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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2015年3月29日 
「ダビデの気働き」加藤誠牧師
サムエル記下2章1−7節



 ここにはダビデが神の言葉に従いヘブロンに上り、そこで油を注がれてユダの家の王になったことと、サウルを葬ったヤベシュの人たちに対するダビデの温かい言葉が記されている。

 ダビデはこの時までペリシテ側の人間である。ガトの王アキシュに仕え、言わば彼の臣下としてツィクラグを治めていた。ヘブロンに上るとは公然とペリシテに反旗を翻し、しかもユダの王として宣戦布告するという事であった。恐らくガトの王アキシュは歯噛みして悔しがったであろう。しかしダビデは自己の計画に基づいてペリシテを裏切りヘブロンで王になったのではない。1節に「主に託宣を求めて」とあるように神の言葉に従ったのである。



 ギレアドへはサウルのイシュ・ボシェテが王として住んだマハナイムの方が距離としてはヘブロンより圧倒的に近い。しかしながら聖書にはイシュ・ボシェテが何かギレアドのヤベシュの人々に行ったという記述はない。ヤベシュの人たちには言葉だけではなく「働きに報いたい」という言葉から連想するように、褒賞というかたちで贈り物がされたに相違ない。そのうえで「あなたがたの主君サウルは亡くなられましたが、ユダの家はこのわたしに油を注いで自分たちの王にしました。」(7節)の言葉を聞いたのである。ギレアドのヤベシュの人たちにすれば、イシュ・ボシェテとダビデのどちらを王として慕うかは明白であろう。



 ダビデには長い苦難を経てではあるが幸運が舞い込んだ。幸運を幸運で終わらせず、将来に向かって手抜かりなく備えるダビデの姿がここにはある。しかしダビデは人の不幸(サウルの死)を蜜の味として味わうような人格の持ち主ではなかった。サウルは、特にその晩年はダビデにとっては敵であった。しかしダビデはサウルの死を心から悼む。自分すら信じられないような四面楚歌の状況を経験したダビデだからこそ、サウルとヨナタンの死を心から悼んだのである。
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 2015年3月22日 
「悼む心」加藤豊子牧師
サムエル記下1章1−16節



 ツィクラグの町に戻ったダビデの元に、サウル王とヨナタンの死の知らせが届きます。ダビデが、家族を連れ去ったアマレク人と戦っていたその時、サウル王はペリシテ軍との戦いにあり、ついにギルボア山でその命を落としたのでした。



 知らせをもたらした若者は寄留のアマレク人でした。イスラエルに住む外国人として戦いに参加していたと思われます。寄留の外国人ということで、今まで肩身の狭い思いをしてきたのかもしれません。この若者はサウル王の時代は終わり、これからはダビデの時代だ、と時代の流れの変化に素早く反応し、ダビデに取り立ててもらうチャンスとサウル王の死を知らせに来たのではないかと思われます。



 サムエル記上の最後、31章によれば、深手を負ったサウルは従卒に自分を刺し殺すようにと命じますが、従卒は非常に恐れサウルを殺すことはできませんでした。そこでサウル自らが剣の上に倒れ伏して死んだと、その壮絶な最期を書き記しています。しかしこの若者は、サウル王にとどめを刺してくれと頼まれたので、自分がとどめを刺しましたと、手柄話のような偽りの報告をしたのです。この若者は、ダビデがサウル王の死の知らせを喜び、死に至らせた自分を取り立ててくれるに違いない、と勘違いをしていたのです。ダビデは、主が油を注がれた方に手をかけるとは何事か、と怒りこの男を討てと命じました。



 サウル王、ヨナタンの死の知らせを聞いて、ダビデは心から二人の死を悼み、深い悲しみを覚えつつ哀悼の歌を詠んでいます。神を畏れる心、神の時、神の方法に委ねる心を持つダビデだからこそ、心から二人の死を悼むことができたのではないかと思わされます。

 浅はかな知恵をめぐらす人間の愚かさと主に選ばれた王の死を純粋に悼む心。醜いものと美しいもの、その両方が描かれています。ダビデも知略に長けた人物であったと言われます。しかしやがて王となるダビデを守り、支えているものは、神を畏れる心だったのではないでしょうか。
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 2015年3月15日 
「主によって立つ」加藤誠牧師
サムエル記上30章1−15節



 何度身の潔白を証明しようが嫉妬に狂ったサウルの追跡が止むことはないと悟ったダビデは、二人の妻と600人の部下を連れて再びガトの王アキシュを頼る。(27章1−)単身での逃亡の時とは違いダビデはアキシュの配下として(ペリシテの一員として)ツィクラグを治めることになる。ダビデはアマレクといった周囲の地元住民を襲うが、アキシュには虚偽の報告をし彼を欺く。



 サウルとペリシテの最終決戦が行われようとしていた。(29章1−)ダビデも当然ペリシテ軍の一員として駆り出されるが、他の武将たち(ペリシテは5都市連合国)からスパイではないかと疑われツィクラグに帰る。ところがそこで待ち受けていたことは、ダビデの最大の危機とも言える出来事であった。アマレク人の仕返しである。



