9月21日(日)「霊は人を生かす」説教要旨

           聖句
旧約
 「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖とその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない。」   (エレミヤ31:31-34)

新約
 「こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神から来ている。神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。もし罪を宣言する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。そして、すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのである。もし消え去るべきものが栄光をもって現れたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光のあるべきものである。」   (Ⅱコリント3:4-11)

  前のところで、「あなたがたは、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板ではなく人の心の板に書かれた」ことを学びました。なんと光栄なことではないでしょうか。この罪深い私自身が、「キリストの手紙である」とは。しかも、その手紙というのは、墨で書かれたのでなく、つまり今風にいえば、ペンとインクで書かれたのでなく、神さまの霊によって私たちの心に書かれたというのであります。私たちの信仰というものは、外からは目に見えないものです。その人が神をあるいはキリストを信じているのか、信じていないのかは、外見からは分かりません。その人が語る言葉を聞いて初めて、この人は信仰がありそうだか、あるいはないだろうかが、おおよそ分かるのであります。それも正確に分かるわけではありません。おおよそであります。人の信仰を、まるで測りで測るように細かくその人の信仰の程度を測る計測器はありません。また、たとい分かったとしても、それはおおよそであります。精神的なことは、物質的なことのように細かく測りで測ることはできません。また測ったとしても、その測りはあまり意味がありません。「こうした力は、神から来ている。神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである」。「新しい契約」は新約で、イエス・キリストを指します。

  旧約聖書の律法は、モーセがシナイ山で、神から受けたもので、二枚の石の板に記されていました。「石の板」なら、消えないと思うでしょう。けれども、石がいかに丈夫だと思っても、それは地上の物質に過ぎません。石も粉々に砕かれてしまいます。イエス・キリストは、石作りの立派な神殿を、ごらんになって、「この石が砕かれる時がある」ことを予言されました(マルコ13:2)。物質である以上、永遠ということはありません。「石」は、生きた神の言葉を固定してしまうことがあります。死んだ文字に拘泥した律法主義的な信仰です。パリサイ人が、その代表的な例です。律法主義は言葉や原理に固執して、神の真理を形式化してしまいます。「神は死んだ者の神ではなく、生きた者の神です」(マタイ22:32)。イエスは、「安息日は、人のためにもうけられており、人が安息日のためにあるのではない」と申しました。人間が生かされることに中心があるのであって、決して形式や原理が中心にあるのではありません。もちろん形式も原理も必要でしょう。しかし、それらは人間に奉仕するものでなくてはなりません。「こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神から来ている」。

  このようにこの奉仕者は、確信をもちますが、この確信は、「自分により、自分に対してもつ」のではありません。この確信の根拠は神から来るのであります。その導き手はキリストにほかなりません。その資格は自分からではなく、ただ神から来るのです。したがって、1 たとい自分になくても恐れません。劣等感におちいりません。2 またたとい自分にあっても、自らから誇ることをしません。神からだからです。3 神から来るので、それは神をほめたたえます。4 そしてそれは、神のために用います。したがってそれは謙遜にして、大胆です。このように神から来るのでなければ、謙遜も、自分を誇る傲慢になるでしょう。

  さてこう考えてきて、私たちの今日の信仰はどうでしょう。はたして劣等感におちいっていないでしょうか。また自ら誇って自慢していないでしょうか。はたして神をほめたたえているでしょうか。それははたして神のために用いられているでしょうか。それは謙遜で大胆でしょうか。その反対になっていないでしょうか。このように自分を吟味するのが「神学」であります。
   


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