つしまシャロームチャペル
〒700-0086 岡山市北区津島西坂2-5-31(п@086-255-2096) 
 






















*当教会は2013年4月にオープンしたキリスト教プロテスタントの教会です 

*心の安らぎ、平安の満たし、温かいハートフルな教会へ、あなたもお出でくださいませ〜 
*シャローム・今日のみことば* 3月27日(月)

「それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。」Uコリント1:5 Just as we have a share in Christ's many sufferings, so also through Christ we share in Cod's great help. ( 2 Corinthians 1:5 )  


【試練の中で】コリントの教会はパウロが2回目の伝道旅行の際に設立された教会でありましたが、町は不道徳な中にあり、にせ教師の存在や偶像礼拝など、キリスト者として生き抜くための確固たる土台が築かれにくいところに置かれていました。パウロはこの手紙の冒頭で、私たちの主イエス・キリストの父なる神様は慈愛の父であり、慰めの神であるから、その神様がほめたたえられますようにと記し、信徒を励ましています。   

パウロは、以前からたびたび死の危険を救い出された経験が、死者をよみがえらせてくださる神への信頼になり得たと教え、どのような患難の中にある時にも、神に救いの望みを抱くことの大切さを教えています。神が与えてくださる信仰者への慰めは、「苦難に耐え抜く力」を与えるものであります。それは苦難がすぐに取り去られるというのではなく、苦難を耐えるための力が与えられるということであり、それがその人をキリストにあって強くするということです。   

たとえば、大きな重石を持たされて炎天下の中、我が子が立たされてしまったとしましょう。その子は「お父さん、早くやって来てこの重石をいっしょに持ってくれるか、取り去ってください。」と言うかもしれません。愚かな父親はそのように八方手を尽くして自分が手を添えてやろうとするでしょう。しかし賢い父親は、来る日も来る日もこの子のところへやって来て、その子が生き抜くためのいのちを注いでやるのです。その子のかたわらで、父が持っていることばによって、父は子に勇気と力と希望を語ってやるのです。その子は立たされている間、父の口から出る一つ一つのいのちによって心が強められていくのです。賢い親はその子を楽にさせるよりも、その子を慰めて、いのちを与え、強めることに専念するのです。   

神ご自身から注がれた神のいのちにより、その子は重石を感謝に変えるでしょう。そして父に受けた慰めが、やがて苦しみの中にいる人を慰めるほどの力になって宿るのです。試練を通して神の慰めを経験した者こそが、心から神をほめたたえ、人を励ます者になれるのです。まことに神は慰めの神であります。キリストの慰めは、死んでいた者を死からよみがえらせるいのちです。固くこわばり、腐りきったような種でさえ、復活のいのちは芽吹いてくるのです。   

神様は私たちが神を忘れて高慢になることを遠ざけます。人は安楽な道ほど自分の足だけで歩めます。一歩も前に進めないほどの苦しみや、先の重荷に耐えかねる日々の中でこそ、人はイエス様を尋ね求めることでしょう。いったいどこに姿を隠されたのかと叫ぶでしょう。その時にこそ、私たちは心から主の御声を聞くのです。「わたしはあなたの中にずっといるのだよ。」と。主は生きておられます。御霊によって私たちの中に生きてくださっています。試練を通して、私たちは臨在の神に出会うのです。   

今日も皆さんの上に豊かな神の祝福のありますように心よりお祈りしています。
《教会案内》
礼拝   
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日曜日
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♪賛美タイム
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聖書教室
毎週
木曜日
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お祈り会
毎週
木曜日
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教会学校「ぽぽ」
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 毎週
土曜日午後2時〜

カウンセリング
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     昨日のみことば>
「パウロは議会を見つめて、こう言った。『兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。』」使徒23:1 Paul looked straight at the Council and said, "My fellow Lsraelites! My conscience is perfectly clear about the way in which I have lived before God to this very day." ( Acts 23:1 )  


【神の守り】神様はパウロを通して福音の宣教を続けられました。パウロは自分がそのことのために召されていることをよくっていましたから、彼はいつも自分の命を守ることよりも、どうすれば福音の拡大につながるかを念頭に、置かれた場を切り抜けることに心を尽くしました。   

今回もパウロはアジヤからやって来たユダヤ人たちにより起こされた暴動により、ローマ兵に捕えられ、兵営に連れて行かれる際にさえ、復活のキリストを証ししました。その上で、神の御心により福音がユダヤ人から異邦人へとうつったことを語ったゆえに、ますますユダヤ人の嫉妬や怒りがおさまらなくなり、彼は遂に命を失う危険に立たされます。千人隊長がパウロをむち打って取り調べに当たろうとするからです。   

当時のローマ兵のむち打ちは命を落としかねないものであったのです。それで彼は機転を利かせて、自分はローマ市民権を持つ身であることを明かします。当時、ローマ帝国の国籍を持っているということは、この国が後ろ盾となっているという保証であり、裁判抜きの投獄やむち打ち、鎖でつなぐことは禁じられており、それほど誰もが簡単に手だしできないようにされている市民権でした。千人隊長はまさしくその特権を多額のお金によって得ていましたから、パウロがそれを有していることに驚き、また彼を鎖につないだ軽率さに身を引きました。   

ここでもパウロが惜しんだのは自分の命ではなく、福音の前進が止まってしまうことでありました。彼はどうにかして生きながらえて、キリストを伝えたいと、「ローマ市民権」の切り札を使ったのです。翌日、議会が招集され、そこに立たされたパウロは言うのです。「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」と。大勢の祭司長を前にして、彼は自分が神の御前に潔白であると宣言します。彼が捕縛されねばならない理由はどこにもないと彼は主張するのです。確かに、それは神御自身が知っておられることです。   

私たちは人の目はごまかせますが、神の目に隠れることはできません。命がけで神の御心に従い続けていたパウロは、「全くきよい良心」を命をがけで守り通していたのです。私たちは神に自分を守ってくださいと祈ります。けれども、私たちが神のきよさを守ろうと決意して信仰を生きているでしょうか。   

パウロの声にいら立った大祭司アナニヤはパウロの口を打てと命じます。そのアナニヤにパウロは言うのです。「ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる。」と。そうですアナニヤは神の御前に正しいものではありませんでした。彼はこの大祭司の職さえも、世俗的な画策によって得ていたのです。彼自身が崩壊した内面を水しっくいで白く塗りごまかしたような不正な人間であったのです。   

今日はこの二人の神に対する姿の違いを通し、神の御前にどう生きることが大切であるかをお語りしたいと願っています。人に語りながら、自分がそれから漏れることのないように、隠れたところの隅々までを照らしておられる主の御光を畏れかしこみつつ語らせていただきたいと願います。終わりの時代、ますます神は私たちを神の目にきよい者として生きるかと問うておられます。キリスト・イエスにつく者は、御霊に導かれて歩むのです。神の守りに応えるべく、私たちも御霊に従って歩むのです。    今日も共に主を仰ぎ、霊と真をもって主を礼拝いたしましょう。心よりお待ちしています。