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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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2014年7月27日 
「神の平和」加藤豊子牧師
フィリピの信徒への手紙4章2−9節



 教会とは、何も問題、もめごとの起こらない、平和な理想的な場所なのでしょうか。そうありたい、そうあってほしいと私たちは願います。しかし実際には、それぞれの教会が様々な問題を抱えていることを知っています。教会の中で、私たち人間の罪深さや愚かさ、弱さというものを、改めて示されることも多いのではないでしょうか。



 「エボディア」と「シンティケ」という二人の女性の名前が登場します。フィリピの教会に於いては、この二人をめぐって問題が生じていたようです。詳しい事情はわかりませんが、このことは単なる個人的な事柄ではなく、教会全体に影響を及ぼすような状況になっていたと思われます。



 パウロは二人に「主において同じ思いを抱きなさい。」と勧めます。4章1節以下に「主において」(エン キュリオー)という言葉が数回使われています。「しっかり立ちなさい」、「同じ思いを抱きなさい」、「常に喜びなさい」、という言葉の前に「主において」という言葉がおかれています。これらのパウロの勧めの言葉は、「主において」という言葉が前につくからこそ、意味のある、力を持つ言葉になるのではないでしょうか。



 パウロはこの二人の女性は、福音のために共に戦った同労者であると語ります。フィリピの教会は、川岸に集まって祈っていた女性たちにパウロが福音を伝えたところから始まっています。その最初の頃から教会を支えてきたこの二人の女性に、その頃の思いを、救われてその喜びに溢れて、共に心を合わせて伝道に励んだ時のことを、思い起こしてほしいとパウロは切に願っています。そして、二人が教会の中で、共に主を見上げることによってこの問題を乗り越えてほしいと願ったのではないでしょうか。

 教会は、私たちが共に、同じ方を見上げて礼拝をささげる場です。様々な立場や考え方の違いを越えて、一緒に礼拝することを大切にしたいと願います。
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 2014年7月13日 
「目標を目指して」加藤豊子牧師
フィリピの信徒への手紙3章12−21節



 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。」(12節)

 この言葉は、当時パウロの周りには「それを得た、完全な者になった。」と主張する人々がいたことを示しています。彼らは、良い行いを積み重ねることによって自分の信仰は完全という域にまで達したと考え、自分の業を誇っている人々でありました。

 パウロは、自分は完全な者などにはなっていない、捕えようとして追い求めているのであり、その途上にあるに過ぎないと言います。自分の努力で完全な者などにはなれない、ということを謙虚に認めていることが、実は神の前に相応しい姿であることが示されています。



 さらにパウロは、私たちの信仰の歩みを、賞を得るように走るという競技に譬えています。この競技は、誰よりも早く走ること、上位入賞することが求められているわけではありません。大切なことは、自分のコースを最後まで走りぬくことです。そして、走りぬいた者すべてに与えられる賞は、この世の富や名声、権力といったものではなく、キリストの豊かな復活の命に与ることです。後ろのもの、すなわち過去の人間的な力や栄光、かつて誇りとしていたものを全て忘れ、ただひたすらに、前にあるもの、神が示してくださるものから目を離すことなく、走り続けることが求められています。



 この競技は、捕えられているからこそ、安心して走ることができるレースでもあります。「キリスト・イエスに捕えられている」というパウロの言葉のように、私たちにはキリストの愛に捕えられているという大きな保証が与えられています。キリストの愛から私たちを引き離すことのできるものはありません。そのことを覚えながら、それぞれに与えられている道を、歩ませていただきたいと願います。
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 2014年7月6日 
「生命より大切なもの」加藤誠牧師
フィリピの信徒への手紙3章1−11節



 聖書の神は人からの応答を求める神です。言葉をもって人に語りかけ、それを聞く人の言葉と行動による応答を求める神です。それは何かしら神と人との関係が強制的なものであるという意味ではありません。人格的な関係を重んじる神であるからこそ応答を求めるのです。



 信仰の応答としての行動は、本来自発的なものであるべきですが、教会が人の集まりである以上、しばしば行動が規範となる傾向があります。パウロが「あの犬どもに注意しなさい」と言う「犬ども」とはフィリピの教会の中にいるユダヤ人(キリスト者)の事です。当時のユダヤ人には自分たちが特別に神に選ばれた民族であるという意識があったようです。恐らく律法を守ることに関連してでしょうが、彼らの考え方、行動はパウロの目から見て教会の本質、つまり救いの本質を歪めてしまうものでした。それゆえに「犬ども」という強烈な表現になって表れたのです。



 その後、パウロは自分の過去、経歴を短く披露します。生粋のユダヤ人であるのみならず、当時のエリートであった事。教会を迫害したことについては彼の消したくても消えない過去でした。復活した主イエスとの出会いは、パウロに180度の方向転換をもたらしました。それまで彼が頼りにしていたものを「塵あくた」と思うようになったのです。原文ではかなり汚い言葉が使われていますので、翻訳はまだ上品に訳しています。



 パウロは信仰の応答を否定しません。実際フィリピの教会からの彼に対する物心両面の援助に心から感謝しています。主にあって成長することが私たちには求められています。しかし、こと人の「救い」に関しては人の生まれや学歴、職歴は一切関係ありません。人の努力や修行で神から救い与えられるものでも一切ありません。人ができる唯一のことはイエスを主と信じることです。それに何かを付け足そうとするのが「あの犬ども」のしようとしていることであり、パウロが戦い、今日の教会もまた戦っていることがらなのです。
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