8月10日(日)「苦難と慰め」説教要旨

           聖句
旧約
 「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラとを思いみよ。わたしは彼をただひとりであったときに召し、彼を祝福して、その子孫を増し加えた。主はシオンを慰め、またそのすべて荒れた所を慰めて、その荒野をエデンのように、そのさばくを主の園のようにされる。こうして、その中に喜びと楽しみとがあり、感謝と歌の声とがある。」   (イザヤ51:1-3)

新約
 「神の御旨によりキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟テモテとから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めてくださり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救いとのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っているからである。」   (Ⅱコリント1:1-7)

  パウロはこの手紙の冒頭で、神を「あわれみ深い、慰めの父なる神」とし、子供を愛し、育て、養う神として述べています。しかも、その慰めの神は、いかなる艱難の中でも、どんな時でも、わたしたちを慰め、励まし、力づけてくださるお方として描いております。よく注意してください、「いかなる時でも慰めてくださる父」であります。「いかなる時」と言うのですから、たとえば「私はもう駄目だ、おしまいだ」と思うような時にも、なお慰め、力づけ、励ましてくださる父なのであります。わたしたちは、この「いかなる時も」という言葉を片時も忘れてはなりません。

  わたしたちは必ず「例外の時」を作ります。今私に出会っている苦難は、例外だ、だれも経験したことのないような苦難だ、こう言います。また「あなたには、私の苦労など分かってもらえない」と言います。この時、「あらゆる艱難の中にいる時でも、わたしたちを慰めてくださる神」、しかもそれだけではなく、「さらに神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる艱難の中にある人々をも慰めることができるようにしてくださる」神であります。

  わたしたちは日々、いろいろな人々に出会っています、またいろいろな出来事に出会っています。そこである時は、「もう駄目だ、これはわたしの手に負えない困難だ」と言う場合もあります。すると「あらゆる困難」ではなくなります。例外ができます。しかし、今聖書は、わたしたちに告げます。「例外はない」、「あらゆる困難、艱難だ」と。例外を作ることは、わたしたちの不信仰であります。不信仰とは、例外を作ることです。つまり全能の神に全能ではない例外を作ることにほかなりません。もう一度言います、「わたしたちの不信仰とは、例外を作ることだ」と。あなたは、この世の生活で、時たま例外を作っていないでしょうか。全能の神のいない空間、場所を作っていないでしょうか。神のいない時、神が全能でなくなくなる時を作っていないでしょうか。その例外が「不信仰」なのです。あなたの「不信仰」とは、信仰がないだけではなく、神の全能のいない時を作っているのです。「不信仰」とは信仰がないだけではなく、全能の神がいない瞬間です。

  聖書では、神は、「あわれみ深い父」、「慰めに満ちた神、慰め一杯の神」であります。あなた自身の艱難を救うだけでなく、あなた自身が、他の人を隣人を助けることができるようにしてくださる、「慰めの神」なのであります。いま問います、「あなたにとって神は、そのように慰めに満ちた父でありますか? それとも、あなたを助けられない時も、たまにあるそのような例外のある神ですか。」
   


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