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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2015年7月26日 
「人、新たに生まれるべし」加藤誠牧師
ヨハネによる福音書3章1−21節



 ニコデモについては1節でファリサイ派に属しユダヤ人たちの議員であった、と紹介されている。国の指導者の一人で厳格に律法を守り、人々の尊敬を得ていた人物である。彼の恐らくは初対面であろう主イエスへの挨拶には、彼の人柄のようなものまでにじみ出ている気がする。ニコデモにとってみるならば主イエスのなさる「しるし」は神が共におられることを示す驚嘆すべき出来事であり、彼自身が求めていることであった。

 であればこそ主イエスは事柄の中心を語る。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と。「神の国を見る」とは死後に神の国に入ることだけを意味するのではない。新たに生まれたものこそが「神が共におられ」る事、神が主イエスを通して働いでおられることを見るのである。



 ギリシャ語の「新たに」という言葉には2つの意味がある。一つは「新しく、もう一度」であり、二つ目は「上から、神から」という意味である。ニコデモは前者の意味に捉えたため、主イエスから「水と霊によって生まれる」ことがこの場合の「新たに」生まれることである事を示される。しかも『「あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに驚いてはならない。」とまで主イエスから念押しされている。



 「新たに」生まれることは主イエスによれば「ねばならない」ことである。人はみな主イエスによって「新たに」生まれるべく招かれている。ではどのようにして?というのがニコデモの質問である。主イエスは民数記21章4節からの出来事を引用して答えられた。神の前に罪を犯し、苦しんで死ぬ以外にないイスラエルの民に、神はモーセを通して青銅の蛇を作らせ、それを仰いだものが生きるようにされた。それと同じように、神は神の前に罪を犯した人間が、その罪を背負うために十字架にかかられた主イエスを仰ぐことによって新しく生きるようにとされた。それは人間にとってどうでもよいことではなく「ねばならない」事であることを私たちは覚えたい。
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 2015年7月19日 
「真の神殿」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書2章13−22節



 過越祭で賑わっているエルサレム神殿の境内で、主イエスは牛や羊を売っている者たちや両替をしている者たちをご覧になりました。そして、縄で鞭を作って動物を追い出し、両替人の金をまき散らしたとその様子が記されています。激しく怒り、その怒りを行動で表している主イエスの姿です。柔和で穏やかなイメージの主イエスが、本当にこんなことをなさるのだろうか、と不思議に思うような場面です。



 「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(16節)またマルコ11:17には「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」とあります。

 境内の中で売られている物は非常に値段が高く、また両替にも高い手数料がかけられていました。売り上げは商人たちの儲けとなり、また一部は神殿にも納められていたと言います。また境内は、異邦人が礼拝を献げることが許されている大切な場所でもありました。そこで騒がしく商売をしていることに、主イエスは強い憤りを覚えられたのでした。



 こんなことをするからには、どんなしるしを見せるつもりか、と迫るユダヤ人たちに対し「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる。」(19節)と主イエスは答えられました。その当時のエルサレム神殿は、ヘロデ大王の手により数十年の年月を費やして改築された立派な建物でした。遥か遠くから光輝く大理石の神殿が見えたと言います。ユダヤの人々の誇りでもある神殿を、壊して三日で建て直すとは、どういうことなのか。弟子たちは、主イエスの復活の後にこの言葉を思い起こして主の言葉を信じた、とあります。主イエスの言われた神殿とは、御自身の体のことを意味していたわけです。



 神殿とはどのような場所でしょうか。それは神と人間が出会う場所と言うことができます。しかし、神と人を真に結び合わせることができるのは人の手によって作られた神殿ではなく、十字架に架かり三日目に復活された主イエス・キリスト御自身であることが、ここに示されています。わたしたちは真の神殿である主イエス・キリストを通して、神と結びつくことができるのです。
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 2015年7月12日 
「水がぶどう酒に」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書2章1−11節



