1月26日(日)「結婚」説教要旨

           聖句
旧約
 「勧めを聞き、教訓をうけよ、そうすれば、ついには知恵ある者となる。人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」   (箴言19:20-21)

新約
 「おとめのことについては、わたしは主の命令を受けてはいないが、主のあわれみにより信任を受けている者として、意見を述べよう。わたしはこう考える。現在迫っている危機のゆえに、人は現状にとどまっているがよい。もし妻に結ばれているなら、解こうとするな。妻に結ばれていないなら、妻を迎えようとするな。しかし、たとい結婚しても、罪を犯すのではない。また、おとめが結婚しても、罪を犯すのではない。ただ、それらの人々はその身に苦難を受けるであろう。わたしは、あなたがたを、それからのがれさせたいのだ。兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はない者のように、泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は持たない者のように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。わたしはあなたがたが、思い煩わないようにしていてほしい。未婚の男子は主のことに心をくばって、どうかして主を喜ばせようとするが、結婚している男子はこの世のことに心をくばって、どうかして妻を喜ばせようとして、その心が分かれるのである。未婚の婦人とおとめとは、主のことに心をくばって、身も魂もきよくなろうとするが、結婚した婦人はこの世のことに心をくばって、どうかして夫を喜ばせようとする。わたしがこう言うのは、あなたがたの利益になると思うからであって、あなたがたを束縛するためではない。そうではなく、正しい生活を送って、余念なく主に奉仕させたいからである。
  もしある人が、相手のおとめに対して、情熱をいだくようになった場合、それは適当でないと思いつつも、やむを得なければ、望みどおりにしてもよい。それは罪を犯すことではない。ふたりは結婚するがよい。しかし、彼が心の内で堅く決心していて、無理をしないで自分の思いを制することができ、その上で、相手のおとめをそのままにしておこうと、心の中で決めたなら、そうしてもよい。だから、相手のおとめと結婚することはさしつかえないが、結婚しない方がもっとよい。妻は夫が生きている間は、その夫につながれている。夫が死ねば、望む人と結婚してもさしつかえないが、それは主にある者とに限る。しかし、わたしの意見では、そのままでいたなら、もっと幸福である。わたしも神の霊を受けていると思う。」  (Ⅰコリント7:25-40)

  パウロはここで、結婚に関する一般的意見を述べているのではありません。7章初めに、「さて、あなたがたが書いてよこした事について答えると」とあるように、Ⅰコリントは、コリント教会から教会内の具体的問題を質問してきた、その問いに答えるという形をとっています。むしろ一般的な結婚に関する意見なら、そのような具体的状況に関係のないエペソ人への手紙の5:22以下にあるようなものを参照するとよいでしょう。ただ一般的な意見と言っても、エペソ書の場合でも、多少は当時の状況に影響を受けていることは間違いありません。

  迫害を受けている教会で、しかもキリストの再臨は近い、それこそパウロの生きている間に起こるとさえ信じられていた当時、どうしても結婚に消極的になるのは当然と言えば当然でしょう。それほど彼らは主の再臨をまぢかに覚えていたのです。ここでパウロは結論を出すのに極めて慎重です。しかも自由であり、かつ謙虚でもあります。「おとめのことについては、わたしは主の命令を受けてはいないが、主のあわれみにより信任を受けている者として、意見を述べよう。わたしはこう考える」。処女の問題について、コリントの教会から問い合わせがありました。その時、彼は自分の意見を述べるにあたって、1「おとめのことについては、主の命令を受けていない」、 2「主のあわれみによって信任を受けている者として」、3「自分の意見を述べよう、わたしはこう考える」。このように三重になっています。彼はこの問題で主の言葉については、「主の命令」とはっきり言っています。「離婚はいけない」、このことははっきり主の命令を受けています。イエス・キリストが離婚に反対していることは、たとえばマタイ福音書19:3以下に出ています。パウロはそのことを言っているのです。けれども「処女の問題」については、はっきりとイエスが語っていることはない。ではパウロは答えられないのか、そこでパウロが答えを出す基準は「主イエスのあわれみによって信任を受けている者として」、しかも、主の言葉でなく、「自分の意見」であります。「わたしはこう考える」であります。しかし、単なる個人的意見ではなく、「主のあわれみによって信任を受けている者としての意見」であります。

  パウロは謙遜です。命令はしません。「主からの委託」として、「自分の意見」であります。さてではそのパウロの意見の内容はどうでしょう。パウロの意見は一般的な普遍妥当する見解ではありません。時と所に制限された、その場における意見であります。したがって、この意見は「時は縮まっている」という、終末切迫の時という、また迫害のただ中でいつ死ぬかわからない、非常時の問題です。たとえば一例ですが、戦争の時を考えて見てください。今戦地に行こうとしている出征兵士に結婚を言い出すことができるでしょうか。

  今全く楽しく、喜びに満ちているから、信仰など必要ない、という人がいるかも知れません。しかし、パウロは、「この世の有様は過ぎ去る」と断定します。結婚だけでなく、この世のすべてのことは、永遠ではありません。結婚も過ぎ去ります。人間のすべての喜びも楽しみも、栄耀栄華も過ぎ去ります。しかし、永遠の事実、イエス・キリストから恵みの事実を知っている人は、この世のあらゆることから自由になれます。ここには前に言った「・・・への自由」があります。それは主イエスが再び来る、神の国の到来を目指して生きる、信仰の人生が開けてきます。それは何ものからも奪われないものです。その時、主にあってすべての悲しみは喜びにかえられるでしょう。「買う者は持たないもののように」しなさい、と言われます。どんなに地上のものを多く持っていたとしても、それはやがて過ぎ去るものであることを知っている人は、持っていても、あたかも「持っていない」人のように生きるのです。地上のもの富にとらわれない生き方、それが信仰の人生です。

  愛する者を失った人は、その悲しみの中でこの事実を知るでしょう、つまり過ぎ去るものの中に、過ぎ行くことのないものを見いだして、永遠の生を生きることを学ぶでしょう。それはこの世のはかなさを知った人が、否定的に消極的に生きるのとはちがいます。もっと積極的です。「過ぎ去るものを通して、過ぎ去ることのないもの、永遠のものを証しして生きてゆくのです」。パウロは言っています、「被造物が虚無に服したのは、服せしめたもう方(神)による」(ローマ8:19以下)と。だから神の子の出現を望みをもって待つ、信仰と望みの姿勢を保つのです。それが希望の信仰にほかなりません。
   


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