3月2日(日)「信仰と競争」説教要旨

           聖句
旧約
 「あなたがたは急いで出るに及ばない、また、とんで行くにも及ばない。主はあなたがたの前に行き、イスラエルの神はあなたがたのしんがりとなられるからだ。」   (イザヤ52:12)

新約
 「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。」  (Ⅰコリント9:24-27)

  オリンピックの選手は次のオリンピックを目指して、死に物狂いの訓練を自分に課しています。パウロはここに朽ちる冠を得ようとする地上の競技者たちの、自分を打ち叩いて訓練する様を、信仰者の模範として示しています。朽ちない冠とは、信仰上の精神的冠です。朽ちる冠とはオリンピックなど地上のスポーツ大会などでだされる、地上的栄誉です。ふつうプロテスタントでは地上的努力や道徳的訓練などは、「行いによる義」だと敬遠されます。けれどもパウロが「信仰による義」を言ったからとて、地上的努力一切を否定するわけではありません。むしろこう言っています、「すべて競技する者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである」と。さらに続けて、「そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」と言っています。自分の信仰者としての精進努力を、競技者が自分を打ち叩いて努力するのに似せて、信仰者もそれ以上に精神的努力をするのであるとします。

  地上の選手たちは、地上の朽ちる冠を得るために、努力しますが、信仰者はそれ以上に霊的、信仰的精進努力を続けます。それは神さまから、永遠の朽ちない栄光の冠をいただくためであります。努力は同じでも、その目的、目標が違います。地上の金メダルではなく、天上の金メダルで、それは目に見えません。オリンピックの選手のように、テレビで映り、全世界の人びとから称賛をあびることもありません。信仰の受ける霊的冠は、目に見えませんから、テレビに映りませんし、喝采をあびることもありません。しかし、それは神さまの目にははっきりと映り、神さまから最上の御褒美をいただけるのです。信仰の報酬は、目に見えない、形もない、神からくる栄誉であります。

  自分を打ち叩かないで、人を打ち叩く福音の人がいませんか。その人は打ち叩く相手を間違えています。福音の自由に生きる人は、放縦とは反対に自己規制をして、自分に厳しくします。福音の自由は無律法主義ではありません。確かに律法主義、パリサイ主義と違いますが、無律法主義かというとそうではありません。パウロは、ローマ書3章で信仰義認を言った時、「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」(ローマ3:31)と言っています。その律法とは「愛の律法」であります。律法主義の「律法」は、文字に拘泥した形式的な律法遵守です。しかし、福音の自由からくる律法は、愛にしたがって生きる新しい律法にほかなりません。

  「すべて競技する者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである」。こうパウロが言った意味がお分かりでしょう。信仰義認は、無律法でもなく、自由奔放、何でも好き勝手ではありません。新しいイエス・キリストの愛にとらえられ、新しい生きた愛のとらえられた愛の律法に生きるのであります。そのためには精進努力が必要です。つまり律法主義は、自分が認められ、自分が偉くなるために精進努力しますが、福音の自由は、人を愛するために精進努力します。同じ精進努力でも自分を立てるためにするのと、他者、隣人を立てるために精進努力するのとで、天と地とも違うのです。愛による精進努力は、決して空を打つような努力ではありません。それは隣人のために実りを生むような精進努力であります。
   


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