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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2015年6月28日 
「ヨハネの証し」加藤誠牧師
ヨハネによる福音書1章9−28節



 25日まで滞在したブラジルでは地域差はあるものの23,24日のお祭りに向けての準備が行われていた。カトリックの多いブラジルでは6月は3聖人を記念しての祭りが行われるが一番人気はなぜかバプテスマのヨハネである。23,24日がピークなのかはこれでお分かりであろう。



 教会では「証」を聞く機会がある。この場合の「証」とは神が自分に何をしてくださったのかを語ることを意味し、多くは経験談である。それに従うならば、神がヨハネにしたことは「荒れ野で叫ぶ声」に導いたことである。ここではその過程は語られず結果のみ語られるのであるが、それは同時に「あなたは、どなたですか」と質問する祭司やレビ人への返答でもある。



 「証」は必然的に「私」にとってキリストはどのような存在であるかを語る機会になる。その意味では「証」も説教もキリストを指し示すという同一の目的を持つ。「わたしはその履物のひもを解く資格もない」との言葉でヨハネはキリストを指し示したのである。



 今日のテキストではもう一つ重要なキリストを指し示すヨハネの証の言葉がある。それは「世の罪を取り除く神の子羊だ。」(29節)である。羊は当時のユダヤ人にとって身近な動物であり、また過ぎ越しの祭りでは人の罪の身代わりとなって、その命が犠牲となる動物である。「世の罪を取り除く神の子羊」とは正にイエスがキリストとして成し遂げようとされることの中心を明確に言い表した言葉であり、証である。



 「この方こそ神の子であると証したのである。」というヨハネの言葉で本日のテキストは終わる。「この方こそ神の子である。」という証の言葉は今日教会に与えられた証の言葉である。なぜなら「聖霊によって洗礼を授ける人」とヨハネから言われた主イエスを信じる洗礼(バプテスマ)を私たちは受けたからである。「この方こそ神の子である。」という「証」を力強くなしてゆく教会でありたく願います。
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 2015年6月21日 
「その名を信じる者」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書1章6−13節



 「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(12節)

 口語訳聖書では「神の子となる力が与えられる。」とありました。また英語の聖書では「権利」「権威」とも訳されています。神の子となる身分、特権が与えられる、と訳すことができる言葉です。

 私たちが神の子となる、即ち神を父と呼べるということは、考えてみれば大変なことであります。聖書の中でしばしば神は、人間が近づく事ができない、聖なるお方として描かれています。決して見ることも、触れることもできない、人が恐れを覚えるほどの存在である神、その神を父と呼び、祈ることができる者とされるのです。



 ルターは法律家になるべく大学で学んでいた時、激しい雷雨の中で死の恐怖を味わい、「修道士になります」と誓いを立てました。熱心に修養し修道士となりましたが彼の心には平安がなく、罪に苦しみ悩んでいました。しかし、「正しい人は信仰によって生きる」という聖句に出会い、人が救われるのはただ信仰により、恵みによるのだということに気付かされ、罪から解放された喜びを体験しました。



 神の子となるための条件、それはただイエス・キリストを受け入れること、その名を信じることだけであると約束されています。洗礼を受ける時も問われることは一つだけです。それはあなたの救い主として主イエスを信じ、受け入れますか、ということです。その他に求められる人間の努力、業はありません。



 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」(14節)

 一番短い、クリスマスメッセージと言えるかもしれません。「わたしたちの間に宿られた」とありますが、「宿る」とは天幕を張る、住むという意味があります。昔イスラエルの民はモーセに導かれて40年の荒野の旅を続けました。天幕を張りながら進む民と共に、神はそこに宿り導かれたのです。主イエス・キリストは、遠くからわたしたちを見ておられるのではなく、天から降ってこられ、わたしたちの生活の場に住んでくださり、またそれぞれの人生の旅路を導いてくださるお方であります。
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 2015年6月14日 
「命・光なる主」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書1章1−5節



 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1節)ヨハネによる福音書は他の福音書とは異なり、「初めに言があった。」という不思議な言葉で始まります。「言」とは一体何だろう…と私たちは不思議に思うわけですがその先を読んでいくと、この「言」は神の独り子、イエス・キリストのことを指しているのだということがわかります。



 「言」はギリシャ語でロゴス、哲学用語でもあります。ギリシャ・ローマの世界においてロゴスとは、この世界の原理、秩序を導くもの、神の知恵であると考えらていました。ヨハネによる福音書の著者は、ギリシャ・ローマの世界の人々に馴染みのある言葉を用いて、真のロゴスはイエス・キリストなのだと紹介しています。

 ロゴスと言う言葉を日本語に訳すのには、大変な苦労と歴史がありました。最初の日本語訳聖書、ギュツラフ訳「ヨハネ福音の伝」では、1節は「ハジマリニ、カシコイモノゴザル。」と訳されています。イエス・キリストが人格をもったお方であることを思うと「カシコイモノ」という訳はその意味を良く表しているようにも思われます。



  「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1:1)

 ヨハネの福音書1:1は創世記1:1と重ね合わせて読まれるべき言葉だと思います。「初めに」とは最初にという意味と共に、「根源的に」という意味を持っています。根源的に、この世界の一番基となるところに神がおられます。そしてその神は意志、思いをもったお方です。神の思いがあってすべてのものが造られたこと、神の言葉によって造られたことが語られています。そしてイエス・キリストはこの天地創造の初めの時から神と共におられた方なのです。



  私たちの世界に蔓延する闇の力を前にしては私たちは無力であり、その力に呑みこまれそうになるばかりです。しかし、闇の中に輝く光として、私たちに真の命を与えるお方として主イエス・キリストが来られたことを信じ、勇気と希望をもって歩んでいきたいと願います。
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