ヨハネ3:16

2006年3月26日
受難節第4主日

(新共同約)神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

(口 語 約)神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネ3:16は、一番有名な聖書の箇所の内の一つです。「クルミの殻の中の福音」とも呼ばれています。何故ならば、この短い文書で、福音の良い知らせが現されているからです。今日、その殻を割って、詳しくこの聖書の箇所を調べましょう。

ヨハネ3:16はイエス様が十字架上で死んで、彼を信じる人々に永遠の命を与えますとおしえます。その動機とは、神の愛です。ここで使っている「愛」と言う言葉は、ギリシャ語の「アがぺ」と言う言葉です。この愛は、私たちの気持ちや気分に基づいている感情よりも、人を愛するように決めたという意志に基づいています、ですから、神様はこの世を愛するように選んだ事です。人間がすばらしくて、可愛いい、救われるために価値がある者であるから神様はこの世を愛して下さった訳ではありません。世を愛そうと思ったのは、ご自分が造られた創造物に対して関係があったからです。神様は、子供を愛するお父さんのようです。その子供がどんなに悪い事をしても、放蕩息子のようでしても、その子供を愛するお父さんです。この「アがぺ」の愛は無限です。私達は、聖書を読んだり、祈りをしたりする時、殆ど、自分だけのことを考えるでしょう。しかし、ヨハネ3:16が言うのは、「私を愛して下さった」又、「あなたを愛して下さった」でもなくて、「世を愛して下さった」と言います。神様の愛が無限であるので、この世のすべての人々、どんな時代でも、何億何千人でも、この世のすべての人々を愛する事が出来る愛です。無限の愛です!限りが無いので、神様はあなたをも私をも愛する力があります。何故ならば、主の祈りが言うように、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。」即ち、その国と力と栄えに加えて、愛とアガペの御心があるので、あなたと私に永遠の命を与えて下さいます。

愛をどのように計りますか。母の愛をどのように計るでしょうか。食事を何回作ったか、家族の為に心配して寝られない夜の数でしょうか。子供の愛をどのように計るでしょうか。書いた母の日のカードの数でしょうか。ボーイフレンドの愛をどのように計るでしょうか。婚約指輪のダイアモンドのサイズでしょうか。ある時、愛を測る計りは、愛する人の為の犠牲のサイズでしょう:お金、時間、苦労、命をさします。しかし、神様の無限の愛をどのように計りましょうか。ヨハネ3:16はその計りをこのように表現します、「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と。言い換えますと、神様の無限の愛のサイズは、ほかの無限のものでした、即ち、子なるキリストの命でした。

神様の愛が無限であると私達は知っています。しかし、世の罪を赦す為に、犠牲にされる息子の数は無限ではありません。一人しかいません。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」日本語は「ひとり子」と言いますが、ヨハネ3:16のギリシャ語の言葉が翻訳しにくいです。数kazuだけではなくて、一人だけですので、その尊さ、そのほかのものと違う事、唯一のことで、このものの変わりにほかのものがない事です。これはキリストです。そして、十字架上で死ぬ為に、神様はこの愛された子を下さいました。私達人間が永遠の無限の命を得る為に、御身分の独り子の無限の命を与えて下さいました。

人間の考えで、{キリストが3日目に復活したので、命を本当に失わなかったでしょう。神様はご自分の独り子を本当に失わなかったでしょう}と思うでしょう。しかし、本当にそうですよ。愛は何であるか思い出して下さい。本当に愛するものがあれば、そのものが自分のそばにいない時、心配するでしょう。例えば、小さい女の子が、愛する人形をどこに置いたか忘れた時、その子供が泣いて泣いて、見つけるまで非常に心配するでしょう。結婚したばかり男の人が、仕事に行きたくないのは、愛する花嫁から離れたくないからです。離れる時間が数分でしても、数時間でしても、3日間でしても、愛する人からの離れる事は、死のようです。イエス様が死んだ時、父なる神様は、ご自分の深く愛されたものを与えてしまいました。十字架上のイエス様は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われました。その見捨てられた寂しさを感じた時、父なる神様もその寂しさを感じたと思います。勿論、イエス様は死んで3日目に甦られました。しかし、死んだ時、神様は本当に愛したものを失いました。その時、3日目の朝まで、神様は本当に悲しんだと思います。そして、それは、神様の愛の計りです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」その子から命を奪って、私達に与えました。

神様は、世のすべての人々を愛して、皆に永遠の命を与えたいと思います。しかし、信じる人にだけ永遠の命が与えられます。旧約聖書時代の荒れ野の中のイスラエル人のようです。多くの人々は毒の蛇に噛kaまれました。神様の命令に従って、モーセは棒の上に、青銅で作った蛇を付けました。それを見た人だけが癒されましたが、神様やモーセを信じなかった人々はそれを見ようと思わなかったので、死にました。ヨハネ3:14ー15を読みます、「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」どうして信仰が必要でしょうか。最初からどうして神様が永遠の命を与えなかったでしょうか。創世記には答えがあります。罪や神様のご計画に対する反抗の為です。ですから今は信仰が必要です。信仰は神様のご計画を受け入れる事です。信仰は愛です。信仰は、神様のそばにいたいと思う事です。又、もう一つは、信仰とは、イエス・キリストにおいて、神様が私達の為になさった事を信じて受け入れる事です。十字架上で死んだのは、イエス様です。罪を赦す事が出来るのは、イエス・キリストのみです。滅びないように私達を救う事が出来るのは、イエス様だけです。イエス様はご自分の命を私達に下さいます。それは、復活の力がある、永遠の命です。

もし自分の信仰について話す機会がありましたら、ヨハネ3:16は、簡単な話ししやすいアウトラインになります。1、神様はあなたを含めて世を愛します。2、神様はその愛を示す為に、私達が罪人でしても、私達を赦す為に、ご自分の尊い独り子を送って下さいました。3、イエス様は死んで3日目に復活しまして、イエス様を信じて、自分の救い主として受け入れるすべての人々にその復活的な永遠の命を下さいます。4、それで、友達を教会に誘えます。

ヨハネ3:16は、「クルミの殻の中の福音」と呼ばれているのは、この短い文には、福音の良い知らせが表現されているからです。それを割って開きますと、イースターの朝のお墓を開く事のようで、永遠の命をすべての信者達に与えます。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会

新しい!! 友達にこのページを e-mail で送って見てください!
Free JavaScripts provided by The JavaScript Source