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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2015年9月 6日 13日 20日 27日 目次に戻る
 2015年9月27日 
「賛美するために」加藤誠牧師
ルカによる福音書17章11−19節



 今日の箇所は主イエスがとある村で10人のらい病患者と出会ったことが最初に記されています。出会う、と言いましたが聖書には「遠くの方に立ち止ったまま」彼らは声を張り上げて主イエスに憐れみ、つまりらい病からの解放を求めました。律法で彼らは町中に住むことや人に近づくことが禁じられていたからです。主イエスの指示は「祭司たちのところに行って、体を見せ」ることでした。当時のユダヤではらい病の診断をするのは医者ではなく祭司でした。旧約聖書にそう記されています。祭司たちの所に行く道途中、彼らは全員癒されました。



 祭司に会う前か後かは分かりませんが、主イエスのもとに感謝の報告をしに戻ってきたのは、当時ユダヤ人とは交わりのないサマリア人一人だけでした。どこにいるのか分からない9人のことはさて置いて、主イエスは彼に非常に大切なことを伝えました。「あなたの信仰があなたを救った。」との主の言葉です。



 10人は主イエスに「憐れみ」を求めました。その憐れみは与えられました。しかし憐れみは救いではありません。不治の病がいやされることイコール主イエスが言われた意味で救われることではありません。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と主イエスは言われました。それはこのサマリア人にとって大変な励ましの言葉になったはずです。「大声で神を賛美しながら戻って来た。」このサマリア人は、神を賛美して生きていくことを望んだのではないでしょうか?例によって聖書は彼の個人情報を私たちに与えません。年齢も仕事も家族構成も分かりません。主イエスは彼の過去より彼の未来に関心がおありです。彼は主イエスのもとから「立ち上がる」必要がありました。立ち上がれない自分に希望を与え、立ち上がらせて下さる存在を彼は知ったのです。

 私たちにも賛美する心、主イエスを信じて立ち上がる信仰が与えられることを覚えたいと思います。
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 2015年9月20日 
「命のパン」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書6章22−40節



 五千人の給食、と呼ばれる出来事の後、弟子たちと主イエスはカファルナウムという町に移動されましたが、群衆はまだ主イエスが奇跡を行われた場所に留まっていました。そして弟子たちがそこにいないことがわかると船に乗り、主イエスを捜し求めてカファルナウムにやって来ました。



 何故人々はこんなにも熱心に主イエスを捜したのか。それは、主イエスが、自分たちの願いを叶えてくださるお方だと思ったからではないでしょうか。奇跡を見た群衆の中には、主イエスを王にしようと考えた人々がいました。当時、イスラエルはローマの支配下にあり、重税を課せられ苦しい生活を強いられていました。主イエスなら、この状況から自分たちを解放してくれるのではないか、ローマ帝国と戦う強い王として、自分たちを導き自由を与えてくれるのではないか、とそう期待した人々もいたと思われます。



 「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)と主イエスは言われました。空腹が満たされ欲が満たされたから、さらにもっと自分の願いを叶えてほしくてわたしを捜しているのだと指摘されました。人々がパンを求める姿…それはパンだけではなく、自分の願いを叶えて欲しいと様々な物を欲し、神を忘れて物欲に走る人間の姿を表しているのではないでしょうか。



 「わたしが命のパンである。」(35節)このところで繰り返し語られている言葉です。すべての人の救いのために、十字架の上で裂かれた主イエスの御身体はまさに命のパンであると言えます。あの五千人の給食の出来事は、ただ単に人々の空腹を満たすために行われただけではなく、主イエスご自身が命のパンとして来られたことを指し示すしるしでもありました。わたしたちも命のパンに生かされていることを覚えつつ、新しい週を歩み出して行きましょう。
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 2015年9月13日 
「恐れるな」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書6章16−21節



 主イエスが、5千人もの人々に食べ物を分け与え、空腹を満たしてくださったという出来事の後、その日の夕方に弟子たちはガリラヤ湖の湖畔に下りて行きました。そしてそこから船に乗り、向こう岸にあるカファルナウムの町を目指して出発しました。その船に主イエスは乗り込んでおられません。王にしようと追いかけてくる群衆を避けて、主イエスは一人山に退かれ、弟子たちとは別行動をとられたのです。



 主イエスが共におられませんでしたが、弟子たちの心はとても明るかったのではないでしょうか。尊敬する自分たちの先生が多くの人々の前で素晴らしいしるしを見せてくださり、人気が高まっている。少し誇らしいような、興奮さめやらぬという思いで船に乗り込んだかもしれません。向こう岸まで10キロ程、ベテランの漁師が何人もいますし、何の不安もなく出発したことと思います。

 しかし、中程まで進んできたところで突然の嵐に見舞われたのです。恐怖と混乱の中、近づいて来られた主イエスを見てもそれとわからず、尚一層の恐怖に襲われます。



 主イエスは弟子たちに言われました。「わたしだ。恐れることはない。」(20節)「わたしだ。」という言葉はギリシャ語で「エゴー・エイミー」、英語では「I am」と表される言葉です。ヨハネによる福音書の中に何度か出てくるこの言葉は、旧約の出エジプト記3章にも出てきます。イスラエルの指導者として選ばれたモーセが神にその名前を尋ねたとき、神は「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えられました。



 暗闇の中の突然の嵐、それは人間の力では抗うことのできない状況です。自然災害だけではなく、思いがけないことがわたしたちの身にふりかかって来ることがあります。しかし、「わたしだ。」「わたしはある。」と力強く宣言してくださるお方がおられることを覚えつつ、この週も歩み出したいと願います。
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 2015年9月6日 
「衣食足りても」加藤誠牧師
ヨハネによる福音書6章1−15節



 山に弟子たちと一緒にいた主イエスを追いかけてきた1万人を数えるであろう群衆に、食事を与える義務も責任も当然主イエスと弟子にはない。「この人たちを食べさせるには・・・」と尋ねられたフィリポは当然困惑したであろう。200デナリを単純に200万円と計算しても、通常それだけの現金は携帯していないだろうし、仮にあったとしても山中にパン屋があるとは思えない。アンデレが大麦のパン5つと魚二匹を持つ少年を主イエスに紹介するが、本心は「何の役にも立たない」である。



 6節に「御自分では何をしようとしているか知っておられた」とある。ここに見るのは主イエスの一方的な群衆に対する人の良さと少年と神に対する感謝である。主イエスが恐らく空腹の中、善意でパンと魚をささげた少年にどのような言葉をかけたのか、意地悪にも聖書は伝えない。弟子たちに群衆を座らせ、「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」。(11節)どのような感謝の祈りであったのか、又しても聖書は具体的には記さない。そして、人々が満腹したとき、主イエスは弟子たちに「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を」集めるように命じる。すると、5つの大麦のパンを食べ、残ったパン屑で12の籠がいっぱいになった。少年がささげたものを少しも無駄にしたくなかったのである。



 人々は主イエスを王にしようとした。しかし主イエスは彼らを避けて「ひとりでまた山に退かれた。」(15節)ひとりで山に退かれた、とは「王にしようとした」人々の中に弟子たちも入っていたことを示唆します。少年のささげたパンに感謝し、父なる神に感謝して群衆が満腹するまで食べさせた主イエスの本意を、群衆も弟子たちも理解しませんでした。つまりそこに私がいたら私も理解しなかったのです。いいえ今日も私たちは理解しているかどうか自問する必要があります。 主イエスは私たちにとってどのような「王」なのでしょうか?
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