←ホームへ

シロアム教会 礼拝説教要旨集
2015年5月 3日 10日 17日 24日 31日 目次に戻る
 2015年5月31日 
「悲嘆の王」加藤誠
サムエル記下19章1−9節



 ダビデ家3男アブサロムの反乱の最後の部分である。長男アムノンに復讐を果たしたアブサロムは父ダビデの王位を狙う。天才的軍師の策は当り、ダビデは都落ちする。しかしアブサロムの計算通りには事が運ばないことを聖書は告げる。



 アブサロムの乱が失敗した原因は第一に父の信仰を知らなかったことにある。ダビデがエルサレムから逃げ出すときに従った人物にガト人イタイがいた。(サム下15:17−)彼は言わば傭兵部隊の長である。故にダビデはイタイに「なぜあなたまでが・・・」と言って驚きを隠さない。イタイの答えは「主は生きておられ、わが主君、王も生きておられる」である。金の問題ではなく神(信仰)の問題だと返事をしたのである。



 第二は神を知らなかったことにある。ダビデによってスパイとして送り込まれたフシャイにより、軍師アヒトフェルの計画は退けられる。聖書はそこで「アヒトフェルの優れた提案」が捨てられた背景は、そのように主が定められた(17:14)ことを伝える。



 王のアブサロム助命の願いを知りつつ、ヨアブはアブサロムを殺す。その報いはソロモン王によってもたらされる。長男と三男を失ったダビデであるが、王として悲嘆にくれる姿を民に見せることヨアブに咎められる。聖書はこの経験がダビデに一つの変化を与えたであろう事例を示す。エルサレム帰還する途中、かつて都落ちの時に石を投げ、神の名によってダビデを呪ったシムイが再び登場する。彼は謝罪し恭順の意を示すがダビデの部下は死刑を求める。ダビデは「今日わたしがイスラエルの王であることをわたし自身が知らないと思うのか」と言ってシムイを赦す。



 罪人の死をダビデは望まなかった。我が子アブサロムには手が届かなかったが、自分の手の届くシムイは生かそう、それが王としての自分のあり方なのだという思いがダビデの中にあったのではないだろうかと想像させられる一幕である。
目次に戻るページトップ
 2015年5月24日 
「力を受けて」加藤豊子牧師
使徒言行録1章3−11節



 聖霊降臨日(ペンテコステ)は教会の3大行事の一つと言われますが、クリスマス、イースターに比べると一般にも馴染みにくく、また理解されにくい行事のように思われます。しかしこの日は、復活後主イエスが約束してくださった聖霊が、祈り待ち望んでいた弟子たちの上に注がれた日であり、そのことによって教会が誕生し、また福音が地の果てまでに伝えられることになった記念すべき日です。



 聖書が語る「聖霊」「霊」という言葉は「風」「息」「命」という意味にも訳される言葉です。目には見えないけれども確かにそこにある神の存在、神の力を表す言葉です。

「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)

 人間は、神の霊を吹き入れられ、生きる者となったのです。自分勝手に生きる者ではなく、神と交わり神に祈ることができる、神の前に生きる者とされました。同じように聖霊降臨の出来事も、祈り待ち望む弟子たち一人一人に神の命の息が吹きいれられ、新しく神の前に生きる者とされたと言えるのではないでしょうか。



 聖霊は私たちに御言葉の真理を示し、また祈りを導いてくださいます。

「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26)

 私たちの生活には、様々な苦しみ、悩み、不安が伴います。抱えている問題が余りに重く感じられる時、時に何をどう祈ったら良いのか分からなくなることもあります。聖霊は、そのような祈れない私たちのために言葉に表せないうめきをもって神の前に執り成してくださるお方であります。
目次に戻るページトップ
 2015年5月17日 
「ダビデの苦悩」加藤豊子牧師
サムエル記下13章28−39節



 ダビデには多くの妻、そして子どもたちがいたことが記されています。これだけ多くの母親が異なる子どもたちがいたら、家庭環境は相当複雑だったろうと思わされます。

 ここに出てくるアムノンとアブサロムは兄弟ですが母親が異なります。アブサロムにはタマルという美しい妹がいて、長男アムノンはこの腹違いの妹タマルに恋をしたというのです。病気になりそうなほど、タマルを恋い焦がれたアムノンは、病を装ってタマルを自宅に呼び、二人きりになったところで力づくで自分のものにしてしまうという、大変な事件を起こしました。更にひどいことに、この事件の後アムノンは態度を一変し、彼女に対して激しい憎しみを覚え家から追い出しました。



 アムノンのタマルへの思いは、とても愛とは呼べない、身勝手でしかないものです。長男であり、跡継ぎの第一候補として見られる立場にありましたが、全くふさわしくない人物であったと思われます。

