←ホームへ

シロアム教会 礼拝説教要旨集
2016年8月 7日 14日 21日 28日 目次に戻る
 2016年8月21日 
「異邦人の光」加藤誠牧師
使徒言行録13章44−51節



 パウロのこれからは「異邦人の方に行く」という宣言に続いて語られる70人訳のイザヤ書49節の言葉「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために」は異邦人たちに喜びを持って聞かれた。彼らは43節では「神をあがめる改宗者」と紹介されているが、16節では「神を畏れる方々」とも言われている。つまりユダヤ教の洗礼を受けているかは定かではなさそうである。



 しかしユダヤ人にとっても彼らにとっても、パウロが語った信仰によって全てのものが義とされる、という神の恵みの言葉に触れた者はいなかった。律法の遵守に救いを見出そうとしていたユダヤ人、そして「神をあがめる改宗者たち」は、「律法による救い」から「信仰による救い」に関わる主イエス・キリストに心惹かれる人たちが続出したのである。



 次の安息日にも語る機会を得たパウロとバルナバによって多くの異邦人が信仰に入ることによって教会が誕生した。勿論直接教会が誕生した記述はないが、パウロとバルナバがデルベから再び引き返した町の中にアンティオキアが含まれているということは、信者たちの群、すなわち生まれたての教会を励ますために他ならなかった。



 良いことばかりではない。キリスト教の歴史は迫害と縁が切れない。彼らを妬んだユダヤ人は、異邦人をも巻き込んで迫害を始める。具体的な記述はここには記されていないが「その地方から二人を追い出した。それで二人は彼らに対して足の塵を払い落とし」イコニオンに行く。しかしルカは52節を加えるのを忘れない。「他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」ここで言われている弟子たちとは、パウロとバルナバよりはアンティオキアでキリストを信じた人たちであろう。彼らは生まれたてのキリスト者である。しかし彼らはすでに弟子である。そして弟子たちによって教会が建てられてゆくのである。
目次に戻るページトップ
 2016年8月21日 
「派遣」加藤豊子牧師
使徒言行録13章1−12節



 13章から使徒言行録の第2部が始まります。それまでは、エルサレムの教会が中心であり、教会の構成メンバーもほぼすべてがユダヤ人でありました。13章からはアンティオキアの教会が中心になってきます。そしてこの教会からバルナバとサウロが宣教旅行へ派遣され、また「サウロ」という名前もギリシャ的な呼び方「パウロ」に変わります。



 アンティオキア教会の特徴とはどのようなものだったでしょう。1節を見ると5人もの預言者、教師がいたことがわかります。しかも、その顔触れは実に様々です。バルナバ、サウロに加えて「ニゲルと呼ばれるシメオン」とあります。「ニゲル」とは「黒い」という意味ですのでおそらくアフリカ出身の異邦人であり、尚「シメオン」という名が示すように、ユダヤ教への改宗者であったと思われます。その他にも「キレネ」とは北アフリカ地方ですし、更にヘロデ大王の息子と幼少期を共に過ごした人物も加わっています。教師だけではなく、アンティオキア教会には実に様々な背景を持つ多国籍の人々が集まっていたことでしょう。



 またこの教会は「断食して祈り」とあるほどに、集中して祈る教会であったと思われます。断食とは、痩せるために、自己鍛錬のためになされたものではありません。祈りに集中するためのものです。神のみ心を求め、それに従おうと心を一つにして祈ったのだと思います。その結果示されたのは、バルナバとサウロの派遣でした。



 アンティオキア教会の基礎を作り、また5人の教師の中で最も重要な働きを担っていた二人を失うことは、教会にとって大きな痛手であり、経済的な不安も覚えたことと思います。しかし、これは神さまから出たこと、と受け止めて信仰の決断をし、二人を祈って送り出しました。世界に福音が広がる大いなる神の働きの前に、教会の祈りと信仰の決断があったことを覚えたいと思います。
目次に戻るページトップ
 2016年8月14日 
「教会の祈り」加藤豊子牧師
使徒言行録12章1−19節



 12弟子の一人だったヤコブが、ヘロデ王によって殺されたことが記されています。ここに出てくるヘロデ王とは、救い主の誕生を博士たちから聞いて、2歳以下の男の子を皆殺しにするという恐ろしい命令を出したヘロデ大王の孫にあたります。彼は在任中ユダヤ人の人気を獲得し、それを維持することに努めたと言われます。



 ヤコブを殺したことがユダヤ人に喜ばれたことを受けて、ヘロデ王はペトロをも捕らえ、牢獄に入れました。過越し祭の後という、ユダヤ人が多く集まる中で、ペトロを引き出すつもりでした。



 ペトロは牢の中で、二本の鎖につながれ、両側を二人の兵士に挟まれ、また入口には見張りが立っているという状況でした。内からも外からも、どうにも逃げようがない、助けるすべがないという状況です。そのような中で、教会が唯一できたことは祈りでした。大勢の人が集まり、熱心な祈りがささげられていたことが記されています。教会の唯一の武器は一致した祈りであると思わされます。



 天使に導かれ、不思議なようにペトロは牢を脱出します。そして我に返って「主がわたしを救い出してくださったのだ。」と告白します。しかしペトロは自分の身に起こったことを「現実のこことは思われなかった」とも語っています。現実と思えなかったのはペトロだけではありません。熱心に祈っていた人々も、ペトロが来ているとの知らせを信じられず、本人を見て非常に驚いたとあります。心を一つにして、きっと助け出されると信じて祈っていた、しかし、現実のこととは思えなかった。それは、私たちの姿でもあります。信仰の足りない者、主が生きて働いてくださるということを信じきれない者が、神様の出来事に出会い、信じる者へと変えられていくのです。

 主は今も、私たちを信じて祈る者へと招いてくださいます。
目次に戻るページトップ