10月5日(日)「キリストの栄光の輝き」説教要旨

           聖句
旧約
 「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。」   (創世記1:3-5)

新約
 「このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明かにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明かにするために、わたしたちの心を照らして下さったのである。」   (Ⅱコリント4:1-6)

  この人生は「望み」ばかりでなく、しばしば「落胆」がつきものです。もし耳あたりのよい「望み」の方にばかり目を向けるなら、その人はおめでたい、苦労を知らない人になるでしょう。しばしば「落胆」から始めなくては、人生の半分しか知らない無知な人になるでしょう。皆さん、人生は望みばかりでなく、実に落胆があるのです。いや落胆の方が多いかもしれません。しかし、考え方をかえるなら、落胆があるからこそ、それは生き生きとした生命、生活なのです。しかし、今日のところは、「落胆しない」こと、そして「恥ずべき隠れたことを捨て去り」、また「悪巧みによって歩かず」、「神の言を曲げず」、「真理を明かにし」、「神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦する」と書いてあります。

  前半は「落胆しない」、「恥ずべき隠れたことを捨てて」、「悪巧みに歩まず」、「神の言葉を曲げず」、「かえって真理を明かにし」となっています。最後の「明かにし」以外はみな、否定「ない」という言葉がついています。「落胆しない」、「隠れたことを捨て」、「悪巧みに歩ま」、「神の言葉を曲げ」、ついで、肯定的積極的に「真理を明かにし」、「自分を推薦する」となっています。私たちの信仰は、つねにある悪しきものに逆らい、戦って行かなくてなりません。信仰とは、神を仰ぐだけではなく、神に逆らう、あらゆるものと戦って行かなくては成就しません。このような戦いがない時、しばしば自己満足的な信仰になります。信仰は一種の戦いであって、自己満足ではありません。

  「このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せず」、ここには三つの大切なことがあります。1)恥ずべき隠れたことをすて去ること、2)ずる賢い悪巧みを用いない、3)真理を明かにする。前の二つは間違ったこと悪いことを捨てる努力であります。最後の一つは、真理であります。積極的なことであります。信仰の中には、しばしば間違った、悪いことが入り込んで来ることがあります。その時、信仰は戦いを始めなくてはなりません。この戦いをひるんで、手をこまぬいていると、私たちの信仰そのものが駄目になってしまいます。信仰のこの戦いを通して、私たちの信仰は清められ、力づけられます。

  真理の反対は、御利益です。信仰の危険は、真理にしたがって動くのでなく、ただ目先の利益のおぼれる御利益宗教に成り下がることです。私たちはたえずこの誘惑と戦ってゆかなくてはなりません。イエスもまた、荒れ野の誘惑で、「石をパンに変えよ」とか、「宮の頂上から飛び降りてみよ」とか、「栄耀栄華をすべて与える」とか、悪魔の誘惑は、すべて御利益に結び付いています。荒れ野の誘惑で、イエスはこれら全部の誘惑を退けて、神の言葉にのみより頼みました。神に信頼する以外の、何か人間的利益が信仰の基礎にある時、その信仰は堕落します。真の信仰は、神と神の言葉以外のものにより頼みません。もちろん信仰に利益が全然ないわけではありません。いけないのは、御利益があることではなく、ただ御利益のみを目的とする点にあります。つまり御利益主義になることです。そこには生きた神はいなく、その代わりに御利益が中心になるのです。律法主義がいけないのも、教会主義がいけないのも同じです。律法がいけないわけでも、教会が悪いのでもありません。それが主義になる点が悪いのです。それが主義となることによって、「この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしている」、そのことが悪いのです。聖書には「すべて信仰によらないものは罪である」(ローマ14:23)とあります。

  「『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明かにするために、わたしたちの心を照らして下さったのである」

  「信仰による義だ」というと、では行いはいらないのか、と反論してきます。それは間違いです。信仰によって義とされた人は、キリストによって変えられて、新しくなり、「やみから光が出るように、新しくされるのです。良い行いというのは、その新しくされた人格からでてくるのです。まず信仰によって「自己中心」の心が、新しくされなければなりません。そこからすべてが始まるのです。良い行いも、新しい人生もそこから始まってくるのではないでしょうか。それで次の箇所に、「私たちはこの宝を土の器にもっている」と言っているのです。しかし、その「土の器」についてはこの次回に学びましょう。
   


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