7月27日(日)「死は勝利に飲まれてしまった」説教要旨

           聖句
旧約
 「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしを遣わして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。」   (イザヤ61:1-3)

新約
 「死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。聖書に『最初の人アダムは生きたものになった』と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。
 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことはできないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことはない。ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終わりのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。『死は勝利に飲まれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』。死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜ったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。 」   (Ⅰコリント15:29-41)

  イエス・キリストの復活は、私たちの「過去」だけでなく「将来」にかかわることを、この前の時、申し上げました。しかし、今私たちは、いやそれだけではなく、復活は、同時に私たちの「現在」とかかわりがあると言わなければなりません。その証拠に、パウロはここで「私は日々死んでいる」と言っています。この言葉は、パウロだけではなく、自分の使命や仕事に毎日真剣に取り組んでいる人なら、だれでも、「私は日々死んでいる」と言えるのではないでしょうか。毎日毎日、この仕事で死んでも本望だと言える人は多くいると思います。そして自分の仕事に精を出し、一心不乱にその仕事をやっている人にとって、「日々死す」ということは、自分の本音の言葉ではないでしょうか。その場合、時はみな現在となり、昔からキリスト教神学で言われているように、「今、ここ」、つまり時間としては「今」、場所としては「ここ」。このことは、難しく言えば、「実存的」ということです。アウグスチヌスという人は、過去は、自分の記憶のなかにある「現在」であり、将来は、自分の期待のなかにある「現在」であると申しました。すると私たちは、常に時間的には「現在」を生きているのであって、場所的には「此処」を生きているのであって、「今、ここ」を逃れることはできません。

  したがって信仰者とは、また信仰とは、「あそこ、あの時」に生きるのではなく、また「いつか、ある時」に生きるのでもありません。時はみな現在であって、私たちは信仰において生きる時、「今、ここ」を、時は現在、「今」、そして場所は「ここ」しか生きられないのであります。しかも、パウロは「わたしは日々死んでいる」という時、生きるというより、「死ぬ」ことが先にくるのであります。確かににキリスト教信仰、聖書の信仰は、十字架のイエスが中心だとすれば、それは生きようとすることよりも、むしろ、真に生きるために、現在に死ぬことが求められています。たとい生きることばかり考えても、私たちはだれでも例外なく、必ず死ぬことを前に控えています。したがって「死ぬ」ことを克服していなければ、真に生きることはできません。するとパウロが「われは日々死す」と言う時、同時に、「われは日々生きる」ということにならないでしょうか。

  話をもう少し分かりやすくするために、少し転回して見ましょう。私たちはどの人でも、必ず目の前に死をひかえて生きています。とすると、この死を無視して、生きることばかり考えても、それは真に生きることになりません。「われは日々死す」と言える人が、本当の意味で、「われは日々生きる、真の生を生きる」ということができるのではないでしょうか。こうして私たちの信仰が、自分の死を克服した時、初めて真の生を生きることができるのです。そしてそのような生は、「あそこ」や「あの時」に生きるのではなく、常に時は「今」、そして場所は常に「ここ」となるでしょう。信仰の生涯は、「日々死す」毎日でありながら、同時に「日々生きる」ということもできるような生涯ではないでしょうか。

  さてそのことを中心にして、イエス・キリストの生涯を考えて見ましょう。イエスの生涯は、誕生(クリスマス)をしたかと思うと、十字架の死が重要になってきます。イエス・キリストの生涯は、生と共に死が、浮き彫りにされて着ます。そしてこの生と死の向こう側にイエス・キリストの復活があるのです。それは生き死にをこえた、新しい生であります。そこに信仰の生を見いだすことのできる人は幸いです。

  では「復活の生」とは、どのような生でしょうか。まず「復活」と言う以上、それは将来です。それは「新しい生」ですから、今の生の向こう側にある全く新しい生であります。したがってそれは将来です。けれども、それは将来だけでしょうか。決して将来だけではありません。生は将来だけでは成り立ちません。そこに今の生がなくては、それは自分の生ではありません。したがって復活の生は将来と共に、現在の生としてなくてはなりません、この現在ある今のわたしの生が、新しく生きるのです。それが復活の生であります。つまり「復活」の生は、現在、今ある生から、来るべき生へと展望が開かれるのです。けれども、その生は私の誕生かが現在まで引きずってきたこの生である以上、それは私の過去の生ともつながっています。しりと「復活の生」とは、私が誕生してから、今まで、そしてさらにこれから後、将来へとつながった生ということになります。それが復活の生です。「復活の生」は、私の誕生という過去から、今生きているこの現在へと、そしてさらに将来へとつなぐ、この私の生にほかなりません。それが私の復活の生であります。してみると、「私の復活の生」において、この私全体が総括されていませんか。そうです。「私の復活の生」は、まさに誕生から、現在に到る生、そして現在から死を越えて将来に到る生へとつながっているのであります。それが「私の復活の生」であります。
   


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