3月30日(日)「キリストのかたち」説教要旨

           聖句
旧約
 「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」   (創世記1:26-27)

新約
 「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。あなたがたが、何かにつけわたしを覚えていて、あなたがたに伝えたとおりに言い伝えを守っているので、わたしは満足に思う。しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。祈りをしたり預言をしたりする時、かしらに物をかぶる男は、そのかしらをはずかしめる者である。祈りをしたり預言をしたりする時、かしらにおおいをかけない女は、そのかしらをはずかしめる者である。それは、髪をそったのとまったく同じだからである。もし女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。髪を切ったりそったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである。男は、神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきではない。女は、また男の光栄である。なぜなら、男が女から出たのではなく、女が男から出たのだからである。また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである。それだから、女は、かしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは天使たちのためでもある。ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。それは、女が男から出たように、男もまた女から生まれたからである。そして、すべてのものは神から出たのである。あなたがた自身で判断してみるがよい。女がおおいをかけずに神に祈るのは、ふさわしいことだろうか。自然そのものが教えているではないか。男に長い髪があれば彼の恥になり、女に長い髪があれば彼女の光栄になるのである。長い髪はおおいの代わりに女に与えられているものだからである。しかし、だれかがそれに反対の意見をもっていても、そんな風習はわたしたちにはなく、神の諸教会にもない。」  (Ⅰコリント11:1-16)

  今日の箇所の前半は、当時の礼拝や祈りの時の慣習を述べています。

  「祈をしたり預言をしたりする時、かしらにおおいをかけない女は、そのかしらをはずかしめる者である。祈りをしたり預言をしたりする時、かしらにおおいをかけない女は、そのかしらをはずかしめる者である。それは、髪をそったのとまったく同じだからである」。問題は祈りの時、頭に布切れをかぶるかどうかの問題です。女性は当時、頭に布切れをかぶるのが習慣だったのです。その慣習が、今日残っているのがカトリック教会です。ドイツに行く前(1992年以前)、カトリック教会では多くの女性は礼拝の時、かぶりものをかぶっていました。それがドイツでは、カトリック教会でもプロテスタント教会でも、かぶりものをかぶっている女性は一人もいませんでした。それが日本に帰って(1998年以後)見ると、カトリック教会でもほとんどの女性がかぶりものをかぶっていませんでした。それでも100人位の礼拝で、二、三人はかぶりものをかぶっていました。現在はどうでしょう。ほとんどかぶっていないのではないでしょうか。そうならドイツと同じです。

  現代の私たちにはこのような習慣を、どうするかは、ほとんど問題にならないでしょう。したがって、私たちは11節に目を向けましょう。「ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。それは、女が男から出たように、男もまた女から生まれたからである」。ここには創世記の記事のおもしろい解釈が出ています。創世記によると、男(アダム)が先に造られた(創世記2:6)。しかし、もう一つの創造の記事では、「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1:27)とあります。すると男女同時と見られなくもありません。私たちの中に、その時代や慣習など、一時的問題もあります。それは一時的で形式上の問題だからと言っていい加減に扱ってよいわけではありません。一時的な問題でも重要なことはいくらでもあります。しかし、今ここに出てくる、女性のかぶりものの問題は、それほど礼拝や信仰の本質にかかわる問題ではないでしょう。

  そこで今日は、11節の「ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。それは、女が男から出たように、男もまた女から生まれたからである」に集中しましょう。「主にあっては」という言葉は大事な言葉です。その意味は、「キリストを中心に考えた時」、つまり枝葉末節の形や衣服の問題に捕らわれず、礼拝や信仰の中心の課題に目を向けた時、どうなるか、そのことが肝要であります。キリスト論的な信仰・神学の中心問題に目を向けた時、この問題はどのように展開されるべきか、ここに至って、問題は核心にふれてきます。次に二つの部分が来ます。1.「男なしには女はないし、女なしには男はない」。2.それは、女が男から出たように、男もまた女から生まれたからである」。まず1から行きましょう。

  「男なしには女はない」と「女なしには男はない」です。これは人間は男と女からできていて、しかも、その相互は、互いに支え合ってできているという意味です。ちょうど「人」という字が、長い棒と短い棒からなり、そのいずれを取っても、他の棒は倒れるように、男女は支えあって成り立ち、二つで一つである。こういう意味に読み取れます。2は、その理由を示しています。そもそも「女が男から出た」。創世記第1章の記事によると、男女同時に造られたように見えます。しかし、第2章によると、まずアダム(男)が造られ、彼にふさわしい助け手を造ろうといって、アダムを眠らせ、そのあばら骨からエバが造られたようになっています。しかし、面白いことに「女が男から出たように、男もまた女から生まれたからである」。創造の初め、エバがアダムから造られたけれども、その後、男も女も、女性の腹から生まれる定めになっていることです。こうして男女平等です。なぜなら「女が男から出たように、男もまた女から生まれた」、創造の初め女が男から造られたように、その後は男性もまた女性の腹から生まれるからです。

  このように男女平等であります。「主にあっては、男なしに女はないし、女なしには男はない。それは、女が男から出たように、男もまた女から生まれたからである。そしてすべてのものは神から出たのである」。私たちは今日よく「男女平等」ということを、「男女同権」と言い表します。つまり権利の面から見ています。それは法律上の主張です。そこでは神さまは出てきません。権利というのは、ある意味で自己主張です。したがって権利から、男女平等をだすのは、各々各自の権利の主張から考えられています。それは信仰的な見方でなく、法律的見方です。信仰から見る時、神から見て、男女は平等なのです。それは「主にあっては、男なしに女はないし、女なしには男はない。それは、女が男から出たように、男もまた女から生まれたからである。そしてすべてのものは神から出たのである」。これが信仰から見た、男女平等であります。

  私たちは地上の過ぎゆく秩序からではなく、神から信仰的に見て、何が正しいか議論し、結論をえなくてはなりません。
   


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