3月9日(日)「試練と逃れ道」説教要旨

           聖句
旧約
 「モーセは民に言った、『あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい』。」   (出エジプト14:13-14)

新約
 「兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、『民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた』と書いてある。また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、『死の使』に滅ぼされた。これらの事が彼らに起こったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」  (Ⅰコリント10:1-13)

  この世を生きる時に試練はつきものであります。よく「悪魔のこころみ」と申します。また「悪にさそわれる」とも言います。いずれにしても、「誘い、誘惑」は、悪いもの、否定的なものと考えるのが普通です。「善い人から誘惑が来る」とはあまり言いません。しかし、「試練」という時、「誘い、誘惑」という悪い意味もありますが、反対に「試練を通して鍛えられる」とも申します。人生に試練というものがなければ、軟弱なひ弱な体質のものばかりになるでしょう。「試練」というのは、病気とか苦しみとか圧迫、脅迫、ある意味で、悪いものからくるように見えます。しかし、それはあまりに一方的な見方で、試練には、善い意味があります。一見して悪いものでも、その受ける人や受ける受け方によっては、善と化するのです。たとえば何度も何度も病気を乗り越えたオリンピックの選手が、最後に栄冠をかちえたことは、今度のソチオリンピックでもありました。

  したがって問題は受ける人の信仰、態度、受容の仕方にあります。聖書は出エジプトの出来事の中で、「彼らの大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされた」とあります。それは信仰をもたないで、疑ったのです。あるいは信仰とは正反対の行動をとったのです。信仰とは、決して善い状況のみに起こるとは限りません。いやむしろ信仰者は、悪い状況の中で力を発揮することが多いのです。信仰は、その悪い状況をよいものに変える力さえもつのです。

  ところで「試み」とは本来「神が私たちのこころをみる」意味で、それで「こころみ」と言うのだそうです。つまり神は試練を通して、果たしてそれに出会う私たちが、それと戦って勝ち抜けるか「私たちの心を見る」のです。それでそこに「神は真実です」(13節)と記しているのです。「真実である」とは、神は決して私たちに対して「悪意をもたない」と言う意味であります。真実な神は、悪意から私たちをおとしめることはしないのです。あくまでも「真実を貫く」のです。したがって私たちが都合の悪い出来事に出会っても、それは神が私たちをいじめたり、いたずらに苦しめたりすることはないのです。私たちに都合の悪いことに出会った時、私たちは決して神の悪意を疑ってはなりません。「神は真実です」、たとい私たちが不利な状況におちいったとしても、神はなお私たちに対して真実です。とすれば、真実な神は、その私たちに都合の悪い出来事を通して、何か私たちに益になることを考えているのではないかと、胸に手を当てて考えて見る必要があるのです。とすれば、何か私たちにとって悪いことが起こる時、それは神が私たちの「心を見て」いらっしゃると考えるべきです。とすれば、神は私たちを試み、試練を与えて訓練していると見るべきではないでしょうか。

  「わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない」。民数記20:11には、「モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ」とあります。「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」
   


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