2月16日(日)「宣教者としての権利」説教要旨

           聖句
旧約
 「むさぼる者は争いを起こし、主に信頼する者は豊かになる。自分の心を頼む者は愚かである。知恵をもって歩む者は救いを得る。貧しい者に施す者は物に不足しない。目をおおって見ない人は多くののろいをうける。」   (箴言28:25-27)

新約
 「しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇りは、何者にも奪い去られてはならないのだ。わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇りにはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。進んでそれをすれば、報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた務めなのである。それでは、その報酬はなんであるか。福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないことである。」  (Ⅰコリント9:15-18)

  「しかしわたしはこれらの権利を一つも利用しなかった」。今日、権利の主張がはやっています。もし自分に権利がありながら、「わたしはその権利を利用しなかった」と言う人がいるなら、それは「ずいぶん馬鹿な人だな」と思われるでしょう。自分の使える権利が目の前にあるのに、それは使わないとすれば、そこには何か事情があるのだろう、何かもっとうまい汁が吸えることでもあるのだろうと、世の人は考えます。けれどもパウロは言います、権利を主張しなくても、(別に)わたしの報酬があるのだと。ではその報酬とは何か。「わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇りにはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。進んでそれをすれば報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた務めなのである。それでは、その報酬は何であるか。福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないことである」。ずいぶんパウロは、おかしなことを言うではありませんか。パウロのとっておきの報酬とは、「無代価で福音を提供し、宣教者の持つ権利を利用しないことです」。わたしの報酬は無報酬のことですと、世間の利欲で固まった利己的頭には理解しがたいことです。

  今日、すべて「権利」という時、権利をもつ者の「自己主張」と同時発生します。権利と言えば、ほとんどすべて自己主張をともなうのではないでしょうか。もちろんまれに、他人のために権利擁護する場合もあるでしょう。しかし、その場合であっても、その他人とは、自分と親しい身内です。したがって権利の主張は、自己主張を含みます。それほど人間は自己の利益から離れがたいのです。

  パウロの場合、事情は少し違います。「しかしわたしはこれらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇りは、何者にも奪い去られてはならないのだ。わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇りにはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである」。こう言っています。それに続いて、「進んでそれをすれば報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それ、わたしにゆだねられた務めなのである。それでは、その報酬は何であるか。福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないことである」。報酬とは無代価で福音を提供することだというのです。それは「私の報酬は、報酬をもらわないで仕事をすることだ」、こう言うに等しいのです。世の中にそんな馬鹿なことがあるでしょうか。

  もし無報酬が報酬だとすれば、その福音とは、それだけで、千金の重みあるあるほど、すばらしいことなのです。それほど栄誉ある、永遠の価値をもったことなのです。そうでなければ、そんな馬鹿なことを言えないはずです。もし福音自体が、永遠の価値をもったものであるなら、福音を伝えること自体が報酬だと言えるほど、すばらしいことなのではないでしょうか。親が子供を愛する時、報酬が欲しいなどとは言わないでしょう。それ自体が永遠の価値をもっていることの場合、それ自体が価値があるので、その仕事、業、行為の報酬をもとめないのです。福音宣教とは、それほど、それ自体が貴い価値のあることなのです。ですから多くの伝道者が、しばしば自分で働いて、無報酬で宣教に従事するのです。福音、宣教そのものが、貴い価値をもつのです。このような永遠の仕事以外の、この世的な仕事は、常にそれに見合った報酬を要求します。そしてそれがその仕事に見合ったものであれば、世間はだれも文句はいわないでしょう。

  種を蒔く時、収穫は、種まきの目的です。人は誰でも、収穫を目指して撒くのです。商売をする人は、お金を得るために仕事をします。儲けがなければ、仕事を変えるか切り上げるかするでしょう。しかし、福音はそこから物的収穫がなくても、無代価も宣教に励みます。それは福音を伝えることに無限の価値があるからです。信仰にかぎらず精神的なものには、このような無報酬でもやる面があるでしょう。まして福音となればなおさらです。それは人ではなく、神さまに仕えている仕事です。たとい報酬がなくても、神さまに仕えるために、努力を惜しまないのです。

  「わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇りにはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。進んでそれをすれば報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それ、わたしにゆだねられた務めなのである。それでは、その報酬は何であるか。福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないことである」。このパウロの言葉をもう一度読んでみれば、パウロが何を目指していたか、よく分かります。パウロは神さまの仕事に従事していたのです。
   


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