 この事件を聞いてダビデは「激しく怒った。」(21節)とありますが、それ以上何もしなかったと思われます。罪を犯した息子に向き合って叱ることができなかったことが、アブサロムの怒りを増幅させ更なる悲劇を生むことになります。



 偉大な王として尊敬されているダビデが、自分の家庭を治めることができず、父親として我が子に向き合えない姿が見えてきます。立派な王様だったが父親としては失格だったのだと、決して批判ばかりできないように思います。親になることの難しさ、家庭内のどうにもならない問題…それは多くの人が経験するところではないでしょうか。苦しみ悩み傷つき、涙を流しながら、それでも信仰を持って神を仰ぎつつ歩み続けたダビデがいます。そのような歩みの中からダビデの詩と呼ばれる多くの詩編が生まれたことを思わされます。
目次に戻るページトップ
 2015年5月10日 
「主の訪れ」加藤誠牧師
ルカによる福音書19章1−9節



 新約聖書の登場人物の中ではザアカイはまだ個人情報が多い方の人物かも知れない。家族構成は分からないが徴税人の頭、金持ち、罪深い男などと紹介されている。ザアカイが何故主イエスに興味を持ったのかは語られない。ただ群衆に遮られても先回りし、いちじく桑に登ってまで見ようとしたことを考えると、かなりアクティブな印象を受ける。



 ザアカイに自分から主イエスに声をかけるつもりがあったのかは分からない。最初に声をかけたのは主イエスであった。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい。」(19章5節)群衆の立場からすれば「皆つぶやいた。」とあるように主イエスの行動は明らかに期待外れであった。しかしザアカイの立場で見ると「ゆっくり降りて来なさい」ではなく「急いで降りて来なさい」と言われて非常に嬉しかったのではないだろうか?「一分でも一秒でも長くあなたと一緒にいたい」という主イエスのアプローチに聞こえたのではないだろうか。



 今日(16日)は霊南坂教会で吉岡恵生牧師の宣教師派遣式があった。来週の水曜日にはカリフォルニア州にあるシカモア組合教会日語部牧師としての働きが始まる。シカモアとは地名ではない。ザアカイが登ったいちじく桑の木がシカモアの木である。ザアカイが主イエスと出会い、生まれ変わったように、アメリカのシカモア教会では毎週の礼拝で「あなたがどんな人であっても私たちは歓迎します」と声に出して主イエスの教会であることを証するのだそうです。



 10節には「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」という主イエスの言葉で締めくくられている。主イエスに会いたくて、いちじく桑に登ったザアカイであるが、実は捜していたのは主イエスであった。これは私たちにとっても慰めの言葉である。私たちが主イエスを捜して見つけられないと思う時があるかも知れない。しかし、私たちが捜す以上に主イエスご自身が私たちを捜し見つけ出してくださると信じよう。
目次に戻るページトップ
 2015年5月3日 
「預言者の務め」加藤誠牧師
サムエル記下12章1−15節



 預言者ナタンの2度目の登場である。ダビデのしでかした許されざる犯罪がどのようにしてナタンの知るところになったかを聖書は私たちに伝えない。それよりもはるかに重要なことを伝えねばならないからである。

 ナタンはダビデに1節からのたとえ話を語り、ダビデ王自身の口から「死罪」という言葉を引き出し、すかさず「(死罪になるべき)その男はあなただ」と断罪する。預言者はその名の通り、神の言葉を預かる者である。相手がたとえ横暴を極めるような王であっても預言者は神の言葉が与えられたならばそれを伝えねばならない。同じように教会も、である。



 神の厳しい裁きの言葉を聞きダビデは「私は主に罪を犯した。」と告白する。ナタンは「その主があなたの罪を取り除かれる。」と赦しの言葉をかけるが、続いて「主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」と語る。ナタンも人の子である。生まれてくる子に罪はない。けれどもその子がダビデの故に死なねばならないと宣告せざるを得ないとすれば、その精神状態は私の想像を超える。



 ダビデは生まれてくる子のために断食し、その命のために神に祈る。しかしその祈りに神は応えず7日目に子どもは死ぬ。するとダビデは家臣たちの心配とは反対に、身支度を整え「主の家に行って礼拝」する。更に聖書は「ダビデは妻バト・シェバを慰め」(24節)ソロモンが生まれる。興味深いのはソロモンにはもう一つの名前が付けられたと聖書は語る。エディドヤ(主に愛された者)である。しかも預言者ナタンを通してそのこと(神がソロモンを愛されている事)を示された、と記す。自分が招いたこととは言え、子を失う事は親にとって耐えがたい悲劇である。しかし預言者ナタンはダビデの罪は罪として指摘しつつ、神の変わらぬ愛を伝え励ましたのではないだろうか。バト・シェバとの最初の子が死なねばならなかった、という悲劇は解決しないまま残る。「ことを隠すのは神の誉れ」(箴言25:1)「天の高さと地の深さ」(25:3)に属することなのであろう。
目次に戻るページトップ