4月6日(日)「争いの解決」説教要旨

           聖句
旧約
 「平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。賢いしもべは身持の悪いむすこを治め、かつ、その兄弟たちの中にあって、資産の分け前を獲る。銀を試みるものはるつぼ、金を試みるものは炉、人の心を試みるものは主である。悪を行う者は偽りのくちびるに聞き、偽りをいう者は悪しき舌に耳を傾ける。貧しい者をあざける者はその造り主を侮る。人の災を喜ぶ者は罰を免れない。孫は老人の冠である。父は子の栄えである。」   (箴言17:1-6)

新約
 「次のことを命じるについては、あなたがたをほめるわけにはいかない。というのは、あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからである。まず、あなたがたが教会に集まる時、お互の間に分争があることを、わたしは耳にしており、そしていくぶんか、それを信じている。たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明かにされるためには、分派もなければなるまい。どこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』。だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう。しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである。それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互いに待ち合わせなさい。もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい。そのほかの事は、わたしが行った時に、定めることにしよう。」  (Ⅰコリント11:17-34)

  ここには私たちが「聖晩餐」と呼んでいる聖餐式のことが記されています。しかし、不思議なことに、そのキリストに関する最も聖なる晩餐の記事の前に、実は教会の中の争いごと分争について記しています。「あなたがたが教会に集まる時、お互いの間に分争あることを、わたしは耳にしており、そしていくぶんか、それを信じている。たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明かにされるためには、分派もなければなるまい。どこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。あなたがたには、飲み食いする家がないのか、それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたをほめようか。この事ではほめるわけにはいかない」。どうも当時の教会では、私たちが言う聖餐式の前に、いわゆるふつうの食事を食べていたようです。その食事の際、金持と貧乏人の間で争いがあったようです。ただパウロはここで、教会において争いの必要をも認めていたようです。

  「あなたがたの中でほんとうの者が明かにされるためには、分派もなければなるまい」。私たちの中に論争のある本当の意味は、その論争によって、真理が明かになるためであるとあります。確かに学問的な論争にせよ、教会の告白についての論争にせよ、真理が明かになるために、ある種の論争は必要です。それなしには真理に達しないからです。もちろん無用の論争、理論のための論争というものもあります。しかし、そのような無用の論争の中にも、正しい当然必要な論争というものもあります。その正しい真理が明かになるためには、その過程として論争も必要です。それが「ほんとうの者が明かにされるためには、分派もなければなるまい」という言葉に現れています。しかし、ここで否定されている論争は、分争です。「あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である」。片方に飢えている貧しい人、反対の方に食べ飽きている富める者、これは神の教会において、正しい姿ではありません。

  今パウロが、聖晩餐のことを厳かに記す時、まずこの食事における分争のことを記して、警告を発します。このような分争の中では、決して主の聖晩餐は正しくまもられないでしょう。だから聖晩餐の制定の言葉の中に、「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」とあります。

  この分争があることによって、その次に続く聖晩餐の記事は、より真実をもって迫ってくるでしょう。そうでないと、聖晩餐はただ教会の伝統的儀式ぐらいに考えられてしまいます。そうでなくこの聖晩餐こそ、この世的争いのただ中で大切な問題なのです。争いとか分争などは、きわめて世間的な、世俗的な問題です。しかし、教会にもあるこの世俗的な争いのただ中で、今十字架の主が何のために死なれたか、その真の意義が明かになるのです。だから聖晩餐制定の言葉のすぐ前に分争の記事のあることは、聖晩餐そのものにとっても有意義なことなのです。そうでないと十字架は、シンボルか象徴のようなものになるでしょう。聖晩餐制定の記事の中で、「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである」とあります。1「それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである」。2「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである」。この二つが聖晩餐の真の意義であります。
   


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