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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2015年8月30日 
「死から命へ」加藤誠牧師
ヨハネによる福音書5章19−30節



 今日の箇所は先週のお話の続きになっています。安息日に病人を癒したことは当時のユダヤ人たちの目には律法に違反した事と映りました。更に主イエスが神を父と呼んだことは十分にユダヤ人にとって主イエスの殺害動機となったのです。



 「はっきり言っておく」という主イエスの言葉が19節、24節、25節に3回も繰り返されています。ここをギリシャ語で読むと「アーメン、アーメン・レゴー・ヒューミン」となり、私たちがお祈りする時に最後に合わせる「アーメン」という言葉が繰り返されて使われています。これは主イエスが弟子たちに最も大切な事を伝える時に用いられた表現でした。



 内容を一言で言えば、人の裁きは全て父なる神から主イエスに任せられている、ということです。キリスト者は「主の復活」を信じています。しかし復活は、主イエスの言葉によれば全人類に訪れるものです。善を行ったものは命を受けるために。悪を行った者は裁きを受けるために。聖書は単純に主イエスを信じる者は天国に行き、信じない者は地獄に行く、とは言いません。裁きの事は主イエスに父なる神から委ねられているのです。私たちが神にでもなったつもりで人に地獄行を宣言できるはずがないのです。しかし教会には救いの言葉が託されているのも神にあって事実です。



 「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」と言われた主イエスの言葉を教会は伝えます。「永遠の命」について私たちは実はわずかな事しか知りません。誰も主イエスのように復活したことがないからです。ただ、はっきりしているのは「永遠の命」は人の死後に初めて与えられるものではない、ということです。主イエスを信じる者は「死から命へと」すでに移っています。

 この命に私たちは生かされていることを感謝し、伝える者でありたく願います。
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 2015年8月23日 
「主イエスの招き」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書5章1−18節



 エルサレムでユダヤ人の祭りが行われていた時、主イエスはその賑わいから少し離れたところにあるベトザタと呼ばれる池に行かれました。その池の周りには病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていました。彼らは、池の水が動く時真っ先に池に入るならばどんな病も治る、という言い伝えを信じ、その水が動く時を待っていたのでした。

 主イエスは、38年も病気で苦しみそこに横たわっている人をご覧になって「良くなりたいか」と言われました。38年もの長い年月、苦しみ続けてきた人に対し、何故今更「良くなりたいのか」と問うたのでしょうか。



 この人はこの38年間をどのように過ごしてきたのでしょう。一生懸命病を治そうと医者に通ったり、あらゆる努力をしたことでしょう。家族も心配して一緒に頑張った時期もあったでしょう。しかし、38年というのはあまりに長い年月です。今はただ一人、この池のほとりに身を横たえているのです。主イエスの問いかけに「はい、良くなりたいです」と素直に答えることはできませんでした。「わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」という彼の言葉からは、助けてくれる人は自分には誰もいないという深い孤独感とどうせ助からないというあきらめ、絶望感のようなものを感じます。良くなりたいからこの池に来ているはずなのに、もう本気で良くなりたいとは思っていない。諦めと絶望の中に捕らわれ、ただ我が身の不幸を嘆いているこの人の心を主イエスはご覧になっておられました。本気で願い求めるということを忘れてしまった人に、もう一度神に求める者となるようにと招いてくださったのです。



 さらに主は、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と言われ、その人は起き上がり、歩き出しました。その姿は、神に造られたもの、愛されている者として、新しく自分の足で歩き出した人の姿を示しているのではないでしょうか。主は、孤独と絶望の淵からわたしたちを立ち上がらせ、神を見上げ、その招きに応えて生きる者としてくださいます。
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 2015年8月16日 
「あなたは生きる」加藤誠牧師
ヨハネによる福音書4章43−54節



 地図を見るとカファルナウムからカナまでは直線で30キロほどである。王の役人は息子の病気を主イエスに癒してもらうため、カナまで出向き一緒にカファルナウムに同行してほしいと願ったのである。「死にかかっていた」と表現されるからには一刻の猶予もない状況であり、役人にとっては最後の頼みの綱が主イエスであった。



 役人に対し主イエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。冷たく響くようにも聞こえる言葉であるが、主イエスはここで役人に自分を信じるかどうかを問うておられ、チャレンジを与えるのである。役人は繰り返し子供が死なないうちにカファルナウムに行くよう頼み込むが、主イエスから返ってきたのは「帰りなさい、あなたの息子は生きる」という言葉のみであった。



 聖書は彼が主の言葉を信じて家に帰ったことを伝える。「息子は生きる」という言葉を信じたのである。そして信じたことにより彼は希望を持つ。それはひょっとすると疑いの混じった希望であったかも知れない。しかし主イエスの言葉はこの時の彼を生かす希望となった。途中、彼は僕たちに会い、息子の病気が「あなたの息子は生きる」と主イエス言われた時刻を境に良くなったことを知る。そして彼も家族も主を信じるようになったことをこの物語は伝える。