 ガリラヤのカナで結婚式が行われました。その頃、時には一週間も祝いの宴が続けられたと言います。多くの親戚、友人、近隣の人々が招かれ、食事やお酒がふるまわれました。そのもてなしの準備をするのは、どんなに大変なことだったでしょう。普段は貧しく重労働に勤しむ日々を過ごしているからこそ、この結婚式だけは盛大に祝ったのだそうです。



 この宴には、主イエスと弟子たち、また主イエスの母も招かれていました。主イエスの母はこの祝いの席の裏方の手伝いをしていたようです。宴の途中、ぶどう酒がなくなるという事態が起こりました。思ったよりも人が多かったのか、理由はわかりませんが、祝いの席に欠かせないぶどう酒が足りなくなってしまったのです。これは結婚式を開いている家にとって、大変面目のたたない困った事態でありました。



 母は「ぶどう酒がなくなりました。」と主イエスに伝えました。母の訴えに対する主イエスの言葉は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」というものでした。余りに冷たい、突き放すような言葉のようにも思われますが、主イエスの言われた「わたしの時」とは主イエスが神の業を行われる時、すなわち十字架にかかられる時のことを意味していました。主イエスの母は、その言葉の意味を理解することはできなかったと思います。しかし、主イエスのこの拒絶するような言葉にひるむことなく、召使いたちに対し、主イエスの言い付け通りにするようにと頼みました。主イエスに言われた通り、水がめにいっぱい水を満たして持って行ったところ、その水は驚くほど上質なぶどう酒に変わっていました。



 私たちは様々なことを主に祈り願いながらも、些細なことで主に拒絶されたかのように感じてしまうことがないでしょうか。母は揺るがない心で、全面的に主イエスを信頼しています。主イエスの母の信頼する心と召使い達の従う姿があり、その先に水をぶどう酒に変えてくださったという豊かな溢れるような主イエスの恵みが示されています。私たちも、揺るがない心で主に信頼を寄せ続ける者でありたいと願います。
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 2015年7月5日 
「主に何を求めるか」加藤誠牧師
ヨハネによる福音書1章35−42節



 35節から51節にかけて主イエスが5人と出会いその5人を弟子とした経緯が短く記されている。最初の二人はバプテスマのヨハネの弟子であったが、ヨハネの主イエスに対する「見よ、神の子羊だ」との言葉を聞いて後に付いて行った。主イエスから「何を求めているのか?」と質問された彼らは泊まっている場所を聞く。一晩ゆっくり話したかったのであろうか。

 泊まって何を話したのかを聖書は伝えない。しかしそれが決定的とも言える出会いであったことは、最初二人は主イエスを「ラビ」と呼び、次にアンデレが自分の兄弟であるペトロに出会った時に「わたしたちはメシアに出会った。」と言っていることからも明らかである。



 4人目の出会いはフィリポである。ここでは主イエスの方から「わたしに従いなさい」と言われたことが記されている。ここで言われた「従いなさい」とは「信じて従いなさい」という意味である。それ以上の二人のやり取りを聖書は語らない。しかしフィリポがナタナエルに出会った時に主イエスを紹介した言葉で、ある程度フィリポがどのように主イエスを信じていたのかが分かる。「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方」と主イエスを紹介する。

 友人の言葉を信じないナタナエルに対し主イエスはナタナエルがフィリポと出会う前にいちじくの木の下にいたことを告げる。ナタナエルは主イエスを「神の子、イスラエルの王」と讃える。



 主イエスと5人の弟子との最初の出会いの様子である。印象に残る言葉は、ペトロのケースで主イエスが彼を「見つめて」いた事。そしてナタナエルのケースでも「いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた事である。出会いに先立ち、また出会いのさなか、主イエスは弟子たちを見つめておられる。理解しようと見つめて下さる。

 私たちと主イエスの出会いの中にもこの主の視線が先にあった事、そして今も主イエスが私たちを誰よりも理解しようと見ていてくださることを覚えたいと思います。
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