☆証☆

 〜03 NC を通して受けた問い〜   
       

北海道大学大学院 修士 1 年 東 沙織

私が 2003NC に参加し、御言葉、そして交わりを通して強烈に意識させられたことは、「キリストのからだである教会とはどのようなものか。」ということであった。

私の住んでいる北海道では、普段の学内活動で 10 名を超えるメンバーによって構成される聖書研究会はごく少数である。きっと関東地区の学内活動だって、 50 名を越える聖研は存在しないだろう。また、私が普段礼拝を守っている教会も礼拝出席者は 30 名に満たない。それが、ある一つの場所に 500 名の、そしてその全てが学生のクリスチャンである人たちが集まる NC とは・・・おそらく、 NC に参加したことのない人たちには想像しがたい状況だろう。その 500 人が一つとなって主を賛美する。これはまさに御国の前味である。

03NC のテーマは「キリストのからだ」であった。Tコリント 12 章の聖書講解より「私たちはキリストにあって一つ、なぜなら、一つの御霊によってバプテスマを受け、一つの御霊を飲むものとされた、つまり、一つの救いによって教会に属するものとされたから」ということが語られた。このキリストにあって一つというのは、みんなが同じでなければならないという画一的なものではなく、それぞれが多様性を持つ中で、その多様性によって補い合う性質を含んでいる。「自己卑下しがちな私たちだけど、神の主権のもとに生かされていることを知り、一人一人が、主の栄光の教会を建てあげるために、救われたのだということを知りなさい。救われること、神様との関係は一人一人のものであるが、救われたものは一人一人ではない。教会を建て上げるために救われ、一つの教会形成のために一人一人がいる。」と語られたことが印象に残っている。

ところが、この「キリストにあって一つ」という聖書の記述を、ある人々に受け入れ難くさせる現実があることに、私たちはこの NC を通して、直面させられている。 NC の中では、過去に日本が犯してきた過ち、そして、今もなおその謝罪を表明しきれていない、戦争責任についての講演もあった。多くの学生は、過去の私たちの先祖が犯してきた罪について、それまで無知、無関心であった。第 2 次世界大戦の中で、教会も、国の向かっている間違った方向を見分けることができず、それに結果的に加担することになってしまった。そしていまもその過去によって苦しんでいる兄弟達が、アジアの近隣諸国に、また同じ国である沖縄という、私たちのすぐそばにもいるにも関わらず、そのことを知らない私たちがいる。

教会は、そのことに対してどのように向き合えばいいのか、私たちに何ができるのか。私たちは、 03NC を通して、大きな、そして生涯取り組んでくべき問いを主から与えられた。「この日本という国に、遣わされたクリスチャンとして、いま私たちが、すべきことは何か。」ぜひ、一緒に考えてほしい。 06NC に参加することによって。

倒れて苦しんでいる人の隣を、自分のことにかまけて、通り過ぎる他人から、その苦しみに共に向き合う隣人へ。バビロン捕囚によって失意の中にいた民に、その中にあっても自分を探し求めるならば、彼らは私を見つけるといわれた主の言葉に信頼して(エレミヤ 29 : 10-14 )。 06NC に期待する。

†KGK† -National Conference 2006!!-


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