12月14日(日)「聖徒たちへの奉仕」説教要旨

           聖句
旧約
 「主はおのが民を喜び、へりくだる者を勝利をもって飾られるからである。聖徒を栄光によって喜ばせ、その床の上で喜び歌わせよ。そののどには神をあがめる歌があり、その手にはもろ刃のつるぎがある。」
  (詩編149:4-6)

新約
 「兄弟たちよ。わたしたちはここで、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせよう。すなわち、彼らは、患難のために激しい試練をうけたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となったのである。わたしはあかしするが、彼らは力に応じて、否、力以上に施しをした。すなわち、自ら進んで、聖徒たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出て、わたしたちの希望どおりにしたばかりか、自分自身をまず、神のみこころにしたがって、主にささげ、また、わたしたちにもささげたのである。そこで、この募金をテトスがあなたがたの所で、すでに始めた以上、またそれを完成するようにと、わたしたちは彼に勧めたのである。さて、あなたがたがあらゆる事がらについて富んでいるように、すなわち、信仰にも言葉にも知識にも、あらゆる熱情にも、また、あなたがたに対するわたしたちの愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富んでほしい。こう言っても、わたしは命令するのではない。ただ、他の人たちの熱情によって、あなたがたの愛の純真さをためそうとするのである。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。そこで、わたしは、この恵みのわざについて意見を述べよう。それがあなたがたの益になるからである。あなたがたはこの事を、昨年以来、他に先んじて実行したばかりではなく、それを願っていた。だから今、それをやりとげなさい。あなたがたが心から願っているように、持っているところに応じて、それをやりとげなさい。もし心から願ってそうするなら、持たないところによらず、持っているところによって、神に受けいれられるのである。それは、ほかの人々に楽をさせて、あなたがたに苦労をさせようとするのではなく、持ち物を等しくするためである。すなわち、今の場合は、あなたがたの余裕があの人たちの欠乏を補い、後には、彼らの余裕があなたがたの欠乏を補い、こうして等しくなるようにするのである。それは『多く得た者も余ることがなく、少ししか得なかった者も足りないことはなかった』と書いてあるとおりである。」
   (Ⅱコリント8:1-15)

  「わたしたちはここで、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせよう。すなわち、彼らは、患難のために激しい試練をうけたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となったのである」。マケドニヤというのは、ほぼギリシアの北の部分です。今世界的飢饉があって、エルサレムにある教会は、ものすごく苦しんでいました。その苦しみは主として経済的な問題であります。飢饉もひどく、全世界を指導するエルサレムの教会も大変困っていました。そこで各地の諸教会が、援助の手を差し伸べ、パウロは全世界をめぐって伝道している関係上、各地の教会で募金を集め、それをエルサレムの親教会に届ける務めを引き受けていたのでしょう。

  マケドニヤの教会は決してそれほど豊かな教会ではありませんでした。しかし、マケドニヤの教会は、その極度の貧しさの中で、豊かな捧げ物を致しました。それがここにある言葉となって現れたのです。「彼らは、患難のために激しい試練をうけたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となった」。よく私たちは貧しいからできない。捧げられないと弁解をいたします。しかし、マケドニヤの教会は、極度の貧しさの中から、豊かな捧げ物をいたしました。案外、豊かな金持ちは捧げず、貧しい人が多くの捧げ物をすることがあります。それは富の問題ではなく、信仰の問題であります。信仰の大きい人は大きい捧げ物をします。信仰の小さい人は少しか捧げません。問題は富の大きさではありません。信仰の大きさであります。この貧しい者がかえって大きい捧げ物をする逆理は、イエス・キリストの真理です。聖書は申します、「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである」。エレベーターを見ると、大きな板が下がると、エレベーターの車体はあがります。イエス・キリストがこの世に来られて、低く貧しくなられ、それこそ最低の刑、十字架のつかれた、その時、私たちの救いは成就したのです。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである」、その通りではないでしょうか。主イエスが貧しくなられ、弱くなられ、十字架につけられた、その時、私たちは上げられ救われ、命を得たのであります。これはイエス・キリストの中にひそむ不思議な逆理であります。これは逆説、パラドックスと申します。

賛美歌に「生くるうれし、死ぬるもよし、我が主の死こそは命なれば」とあります。イエスの死の中に、わたしの救いがあるのです。イエスにおいてわたしの生と死は交換されるのです。この逆説、死の復活の真理、それこそが、私たちの苦境を救う力なのです。この真理はただ頭で考えたのでは分かりません。具体的な生活の中で生きられる時、それは生きた真理となるのです。十字架の受難節に復活節が続く真理であります。内村鑑三は、愛するルツ子さんを天に送り墓の葬った帰り道、この死人の復活の真理を悟ったのです。「生くるうれし、死ぬるもよし、我が主の死こそは命なれば」。
   


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