つしまシャロームチャペル
〒700-0086 岡山市北区津島西坂2-5-31(п@086-255-2096) 
 






















*当教会は2013年4月にオープンしたキリスト教プロテスタントの教会です 

*心の安らぎ、平安の満たし、温かいハートフルな教会へ、あなたもお出でくださいませ〜 
*シャローム・今日のみことば* 2 月23日(木)

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」ヨハネ4:14 But those who drink the water that I will give them will never be thirsty again. The water that I will give them will become in them a spring which will provide them with life-giving water and give them eternal life. (John 4:14) 


【生けるいのちの水】イエス様はユダヤからガリラヤに行かれるのに、あえて異邦人の町サマリヤを通過するよう道を選びました。御自身が来られたのは、異邦人にも神の国をもたらすためでありました。旅の疲れからイエス様は井戸のかたわらに腰をおろされ、弟子たちは町へ食物を買いに出かけていたそのとき、女が水を汲みにやって来ました。  

わざわざ人のいない時間を選んでやって来た女にイエス様は「水を飲ませてください。」と声をかけ、女は「ユダヤ人のあなたがどうしてサマリヤ人の女に水を求めるのですか。」と尋ねます。当時サマリヤ人はユダヤ人からは異邦人としてさげすまれ、神殿を異にする民として極端に対立の立場に置かれていたからです。それで女はなぜユダヤ人口調をするこの人が、忌み嫌う異邦人に声をかけるのか理解できなかったのです。   

イエス様は女の質問には答えず、ご自分は生けるいのちの水を与える者であると語ります。すると今度は、女の問いは生ける水をどこの井戸から手に入れるのかにかわります。イエス様は、「いのちの水」は井戸から汲むものではなく、それはイエス様から与えられるもので、決して渇くことがなく、いただいた者のうちで泉のように湧き上がるものとなるのだと教えます。   

女はそのいのちの水を欲しいと願います。なぜなら女はこれまで何人もの夫をもち、今は夫でない者と暮らすような身持ちであり、自分が人の口に上るのを知っており、それを避けて生きる暮らしに疲れ果てていたからです。影のような女の心は、イエス様との会話によって光がさし、神のいのちに目が開かれ、いのちへの求めが起こされます。   

イエス様が与える水とは、神のいのちです。飢え渇いた魂を癒し、潤し満たす神の霊です。イエス様は渇いている者にいのちを与えるために来られたお方です。真に神を礼拝する者とは、この神のいのちをいただいて、神を礼拝する者のことです。神はこのような人々を求めているのです。それは信じる者が、そのからだを神の宮として神のいのちを豊かに住まわせ、その御霊によって神を礼拝するということです。   

イエス様を信ずる者は神との隔ての壁がイエス様にあって取り除かれ、イエス様の御霊を与えられ、自身が神の神殿として生かされます。それはイエス様の中にあって神を天の父と呼べる信仰者の姿です。この福音こそが全人類への恵みです。新しい神のいのちによって神を礼拝することを、聖霊の時代と呼ぶのです。   

生けるいのちの水が自分のうちから湧き上がるというみことばを自分のものとすることが、新生の体験です。古い自分は死に、新しいキリストのいのちを豊かに体験することです。どこに行かなくてもよいように、神はそのいのちをわたしたちの内に、イエス様の御霊によって豊かに住まわせてくださっているのです。そのことを感謝し、ますますそのことを体験するクリスチャンでありたいと願います。   

神のいのちに目が開かれ、ますます聖霊の感動を受ける者でありましょう。恵みが皆さんとともにありますように、心よりお祈りしています。
《教会案内》
礼拝   
毎週
日曜日
午前10時半
 
♪賛美タイム
10時〜

聖書教室
毎週
木曜日
午後2時〜
お祈り会
毎週
木曜日
午後4時〜

教会学校「ぽぽ」
幼児・
小学生
 毎週
土曜日午後2時〜

カウンセリング
相談の上、随時受付


     昨日のみことば>

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」Tコリント6:20 He bought you for a price. So use your bodies for God's glory. (1 Corinthians 6:20)  


【目を覚ました者】パウロは第三回目の伝道旅行でエペソの教会にいた頃、コリントの信徒へ向けて、教会の問題の解決や、堕落した社会の中でのクリスチャンの生き方について書き送りました。これは現代を生きる私たちクリスチャンへの大切な教えでもあります。   

パウロは、信徒たちが互いに裁き合わないように命じながらも、教会の中での罪をそのままにしておかないように教えるため、一人一人が神の神殿であり、神の御霊が各々の内に宿っていることに目を向けさせて、キリスト者の不品行を指摘したのです。   

兄弟の中から取り除きなさいと言われた具体的な内容は、「不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者」とあります。これが世の人ではなく、教会内にいる人のことを指していることに意味があるのです。これらの者は神の国を相続することはできない者だと教えているのです。   

一つ一つ丁寧に吟味したら、これに全く無関与だという人はいないのではないでしょうか。それで信仰者はこれを自分に突き詰めてみることをどこかで避けてしまいがちになるのです。けれどもクリスチャンのからだは不品行のためにあるのではなく、主のためにあるのですから、ここは避けて通れない箇所であります。    

私たちは霊においてキリストと交わり、主と一つの霊となっていますから、不品行を避けて自分のからだに対して罪を犯してはならないのです。私たちのからだは私たちの内に住まれる神の聖霊の宮であることを意識し、キリストにある者は、自分が自分自身のものではないことを覚える必要があるのです。私たちが霊において深くキリストを求めるのは、霊においても肉においても自分の一切がキリストのものとされたいと願うからであります。    

イエス様は十字架上で御自身の命と引き換えに、私たちが霊において生きる道を買い取ってくださいました。私たちの滅ぶべき霊魂を、神の御霊によって生かす道を開いてくださったのです。その尊い贖いの御業に目をとめ、信じる者に与えられた聖霊の恵みを忘れない者でありたいと願います。からだは主のためにあり、主もまた私たちのからだのために御霊によって私たちに働いて下さりながら、私たちを滅びの業から勝ち取って下さっているのです。   

私たちは十字架の贖いだけにとどまる信徒ではありません。復活のいのちをいただいて力強く主を証しする信徒であります。互いに裁き合うのをやめて主を見るのです。またクリスチャンが主でないものを崇めたり、人のものをむさぼったり、暴力で奪い合ったり、泥酔したりする時代は既に終わったのです。私たちは主イエス・キリストの御名と、キリストの御霊によって洗われ、聖なる者とされ、義と認められた者であります。益にならないようなむなしいこの世に支配されないで、きよい器として歩む者であります。    

神の時は近いのです。私たちクリスチャンがきよい神の器として各々の罪を悔い改め、神の御前に心を注ぎ出して祈るなら、教会は復興を迎えると私は信じています。そのカギを持っているのは私たち目覚めたクリスチャンにあるのです。互いに挑み合って主の日を遅らせるのではなく、イエス・キリストの一致をもって主に祈り求めるのです。主の日は今日、ここに来ているのです。新しいことは既に始まっているのです。   

今日も主の臨在がお一人一人に豊かにありますことを信じ、希望をもって皆さんをお祈りしています。