2月2日(日)「偶像への供え物」説教要旨

           聖句
旧約
 「火の中から語られる神の声をあなたが聞いたように、聞いてなお生きていた民がかつてあったであろうか。あるいはまた、あなたがたの神、主がエジプトにおいて、あなたがたの目の前に、あなたがたのためにもろもろの事をなされたように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、強い手と、伸ばした腕と、大いなる恐るべき事とをもって臨み、一つの国民を他の国民のうちから引き出して、自分の民とされた神が、かつてあったであろうか。あなたにこの事を示したのは、主こそ神であって、ほかに神のないことを知らせるためであった。」   (申命記4:33-35)

新約
 「偶像への供え物について答えると、『わたしたちはみな知識を持っている』ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。さて、偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている。というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして、多くの神、多くの主があるようではあるが、わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。しかし、この知識をすべての人が持っているのではない。ある人々は、偶像についての、これまでの習慣上、偶像への供え物として、それを食べるが、彼らの良心が、弱いために汚されるのである。食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない。しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。なぜなら、ある人が、知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのを見た場合、その人の良心が弱いため、それに『教育されて』、偶像への供え物を食べるようにならないだろうか。するとその弱い人は、あなたの知識によって滅びることになる。この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、その弱い良心を痛めるのは、キリストに対して罪を犯すことなのである。だから、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない。」  (Ⅰコリント8:1-13)

  「偶像への供え物」とは、何でしょうか。当時神殿に供えられた供え物(動物の肉など)は、払い下げられて、市民の食卓に上りました。神経質な人(ここで言う「信仰の良心の弱い人」)は、これは偶像に供えられた残り物だから、汚れていると思ったのでしょう、断固としてそれを退け、そのようなものは食しないとしました。断固として退けるのですから、この方が信仰の強い人と思うかも知れませんが、パウロの基準からすれば、そのような人は信仰的自由のない、信仰の弱い人なのです。反対に、信仰の強い人は、そのような考え方から自由になっている人で、「信仰の強い人」の部類に属します。この関係をはっきり捕らえていないと、ここで言っていることが分かりません。
  信仰の強い人-信仰の自由のある人-その自由から平気で偶像の供え物を食べる。
  信仰の弱い人-信仰にこだわりのある人-偶像の供え物を食べない(神経質な人)です。

  パウロの信仰の自由な立場からはこうなります。「偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている。というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして多くの主があるようであるが、わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている」。キリスト信仰からすれば、偶像などというものは、事実存在しないのだから、そのようなものに捕らわれ、こだわることは愚かである。自由であってよいという立場です。しかし、反対に、信仰の弱い人は、そのような自由を持ち合わせず、肉を食べるごとに、神経質にこれは偶像に供えられたものではないかと、気にします。偶像にこだわりいちいち気にするのが、信仰の弱い人、そのようなこだわりをもたず、自由に食べる人は、信仰の強い人であります。

  このような偶像の供え物についての論争に対して、パウロのとった立場は、非常にキリスト者の自由に立った立場です。1)偶像なるものは、事実、この世に存在しない。2)だから食べなくても損にならないし、3)食べても益にはならない。4)しかし、あなたのその信仰の自由が、いちいち気にする信仰弱い人をつまずかせるなら、それは別な見地から、人をつまずかせてはいけない、「ある人が、知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのを見た場合、その人の良心が弱いため、それに『教育されて』、偶像への供え物を食べるようにならないだろうか。するとその弱い人は、あなたの知識によって滅びることになる。この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、その弱い良心を痛めるのは、キリストに対して罪を犯すことなのである。だから、もし食物がわしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない」と言うものです。真理だからといって、弱い兄弟の目の前で、偶像の肉を食べるなら、その兄弟をつまずかせる。それは食べることの可否を越えて、弱い兄弟への配慮の問題である。というのです。パウロはこのように、正しいことをただ正しいから行うというだけでなく、そのあなたの正しさが、弱い兄弟をつまずかせるなら、それは正しいことにはならないという、深い洞察と暖かい配慮からでた牧会的配慮の問題なのです。

  キリストは、弱い小さな者をつまずかせるなら、それは「大きい石臼を首にかけられて海に沈められるほうがよい」(マタイ18:6)とさえ言われたのです。この配慮もまたキリスト者の考慮の中に入れておかなくてはならない牧会的配慮なのではないでしょうか。つまり信仰的自由は、愛の配慮とペアでなければなりません。たとい「山を移すほどの信仰があっても、愛がなければ、わたしは無に等しい」(Ⅰコリント13:2)のです。信仰の自由は、愛の僕になるのです。パウロの自由は、弱い相手を馬鹿にしないで、その弱さを共に担うことによって、連帯という愛の共同が生まれるのです。この愛の連帯こそ、自由から生まれる新しい真理です。本当の自由は愛のために、また他者のために、自分を制限できるほど自由でなければならないのです。
   


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