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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2015年1月25日 
「王は誰のために」加藤豊子牧師
サムエル記上15章1−15節



 イスラエルの最初の王としてサウルが選ばれた時、サムエルは王と民が、主を畏れ、主の命令に背かず、御声に聞き従うならばそれで良い、そして今後はそれることなく主に従い仕えるように、と勧告しました。どのような時にも主の御声に聞き従い、それることなく主に仕えるということがいかに難しいことであるか、このアマレクとの戦いはそのことを示しています。



 アマレクとの戦いに勝ったサウルと兵士は、羊と牛の最上のもの、その他なんでも上等なものは惜しんで滅ぼしつくさず、戦利品として持ち帰りました。主の命によるこの戦いに於いては、敵のものを自分の所有物にすることは一切許されていません。サウルの振る舞いは、神の言葉に背く行為でした。



 向かうところどこでも勝利を収めた、とあるように、サウル王は優秀な軍隊の指揮官でした。勇敢な男、戦士を見れば皆召し抱え、勝利を重ねてきました。自分と共に戦った兵士たちに報奨を取らせたい、手ぶらで帰るわけにはいかない、そう考えたのではないでしょうか。何よりもサウル自身が上等なものを惜しい、と思ったのです。サウルは一番大切に聞かなければならないお方の声を聞くことを軽んじたのです。



 その他にも、自分のために戦勝碑を建てたり、また罪を指摘されても自分の非を認めず兵士のせいにしたり、さらには主への供え物にしようと最上の物を取っておいたのだ、と言い訳を繰り返す姿が記されています。自分の過ちを認めることができず誰かのせいにしたり、言い訳をしたり、それは私たち自身の姿でもあります。



 「主の喜ばれるのは 焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。」(22節)

 私たちの目の前には、自分を無にして、へりくだって十字架の死に至るまで従順に歩まれたイエス・キリストがおられます。その方から目をそらさずに、歩ませていただきたいと願います。
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 2015年1月11日 
「別れの言葉」加藤豊子牧師
サムエル記上12章18−25節



 イスラエルに最初の王サウルが立てられ、長年指導者として仕えてきたサムエルが、その働きの第一線から退く時が来ました。12章はその別れの言葉として語られたものです。

 「主があなたたちとその先祖に行われた救いの御業のすべてを、主の御前で説き聞かせよう。」(7節)

 サムエルは出エジプトの出来事に始まる神の救いの御業を語ります。エジプトにおける奴隷の生活から救い出されたにも関わらず、イスラエルの民は偶像礼拝を繰り返し神に従うことができませんでした。そのような背信の民でしたが、助けを求める声に答えて神はギデオン、エフタ等、士師記に登場する人々を遣わし、常に周囲の敵から民を救い出してくださいました。しかし、ペリシテやアンモン人等、諸外国からの脅威が大きくなることによって民は、私たちにはどうしても王が必要なのです、と他の国と同じように先頭に立って戦う王を求めました。



 サムエルは、季節外れの雷と雨を下すことを主に求め、民はそれを見て主とサムエルを非常に恐れたとあります。王を求めるということが、イスラエルの民にとっていかに罪深いことであるかを悟らせようとしたのです。王を求める心、そこには神を求めなくなり、神に頼ることを忘れてしまう危険性が潜んでいます。神に愛され宝の民とされているイスラエルの民が、そのような過ちを犯すことのないようにとサムエルは強く願っています。



 「わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。」(23節)

 指導者として現役の時も、役割を終えて退いた後も、民のために祈るということがサムエルに与えられていた大切な使命でした。私たちはいとも簡単に祈らなくなってしまう、祈ることをあきらめてしまうのではないでしょうか。神に求める者になるように、私たちも招かれていることを覚えます。
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