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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2015年10月25日 
「赦しの言葉」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書8章1−11節



 主イエスが神殿で人々に教えておられる所に、律法学者、ファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕えられた一人の女性を連れてきました。彼らは女性を真ん中に立たせ、主イエスに問いました。

 「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか。」(5節)



 この質問は主イエスを試し、訴える口実を得るためのものでした。この女性は、主イエスを陥れるための材料にされたわけです。

 もし主イエスが「この女を赦すように」と答えたら、それはモーセの律法を軽んじているとしてユダヤの議会に訴えることができます。反対に「この女を律法に従って殺すように」と答えたら、それは勝手に死刑を行ったということでローマに反逆する者として訴えることができます。またそれは、日頃主イエスが人々に語っていた愛の教えと矛盾することでもありました。どちらを答えても訴えることができるという罠です。



 しつこく問われ、主イエスはようやく身を起して言われました。

 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(7節)

 年長者から始まり、一人また一人とその場を立ち去り、主イエスと女性だけがその場に残されました。



 私たちはだれでも法律を破れば罪に定められ、裁かれなくてはなりません。正しい裁きが行われるために裁判制度があり裁判官がたてられています。主イエスは女性に対し「わたしもあなたを罪に定めない。」と言われました。神の子主イエス・キリストこそ、真に人を罪に定め裁く資格のあるお方であると言えます。その主イエスがあなたを罪に定めない、と言ってくださる。それは主イエスが私たちの罪の罰を代わりに受けて十字架に架かってくださったからに他なりません。罪の赦しを願い主イエスを仰ぐすべての者に、主は赦しを与え、これからはもう罪を犯さないようにと語ってくださいます。主の赦しの言葉を聞く者でありたいと願います。
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 2015年10月18日 
「渇いている人は」加藤誠牧師
ヨハネによる福音書7章37−39節



 37節に「祭り」とあるが、これは新共同訳聖書では小見出しに「仮庵祭でのイエス」とあるので、仮庵祭だと分かる。これは出エジプトに起源を持つ祭りで、物の本によると祭りの間、毎朝祭司がシロアムの池に行き、汲んだ水を祭壇に流すのが大切な儀式であるらしい。



 38節では「生きた水が川となって」という表現がある。英語の聖書を見るとほとんどが「rivers of living water」となっている。日本語の聖書だけ見ると「川」が複数か単数かは分からない。どうやら太さ、広さは別として一本の川ではないらしい。四方八方へと流れ出すイメージを英語の聖書は与える。



 私は日本基督教団事務局で世界宣教の幹事を務めているが、教団ニュースレターという英文の広報誌の発行にも携わっている。ときどき厄介な翻訳が持ち込まれてくることがあるが、先週は「生き生きとした言葉」をどう訳すのがベターか?という問い合わせを受けた。翻訳を担当したのは宣教師であるが「The living Word」か「the living words」のどちら?と言うのであるが、前者にすれば勿論イエス・キリストを指してしまう。私は「living words」でどうだろうか、と答えたのだが実を明かせばヨハネの7章を英語で読んだのがヒントになった。



 「その人の内から生きた水が川となって」と主イエスは言われる。物資の水を意味していないことは明白である。では見えないのか?というとそうではない。キリスト者が主イエスの言葉、聖書の言葉で生かされ、生き生きとした言葉をその人の内に蓄えるように、「The Living Water」から飲む者は「rivers of living water」を溢れ出させる者になるのである。



 主イエスはこの約束を「渇いている人はだれでも」と言って制限を設けられなかった。誰でも無条件で主イエスのもとに行き、飲ませてほしいと頼みさえすれば与えられるのである。これがキリストの福音である。そしてこの福音に私たちは今週も生かされてゆくのである。
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