2月23日(日)「弱い者には弱い者のように」説教要旨

           聖句
旧約
 「怒る人は争いを起こし、憤る人は多くの罪を犯す。人の高ぶりはその人を低くし、心にへりくだる者は誉を得る。」   (箴言29:22-23)

新約
 「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」  (Ⅰコリント9:19-23)
リント9:15-18)

  パウロはある矛盾を含んでいるように思えます。なぜなら、「自由であるが奴隷」、「律法の下にあるが律法のない者」、「弱い人であるが弱くない」、全く正反対のことをかかえている人のようです。しかし、内村鑑三という人は、「矛盾撞着を恐るるは小人の常なり」と喝破しました。言ってみれば、矛盾があるほど大きな人ということになりそうです。パウロはきっとスケールの大きな人だったのでしょう。矛盾撞着を平気で犯します。今ここでもそうです。全く正反対のことを包んで大きいのです。形式的整合性に生きるのでなく、さらにスケールの大きな整合性に生きているのです。それは次の言葉に如実に現れています、「すべての人には、すべてのようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである」。福音という大目的のためには、どんなことでもすると言うように、彼の唱える福音は、スケールが大きいのです。芸術の世界でも、よくデフォルメ(形式にとらわれない)と言います。より大きな芸術の性に生きるために、今ある形式的な形を、わざわざ崩すのです。そこから生まれる高度の芸術性が大切なのです。そこでは既製の矛盾撞着を恐れず、新しい生命的なものに生きる勇気が必要なのです。

  私たちの信仰にも、似たようなことが言えます。形式的には相反するような矛盾をかかえつつ、より高度な精神性に生きるのであります。パウロの生きた宣教の戦いの中から生まれた信仰の生命的な表現が、それであります。「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷となった」。ここで言う「自由」と「奴隷」は、まさに正反対のことです。しかし、それはパウロの新しい福音を言い表す高度な精神性の表現でもあったのです。私たちは、新しい生きた現実にふれたり、新しい未見の体験をする時、それを言い表す言葉が、古いものの中になく、皆新しい表現を発明するのです。私たちもめったにないことですが、時に及んで、新しい体験、新しい発見をした時、それを言い表す言葉に困ります。昔、西田幾多郎が、自分の新しい立場を、「絶対的矛盾の自己同一」と表現しました。初めは皆、その珍しい言葉の意味がつかめずにいましたが、一人二人と、その意味を理解する人が出てきて、解説書も現れ、その表現が、類い稀な事実を言い表したものと分かりました。

  新しいことを経験する人は、その体験を言い表す言葉に困ります。既製の言葉の中に、適切なのがなく、ついに苦心の末、新しい表現を発明するのです。パウロもまた、キリストの福音にふれ、その表現に苦しんだのでしょう。「自由と奴隷」、「弱さと強さ」、「福音と律法」、これら正反対のものを言い表しました。

  「律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである」とか、ここにも「律法の下」とか、「律法のない」とか、正反対のことが、用いられています。パウロの新しい福音の立場は、律法の下にはないが、同時に、新しい意味での「律法」をもつのであります。ローマ書の第三章で、「信仰によって義とされる、律法によって義とされるのではない」と言った最後に、「信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」と言っています。信仰と律法は、相反するようで、福音を中心にする時、実は互いに支え合っているのです。これがパウロの新しい福音の特徴です。ではパウロの言う、「信仰によって確立する、新しい律法」とは何でしょうか。それは後で明かになるように、「愛の律法」であります。

  「律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである」。そのようにすべての人の姿になりうる自由な信仰の立場は、ただ「福音のため」、そして「幾人かの人を救うため」でありました。自分の自由だけを主張して、人を救わない福音は、真の福音でしょうか。パウロの福音は、自分の自由よりも、人の救いが大切でした。人を救わない福音ではなく、なんとかして人を救う福音となろうとします。

  「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである」、これがパウロの最終的使命であり、最後の言葉でありました。伝道しない福音は、真の福音でしょうか。福音には宣教がつきものです。それでパウロは、「福音を宣べ伝えずば、われはわざわいなるかな」(Ⅰコリント9:16)と言っているのです。
   


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