 町は焼き尽くされ、財産は奪われ、残した家族は連れ去られた。ダビデと部下たちは泣く力がなくなるまで泣いたと聖書は言う。続いて起こるのはダビデに対する怨嗟の声である。「兵士は皆・・・・・ダビデを石で打ち殺そうと言い出した」(30章6節)「石で打ち殺される」ということは、ダビデは神に呪われていると兵士が皆考えたのです。ダビデ自身も苦しみます。苦楽を共にしてきた部下たちに殺されそうなのに加えて、彼の家族の心配も加わります。自分は神から見放されたのかもしれないと思えるような状況で、しかしダビデは「その神、主によって力を奮い起し」ます。



 彼は祭司を通じて神の言葉を聞こうとします。略奪隊を追跡すべきかどうかをです。神の答えは「追跡せよ」でした。ダビデは自分を殺そうとする部下たちを説得します。気力も体力も限界の中、ダビデは神の言葉をもって自分と部下に力を奮い起させ家族を取り戻します。



 私たちは人を信じても裏切られることを経験します。自分で自分が信じられなくなるような状況に追い込まれることもあるでしょう。しかし私たちには自分の心以上に信じられるものがあります。神の言葉です。人生を賭けるだけの価値あるものであることを、このダビデの出来事は私たちに教えます。
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 2015年3月8日 
「悪意を向けられたとき」加藤豊子牧師
サムエル記上24章1−8節



 ダビデが執拗なサウルの追手を逃れて隠れたユダという地域は、死海の西側で山地が多く、洞穴が各所にあるような土地でした。600人もの集団を引き連れてあちこちをさ迷う逃亡生活が続いたことが記されています。

 ダビデがエン・ゲディの要害に隠れていた時、その洞穴にサウルが用を足すために入ってきました。サウルの命を確実に奪うことができる、千載一遇のチャンスでした。ダビデの兵も、主が敵をあなたの手に渡してくださったのです、とサウルの殺害を促します。殺そうと思えば殺すことができたわけですが、ダビデはそうしませんでした。その代わりにサウルの上着の端を切り取り、主が油を注がれた方に手をかけてはならない、と自分の兵たちを説得し、サウルを襲うことを許しませんでした。



 それを知らされたサウルは声を上げて泣き、ダビデに対し「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。」と告白します。ダビデの誠意がようやく通じたような、サウルが神の前に正しい心を取り戻したような、感動的な場面です。しかし、この後も変わらずにサウルはダビデの命を狙い続けるのです。



 それでもダビデは、どんなに悪意を向けられても善意をもって対し続けています。そこには、神様の時、神様のなさり方、方法があることを信じ委ねているダビデの姿を見ることができます。事あるごとに主の託宣を求め、神の言葉を聞こうとするダビデの信仰の姿勢が、自分でことを進めようとする誘惑からダビデを守ったのではないかと思われます。直ぐ手の届くところにサウルを見たとき、ダビデの心は揺らいだはずです。きわどい、難しい選択の場面でダビデは神に従うことができました。



 ダビデは非常に賢い策略家、知恵に富んだ人物と言われています。その賢さや知恵が、信仰を土台としたものでなかったら、それは周りをも巻き込んで滅びへと向かってしまうおそれあります。ダビデが主に油を注がれた王となるために、この荒野での経験は貴重な準備、学びの時であったことを思わされます。
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 2015年3月1日 
「人の弱さと神の憐み」加藤誠牧師
サムエル記上21章1−10節



 ダビデの生涯で恐らく最も苦しい時期を迎える。言わば着の身着のままの状態でサウルのもとを脱出したダビデは、ノブの祭司アヒメレクを訪問する。21章から見ると彼の目的は食料と武器である。ガトの王アキシュのもとに逃げ込もうとしたことが11節以降記されているが、地図を見ると、ノブからダビデの故郷ベツレヘムまでは約10キロ、ガトまでは40キロ以上あるため、やはり食料は必要であったのであろう。



 食料だけでなくダビデは祭司に武器を求める。ゴリアトの剣のことを聞いたダビデの反応は「それにまさるものはない。それをください。」である。実に素直な表現であるが本当にダビデがゴリアトの剣を「それにまさるものはない」とまで信頼したとすれば、彼自身の信仰的判断力は鈍っていたと思わざるを得ない。

 ガトの王に自分を高く売り込むつもりであったのかは定かではないが、ダビデの思惑は大きく外れる。アキシュの家臣の言葉に恐れを覚えたダビデは、とっさに王の前で狂人を装い逃走する。「それにまさるものはない。」とまで言ったゴリアトの剣など、恐らく全く役には立たなかった。



 22章ではダビデに助力した祭司アヒメレクがサウルにより殺害される悲劇が起こる。この時私たちはアヒメレクがダビデのために主に託宣を求めたことを知らされる。託宣の内容は記されていないが、何故21章では一言も主の託宣について触れられていないのであろうか?想像であるがダビデの関心事は主の託宣より飢えを満たすパンであり、他に比類なきゴリアトの剣であったのではないだろうか?



 ダビデにしてみれば絶体絶命の危機であった。その時に彼は神の言葉を第一にしなかった。同じ経験を私たちもしたことがないだろうか?人の信仰には限界がある、と言えば言いすぎであろうか?弱さを露呈するダビデであるが、そのダビデに限りない憐れみをもって導かれるのが神である。22章からのダビデは預言者の言葉に励まされ、政治的に非常に難しい難局を乗り切っていくのである。
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