日本キリスト教団 仙台松陵教会



     【礼拝堂】

    【講壇の花170115】

   【講壇の花170122】

松籟(まつかぜ)


2017年2月26日−私をハグするイエス様−
 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。(ルカ15:20)

 先日ある映画をTVで見たが、ハグするシーンが印象に残った。父が娘をハグし、兄が妹をハグする。欧米の映画ではよくあるシーンだが、ふと、「放蕩息子のたとえ」が浮かんできた。
  ここには息子を熱くハグする父親がいる。上掲のように、首を抱き、何度もキスをしている。神様は私たちをハグしたい、悔い改め立ち返ることを願っている、そのようにイエス様は教えられたのだ。
 私たちは聖餐の度に、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(ヨハネ6:56)との宣言を聞く。「いつもわたしの内におり」ということは、イエス様にハグされている、と解釈できる。そして、さらに恵みなのは「いつも」なのである。 
  だから、イエス様にハグされている自分をいつもイメージしたい。そしてイエス様を見上げて、私もイエス様に倣う者になりたいと思う。

2017年2月19日−愛の中の滅び−
 このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。(黙示録21:8)

 神の人間への愛は御子をさえ死に渡すほど深いものである。自らが死を味わってもなお人間との交わりを求める愛であり、無償で徹底的に人間を愛する愛である。何物も妨げることのできない愛ゆえに「絶対肯定の愛」ということができる。
 ところが、黙示録は神が人間の未来に第二の死を用意していることを告げる。「その名がいのちの書に記されていない者」(黙20:12)に対する報いとして、火と硫黄の燃える池に投げ込まれるというのである。どんなことがあっても人間を包み、愛してやまない神が、同時にこんな恐ろしいところに人間を投げ込み、滅びに至らしめるのである。
 愛と滅び。ある時、フッと思い至った。もし誰かがこの池に投げ込まれるとしたら、それもまた神の愛のなせる業であると。その人が第2の死を味わうことが絶対肯定の愛の神が望まれることならば、それはその人にとって最善のことに違いないのだ。
  黙示録は伏せているが、恐ろしい滅びもまた神の愛の中でのことであるならば、その先に第二の復活を見通すことができないだろうか。

2017年2月12日−世界史の扉を開く狂人−
 要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人(なんぴと)かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果すのだ。(幣原(しではら)喜重郎:44代内閣総理大臣)

 憲法9条は当時の首相・幣原氏の発案だったという。彼が急逝する10日ほど前、この条項が生まれた事情について平野三郎氏が伺った記録があった。
 そこで幣原氏が語ったことは、誠に心を打つ内容だ。上掲の言葉のように日本は「世界史の扉を開く狂人」として、世界平和と言う歴史的使命を果たす国として生きるべきだ、というのである。
 彼は言う。「非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果、もう出ている。」
 こうして、幣原首相はマッカーサーに戦争放棄と天皇の人間化を進言し、GHQの案になった。ここには弁舌に尽くしがたい苦しみを経験した日本国民の叫びが込められている。つまり9条は一方的なGHQの押し付けというわけではないのである。
 今、再び天皇を元首とし、国防軍を保持しようとする勢力が台頭している。思想は自由だが、それは「世界史の扉を開く狂人」としての道ではないし、天皇自身も望んでいないことであろう。