12月7日(日)「真の悔い改め」説教要旨

           聖句
旧約
 「主はわれらのために大いなる事をなされたので、われらは喜んだ。主よ、どうか、われらの繁栄を、ネゲブの川のように回復してください。涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。」
  (詩編126:3-6)

新約
 「愛する者たちよ。わたしたちは、このような約束を与えられているのだから、肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではないか。どうか、わたしたちに心を開いてほしい。わたしたちは、だれにも不義をしたことがなく、だれをも破滅におとしいれたことがなく、だれからもだまし取ったことがない。わたしは、責めるつもりでこう言うのではない。前にも言ったように、あなたがたはわたしの心のうちにいて、わたしたちと生死を共にしているのである。わたしはあなたがたを大いに信頼し、大いに誇っている。また、あふれるばかり慰めを受け、あらゆる患難の中にあって喜びに満ちあふれている。
 さて、マケドニヤに着いたとき、わたしたちの身に少しの休みもなく、さまざまの患難に会い、外には戦い、内には恐れがあった。しかるに、うちしおれている者を慰める神は、テトスの到来によって、わたしたちを慰めて下さった。ただ彼の到来によるばかりではなく、彼があなたがたから受けたその慰めをもって、慰めて下さった。すなわち、あなたがたがわたしを慕っていること、嘆いていること、またわたしに対して熱心であることを知らせてくれたので、わたしの喜びはいよいよ増し加わったのである。そこで、たとい、あの手紙であなたがたを悲しませたとしても、わたしはそれを悔いていない。あの手紙がしばらくの間ではあるが、あなたがたを悲しませたのを見て悔いたとしても、今は喜んでいる。それは、あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めるに至ったからである。あなたがたがそのように悲しんだのは、神のみこころに添うたことであって、わたしたちからはなんの損害も受けなかったのである。神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。見よ、神のみこころに添うたその悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起させたことか。また、弁明、義憤、恐れ、愛慕、熱意、それから処罰に至らせたことか。あなたがたはあの問題については、すべての点において潔白であることを証明したのである。だから、わたしがあなたがたに書きおくったのは、不義をした人のためでも、不義を受けた人のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱情が、神の前にあなたがたの間で明らかになるためである。こういうわけで、わたしたちは慰められたのである。これらの慰めの上にテトスの喜びが加わって、わたしたちはなおいっそう喜んだ。彼があなたがた一同によって安心させられたからである。そして、わたしは彼に対してあなたがたのことを少しく誇ったが、それはわたしの恥にならないですんだ。あなたがたにいっさいのことを真実に語ったように、テトスに対して誇ったことも真実となってきたのである。また彼は、あなたがた一同が従順であって、おそれおののきつつ自分を迎えてくれたことを思い出して、ますます心をあなたがたの方に寄せている。わたしは、あなたがたに全く信頼することができて、喜んでいる。」
   (Ⅱコリント6:11-18)

  今日の箇所の勧めの内容は、「肉と例との汚れを取り除いて、清くなる」という事で、「聖化(清められる)」ということです。ふつう「義認と聖化」と言って、「義認」は、信仰によって義とされること、十字架のあがないを受け入れ信じることを意味します。そこで行為しているのは神です。しかし、信仰は神に任せる面と、それに応えて、行動することも含まれています。この聖化の行為にまで進まなければ、信仰は「片手落ち」です。自動車を作ったなら、それを走らせなくてはなりません。走らない自動車は、自動車ではありません。信仰もまた同じです。行為し動きだすのが信仰です。その行為は、「肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめる」、聖化の行為です。しかし、それは単なるキリスト者の道徳的行為といったものではありません。ここに書いてあるように、「わたしたちは、このような約束を与えられているのだから、肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ」、つまり神さまからの約束があって、そのお約束にしたがって、神が導いてくださる、その導きにしたがって進むことなのです。したがって、確かに私たちの行為があるのですが、その前に神の約束が存在し、私たちの行為は、神の約束に従う行為です。

  では次にその約束の内容は何でしょうか。前の16節に、こう書いてあります。「神はこう仰せになっている、『わたしは彼らの間に住み、かつ出入りするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう』、『そして、わたしは、あなたがたの父となり、あなたがたは、わたしのむすこ、むすめとなるであろう』」、つまり全能の神が、わたしを息子、娘と呼んでくださることです。ガラテヤ人への手紙に、「このようにあなたがたは子なのですから、神はわたしたちの心に『アバ、父よ』と呼ぶ、御子の霊を送ってくださいました。それゆえ、あなたがたはもはや僕ではなく、子なのです。子である以上、神の相続人なのです」(ガラテヤ4:6)とあります。この神の子供となる約束は、また恵みであり、福音であります。神が信仰ある者を清めてくださる、それが神の約束なのです。約束された以上、神は必ずそれを守ってくださいます。信仰義認の中には、この神の清めてくださる約束も含まれています。それは神が一方的になさる行為でありますが、私たちは神がしてくださると、見ているだけでは足りません。神が行為する時、私たちもそれにしたがって、自分にふさわしい行為をしなくてはなりません。

  もし神の側の約束がなければ、聖化はただ私たち人間の道徳的向上にすぎないでしょう。それでは神の恵みは、どこかに飛んで行ってしまいます。聖化は神の約束からくる以上、それは信仰義認にともなう、神に導かれた人間の信仰的行為でもあります。そこで次の言葉が重要になります。「どうか、わたしたちに心を開いてほしい」。前の6:13にも、「どうかあなたがたの方でも心を広くして、わたしに応じてほしい」とあります。今パウロはコリントの人びとに心を大きく開いています。この「心を開く」という言葉は、「場所をあける」という意味の言葉です。私たちの心の中に「場所」があります。その場所の狭い人もあります。それはパリサイ人のような、律法主義で凝り固まった「コチコチ頭」の人です。信仰は神の心を心としますから、信仰は常に「心の広い人」であります。イエス・キリストは頭のコチコチなパリサイ人、律法主義者に反対し、キリスト者の自由に生きました。たとえば安息日の守り方でも、「安息日が人のためにあるので、人が安息日のためにあるのではない」と言っておられます(マルコ2:27)。

  「あなたがたはわたしの心のうちにいて、わたしたちと生死を共にしているのである。わたしはあなたがたを大いに信頼し、大いに誇っている。また、あふれるばかり慰めを受け、あらゆる患難の中にあって喜びにあふれている」。これはすばらしい言葉ではありませんか。
   


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