 「あなたの息子は生きる」とは主イエスの断固たる意志の籠った言葉である。「福音は人を生かす」と昔神学校の授業で教わったが、主イエスは人を生かすために来られた。「あなたの息子は生きる」と主イエスが約束された時、実は「生きた」のは息子だけではなかった。父親である役人も、そしてその家族も主イエスにあって「生きる」ことに招かれ、信じて歩み出したのである。

 聖書はこれを「しるし」と言う。単なる奇跡や事象を言うのではない。主イエスの人を生かすために行われた奇跡を聖書は「しるし」と呼ぶのである。
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 2015年8月9日 
「生きた水」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書4章1−15節



 主イエスはユダヤからガリラヤへ向かう途中、サマリア地方を通られました。旅の疲れを覚えヤコブの井戸のそばに座っておられると、そこに一人のサマリアの女が水を汲みにやってきました。時は正午頃のことです。その当時水汲みは、朝、夕に行う習慣でした。女性たちは賑やかに情報交換などして、文字通り井戸端会議のような様子が見られたことでしょう。このサマリアの女は敢えて誰もいない時間帯を選んで水汲みにやって来ました。誰にも会いたくない事情を抱えていることが想像されます。



 この女に主イエスは「水を飲ませてください」と声をかけます。ユダヤ人とサマリア人は敵対関係にありました。「交際しない」というのは器を共にしない、という意味でもあります。ですからユダヤ人である主イエスがサマリアの女の手を通して水を求めるということは考えられないようなことでした。また主イエスは水を飲ませてくださいと頼むことによって、自分をこの女よりも低いところに置かれました。その姿勢が、人との交わりを避け、固く閉ざしていた彼女の心を開かせたのではないかと思わされます。



 さらに主イエスは「生きた水」について語られます。生きた水とは流れのある、泉のように湧き出る水のことを意味していました。この女は主イエスが上質な湧水を与えてくれるのだろうと期待しましたが、主イエスの示された生きた水とは、のどの渇きを潤す水ではなく、渇いた人の心を癒す永遠の命に至る水のことでした。この女は人目を避けて生きて行かなければならない状況でありまし。傷つき悩み、自分の人生は失敗だったと後悔する日々だったかもしれません。その心は半ば死んだような状態だったかもしれません。主はそんな女に、「生きた水」がある、あなたを生かす水があると示し、霊と真理をもって礼拝する者になるように、神との豊かな交わりの中に生きる者になるようにと招いてくださいました。



 サマリアの女はその後、町に出て行って人々に主イエスのことを伝えました。生きた水に生かされた恵みは、彼女の周りに溢れだしました。わたしたちも、主イエスを通してこの「生きた水」を与えられています。その水はわたしたち自身を生かすだけではなく、泉となって溢れだし周りをも生かすことのできる命の水です。
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 2015年8月2日 
「ヨハネの喜び」加藤誠牧師
ヨハネによる福音書3章22−30節



 「洗礼」はキリスト教のオリジナルではない。もともとはユダヤ教の入会儀式であった。昔広尾にあるユダヤ教の会堂に研修で行ったことがあるが、そこでも洗礼準備会が結婚式に先立って行われていた。つまりユダヤ教に入会してはれて結婚することができるのだそうであった。バプテスマのヨハネの「洗礼」は入会儀式ではない。罪の悔い改めという意味を洗礼に持たせたのである。「悔い改め」(メタノイア)とは顔を神に向けて生きることを意味する。ユダヤ人に生まれながら、つまり洗礼を入会儀式としては受ける必要のないユダヤ人たちが、神から離れた生活を悔い改めてヨハネのところで「洗礼」を受けたのである。



 ところがヨハネの弟子たちにとって見過ごすことのできない事態が起きた。主イエスのグループに人がたくさん集まってきたのである。しかも主イエスも「洗礼」を授けているらしい。4章に入ると主イエスではなく弟子たちが洗礼を授けていたことが記されているが、ヨハネの弟子にしてみると、自分たちの師匠が主イエスのグループに人数の上で負けているのが一大事であった。



 弟子の報告を聞いたヨハネの反応は弟子たちにしてみると予想外であった。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」とは強烈な言葉である。ヨハネは天から与えられた自分の使命を自覚していた。自分の存在意義を知っていた。光栄ある花婿の介添え人の役を与えられたことを心から喜んでいた。ヨハネの喜びは神の栄光である主イエスを証することであった。



 キリスト者が信仰に生きようとする時、どこかで必ず問われるのは「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」というヨハネの言葉である。私たちは自分の栄光を求める。しかし、どこかで主イエスの栄光を求めねばならない時が弟子ならば必ず来る。その時にヨハネのように喜びをもって主の栄光をたたえるものでありたい。
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