日本キリスト教団 仙台松陵教会



     【礼拝堂】

    【講壇の花170115】

   【講壇の花170122】

松籟(まつかぜ)


2017年3月19日−天に富を積む者−
  見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。(マタイ6:1)

 イエス様は地上にではなく天に富を積むようにと教えられた。地上には盗人がいるし、また死に際して地上の富は死後の世界に持っていくことができない。だが、天に積まれた富は安全であり、死後もその人のものになるからである。
  では、天に富を積むとはどういうことだろうか。イエス様は逆に地上で富を積むとはどういうことかを教えている。具体的な内容として、施し・祈り・断食を挙げて、人々の前で行い、人々から評価を受けることである。したがって、天に富を積むとは、隠れたことを見ておられる天の父が報いて下さるという信仰に立って善行を行うことである。
 もし、私たちがイエス様に従い、天に富を積む者を目指すならば、自分の善行あるいは奉仕が人々から正当に評価されないと不平不満を口にすることはないはずである。天の父の評価を第一とするのに、もし不平不満が生まれたならば、それは原点に返るべきサインだと受け止めたい。

2017年3月5日−病者の祈り−
今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。(ヨハネ16:24)

 ニューヨークのある病院の受付の壁に、「病者の祈り」として知られる詩が掲げられている。
私は神に求めた、成功をつかむために強さを。 私は弱くされた、謙虚に従うことを学ぶために。
私は求めた、偉大なことができるように健康を。 私は病気を与えられた、よりよきことをするために。
私は求めた、幸福になるために富を。 私は貧困を与えられた、知恵を得るために。
私は求めた、世の賞賛を得るために力を。 私は無力を与えられた、神が必要であることを知るために。
私は求めた、人生を楽しむために全てのものを。 私は命を与えられた、全てのものに楽しむために。
求めたものはひとつも得られなかったが、願いはすべてかなえられた。
神に背く私であるのに、言い表せない祈りが答えられた。
私はだれよりも最も豊かに祝福されている。 (作者不明)

求めたものと与えられたものが違ったが、願いはすべてかなえられた、という告白である。
主は私たちの思いを越えて祈りに応えて下さる。だからこそ大胆に祈り、求めていいのだ。

2017年2月26日−私をハグするイエス様−
 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。(ルカ15:20)

 先日ある映画をTVで見たが、ハグするシーンが印象に残った。父が娘をハグし、兄が妹をハグする。欧米の映画ではよくあるシーンだが、ふと、「放蕩息子のたとえ」が浮かんできた。
  ここには息子を熱くハグする父親がいる。上掲のように、首を抱き、何度もキスをしている。神様は私たちをハグしたい、悔い改め立ち返ることを願っている、そのようにイエス様は教えられたのだ。
 私たちは聖餐の度に、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(ヨハネ6:56)との宣言を聞く。「いつもわたしの内におり」ということは、イエス様にハグされている、と解釈できる。そして、さらに恵みなのは「いつも」なのである。 
  だから、イエス様にハグされている自分をいつもイメージしたい。そしてイエス様を見上げて、私もイエス様に倣う者になりたいと思う。