

聖書箇所 エレミヤ書1章1~12節

説教題 『私に実現する神のことば』

■序論

預言者エレミヤは「涙の人」と呼ばれている。彼は同胞・仲間に拒まれ、憎まれ、迫害を受け、恐れられた。涙にくれるような事態が続いたとしても固く立つことが出来るのは、神のことばが実現するとの信仰があるからである。

 

1、全てを知る神のことば(48節)

神がエレミヤを「知っている」と言われ、彼に神のことばを伝える使命を与えたのは人間として存在する以前からのことであった。時間を超越して、私達一人ひとりの存在を知って下さるのが神である。その神が使命を与えた時に、「わたしは~にすぎないから」と、自分自身の知識や経験のなさを理由に拒んではならない。信仰とは神のことばに全てを委ねることである。神があなたを「知って」、私達の恐れを取り除き、共にいて、救い出して下さるお方であることを信じよう。

 

2、人を変える神のことば(910節)

神の御手がエレミヤの口に触れたのは、彼が神のことばを人々に伝えるための備えが出来たことを意味している。自分自身の内に神のことばを持つ者へと変えられた時に、人は神を証してキリストの福音を伝えることが出来る。エレミヤが伝える神のことばは破滅と裁きが目的ではなかった。神が願っておられるのは人々が悔い改めて神に立ち返ることである。人は神に立ち返り、神のことばを受け入れるときに新しい者へと変えられる。エレミヤのように、神によって触れていただいて、神の働きに相応しい者として変えていただこう。

 

3、実現する神のことば(1112節)

神はエレミヤにアーモンドの枝の幻を見せられた。アーモンドは春の最初に蕾をつける。神は人々の不信仰と不信頼の冬が明けて、神を信じ喜ぶ春が来ること、神のことばが実現することを待っておられる。神ご自身が神のことばの実現を首を長くして待たれる。私達は自分本位の信仰ではなく、神は何を願い、待っておられるのかを仰ぎ見る者となろう。神のことばが実現することを信じて固く立つ信仰生活を送ろう。

 

■結論

全てを知っておられる神が私達を導いておられる。神のことばに応答するならば神は私達を造り変えて下さる。神のことばが実現することを待ち望み、信じ

て歩んで行こう。