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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2016年6月 5日 12日 19日 26日 目次に戻る
 2016年6月19日 
「恵みと力に満ち」加藤豊子牧師
使徒言行録6章8−15節



 誕生したばかりの教会が成長する中で、また新たトラブルが生じ、そのことに対処するために、7人の人が選ばれました。その中の一人がステファノです。「霊と知恵に満ちた評判の良い人」「信仰と聖霊に満ち」「恵と力に満ち」という言葉が示しているように、彼らは単に人間的に才能豊かで人格的にも素晴らしい人物だったということだけではなく、神の霊に満ちた、神の恵みに満ちた人でありました。神の霊に満ちている、というのは何か特別な、超人的な力が与えられているということではなく、謙虚に聖霊の働きを信じ祈り求めることができる人であるということでしょう。どんなに優秀な人物であっても、神の力を信じ、聖霊の働きを祈り求めることができないならば、教会の働きを妨げる者になってしまうかもしれません。



 ここでは、ステファノが捕らえられ、最高法院に引っ張って行かれ、偽証人まで立てられて神を冒涜する者として訴えられた様子が記されています。その姿は、十字架に架かられる直前の主イエス・キリストの姿を思い起こさせます。

 「最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。」(15節)

 モーセはシナイ山を下ったとき「なんと彼の顔の肌は光を放っていた」とあり、また主イエスも高い山に登られたとき、弟子たちの前で「顔は太陽のように輝き」と表されています。その顔の輝きは、神と共にある者の姿を示し、人の栄光ではなく、神の栄光をあらわしている輝きであることを思わされます。



 美しい、輝いている顔、と思わされたクリスチャンの先輩たちを何人か思い起こします。私たちも、み言葉に生かされ主イエスを仰ぎながら歩む者でありたいと願います。
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 2016年6月12日 
「教会の成長」加藤誠牧師
使徒言行録6章1−7節



 牧師の仕事は外からは分かりづらい。説教の準備にしても、丁寧に原典にあたり、註解書を読み、構想を練るといくら時間があっても足りない。私は大学一年の時に7分の英語のスピーチにチャレンジしたが、2か月前から準備をした。勿論毎週の事であるので手際は良くなるが、とても時給で換算できる職業ではない。それに加えて書類の整理や訪問など、規模の大きな教会では休みを取れない牧師もいる。基本、ワーカホリックである。



 最初の教会のリーダーである使徒たちに休日があったのかどうかは聖書が伝えない。しかし相当忙しかったに違いない。4章の後半には、共同生活のために土地を売ったお金を、使徒たちが分配していたことが記されている。3千とか5千とかという数字を見ると、最初の教会は急激に数を増やしていったことが分かる。



 6章では最初に分配のことで不平等があったことが記されている。恐らくは海外で(つまりギリシャ語で生活)生活してきたユダヤ人未亡人への分配が、同じ未亡人でありながらヘブライ語を話す人たちより少なかった、という事である。教会に差別があったということであるが、使徒たちのオーバーワークが招いたことであった。



 そこで使徒たちに本来の勤めに専心させるために教会は日常的な奉仕のために新たに7人を選ぶ。条件は「”霊”と知恵に満ちた評判の良い人」であった。選ばれた7人がどのような職に就いていたのかは記されていない。年齢も記されていない。どのように選ばれたのかも記されていない。「”霊”と知恵に満ちた評判の良い人」で教会が納得する人が選ばれたのである。7節ではその結果として弟子の数が増え、祭司までもが教会に加わるようになったことが記されている。



 現代では教会の礼拝を守る事すら難しい状況の人たちがいる。信徒と教会との距離は、使徒言行録の時代から考えると遠くなった。しかしそれでも神は教会のために良き働き人を必要としていることも真実である。
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 2016年6月5日 
「神に従う時」加藤誠牧師
使徒言行録5章17−32節



 アナニヤとサフィラの一件は教会全体に知られたばかりか、エルサレムに住む人々にも知られたようである。12節に「ソロモンの回廊」という言葉がある。彼らは神殿の人通りの多い所で伝道をしていたことが分かる。



 「一人残らずいやしてもらった」(16節)出来事を目の当たりにして、大祭司とサドカイ派の人々がねたみに燃えて使徒たちを捕える。(17節)しかし夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出す。それは彼らを外に逃がすためではなかった。「神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい。」それが天使の告げた言葉であった。使徒たちは自分たちの命よりも「命の言葉」を告げることを優先した。



 当然のごとく再び捕えられた使徒たちは、大祭司によって尋問を受ける。ペトロの返答はある意味単純である。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」

 先週、在日大韓基督教会と日本基督教団の委員会が湯河原であった。開会礼拝で石橋議長は、かつて神に従うよりは人間に従った教団の歴史に触れた。それは教団の痛みであり、今日も実は世界の教会が問われていることである。



 法廷に話を戻すと、思いがけない助っ人が登場する。ファリサイ派のガマリエルである。彼の意見を要約すると、キリスト教が人から出たものであれば自滅する。もし神から出たものであれば止められないし、自分たちが神に逆らうものになるかも知れないである。



 このガマリエルの意見に私たちも耳を傾けるべきである。私たちはいとも簡単に同じキリスト者を神を味方に付けたかのごとく批判する。ひどい場合は聖書の言葉を味方に付けて批判する。人の数ほど正義が溢れ、キリストの正義と愛はどこかに行ってしまう。

 それは教会が本気で「命の言葉」に生かされて生きていないからかも知れない。使徒たちが命がけで伝えた「命の言葉」に生かされ伝える存在でありたい。
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