1月5日(日)「すべてはゆるされている」説教要旨

           聖句
旧約
 「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」  (創世記1:27)

新約
 「すべてのことは、わたしに許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは、わたしに許されている。しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。食物は腹のため、腹は食物のためである。しかし神は、それもこれも滅ぼすであろう。からだは不品行のためではなく、主のためであり、主はからだのためである。そして、神は主をよみがえらせたが、その力で、わたしたちをもよみがえらせて下さるであろう。あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」  (Ⅰコリント6:12-20)

  「すべては許されている」というと、では何をしてもかまわないのか。たとえば人をなぐっても、罵倒してもかまわないのか、という問いが出てきます。しかし、今聖書はそのようなことを言っているのではありません。その証拠に、次に「しかし、すべてのことが益になるわけではない」と書いています。そこで私たちは分かりやすくするために、まず「私たちはイエス・キリストの恵みによって、すべての罪が許されている。したがって私たちには、すべてのことが許されている、私たちは自由だ」、ただキリストの愛、恵みによって許されている私たちは、そのキリストの愛に逆らった行為はできない。キリストの愛によってすべての罪許されて、自由になった者は、その愛に背く行為は許されていないのではないでしょうか。

  それはちょうどイエス・キリストのたとえにあるように、一万タラントゆるされた者が、その帰り道、わずか百タラントを貸した友が、借金を返していないといて、訴えた。その事を聞いた、一万タラント貸した王様は、その男を叱り付けた、私はあなたの一万タラントをゆるしてやったではないか、それなのに、その百分の一にすぎないわずか百タラントの借金をゆるせないのかと。そうです、これが私たちの現実です。自分が借りた金は忘れがちであるのに、他人に貸した金はわずかでも覚えている、それが人間の愚かさです。つまり自分に都合のいいことは記憶力が抜群で、自分に都合の悪いいことは健忘症になるのが、ふつう人間の常であります。自分のマイナスは忘れっぽく、自分にプラスのことは大変記憶力がすぐれています。

  さて聖書は「私たちにはすべてのことが許されている」。それはイエス・キリストの十字架のゆえに、イエスの愛、恵みのゆえにであります。とすれば、許されている私たちは、このイエスの恵みにしたがって行動すべきではないでしょうか。「すべてのことは許されている」、そこで限定がつくのです。それはキリストの恵みからくる限定にほかなりません。「しかし、すべてのことが益になるわけではない」。私たちはすべてのことが許されている、けれども人の害になることまでゆるされている訳ではありません。それは今言ったように、私たちにすべてのことがゆるされているのは、ただイエス・キリストが私たちの罪を十字架の上で背負われたゆえにであります。するとすべてのことがゆるされている私たちには、このイエス・キリストの十字架の恵みからくる限定があります。「しかし、すべてのことが益になるわけではない」。つまり他者の益になることをするよう勧められているのです。

  ガラテヤ書には、「兄弟たちよ、あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただその自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」(5:13)とあります。キリストの愛によって自由にされた私たちは、そのキリストの愛に生きることが命じられています。一万タラントがゆるされた者は、友人の百タラントは当然ゆるさねばなりません。それがイエス・キリストの十字架の愛からくる、キリスト者の自由の倫理、おきてにほかなりません。「愛のほか何ものをも負うな」、つまり愛という借りだけは、あっても良い。しかし、それ以外の借金はしてはいけないと言うのです。しかし、「愛」という名の借金だけが存在するとしたら、そこには多くのことが語られていないでしょうか。まず義理とか人情とか、金とか物とか、その他あらゆる借りはあってはならないとすれば、愛だけが存在する理想社会ではないでしょうか。

  その次に続くのは以下の言葉です、「からだは不品行のためではなく、主のためであり、主はからだのためである。そして、神は主をよみがえらせたが、その力で、わたしたちをもよみがえらせて下さるであろう。あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない」。からだの主はキリストなのだ、だからそのからだを遊女のからだとしてはいけない。「からだは主のため」、これは分かります。神から与えられたからだだから、神さまに仕えるからだとして大切にし、みだらなことに使ってはならないと言うのです。ここで「二人の者は一体になるべきである」と創世記にある、神の似像としての男と女の交わりが述べられています。次ぎに続くのは、自分のからだは聖霊の宮であること、だから自分のからだをもって、神の栄光をあらわすべきこと、この二つです。前者はからだの神の前における「存在価値」、後者はからだの神の前における「行動価値」であります。第一からだは神の前において、聖霊の宮としての尊い存在価値があります。一体私たちの誰がこのような地上にある私のからだの存在価値を知っているでしょうか。それはただ信仰からのみ来ます。信仰者のみ、からだの真の存在価値を知っています。それはただ自分自身にのみあるのでなく、「二人の者一体」と言っているように、交わりの中にあります。しかも、私たちのからだは、イエス・キリストの十字架によって買い取られたものであります。そこにはただ「神の栄光をあらわす」という行動価値のみがあります。
   


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