3月23日(日)「すべてはゆるされている」説教要旨

           聖句
旧約
 「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。主はその基を大海のうえにすえ、大川のうえに定められた。主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人である。このような人は主から祝福をうけ、その救の神から義をうける。」   (詩編24:1-5)

新約
 「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。すべて市場で売られている物は、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。地とそれに満ちている物とは、主のものだからである。もしあなたがたが、不信者のだれかに招かれて、そこに行こうと思う場合、自分の前に出される物はなんでも、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。しかし、だれかがあなたがたに、これはささげ物の肉だと言ったなら、それを知らせてくれた人のために、また良心のために、食べないがよい。良心と言ったのは、自分の良心ではなく、他人の良心のことである。なぜなら、わたしの自由が、どうして他人の良心によって左右されることがあろうか。もしわたしが感謝して食べる場合、その感謝する物について、どうして人のそしりを受けるわけがあろうか。だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。ユダヤ人にもギリシア人にも神の教会にも、つまずきになってはいけない。わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている。」  (Ⅰコリント10:23-33)

  今日の最初は、「すべてのことは許されている」であります。では「何をしてもかまわないのか」、あるいは「好き勝手のことができるのか」ということになります。そうすると、世の中は混乱して、あっちでもこっちでも皆が思いのまま勝手次第ということにならないでしょうか。しかし、よく考えてみて下さい。「すべてのことが許されている」と言うのと、「何をしてもかまわないのか」、「好き勝手のことができるのか」というのとは、少し違うのではないでしょうか。後の「好き勝手ができる」のは、自由奔放勝手気ままであります。しかし、「すべてのことが許されている」のは、そこに「許し」、「許可」があるのです。するとそこに「許す」主体、「許可」を与える人がなくてはなりません。つまり「許し」ということは、ある何らかの権威、自分が従わなくてはならない規範を認めているのであります。好き勝手には、そのような権威はありません。あるのは自分だけです。したがって「好き勝手」は自己中心主義にほかなりません。わがままの極みであります。極端な自分中心主義です。けれどもその反対に「すべてのことは許されている」のは、あなたがすべてのことが可能なのは、あなたの上に一つの権威があって、少なくともあなたが従うべき規範があって、そこから「許し」が出ていることになります。したがって「すべてのことが許されている」の方は、自己中心主義にはなりません。ある権威があり、そこから自由が出ていることになります。

  では私たちの信仰から考えて見ましょう。私たちはイエス・キリストの十字架のあがない、愛によって救われ解放されて、文字通り自由になりました。だから「すべてのことが許されている」のであります。「すべてのことの」「許し」は、このイエス・キリストの十字架のあがないからきます。十字架の上で救い主が、私たちのすべての罪・咎を担ってくださったから、私たちは自由になり、文字通り「すべてのことが許されている」のであります。そこには神の子イエス・キリストの愛、権威があります。とすれば、「すべてのことが許されている」は、私たちは、何をしてもかまわないことにはなりません。ハイデルベルク信仰問答に、信仰義認の教えでは、「人はごうまん無頓着になってしまいませんか」、答え「いいえ、そうではありません。十字架によって救われた私たちは、十字架の恵みに感謝して生活してゆかねばなりません」。したがって、ハイデルベルク信仰問答の構成は、律法があって、その正しい律法に従えない罪深い私たちがあって、さらに十字架の救いがあって、それで終わっているのではありません。私たちが十字架の恵みに対して、感謝の実を結ぶこと、良き業を行うことを命じています。

  「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである」。人の徳を高め、ほかの人の益を求めることを勧められているのです。恵みが加われば加わるほど、私たちは自由になり、自由になればなるほど、その自由から愛の業に励むのであります。実にパウロは、「兄弟たちよ、あなたがたが召されたのは、実に自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)と言っています。自由は信仰の目標ですが、そこでその自由は愛の奉仕へと続くのです。そこで結論として次のことが出てくるのです。「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。ユダヤ人にもギリシア人にも神の教会にも、つまずきになってはいけない。わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている」。
   


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